たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

プ~~イ

2009年06月23日 20時39分14秒 | エスノグラフィー

突然思い出したかのように、プナンの話を少々。

日本語の「やめろ!」は、プナン語の amai! に対応する。
「そんなことするの、やめろ!」は、amai manue ke!


日本語で、コップにビールを注いでもらって、そのあたりにしておいてほしいときになんと言うだろうか。
「おっとっとっと、そのへんにしてください」くらいだろうか。
プナン語では、oep oep oep...(ウウプ、ウウプ、ウウプ...)という。

しかし、この制止語は、人間に対してだけ使われるのだと、プナンは言う。

神、精霊に対しては、pooi という語を使う。
雷が鳴ったとき、突風が吹いたとき、彼らは、
Pooi と言う。
Pooi, kau mematai menyiai muki ...

わたしも、その言い回しを真似てみた。
プナンは、ちがうと言う、そんなんじゃないと言う。

唇を前に突き出してとんがらせた上で、プ~~イと言ってみろと言った。
そのとおりやってみた。
たしかに、ふつうに言うのと、唇を前に突き出してとんがらせていうのでは、音がちがう。
それだけではない。
神に対して、「やめてくれ!」という気持ちがこもっている感じがする。

唇の身体技法とでもいうべきものがある。

そう思って、プナン人の写真をよく見てみると、唇がよく人の気持ちを表しているように見える。
このへんが、人類学だと思うのだけれども、わたしのこういう意見はどこに行っても、よくスルーされる。

(写真は、プナンの子どもたち)


研究会案内(2009年7月)

2009年06月22日 17時03分12秒 | 自然と社会

「自然と社会」研究会

第8回研究会(合宿形式)

人類学は、自然と社会というクラッシックなトピックを、
なぜ、いとも簡単に手放してしまったのだろうか?
わたしたちは、そのテーマに真正面から向き合いたい。

デスコーラら(編)『自然と社会』
( Nature and Society, Phillipe Descola and Gisli Palsson(eds.)
1996, Routledge)などのなかから幾つか論文を選んで、
逐語訳をしながら、理解を深め、内容に関して、討論する。

◆日時

2009年7月11日(土)~12日(日)

◆場所

八王子セミナーハウス
松下館 セミナー室
http://www.seminarhouse.or.jp/index.html

7月11日(土)12:30~22:45

<プライオリティーを与えられた3論文>
1.Philipe Descola
"Beyond Nature and Culture" pp.2-14.

2.Gisli Palsson
“Human-Environmental Relations:
Orientalism, Paternalism and Communalism”.

3.Edward Hviding
“Nature, Culture, Magic, Science:
On Meta-languages for Comparison in Cultural Ecology”.

7月12日(日)8:30~9:00

・12月セミナーに向けた打ち合わせ

7月12日(日)9;15~17:55

4.Tim Ingold
“The Optimal Forager and Economic Man”.

5.Philippe Descola
“Constructing Natures:
Symbolic Ecology and Social Practice”.

6.Roy F. Ellen
“The Cognitive Geometry of Nature:
a Contexual Approach”.

7.Laura Rival
“Blowpipes and Spears:
the Social Significance of Huaorani Technological Choices”.

8.John Knight
"When timber Grows Wild:
the Desocialization of Japanese Mountain Forests".

*合宿形式の研究会です。

*参加ご希望の方は、下記のメールアドレスまでご一報ください。
  katsumiokuno@hotmail.com

*発表者の都合などで、必ずしも、上記の順番どおりで行うとは限りません。

*通常の研究会とはちがって、1回きりで議論が終わるのではなく、
継続的に、議論を深めていくという形式でやっています。

(写真は、ボルネアン・ジャングル)

比較民族誌、ギブソン、バフチン、トーテミズム:デスコーラの英語は難物だ!

2009年06月21日 12時16分53秒 | 自然と社会

第七回「自然と社会」研究会報告2
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/04d028d47eb8dd67edf61c2e28791cc4
以下の続き
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/9b7637e8149a674861f29e729d7dd92b

1.デスコーラらによる『自然と社会』の「序」

◆引き続き、一般命題へと踏み込むための中間的な立場が取り上げられる。エレン、デスコーラらは、自然と人間の関わりを、特定社会の認識原理とでもいうべきものを出発点として考えているようだ。さらに、デスコーラたちは、一見陳腐なものに見える<比較民族誌研究>に、新たな光を与えている。民族誌経験そのものの豊かさが、人類学者の想像力だけでなく、一般的命題への意欲を発火させる。最後に、デスコーラらは、生態人類学の再検討という課題へと踏み込んでいく。ギブソンのアフォーダンスやバフチンのトランス言語学を援用しながら、自然と社会、環境と人間の関わりを、トランス生態学という視点で捉えることの重要性を指摘している。自然は書物ではない。人間と自然は、お互いに、その一部である。自然と人間は隔てられない。それらの相互作用の累積的結果への視点が求められている。

 ◎デスコーラとパルソンによる「序」『自然と社会』PP.16-19の自由訳
(この部分の担当者の訳出作業は、わたしの個人的な理解の大きな助けとなった点を記しておきたい)

 エレンもまた、自然の位置づけについての問題が、実践的な型と象徴的な表象を生み出す基礎にあたる最低限の想定を見定めることで接近できるという仮説を推し進めた。彼が主張するように、自然についてのすべてのモデルの背後には、三つの認識的な原理の結合がある。①人間を自然へと含める「物事」およびこうした「物事」へと割り当てられた特徴によって、自然についての帰納的に構築すること。②人間の領域の外部の空間の領域についての認識。③本質によって現象を理解する隠喩的な強制。これらの軸のそれぞれの相対的な重要性とその内的な非対称性は、自然についての観念化および特定性に関する説明において異なっている。同じようにして、デスコーラは、それぞれの社会が、環境との関係において、特定のあり方を対象化するような、実践に関する暗黙の図式を説明する変形文法的モデルを説いている。一つ目は、同定の様式、あるいは存在論的な境界が、アニミズム、トーテミズム、あるいは自然主義のような宇宙論的なシステムにおいて生み出され、対象化されるようになるプロセス。二つ目は、略奪あるいは保護のような互酬性の原理に従って、ヒトおよび非ヒトの間の領域において関係を組織する相互作用の様式。三つ目は、世界の原初的な構成要素が、社会的に認められるカテゴリーとして表象されることになるような分類の様式(基本的に隠喩的な図式と喚喩的な図式)。

特定の社会について、自らの経験の複雑と難解さを、一般的な命題へと翻訳することの困難さを認めた上で、この本のほとんどの執筆者たちは、それにもかかわらず、たんなる地域的な人間―環境システムの記述を越え出ていこうとする意欲を示している。逆説的に、比較のプロジェクトに新たな信頼を求めることは、民族誌的な経験そのものの豊かさのなかから生まれるものである。すなわち、ある研究者がもつ特定の社会についての民族誌的知識と比較しうる、別の人類学者が世界のさまざまな場所で描き出すような、特定のパターン、実践のスタイル、一連の価値とを、共有することになるという認識から。そのような認識は、民族誌的なナラティブのスタイルが広い範囲で絶えず変化していることによって、おそらく力が得られる。従来のモノグラフを構造化するような普遍的なカテゴリーを見捨てた上で、人類学者たちは今日、ある社会についての自らの解釈を伝達するために、彼らが使用する分析装置を選び出すさいに、より個人的に、さらには、より想像力豊かになっている。かつては図らずも、集合し、類似していたものは、最初の見かけでは、結びつくことがない民族誌的説明の混沌状態に見えたかもしれない。言い換えれば、民族誌は、特定の事項に焦点を当てる一方で、民族誌的な蓄積は、比較への関心に新たな火をつけることになった。

この本の寄稿者たちは、さまざまな観点、アプローチ、および理論的立場をとる一方で、多くの重要な問題に関して、概して現れる一致した見解がある。もっとも重要なことは、著者たちが、自然と社会の界面とそれが必然的に招く理論的課題を共有しているということである。人類学は、範疇が広く、自然科学と社会科学の両者へと接近するが、すでに見たように、それは、根本的な矛盾に悩まされてきた。人類の歴史の最初の部分は、進化および環境の説明で行われるが、それに続いては、人類史における環境の役割が無視されている」。自然と社会の界面を再検討することは、生態人類学を再検討することである。とりわけ、それの人間と環境の生態人類学の概念について。生物学と人類学を分離することを主張するような、深く画一された生物学的および人類学の伝統は、経験的および理論的な土台において、ますます挑戦を受けるようになってきている。ベイトソンは問題を、杖を持つ盲目の人物の例を用いることで確認している。「どこから、わたしたちは始まるの?わたしたちの精神のシステムは、杖の扱いによって決まるの?わたしの皮膚によって決まるの?杖を半分上げることで始まるの?しかし、こんなのは、バカげた問いだ」。たしかに、そのとおりであろう。要点は、人、技術、および環境について、的確な境界を決めることではなく、重要な領野、ベイトソンの言葉では、メンタルシステムへと注意を向けることなのである。語源的には、環境の概念は、取り巻いているものということであり、それゆえに、厳密に述べれば、環境は、取り巻かれているものを除いたすべてのものを意味する。 しかし、ジェームズ・ギブソンによって発展させられた生物学的な視点が、与えられるならば、意図的な環境という現象学的な概念を想定することが重要なこととなる。環境の「アフォーダンス」は、その意味、あるいはそれが感知される方法によって、さまざまに変形される。このことは、解釈主義者的な意味における多元的な環境のことを言っているのではない。自然とは、一連の書物でもなければ、あるいは、仲介的な文化であるテキストをつうじて情報を与えられるような書物の観念(あるいは、「読み」でもない。むしろ、ヒトと環境は、それ以上還元できないようなシステムをもっている。

ヒトは環境の一部であり、そのようにして、環境もまたヒトの一部なのである。 この本の多くの寄稿者たちは、この線に沿って生態人類学に向けた議論をしている。同様の視点は、言語に関して、バフチンによって発展させられてきた。彼が主張したように、話者を、発話コミュニケーションにおける受動的なパートナーとして描く実証的な言語学の観念を乗り越えることが重要なのである。バフチンは、「トランス-言語学」のアプローチを提唱した。それは、自律的な言語学についての抽象的な客観主義に対する強烈な批判を提供するだけではなく、言語に埋め込まれた本性について、再表明するアプローチである。彼にとって、言葉は、「その射程の全行程をつうじて、さらにはその要素のすべてにおいて、すなわち、音声的なイメージから抽象的な意味にいたるまで社会的なのである」。バフチンは、個人と社会とをラディカルに隔てることを拒否して、言語におけるすべての語は、話者の先行経験とスピーチコミュニティとの相互作用の累積的結果であると主張した。おそらくわたしたちは、バフチンの観点を引いて、トランス生態学に関して語るべきである。人間の居住、すなわち人のオイコスの社会的な本性に関して、住むことと巻き込まれることの観念を強調するために。

2.デスコーラ「自然と社会を超えて」

 ◆ラドクリフ=ブラウンのトーテミズム論は、ヒトが自然の種に対して打ち立てる関係は、ヒト同士で打ち立てる関係と同様のものであり、二つの関係のセットが、彼らの社会構造上に配置されるというものである。他方で、レヴィ=ストロースのトーテミズム論は、種間の非連続性が、ヒトの社会的分節を組織するためのモデルとなっているというものである。この両者に対して、デスコーラは、アマゾニアの先住民社会における「自然と社会を超えた」コスモロジーの組み立て方を探ろうとしている。

◎デスコーラ「自然と文化を超えて」pp.1-2.

いまでは、その理論の継承者がいなくなったと言われているラドクリフ=ブラウンの社会学的なトーテミズム理論は、数年前に、わたしに霊感を与えてくれた。そのとき、わたしは、アマゾンの先住民による動物の特定の扱いを理解しようとしていた。活発に食糧として狩られ、あるいは、捕食者として恐れられていたのだけれども、動物たちは、それにもかかわらず、人間が社会的ルールに従って相互作用することができ、また、実際のところそうすべきヒトであると考えられていたからである。

人間と自然の種の間の関係を概念化するときに役立つ標準的なモデルは、レヴィ=ストロースの理論である。すなわち、種の間の非連続性がヒトの社会的な分節を組織するための精神的なモデルとして機能するという考えである。アマゾニアでは、ヒトと非ヒトのちがいが、自然のものとしてではなく、程度のものとして考えられており、そのため、ラドクリフ=ブラウンのトーテミズムの記述が役に立つ。ラドクリフ=ブラウンを引用すれば、「自然の秩序は、社会の秩序の一部になる」。ラドクリフ=ブラウンによれば、そのような融合が可能なのは、アボリジニが自然物および自然現象に対して打ち立てる関係は、彼ら自身の間で彼らが打ち立てる関係と同様のものであり、二つの関係のセットが、彼らの社会構造の上に包み込まれるからである。こうした思考は、アマゾニアにおける諸現象の類型をうまく説明する。ラドクリフ=ブラウン流の社会学的トーテミズムは、そこではありふれたものではなく、さらには、人間として扱われる動物と個人との間の関係の形式とつねに結びつけられながら見出されるので、オーストラリアのケースに対するレヴィ=ストロースの理論を維持しながら、わたしが、想像力によって「アニミズム」と名づける、実際には、自然種との非トーテミックな関係に重きを置くラドクリフ=ブラウンのトーテミズム論を用いながら、ある概念上のハイブリッドを構築した。レヴィ=ストロースは、人間同士の社会関係を描き出すのに、自然種の間の非連続性を用いたが、ラドクリフ=ブラウンは、人間と自然種の間の関係を描き出す社会的実践を形成するような基礎的範疇を用いたのである。

両方の理論は、アマゾニアのケースには、あてはまらないのである。そこでは、自然と社会の区別は行われていない。そうした自然と社会の二分法は、じつは、オーストラリアのトーテミズムにおいても無意味である。レヴィ=ストロースは、そのことを『野生の思考』においてすでに指摘している。「それがもはや他のトーテム集団によってではなく、遺産としてみなされているある種の示差的特徴におって体系を形成する傾向にある」「二つのイメージ、一つは社会的なもの、一つは自然的なもののこの二つのイメージの代わりに手に入るものは単一のものであるが、断片化している社会的―自然的イメージである」(『野生の思考』)。

(写真は、躍動美あふれる洞窟壁画;サラワクのシレー洞窟)


人類学のフェティッシュとしての自然と社会の二元論思考への批判とその先の展開

2009年06月20日 13時21分39秒 | 自然と社会

第七回「自然と社会」研究会報告1
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/04d028d47eb8dd67edf61c2e28791cc4

今週1週間は、まったく「研究」には手がつけられなかった。学務と雑務で。最近、そんなことは、別に驚くべきことではなくなってきていることが、ある意味、驚きであるが。とまれ、以下、まとめの前半部分。

自然/社会・文化の二分法についてのこれまでの議論をめぐって、デスコーラらは詳細に詰めていく。テキスト主義者(ギアーツ)らは、文化の解釈を標榜する点で、人類学の伝統に立つ以上、自然との関係に敏感にならざるを得なかった。彼らは、自然が文化を規定するという考え方に慎重に向き合ったが、それでは不完全だと、デスコーラらは見る。その二元論は、人類学のフェティッシュであり、人類学は、フェティッシュの脱構築に取り組んできたという。要は、その二元論ををどのように対象化するかが問題ではなく、それらの多様性の説明をしなければならないと、彼らは言う。なぜ、この問題系に、人類学者は、深く関わるのか。
人類学者の取り組みは、一つには、産業化されたグローバル化する世界における政治的・倫理的関心に連動している。二つには、人間が相互作用する領域に対する人類学の古典的な認識論的関心に関わっている。さらには、デスコーラらは、既存の学術分業を取っ払って、議論を進めることの必要性を説いている。以下では、身体とランドスケープが、トピックとして、取り上げられている。その上で、人類学者は、民族誌に特化すべきか、あるいは、一般理論へと踏み込むべきなのか、という問いが立てられる。後者に向かう場合、民族誌記述を相対的なものとして捉える相対主義的な立場もあれば、普遍的なモデルに挑戦しながらも、意味のある比較の可能性に開かれていたいという中間的な立場もあるという。(続く)

◎デスコーラとパルソンによる「序」『自然と社会』PP.11-16の自由訳

 伝統と文化の象徴主義の下に環境を包み込むような極端な構成主義の見解では、環境はまったく能動的な役割を演じることはない。人類学において頻繁に文化に言及すること―記憶し、学び、そして意思疎通すると想定されたユニークな人間の能力―は、人が乗り越えようとする二元論構造をたんに強化することになるだけである。ある程度のところ、構築主義者のポジションは、彼らの仕事を第一に自然の「書物」を読むことであると見なした中世ヨーロッパの研究者のそれを反映している。

 しかしながら、近代的なテキスト主義者に関しては、環境は、比ゆ的な意味で、読み解くべき書物ではない。つまり、それは、文化的な解釈を超えたところにも、何もないわけではないにせよ、たいしたものがあるわけではない。テキスト主義者の主要な先導者たちは、突然、環境決定論と文化生態学から転向した。
1つの極から別の極にまで移ったのである。ギアーツは、今日にでも影響力をもつテキスト主義の著作『文化の解釈学』を出版する前年に、決定論的な環境論とも見える灌漑システムについての論考を書いた。彼は、バリとモロッコを比較して、異なった水の扱い方は、それに含まれる異なった文化的背景によると指摘した。公平に見れば、彼の後期の著作において、地理(自然)に文化が規程されているという自然と文化のよく知られた裂け目である地理学的決定論に反対している。にもかかわらず、彼によれば、「環境は、社会生活を形成するアクティブで主要な要因であり、いまある社会は、環境への長い適応の歴史の最終地点であり、環境とは、かつてのように、環境の次元そのものによって環境としてつくり上げられる」と述べている。テキスト主義と社会生物学は、自然と社会の理論的な二元論の幻想性にますます敏感になる一方で、
どちらも、近代主義者のプロジェクトへの可能な代替手段をいまだ持ちえていない。

 二元論パラダイムを脱構築することは、今日、人類学の議論に浸透している健全な自己批判の例である。
結局、長い間、概念的なフェティッシュを脱構築することは、長らく人類学者が好んでいたものである。この偶像破壊の傾向から逃げた領域はない。経済、トーテミズム、親族、政治、個人主義、あるいは、社会などの分析カテゴリーが自民族中心主義的な構築物であるのだとすれば、自然と社会の間の違いもまた、なんらそれらとは変わらないものなのであろうか?その答えは、この二元論が、社会科学の知的な道具に属する分析カテゴリーであるということだけでなく、近代主義の認識論の基礎だという点にある。二元論を乗り越えるのは、知的なランドスケープを切り拓いて、状態と物質を過程と関係に置き換えることである。主要な問いは、閉じたシステムをどのように対象化するのかではなくて、対象化のシステムの多様なありようをどのように説明するかである。

 人類学者が伝統的な生態人類学に幻滅するならば、なぜ、人間と環境の関係に思い悩むのか不思議に思うかもしれない。自然が意味のないカテゴリーであり、環境決定論が過去のものであるならば、人間及び人間以外の生命体および非生命体同士の相互作用の理解は、どのようにいまだに追求に値するのだろうか。①一つ目の答えは現在、人類学者にとっての公的なアジェンダの最前線にある。人間の関心事における環境の位置は、産業化された世界において、人々の政治的・倫理的関心となったのである。人類学者は、論争状態にある環境問題への表明をすることで、市民および学者としての役割を果たすことができる: 非産業社会における、暮らしの持続可能なモード、資源のマネジメントの伝統的知識と技術の範疇と地位、新生殖技術に伴う変貌する分類の境界、保全家の運動のイデオロギーの基礎、およびバイオ領域の構成要素の商品化。人類学者が環境問題を再考する理由は、自然と社会の関係性の現在進行中の変化に関係している。現代のバイテクは、今の人類の先行する時代によって経験されたものとは異なった自然を提供するが、グローバリゼーションの進行中の過程、世界大の社会関係の指数関数的な集中化は底知れない効果をもっている。環境の悪化が、技術的進歩と拡張経済生産を促したので、環境への関心は、国民国家の範疇の外部へと流出することになった。環境に対する責任の問題、自然の倫理学と政治は、どんな文化の境界も尊重することを拒んだ; さらには、国際舞台における自然保護派運動の最近の拡張および西洋科学とローカルな認識論の間の緊張関係を目の当たりにすることになったのである。自然はもはやローカルな問題ではない; 村の「緑」は地球規模の関心事なのである。グローバリゼーションにもかかわらず、おそらくは、そのために、環境商品の私有化と価格化が進んだのである。拡大する消費主義のレトリックとともに、自然が市場と化した。根源的な変化(釣りの原料、森林など)とオーガニック商品(遺伝子物質と人体部分などを含む)への市場アプローチの急速な拡大の効果が、経済的・生態的問題と同様にイデオロギー的介入や技術的進展に応じて、多くの社会において、生み出されたのである。
西洋の政治経済および環境言説における経済的人間に対する市場と魅力の意味があれば、
環境経済の概念と自然環境の商品化についての人類学的研究は、重要な研究領域となる。人類学者の知識と見解は、形而上学、自民族中心主義、さらには、市場、効率、生産を含み、経済へと応用される鍵概念の欠点詳しく説明するのに、決定的な効果をもっている。また、商品化の道徳的な評価における類似性と異質性は、魅力な理論的および比較の問題となる。

 ②生態学的問題への継続的な関心の二つ目の理由は、認識論と関係がある。新しい手段を探求するのは、過去の到達を忘れてしまうことを意味しない。マルクス主義、構造主義、現象論、文化生態学、および認識人類学などによって、人間とその環境との関係に対して払われる注意は、基本的な前提を示している。つまり、人間の歴史は人間と環境の関係の多様な様式の継続的な産物なのである。そのような前提は、二元論の陥穽と地理的・技術的な決定論へと回帰することを意味しない。逆に、それは、社会関係の領域が、人間社会よりも広い領域を囲い込むような多くの社会によって示される証拠を真剣に考察することを示している。ウアオラニの狩猟者たちは、彼らが狩る動物は、意思疎通し、学習し、人間への反応において生き方を修正することを知っている; 人間と動物は、互いに互いの世界でやりとりする社会的な存在であり、そのことは、ライヴァルが示すように、人びとがどのように互いを取り扱うのかと、人が動物をどのように取り扱うのかとの間の照応関係を説明することになる。そのような「自然の社会」において、植物、動物および他の存在は、社会宇宙論的共同体に属していて、人間と同じルールに従っている。そうした社会生活についての説明は、社会的領域を形成する部分として理解されるような環境の構成要素を含んでいるにちがいない。人類学は、その初期の伝統的な社会分析だけに限定することはできない。それは、「人間」の世界だけを包含するのではない。「人間」が相互作用する世界の部分を含む領域と方法を再検討しなければならない。

・可能な手段

 環境が重要であり、さらには、人間性と自然界の残りの部分の両方を理解するためには、人類学、生態学、および生物学が、新しい種類のモデル、見方、メタファーを必要とするとみなすことは、現実的である。そうした現実化は、基本的に、学術分業の
再編を必要とするだろう。とりわけ、自然科学と社会科学の間の学問的な境界の除去を必要とする。一方で、私たちは形質人類学、生物人類学の今日における分離、他方で文化人類学と社会人類学のそれを捨てなければならない。そうすれば、人間の統合に焦点を当てた古い哲学的、人類学的プロジェクトに新しい生命を与えることになる。学術の異なる諸領域は、学問の分派が普通認めるよりも、共通性を多くもつように思える。重要なことは、同様の道徳とメタファーが、異なった理論的な文脈に適応されていることである。自然に関する言説、民族誌、文化の翻訳は、同種の想像力、とくに狩猟と人間に関係するものとのメタファー、および皮肉、悲劇、喜劇、恋愛という劇場的な言語を用いる。

 学術カードのシャッフルしなおすことは、既に行われている。それに関わる兆候の一つは、形質人類学という狭い限定を超えて、人の身体における広義の今日における関心に表わされている。近代主義者の社会科学言説の抑圧にもかかわらず、身体は、社会人類学において、主要なテーマとして現われてきたている。このことは、驚くに値しない。身体は多くの民族誌的文脈において、一般的なトピックだからである。明らかに身体は、学術労働の固定的な分割を容易に考慮することはない。また、自然と社会の間の堅固な境界を認めるようなこともない。ライヴァルは、狩猟と採集の過程において、ウォアラニが、どのように、森林世界とは異質な、無縁な身体であることをやめるのかということを示している;
彼らは環境をほかの動物がするように感知し、植物と動物との会話の中に深く巻き込まれる住人になろうとする。自然科学と社会科学の間の境界の境界の脆さを示すもう一つの兆候は、人類学を含めて、様々な研究のランドスケープに関する関心の増大にある。場所と空間が、社会科学におけるブラックボックスへと送り込まれた一方で、今日、それら(ランドスケープ)は、広範な比較研究の焦点である。理論的発展は、多くの民族誌と響きあっている。トポフォリアと呼ばれる、場所への強い関心は、人間社会にかなり共通する特徴であるように思える。グローバリゼーションは、そのような地域的な関心を消去するのではなく、それを再定義する。

 自然は社会的構築物であり、環境の概念化は、常に変化する歴史的文脈と文化的特性の産物であるという認識は、人類学的な問いに対して難しい挑戦となる。わたしたちは、地域的なコスモロジーに関する終わりのない民族誌的記述だけに終始するのだろうか。あるいは、統合された分析枠組みのなかに、自然について異なったエミック概念への置き換えを可能にする、一般的なトレンドあるいはパターンを探さなければならないのか。後者を選ぶとすれば、どういった理論的基礎の上に、その統合された分析的枠組みが置かれるのであろうか。これらの決定的な問いに対して、この本の執筆者たちの答えは一致していない。ある人たちは、相対主義的なポジションを取っており、知識がどのようにおかれているのかということを強調して、暗黙的、および解決できない地域の意味のシステムが、メタ言説のなかに適切な形で身を横たえていることを疑う。ホルンボルグは、そのように、生態人類学の仕事を、生態的に敏感な知識システムを持続し、発展させるような社会文化的な文脈を理解するものとして見ている。彼が主張するのは、そのような地域的な企ては、枠組みを全体化することによって包みこもうとするときに、最も有効だということである。相対主義的な態度は、いくつかの論文において、テクスト主義者のアプローチに影響されているように思える。例えばヘルはギアツを引いて、テキストとしてのヨーロッパにおける狩猟の文化を定義しているが、他方で、パパガルファリは、科学者と普通の人びとによって、物語として西洋において生み出される現実の表象に関する特徴づけを行った上で、ナラティブとこのような真実の主張についての道徳的な本性を強調している。

 何人かの執筆者たちは中間的なポジションを取っている。彼らは、普遍的なモデルに挑戦する一方で、意味のある比較の可能性への扉を閉じないように慎重な態度を保っている。ハウエルは、社会性と間主観性が、人類の先天的な傾向があると受け入れることで、文化相対主義の極端なバージョンではないと主張している。同様に、ヴィディングは、文化を翻訳するプロセスにおける西洋の合理主義者の傾向に対して与えられる特権を批判して、わたしたちのものを含めて、異なった民族認識論の比較に基づくメタ言語を、それに代わるものとして、唱えている。彼らは、相対主義の視点によって生み出される概念の断片に不安を感じて、今日の二元論パラダイムに対する代用品として、別の分析モデルを思い切って構築しようとしている。他方で、支配と保護の対立図式を用いるパルソンは、人間と環境のかかわりを、三種類に区別している(オリエンタリズム、パターナリズムと共同体主義)。それぞれは、環境問題に対して、特有の態度を示している。オリエンタリズムとパターナリズムの両方において、人間は自然の主人であると彼は主張するが、その一方で前者は搾取を、後者は保護する。共同体主義は、それが自然と社会の間および科学と実践的知識の間の急進的技術の拒絶を含む点において、両方のものとは異なる。支配の概念を拒否し、さらには人間と環境の関係の混沌および偶発性を考慮することは、暮らしをなんとかしようとする人間の努力が、無意味である、ポイントがずれているということを意味しない。むしろ、そのことが示しているのは、実践知と民族誌に対して、傲慢な方針をもたずに、感受性をもつことであり、完全なコントロールを確立するというよりは、現在の流れに身を任せようとすることである。

(写真は、サラワクのシレー洞窟に見た木炭壁画の一枚)
 


『ホモ・サピエンスの牢獄』を読んで

2009年06月01日 21時26分58秒 | 文献研究

腰痛の養生のため、今学期はじめて平日自宅にいた。昨日、タイトルに引かれて本屋で買った『ホモ・サピエンスの牢獄~人類の進化を哲学する』(甲田純生、ミネルヴァ書房、2009年)を読んだ。本の最初のほうでは、人類の誕生前夜から、二足歩行や火の使用、埋葬などの人類の進化上の特徴を論じている。二足歩行は、重力への抵抗であり、その後の高層建築へとつうじる歴史の原点であるとの指摘は、スリリングである。さらに、二足歩行によって、男性器は目立つようになり、女性器は隠れるようになったと、著者はいう。つまり、二足歩行によって、「隠す」ことが、意味を持つようになったのである。著者は、「隠す」ことの本質を捉えて、禁止の侵犯というバタイユ的主題へと向かう。火の使用の起源に関しては、バシュラールを援用しつつ、火を起こす摩擦運動とセックスが、ある律動をともなって、人類に快楽を与えるという点で共通することに触れている。その後、著者は、ネアンデルタール人が、埋葬を行っていたという考古学的事実を手がかりとして、彼らの時間構成の能力と夢見の可能性、さらには、「無意識は言語として構造化されている」というラカンに拠りながら、ネアンデルタール人の言語使用の可能性にまで踏み込んでいる。このあたりの思弁は、ひじょうに面白いが、認知考古学、とりわけ、ネアンデルタールをめぐる近年の研究(例えば、ミズンの研究など)を、著者がどのように読み込み、取り入れたのかという点については、大いに疑問が残るところである。著者は、後半部分で、ホモ・サピエンスが、バルトやフーコーを手がかりとして、言語によって、自らをがんじがらめに、金縛りにしてゆくさまへと踏み込んでいる。さらに、知と自由を拡大し、弁証法的な啓蒙を続けてきた人類が行き着いたのが、戦争やテロリズムなどによって、もっとも野蛮な世紀となった20世紀であるという逆説的状況を主題化したアドルノとホルクハイマーに近づきながら、著者は、現代の<マトリックス>という概念で表象される、ヒトに自覚されにくい支配状況へと至り、オウム真理教の権力システムを手短に論評している。この本は、自然から文化への移行という、レヴィ=ストロース的主題を論じているように思えるが、残念ながら、本文中には、レヴィ=ストロースへの論及はない。あとがきには、本文で当然触れられてしかるべきレヴィ=ストロースへの言及が欠けていることと、そのことの理由が手短に述べられている。この本が、物足りないのは、その点にあるのだと言えないだろうか。もっとも、著者も、すでにそのことに気づいているようではあるが。この本が興味深いのは、そういったレヴィ=ストロース的な人類史のテーマに挑戦しているからではないだろうか、とわたしには思える。また、別の点から言えば、この本がユニークなのは、これまで哲学者が取り組まなかった観点から、人類史という土台の上に、人間の思考を哲学するという構えをもつ点にあるのではないかと思う。先史学や人類学の文献の緻密な読解をつうじて、この本に今後、厚みと深みを加えられることを期待したい。総論的に述べれば、人類の誕生から説き起こし、無意識や言語の問題を扱い、現代社会におけるマトリックス的状況へと誘われるうちに、知らず知らずのうちに、哲学の問題系に触れさせられるという、不思議ではあるが、考えさせられる本である。

(サルの丸焼きの頭の部分;プナンのフィールドワークより)