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第11回「かたち塾」のお知らせ----「空」の表現について


第11回「かたち塾」のお知らせです。

テーマ――日本のかたちに見る「空」の表現について
日時――2017年4月1日(土)1:30P.M.~4:30P.M.
会場――和光大学ポプリホール鶴川 3F練習室 (小田急線鶴川駅前) 
講師――笹山 央[かたち塾講師]
受講料――3,500円 茶菓子代込   ※要予約


“空(くう)”という言葉を聞くと、多くの人は仏教思想を表す“空”を連想するかと思います。
しかしここでは、抹香くさい話は考えていません。
講師(笹山)自身の体験を基にして、「日本のかたちに見る“空”の表現」へのアプローチを試みてみようと思っています。

出発は、高濱虚子の俳句
   
   花の如く月の如くにもてなさん

です。

それから、こんなことも思っています。
  
  “空”を意識した創作は“空”を実現しない

みなさんのご参加をお待ちしています。


詳細は当塾のHPでご覧ください。
受講のお申込もHPからできます。

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KATACHI-JUKU No.10を発行しました。


KATACHI-JUKU No.10を発行しました。
今年1月28日(土)に開催した、第10回かたち塾『音を体験するワークショップ』の第2回の報告です。

講師は第1回目と同じく、パーカッショニストの永井朋生さんです。
永井さんの自作による、竹筒や備長炭のマリンバのソロ演奏が冒頭にあって、
それから一気に即興合奏に入りました。
参加者が持ち寄った“音の出るもの”をテーブルの上に置き、
各人自由に、しかし他の人が出す音に反応しながら、音を出して、“音楽”を作りました。

演奏ごとに簡単な条件を設定して変化を出していき、全部で10曲ほど(1曲約1分強)できました。
「失敗というのはありませんから」と永井さんは何度か言いましたが、失敗と成功の区別がつけられない、そういう合奏なんですね。

最後は、永井さんが用意してくれていた画像と合わせると、画像の動きと音とが呼応しあうような箇所がところどころあったりして、
“音楽”として聴けるものになっていることが確認されました。
後日、テレビ番組で流れる背景音を聴いていると我々の演奏と似ているものがあったりして、まんざらでもないなと思ったりしました。

今回のKATACHI-JUKUは、参加者の感想・コメントで構成しています。
また、画像と合奏を合わせたものはYou Tubeでご覧になることができます。
とりあえず2本投稿しています。
タイトルは「炭焼き」および「足跡」です。
「炭焼き」の方はマイクの位置が遠かったので、音が小さくしか聞こえません。
ヘッドフォンで聴くことをお奨めします。

KATACHI-JUKU巻頭のコラムは、〈「かたち」を超えて“空”に至る〉というタイトルで書いています。


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第10回「かたち塾」のお知らせ――音を体験するワークショップ[Ⅱ]


下記のように第10回かたち塾を開講します。

テーマ―――「音」を体験するワークショップ[Ⅱ]
講師――――永井朋生(パーカッショニスト、作曲家)
  日時――――2017年1月28日(土)
        1:30P.M.~4:30P.M.(1:15開場)
 会場――――和光大学ポプリホール鶴川 リハーサル室 (小田急線鶴川駅前)        (お申し込みいただいた方にアクセスの詳細をお知らせします。
趣向――――参加者全員による即興合奏を目指して、「音づくり」のワークショップを行います。
       永井氏のソロ演奏、インタビューも含みます。
 ※「音の出るもの」(楽器以外で)をご持参いただければ、一層楽しくなるかと思います。
受講料――――4,500円(「かたちの会」サポート会員は4,000円) 茶菓子代込  
      永井氏の演奏のみ聴かれる方は、2,000円   
※ 要予約(下記「お申込先」まで)
※ マイカップをご持参ください。

一昨年12月に第1回を開催して、参加者から、是非2回目もという要望をいただきましたので、第2回目を開催することにしました。

[前回の報告から](KATACHI-JUKUno.05より)



みなさんが持ち寄った「音の出るもの」は、鳴子のこけし、茶の湯で使う使い袱紗、
ハロゲンヒーターの前面を覆う金属格子、小さな金属製のシリンダー状の箱、
半磁器製のコーヒーカップとソーサなどでした。
(上の画像は、ハロゲンヒーターの金属格子を弦楽器に使う弓で音を出そうとする永井さん)




 さてメインイベントというべき、持ち寄ったもので即興合奏するというステージでは、
まずは持ち寄った「音のでるもの」をひとつひとつ披露していきました。
その際、最初はみなさんに目隠しをしてもらい、音を聴いて音源が何であるかを当てようとしたのですが、
これが思いのほか、精確には言い当てられなくて、目隠しをとって音源を見たときの意外性を通して、
ふだんにはごくありふれたものでしかないものが、新鮮に見えてきたりしたのが感動的でした。
そこには鳴子のこけし、茶の湯で使う使い袱紗、ハロゲンヒーターの前面を覆う金属格子、
小さな金属製のシリンダー状の箱、半磁器製のコーヒーカップとソーサがありました。
即興合奏を始めるにあたって永井さんが言ったことは、
「たとえば2分間演奏するとして、そのうち30秒は演奏しない時間を各自が持つようにする」
ということでした。それでやってみると、その結果は、永井さんの評価では
「音楽になってるよ」というものでした。演奏をデジタルカメラに録音して聴いてみると、
確かに「音楽になってい」て、みんなで聴き入ってしまいました。


永井朋生さんサイト

詳細は当塾のHPでご覧ください。
受講のお申込もHPからできます。

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KATACHI-JUKU No.09を発行しました。





KATACHI-JUKU No.09を発行しました。
去る10月16日(日)に開催した、第9回かたち塾『茶の湯の光と音』の報告です。

会場は、東京都新宿にある茶道稽古場「雪後庵」で、その庵主の渡辺宗牛さんに講師を依頼しました。
渡辺講師の薄茶のお点前を拝見し、そこに発生する音や光の移ろいを体験して、後半は、その体験を共通話題として、「茶の湯の光と音」についてのトーキングセッションが展開されました。

この会で私が特に印象に残ったのは、渡辺講師が目指している茶の湯の方向が、茶聖侘び茶の始祖千利休のそれを髣髴とさせるように感じられた点でした。
新宿という都心に編まれた一軒家の稽古場は、茶の精神を表すという「市中の山居」という言葉を思い出させ手くれました。
また、「明るいところではものが粗相に見える」という言葉(利休の言葉だそうです)は、ある意味、美の核心を衝いているように思えました。
人工照明のない利休の時代(織豊期)でも、光の明暗に繊細な感性を働かせているところは、非常に高度な美意識の在り方を実感しました。
結局、茶の湯の時間に音や光に感覚を研ぎ澄ましていくということは、茶の湯の精神の本質に深く関わっているということを、実感した会でした。

会報では、そのあたりのことを総括的に報告しています。
また寄稿していただいた参加者からのコメントが、より具体的に会の進行の様子を伝えてくれています。

会誌表紙の「かたち」について書いたコラムでは、茶の湯の思想的ベースとしての「〝移ろい“の中に身を置くこと」について書いています。

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第9回かたち塾「茶の湯の中の光と音」のお知らせ

残席1名あります。10/15
下記のように第9回かたち塾を開講します。

テーマ――――茶の湯の中の光と音
講 師――――渡辺宗牛(雪後軒軒主 表千家講師)
日 時――――2016年10月16日(日)13:30~16:30(13:00開場)
会 場――――雪後軒[東京都新宿区戸山1-5-11]
    (最寄駅/都営大江戸線 若松河田駅 メトロ東西線 早稲田駅)
受講料――――6,000円 (薄茶点前、お菓子代等含む)
受講者数―――10名(要予約)  ※茶道の未経験の方も歓迎です。


雪後軒は施主にして軒主である渡辺宗牛さんによって、2014年に都心の新宿に新築された茶室であり、茶の湯の稽古場です。
東京の雑踏の中で、「打ち水のされた門をくぐり、石畳の上を歩き、草木を愛で、玄関の引き戸を開け、ほのかな香を聞き、畳に座り、挨拶を交わし、静かに釜の煮え音を聞き、昼なら時に鳥の声を耳にし、夜なら和の灯りに照らされ、‥‥」を体験できる茶室を是非実現したいという渡辺さんの思いが込められた、和の建築です。

その稽古場を会場として、自然光の中の薄茶のお点前を拝見し、
またお点前の進行の中で生じてくる音に気を澄ませることを通して、
茶の湯の真髄へのアプローチを試みたいと思います。

光と音に焦点を当てるという趣向にしたのは、
ひとつには当塾のライトモチーフが五感を通して「かたち」を探求していくということがあり、
もうひとつは、宗牛さんの求める茶の中に、光や音に意識を注いでいこうという考え方にあります。
茶の湯の中の光と音というと、点前における付随的な現象と考えられるかもしれませんが、
実はそうでもなく、現代の茶の湯の在り様に深く関係しているように思われます。

現代の特徴は、光で言えば人工の明かりであり、音で言えば雑踏から絶えず流れてくるノイズということになるでしょうか。
そのような環境の中で、ナチュラルな光と音を感じとり、あるいは求めていくということは、
現代という時代性の中での茶の湯の在り様をどう求めていくかということにかかわってくるかと思います。

「茶の湯文化の真髄」という言い方はいささかおこがましくはあるかと思いますが、
上記の考え方をベースとすることで、
せめてそこへのアプローチの手がかりに、触れることはできるのではないでしょうか。

雪後軒HP

茶席が初めての方も男性も、趣旨にご興味をもたれる方はぜひご参会下さい。
特別な時間を過ごしましょう。

詳細は当塾のHPでご覧ください。
受講のお申込もHPからできます。

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“塩香”をつくり、愉しむ(続)――“香り”の日本的造形


栃木美保さんはアロマセラピストの資格を持っていて、造形表現の中に“香り”を取り入れることを試みたりしています。
造形表現にとって“香り”がどういう意味なり役割を果たしうるかということは、なかなか難しい問題ですが、
たとえば「スサノヲの到来」という美術展では、麻布を裂いて紐状にしたものを天井から垂らして結界を作り、中心に、四季の草花や種子、葉などを小さな瓶の中に塩漬けしたものを据えたインスタレーション風の作品を発表していました。

「スサノヲの到来」は2014年秋から2015年夏にかけて東日本の5軒の公私立美術館を巡回して開催された展覧会ですが、
西洋的な造形論理を逸脱していわば純日本的な造形論理を求めていこうとすることを趣旨とした展覧会でした。
“香り”という感覚的な素材を造形表現の中に取り込んでいくことは、「純日本的な造形論理」を見出していく作業に通じるものがあるということかもしれないと、「スサノヲの到来」展の栃木さんの出品作を見て思ったりしました。

ところで、日本の古典文学のある研究者によると、草花の香りに対して日本人の感性が細やかにはたらきはじめるのは、平安時代に入ってからで、
万葉の時代に詠まれた歌には、草花の香りに寄せる趣向のものはあまりないそうです。
『古今集』をひもとくと梅の花や女郎花(おみなえし)や菊など、草花の香りに寄せた歌を散見することができます。
それらの歌を詠んでいくと、“香り”という感覚的な素材を純日本的な造形論理というものがどういう姿において立ち現れてくるかということが、そこはかとなく感じとられるような気がしてこないでもありません。

次回かたち塾では、「古今集」に収められた和歌から、草花の香りを詠ったものを蒐めて、参考資料としてお渡ししたいと思っています。

申し込み詳細は前記事をご覧ください。
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“塩香”をつくり、愉しむ


下記のように第8回かたち塾を開講します。

講 師――――栃木美保(造形作家・アロマセラピスト)
日 時――――2016年9月18日(日)1:15P.M.~4:30P.M.
会 場――――世田谷区成城学園前(アクセスの詳細はお申込時にお知らせします)
受講料――――3,500円(「かたちの会」サポート会員は3,000円)茶菓子代込 学生2,500円
受講者数―――10名様まで(要予約)

※ 身近な植物の花や葉など香りのあるものを、1~3種類ご持参ください。
※ マイカップをご持参ください。


これまで観る(美術鑑賞)、味わう(料理を愉しむ)、聴く(音のなるもので即興合奏)といった個別の感覚器官にテーマを設定したレクチャーを開催してきましたが、今回は臭覚に焦点をあててアプローチを試みます。

香りのある植物を数種類、塩漬けにすると、長い期間香りを愉しめます。しかも数種類の植物の香りがミックスされますので、他にないあなただけのオリジナルな香りが求められます。


昨年の9月に渋谷の松涛美術館で行われたワークショップに参加して作ったもの。
現在も、蓋を開けると芳しい匂いが立ち上ってきて癒されます。(塾長・笹山)


“塩香作り”のワークショップでは、参加者それぞれに植物の花や葉や実などをご持参いただき、講師 栃木美保さんの指導を受けながら塩漬けしていきます。
作業としては大変簡単なのですが、香りのブレンドをあれこれ思案してみるところに愉しみがあります。
乾燥させた植物は栃木さんが準備してくれます。

ワークショップ終了後は、栃木さんを囲んで、「文化としての香りと匂い」をテーマにフリートークの時間となります。

詳細は当塾のHPでご覧ください。
受講のお申込もHPからできます。


「中野みどりの紬塾ブログ」にも詳細がありますこちらを是非ご覧下さい。

栃木美保さんのプロフィール
1947年 栃木県足利市生れ。69年 共立女子大学造形芸術コース卒業。参加した主なグループ展に「生まれ来るものへのメッ
セージ展」(企画・笹山 1996年 スペースかたち・東京)/アート・キャンプ「木術界」(1999-2008年 栃木県)/「本のかたち」(2009-10年 ギャラリー水土木・東京)/「スサノヲの到来」(足利市立美術館他全国巡回 2014-15年)


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『現代工芸論』を受講した学生のレポートから


拙著『現代工芸論』をテキストにした講義を多摩美術大学で毎年上半期に行ってきましたが、講師の定年規定により、今年が最後の講義となりました。
講義が終了して学生から寄せられた受講レポートには、いつものことながら、興味深いものがありましたので、そのいくつかを抜粋してここにご紹介しておきます。
『現代工芸論』とはいえ、どんなことを書き、どんなことを学生に話してきたか、その一端なりとも触れていただければ幸甚です。

●「工芸とは何か」という問いに対して
 機能とはつまりそのものがどう現実に作用するかを問うことで、それは私が絵画を描く上で絵画の中には現実空間が広がるわけではないですから、だからこそどう現実に影響を及ぼし、関係を結び、現実でその存在意義を確立できるのかという問題と同じものだったように感じます。しかしそれは絵画がそもそもどういうものなのかという問い直しなのでもあり、それは当然ながら条件があります。その条件を今回のように自分なりに再定義してみることはとても重要なことでした。今回の授業を通して得たことを自らの制作にもつなげられるよう努力していこうと思います。 (油画専攻 3年生)

●「工芸と工業の違い――〈手の痕跡〉から」に対して
 (講義資料として配布したプリントに、以下の文があった。)
〈「工芸」のものには手の痕跡が認められるが、工業製品は原理的に不可能。工芸家の中には意図的に手の痕跡を消そうとする人もいるが、これは気質の問題。しかし、手わざを機械の仕事に近づけようとするのは、工芸的価値と工業的価値の区別がつけられていないとしか思えない。〉

 まったくその通りだと思った。そしてまた、私が日常考えていることととても関係した話だと思った。と言うのも、私は、ニュータウンというものに興味があり、それについて思索しながら制作している。(中略)人と、人が作ったものとの関係性を探るべく制作している。要は、工業製品からどうにかして〈手の痕跡〉を探れないかという話である。
(結末に至って)
 いかなる工業製品も、誰かが設計、デザインしたものであって、しかもそれに用途がある以上、作品性を放棄している点以外においては、「工芸」と変わらないと考えるからである。工業製品の表面上には、一切現われることのない〈手の痕跡〉であるが、ものづくりとは何なのか、また、ものとは何なのか、そして、ものを作る私たち人間とは何なのか、という問いに正面から向き合えばこそ、読み取ることができるのではないだろうか。そのことを視覚的に提示するのが、私にとっての美術である。    (彫刻専攻 3年生)

●「用の美」について
 自分の疑問をまとめると、「用」があるから美しいのか、美しいから「用」があるのか、だろう。さらに、「用」の追求の果ての美は「用」と関係ない、役に立たないものの美と共通したものになるのかということだ。そして役に立たない(と見える)ものにもじつは「用」の要素がふくまれていただけなのではと疑っている。現時点においては「用」そのものこそが実は美しさの原点なのでは、という考えに至った。たとえば割れた茶碗の破片なども結局「刺さりそう」という「用」を感じるからかっこいいと感じているのである。それに考えてみれば、宝石だって高価だからあまりそうしないというだけで、日本画では絵の具に使われているし、硬い宝石なら何かを加工する道具として無理やり使おうとすれば使えるだろう。「用」のないものなどやはり無い。とすればやはり生活で役に立たないけど美しいものにも自分が気付いていないだけ、知らないだけで何らかの高い「用」が含まれているのかもしれないと思っておかなければな、と思う。    (日本画専攻 2年生)

●「長く使って愉しめるものであること」に対して〈個〉という概念なしには、現在の経済の発展は説明できない。革命により市民たちが獲得した自由は、国家権力を制限することで、資金を民衆へと流出させた。そのために、資金は流動的になった。流動的になった資金は今や世界中を海流のように巡っている。ただ、思うに限界が近づいてきている。いや、もう限界かもしれない。日本では高齢化が進み、生産力も低下した。みんなは株価が変動するごとに一喜一憂しているが、わかりやすい成長はもう望めないのではないだろうか。
 流れから抜け出す準備を始めるべきだ。時代に翻弄されるのではなく、自ら歩いていけるように。目に見える数字をただ真に受けるのではなく、数年後、数十年後の時分を思い描いてものを選び出せる。それこそ使用価値のあるものを認めることだ。堅牢の美を求めることだろうと考える。民衆はただのうごめく大多数であってはならない。古来より地道な生活をしてきた、地に根を張った存在でいなければならない。
 誰でも知っている小説の中で、とあるキツネが言っていた。
「大切なものは目に見えないんだよ」と。
それは多分、とても身近な、生活に密着したものにも当てはまるのではないかと思う。
                             (油画専攻 2年生)

●「おもてなしは日本文化のエッセンス」に対して
 「取り合わせにはそれを考えた人(亭主)の意図・工夫が託されており、客にはその意図・工夫を読み取る力量が求められる」(『現代工芸論』p.57)
 「おもてなし」は単なるサービスの日本的な心がけを表したものでも、独立した演出行為と鑑賞行為の関係でもない。全体自体が一つの作品として、「そこにある」ものなのだ。
(中略)
循環する〈空間〉をいかに美で満たし、繋げていくか。それが日本の「おもてなし」を支えてきた精神であり、その一部として工芸品は作られ、選ばれ、空間を構成し、時間を超えて存在してきた物なのだと感じた。
 また、この循環の中において流れていくものであるからこそ、「未完成」であっても「もろく壊れるもの」であっても瞬間においては完全な美を構成する一部なのであると納得をした。
                     (グラフィックデザイン専攻 3年生)

●「床の間奪回」に対して
(日本文化のエッセンスとしての取り合わせの美の例として、床の間は一般市民の私にはこれまで縁がなかったが)、しかし講義で床の間のスペースがなくても、心のよりどころとして工芸品を飾るスペースを設けてみるとよいとの話を聞き、それなら自分の家でもできるのではないかと考えた。
今回のレポートでは、もっと工芸品を身近に感じ、日常的に「よいもの」を見極め、そして一息つけるような空間を生み出すミニ床の間を実践した。しかしただの飾り物と区別するため、いくつかの規定を作った。
① 現代工芸論で「いいもの」の条件としてあげられていた
  1.用(はたらき)があること、2.長く使って愉しめるものであること、3.「美しいもの」であること、4.「くつろぎを感じさせるもの」であること
を守ることであること。
② 季節感(テーマ)を感じさせるものであること
を守るようにした。
                              (日本画専攻 2年生)
 (※レポートには、実践例の写真が6枚添付されていました。)

●「ゴミの解消はアートの役割の一つである」に対して
 この言葉は大変印象深く、美術大学で学ぶ者としてその役割を担わねばならないという意識を強く持った。
 日本画を専攻する者としての視点を持ちつつ、「用のないもの」とされたものを「用があるもの」として蘇らせることに挑戦するため「ごみから作った顔料」というテーマを掲げてみた。
(制作過程で出た大理石や御影石の破片、卵の殻からの例のあと)
捨てられていたシャンプーの空容器を拾ったので、こちらでも試してみた。
今までの素材とは違い、力を加えてもなかなか細かい粒状にはならなかったが、金槌で叩くと薄く延びた。
なんとか原型をとどめない程度になるまで叩き続けると、、日本画の粒子の単位では測れないサイズではあるが、画材としては充分に使える大きさとなる。
元のシャンプーの名前から引用し、「エッセンシャルピンク」と命名した。
                            (日本画専攻 2年生)

●「物質の限界を超えていかなければ先に進めない」という命題に対して
 「何か今、あきらかに違う〝モノ″になった」と感じることがある。絵を描いている時にも、立体物を作っている時にも。それは自らの手中でコントロールしているのではなく、別の次元で物質が作用していることがある。濡れた絵の具が乾くときなのか? つなぎ合わさった木と木がなじんだと感じる時か? それらは私が作品を作る時の、目に見えづらく、言葉にし難い神秘だと思っていた。
 しかし『現代工芸論』の最後に、「そのためには物質としての絵の具の動きや変化を注意深く、きめ細かく観察することが不可欠であり、そのような作業が物質の限界を超えていく条件となる」と書いてある。
物質を遊ばせるのではなく、すべてを観察することで、また支持体となる(または、芯となる・核となる)物質の下に、薄くて強固な基盤ができる気がした。
                             (油画専攻 二年生)


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KATACHI-JUKU No.07発行




KATACHI-JUKU No.07を発行しました。
去る6月5日(日)に開催した、第7回かたち塾『曜変天目談義――やきものの根源へ』の報告です。
講師は陶芸家、桶谷寧さん。曜変天目茶碗を再現した人です。会場は町田市の可喜庵。

表紙はいつも、「かたち」をめぐる塾長の文章で飾っているのですが、今回はお休みにして、写真家西川茂さんが撮影した、桶谷さんの曜変天目茶碗の超接画像を誌面いっぱいに掲載しています。
曜変天目というやきものが、通常のやきものとは異なった物性を有していることを証し立てている画像です。

レポート文は、「桶谷語録」でまとめました。曜変天目の物性について、重要な発言を紹介しています(たとえば、共有結合ではなく水素結合がベースであることなど)。
やきものとは何かということについて、「本当のことを知りたい」と思う人には是非読んでいただきたいレポートです。

WEB上でも紹介していますので、ご参照ください。
http://homepage2.nifty.com/katachi/juku-index.html
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第7回かたち塾のお知らせ


             

第7回かたち塾は、曜変天目茶碗を再現した陶芸家・桶谷寧さんをゲストに迎え、下記のように開催します。
                                       
    ※桶谷さんのことは、当ブログのカテゴリー「桶谷寧・曜変天目」
     「桶谷寧・国焼き作品」をご参照ください。

タイトル―――曜変天目談義『やきものの根源、そして「無限」へ』
ゲスト――――桶谷 寧(陶芸家) 
コーディネーター――笹山 央(かたち塾主宰)
日 時――――2016年6月5日(日)15時~17時
会 場――――可喜庵・『中野みどり紬の会』会場内にて

         町田市能ヶ谷3-6-22(最寄駅/小田急線鶴川駅から徒歩8分)
         (アクセスの詳細は受講お申込の際、お知らせします。)
受講料――――3,500円(「かたちの会」サポート会員は3,000円)茶菓子代込
受講者数―――10名様まで(要予約)


桶谷さんは、再現不可能と言われてきた陶磁器史上もっとも神秘的なやきもの曜変天目茶碗を再現した陶芸家です。
やきものの話を経糸に、化学や「無限」の話を緯糸に織り込んでいきます。
やきものの話と「無限」の話がどう繋がっていくか、ご期待ください。


[参考までに、桶谷さんの過去の発言から語録集]
桶谷氏を囲んで話を聴く会はこれまでにも何度か開催しています。その中で、数々のユニークなそして傾聴に値する発言を記録してきました。そのうちのいくつかをここで紹介いたします。

現象を数値化して捉えるということ
やきものという現象は数値化したり数字に置き換えたりすることができないんです。数字を当てにして探ろうとしたり考えようとするのは、もうその時点で駄目だと言えます。私は、数字になったものは見ないということにしてます。

物質はどのように存在しているか
水は水という個体に水という気体が溶けて液体になっているだけで、1気圧の下では水素と酸素がH2Oの形でつながっている物質は存在していません。溶媒と溶質が同じという特殊な在り方をしているのが水ですね。

光を放つ黒
一般的には天目釉というと鉄分の色と思われてますし、実際酸化鉄の色をしています。そういった酸化鉄で出る黒という色は、光を吸収している色です。しかし私の天目の黒はエネルギー(光)を放っている黒なんですね。

色のベースをなす黒と白
自然界の色は黒地ベースです。黒の上に他の色が重なっているんです。白でも黒地に白が重なってます。桃山期の志野なんかもそうです。私のやきものも全部黒地に色が重なってるんですね。天目も井戸も織部も志野もみんなそうです。

自然界には自然数しか存在していない
そもそも自然界には分数だの小数点だの無理数といったものは存在してないでしょう。自然界の現象は自然数だけで説明できるはず。それができないのは、今の科学がまだそのレベルのものでしかないからと私は思ってます。


受講のお申込は当塾のHPでご覧ください。


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