日本ユーラシア協会広島支部のブログ

本支部は、日本ユーラシア地域(旧ソ連邦)諸国民の相互の理解と親善をはかり、世界平和に寄与することを目的とする。

日本ユーラシア協会広島支部ニュース2021年7月28日

2021-07-28 13:22:42 | 日記
日本ユーラシア協会広島支部ニュース2021年7月28日
【第78回ロシア語能力検定】
10月30日2級4級、10月31日1級3級が広島市東区民文化センターで実施されます。8月15日から受付。https://www.tokyorus.ac.jp/kentei/schedule.html

【ボルゴグラードの日】
今年のボルゴグラードの日は①9月12日日曜日、広島市留学生会館で開催されます。開会セレモニー、大木毅さん(「独ソ戦」著者)講演会、ヒロシマ・メッセンジャー企画で実施されます。ご期待下さい。②同時開催 ロシア紹介展示コーナー 9月5日~12日、同じく広島市留学生会館1階で開催されます。③無料でどなたでも参加できますが、①について今年は事前申し込み制となります。詳しくは広島支部のブログまたは広島市平和文化センターHPでご覧下さい。

【せこへい美術館】8月17日~22日まで広島市中区袋町 旧日本銀行広島支店で開催される展示会を後援します。8月17日は15時よりオープニングセレモニーがあります。

【広島原爆「黒い雨」訴訟二審も原告全面勝利】

 2021年7月14日15時過ぎ広島高裁民事第3部西井和徒裁判長(澤井真一裁判官、芝本昌征裁判官)は「黒い雨」について原告84人全員の被爆者認定し、被告広島市(松井一實広島市長)、広島県(湯﨑英彦広島県知事)の控訴を棄却し、市・県の処分を取り消しし、併せて行政参加した国(厚生労働省)の主張を退ける決定をしました。1945年8月6日午前8時15分のアメリカの広島への原爆攻撃で、熱線(火球からの赤外線、火災)、爆風(衝撃波)、放射線(ガンマ線、中性子線)、二次放射線(死の灰、核分裂物質、誘導放射能)により、当時35万人の人口のうち年内に14万人が死亡しました。原爆炸裂後の入市被爆者も含まれます。
 被爆者の救済は「空白の10年間」を経て1957年原子爆弾被爆者の医療等に関する法律が成立しました。この原爆医療法は数回の改正を経て、1974年には、直接被爆者は爆心地から3km内外、救護等、8月20日までの入市被爆者に援護範囲が拡大しました。8月6日の原爆投下直後、またその日のうちに降った放射性物質や火災による煤、粉塵を含む雨(黒い雨)による被害者は上記の対象者以外は援護されませんでした。国は、1945年の広島管区気象台の調査(宇田道隆ほか)の調査に基づき、1974年、宇田雨域(長さ29km、幅15kmの卵型エリア)のうち宇田大雨域(長さ19km、幅11km)のみ援護対象区域(健康診断特例区域)としました。この間1978年には黒い雨区域拡大の住民運動が始まり、1989年気象研究所の増田善信の増田降雨域の発表、2008年には広島市が2万7千人のアンケート(対象は3万7千人)、9百人の面接調査を実施し、結果は大瀧雨域(広大原医研大瀧慈)として発表された(図には増田降雨域も記入されています。)。
 2015年黒い雨集団訴訟が始りました。今回広島高裁は、(図は省略しますが7月15日中国新聞の図では、爆心地(白丸)に対し住民(黒丸)は一番内側の囲み線で示された)大雨区域(強雨域、宇田大雨区域、従来の援護対象区域)の外側の2番目の線で示された小雨区域(宇田小雨域)及び3番目の線(外側の線)で示された広島市が推定する降雨域(大瀧雨域)の原告住民を被爆者と認定しました。広島高裁判決は、原審地裁判決を一層深め、内部被曝被害の可能性を認めた画期的な判決と言えます。「黒い雨に放射性降下物が含まれていた可能性があったことから、黒い雨に直接打たれたものは無論のこと、たとえ黒い雨に打たれていなくても、空気中に滞留する放射性微粒子を吸引したり、地上に到達した放射性微粒子が混入した飲料水・井戸水を飲んだり、地上に到達した放射性微粒子が付着した野菜を摂取したりして、放射性微粒子を体内に取り込むこと」であると内部被曝被害が生ずることを認定しました。84人の内14人は鬼籍にあります。残された時間は多くはない。被告広島市・広島県は市民・県民の声を聞き、上告を断念すべきであり、参加行政庁である厚生労働省は上告するなどの形で地方自治に介入すべきではないのです。2000年4月改正施行の地方自治法では、従来の機関委任事務に代わって、被爆者認定事務は法定委託事務となりました。広島市・広島県は市民・県民の声に従って、上告断念を自主的に決断すべきです。


【「映画『氷雪の門』への考察(15回目)】(1)1945年8月前後の動き(承前)(2)日露・日ソ間の条約(その14)
米ソ武器貸与協定(1942年6月11日)の後半。アメリカ武器貸与法(1941年3月11日)によって、第二次世界大戦中1945年までに、アメリカから連合国に全体で金額に換算すると約500億ドルの供与が行われた。その内容は、武器、戦車、航空機、車両、船舶から軍靴にいたるまでのあらゆる軍需品が含まれていた。大戦中に武器貸与法で供与された総額約500億ドルの国別の内訳は、イギリスに314億ドル、ソ連に113億ドル、フランスに32億ドル、中国に16億ドルという数字が残っている。
第7条
 1941年3月11日の(合衆国)議会法に基づいて提供された援助の見返りとしてソビエト社会主義共和国連邦政府によってアメリカ合衆国に提供される利益の最終決定において、その条件は、両国間の通商に負担をかけるのではなく、両国間の相互に有利な経済関係と世界的な経済関係の改善を促進するためのもので無ければならない。そのために、それらは、適切な国際的および国内的措置による生産の拡大に向けられた、同様の精神を有する他のすべての国々の参加に開かれた、アメリカ合衆国およびソビエト社会主義共和国連邦によって合意された行動の規定を含むものとする。雇用、および商品の交換と消費、これらはすべての人々の自由と福祉の重要な基盤であるが、国際商取引におけるあらゆる形態の差別的扱いの撤廃、および関税やその他の貿易障壁の削減、そして、一般的に、1941年8月14日にアメリカ合衆国大統領と連合王国(イギリス)首相によってなされ、その基本原則が1941年9月24日、ソビエト社会主義共和国連邦政府によって遵守されるとされた共同宣言(大西洋宣言)に示されたすべての経済的目的の達成に向けて、経済情勢の統治に照らして、彼ら自身の合意された行動によって上記の目的を達成し、他の合意された行動を求めるための最良の手段を決定する目的で、都合の良い早い時期に志を同じくする両政府間で会談が開始されなければならない。
第8条
 本協定は、本日より有効となる。これは、両政府が合意する日まで効力を持ち続けるものとする。
 1942年6月11日、ワシントンで署名され、封印された。
アメリカ合衆国のために、国務長官
CORDELL HULL
ソビエト社会主義共和国連邦のために、駐ワシントン全権大使
MAXIM LITVINOV

【次回以降に掲載】
 5月3日の憲法集会、秋葉忠利さん講演、木村草太さん講演詳細、連載の炭本遵さんのボルゴグラード訪問記は次回以降に掲載します。

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