たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

「プナン人たちのために」

2006年07月30日 14時32分53秒 | 文献研究

本日(2006.7.30.)のボルネオ・ポスト紙より 地方選出の州会議員が、「プナン人たちのために」、プナン語のラジオ放送を許可するように、州政府に申請したらしい。
Penan on the airwave?
Lihan seeks govt nod for radio channel to cater for 10,000 semi-nomadic tribe The semi-nomadic Penan tribe roaming the deep jungles of Borneo may get their own radio channel if the State government is agreeable to the request submitted on their behalf by Telang Usan assemblyman Lihan Jok in the State Assembly recently.


ラジオを使って、プナン語で情報を発信することで、プナン人が社会開発の本流に乗りやすくすることになると、その議員は考えているようである。
This will accelerate the shift of this tribal people to the mainstream of development by effectively disseminating information to them through radio in their language,” said Lihan.・・・

プナンのうたなどの豊かな文化を世界に紹介することにもなると、彼は言う。
Lihan pointed out that there are sufficient Penan singers and songs to merit a radio channel for this tribe. He said this is one way to highlight the rich culture of the Penans to the world.

ラジオ放送は、プナンと「われわれ (rest of us)」の間にある、教育、社会経済面での溝を埋めることになる。プナンは、ラジオを聞くことをつうじて、飛躍的にわれわれに近づくことになるだろう、とも。
“I believe the radio will narrow the gap between the Penan and the rest of us. Admittedly, this tribe is so far behind in a lot of aspects, be it education or socio-economy. But through listening to the radio in their own language, the Penans will hopefully make a quantum leap in their quest to catch with the rest of us,” said Lihan.

「われわれ」から教育、社会・経済面で立ち遅れているプナン人たち。州政府は、プナンをなんとか社会開発の本流に引きずりこもうとしている。すべてのプナン人が、そのことを望んでいるという前提に立って。


インターネット

2006年07月29日 17時21分10秒 | フィールドワーク
3ヶ月ぶりに、サラワク州の州都クチンにやって来た。私の住んでいるプナン人の村で、クチンを訪れたことがあるのは、たった一人だけである(州政府の招聘)。クチンは、プナン人の想像力の外側にある都会である。言及されるようなことは、ほとんどない。彼らにとって、都会とは、今日では、ビントゥルのことである。金があれば(日本円で、約1万円を出せば!)、4時間ほどのドライブで、そこに行くことができる(ビントゥルは、大部分のプナン人にとって、想像上の都会である)。

ビントゥルに出ると、冷房がきいたホテルがある、ショッピングセンターがある、スーパーマーケットがある。 そこで、わたしはインターネットにアクセスする。それは、直に日本だけでなく、世界とつながっている。日本や世界で起こっていることを、リアルタイムで知ることができる。ワールドカップ・サッカーで、日本はクロアチアに1-0で勝ったという、衛星放送を見た(という)プナンの少年によって、狩猟キャンプにもたらされた情報は、ネットサーフィンすれば、誤りであったことがすぐに分かる。

インターネットが普及し始めたころ、コンピューター・ネットワークは、地球上の様々な地域を相互に結びつけて、情報の瞬間的な移動を可能にし、世界の距離は、ますます縮まる、近くなると言われた。実際、そうかもしれない。しかし、プナンの村に住んで感じるのは、それとは真逆のことである。世界の諸地域がネットワークで結びつけられて、近くなればなるほど(近いがゆえになおさら)、プナンの世界と現代日本を含む近代との距離は、ますます隔たっているように感じられるのである。

共同消費

2006年07月28日 15時38分05秒 | フィールドワーク
米が底をついたと言われ、わたしが買ってきた5キロの米が、1~2日で、またたくまに、みなで消費され、栄養をつける必要のために、わたしが手に入れた鶏卵のほんの一片しか、わたし自身の口に入らないとき、わたしは、プナンの人びとのそのような消費行動を、居心地の悪いものであると感じた。米や鶏卵は、わたしが食べるために買ったものであり、少しならばともかく、みなで分けて食べるためのものではない、と思っていた。

他方で、プナンは、店で金を払って購入した食材(米、鶏卵、インスタントラーメン、缶詰・・・)に、森の狩猟で獲れた食材(イノシシ肉などの動物肉)と同等の価値を置いているということが分かってきた。<食べる>ということを基準にすれば、それらになんら差はない。後者(動物肉)は、猟に行った者たちの間で均分され、余分があれば、他の人びとにも配られる。そのことからすれば、前者(購入した食材)も、同じようなかたちで消費されることも不思議ではないと、わたしは、しだいに思うようになった。

共同で(一気に)消費するというのが、プナンの消費の形態である。それは、ノマド(遊動生活)の時代からの、プナン社会のしきたりのようなものである。わたしが購入した食材は、いま、(一気に)共同で消費される。そして、次に、わたしのもとに食べるものがないときに、わたしは、誰かのところで、そこにあるものを食べたり、飲んだりすることができる。プナン人たちに寄り添いながら、じわじわと、そのことの意味を理解し、行動に参与するまでに、3ヶ月もかかってしまった。

わたしは、自らが食べたり、飲んだりしたいもの(だけ)を買って、消費するという、わたし自身の身に染みついた(文化的な)消費行動のパターンに照らして、そうではなく、あるものは、あるときにみなで一緒に食べたり、飲んだりするという、プナンの消費行動を、わたし自身の計画を台無しにする、無秩序なものとして、捉えていたようである。「自己」の文化に縛られていることが、「他者」の理解を困難にしていることに、そして、その呪縛は、そうとう根が深いことに、わたしは、あらためて気づかされたような気がする。

豊かな社会

2006年07月02日 11時17分12秒 | フィールドワーク
20人のプナン人(7人のハンターと、その妻と子どもたち)が、車で2時間ほどの距離にある森の近くで、狩猟のためのキャンプをするのに同行した。近隣に住むスピン人商人が世話人となり、彼らを連れて行った。

そのときは、3泊して、イノシシ4頭が捕れた。スピン人の男性は、ガソリンや車の修理費などを負担し、キロあたり3リンギット(約33円)で、プナン人たちからその猪肉(合計87キロ)を買い上げて、キロあたり8~10リンギットで、クニャー人たちに売り捌いた。プナン人ハンターに手渡された260リンギット強のお金(87キロ×3リンギット)は、私も含めて、8人で平等に分けられた。そこから、スピン人男性から個人的に購入した飲み物や生活必需品の代金を差し引くと、それぞれの手元に、現金はほとんど残らなかった。あれは、たんなるピクニックだったというプナンもいれば、努力をしても報われないことを嘆いて、スピン人男性にわれわれはだまされていると主張するプナン人もいた。

私にとって、そして、プナンにとって、その3泊4日の「ピクニック」それ自体は、実に愉しいものだった。現地に着くと、プナンたちは、森に入って木々を伐り出して柱や屋根材とし、葉やビニールシートを屋根にかぶせて、簡素ながら機能的な狩猟小屋を建てた。朝、夜が明けると、ハンターたちは、静かに狩猟に出かけて行った。森の中でしとめられ、運び出されてるイノシシのモツ肉を煮込み、脂身を炒め、腹肉や頭を燻製にし、血をサゴ澱粉に混ぜてお菓子をつくり、それらを食べた。腹がふくれると、狩猟小屋の中で、横になってうとうとする。することがなければ、ペチャクチャとおしゃべりをし、冗談を飛ばす。そして、腹が減ると、獲れたての猪肉を食べる。翌朝、またハンターたちは狩猟に行き、早ければ2時間くらいで、イノシシを担いで、あるいは、手ぶらで狩猟小屋に戻ってきた。

かつて、人類学者・サーリンズは、狩猟採集民社会では、生きるための労働に費やす時間が、近代産業社会よりずっとずっと少なく、余暇の多い「豊かな社会(affluent society)」と捉えた。プナンの狩猟小屋生活は、アフルエントな雰囲気に満ち溢れている。

子どもたちは、このような狩猟小屋に行くことで、小屋の作り方や火のつけ方、肉のさばき方などなどを、覚えていく。まだ銃を持たせてもらえない10代半ばの男の子たちは、獲れたてのイノシシ(30キロや40キロもある)を運ぶのを手伝ったり、料理をしたりして、狩猟の周縁部分を担当する。

プナンの狩猟小屋生活からながめるならば、プナン人の子どもたちが小学校に行かない、また、ほとんど卒業しないということに、自然と得心がいく。学校で知識を習得したところで、イノシシ猟をする技能や体力を養うことはできない。抽象化・一般化された数式や概念は必要ない。生きていくために猟をし、食べ、そして、それらを手際よく行うための実践こそが、最も重要である。

あらためて、学校教育とはいったい何なのだろう、と思う。フーコーはかつて、規律=訓練を個人へと植えつける近代の制度としての学校教育という問題系へと踏み込んだことがある。今日見られる「近代以前」の生活の断片(例えば、上述のプナンの行動)を手がかりとして、いまいちど、学校教育とは何かについて、考えてみることはできないだろうか。

獲物をしとめる

2006年07月01日 12時17分03秒 | 人間と動物
調査地に入って2ヶ月になるが、ようやく獲物をしとめる現場に立ち会うことができた。

木々が重なり合い、泥質地があるかと思えば、急峻に傾斜する上り坂・下り坂が突如立ち現れるサラワクのジャングル。その中を動き回るプナンのハンターに着いていくのは、並大抵のことではない。 私が銃撃の場面に立ち会ったのは、そのようなジャングルのイノシシ猟ではなく、油ヤシのプランテーションのイノシシ猟においてである。木材会社は、木材を伐採して裸になった土地に、1990年代になると油ヤシを植えて、さらなる収奪を企てた。森の中に食べ物が無くなったこの季節、油ヤシの実を食べるために、イノシシは近くの油ヤシ・プランテーションにやって来る。

その形態の猟は、夜中に、イノシシがやって来そうな油ヤシの木の近くで待ち伏せて、しとめるというものである。私が同行したプナン人"J"(40歳代)は、日暮れから約1時間半かけて、新鮮なイノシシの足跡が残る油ヤシの木を探し出した。その脇に、油ヤシの葉を敷いて、われわれ二人は腰掛け、イノシシがやって来るのをじっと待った。

やがて、予想通り、ガサガサという音がして、イノシシのブーブーという声が聞こえた。カメラを取り出そうとビニール袋に手をかけて、私は音を立てた。日ごろ穏やかな"J"は、それを厳しく制した。イノシシは、物音に敏感なのである。 どうやらそのイノシシは、油ヤシの木に到達せずに、途中で引き返したようである。続けざまに、別方向から、2回イノシシが近づく音が聞こえた。姿は見えない。しかし、それらは、同じく、油ヤシの木に到達せずに引き返した。"J"は、イノシシが、風によって運ばれる人間の匂いに感づいて、引き返して行ったのだろうと言った。

その後、"J"は、イノシシの足跡を視認しに行った。彼の分析によれば、それらは、上方からずっと続いている。イノシシは再びやって来るはずだから、場所を変えればいいと、"J"は言った。われわれは、イノシシの足跡が油ヤシの木へと続いているあたりに、待ち伏せ場所を変えた。

"J"は、葉の上に腰をかけて、じっとイノシシがやってくると予想される方向に感覚を集中させていた。ほどなく、ガサガサという音とともに、イノシシが近づく気配。私は、気持ちが昂揚するのを感じた。"J"は、すぐさま、懐中電灯で、そのあたりを照らし出した。イノシシは、光をあてても逃げたりしないのだと、"J"は後から説明してくれた。

彼は、あらかじめ右前に置いていたライフル銃を構えた。狙いを定めて、射撃する。 「逃げた!」と、彼は叫んだ。発弾後の銃の焦げるような匂い。気持ちが昂ぶっているといいながら、"J"は、銃口を掃除して、次の銃弾を込めている。私は、彼がしとめ損なったのかと思ったが、逃げたのは2頭。1頭が、6発の散弾を浴びて、5,6メートル先のけもの道の葉の下に倒れていた(写真)。

それは、メスの子イノシシだった。その後、場所を変えて、逃げた2頭を待ったが、夜明けまでやって来なかった。 嗅覚と聴覚を利用して、油ヤシの実にたどり着こうとするイノシシ。視覚と聴覚にたよりながら、イノシシを狩ろうとするプナン人のハンター。今回は、人間が、その目的を達成した。獲物の感覚の特性を熟知し、自らの感覚を活用しながら、狙った獲物をしとめる。それが、プナンの狩猟である。

<ガールハント/ボーイハント>という言葉があるが、比喩にせよ、エゲツナイ言葉ではないかと、ふと思う。