放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

一関気仙沼南三陸紀行(6)リアス・アークの船底に・・・

2016年10月12日 00時06分49秒 | 東日本大震災
 そこにあるものは、心の中の恐しい記憶を掻き寄せる本物の遺物。

 ひしゃげた鉄柱。
  ひしゃげたバイク
   ひしゃげた洗濯機
 鳴らないラジオ
  動かない時計
   つながらないケータイ

 そして壁にずらりと並んだ、被災した気仙沼周辺の写真。

 思い出した。
 被災した都市で共通の「音」がある。
 おそらく震災で町機能を失った地域では共通に聞こえていたであろう音。
 それはヘリコプターの爆音。
 余震に次ぐ余震で落ち着かない夜を越えて、やけにザラっとした朝がきても、そいつは無遠慮に鳴り響いていた。自衛隊なのか報道なのか分からない。まるで町の荒廃を告げるかのような機械の音。あの頃、ここの街でも、間違いなく爆音が鳴り響いていたはずだ。

 あの音を聞いていたであろう人たちの言葉が添えられている。
 家を失った。
 仕事を失った。
 大切な人を失った。
 あるはずの日課を失った。
 あの日を境に世界は変わってしまった・・・と。

 東北の人たちは、辛い時いつも静かに語る。
 どこまでも耐えようとするから感情を抑制するのだろうか。
 構わず怒りをぶつけてしまえばどんなにか楽だか。でもそれを受けとめて傷つく人もいる。そんな拡散はよくない、と我慢をしてしまう。ここに書かれた言葉たちも、どうしようもないくらいの絶望を、淡々と訴えてくる。   

 そして遺物たちも静かに語りだす。
 これらは、3.11の翌日からリアス・アークの職員たちが集めてきた生々しい震災の遺物だったり、被災者から譲り受けた。
 どうしてこんなものを集めてきたんだろう、と考える。
 震災直後、こういったものを「ガレキ」と呼んだ。いや、呼ばれた。
 もう使えないもの、という意味だ。
 昨日は「財産」だったのに、一瞬で「ガレキ」になった。
 そういったものが街中にあふれていた。どこにでも転がっていた。
 特に気仙沼ではガレキに、津波と炎上の爪痕が深く刻まれていた。
 この街がどんな目に遭ったのか、それを説明している、記憶の塊。だけど、それが道を塞ぎ、復興を妨げる。 
 5年が経ち、「ガレキ」はほとんど撤去された。街から「ガレキ」は無くなっていた。いずれ震災の記憶はうすれ、外から訪れた人々は、震災があったことを信じなくなるかもしれない。津波の怖さを忘れ、海を恐れなくなる。
 だからリアス・アークは悲しい記憶遺産を蒐集している。
 
 どこかの教育機関のアウトワークだろうか、中学生と思われる集団がぞろぞろと流れてきた。
 笑ってる子は一人も居ない。それはそうだろう、まだまだ記憶に新しい災害だから。けれどそのうち、へらへら笑いながらこのフロアに来る子どもたちも出てくるだろう。そのとき、本物の禍々しく痛々しい遺物たちが笑いを一瞬で凍らせてしまうのだ。 
 ヘリコプターの爆音は再現できないかもしれないが、それでもあの頃の凄絶さを慮る大事な空間だった。
 方舟は、その船底に最も重い人類の記憶を秘めているのだ。

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