かたち21のHP
先月の瑞玉さんでの「わん一式」展では、会期中、来場された方々に
玄米粥を撥高台型飯碗に盛ってふるまったところ、これが大変好評でした。
毎日約20食分ほどでしたが、食した人で「おいしい」と言わなかった人はいなかった
というのは、大げさではなく厳然たる事実です。
おかかちりめんをトッピングして。飯碗は森野清和作の撥高台型。
うえやまともこ作の木のスプーンもとても好評でした。
このお粥は料理研究家の辰巳芳子さんによる玄米スープのレシピに基づいたもので、
水の量を減らして、備前焼の陶芸家の制作による土鍋で炊きました。
ポイントは玄米を30分ほど炒るあたりにあって、
そのために香ばしくて心身を癒すような味覚が口中に広がるのです。
炒った玄米の香りが会場全体に香ばしく立ち込めました。土鍋は備前の星正幸作。
さて、食した人の多くがこのお粥の作り方を尋ねられたので、お答えすると、
だれもが「やっぱり、手間がかけられてますね」と言うのです。
特に、玄米を30分ほどつきっきりで炒るというのが、
「手間がかかっている」という印象になるようです。
しかし私自身は、30分という時間はそれほど長い時間とは思えないので、
手間をかけているというふうにも思えず、いたって簡単にできるもんだなと思っていました。
30分という時間は、テレビを見たり、音楽を聴いたり、
ゲームに興じたりしているとあっという間に過ぎる時間です。
だからそういう時間の長さと思って玄米炒りに取り組めば、なんということもありません。
あるいは、なにもつきっきりで炒ることもないわけで、
音楽を聴きながらとか、雑誌に目を通しながらとか、
別な料理を作りながらとかでも炒ることはできます。
(途中で一旦止めることもできます。)
だからたいそうなことではないのです。
とはいえ辰巳さんは、丁寧に気持ちを込めて炒ることが大切と言っているので、
つきっきりで炒るのがベストであることはいうまでもありません。
玄米を炒ることに専念する30分という時間とは、どういう時間でしょうか。
多くの人々が、そういう時間がなかなかとれないと言い、現代人の多忙さを言い募ります。
あるいは、ただ玄米を炒るだけの30分という時間が、
もったいないという受け止め方もあるようです。
しかし玄米を炒ることによって、いわば「シンプルだけど贅沢」な食事を摂ることができ、
それが心身の養生と育成に貢献するのであるから、
これは実はとても重要な営為と考えるべきではないでしょうか。
食料を得るために動き、動くエネルギーを得るために食料を摂取する、
これが生き物の「生きる姿」の基本です。
この意味で、玄米を炒るという行為に象徴されるような調理の下ごしらえの時間を
おろそかにせず、むしろ大切な、そして贅沢な時間と考えたいものです。
香ばしい香りが部屋じゅうに立ち込めます。
お試しください。
先月の瑞玉さんでの「わん一式」展では、会期中、来場された方々に
玄米粥を撥高台型飯碗に盛ってふるまったところ、これが大変好評でした。
毎日約20食分ほどでしたが、食した人で「おいしい」と言わなかった人はいなかった
というのは、大げさではなく厳然たる事実です。
おかかちりめんをトッピングして。飯碗は森野清和作の撥高台型。
うえやまともこ作の木のスプーンもとても好評でした。
このお粥は料理研究家の辰巳芳子さんによる玄米スープのレシピに基づいたもので、
水の量を減らして、備前焼の陶芸家の制作による土鍋で炊きました。
ポイントは玄米を30分ほど炒るあたりにあって、
そのために香ばしくて心身を癒すような味覚が口中に広がるのです。
炒った玄米の香りが会場全体に香ばしく立ち込めました。土鍋は備前の星正幸作。
さて、食した人の多くがこのお粥の作り方を尋ねられたので、お答えすると、
だれもが「やっぱり、手間がかけられてますね」と言うのです。
特に、玄米を30分ほどつきっきりで炒るというのが、
「手間がかかっている」という印象になるようです。
しかし私自身は、30分という時間はそれほど長い時間とは思えないので、
手間をかけているというふうにも思えず、いたって簡単にできるもんだなと思っていました。
30分という時間は、テレビを見たり、音楽を聴いたり、
ゲームに興じたりしているとあっという間に過ぎる時間です。
だからそういう時間の長さと思って玄米炒りに取り組めば、なんということもありません。
あるいは、なにもつきっきりで炒ることもないわけで、
音楽を聴きながらとか、雑誌に目を通しながらとか、
別な料理を作りながらとかでも炒ることはできます。
(途中で一旦止めることもできます。)
だからたいそうなことではないのです。
とはいえ辰巳さんは、丁寧に気持ちを込めて炒ることが大切と言っているので、
つきっきりで炒るのがベストであることはいうまでもありません。
玄米を炒ることに専念する30分という時間とは、どういう時間でしょうか。
多くの人々が、そういう時間がなかなかとれないと言い、現代人の多忙さを言い募ります。
あるいは、ただ玄米を炒るだけの30分という時間が、
もったいないという受け止め方もあるようです。
しかし玄米を炒ることによって、いわば「シンプルだけど贅沢」な食事を摂ることができ、
それが心身の養生と育成に貢献するのであるから、
これは実はとても重要な営為と考えるべきではないでしょうか。
食料を得るために動き、動くエネルギーを得るために食料を摂取する、
これが生き物の「生きる姿」の基本です。
この意味で、玄米を炒るという行為に象徴されるような調理の下ごしらえの時間を
おろそかにせず、むしろ大切な、そして贅沢な時間と考えたいものです。
香ばしい香りが部屋じゅうに立ち込めます。
お試しください。