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“塩香”をつくり、愉しむ


下記のように第8回かたち塾を開講します。

講 師――――栃木美保(造形作家・アロマセラピスト)
日 時――――2016年9月18日(日)1:15P.M.~4:30P.M.
会 場――――世田谷区成城学園前(アクセスの詳細はお申込時にお知らせします)
受講料――――3,500円(「かたちの会」サポート会員は3,000円)茶菓子代込 学生2,500円
受講者数―――10名様まで(要予約)

※ 身近な植物の花や葉など香りのあるものを、1~3種類ご持参ください。
※ マイカップをご持参ください。


これまで観る(美術鑑賞)、味わう(料理を愉しむ)、聴く(音のなるもので即興合奏)といった個別の感覚器官にテーマを設定したレクチャーを開催してきましたが、今回は臭覚に焦点をあててアプローチを試みます。

香りのある植物を数種類、塩漬けにすると、長い期間香りを愉しめます。しかも数種類の植物の香りがミックスされますので、他にないあなただけのオリジナルな香りが求められます。


昨年の9月に渋谷の松涛美術館で行われたワークショップに参加して作ったもの。
現在も、蓋を開けると芳しい匂いが立ち上ってきて癒されます。(塾長・笹山)


“塩香作り”のワークショップでは、参加者それぞれに植物の花や葉や実などをご持参いただき、講師 栃木美保さんの指導を受けながら塩漬けしていきます。
作業としては大変簡単なのですが、香りのブレンドをあれこれ思案してみるところに愉しみがあります。
乾燥させた植物は栃木さんが準備してくれます。

ワークショップ終了後は、栃木さんを囲んで、「文化としての香りと匂い」をテーマにフリートークの時間となります。

詳細は当塾のHPでご覧ください。
受講のお申込もHPからできます。


「中野みどりの紬塾ブログ」にも詳細があります。こちらを是非ご覧下さい。

栃木美保さんのプロフィール
1947年 栃木県足利市生れ。69年 共立女子大学造形芸術コース卒業。参加した主なグループ展に「生まれ来るものへのメッ
セージ展」(企画・笹山 1996年 スペースかたち・東京)/アート・キャンプ「木術界」(1999-2008年 栃木県)/「本のかたち」(2009-10年 ギャラリー水土木・東京)/「スサノヲの到来」(足利市立美術館他全国巡回 2014-15年)


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『現代工芸論』を受講した学生のレポートから


拙著『現代工芸論』をテキストにした講義を多摩美術大学で毎年上半期に行ってきましたが、講師の定年規定により、今年が最後の講義となりました。
講義が終了して学生から寄せられた受講レポートには、いつものことながら、興味深いものがありましたので、そのいくつかを抜粋してここにご紹介しておきます。
『現代工芸論』とはいえ、どんなことを書き、どんなことを学生に話してきたか、その一端なりとも触れていただければ幸甚です。

●「工芸とは何か」という問いに対して
 機能とはつまりそのものがどう現実に作用するかを問うことで、それは私が絵画を描く上で絵画の中には現実空間が広がるわけではないですから、だからこそどう現実に影響を及ぼし、関係を結び、現実でその存在意義を確立できるのかという問題と同じものだったように感じます。しかしそれは絵画がそもそもどういうものなのかという問い直しなのでもあり、それは当然ながら条件があります。その条件を今回のように自分なりに再定義してみることはとても重要なことでした。今回の授業を通して得たことを自らの制作にもつなげられるよう努力していこうと思います。 (油画専攻 3年生)

●「工芸と工業の違い――〈手の痕跡〉から」に対して
 (講義資料として配布したプリントに、以下の文があった。)
〈「工芸」のものには手の痕跡が認められるが、工業製品は原理的に不可能。工芸家の中には意図的に手の痕跡を消そうとする人もいるが、これは気質の問題。しかし、手わざを機械の仕事に近づけようとするのは、工芸的価値と工業的価値の区別がつけられていないとしか思えない。〉

 まったくその通りだと思った。そしてまた、私が日常考えていることととても関係した話だと思った。と言うのも、私は、ニュータウンというものに興味があり、それについて思索しながら制作している。(中略)人と、人が作ったものとの関係性を探るべく制作している。要は、工業製品からどうにかして〈手の痕跡〉を探れないかという話である。
(結末に至って)
 いかなる工業製品も、誰かが設計、デザインしたものであって、しかもそれに用途がある以上、作品性を放棄している点以外においては、「工芸」と変わらないと考えるからである。工業製品の表面上には、一切現われることのない〈手の痕跡〉であるが、ものづくりとは何なのか、また、ものとは何なのか、そして、ものを作る私たち人間とは何なのか、という問いに正面から向き合えばこそ、読み取ることができるのではないだろうか。そのことを視覚的に提示するのが、私にとっての美術である。    (彫刻専攻 3年生)

●「用の美」について
 自分の疑問をまとめると、「用」があるから美しいのか、美しいから「用」があるのか、だろう。さらに、「用」の追求の果ての美は「用」と関係ない、役に立たないものの美と共通したものになるのかということだ。そして役に立たない(と見える)ものにもじつは「用」の要素がふくまれていただけなのではと疑っている。現時点においては「用」そのものこそが実は美しさの原点なのでは、という考えに至った。たとえば割れた茶碗の破片なども結局「刺さりそう」という「用」を感じるからかっこいいと感じているのである。それに考えてみれば、宝石だって高価だからあまりそうしないというだけで、日本画では絵の具に使われているし、硬い宝石なら何かを加工する道具として無理やり使おうとすれば使えるだろう。「用」のないものなどやはり無い。とすればやはり生活で役に立たないけど美しいものにも自分が気付いていないだけ、知らないだけで何らかの高い「用」が含まれているのかもしれないと思っておかなければな、と思う。    (日本画専攻 2年生)

●「長く使って愉しめるものであること」に対して〈個〉という概念なしには、現在の経済の発展は説明できない。革命により市民たちが獲得した自由は、国家権力を制限することで、資金を民衆へと流出させた。そのために、資金は流動的になった。流動的になった資金は今や世界中を海流のように巡っている。ただ、思うに限界が近づいてきている。いや、もう限界かもしれない。日本では高齢化が進み、生産力も低下した。みんなは株価が変動するごとに一喜一憂しているが、わかりやすい成長はもう望めないのではないだろうか。
 流れから抜け出す準備を始めるべきだ。時代に翻弄されるのではなく、自ら歩いていけるように。目に見える数字をただ真に受けるのではなく、数年後、数十年後の時分を思い描いてものを選び出せる。それこそ使用価値のあるものを認めることだ。堅牢の美を求めることだろうと考える。民衆はただのうごめく大多数であってはならない。古来より地道な生活をしてきた、地に根を張った存在でいなければならない。
 誰でも知っている小説の中で、とあるキツネが言っていた。
「大切なものは目に見えないんだよ」と。
それは多分、とても身近な、生活に密着したものにも当てはまるのではないかと思う。
                             (油画専攻 2年生)

●「おもてなしは日本文化のエッセンス」に対して
 「取り合わせにはそれを考えた人(亭主)の意図・工夫が託されており、客にはその意図・工夫を読み取る力量が求められる」(『現代工芸論』p.57)
 「おもてなし」は単なるサービスの日本的な心がけを表したものでも、独立した演出行為と鑑賞行為の関係でもない。全体自体が一つの作品として、「そこにある」ものなのだ。
(中略)
循環する〈空間〉をいかに美で満たし、繋げていくか。それが日本の「おもてなし」を支えてきた精神であり、その一部として工芸品は作られ、選ばれ、空間を構成し、時間を超えて存在してきた物なのだと感じた。
 また、この循環の中において流れていくものであるからこそ、「未完成」であっても「もろく壊れるもの」であっても瞬間においては完全な美を構成する一部なのであると納得をした。
                     (グラフィックデザイン専攻 3年生)

●「床の間奪回」に対して
(日本文化のエッセンスとしての取り合わせの美の例として、床の間は一般市民の私にはこれまで縁がなかったが)、しかし講義で床の間のスペースがなくても、心のよりどころとして工芸品を飾るスペースを設けてみるとよいとの話を聞き、それなら自分の家でもできるのではないかと考えた。
今回のレポートでは、もっと工芸品を身近に感じ、日常的に「よいもの」を見極め、そして一息つけるような空間を生み出すミニ床の間を実践した。しかしただの飾り物と区別するため、いくつかの規定を作った。
① 現代工芸論で「いいもの」の条件としてあげられていた
  1.用(はたらき)があること、2.長く使って愉しめるものであること、3.「美しいもの」であること、4.「くつろぎを感じさせるもの」であること
を守ることであること。
② 季節感(テーマ)を感じさせるものであること
を守るようにした。
                              (日本画専攻 2年生)
 (※レポートには、実践例の写真が6枚添付されていました。)

●「ゴミの解消はアートの役割の一つである」に対して
 この言葉は大変印象深く、美術大学で学ぶ者としてその役割を担わねばならないという意識を強く持った。
 日本画を専攻する者としての視点を持ちつつ、「用のないもの」とされたものを「用があるもの」として蘇らせることに挑戦するため「ごみから作った顔料」というテーマを掲げてみた。
(制作過程で出た大理石や御影石の破片、卵の殻からの例のあと)
捨てられていたシャンプーの空容器を拾ったので、こちらでも試してみた。
今までの素材とは違い、力を加えてもなかなか細かい粒状にはならなかったが、金槌で叩くと薄く延びた。
なんとか原型をとどめない程度になるまで叩き続けると、、日本画の粒子の単位では測れないサイズではあるが、画材としては充分に使える大きさとなる。
元のシャンプーの名前から引用し、「エッセンシャルピンク」と命名した。
                            (日本画専攻 2年生)

●「物質の限界を超えていかなければ先に進めない」という命題に対して
 「何か今、あきらかに違う〝モノ″になった」と感じることがある。絵を描いている時にも、立体物を作っている時にも。それは自らの手中でコントロールしているのではなく、別の次元で物質が作用していることがある。濡れた絵の具が乾くときなのか? つなぎ合わさった木と木がなじんだと感じる時か? それらは私が作品を作る時の、目に見えづらく、言葉にし難い神秘だと思っていた。
 しかし『現代工芸論』の最後に、「そのためには物質としての絵の具の動きや変化を注意深く、きめ細かく観察することが不可欠であり、そのような作業が物質の限界を超えていく条件となる」と書いてある。
物質を遊ばせるのではなく、すべてを観察することで、また支持体となる(または、芯となる・核となる)物質の下に、薄くて強固な基盤ができる気がした。
                             (油画専攻 二年生)


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KATACHI-JUKU No.07発行




KATACHI-JUKU No.07を発行しました。
去る6月5日(日)に開催した、第7回かたち塾『曜変天目談義――やきものの根源へ』の報告です。
講師は陶芸家、桶谷寧さん。曜変天目茶碗を再現した人です。会場は町田市の可喜庵。

表紙はいつも、「かたち」をめぐる塾長の文章で飾っているのですが、今回はお休みにして、写真家西川茂さんが撮影した、桶谷さんの曜変天目茶碗の超接画像を誌面いっぱいに掲載しています。
曜変天目というやきものが、通常のやきものとは異なった物性を有していることを証し立てている画像です。

レポート文は、「桶谷語録」でまとめました。曜変天目の物性について、重要な発言を紹介しています(たとえば、共有結合ではなく水素結合がベースであることなど)。
やきものとは何かということについて、「本当のことを知りたい」と思う人には是非読んでいただきたいレポートです。

WEB上でも紹介していますので、ご参照ください。
http://homepage2.nifty.com/katachi/juku-index.html
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第7回かたち塾のお知らせ


             

第7回かたち塾は、曜変天目茶碗を再現した陶芸家・桶谷寧さんをゲストに迎え、下記のように開催します。
                                       
    ※桶谷さんのことは、当ブログのカテゴリー「桶谷寧・曜変天目」
     「桶谷寧・国焼き作品」をご参照ください。

タイトル―――曜変天目談義『やきものの根源、そして「無限」へ』
ゲスト――――桶谷 寧(陶芸家) 
コーディネーター――笹山 央(かたち塾主宰)
日 時――――2016年6月5日(日)15時~17時
会 場――――可喜庵・『中野みどり紬の会』会場内にて

         町田市能ヶ谷3-6-22(最寄駅/小田急線鶴川駅から徒歩8分)
         (アクセスの詳細は受講お申込の際、お知らせします。)
受講料――――3,500円(「かたちの会」サポート会員は3,000円)茶菓子代込
受講者数―――10名様まで(要予約)


桶谷さんは、再現不可能と言われてきた陶磁器史上もっとも神秘的なやきもの曜変天目茶碗を再現した陶芸家です。
やきものの話を経糸に、化学や「無限」の話を緯糸に織り込んでいきます。
やきものの話と「無限」の話がどう繋がっていくか、ご期待ください。


[参考までに、桶谷さんの過去の発言から語録集]
桶谷氏を囲んで話を聴く会はこれまでにも何度か開催しています。その中で、数々のユニークなそして傾聴に値する発言を記録してきました。そのうちのいくつかをここで紹介いたします。

現象を数値化して捉えるということ
やきものという現象は数値化したり数字に置き換えたりすることができないんです。数字を当てにして探ろうとしたり考えようとするのは、もうその時点で駄目だと言えます。私は、数字になったものは見ないということにしてます。

物質はどのように存在しているか
水は水という個体に水という気体が溶けて液体になっているだけで、1気圧の下では水素と酸素がH2Oの形でつながっている物質は存在していません。溶媒と溶質が同じという特殊な在り方をしているのが水ですね。

光を放つ黒
一般的には天目釉というと鉄分の色と思われてますし、実際酸化鉄の色をしています。そういった酸化鉄で出る黒という色は、光を吸収している色です。しかし私の天目の黒はエネルギー(光)を放っている黒なんですね。

色のベースをなす黒と白
自然界の色は黒地ベースです。黒の上に他の色が重なっているんです。白でも黒地に白が重なってます。桃山期の志野なんかもそうです。私のやきものも全部黒地に色が重なってるんですね。天目も井戸も織部も志野もみんなそうです。

自然界には自然数しか存在していない
そもそも自然界には分数だの小数点だの無理数といったものは存在してないでしょう。自然界の現象は自然数だけで説明できるはず。それができないのは、今の科学がまだそのレベルのものでしかないからと私は思ってます。


受講のお申込は当塾のHPでご覧ください。


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第6回かたち塾のお知らせ


下記のように第6回かたち塾を開講します。

テーマ―――『現代工芸論』を読み解く[2]〝いいもの″についての根源的再考
講師――――笹山 央(『現代工芸論』著者 かたち塾主宰)
日時――――2016年5月1日(日)
        2:00P.M.~5:00P.M.(1:45開場)
会場――――和光ポプリホール会議室[小田急線鶴川駅前]
受講料―――3.500円(「かたちの会」サポート会員は3.000円) 学生 2.000円
       (茶菓子代込 )
受講者数――15名様まで(要予約)

※ マイカップをご持参ください。


『現代工芸論』では工芸の役割を「〝いいもの″を作ること」と定義しています。
しかし、そもそも「〝いいもの″とは何か」ということについてはまだ充分には考察していないのです。
今回の当塾では、『現代工芸論』以降の展開として、この問題に取り組んでみたいと思います。

「〝いいもの″とは何か」については、いろいろな考え方があります。
個人差があって一律的に決めることはできないのではないかと考えるのが、一般的であるようです。
ここはしかし、敢えて個人の主観性の限界を超えていくことを試みてみたいと考えています。

手がかりとしては「ものづくりの倫理」という問題があり、倫理的なものと美的なものとが一致する地点を「善き」と定義する、伝統的な考え方も参照しておきましょう。
「ものづくりの倫理」を問うということは、さらにその奥に、倫理」そのものを問うという背景が控えているのです。

「〝いいもの″とは何か」という問題を倫理を絡めて問うていくというところに、「工芸」の存在理由が見い出されるのではないかと、講師は考えています。

詳細は当塾のHPでご覧ください。
受講のお申込もHPからできます。
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KATACHI-JUKU No.05 を発行しました。




KATACHI-JUKU No.05を発行しました。
昨年12月6日(日)に、東京都八王子市高尾の、パーカッショニスト永井朋生さんの音楽スタジオで開催した第5回かたち塾の報告です。タイトルは「音を体験するワークショップ」で、講師は永井さんにお願いしました。
永井さんの演奏を聴き、参加者全員がインタビュアーとなってのインタビューの後、参加者が持ち寄った「音が出るもの」を、ひとつひとつどんな音が出るかを確かめていったあと、全員での即興合奏を楽しみました。
そのドキュメントを報告しています。

WEB上でも紹介していますので、ご参照ください。
http://homepage2.nifty.com/katachi/juku-index.html
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倫・信・品の困難  掲示板「根源へ」について


新年明けましておめでとうございます。

昨年暮れのNHKEテレの番組「100分de名著」は「平和論」をテーマにして、4冊の本を紹介しながら「平和」をどう実現していくかを、4人の識者(斉藤環、高橋源一郎、田中優子、水野和夫)が話してました。
4冊の本というのは、S・フロイト『人間はなぜ戦争をするのか』、ブローデル『地中海』、井原西鶴『日本永代蔵』、ヴォルテール『寛容論』です。
そしてそれぞれの本から平和を実現するための条件が導き出されてきました。それは次の4つの項目です。
1.対話、  2.よりゆっくりと、より近く、より少なく、  3.信用  4.寛容(怨まない)  
要するに、倫理の問題なんですね。倫理をどう立て直していくかということに行き着くのだと思います。

倫理なんていう言葉を出すと胡散臭く感じられるのであまり使いたがらない人も多いかと思います。
私自身は、現代は倫理が成立しなくなったというふうに考えてきたので、倫理ということに正面から向き合うということをして来ませんでした。
「倫理の困難」という位相で今の社会と人間を見ようとしてきたところがあります。

私の考えでは、困難なのは倫理だけではなく、「信」や「品」の成立も困難だと考えてきました。(それは「平和の不困難」につながっています。言い換えれば、「我々はいつでも戦争状態に入れる精神状況を生きている」ということです。)
「倫・信・品」は人間の根源にかかわる問題であることには違いありません。
「倫・信・品の困難」ということは、これらの問題にどうアプローチしていけばいいかについての手がかりがつかめないでいた、ということを意味しています。
しかし、そういうスタンスをいつまでも取り続けるわけにもいかないなということも思わないでもありあません。

一昨年に出版した拙著『現代工芸論』で、「工芸の役割は〈いいもの〉を作ることである」という命題を提示しましたが、実は「〈いいもの〉とは何か」という問題には触れないでいたのです。
この命題は次のように言い換えることができます。
「工芸の役割は“善きもの”と“美しいもの”が一致する事態を作り出すことである。」
ここで“善きもの”という言葉が出てきます。すなわち「倫理」ですね。

私が考える「工芸」あるいは工芸を含めたアートが、今、この時代に立ち向かうべき課題は「倫・信・品の取り戻し」ということではないかという気持ちを、「工芸の役割は〈いいもの〉を作ることである」という命題に込めた、というわけです。

では、どのようにして「倫・信・品」の問題に立ち向かっていくか。
とりあえず「根源へ」と名付けた思考と創作の空間(掲示板)を開設しました。
この掲示板は、『現代工芸論』を共感をもって読んでもらえる人たちに開放しているつもりです。
興味が持てるようでしたら覗いてみてください。
書き込みも自由です。「今、あなたがしていること」の報告を待っています。
それこそが「根源へ」の入口にほかなりません。

「根源へ」掲示板

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第5回かたち塾を開講します


下記のように第5回かたち塾を開講します。

テーマ―――「音」を体験するワークショップ
講師――――永井朋生(パーカッショニスト、作曲家)
日時――――2015年12月6日(日)
          1:00P.M.~5:00P.M.
会場――――永井氏のスタジオ(八王子市 JR中央線高尾駅または京王線高尾駅より
        バス約20分)    
        (お申し込みいただいた方にアクセスの詳細をお知らせします。)
趣向――――参加者全員による即興合奏を目指して、「音づくり」のワークショップを行
         ます。         
         永井氏のソロ演奏、インタビューも含みます。
         ※「音の出るもの」(楽器以外で)をご持参いただければ、一層楽しくなるか
         と思います。           
受講料――――4,500円(「かたちの会」サポート会員は4,000円) 茶菓子代込  
受講者数―――10名様まで(要予約)

       ※ マイカップをご持参ください。

昨年末に永井さんの演奏を聴いて感動し、当塾での「音づくりのワークショップ」を企画しました。
ソロでの即興演奏ですが、リズムの刻み方が確実で、演奏が盛り上がっていきます。
さまざまな「音の出るもの」を用意して、そのものが持っている音の可能性を引き出していくので、とても楽しくもあります。
「波動性」ということを重視しているようで、音と音が共鳴しあったり、干渉しあったりして、重層的な音の空間に浸れます。

その永井さんの即興のインストラクトで、参加者が持ち寄った「音の出るもの」を楽しみつつ、最後は合奏ができるところまでもっていくるといいなと思っています。

[参考サイト]
永井朋生HP http://tomoonagai.com/
(Youtube)https://www.youtube.com/watch?v=sPHFcfSIzsg
(Youtube)https://www.youtube.com/watch?v=Yo441v9q3_o

詳細は当塾のHPで第5回をクリックしてご覧ください。

受講のお申込もHPからできます。


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KATACHI-JUKU No.04を発行しました



KATACHI-JUKU No.04を発行しました。

去る10月10日に、町田市の和光大学ポプリ会館会議室で開催した第4回かたち塾の報告です。

タイトルは「『現代工芸論』を読み解く」で、講師は笹山が務めました。とはいっても、テキストに書いていることをわかりやすく解説するということではなく、むしろ書いていないこととか、書いていることからさらに話を広げていくといった方向で「読み解いて」いきました。

 その際、多摩美術大学での「現代工芸論」の講義を聴講した学生に提出してもらったレポートから、特に「話を発展させていく」方向で書いているものを選んで、それを紹介しながら進めていきました。話題は5題ほどです。以下、それぞれのテーマを列挙しておきます。

一、工芸の役割について――「工芸の仕事は遠い過去と遠い未来を繋ぐことである。」

二、「いいもの」とは何か?

三、「物質の限界を超えていかなければ前に進めない」という命題について

四、用の美について

五.足るを知る――「もの買ってくる、自分買ってくる」(河井寛次郎)





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今秋のお奨め展覧会「スサノヲの到来展ーいのち、いかり、いのり」


渋谷区立松涛美術館で開催されている「スサノヲの到来」という展覧会が面白く感じられたので、ここに報告することにしました。
日本神話に出てくる天照大御神の弟スサノヲの事跡をテーマにして、縄文土器から絵画、彫刻、工芸品、古文書、歌、書蹟、松尾芭蕉、平田篤胤、南方熊楠、田中正造、出口王仁三郎、折口信夫らの関連資料や、近代の美術家の作品、さらには現代造形作家の作品までを展示して、「スサノヲ的なもの」の摘出とその現代的な意義を探り出そうとしています。
「スサノヲ的なもの」とは「“日本的”とはどういうことか」と言い換えてもいいでしょう。

自然・人事にわたって次々と生じてくる現今の異変のさなか、日本列島における「ひとつの原点回帰」を促そうとする意図の下に企画された展覧会です。
この種の展覧会はウルトラナショナルな雰囲気を漂わせる傾向があるとして敬遠する向きもあるかと思いますが、
この企画は決してそういう曰くのあるものではなく、むしろ事態を武力で解決していこうとする為政者の意向に対して、「ことばひいてはうたの力」で「言向け和す」意思と知恵の系譜を浮き立たせていこうとするものです。
今日本が直面しているさまざまな問題、そしてこれから向かうべき方向といった問題に対しての、ことばやうたそして芸の力が秘めている可能性を探っていこうとするものです。

私自身も「かたち」ということばを看板に背負ってる人間として、看過できない内容が含まれています。
「かたちのちは血の気のち」であり「日本的なるもの」の根源的な生命力やエネルギーを象徴するものですが、この「ち」をいかに発現させていくかという問題意識にとっては、示唆されるものがいろいろと提示されていることを感じました。


たとえば、この展覧会でその存在を初めて知った長谷川沼田居(しょうでんきょ 1905-83)という画家の、60歳代の後半から70歳代の晩年の10年間を眼球摘出による全盲状態で描かれた作品がとても印象に残りました。(上の写真は、水墨の作品「日月」)
解説文には「意識光」という表現でこの画家の内的世界が解説されていますが、要するに「精神の内側から発してくる光」のなかで絵を描いたわけです。
その「精神の内なる光」というのがとても興味深く、それは「かたちのち」と深く関連するものであると感じました。

「かたちのち」をいかに発現させていくか、この展覧会により大いに挑発されたように思います。


それから、塩香の作品が出品されている栃木美保さんの、塩香(モイスチュア・ポプリ)を作るワークショップが会期中にあり、これに参加してきました。
塩香は草花の香りを塩の中に詰めて、香り永く愉しもうというオブジェクトです。
日本の伝統文化の中に香道があるように、臭覚をはたらかせる自然観賞も「かたちのち」に由来するものだと思います。
そのように、香りを介して自然のディテールと親密な交感を行っていくことを栃木さんは提唱する創作活動を展開していて、この展覧会にも作品を出品しているわけです。
(上の写真は向かって右が私の塩香。シナモン、ラベンダー、レモン、月桂樹が入ってます。タイトルは「沼田居」とつけました。


展覧会は9月21日まで。
詳細は松濤美術館HPをご覧下さい。




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