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チェルノブイリの子供たち(一部改訂版)
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- サーシャ と アレクセイ の場合 -
実に長い間ブログの更新を怠ったものだ。その間、あちらこちらと移動して歩いたり、パソコンが重い症状でドックに入院したりのせいもあったが、実のところ、津波と原発事故のショックから立ち直れないでいたのが主な理由だった。
さて、今回は 「サーシャとアレクセイの場合」 という副題で始めたいと思います。
チェルノブイリの原子炉を覆う「石棺」は耐用年数(30年)に近づき老朽化対策が急務だ。
福島の事故原発も、メルトダウンした核燃料を取り除き石棺に葬った後も、永久に封じ込めておくことはできないだろう。
今後、何十年も、いや何百年も、更なる新たな対応を必要とするとんでもない金食い虫だ。
この負の遺産を半永久的に担い続けるのは私たちの子孫ではないか。
福島の事故対策費だけでも、それを日本全国の原発がこれまでに生み出した電力の料金に上乗せしたら、
水力、火力や再生エネルギーに到底太刀打ちできない恐ろしく高価な電気代になるはずではないか。
使用済み核燃料の処理費、廃炉の高放射性廃棄物の処理費・・・・
原発は愚かな高価な選択だったと思う。
それなのに財界や政治家がまだやめようとしないのはなぜか・・・・?
私がリーマンなどの国際金融業を去って、カトリックの神父を目指して中年の神学生としてローマに着いたのは1989年の秋のことだった。
着いて間なしの11月10日にベルリンの壁が崩壊したのだったが、その出来事は、かつてドイツのコメルツバンクで修業をした私に深い印象を残した。
翌90年、私はローマの中心にあるナティビタ(主のご降誕)教会の共同体に属することになり、神学校から出向いて週に2~3度はミサなどの祭儀を共にすることになった。
その共同体の責任者は、マルチェロとジョバンナと言う夫婦で、実子のアレッサンドロとチリから養女に迎えた色の浅黒いジョアンナのほかに、しばしばサーシャとアレクセイと言う幼い色白の男の子を連れていた。
ジョバンナ 今は未亡人 チェルノブイリの子供たち サーシャ と アレクセイ のローマのお母さん
この小さな二人の子供たちは、ロシアのウクライナ生まれで、チェルノブイリの事故の放射能から護るために、いわば里子のようにして引き取られてきたのであった。
イタリアでは当時、たくさんのチェルノブイリの子供たちが引き取られていた。学齢期に達する前の子供たちはもとより、小学校の学齢に達した子供たちにはせめて夏休み前後の3カ月だけでも、放射能の恐怖から逃れて太陽の降り注ぐイタリアで過ごす幸せを贈ろうとういう試みだった。
イタリア人の里親たちは、子供を家族の一員として迎え入れるために遠くウクライナの地まで迎えに行き、すでに学齢期に達している子供たちについては、休みが終わったらまた飛行機に乗せて実の親の家に送り届けるのだが、それに対してソ連の政府からも、イタリアの政府からも、教会の組織からも、何も補助が出るわけではなかった。異国の見ず知らずの子供たちを、身銭を切って放射能の脅威から護ろうという彼らの無償の愛に、私は強く心を打たれた。
無論、これはイタリア社会においても決して当たり前のことではなかった。カトリック教会の中でもキリストの福音を真剣に生き、自らの回心の道を忠実に歩もうとする意識の高いグループの中でこそ、初めて可能なことではないかと思った。彼らは、こうして黙々と自らの信仰の証しをしようとしているのだった。
チェルノブイリでは、今から25年前の1986年4月26日に、3月11日の福島第一発電所の事故と同じ、深刻な原発の爆発事故が起きた。これらの事故は、いずれも国際原子力事象評価尺度(INES)によれば、「最悪の事態」を意味するレベル7に分類される。
サーシャとアレクセイは当時まだほんの幼い子供たちで、イタリア語がほとんど分からず、共同体のミサの時もジョバンナのスカートの陰にはにかんで隠れたいたものだった。それが、時間とともにイタリア人の子供たちの中に少しずつ溶け込んでいくのであった。
そのアレクセイもサーシャも、すでに30歳前後の大人に育った。その間にジョバンナの夫のマルチェロは膵臓癌で他界した。サーシャたちは、久しく未亡人に会いにくることもなくなったが、クリスマスカードや誕生祝いなどを通じて、彼女との絆は今も保たれている。
若い彼らには信仰がない。生きるために必死だ。彼女は、彼らの金銭的な無心にお人好にも今も応じているらしい。彼女はたとえ騙されても、決して意に介する気配がない。私はそこに、自分などとても真似のできない信仰の鏡を見る思いがする。
ジョバンナは実子のアレッサンドロの他、チリから養女に迎えたジョアンナ、そしてウクライナの二人の子を育てた。
みんな巣立っていった。彼女は今若い未亡人として孤独と向き合っている。
ジョバンナの足元のミニマーガレット
ところで、豊かになり、極端に個人主義的になった日本の社会においては、―あえて外国人の子とは言わずとも―もっと身近に、福島の原発事故で放射能の危険に晒されている日本人の子供を、無差別に自分の家に迎え入れ、里子として住まわせ、食べさせ、学校に通わせるほどの奇特な日本人がどれだけいるだろうか、と思った。
節約して少しでも多くの義捐金を被災者へ届けようと思う人や、自由になる時間を割いてボランティアー活動に汗を流そうとする人は多くいても、一旦関わったら長期にわたることを覚悟の上で、自分の家を開放し、親類でも縁者でもない他人の子供たちを、恐ろしい放射能の被害から守るために、身銭を切って迎え入れたと言う奇特な話をテレビが紹介するのをまだ見たことがない。つまり、何の見返りも期待しないそのような無償の愛の実践例を、日本のメディアはまだ一件も発見していないということらしい。
そんな時、普段はまったく筆不精の一人の友人、福島県出身でローマ在住の女性から、一通のメールをもらった。内容はおよそ次の通りだった:
何時も、神父様のブログを楽しみに拝見しております。相変わらずお忙しそうですね。
神父様が日本に帰国なさる頃、私の所属しているJASGA(日本語ガイド協会)で収集された寄付金が、宮城の病院2箇所と放置された犬猫を保護している協会に直接義援金として贈られました。
残りのお金は、放射能で苦しんでいる福島県の伊達市の福祉施設に贈られました。
実は、カルラという女性が、こちらの大学で講師をしています。
彼女は、日本と日本文化に興味のあるイタリア人の若者達に、原発で苦しむ福島県人の叫び声に耳を傾けて欲しいというメールを度々送っておりました。
ところで、JASGAの幹部でもある彼女が、突然私にJASGAの集会で福島原発被害の声の話をする機会を設けて下さったのです。しかも、考えてもいなかったことですが、残りの義援金も預かってしまった次第です。
宮城県は、日本中と世界中の協力も得て、並大抵ではない努力をしながら、復興に励んでいるかと思っております。
しかし、福島県の場合は、6ヵ月後の今も尚、放射能問題で喘いでおります。
神父様、NHKふくしまの「ふるさとニュース」(毎夜6時45分から放映される)―「はまなかあいずTODAY」とも言う(ヤフージャパンからも見ることが出来ます)―、を是非見ていただけませんでしょうか。
最近は、放射能に対して人体実験をされているような錯覚を覚え、毎日見る度に、悲しく腹がたちます。
伊達市に住む親戚は、子供が可哀想と言いながら・・・半分笑いながら・・・ 開き直って、「今日も放射能を食べましょうか」と言って食卓につくそうです。
放射能と向き合って前向きに生きる・・・と言っていましたが、果たしてそうでしょうか・・・。
校庭や、(個人の場合はお金をかけて)自宅の屋根の除染が進められているそうですが、その水は一体何処にいくのですか・・・?
「ENIT」イタリア政府観光局の企画について報告します。
福島の原発20キロ圏内から避難を余儀なくされている小さな子を持つ母子を対象に、イタリアへの招待が実施されました。
体内的にも精神的にも、少しでも放射能の苦しみから救う事が目的です。
母子たちの希望により、出発日、滞在期間、受け入れホテル、帰国日などが全部まちまちです。長い方は3か月間で、9月27日までいらっしゃいます。私はこの方々を空港にお迎えするのと、滞在中のケアの全部を引き受けております。
最初の到着組は空港での報道陣の取材があったり、遠方の別々の2箇所のホテルにチエックインしたりで大変でした。
空港出迎えの日と、店の定休日には父を他の人に預けて行きました。(注:彼女の父親は福島で親戚の世話になっていたが、原発事故を機会に、ローマにいる娘の彼女がしばらく日本から父親を引き取る決意をしたのだった。)
ボランテイアで市内のホテルに日本からの母子を訪問したり、観光に連れ出す時は、初めのうちは毎日車椅子の父を連れて、後には歩けるようになった父とともに、とても楽しい時間をすごしました。
博物館、市内観光、お握り持って動物園、ボルゲーゼ公園で6人乗り自転車、ミニ電車・・・ああ忙しい・・・沢山笑いました。
私の知り合いで、同じ年頃の小さい子を持つイタリア人の田舎の家で、プールに入ったりパーテイしたり。
それ以外にも、JASGA のスタッフに洗濯物を洗って届けて貰ったり、別荘に招待されたり、食事に招待されたり、毎週の様に海に招かれたり(福島は、プールも海も駄目)と、多くのJASGAの同僚の暖かい協力を得て、夢の様な楽しい思い出を沢山心に抱いて現実の日本に帰って行かれました。避難所を転々とするジプシーの生活の厳しい現実に戻るために・・・。
話はまだまだ、終わりません。
このお母様方の中には、若い頃に生んだ長男や、御主人様を事故当時から、第一原発の中に閉じ込めたまま・・・避難されている方も多くいらして、涙ながらに話していました。この様に、生き残った家族もばらばらです。
しかし、その方々は、それが周囲に知れると子供が避難先の学校で苛めに遭うと心配されて、日本向けの報道の取材を拒否されていました。被害者が加害者扱いだそうです。
3カ月滞在の母は、出発の前日まで養豚所で働いていたそうです。水も、餌も放射能で汚染されている為に、満足に餌を与えられない豚同士が、醜い殺し合いを始めるのが見るに耐えなかったと苦しげに話しました。来る前日に、会社は400頭の豚を全部殺したそうです。
家ばかりでは無く、会社が閉鎖され職も失ったそうです。あるのは、避難所で頂いた服と靴だけ。4歳の子と何ヶ月も離れて暮らす御主人・・・。
また違う母の話では、御両親の実家が牛を何百頭も飼っていたそうです。彼女は、実家はセシウム問題が持ち上がる前に安く全部売りさばいてしまったよ、と・・・。
また他の母によれば、相馬の海岸は、家も船も流されてしまい放射能の汚染もある為に魚の漁をしていません。避難者を受け入れて居る実家では、北海道とか、他の土地で獲れた魚も、生はもちろん、焼いたものさえ一切口にしないとの事。なぜならば、マグロの腹から、津波にさらわれた行方不明者のものと思われる人間の髪の毛等が出て来たのに、そのまま何事も無かったかの様に売られていってしまうのを見ているからだそうです。
その方々は何度も私の店にいらして下さって(注:彼女はローマで日本料理店を経営している)、地中海産のマグロのお刺身やお魚料理を一杯召し上がって、満足して日本に帰っていかれました。
とても信じ難いのですが、有り得る話でしょうか・・・
農家は・・・
という事で、私も福島の放射能にどっぷり浸かって、ストレス気味かも知れません・・・
○○××子
○○××子さんを知ったのは、私がローマのナティビタの教会で奉仕していた頃のことだった。その後の彼女との係わりの中で、私は洗礼をまだ受けていない彼女の魂の中に、ベテラン信者も顔負けの神への深い畏敬と隣人への温かい愛を読み取り、キリスト教への入信と洗礼を勧めた。彼女もそれを望んだので、ソレントのアマルフィの海岸に旅行した時に、その地の教会の司祭の了解のもとに彼女に洗礼を授けた。
その後の彼女は、私の期待に見事に応えて、実践的な活動的なキリスト教の 「証し人」 に育っていった。上のメールはその小さな印にしか過ぎない。
新約聖書の「使徒言行録」には、使徒フィリポとエチオピアの女王の高官の有名な逸話が載っている(使8章36~38節)。
フィリポは旅の道すがら女王の高官に出会い、イエスについて福音を告げ知らせ、道を行くうちに、彼らは水のあるところに来た。高官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」 そして、二人とも水に入り、フィリポは高官に洗礼を授けた。
私は聖書のこの箇所が好きだ。世の中には、長期間教会に通い、神父からたくさん話を聞いて、信仰に関する知識を頭に詰め込まなければ洗礼は受けられないと考える求道者も、またそのように指導する神父も多くいる。しかし、稀にではあるが、自ら聖書を読み、祈り、心が準備されていて、面倒な手順を踏まずとも、すぐに洗礼を受け立派に信仰生活を生き始める人もいる。上のメールの女性がよい例である。私は、今までにもそういう例をいくつも経験してきた。