たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

熊本県山鹿市、2009年12月20日

2009年12月26日 21時21分40秒 | フィールドワーク

日曜日の午後、熊大のセミナー後の打ち合わせを終えて、研究仲間の有志4名でレンタカーを借りて、山鹿方面へと出かけた。個人的には、南九州を訪ねるのは今回で5回目であるが、それは、インスピレーションに基づく、もう一つの人類学的な旅であったように思う。

チブサン古墳は、5世紀につくられた前方後円墳で、そのなかには、赤、黒、白で鮮やかに彩色された石棺が収められていた。隣には、6世紀後半につくられた円墳のオブサン古墳を見ることができた。わたしたちを案内してくれた男性は、オブサン古墳は、入り口が、股を開いた女陰のようなかたちをしていることをほのめかしたし、チブサン、オブサンという語からわたしたちは、渡来系の人たちの言語のような響きを感じ取った。さらに、それらの古墳が、生や性という人間の根源的事実に深く関わっていることを強く印象づけられた。
http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/kankoh/03-rekishi/03-03chibuobu.html

古墳群からほど近いところに、6世紀につくられた、61墓からなる群集墓の跡であるとされる鍋田横穴群があった。27号墓の壁画に強い印象を感じた。両手を開いて、足を広げた大の字形の人物像(写真)には、玄室への悪霊の侵入を防ぐという呪術的な意味があるということが、説明書きに書かれていた。
http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/kankoh/03-rekishi/03-06nabeta.html

鞠智城(きくちじょう)は、7世紀につくられた、八角形の鼓楼をもつ山城である。温故創生館で、鞠智城の国営公園化に向けてつくられたビデオを見せてもらった。それによると、大和朝廷が白村江の戦いで、唐・新羅軍に敗北し、九州の護衛のために複数の城が建設され、それらの城に食糧や武器、兵士などを補給するために、鞠智城が建てられたという。まったくはじめて知った史実である。日本が東アジアとの関係を密にもっていた時代の光景が浮かんできた。
http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/kankoh/03-rekishi/03-13kikutijyou.html

わたしたちは、夕暮れ迫るころ、不動岩に行こうとして、途中で、蒲生という地区で、ご詠歌を唱える声とともに、古の昭和に迷い込んだような懐かしき風景に出会った。車を飛び降り、菅原神社にお参りし、山鹿三十三か所参りの札所でもある岩隣寺で、珍しい板碑のレリーフ観音を拝んだ。
http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/kankoh/03-rekishi/ganrinji.html

不動岩は、そこからくねくねと山道を登った山の上に、突如として、屹立して現われた。そのころ、夜はすでにどっぷりと暮れて、その全容を視認することはできなかったが、夜の暗がりに溢れ出るかのような、その男根のような奇岩に、わたし(たち)は圧倒されたのである。わたしたちは、ケータイの明かりをたよりに、そのファリックな岩の頂に達した。遠くに夜景を見ながら、生命の、エネルギーの源に触れたような、神に出会ったような感覚が、そのときわたしを覆ったのを覚えている。高さ80メートル、根回りが100メートルにもなるその岩は、周囲の人たちの信仰対象になっているらしい。不動神社の拝殿は、そのふもとにあった。
http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/kankoh/02-shizen/02-06-01hudougan.html

その後、山を下り、山鹿の町に入った。熊本在住の方から聞いていた歌舞伎の八千代座を見に行った。それは、明治43年に、当地の実業家によって建てられたもので、この地がかつて栄えた時代に、産業が、文化芸能のパトロンとなったことがしのばれた。
http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/kankoh/01-buzen/01-03yachiyo.html

熊本ラーメンを食べて、わたしたちは山鹿温泉に入った。ひんやりとした外気に触れながらの露天風呂で、深く癒された気がした。
http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/kankoh/07-onsen/07-01yamagaonsen.htm

古墳のある博物館でもらったパフレットを手がかりとして、行き当たりばったりの旅(いや力に導かれたのかもしれない)。5世紀に古墳を築いた人たち、6世紀に墓穴をつくった人たち、7世紀には、大陸との政治情勢との関わりで逼迫した状況が生じ、この地に渡来風の城が築かれた。山の上の奇岩の崇拝、石に刻まれた観世音菩薩。人の世を生きてゆくための呪法、数々の信仰のかたち。さらには、近代の文化振興。

駆け足ながら、ここに生き暮らしてきた人たちの確かな足跡を、その息づかいを感じた。調査をして、体系的に記述するだけが人類学ではないのかもしれない。こうした旅をつうじて浮かび上がる人間的真実の一部にそっと触れること。これもまた、人類学なのかもしれないと思う。それだけではなく、こうした旅をつうじて、わたしには、いま、呪力が高まったように感じている
。いや、たんに呪法に絡みとられやすくなったのかもしれない。いずれにせよ、そうした世界に近くなったような気がしている。


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