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私本東海道五十三次道中記 第31回 第2日目 関宿から坂下宿、鈴鹿を越えて土山宿へ(その二)

2015年11月13日 18時15分33秒 | 私本東海道五十三次道中記


心配していた積雪もそれほどでもなく、うっすらと白くなっている程度でした。鈴鹿峠は海抜379mで、伊勢国と近江国との国境です。私たちはなんなく鈴鹿越えを果たしたのです!!峠を越えると、街道脇に伊勢の国と近江の国の国境の標石が置かれています。

国境の標石

私たちは三重県側の鈴鹿峠を越えて、いよいよ滋賀県(近江国)へと入ってきました。
そんな場所にかつて置かれていたのが「澤立場」です。立場には松葉屋・鉄屋・伊勢屋・井筒屋・堺屋・山崎屋という6軒の茶屋があり甘酒が名物だったといいます。鈴鹿峠を往来する旅人は足を休めつつ、甘酒にほっと一息ついたことでしょう。残念ながら往時の様子を窺い知ることはできませんが、わずかに石垣等の遺構が残存しています。そして街道の左脇には土山茶の茶畑が広がっています。

茶畑

少し行くと巨大な石積みの常夜燈が建っていて、トイレやベンチのある休憩所になっています。巨大な石積みの常夜燈は万人講常夜燈で、重さ38トン、高さは5.44mもある常夜燈です。270年前に四国金比羅神社の講中が建てたものですが、旧山中村高畑山天ケ谷産の粗削りの大きな自然石をそのまま使って、山中村を始め、坂下宿、甲賀谷の3000人が結集して造ったものと伝えられています。

万人講常夜燈

常夜燈は当初は旧街道沿いに置かれていましたが、国道トンネル工事のため、現在地に移されました。またこの辺りは茶畑が広がっていて、土山茶の産地になっています。
また土山町は今回の合併で、狸で有名な信楽町、甲賀忍術で有名な甲賀町、水口宿のある水口町などと一緒になって、甲賀市(こうかし)になりました。



峠道を下って行くと、鈴鹿トンネルを抜けて来た国道1号線が道の右下に走っています。そして峠道はこの先で国号1号と合流します。楢木橋から続いてきた旧東海道の道筋はここで終わり、この後は十楽寺までは国道1号に沿って、だらだらと坂道を下っていきます。下り坂ということで喜んでいたのですが、やおら雲行きがあやしくなってきました。
「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」の通り、峠を越えて土山側に入るや否や、突然天気が変わってきました。それも雨ではなく、横殴りの吹雪が私たちを待ち構えていました。

そんな大雪の中で、だらだらとした坂道を下っていきますが、途中には集落は現れません。無粋な国道1号線沿いを歩いていくのですが、周辺の景色も、ほんの先も見えないくらいの吹雪の中でカメラも構えることできません。
そんなことでこの先、しばらくはアップする画像がありませんので、ご容赦ください。



山中交差点にさしかかると国道1号線に沿って集落が現れます。山中の集落です。鈴鹿の峠を越えて山を下っているのですが、山中交差点の標高はまだ327mあります。先ほどの万人常夜燈辺りが標高370mだったので1キロ強の距離で高度は40m強下がったことになります。 そうこうしているうちに、降りしきる雪はさらにひどくなり、やむ気配すらありません。

国道1号線の左右の景色はまだ鈴鹿連山のつづきのような低い山並が連なっています。山中交差点から200mほど歩くと左側の小山が国道にせりだしてくる場所にさしかかります。この辺りに近江山中氏の発祥の地の山中城があったようです。 

山中城は鎌倉時代の建久5年(1194)に山中新五郎俊直によって築城されました。この年に山中新五郎俊直は幕府から鈴鹿山守護として、鈴鹿山賊、盗賊を鎮める役命を受けています。また山中氏は伊勢神宮祭司によって伊勢神宮柏木御厨の地頭職に補任され、幕府からも公卿勅使儲役、鈴鹿峠警固役を公認されていました。 

それほど見どころがない国道1号を進んで行くと、左側に十楽寺が堂宇を構えています。十楽寺にさしかかる辺りで本日の歩行距離は11.5キロを超えます。「十楽寺」の標識の脇に「南無阿弥陀仏」の石碑が立っています。
十楽寺はもともと天台宗の寺院でしたが、信長の兵火によって焼失してしまいますが、寛文年間(1661~)に巡化僧広誉により再建された寺で、現在は浄土宗知恩院の末寺です。丈六阿弥陀如来を本尊としますが、十一面千手観音などの仏像も安置されています。境内の常夜燈は天保3年の建立です。
降りやまぬ雪の中をもくもくと歩きつづけます。本日の終着地点の道の駅土山まではまだ4キロ以上あります。



旧東海道は12キロ地点を過ぎると国道1号線からいったん右手へ分岐します。鈴鹿峠を越えてからはずっと国道一号線の左側の歩道を歩いています。この先で右手に分岐するので、その前に国道1号の右側へ移動しなければなりません。

道筋が右手へ分岐していく手前に国道1号をくぐる地下道があるので、これを使って右側へ移動しましょう。
国道1号から分岐すると小田川に架かる小田川橋にさしかかります。この橋を渡ると小さな公園があり「東海道 鈴鹿山中」の石碑と石灯籠が建っています。
右側には「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」と刻まれた「鈴鹿馬子唄」の大きな石碑があります。晴れていれば公園の東屋で腰をかけて一休みしたいところなのですが、なにせ降りしきる雪の中ではそんな気持ちの余裕がありません。ということで先を急ぐことにします。 

再び街道を進むと、少し先の右側に「地蔵大菩薩」の常夜燈と祠が置かれています。 
前方には第二名神高速道路の橋の上を走っている車が見えてきますが、民家がなくなると両側は畑で、その先で巨大な第二名神高速道路の高架橋の下をくぐります。

雪に煙る高架橋

その先で旧東海道筋は国道1号と再び合流します。合流点にも小さな公園があり、「山中一里塚公園」の標石が置かれています。山中一里塚は江戸から109番目の一里塚です。江戸日本橋から約428km、京三条大橋からは16番目(約66km)となる一里塚です。ちなみにこの辺りの標高はまだ286mもあります。

山中一里塚公園
山中一里塚跡碑

公園内には「いちゐのくわんおん道 」と刻まれた道標が置かれています。
道標の側面には虚白の「盡十方(つくすとも) 世にはえゆきや 大悲心」という句が刻まれています。
「いちゐのくわんおん道は櫟野(いちいの)観音道のことです。 

観音道は東海道から分岐して旧神村、旧櫟野村に至る道で大原道とも呼ばれていました。ここはその道の追分にあたる場所です。



江戸時代の東海道の道筋は山中一里塚あたりから土山宿までは右に左にくねくねと曲がりながら続いていましたが、国道1号線が旧街道の道筋を突っ切るように一直線に敷かれ、旧街道はずたずたに分断されてしまいました。その結果、旧街道の筋道は跡形もなく失われてしまっています。国道は「東京まで437km」の標識のあたりから左へカーブし下っていきます。

右側に民家が見え始めると猪鼻交差点で、江戸時代は猪鼻村だったところです。この交差点を右折していくと、わずかに残っている旧東海道の道筋を歩くことができます。㉓の地図のⒷ地点からⒹ地点までの区間が旧東海道の筋道です。 

Ⓐ地点で国道1号から逸れⒷ地点で左折すると、右側に「浄福寺」があります。その門前には大高源吾の句碑が置かれています。大高源吾は赤穂浪士の一人で、俳号を子葉と名乗っていました。「いの花や 早稲のまもるる 山おろし」

浄福寺を過ぎると木々に包まれた家があり、表札には「猪鼻村旅籠中屋武助」とあります。木々の中に「旅籠中屋跡」の石柱と「明治天皇聖蹟碑」がありますが、明治天皇が立ち寄られ休憩されたところです。
その先のS字のカーブの坂を上ると再び国道1号に合流します。

猪鼻集落は鈴鹿峠方面から降りてくるイノシシ除けの垣根があったことに地名の由来があるらしいのですが、かつては東海道の立場で草餅や強飯(もち米を蒸した飯)が名物だったようです。

国道1号線はⒹ地点から緩やかな上り坂に変り、その先で今度は緩やかな下り坂になります。



国道1号に合流して500mほど行くと左前方に町が見えてきて「道の駅 あいの土山1㎞ 」の表示板が置かれています。 
そしてこの先で旧東海道の道筋は国道1号から右手に分岐します。その分岐する場所の右手に「白川社」の石柱があり、鳥居の先に「白川神社御旅所」の石柱と小さな社殿が二つあります。道の脇に南土山案内板があり、「国道の右側を下りた小道が江戸時代の東海道で、その先でなくなっています。また、蟹塚がある。」とあります。
 
さあ!土山宿が間近に迫ってきました。ここから土山宿まで800m程の距離です。道筋はこの先で高尾金属工業の敷地内を通るように進んでいきます。工場を過ぎると正面に駐車場が見えてきます。そして50m程歩くと右側に大小の碑があり、小さい石柱が「蟹坂古戦場跡」の石碑です。

戦国時代の天文11年(1542)、伊勢の北畠具教(とものり)は甲賀制圧を目指して軍を進め、一隊を割いて鈴鹿を越えさせ、山中城を攻めさせました。山中城主の山中秀国は善戦の末、北畠勢を敗走させました。 
これを知った北畠具教は一旦兵を引かせましたが、すぐに軍を増強させて、再び山中城攻略にかかりました。 
山中秀国は近江守護の六角定頼に援軍を要請したことで、ついには北畠と六角との戦に発展してしまいます。 
12000人の北畠軍に対し、10000に満たない山中、六角連合軍は善戦し、ついに北畠勢を敗走させ、北畠具教の甲賀進出を阻止しました。この合戦の主戦場がここ「蟹坂」なのです。

「蟹が坂」という地名の由来ですが、北側に田村川、南側に唐戸川が流れるこの地には大蟹が住みつき、道行く旅人や村人に危害を加え怖れられていたといいます。そしてここを通りかかった比叡山の高僧が、大蟹に対して往生要集(平安時代中期、恵心院の僧都源信が撰述した仏教書)を説いたところ、大蟹は甲羅が八つに割れて往生したといいます。
村人はその高僧の教えに従い蟹塚を築き、割れた甲羅を模した飴を作って厄除けにしたといいます。土山名物の一つ、蟹が坂飴の発祥とされる伝説です。



高尾金属工業の駐車場と左側の田圃に挟まれた道を直進すると田村川の袂にさしかかります。
田村川に架かる海道橋には擬宝珠が付けられています。江戸時代の板橋を再現したというもので、平成17年7月に完成しました。

海道橋
雪の海道橋にて
 
田村川に板橋が架けられたのは安永4年(1775)のことです。板橋の巾は二間一尺五寸(約4.1m)、長さは二十間三尺(約37.3m)で、橋を渡ると右側に橋番所があり、橋のたもとには高札場があったといいます。それ以前の東海道は川の手前で左折して、国道1号に出る道(現存)で、現在は国道で道は途切れていますが、国道の約50m先で田村川を徒歩で渡り、「道の駅・あいの土山」の先の左側(現存)にある道に合流していました。東海道は板橋の完成により安永四年(1775)からは田村川橋を渡って、田村神社の境内に入り、神社の参道で直角に曲がって、 土山宿(つちやましゅく)へ向かいました。

安藤広重の東海道「土山宿 」の浮世絵は「春の雨」と題して、雨の中、笠を目深にかぶり、合羽を羽織った大名行列の一行が 背を丸めながら、増水した田村川の板橋を渡り、田村神社の杜の中を宿場にむかう構図で描いています。江戸時代には土山は雨が多い土地柄という印象が強かったようで、広重の絵でも雨の情景が描かれています。

広重の土山の景

田村神社の境内に入ると右側に田村神社の二の鳥居、常夜燈、狛犬が並んで立っています。

田村神社の参道鳥居

田村神社は平安時代の弘仁十三年(822)の創建と伝えられる古社で、蝦夷征討で功績のあった坂上田村麻呂と嵯峨天皇、倭姫命を祀っています。東海道名所図会には「祭神、中央、将軍田村麻呂、相殿、東の方、嵯峨天皇、西の方、鈴鹿御前」とあります。鬱蒼とした樹林に囲まれた参道を神社に向って歩いていくと正面に見えるのが「拝殿」です。

田村神社は垂仁(崇神)天皇の御代(紀元前47年)に「鈴鹿大神」として、倭姫命を祀ったことが創始と伝えられています。その後、弘仁13年(822)に嵯峨上皇が坂上田村麻呂の霊を鈴鹿社に合祀して、社号を田村神社と定めたというものです。田村麻呂が祀られているのは、弘仁元年(810)田村麻呂が嵯峨天皇の勅を奉じて鈴鹿の悪鬼を討伐したことによります。このため当社は厄よけの神として有名のようです。

田村神社の参道は国道1号線に向かって一直線につづいています。参道の両側は鬱蒼とした杉木立になっています。国道1号線にでると歩道橋のある交差点になっています。国道1号線を渡ると本日の終着地点の「道の駅・あいの土山」です。鈴鹿峠を越えてから降り続いていた雪も道の駅についた頃はいくぶん小降りとなりましたが、周辺の畑は白銀の世界が広がっていました。

道の駅・あいの土山

そして交差点の角に1軒の店があります。この店では土山に残る伝説「蟹が坂」に出てくる「かにが坂飴」を販売しています。

かにが坂飴
かにが坂飴販売所

私本東海道五十三次道中記 第31回 第1日目 井田川駅前から亀山宿をぬけて関宿へ
私本東海道五十三次道中記 第31回 第2日目 関宿から坂下宿、鈴鹿を越えて土山宿へ(その一)
私本東海道五十三次道中記 第31回 第3日目 静かな土山宿をぬけて土山大野の三好赤甫旧跡まで

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