日本ユーラシア協会広島支部のブログ

本支部は、日本ユーラシア地域(旧ソ連邦)諸国民の相互の理解と親善をはかり、世界平和に寄与することを目的とする。

日本ユーラシア協会広島支部ニュース2020年8月31日

2020-08-31 11:40:41 | 日記
日本ユーラシア協会広島支部ニュース2020年8月31日
【広島原爆の日に寄せて】
コロナ災害下西暦2020年7月31日付けで8・6広島原爆の日祈念式出席者にメッセージを送りました。
松井一實広島市長 様
皆 様                                日本ユーラシア協会広島支部
    2020年8月6日 広島原爆の日に寄せて
 8月6日、広島に原子爆弾が投下されて75年を迎えます。人類史上初めて使用された核兵器により、多くの命が奪われ、今もなお人びとの暮らしや健康を脅かし続けています。
 広島に住む私たちは、非人道的な核兵器の使用•開発・保有を認めることはできません。
 被曝の実相と被爆者の思いを次の世代に伝え、核廃絶を訴え続け、世界中の人々とともに核被害のない世界を実現する責務があります。私たちの核廃絶の願いにもかかわらず、世界には地球を何度も破壊できるほどの核兵器が存在しています。私たちの前には多くの課題があります。一歩一歩歩んで行かなくてはなりません。
 7月29日広島地方裁判所の高島義行裁判長はいわゆる「黒い雨」裁判(原爆投下後に放射性物質を含んだ『黒い雨』を浴びて健康被害が生じたのに、国の援護対象区域外だったのを理由に被爆者健康手帳の交付申請を却下したのは違法として安芸太田町の84人が広島市長と広島県知事に却下処分の取り消しを求めた訴訟)で、全員の却下処分を取り消し、被爆者と認めて手帳を交付するよう命じる判決を出しました。
 こうした被爆者救済努力が図られる一方で、広島湾出入り口にある金輪島では、500~700人といわれる被爆者が、その名前さえも記録されることもなく、あるものは海辺で満潮時に流されて、忘れ去られているのです。原爆による惨禍をくり返さないこと、原爆投下を導いた戦争を繰り返さないこと、記憶に留めることが、私たちの使命であるのです。戦争は政治の延長であると云われます。国立広島原爆死没者追悼祈念館2002年8月1日設立の趣旨として「誤った国の施策により犠牲になった多くの人々に思いを致しながら・・・」と記して、原爆の惨禍が国の責任によるものであるとしています。
 1945年ポツダム宣言受諾による敗戦後の日本はどのような状況におかれているのでしょうか。日本の植民地から解放された朝鮮では1950年6月25日に内戦が勃発しました。この内戦は当初から国際的な性格を持っていました。同日国際連合安全保障理事会は、朝鮮民主主義人民共和国非難決議を採択、7月7日には国連安保理は大韓民国に国連軍派遣を決議します。1950年11月30日米国トルーマン大統領が「原爆使用を辞せず」と発言。1951年4月国連軍・米軍が核弾頭付き爆弾を沖縄に送りました。プルトニウム型原爆は300個製造されていました。 また前年1949年8月29日ソビエト連邦はアメリカの核使用、独占に対抗してセミパラチンスクで原爆実験を行いました。当時アメリカは200個以上でソ連各都市を攻撃する計画を持っていました。ソ連の核実験、核保有は「核抑止論」の具体化でした。朝鮮戦争を前後として日本、朝鮮半島を含む北東アジア地域は核抑止論と核兵器の虜となったのです。朝鮮戦争終結と日ロ平和条約締結交渉の進展を希求します。2017年7月7日国連で122か国によって賛成・採択された、核兵器禁止条約は、今夏までに40か国によって批准され、発効まで10か国に迫っています。希望の芽が確認できます。
[写真 8時50分まで入場制限された広島平和公園]


【第76回ロシア語能力検定試験】次のとおり実施されます。日時:2020年10月31日(土)2、4級 11月1日(日)1、3級 申し込み8月15日~9月15日。会場:広島市東区民文化センター https://www.tokyorus.ac.jp/kentei/index.html

【「映画『氷雪の門』への考察(6回目)】
(1)1945年8月前後の動き(承前)
(2)日露・日ソ間の条約(その6)
「ノモンハン事件と休戦協定」
ノモンハン事件は、1939年5月から同年9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した。1930年代に、満州国を実質的に支配していた日本(大日本帝国)と、満州国と国境を接し、モンゴルを衛星国としたソビエト連邦の間で断続的に発生した日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)。満州国軍とモンゴル人民軍の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍(関東軍)とソビエト赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争のなかでも最大規模の軍事衝突となった。1939年8月下旬以降、9月14日より東郷茂徳駐ソ全権大使とヴァチェスラフ・モロトフ外務大臣(コミッサール、政治委員)はモスクワで交渉を開始しモスクワ時間9月15日2時、次のような停戦合意に達した。
●(1)両側のすべての軍事行動はモスクワ時間1939年9月16日0200時に終了し、両側の前線は、モスクワ時間の1939年9月15日1300時の状態に戻る。
(2)現場の双方の代表者は、別記で言及された合意(国境確定委員会の設置)を実施するために必要な措置を直ちに講じなければならない。
(3)捕虜と遺体は交換される。その場で双方の代表者は、直ちに交換の手配を行い、その実行を開始するものとする。

【炭本さんのボルゴグラード紀行(5回目)1978年訪問1998-06-09記述】
内容については後記する。14:45ハバロフスク発モスクワ(時差6時間)行きの国内航空に乗る。ツウーリスト優先で行列をすり抜け、最初に飛行機に乗り込んだ。3名の見送り、健康で、有意義な旅行であるようにと励まされた。 飛行機は時速700Km上空11,000mの飛行であり、途中ウラル山脈(1,900m)をこえ、着陸のため高度が下がりはじめると耳が痛かった。モスクワ時間17:00(8時間40分)ドモジエドボ空港(モスクワの東南48Kmと極東と極北を結ぶ)に着陸。バスはやたらとスピ-ドあげて走り、モスクワ市内まで40分の道程である。飛行中には安藤氏と将棋して時間を過ごしたので、ロシヤ人から好奇の目でみられた。アエロフロートの機内食最初のサービス、肉、ジャガイモ、果汁、サラミ、コーヒー、ウオッカ、パン、次にリンゴ、キュウリ、サラミ、クロイクラ、バタークロパン、ケーキ、マルパン、コウチャ、ウオトカ、レモネ-ド水、ヒナドリ肉、バター炒め御飯、最後15:00コニャック、レモネ-ド水、コーヒー、パン、ケーキ、リンゴ、チョコレー卜、チーズであった。モスクワに降り立ってみると今ここにいることが不思議に思えてきた。少し話してみると通じるようだ。わたしの生涯での初めての最後の経験となるであろう。
ボルゴへ19:00発(1時間30分)の飛行20:30(モスクワ時間19:30)到着。市テルのフロントは両替所になっている。ル-ブルの小銭が欲しかった。時間外ということでだめ、土曜、日曜とつづき休店。これが結果的にクワスを飲む機会を失うことになる。これは街頭でのクワス・アイスクリーム売りは風物詩といった感じ。ボルゴグラード時間は時差1時間早く、広いソ連では都市へ飛ぶ毎に現地時間は変わり、何時間たったのか分りにくい。イルミネイションの飾りつけの都市に到着。明日土曜日は豊作祭りが行われるとのこと。ボルゴグラードではインツーリストホテルに5泊(302号)外国人専用ホテルで玄関ドドアマン、エレベーターの女性、 各階にデボスカという婦人が座って働いている。洗濯物を受けたり、 警備しているのであろう。幹部はどこでも働く者が足らない言っているとのこと。所謂完全雇用の完成でしょうか。何か無駄な人員配置をしているように思える。市内の建設中の鉄筋建築もなかなか進まず、解体工事かとも思える状態である。団員1人づつ部屋をもらった。(続く)
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