子供手当が加算され、配偶者控除が無くなる方向にいくらしい。還付があっても結局追徴される我が家のような場合、非常に痛い話である。それでも役に立っているなら仕方がないが、先日子供に「自分に出た手当なのだから、自分の好きな物を買ってほしい」と言われ、血統書つきの猫をペットショップで購入したと自慢げに話す知人がいて、とても腹が立った。私には子供がいない。年齢的な問題もあるが、服用する薬剤の関係で持つ事は叶わない。周りの研究者も子供を持っている人は少ない。自立できる年齢がどんなに早くても30代後半、その後も週半分は家で研究するので、周りで騒がれては仕事にならない。両極端で子供を持つ人は学生結婚が多い。配偶者が働き手となり生活を支えていき、早い年齢で子育てを終えれば問題は少ない。いずれにしても、みな計画充分にたて「成り行き」などとても許されない。それほど子供という存在は大きく、また責任があるのだ。卵子は優良な物から排出されるので、子供を持ちたいが具体的な相手がいない為、日本では認められていないが、自分の卵子を保存しておく女性が増えていると言う。高齢期出産は身体的なリスクと、子供の身体的な問題のパーセンテージが高くなり、余程の覚悟がないと望めない。その為倫理的な問題はあるのだが、私自身はあまり反対できない。養子も大変立派と思うが、私にはとても自信がない。wienermimoseにも子供はないので、私達の代でたぶん絶縁となるが、それもまた仕方のない事と、御先祖様に許しを乞うほかない。
昨今乳幼児を連れての海外旅行客が増え、機内で泣き叫んだり走り回ったりする子供の苦情が多く、航空会社も対策に苦慮している。ファーストクラスに入れる事も出来ないので、金銭による上乗せでも解決もできず、エコノミーの決まった席に集中して押しこんでも声は響くし、じっとしていられるような子供はよいが、そうでない場合は、他客に多大なストレスを与え、損害賠償の請求にまで至るようだ。赴任に伴う同伴など、止むを得ない場合はどうしようもないのだが、乳児は長い航空機の利用は無理である。幼児は性格と教育で大丈夫な場合は問題は少ないが、それでもヨーロッパ線のような長い利用はなかなか難しい。やはりある程度の年齢に至るまでは我慢せざるを得ないようだ。他客から見れば、休暇で運賃を支払い乗機している以上、不愉快な思いは一切したくないのは当然である。航空機に限らず、レストランも同様である。大人同様きちんとテーブルに着き、コースを食べられるなら良いが、そうでない場合は個室でもない限り、店側も断るべきである。料理も酒も美味しい事はもちろんだが、場所や雰囲気の代金でもあるわけで、それが確保できないなら、私は断りたい。新聞でも靴を脱がせない、ベビーカーを畳まない客への苦情と反論が行き交っているが、どう考えても靴に対しては親の気遣いの無さ、ベビーカーは勝手な言い分に思われてならない。
買い物難民が増加している報道があった。ネットの普及か、不況のあおりかスーパーが次々に閉店し、車が運転できたり、手助けする親族がある人は良いが、そうでない高齢者はおぼつかない足で、カートを引きながら片道30分もかけて買い物に行くよりほかない。電話注文で配達してくれたりすれば良いが、それも無くもしくはあっても購入金額が決まっていたりした場合、年寄りが食べる量などたかが知れているので、とても及ばないだろう。私も高齢者ではないが、身体上買い物には行けない。しかし幸いな事に生協を始め、複数の業者が無料か、安価な値段で配達してくれる。ネットでの購入も容易くて、頼んだ数日後には宅配で届く。それ以外に行商もくるし、種類は望めないがコンビニでも入手できる。それもこれも東京であれば需要があり、流通が成り立つからで、地方にいたらそんなことは望めない。実家の事を考えても電車は2時間に一本、路線バスは来年から廃止、自給自足で閉じ籠って暮らす他ない。東京から程近い所でもそう程度は変わらず、車がない限りは時間と労力が多大にかかる。そこで生まれ育ち外に出なければ、当たり前の事で不思議でもないだろうし、情報量やニーズがそう必要のない人なら、不自由も無かろうが、私にとっては、ただただストレス以外の何物でもなかった。買い物難民を助けるべく行政を対策を促す方向へいかねばならない、と締めくくられてはいたが、簡単には解決すまい。元気の有り余っているリタイヤ族か、青白い顔で自室にこもる若者がボランティアで暫く助けるような事がせいぜい、それでも高齢者には本当に有難いはずである。
人生において、決断しなくてはならない時がある。こればかりは自らの意志で選ばなくてはならず、選んだからには結果がどうであれ、他人や事物を恨んではいけない。結果の良し悪しは、人生が終わる瞬間まで解らないし、選んだが為努力するので、後悔は無いのだが例外がある。相手があり、生命という絶対的な限りが存在する事、もうひとつは成長の時期に関与した事である。どちらも判断を誤ったり、時期を逃すと取り返しがつかず、後悔が残る。年末が近づき訃報が相次いでいる。入院時励ましていただいた方々に、今度は会おう、話そうと思うが、病弱で毎日朝起きてみないと状態が解らない為、約束する事がなかなかできず、そうこうしている間に老齢である方は、いきなり他界されてしまう時がある。大変に辛くて、何故無理を押してでも会いに行かなかったのかと後悔する。仕方がない事なのだが、やはり多くない方が良い。つい先日亡くなった方が、私に贈ってくれた手紙の流麗達筆な文字、記されたゲーテの言葉を改めて何度も読み返し、故人を偲ぶ。しかし、もう会う事も話す術も二度とない。朝日のコラムにまだ東北新幹線が無く、長い時間を費やして帰らなくてはならなかった時、若い母親が、実父の危篤に際乳児を連れ席も無い電車に乗車した。あるきっかけで周りの出稼ぎ労働者が事実を知り、席を次々と譲ってくれたり、差し入れを貰ったりと、その情に助けられ帰郷した数ヵ月後、父が他界した話が掲載されていた。嫌な事件が多い紙面の中、久しぶりに目と胸が熱くなった。
オークションのコーナーを見ていると、不思議に思う事がある。電化製品などで、ジャンク品で作動しないのを前提に商品を出品している事がある。もちろん、ノークレーム、ノーリターンで、価格も設定されている。レア物で飾っておくだけに価値があるようなものでもない。これを落札する人がいるのだろうか?洋服や本なら多少シミがあろうが解れていようが使えるが、ステレオやテレビは、使いようがない。廃品回収業者が、分解して使うのだろうか?また、先日高齢者を騙した女性詐欺師の現場映像がTVで放映されていて、夫は○○庁だ、父親は○○省だ、母親は○○委員会だとありとあらゆる官庁を親族の勤務先にしていて、それが信用に結びつき数百万出してしまったのだそうだ。これもよくわからない。勤務が本当だったとしても、それが何なのだろう?騙した当人の人格や存在とは何の関係も無い。親族がいわゆる「先生」と呼ばれるような職業だと、あたかも自分も偉いようにふるまう人がいるが、とんでもない話である。個人は個人、人の価値はそのような所で決まる物でない。それを知る機会に出会えば出会うほど、自ずと頭は低くなる。知識もひけらかす物でなくにじみ出てくる物、それが教養であり品格ではないかと私は考えるのだが。
フリーペーパーのコラムに、谷亮子が柔道家と政治家の二足のわらじが履き切れず、柔道を諦めた事、また、ハープ奏者の竹松舞が医師の二足のわらじを履き続け、その上容姿にも恵まれている事を挙げ、両者の見解や生き方の違いなどが述べられていた。谷については、なぜ政治家になったのか、またなぜ柔道でなく政治の方を選んだのか、よく理解できなかったが、BUHENMEISTERによると権力の力というのは、何にも替え難いのだそうだ。竹松の方は、容姿は単に恵まれただけだが、音楽と医学については、どちらにもぬきんでた才能があり片方を選ぶことができず、また両立するに足る条件の歯車が幸福にも廻ったのだろう。手に入れられるものは全て欲しくて、運もあり次々と入手していくため、ずるいとか欲張りとかいわれ、それもまた否めないが、傍から幸福に見えても別な悩みは多大に抱えているはずだ。才能を持つ人は出来すぎるがための悩みも大きい。限界も見えるし判断も冷静につく。自らの事もそうだが、他人に対してもそうで、それがために自己嫌悪に陥ったり、非情に思われたりもする。これは本人の責任ではなくどうしようもない事なのだ。二足のわらじを履き続ける人も履き切れなかった人も、どちらも責めるべきではない。個人の限界がそこにあり、両者ともにぎりぎりの状態で選んだ苦渋の選択なのだと、私は思っている。中途半端な才能しかない私のような者でも、その範囲内で最大限に努力しなくてはならない。究極生きていくという事はそういう事なのだろうと思うのだ。
今年は少し値の張る物を数本用意したが、BUHENMEISTERが出張中なので、まだ飲んでいない。フルボディが好きなので、ライトはヌーボーの時くらいだが、お祭りのようなものなので、解禁日はチーズとオリーブの実、トマトと共にその年の出来を堪能する。産地直送野菜の行商が廻る日で、無農薬の筍白菜という物を買った。料理しても、水っぽくならないそうだが、巨大なため冷蔵庫に入らず、階段に立てかけてある。納屋もなく、床下収納も床暖房を入れる時につぶしてしまい、さりとてベランダに置く事も出来ない。白菜や泥ねぎの出るこの時期は本当に困る。行商は、リヤカーに野菜や果物を積んでくるが、最近は若い女性というより女の子が一人で廻ってくる。男性よりずっと精力的で逞しく、気が効き、真面目で好感が持てるが、先日の凍るような雨の日に体が冷えて、足がつり調子が悪いそうで、今日は一回り小さなリヤカーで現れた。かつては男性の独断場だったような職種にも女性が進出しているが、体力も違い、気を使う時期もある女性には、とても厳しいものだろうに、彼女もまたその中で、健気に頑張っている。農業高校の園芸科を出た後、牧場で働き、現在の職場で試用期間中なのだという。今時の若い女性のように睫毛や爪を細工する事もなく、彼女曰く羨ましくも、したくもないのだそうだ。彼女を応援する手立ては他にないので、少量だが購入して立ち話をし、励ましの言葉をかけると、笑顔を見せ頭を下げて、元気に帰っていった。ヌーボーと共に彼女の持ってきた泥や虫のついた味の濃い果物と野菜を、BUHENMEISTERが帰ったら、共に味わおうと思う。いつもの年より楽しみが2倍に増えた。
身不知柿は市場には殆ど出ない地方特産品である。収穫の時期が遅く、11月下旬が最盛期で姿形は富有柿に似ており、知らない人にあげるとあら富有柿ね、と言われてがっかりする事がある。全く異なった品種で、価格も味もまるで違う。渋柿なので焼酎にさわし(へたの周りにつけて、表面にも霧状に吹きかける)ビニールにくるみ開封日まで密閉する。個人宅でもこの柿の木はあるが、小さいし形も悪い。料亭や市場に出るのは、専門に作る農家の物である。種がなくて柔らかく、果物というより菓子、独特の食感である。開封後、渋がまだ残るようなら出して天日に当て数日待つ。日持ちがしないので、一気に食する必要がある。柿は私はそうでもないが、好む人がとても多い。体にもよく栄養もあるり、病人にはうってつけの果物である。今年もはやそれが出回る時期となった。この時期コシヒカリの新米と共に、都会に住む親族や友人たちに自慢できる名産品なので、喜んでいただける人に送ることを両親も楽しみにしている。何とか熊の被害も免れたようだ。身不知柿で作る干柿もまた絶品である。
今日は少し調子が良かったので、買い物に仙川まで出かけた。CDラジカセにはずれが多く、何度買ってもすぐ故障してしまう。電化製品は精密にできており、修理してもまた壊れる。結局音は諦め、入院中に使用するので小型の使い勝手の良い物を、使い捨て感覚で選んでいる。殆ど趣味で商売をしている老舗の古物商があり、覗いたらメーカー品ではないが、新品で程良い大きさの安価なものがあったので購入した。この店の主人と、皇室の献上菓子を作った和菓子屋の女主人が無駄話仲間で、仙川に出かけると素通りもできず寄っては話の花を咲かせてくる。ここの和菓子は大変に美味しいが、店を大きくするわけでもなく、家族経営で気さくに営業している。商店街に入るとやはり老舗の文房具店が2軒あって、品ぞろえが良く大抵の物は手に入る。クリスマスカードと、修正液のように白で書けるボールペンを購入、最後にカルディで自分と友人用に恒例のシュトレンとアドベントカレンダー、クッキーやチョコを購入した。シュトレンはこのシーズンになると、いろいろな所で買ってみる。ものすごいはずれもないが、当たりも少ない。ドイツでは厳格に成分量が決まっていて、(マジパンシュトレンなら小麦粉に対し、マジパンが何パーセントで、バターは何パーセントとか)それ以外はその名称で商品を出すことはできない。パンもそうだが、日本の物は生地が柔らかく、フルーツがかなり多い。味も外の砂糖は少ないがパン自体は甘く、サイズも小さい。今年狙っている店が最低二軒あり、今朝早速購入打診の電話を入れた。奇しくも一軒は今日から販売開始、なんとなく嬉しくなった。ところでラジカセは家に帰り、CDをかけたら音飛びがする。がっかりして店に電話したら、明日同型の物が入るので交換してくれるとの事、良かったのだがあまり期待も出来ない。明日、明後日とまた病院、検査がある。こちらだけは期待したいのだが。
諸検査で不具合がまた見つかり、本郷詣でが続いていた。先週は予約時間が早く、また小田急ラッシュで怪我をするのも嫌なので、御茶ノ水に宿泊した。駅から少し離れ、古いホテルではあるが部屋が広く、規模が大きくないので混雑もなく、余計なものはないがアメニティも充実していて、ゆったりと過ごすことができる。朝食は問題があるが、耐えられないほどではない。状態が思わしくなく、帰宅後もずっと横になっていた所に、義母からラ・フランスが届いた。好物の一つで、食欲なく熱のある体には大変に有難く、熟れた物から頂いている。食べごろ判定が結構難しくて上部を押してみて、少し柔らかくなった頃が食べごろ。硬くても柔らかすぎても美味しくないデリケートな食物である。芳醇な香りと充分な甘さはとても優雅で優しい気持ちにさせてくれる。レカンの洋梨パイも好きで、今もやっているかどうかわからないが、500円で並んでホールを買う事が出来た。一緒に葵の蔵のサラダせんべい、六果亭のレーズンバターサンド、メリーのチョコ、霧笛楼の横浜煉瓦など大好物が入っていて、沢山は食べられないが少しづつ気持ちをかみしめながら頂いた。他にもブログをアップしないので、心配した友人が何人か連絡をくれた。本当に有難く思う。私はただ感謝するだけ、他には何もできないのだが、許してもらうしかない。カレンダーや年賀状の時期となり、今年はどこのクリスマスケーキしようか、とうなされながら考えている。週末にイブが来て大変都合のよい年なのだが、私にとっては最悪の投薬の日。別治療の状態の影響も未知で12月がどうなるか不安だが、事実が決定してからまた考えようと思う。そうでなければ、とてもやっていけない。
成城にはパチンコ店が一軒もなかったが、一年ほど前に駅から5分ほどの所に出来た。しかし賑やかな音もなく、並ぶ人もややバツが悪そうにしていて、地べたに座って飲食する人もない。新聞に掲載されていたが、年金受給者でパチンコにはまり、多額なお金を費やす人が増えており、年金振り込みのある日には、軒並み混雑するそうだ。月11万円の支給しかないのに1日で2万円使う女性に事情を聞いたところ、やる事がないからだそうである。親族の中に賭け事をする人がなく、ただの悪感情しかない私には、全く理解できない事なのだが、行なう人間には、そんなものではないらしい。私も体がいう事をなかなかきかず、外出もままならないが、BUCHENMEISTERの給料を、そんなことにはとても使えない。せいぜい少し高いアイスクリームをたまにこっそり食べるくらい、かわいい物である。しかしそれでもなんとなく悪い気持ちになって、お土産に菓子や高級パンをを買って帰る。この女性のように所得の2割も費やすなど論外である。理由も同情には値しない。勝手だろう、と言われそうだが、他に何か必ずあるはずである。散歩、図書館通い、街歩き、パズル、折り紙etc。搾取するために故意に設定された罠に、みすみす嵌る事はない。
カレーライスというのは不思議な食物である。レストランで食べるのも良いが、自宅でのお手製カレーは、同じ食材やルーを使用しても各家々で全く味が異なり、オリジナリティに富んでいる。そしてまた自分の味付けが一番気に入っているものだ。残り野菜を効率よく処理できるし、自分が出かける予定があっても作り置きしておけば数日は持つので、夫の食事の心配はないし、飽きる事なく食べられる。その上、一品だけで豪華で栄養満点、食欲ない時にも不思議とお腹に収まる。これほどエコな食べ物も少ないだろう。向田邦子が翌日の残りのカレーが煮込まれていて美味しい、と言っているがその通りで、玉葱やニンジンがルーにしっとりと染み込み、牛肉が柔らかくほぐれる。肉によって味も変わり、家庭ではマトンを使う人は少ないだろうが、チキン、ポーク、ビーフ、部位や切り方によってもまた違う。シーフードや、野菜のみも良いし、スープ状にしても、硬めでもその時の主食の状態や、気持ちで変えられる。鍋を分けルーを変えれば子供や老人にも食べさせられる。ご馳走になったカレーは皆美味しかったが、頂けなかったのが一つだけある。料理の不得意な大叔母のもので、さいの目切りの野菜に豚ひき肉、大根になぜか煮干し、ルーはバーモントの甘口で、色がないほど少量、凄い味であったが、残すわけにもいかず必死で食べた。気持ちだけは大切にしたかったので。
チーズに玉ねぎを練り込みペースト状にして、ライ麦パンに塗って食べる南ドイツの料理である。昨日行った赤坂のドイツ料理店のメニューで見つけ、珍しいので食べてみた。玉葱の風味が良い加減で、とても美味しかった。食材の違いや日本人の味覚の好みと一致せず、ドイツ人のこだわりシェフがいる所でもなければ、本場と同じ味に出会うのは至難なので、その意味では多少残念ではあるが、なにも本場の物が全て美味しいわけでないので、日本で食べる場合は、料理として納得できればよいのでは、と個人的には考えている。もうひとつ、ラクレットというチーズを溶かしながら食べる料理に興味があるが、これはドイツでも日本でもまだ食べた事がない。特別な鍋が必要で、ネットで調べた所大変高価な上、使用するチーズも入手困難なものらしく、フォンデュのようにはいかないらしい。ドイツは玉葱料理の料理も多く、グールケンというスパイスは欠かせない物である。渡独の度にこれとパプリカパウダーは買い込んでくるが、焼いたものにも煮たものにもこれを加えるだけでドイツ風になる。もう一つ大切なのはミネラル塩。後は食材の問題であるが、同じ玉葱や馬鈴薯でも、日本料理には日本の物が美味しいように、ドイツ料理にはドイツの物がやはり美味しい。
乳癌で死亡した女性のドラマを見た。夫にだけ投げる彼女の言葉は、私が言っている事と一分とて違わない事に驚いた。また別の検査の必要が出来、心配して夫はいろいろ言うのだが、何度も何度も次から次へといろいろな症状が出る私は、肉体的にも精神的にも疲弊して、投げやりな気持ちになってしまう。夫に限らず、以前も言ったのに病状を初めて聞いたと言われたりすると、ろくろく思ってくれていないのではないか、と思ったりもする。親でもなければ、自分の事で大変なのだから、人の病状の事など聞いても記憶にも残らないだろうし、そこまで要求するのは無理と通常は考えるが、病気になると気持ちに余裕がなくて、それができなくなるのだ。他人であればまだ我慢もするが、悪いとは思っていても夫に言葉でぶつけてしまう事がある。「私にもうこれ以上どうしろと言うのだ」「どうせもうどこにも行けないのだ。あなただけが勝手に行けば良いじゃないか」「あなたが辛いわけじゃない、痛い思いをするのも苦しい思いをするのも私だ」「私がこんなに辛いのにどうしてもっと思いやってくれないんだ」「お金だけ使う疫病神だから離婚してくれて結構だ」本意の言葉でなく、気持ちでは感謝しているのだ。それでも口から出てしまう。言う方も辛いが聞く方も辛い。何もしてあげられない事は事実でどうしようもないからだ。この言葉、TVで聞いた時も今パソコンで入力していても、耐えられないほどに私には切ない。
NHKの連続ドラマにはまっている。富司純子はさほど好きな女優でなかったが、往年の美は未だ衰えず、なかなかの好演である。安田成美も美人女優で、感じも雰囲気もよく、母親役をする年齢なのかと驚いてはいるが、しっかりと新人をサポートしている。ヒロイン役も脇役も毒のない俳優を揃え、現場も、和やかにうまくいっているのだろうな、という感じが自ずと伝わってくる。久々のヒットである。ただドラマの性格上仕方ないことだが、主題曲の演奏に合わせた地元民の踊りは何とも受け入れがたい。残念な事に私は尾道にも行ったことがないし、大阪や広島のお好み焼きもほとんど食べた事がない。一度神戸出身の後輩が自宅で焼いてくれたことがあるが、具材や調味料にこだわっていて、長芋を入れたりかなり手間がかかったものだった。普通の食事として日常的に食べられているようだ。関西だけかと思えば、東京の下町出身者に言わせると、日曜の昼食の定番でもあるらしい。仙川にも広島焼きの店があるが、いつも常連で満杯である。お笑いのSの経営店に行ったことがあり、本人にもお目にかかった。しかし悲しい事に私には、広島と大阪の違いはわかるが、どちらもリピートし続けるまでの美味しさが良くわからない。もっと言えば、たこ焼きとの違いも、形と具では理解できるが、そう変わらなく思えてしまう。しかしもんじゃ焼きとは、全然違うのはよくわかり、比べれば明らかに私はお好み焼き党のようだ。焼いてもらうのが専門であるが。