伊達だより 再会した2人が第二の故郷伊達に移住して 第二の人生を歩む

田舎暮らしの日々とガーデニング 時々ニャンコと

小説を発信中

  
  
  
  

  

終戦記念日とお盆

2023-08-15 12:11:17 | 樺太

今朝が起きるなり

終戦記念日とお盆が重なっていたのだ・・・

日本中が喪に服する日だネ。

そして

ロシアのことをくだくだと話す

今もって強盗の国だ

優れた芸術を生み出した国が一方ではけだもののようなことをしている。

幼いころ家族と旧ソ連から命からがら逃げだしてきた私にとって

もうロシアのことは聴きたくない

今さらだ・・・

聴くたび胸がキリキリ痛む。

ソ連は北海道も乗っ取ろうとしたんだよね・・・

の話はまだまだ続く

その話100回も聴いたもう聴きたくない

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終戦記念日・・・終戦から始まった私たち家族の地獄

2020-08-16 12:51:33 | 樺太

昨日は終戦記念日だった

今年は書くのをよそうかな・・・と思ったが

やっぱり書くことにした。

私は樺太生まれの6人きょうだいの末っ子

終戦までの記憶はない・・・二歳だったから

終戦後

私達は山に逃げた・・・その時の記憶はある

野宿して夜露に濡れた記憶が

そして毎日恐ろしくて毎夜殺される夢を見た。

男はソ連兵に殺され

小さな私も死の恐怖におびえた。

そのうち

祖母を含め8人の大家族は引き上げ船に乗るために真岡の港まで

行ったが満員で乗れず

近所の人と漁船のボートをチャータしたがソ連兵に見つかり

家に帰されたそう・・・

家は荒らされ何も残っていなかった。

その時の記憶は皆無

後年次兄からこのことを聞いた。

でも

急いで船に乗り引き上げた人たちはソ連の潜水艦に襲撃され

尊い命を失った。

私達はその後

家を三つに仕切り

ロシア人の未亡人二家族と23年の引き上げまで三年間

一緒に住むことになった。

その間のことはなんどもブログに書いているので省くが

ある日

ロシアの家族を家に招いたことがある

未亡人二人と子供たち

兄たちはしきりに未亡人を気にして首を下に向けている

私も真似して立膝をしている未亡人のスカートの下をのぞくと

あれまぁー下着をつけていなかった。

すぐに親に怒られた。

 

当時の下層階級の人たちは貧しくて下着を付けていなかったのかなー

と私が言うと

がロシア人の農奴の連中はそういう習慣がなかったのかもしれない・・・

奴隷と同じだったからネ

そういう人たちが戦争にかりだされて・・・云々

話しが長くなるので省略。

 

無事函館に引き上げた私達は仙台出身の祖母の遠縁を頼って

伊達紋別駅に降り立った。

迎えの馬車に乗り

呑気に石蹴りしている子供たちの風景に

足をブラブラさせ

なんてここはのどかな所だろうと

幼心に平和である・・・普通の生活に心躍った。

数か月お世話になった後

私達は今は伊達区になった大滝に引っ越しした。

そこで父は林業を始め

成功して

私だけ大学に入れた。

12歳上の長男は苦学して大学まで出た。

その兄にも学生時代仕送りをしてもらった。

3人の兄たちは皆70代で逝ってしまった。

すぐ上の兄と8歳上の姉だけの3人きょうだいになってしまった。

二度と戻らないだろうと思っていた第二の故郷に帰ってもう

10数年になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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風化・・・・悲しい

2018-06-27 06:57:49 | 樺太
 終戦直後樺太からの引き揚げ船

 三船受難・・・道外はもとより道内でも知らない人が
 
 多いのに驚いた。

 今回吉永小百合の「北の桜守」の映画で少しは知られるように

 なったことは喜ばしい・・・。

 満州からの引き揚げは過酷で人数も多かったので皆の知ることで

 あるが

 樺太からの引揚者のことは中国の引揚者の陰に隠れて

 地味に人々が知ることになったようだ。

 語り部の殆んどは90歳前後


 1人逝き2人逝きして語り部もいなくなり風化しつつある。

 悲しいことです。


 今回私は施設訪問で

 何気に「岸壁の母」を選び唄うようになったが

 驚いたことに

この歌を

 満州からの引き揚げ船と間違っている方がいたのにはびっくりした。

 それも

 とても博学な方だったから・・・。

 岸壁の母は

 第二次大戦後ソ連による抑留から解放され、引き揚げ船で帰ってくる

 息子の帰りを岸壁で待つ、実在した母親をモデルにしている。

 昭和29年に菊池章子が唄いヒットし

 昭和46年に二葉百合子が浪曲調で吹き込み大ヒットとなり

 今なお坂元冬美などに歌い継がれている。

 
 先日ネットで台湾の歌手が杖をつき老婆の姿でよろよろと歩き

 絶叫して唄っている姿を見て

 余りもの過剰表現に

 悲劇が 喜劇化されているようで不愉快だった。

 品が無い・・・・。
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私の北の桜守

2018-03-18 19:54:00 | 樺太
 今朝新聞を読んでいたが、シズ子さんが書いた文章かと思った・・・

 と驚いて見せてくれた。道新の読者の声欄で「「北の桜守に人生重ねる」と

 いうエッセイで、5歳の筆者が樺太の大泊港で迷子になったという内容。

 昭和20年8月22日に大泊で緊急疎開船3隻が留萌沖などで潜水艦の攻撃

 を受け、約1700人が犠牲となり、その直前に別の船で疎開したとのこと。


 


 私たち一家は幸い3隻に乗れなかったが、3年後の昭和23年の夏に引き

 揚げてきた。当時の筆者と同年齢で末っ子の私だけは大泊に出るのに知人の

 馬車に乗せてもらった。

 私は大泊の港でここで待っていなさい・・・と言われるまま母たちの来るのを

 何時間も泣きながら待っていた。もう自分の人生はこれで終わりか・・・と思

 うほど悲しくて辛い長い時間だった。

 綿糸で編んだリュックの中に自分の小さな人生をぎっしり積み込み、胸には布

 で住所・本籍・親の名前・生年月日と自分の名前を大きく書かれた名札がしっ

 かり縫いつけられていた。が誰も私のことなど気にもとめていなかった。

 大泊はすごい混雑で、主のいない馬が沢山走っていたらしいが、小さな私には

 そんなことは目に入らなかった。ただひたすら身も世もなく泣き続けていた記憶

 だけが鮮明に残っている。父の遠縁を頼って伊達の地に降りた時は、ここは別世界

 天国か・・・と嬉しかった。

 亡き母にも当時のことは辛くて聴けなかったが、あの時のことは、自分の心の

 中に葬っていたように思う。8歳上の姉に聴いても、みんな忘れていたと言っ

 て多くを語らない、彼女もまた自分の中に封印しているのかも知れない。

 私も「北の桜守」を観たいと思っているが大泊港の映像では号泣してしまうか

 も・・・。


  この文章を縮小して道新の「いずみ」に応募したが多分

  載らないでしょう・・・ふっふ


  でもここからコピーする方法を知ったので一つ利口になった。
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母と子の物語・・・北の桜守

2018-03-07 14:46:27 | 樺太
 道新の記事より

 北海道を舞台にした吉永小百合主演の映画、北の三部作の最終章

 「北の桜守」が10日、道内各地で公開される。


 本作は、太平洋戦争終戦目前の旧ソ連軍侵攻で樺太から網走へ

 逃れて必死に生きた母と子の絆を描いている。


 私は、ちなみにもサュリストではないが

 是非この映画は観たいと思っていた。

 札幌に行った時に観ましょう・・・。


 私達家族も

 三船遭難事件・・・に巻き込まれていたなら

 海の藻屑となっていたかもしれない・・・。


 

 
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