2016年10月28日(金)
今にも雨が降り出しそうな雲行きの下、この日は京都洛北を中心に観光をします。朝一番で一休さんと千利休ゆかりの大徳寺の境内を散策し、隣接する今宮神社へ向かいました。
平日の朝の8時半、人通りも少ない今宮神社への参道を進んで朱色も鮮やかな楼門へ。
今宮神社楼門
ここ今宮神社は病気・厄除けの御利益があるという「あぶり餅」で有名です。あぶり餅を売る店は今宮神社の東門前の参道を挟んで仲良く2軒が向い合せで店を構えています。朝早い時間のため、まだ開店していません。どうしても食したいので、いったん別の場所を回ってから再び戻ってくることにしました。
神社の東門に向かって右側の店が「一和(一文字和輔)」、左側が「かざりや」です。ちなみに「一和」は創業なんと1000年、「かざりや」はそれでも600年の歴史を刻んでいる老舗です。
かざりや
一和
あぶり餅とは、きな粉をまぶした親指ほどの大きなの餅を竹串の先端に刺し、若干焦げがつくくらいに炭火であぶり、白みそ仕立ての甘い味噌を塗ったお菓子です。
あぶり餅
かざりや
私たちは特に理由もなく「かざりや」であぶり餅をいただきました。食べ比べていないので、その違いはわかりません。一人前7本で500円。7本ではちょっと物足らない量ですが、ちょっとしたおやつにはいいのではないでしょうか。
「かざりや」さんで「一和」との違いを聞くも、「それぞれ好みがちがいますので……」と答えにならない答えが返ってきました。思うに形状や味付けもほとんど変わらないので、味は同じかもしれません。
大きな楼門をくぐると広い境内が現れます。社殿はかなり奥に構えています。今宮神社の歴史は古く、平安遷都以前にこの場所には今宮神社の前身である疫神社(祭神はスサノオ)が置かれていたそうです。
楼門
境内
拝殿
そして西暦1001年に都で疫病が流行ったことから、疫神社に神殿、玉垣、神輿を造らせて「今宮社」と名付け、大己貴命(おおなむちのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)の三柱が祀られました。
その後、京都は応仁・文明の乱で今宮神社は消失し、さらには戦国の戦火にまみれ、今宮神社は荒廃していきます。そして戦国の世が一段落した文禄2年(1593)に秀吉が今宮社を再興し、神輿1基を寄進したと伝えられています。
さて、今宮神社が別名「玉の輿神社」と呼ばれている由縁ですが、実は五代将軍綱吉公の生母である桂昌院と関係があるのです。桂昌院は京都西陣の八百屋の家に生まれた「お玉」なのですが、あの春日局の計らいで三代将軍家光の側室となって綱吉を生み、最終的には官位従一位まで上り詰めた女性です。
桂昌院は京都の寺社の復興に並々ならぬ力を注ぎ、特にここ今宮神社に対してはことのほか崇敬の念が強かったといいます。今宮神社への桂昌院の崇敬の念と将軍生母にまでなったお玉の出世があいまって、当社が「玉の輿神社」と呼ばれるようになったのです。とはいっても、昼前に私たちが訪れた時には、参拝客はほとんどおらず、玉の輿願望の若い女性はいませんでした。
本社
本社
透塀
念願の「あぶり餅」も食し、洛北めぐりをつづけることにします。


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今にも雨が降り出しそうな雲行きの下、この日は京都洛北を中心に観光をします。朝一番で一休さんと千利休ゆかりの大徳寺の境内を散策し、隣接する今宮神社へ向かいました。
平日の朝の8時半、人通りも少ない今宮神社への参道を進んで朱色も鮮やかな楼門へ。

ここ今宮神社は病気・厄除けの御利益があるという「あぶり餅」で有名です。あぶり餅を売る店は今宮神社の東門前の参道を挟んで仲良く2軒が向い合せで店を構えています。朝早い時間のため、まだ開店していません。どうしても食したいので、いったん別の場所を回ってから再び戻ってくることにしました。
神社の東門に向かって右側の店が「一和(一文字和輔)」、左側が「かざりや」です。ちなみに「一和」は創業なんと1000年、「かざりや」はそれでも600年の歴史を刻んでいる老舗です。


あぶり餅とは、きな粉をまぶした親指ほどの大きなの餅を竹串の先端に刺し、若干焦げがつくくらいに炭火であぶり、白みそ仕立ての甘い味噌を塗ったお菓子です。


私たちは特に理由もなく「かざりや」であぶり餅をいただきました。食べ比べていないので、その違いはわかりません。一人前7本で500円。7本ではちょっと物足らない量ですが、ちょっとしたおやつにはいいのではないでしょうか。
「かざりや」さんで「一和」との違いを聞くも、「それぞれ好みがちがいますので……」と答えにならない答えが返ってきました。思うに形状や味付けもほとんど変わらないので、味は同じかもしれません。
大きな楼門をくぐると広い境内が現れます。社殿はかなり奥に構えています。今宮神社の歴史は古く、平安遷都以前にこの場所には今宮神社の前身である疫神社(祭神はスサノオ)が置かれていたそうです。



そして西暦1001年に都で疫病が流行ったことから、疫神社に神殿、玉垣、神輿を造らせて「今宮社」と名付け、大己貴命(おおなむちのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)の三柱が祀られました。
その後、京都は応仁・文明の乱で今宮神社は消失し、さらには戦国の戦火にまみれ、今宮神社は荒廃していきます。そして戦国の世が一段落した文禄2年(1593)に秀吉が今宮社を再興し、神輿1基を寄進したと伝えられています。
さて、今宮神社が別名「玉の輿神社」と呼ばれている由縁ですが、実は五代将軍綱吉公の生母である桂昌院と関係があるのです。桂昌院は京都西陣の八百屋の家に生まれた「お玉」なのですが、あの春日局の計らいで三代将軍家光の側室となって綱吉を生み、最終的には官位従一位まで上り詰めた女性です。
桂昌院は京都の寺社の復興に並々ならぬ力を注ぎ、特にここ今宮神社に対してはことのほか崇敬の念が強かったといいます。今宮神社への桂昌院の崇敬の念と将軍生母にまでなったお玉の出世があいまって、当社が「玉の輿神社」と呼ばれるようになったのです。とはいっても、昼前に私たちが訪れた時には、参拝客はほとんどおらず、玉の輿願望の若い女性はいませんでした。



念願の「あぶり餅」も食し、洛北めぐりをつづけることにします。





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