大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

お江戸牛込神楽坂ぐるっと散策~毘沙門天・赤城神社~

2012年01月27日 17時14分30秒 | 新宿区・歴史散策
お江戸の中でも「粋」な町として知られている神楽坂はJR飯田橋駅のそばを走る外堀通りを入口とする「神楽坂」を中心とした地域です。

江戸時代には神楽坂下から外堀に架けられた橋を渡ったところに御城へ通じる重要な門である「牛込御門」がありました。江戸の切絵図を見ると外堀側から坂を登り、登りきったところにある善國寺までが神楽坂、その先が肴町、通寺丁の寺社地へと続いています。

この寺社地を抜けた地域が「矢来町」なのですが、江戸時代初期(1624年頃)に大老坂井忠勝が屋敷を構えたことで、坂上の矢来の屋敷から前述の牛込御門までの道筋を大老の登城道としてつくられたのが今で言う「神楽坂」なのです。

※坂井忠勝
武蔵川越藩の二代藩主、その後、若狭小浜藩の初代藩主。三代将軍家光公、四代将軍家綱公の時代に老中、大老を務めた。

現在の神楽坂は坂道なのですが、江戸時代を通じてこの道は階段だったそうです。ですから江戸の古地図をみると神楽坂には階段を示す「横線」が入っています。明治に入り、周辺の武家屋敷を取り壊し、町人の町、花柳の町になってから坂道になったようです。

毘沙門天善國寺
毘沙門天善國寺山門

そんな坂道を登っていくと神楽坂の守護神として鎮座する「毘沙門天善國寺」が左手に現れてきます。朱塗りの山門には毘沙門天と善國寺の提灯が燈され、花街神楽坂を連想させるような雰囲気を漂わせています。

山門に燈された提灯

毘沙門天善國寺の創設は古く今から400年ほど遡る文禄4年(1595)のことです。家康公の江戸初入府が1590年のことですから、御城や江戸の町づくりがまだ本格的に始まっていない頃です。もともと善國寺は家康公より寺地を賜り、日本橋馬喰町に開基した歴史をもっています。

また徳川御三家の水戸家の黄門様も善國寺の毘沙門天に深く帰依し、寛文10年(1671)に火事で焼失した当寺を黄門様の手により麹町に再建したことが伝わっています。さらに御三卿の田安家、一橋家の祈願所として徳川家とは深く縁があった寺なのです。

善國寺毘沙門天ご本堂

善國寺がここ神楽坂に移ってきたのは寛政4年(1792)のことです。この頃から善國寺の毘沙門天は江戸の三毘沙門として庶民の尊崇の的となり、それまで武家屋敷が連なっていたこの地域も徐々に町屋が増え、明治に入ると花街が形成され、華やかな町へと姿を変えていきました。

善國寺毘沙門天境内

山門をくぐると目の前にご本堂がど~んと構えています。そのご本堂を守るかのように一対の獣像が置かれています。実はこれは寅毘沙と呼ばれているもので、神社で言えば狛犬に相当するものです。なぜ寅毘沙と呼ばれているかというと、毘沙門天は寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻にこの世にお出ましになったといわれているからだそうです。この寅毘沙は江戸時代後期に造られてものです。

寅毘沙(左)
寅毘沙(右)

毘沙門様をあとに更に坂を登り進み、ほぼ登りきったあたりにあるのが「赤城神社」です。実はかなり以前にこの場所を歩いたときに見た景観が一変していることに気がつきました。以前の赤城神社は鎮守の杜の中にお社が構えていたように記憶していたのですが、なんとあまりに美しく変身してしまっていたのです。

赤城神社鳥居

鳥居も以前は石造りのものであったのですが、今は見るも鮮やかな朱色の鳥居に変わっています。そして何よりも御社殿へとつづく参道が現代感覚に満ち溢れ、その参道にそって高級そうなマンションが建っているではありませんか。

赤城神社参道とモダンな狛犬
本殿と蛍雪天神

この赤城神社は江戸時代には牛込の総鎮守「赤城大明神」と呼ばれ、日枝神社、神田明神と並んで「江戸大社」の一つに数えられた格式ある神社なのです。…が、時代が変わり、平成の世になって諸般の事情があったのでしょう。なんと赤城神社再生プロジェクトなるもので、老朽化した社殿を建て替え、さらに安定的な収入を得るために境内に隣接して分譲マンションを建ててしまったといいます。

蛍雪天神の祠

そして面白いことに境内には本社殿の他に、蛍雪天神なる真新しい社殿が置かれています。「蛍雪」とあることから予想がつくと思いますが、なんとあの受験雑誌「蛍雪時代」で有名な旺文社の寄付で再興された社で、受験生の合格を専門的に祈願することを目的としているようです。もちろん祭神は菅原道真公なのですが…。





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ