放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

「阿(おもね)る」ことと「カタルシス」

2021年03月12日 00時54分11秒 | 東日本大震災
「阿(おもね)っている」
そういう気分がないわけではない。もちろん自分のこと。

これだけ地域によって復興の有様が多様化してしまい、「進む」「あきらめる」の差もひどい。
一口に「東日本大震災」といっても、被害状況や、その後の支援の入り方も、そして変容する地域もさまざまだ。
誰彼なく傷つけてしまわないように、態度を控えめに、相手に寄り添うような姿勢を示そうとする。
するとそれは、どこか「阿る」ような態度になってゆく。
自分の拙い理解が、相手の被災体験には到底及はないのだから、そうするしかない。でも「阿っている」と思ってしまうと、もう言葉が一つも出てこなくなる。
テレビ番組で「震災」を取り上げた番組は、3.11までは本当に多い。でもそれをすぎると、とたんに「震災」というキーワードは絶滅寸前まで少なくなる。これを見ると、「やっぱ阿った?」と訊きたくなる。

でもこれ、実は悪循環な思考だと今日知った。
「阿って」いたっていいのだ。そんなものを気にする必要は、多分ない。
「阿って」「阿って」、仕舞いには「東日本大震災」関連のキーワードを聞いただけで目頭が熱くなるほど「阿って」しまえばいいのだ。
3.11、海に向かって涙した人がいっぱいいたと思う。
誰も忘れてほしくない、忘れたくない、そう思って、周囲と話をして、いっぱい語り合って、泣いて泣いて、そして少しだけ苦しみが軽くなる一時だった。
3.11のときばかり阿って、という考えがある一方、たとえ阿っていたって、誰かの苦しみを軽く出来るかもしれない。持続性があれば -阿っていることすら忘れるくらいに- 誰かの助けになるかもしれない。そこに小さなカタルシスが生まれるはず。
気にしなくていい。忘れてしまうよりもずって値打ちがあるから。