ドイツと日本を行ったり来たりしているが、難民やテロ問題が深刻化してからは、自身の病状の悪化もあって幸か不幸か行く機会に恵まれない。病院生活の方が長いのだから無理も無いのだが。鑑みると、どう考えてもドイツ生活の方が暮らしやすい。物価も食べ物も生活に則しているし、気候は涼しく雨も少ないし、人間も少なくゆったりと時間が流れる。困ることは医療と言葉でこれだけはドイツに生まれない限りどうしようも無い。むろん金銭である程度は何とかはなるが、それは相手の心証も有り、自然な関係とは言いがたい。日本の生活は便利さが最優先され、常に時間と金銭が最優先される。そうなると逆に労働力不足と事故と不正が蔓延化し、常に追われる競争の犠牲となり、ついていけない者は社会から淘汰され、生活する術を失う。それを支えんが為にまじめに働く者は搾取され、見放された者は働きより如何にして楽に暮らせるかと考え、くだらないテレビや芸能情報やゲームに夢中、社会も労働も悪いのは政治や親のせいにしている。ドイツはパチンコなどの遊興施設はないし、路上でゲームに興じる人もいない。日が落ちると繁華街に危険分子は出没するが、市民はその対処として、夜は出歩かないとか、車を使うとか最大限に気を遣う。政治家も、くだらないタレントや頭の悪い何世かの議員など存在できうるはずも無い。今日は都知事選、実態が変化していることを願っているが、どうだか。
半端でない暑さでもともと夏に弱い私には堪える季節だ。しかしもし予定通りにリハビリ病院にいたらどうなっていただろうと恐ろしくなる。エアコンを切られこの熱波をどう乗り切れば良いのか。障害者施設での殺害事件が取りざたされるが、入院していた病院を考えると、逃げ場も無く、体も動けないとなれば、犯人のなすがままになるより他道は無い。歩きスマホも絶対に止めて欲しい。そうでなくても日本人は距離を取らないし、いきなり横切ったり後ろにさがったり立ち止まったりと行動の配慮が希薄で、子供も親を見るので同様だ。先日の病院への外出の際も何度も追突されかけた。気を配る気配も無いが、これは犯罪にも同様で、周りにどんな人間がいてどんな行動を取るかわからない外国では、たとえば正体不明に酔う、電車の中で寝る、荷物を横に置き、パソコンに夢中になるなど考えられない。自転車も同様専用道路や車道以外を走ることは、危険きわまりなくルール違反はたちまち事故が起こるし、警察も周辺の人間も決して放っておいてはくれない。苦情もトラブルも皆小さなそして断固としたルールを遵守できないことから起こる。日本における中国人観光客やドイツでの難民、根底は様々でもこのような問題は重大な影を落とす。そんな物だ。
今までの歩行器をいったん返却し、新たに借りた歩行器は重量があって、自分一人で操れないので、ヘルパーを頼むことにしたが、病院内で歩行器を預かってくれないし、介助者がいるなら車椅子の方が、とケアマネが言うので、昨日お願いしてみた。車椅子の場合は、周りの対応が違ってきて、対応できる座席をまず空けて譲ってくれるが、日本のバスは道路から距離を空けてしか駐車せず、車体を下ろしても段差が有りまず、介助者がいて運搬や歩行を手伝わないと無理である。昨日は検査の予約が転院後初めてで取れなかったために、時間がかかり、介護者の往復の交通費の負担は無いが、待ち時間の負担が有り、三時間を超えるとそれも無くなるので、料金がタクシーを使うのと変わらなくなる可能性もあるのが難点で、病院は時間の予測が正確に出来ない事と、どれだけ慣れている介護者が来るかでも違う。リハビリ病院での多大なストレスの成果とも思うのだが、血圧、血糖、コレステロール、全てが信じられないほど値が悪く、早速一月中に3件の検査と診療の予約が入り、他の診察と合わせて5回は八月中に行かなくてはならなくなり、ヘルパーも出来る人がいない可能性もあるので、早速予約を取り付けた。家の改装工事の予定や、保険認定の再手続、書類の申請や、新たな介護サービスの契約など、この暑さの中と体調の不良で苦しんでいるのだが、逃げようも無い。何をしていてもどこにいても、辛いものだがどうしようも無い。
老人との共同生活は苦痛の連続でたとえ人格に問題なく、認知が無かったとしても至る所に不都合が生じる。まず認知の入っている人間は、夜に大ハッスルをして騒いだり声をあげたり歩き回ったりする。入っていない老人は20時間ぐらい大鼾で寝る。お手洗いが異常に近い人は5分から15分おきに起きる。耳が遠い人は声が大きく、見舞客も必然的に大きくなり、談話室も無く歩けない患者が多いので、同室の者がうろうろ居場所を探すのだが、エレベーターもブロックされていて、勝手に場所を離れられず、店舗も自販も無いのでどこにも行けない。携帯電話もネットも使用を制限されていて、殆ど役に立たない。物を持ち込むことに制約と申告が必要で、記憶の障害のある患者や高齢者は紛失で騒ぐことが日常茶飯事に起き、冷蔵庫も共有で制限ある患者が勝手に食べたり、他人の食料を取らないように監視されている。テレビに関する執着の深さは異常で、好きな番組はワイドショーに演歌に落語。勘弁して欲しい物ばかりだ。食事は煮厚揚げやはんぺんと野菜を和えた物、あるいは味の無いゆで野菜にレンジで煮た白身魚、豆や薩摩芋などふかした物など。味付けも口に合わない。お手洗いが極度に不足し、常に待っている状態で、落ち着いて使えず、衛生もアルコール消毒や手洗いが徹底していない。風呂は週二回で年よりは問題なかろうが私は、髪はべとべと、トイレも風呂場も男性介護士が同じように介助する。食事は席が固定されていて、会話にならない人と味噌汁も納豆もごちゃ混ぜにおかゆに入れて食べる人間と食べる。とにかく全てが苦痛で生活形態に合わないのだが、たとえば、携帯をいじっていても、読書していても、パズルや塗り絵していても、相手方はほおっておいてくれるどころか、興味を示し話しかけるか嫌みな行動に出るかどちらかで、どちらもして欲しくないのだが、それが通じない。真夏に長袖のシャツを何枚も着込み、カーディガンに膝掛けで靴下を二枚履き、電気毛布や行火、ストーブを要求し、勝手に部屋のエアコンを切る。家に帰り、なにに一番ほっとしたかというと、生野菜とフルーツ、チーズに肉、美味しい洋食が食べられることだ。老人と生活することはちょっと書くだけでもこれだけ多いのだが、これは問題が起こらない最低ラインで、実際はこの数十倍になる。加えてこれらの老人は決して言うことを聞かずに暴れて自我を通そうとするので、健全な者が我慢を強いられる事態となる。こんな事の連続がリハビリ病院の実態だ。
今まで相当の回数と日数を入院には費やし、大抵かなりの疲弊を持って家に帰るのだが、今回のように予定された期限内を待たずに、家に帰ったのは初めてで、これは私にとってはどれほどの苦痛であったかを物語るに他ならない。この世の中に様々な年代、性格をもった複数の人間がいることは認めるが、限られた時間を限られた空間で過ごす確率の中ではあるが、普通にまともに話が出来て、あまり意識すること無く共有できる人たちは極めて極めて少ない。それが年代をかなり離れたり、これまでの環境があまりかけ離れたところにいる人となると確率はほぼ100パーセントになることに過言は無い。今までも働いていて良く感じたことなのだが、これらの人の特徴は他人と皆同等であるという間違った意識が常にあるということだ。たとえば二十代の女性と感覚や生き方が同等か、働いたことも勉強したこともそう無かった人間が、努力し苦労してきた人間と同じ意識か、まだまだあるのだが、それは私からすると全てノーで、片腹痛いとしか考えられない。格差を問題視する声は多い。しかしその前提として個人の資質と努力と能力は不可欠、劣ればそれは他人に対してでなく、本人に向くべきで、それを自覚しそれに応じて生きることはそれだけで分をわきまえる能力があるというもの、ましてや夫や子の存在問題如何では無く、あくまでも自分自身の事である。それが備わらない人間と常時つきあう苦痛さと、考え違いの意地悪や行動によって、ひどい環境の中でも自分を確立すべく所々の行動を行ってきたこちらの意識が耐えきれなくなって壊れた。これは私にとってみれば本当に希なことなのだが、それを理解できない人が本当に多くて語るのも嫌になってきてしまった。全てが嫌になる経験はこれまでも何度かあるが今回もそのひとつとなった。私は性格的にこんな経験の後は、全てリセットしないと次のステップを踏めない。この入院が果たしてどれほどの利点をもたらしたか、考えては見るが、苦痛が多すぎて思い当たらない。