かふぇ めらんじぇ

und SchwarzwaelderKirschtorte mit Sahne

歴史

2017-02-23 16:40:46 | 日記

欧州を歩くと100年200年以上建った住居は軒並みで町並みもモニュメントもそう変化無く、変わっているのは歩く人のファッションと、乗り物くらいで目をこらすと、店も通りもしっかりと残っている。もっといえば悲しい歴史をくぐり抜けてきた事物もだ。それは手すりであったり道路のマンホールなど多様だが、あるとき何かの拍子で詳細がわかったときに大変なショックを受けることがある。わざわざ博物館を作り列挙する必要も無い。みなそれを自覚しているし、逃れようとも思わない。歴史が終わっているわけでは無い。受け入れているわけでも無い。故意に忘れるとか考えないのともちがう。事実を知り善悪を考え過去をくり返さない。そこには押しつけもなく導きも無い。自分で考えて行動し、自分なりの答えを出すのだ。像を設置するとか非難する博物館を建てるとかアジアはもめるが、アウシュビッツに行っても展示はあるが当事国に対する非難の記載は無い。見て判断する。そこで言葉を失い立ち止まる。それは押しつけられた言葉や教育を遙かに超え別な見解へと導かれる。これが本当の進歩では無いのか、と思う。ある記事でベルリンに何十年いてもその都度細々と思いがけない物をいくつも発見するという記事を読んだ。ドイツは国が爆撃され破壊し、あの未曾有のホロコーストの歴史を持つ国だ。周辺諸国でもいまだどこかで憎しみを買っている。その意味では一緒の日本だが、どこか決定的に違う。それをベルリンにいけば、きっと感じると思う。物見遊山な度であって欲しくないとつとに思う。

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