大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

私本東海道五十三次道中記 第33回・最終回 第2日目 髭茶屋から山科を抜けて京都三条大橋(その2)

2015年12月28日 10時25分11秒 | 私本東海道五十三次道中記
国道1号線と分岐して細い道筋へと入っていきます。この道筋の北側が滋賀県大津市追分町南側が京都市山科区髭茶屋屋敷町となり、私たちは滋賀県と京都府の県境を歩くことになります。 
少し行くと三差路があり、「伏見道(髭茶屋)」の追分にさしかかります。伏見道は伏見や宇治への道で、難波(大阪)に出る近道でした。
世間一般に言われる東海道53次の場合、髭茶屋追分から京都三条大橋へ向かう東海道を指しますが、東海道57次と言う場合は髭茶屋追分から伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿を経て大阪高麗橋へ至る街道が東海道となります。大津宿から伏見宿までは伏見街道(大津街道)、伏見宿から大阪までを大阪街道(京街道)とも呼びます。大名が京都に入るのを幕府が好まなかったので、参勤交代の時、大名は京都を避け伏見道を使ったのです。 

「東海道名所図会」に「追分ー村の名とす。京師・大坂への別れ道なり。札の辻に追分の標石あり」と書かれていますが、「みきハ京みち、ひだりふしミみち」と刻まれている道標は今も残っています。隣の「蓮如上人」の石碑には「明和三丙」と刻まれていましたが、途中で折れたものか?、かなり小さめです。 

その先の右側の「閑栖寺」の門前に「東海道 京三條 」と刻まれた道標車石が置かれています。



街道時代には東からやってくる旅人は逢坂の関を越えれば山城国へと入ります。その東海道の山城国入口に走井(はしりい)という清らかな水がこんこんと湧く井戸があり、平安時代から歌に詠まれるほどの名高い水だったのです。江戸時代になると東海道を往来する旅人が増え、走井の水で喉を潤す者も多かったのでしょう。街道沿いには走井茶屋と呼ばれる茶店が軒を連ね、名物の走り井餅を売っていました。

そして閑栖寺の門前に置かれている「車石」ですが、街道時代の頃、逢坂山は大量の荷物の輸送があったので牛馬車が使用されました。しかしあまりの急坂でその運搬には難儀していました。文化2年(1806)3月、京都の心理学者、脇坂義堂が車石を並べ、荷車が通行することを発案しました。そして近江商人の中井源左衛門が一万両の財を投じて大津から京三條まで、花崗岩にを刻んだ敷石(車石)を並べ、荷車が通行できるようにしました。
このあたりは車道と人道に分かれていて、京に向かって右側に車石を敷き左側に人や馬が通る道があった。と寺が作成した説明板にあり、当時の様子が描かれています。

一万両というお金は半端なものではないのですが、文化文政時代ごろから商人の経済力が強くなり、幕府に頼らず商人の手で行う動きがでてきたのです。この車石もその一つです。 
近くのお寺の庭にも車石が置かれていますが、これらの車石は道路工事で取り外されたのを残してきたもので歴史的には価値があるものです。この車石はこの先の道筋の数か所に無造作に置かれています。

この先の横木一丁目で旧道はいったん国道1号線によって分断されます。東海道は国道1号を渡った向こう側に続いているので大きな横断歩道橋を渡り、その道筋へと進んでいきます。橋上からはすぐ下を走る国道1号線の広い道幅と遠くに見える山並みの景色が楽しめます。そして御横断歩道強を渡ったところで逢坂を越えたことになります。

歩道橋からの眺め

陸橋を渡って、少し行ったフレスコというマーケットの手前の角に「三井寺観音道」と刻まれた大きな道標が置かれています。三井寺は長等神社の隣にあり、天皇家の崇敬を受け、大きな敷地を有する門跡寺院です。三井寺観音道は長等神社の脇から小関越をする道で、ここが京側の追分(分岐点)です。北国街道を利用する旅人にはこの道が近道だったのです。



このあたりは横木一丁目でまだ大津市の領域で、四ノ宮町に入ると京都市山科区に地名は変ります。ところどころに古い家がありますが、地下鉄東西線の開通によって山科周辺の景観は大きく変わってきました。山科に入ってくると道筋には住宅街がつづきます。道筋が狭くなってくると、京阪電気鉄道の四宮駅入口の信号交差点にさしかかります。車の往来がやたら多く、歩くのに難儀します。一応、駅前らしく賑やかになってきます。

四宮駅入口の信号交差点を渡り、その先の左側にあるローソンを過ぎると、街道の右側に二つの石柱を置いた「徳林庵」があります。

徳林庵

「南無地蔵尊」と刻まれた石柱は京都六地蔵の一つで、山科地蔵(四宮地蔵とも山科廻り地蔵ともいう)のことで、地蔵尊はその奥の六角堂に安置されています。
六地蔵とは後白河天皇は都の守護、往来の安全や庶民の利益結縁を願い、小野篁(おののたかむら)により仁寿2年(852)に作られた六体の地蔵尊像を平清盛、西光法師に命じ、保元2年(1157)に京都の入口に当たる街道筋に安置させたものです。

京都ではこの街道筋に置かれた六地蔵を巡る「六地蔵めぐり」という行事があるようです。毎年8月22日、23日の両日に行われているもので、6か所のお寺で授与される「六種のお幡(おはた)」を自宅の入口に吊るすと、厄病退散、福徳到来のご利益があると言われています。

徳林庵から少し歩いていくと街道右側に「瑞光院」の標が置かれています。街道からはかなりそれた場所に堂宇を構えているので行くことはできません。慶長18年(1613)、因幡国若桜藩主、山崎家盛により浅野長政の旧蹟に創建された寺で、山崎家が無嗣により断絶すると赤穂浅野家の祈願寺となります。 

元禄14年(1701)3月、浅野長短は吉良上野介に刃傷し、浅野家は断絶。同年8月、大石良雄は当寺に浅野長短の衣冠を埋め、亡君の石塔を建立し、墓参の都度、同志との密議が当寺で行われました。更に元禄15年12月の赤穂義士による吉良邸討ち入りが行われ、本懐を遂げた後、義士四十六士の髻を寺の住職が預かり、主君の墓の傍らに埋めました。これが遺髪塚です。ようするに赤穂義士のゆかりの寺なのです。



道筋はまもなく京阪山科駅、JR山科駅前にさしかかります。駅前は綺麗に整備され、洗練された雰囲気を漂わせています。駅へと通じる山科駅前交差点にさしかかると、進行方向左角に大丸の大きなビルが構えています。
右側の「エスタシオデ山科 三品」というマンション前に「東海道」の道標と車石が置かれています。山科駅前交差点を右へ行けば京阪電気鉄道の京阪山科駅、そして隣接してJR山科駅があります。
そして山科駅前交差点を越えたRACTOビルの植え込みに「明治天皇御遺蹟碑」が置かれています。

らに進むと少し行くと「五条別れ道」道標(Ⓒ地点)が置かれています。標の北面には「右ハ三條通」、東面には「左ハ五条橋 ひがしにし六条大仏 今ぐ満きよ水道」、南面には「宝永四丁亥年十一月」、西面には「願主・・・ 」と刻まれています。ここ五条別れ道道標から京都三条大橋までは約6㎞程の距離です。

JR石山駅からここまで約13キロを歩いてきました。お腹もすいてきたころなので、昼食をとることにしましょう。本日の食事処は街道からほんの少し逸れた場所にある「和食さと」です。五条別れ道から細い道筋に入り、京都薬科大学のキャンパスの縁を通って三条通へ出て「和食さと」へ向かいます。

食事を終えてから、再び五条別れ道の道標に戻り、旧街道へ入っていきます。



五条別れ道の道標で再び旧街道に合流します。このあたりにくると山科駅前の賑やかさはなくなり、閑散としてきます。
道筋を進んで行くとこの先で信号交差点にでてきます。ここで三条通と合流します。三条通とあることから、この道筋を辿っていけば私たちが目指す京都三条大橋へ到着します。ただし、私たちはこの先でこの三条通とお別れして、東海道中で最後の峠越えをするため、旧街道筋へと入っていきます。

三条通はこの先でJRのガードをくぐります。このまま東海道筋へと進んで行くためには、ガードをくぐったらすぐの信号で三条通を渡って左側へと移動してください。移動すると左へとのびる道の入口に「冠木門」が置かれていますが、この道筋は旧東海道ではないので、進入しないでそのまま直進してください。

私たちはJRのガードをくぐったら、そのまま三条通の右側を進んでいきましょう。というのも、この辺りの地名には「御陵……町」と表示されているのに気がつくはずです。この「御陵……町」というのは、この地域に「天智天皇陵」があることに由来しています。ちなみに「御陵」の読みは「ごりょう」ではなくて「みささぎ」と読みます。

せっかくなので、至近にある天智天皇陵へご案内いたしましょう。三条通に面して右手に長く伸びる幅広い参道への入口がすぐに現れます。ここが天智天皇陵の入口です。

天智天皇は中大兄皇子と呼ばれていたころ、蘇我氏を滅ぼし大化の改新(645)という政治改革を行ったことで知られています。
そして西暦667年に中大兄皇子は都を大和の地から近江大津へと移し、この大津宮で正式に即位し39代天皇となりました。
尚、天智天皇崩御に起きた壬申の乱で大海人皇子が大友皇子に勝利して即位し天武天皇となりました。

天智天皇陵参道
天智天皇陵参道

綺麗に整備された参道を辿ること約400m進むと、御陵手前まで行くことができます。凛とした空気が流れ、鬱蒼とした木々に覆われた参道を進むと、気持ちが引き締まる思いがします。

参道が途切れると、前方に玉垣で囲まれ、その玉垣の中に鳥居が立つ御陵が現れます。街中の喧噪や騒音から隔絶され、深閑とした空気に包まれています。大津近江京で西暦672年に崩御された天智天皇はここ山科陵に1300年以上にわたって眠っています。

天智天皇陵
天智天皇陵

御陵の参拝を終え、三条通を渡り、旧東海道筋へと進んでいきましょう。そして三条通から左へと分岐する細い道筋へと入って行きます。ほんとうにこの道筋でいいのかと疑ってしまうような道筋ですが、気にせず道なりにまっすぐ進んで行きましょう。左側に畑が一部残るところを過ぎると御陵岡町の住宅地に入ってきます。その先は日の岡地区で、大乗寺への案内がある先の交差点を越えると、旧街道の道筋は上り坂に変わっていきます。
ここが東海道中で最後の峠越えで、峠の名前は「日ノ岡峠」といいます。

この期に及んで、また登り坂が始まります。それもちょっとキツメの坂です。東海道は最後の最後まで難所がつづきます。簡単には三条大橋に辿りつけないんですね。さあ!最後の胸突き八丁の坂を登っていきましょう。
この坂道は日ノ岡峠に通じる道筋で、現在は一応自動車も通れますが、昔は石ころや窪みのある悪路で牛車や荷車の難所だったといいます。
木食上人(もくじき)はこの峠道の改修に心血を注いて、元文3年(1738)から3年がかりで安心して通れる道を完成させました。坂を登った左側に「亀水不動尊」があります。木食上人は峠の途中のこの場所に道路管理休息を兼ねた木食寺梅香庵を結び、井戸水を亀の口から落として石水鉢に受け、牛馬の喉の渇きを癒すと共に旅人に湯茶を接待したといいます。



その先の北花山山田町の敷地の一角に二条講中が建てた「妙見道道標」、その隣に「右かざんいなり(花山稲荷)道」の道標が並んで置かれ、左の小さなお堂の脇には石仏群が祀られています。車一台がやっと通れるくらいの一方通行の狭い道を進んでいきます。しかし往来する車が多いので注意しながら歩いていきましょう。そして大乗寺までがキツイ登り坂です。ここを過ぎると道筋は平坦になります。

私たちが辿るこの日ノ岡峠は京都の東に連なる「東山」を登る坂道なのです。ご存じのように京都は周囲を山で囲まれた盆地の中の街です。ということはこの山を越えてこなければ京都市内へに入れないということなのです。

旧街道は大乗寺からおよそ600m強ほど進むと下り坂となり、右手からくる県道(三条通り)に合流します。合流地点の先にはちょっとした広場があり、大八車に米俵が乗せられたモニュメントとかつてこの場所に敷き詰められていた車石が展示されています。

大八車に米俵
車石

この合流地点から再び三条通に沿って進んでいきます。この先の九条山交差点を過ぎると前方に東山ドライブウェイの橋が見えてきます。そして標識には九条口とあります。三条通りを跨ぐ東山ドライブウェイをくぐると、道筋は一気に下り坂へと変わります。そしてこのまま京都市内へと入っていきます。



東山ドライブウェイは三条通りの左手の坂を上ると将軍塚に至ります。将軍塚は桓武天皇平安京の造営時、王城鎮護のため、征夷大将軍、坂上田村麻呂の土像を作り、 都(西方)に向けて埋めたと伝えられるところです。橋をくぐりぬけると日ノ岡坂の頂上で、坂を下ると左側に京都蹴上浄水場があります。

ここから地名は京都市山科区から東山区に変り、道の右側に「式内日向大神宮」の石柱が置かれています。日向大神宮は、顕宗天皇の時代に筑紫日向の高千穂の峯の神蹟を移したのが始まりとされ、天智天皇がこの山を日御山と名づけ、清和天皇が天照大神を勧請したといわれる神社で、延喜式にも記名があります。

そして右手には煉瓦造りの「蹴上発電所」の建物が見えてきます。蹴上発電所は日本で最初の商用発電所で、琵琶湖疏水の水を利用して水力発電を行いました。明治23年(1890)1月に工事を着工し明治24年(1891)の8月に運転開始しました。明治45年(1912)2月に第2期に工事が完成すると、最初の建物は壊されたといいます。従って、現在残る煉瓦造りの建物は第二期のものです。

坂を下ると地下鉄の蹴上駅があります。直進する道筋は仁王門通で、蹴上交差点から250mほど仁王門通を進むと、南禅寺前の信号交差点に達します。私たちは蹴上交差点で左へとカーブする東海道筋へと進んでいきます。そして街道左側にウエスティン都ホテルが現れます。



坂を下りきったあたりが粟田口で、「正一位合槌稲荷明神参道」の道標が建っていますが、このあたりに稲荷大明神の神助を得て、名刀、小狐丸を打ったと伝えられる「刀匠三條小鍛冶宗近」の家があったといいます。そして道の反対には粟田神社が社殿を構えています。 

三条神宮道交叉点にさしかかると右手奥に平安神宮のひときわ目立つ大きな鳥居が見えます。そしてこの交差点を左折して進むと知恩院へ至ります。私たちはこのまま直進していきます。

その先の白川橋交差点の少し手前の左側の「パーク・ウォーク京都東山」という賃貸マンションの角に「坂本龍馬・お龍結婚式場跡」の石柱が置かれています。

龍馬・お龍結婚式場跡碑

この石柱が置かれているあたりには、以前は青蓮院の塔頭である金蔵寺が堂宇を構えていたといいます。そしてお龍の父である楢崎将作は金蔵寺に仕える医師だったことで、お龍の家族は身を寄せていたようです。そんな縁で龍馬とお龍はこの金蔵寺で祝言をあげたそうです。ちなみに祝言は元治元年(1864)のことです。

白川橋の脇には、東面に「是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち」、 南面に「延宝六戊午三月吉日  京都為無案内旅人立之  施主 為二世安楽」と刻まれた道標が建っています。

その先の東山三条交差点で東大路通を渡ると左側に「銘酢千鳥」という看板を掲げた村山造酢が店を構えています。村山造酢は創業から280年という老舗で、質のいい江州米と酒を使って食酢をつくり続けているといいます。江戸時代に建てられた醸造蔵を近代建築で囲い、京都市都市景観賞にも選ばれています。 

さあ!ここからゴールの三条大橋まではわずか500mです。鴨川に至る道筋はそれなりに賑やかさがあるのですが、本当の京都市内の華やかさはまだ感じられません。



街道右側に「茶懐石 辻留 出張専門 」という看板を掲げているのは明治35年創業の辻留で、裏千家お出入りの仕出し屋です。京都の料亭は板前を持たず、一流職人を抱える仕出し屋から料理を届けさせる習わしをもっています。 

街道左側に京阪三条駅の広場が見えてきます。京阪鉄道は出町柳まで線路を延伸した時、駅を地下化し、上は喫茶店とモダンな庭園にしています。さあ!前方に擬宝珠を冠した三条大橋がチラッと見えてきます。

街道右側に「浄土宗だん王」という石碑が建つ寺の正式名は朝陽山栴檀王院無上法林寺(ちょうようざん せんだんのういん むじょうほうりんじ) です。 

そして京阪三条駅の広場に置かれた「ひれ伏す武士像」は皇居(御所)を遙拝している高山彦九郎像です。高山彦九郎は延享4年(1747)、上野国新田郡細谷村(群馬県太田市細谷町)の生まれで、天皇を崇拝した勤王思想家です。高山彦九郎は松平定信をはじめとして幕府から常に監視下に置かれ、寛政5年(1793)、筑後国久留米の友人宅で46歳で自刃しました。林子平、蒲生君平と共に寛政の三奇人と云われた人物で、その後の幕末の勤王の志士達に大きな影響を与えたことで知られています。

さあ!鴨川手前の川端通りの信号を渡ると、夢にまで見た三条大橋です。日本橋からここまで126里余(約495キロ)を歩いてきましたが、東海道中の旅もこの橋を渡りきって、壮大な東海道中双六の旅もようやく「上り」となります。3年間の旅の想い出を頭に浮かべながら、三条大橋を渡って行きましょう。

広重三条大橋の景

現在の三条大橋は昭和25年に建設されたものですが、擬宝珠の中には豊臣秀吉が作らせたものもあり、また橋の西側から二つ目の擬宝珠には、池田屋騒動時につけられたとされる刀傷が残っています。なお池田屋は高瀬川に架かる三条子小橋の西側にあったのです。

擬宝珠の刀傷

橋を渡りきるとすぐ左側の狭いスペースに弥次喜多像が私たちの到着を出迎えてくれます。ほんとうに狭いスペースなので、人数の多いグループの場合、記念撮影をする際には往来の邪魔にならないよう十分に気を付けてください。

弥次喜多像の前で!

江戸時代の一般の旅人たちはお江戸日本橋からここ京都三条までおよそ12泊13日くらいで到着したといいます。これは道中、なんの問題もなく旅をした場合の日数です。おそらく当時であれば、季節にもよりますが、川止め、船便の欠航、悪天候などでその所要日数はかなり伸びたのではないかと想像します。

それでも当時の旅の手段は「足」しかなかったわけで、長旅の末にここ京都三条大橋に到着したときの達成感はひとしおであったと想像します。交通機関が発達した現在、新幹線であれば僅か3時間弱で東京から京都に来てしまいます。私たちはそんな平成の時代に約3年間を費やして五十三次の旅を楽しみました。そのコストと時間を考えると、とても贅沢な旅だったのではないでしょうか。東海道を完歩した感動の中で見る鴨川の流れはゆったりとし、悠久の時の流れを感じさせてくれる最高の場所です。

鴨川の流れ

さあ!三条大橋で精いっぱいの感動を味わってください。



2017年12月10日三条大橋にて

【編集後記】
私事ではありますが、齢60を過ぎて携わった「東海道五十三次街道めぐり」の旅は私の旅行人生の中で最も感動に満ちた経験を与えてくれました。仕事とはいえ、お江戸日本橋から京都三条大橋までの長い道のりの中で、見知らぬ土地での人々との出会い、その土地々の風土や歴史、さらには街道沿いに現れる数多くの史跡や歴史的建造物に触れられたことは、ガイドブックの文字からは到底得られない貴重な体験を得ることができました。

2012年4月から始まった第1回東海道五十三次街道めぐりは2015年3月に京都三条大橋に到着しました。そして第2回の東海道五十三次街道めぐりは2013年4月に始まり、2016年3月に再び、京都三条大橋に到着しました。さらに2015年4月に始まった第3回の東海道五十三次は2017年12月10日に京都三条大橋に到着しました。この間、コースの事前下見を含めて、なんと2000キロ以上を歩いたことになります。

長きにわたる旅でご一緒させていただいた多くの方々との楽しかった思い出と多くの感動は決して忘れることはありません。ありがとうございました。

◆東海道五十三次街道めぐり 完全踏破記念スタンプカード
日本橋から吉田宿まで

御油宿から京都三条まで


第3ステージの目次へ

私本東海道五十三次道中記 第33回・最終回 第1日目 草津宿から瀬田の唐橋を経てJR石山駅まで
私本東海道五十三次道中記 第33回・最終回 第2日目 JR石山駅から逢坂を下り髭茶屋まで(その1)





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ


最新の画像もっと見る

コメントを投稿