◆本年度の殺生科研の第1回研究会(4月13,14日、桜美林大学明々館)で、チンパンジーの「狩り」をめぐる3論文を読んだ*1。
*1
・ジェーン・グドール 「II.狩猟」『野生チンパンジーの世界』杉山幸丸・松沢哲郎訳、ミネルヴァ書房、1990
・保坂和彦 「第9章 狩猟・肉食行動」西田利貞・上原重男・川中健二編著『マハレのチンパンジー:<パンスロポロジー>の三七年』京都大学出版会、2002
・「肉と獣:ボノボ、チンパンジー、そしてヒトの狩猟対象のイメージ」五百部 裕『アフリカ研究』42、1993
グドールの論文は、チンパンジーの「狩り」に関してのパイオニア的な研究であり、チンパンジーの動物(アカコロブス、ヤブイノシなど)の殺し方を含めて詳細な記述がなされており、その意味で、我々にとっては重要な論文であろう。保坂の論文は、チンパンジーがなぜ「狩り」をするのかについて、社会的要因の重要性に目を向けている。五百部の論文は、チンパンジー、ボノボ、ヒトの比較の観点を取り入れながら、プレイ・イメージ(獲物のイメージ)という認知の枠組みのなかで、「狩り」に迫ろうとしている。
◆生態人類学的な動物をめぐる調査研究について知るために、「トゥングウェ動物誌」を読んだ*2。
*2
伊谷純一郎「9.トゥングウェ動物誌」『人類の自然誌』原子令三・伊谷純一郎編、雄山閣、1977
伊谷純一郎が、トゥングウェの人びとの動物をめぐる世界へと接近しようと努めた果てにたどり着いた記述は、ナチュラリスト的な動物分類から、物語、歌のなかに現れる動物、動物の猟と漁、動物の象徴的側面にまで、多岐厖大にわたる。
「あまりに詳細なエスノグラフを書くことは意味がないという意見もあるようだが、ひとつの構造をもった全体を把握し、それへのトゥングウェの人たちの関与を徹底的に掘り起こすという作業を試みた。これらの資料の収集には十数年の歳月を要している。個々の体験を積み重ねていって、ほぼこれが彼らの動物的世界の全体だという納得ができたときに、私は、彼らの心性を投影しうる1枚のスクリーンを得たことになる。・・・こうして要素に分解し、それを配列した平面には、すでにある特定の要素と要素の間のさまざまな関係が生じている。・・・このような脈略や、複雑に染め分けられ彩られた平面全体が、トゥングウェの心性を投影しているのである。」
ある地域・ある社会の調査研究における動物に対して(民族誌的に)ズーム・インするだけではなく、ズームアウトして、自然科学の体系のなかで捉えること、この二面の先に考えていくことが大切ではないだろうか。
◆人の「動物殺し」のひとつとして、文化人類学の伝統的なトピックである「供犠」に焦点をあてて、『アフリカの供犠』を読んだ*3。
*3
リュック・ド・ウーシュ『アフリカの供犠』浜本満・浜本まり子訳、みすず書房
ド・ウーシュは、ユダヤ・キリスト教経由で導入された「聖と俗」の観念に基礎を置くフランス社会学の供犠論を退け、さらには、暴力の全面化を抑止する機構であると捉えたジラールの供犠理解を批判した上で、アフリカの具体的な民族誌記述を中心とした諸文献のなかに供犠の本質を探ろうとしている。読みにくいぐだぐだとした論述の先に、供犠には、一方で、供犠という殺しの場面の後に出現する調理するという側面、他方で、王や神などを介して、宇宙論的な秩序と深く結びついた領域があることを示唆しているように見える。研究会では、供犠論における「負債」概念(超越的な存在に対する負い目)やそれを返済するための贈与の議論を深めることによって、今後、供犠を行う社会の供犠だけではなくて、供犠を行わない社会の「動物殺し」への負い目や罪悪感の性質についても問い直してみることができるのではないだろうかという点などが話し合われた。
個人的な覚え書きとして。