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「モスクワ」 = 着くや否やの 「大ショック」!!
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成田12時発のアエロフロートで現地時間16時にモスクワに着いた。グレゴリオ(「道」の日本の責任者)とそのパートナーのピラㇽと3人で飛ぶはずが、グレゴリオは急遽一日早めてカルメンの葬儀に間に合うように昨日(20日のこと)一人でマドリッドに発っていたから、着いたのはピラㇽと私の二人だけだった。
出迎えのマリアの車でデルタホテルに入った。カルメンの葬儀はマドリッドの司教座大聖堂(内陣の壁画とステンドグラスはキコの作品。脇祭壇にはキコの聖母子像の絵がキコの壁画に囲まれて安置されている)で盛大に行われ、その一部始終は世界中にテレビで同時中継されていて、日本でもBSか何かで見られるのだそうだが、日本でそのことを知る人は殆どいない。しかし、出迎えのマリアによれば、7時からモスクワの大聖堂で司教司式のカルメンの追悼ミサがあるということだったので、チェックインも早々に地下鉄に乗った。モスクワでは、市内の移動は車より地下鉄の方が便利なことは東京と変わりない。
司教座聖堂は赤レンガ造りのゴチック様式で新しい建物のようだった。5人の共同司式司祭を従えての司教ミサは荘厳だった。説教はロシア語だから、時々「カルメン」とか、「キコ」とか言う単語が耳に飛び込むほかは全くわからなかった。参列者は期待したほど多くはなかったが、その多くは共同体のメンバーだっただろうか。モスクワの共同体の歴史は日本よりも浅い。公に活動ができるようになったのはソ連崩壊以後のことだろう。市内に4つの共同体があるそうだから、日本の東京と横浜の共同体を合わせたぐらいのものだろうかと思う。
ミサが終わったら、マリアが香部屋(祭壇わきの準備室)に行って大司教に挨拶しようと言いだした。そこでの共通語はスパニョーロ(スペイン語とイタリア語を混ぜたようなもの)の他、英語やドイツ語が役に立った。
カルメンの葬儀がマドリッドの大聖堂で行われ、その様子が全世界にテレビで生中継され、日本でも見られるというのもさることながら、モスクワの大聖堂でマドリッドに連携して追悼ミサが行われているというのも、新鮮な驚きだった。恐らく世界各地で同様の現象が起こっているのだろうと想像に難くない。
カルメンの死が国際レベルではそれほどポピュラーでホットな話題なのに、日本では全く知る人がいないという事実に、軽いカルチャーショックとともにあらためて気づかされた。
日本の教会では、世界のカトリック教会で何が行われ、今何が話題になっているか、ということについて、殆ど情報がなく、信者の間でも殆ど関心がないということに、モスクワの人々が逆に驚いている様子だった。「その孤立状態はまるで北朝鮮の庶民並ではないか?」というさりげない比喩に、私は大ショックを受けた。
以下、改めてカルメンを偲んでその生前の姿をたどってみよう
キコもカルメンもまだ20歳台後半か。マドリッド郊外のスラムで共同体を形成し始めた頃
ヨハネパウロ2世とカルメン
聖ヨハネパウロ2世とキコ、カルメン、マリオ神父
カルメンの元気だったころ 彼女の話は聞く若者たちを大いに沸かせたものだった
彼女はある意味でキコ以上の人気者だった
その語り口には一種のカリスマ的権威が宿っているように感じられた
ベネディクト16世と共同体の3人の創始者グループ
今の教皇フランシスコとすっかりお婆ちゃんになったカルメン
私がイスラエルのドームスガリレアで最後に見たカルメンの後姿、足首がマッチ棒のように細くなり、人の手にすがりながらとぼとぼと歩いていた翳の薄い姿が目に焼き付いている
昨夜、ミサ後の夕食をとったのが10時すぎ。まだ道端で新聞が読める明るさだったが、デュッセルドルフに住んだことのある私はさほど驚かなかった。しかし、今朝4時に目が覚めたら外はもうすっかり明るかった。多分3時ごろには夜明けだったのだろう。もう少し北に行けば白夜の世界なのだ、と思うと異国に来た思いがひしひしと迫ってくる。
(つづく)
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