古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

銅鐸の考察⑫(おまけ)

2020年04月16日 | 銅鐸
 古代日本の成り立ちにおいて謎の青銅器である銅鐸をどのように位置づけるか、について自分なりに考えてきました。知っているようで知らない銅鐸、まずは「そもそも銅鐸とは何ぞや」を勉強するところから始めました。最初、意外にも手頃な価格で手に入る書籍があまりないことに戸惑いました。加えて、もともと発行冊数が少ないのか、価格は手頃でも新品が手に入らないものが多く、結果、今回このために手に入れた書籍は一冊を除いてすべて古本ということになりました。ただ、これまでに購入していた様々な書籍や博物館の図録が役に立ったのはよかったです。とはいえ、それらの書籍だけではどうしても隔靴掻痒の感が否めず、ネットを検索しまくって様々な情報を集めました。その中でいちばん役に立ったのは様々な専門家が書いた論文でした。専門家の論文が手に入ったのは有難かった。さらに、それらの書籍や論文にくわえて古代史研究家の皆さんのブログも大いに参考にさせていただきました。

 そして、私にとってラッキーだったのが、それらの書籍や論文などに登場する遺跡の多くがこれまでの古代史の勉強で何度も出てきた遺跡で、それらについて多少なりとも知識を持っていたこと、さらにはその半分くらいが実際に行ったことのある遺跡だったということです。銅鐸出土地はあまり行ったことがないのですが、大阪や奈良周辺のみならず北部九州や出雲、吉備、丹後など、これまでに行った実地踏査ツアーが大いに役立ちました。現地を知っているだけでイメージが広がります。

 とくに昨年、岡山へ実地踏査ツアーに行ったときの経験が今回の結論に至った大きな理由のひとつになりました。弥生時代終わり頃の楯築墳丘墓を訪ねたこと、その墳丘横に祀られる弧帯文石の実物を見たこと、さらに前方後円型の宮山墳丘墓を訪ねたこと、そして博物館で特殊器台を見たこと。吉備で見たこれらのものが畿内に入ってきている。それとは逆に、北部九州の各地を巡った時に見てきた甕棺墓や銅剣、銅矛は畿内にない。北部九州の勢力が東進して銅鐸祭祀を行う勢力を制圧したという説もあるかな、と思って勉強を始めたものの、私の結論はそこには至りませんでした。

 今回の銅鐸の勉強はこれまでの中で最も頭を使ったかも知れない。でもその分、けっこうな達成感があります。ただし、私がこれまで記紀の記述をもとに考えてきた古代日本国の成立過程と整合性があるかどうかの確認はこれからです。もしかしたら、自説の修正ということになるかもわかりませんが、それはそれでまた楽しいことです。


■参考にした主な書籍・論文・Webサイト
「対論 銅鐸」 森浩一・石原博信
「青銅器の考古学」 久野邦雄
「邪馬台国から大和政権へ」 福永伸哉
「祭りのカネ銅鐸」 佐原真
「徹底討論 銅鐸と邪馬台国」 銅鐸博物館編
「卑弥呼以前の倭国500年」 大平裕
「銅鐸の時代」 春成秀爾
「弥生青銅器の成立年代」 春成秀爾
「弥生青銅器祭祀の展開と特質」 吉田広
「銅鐸・武器形青銅器の埋納状態に関する一考察」 石橋茂登
「小銅鐸同工品の検討」 臼井久美子 
「銅鐸文様の起源」 設楽博己
「銅鐸の世界」 国立歴史民俗博物館発行「歴博」第121号
「邪馬台国時代の王国群と纒向王宮」 石野博信
「邪馬台国の候補地 纒向遺跡」 石野博信
「北近畿の弥生王墓 大風呂南墳墓」 肥後弘幸
「吉備の弥生大首長墓 楯築弥生墳丘墓」 福本明
「王の鏡 平原王墓とその時代」 糸島市立伊都国歴史博物館編
「王権誕生」 寺澤薫
「銅鐸の謎を探る」 滋賀県野洲市公式サイト 
「大岩山と近江の銅鐸」 守山弥生遺跡研究会サイト 

■今回のレポートに登場する遺跡で行ったことのあるところ
 吉野ケ里遺跡
 吉武高木遺跡
 平原遺跡
 三雲南小路遺跡
 井原鑓溝遺跡
 須玖岡本遺跡
 立岩堀田遺跡
 荒神谷遺跡
 加茂岩倉遺跡
 西谷墳墓群
 青谷上寺地遺跡
 楯築墳丘墓
 宮山墳丘墓
 赤坂今井墳丘墓
 大風呂南墳墓群
 三坂神社墳墓群
 纒向遺跡
 箸墓古墳
 ホケノ山古墳
 西殿塚古墳
 中山大塚古墳 
 朝日遺跡

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銅鐸の考察⑪(倭国大乱と卑弥呼共立)

2020年04月15日 | 銅鐸
【倭国大乱と卑弥呼共立】
 銅鐸埋納との関係でもうひとつ確認しておきたいのが高地性集落である。寺沢薫氏によると高地性集落にはピークが3回あり、1回目のピークが弥生中期後半で、瀬戸内海沿岸を中心に爆発的に出現して短期で消滅する。鉄器化の進んだ最新武器を持つ北部九州に対する防御のために築かれたものの、実際には北部九州と瀬戸内、近畿諸国などの間で長距離間戦争が勃発した様子はないという。「聞く銅鐸」が埋納された時期と合致しているが、北部九州勢力が銅鐸祭祀国を制圧したということではなかった。
 そして弥生後期にくる2回目のピークには2つのタイプがあり、第1のタイプは1回目のピークの弥生中期末に作られた集落が後期初めから前葉まで残ったものか、もしくは後期前半頃の限られた時期だけ出現して消えるもので、いずれも瀬戸内海や大阪湾沿岸の比高の高い山頂に多いという。もう一方の第2のタイプは、弥生後期の全期間にわたって断続的にでも継続するタイプで、第1のタイプと違って海岸部だけでなく河川をさかのぼった平野の奥や盆地、丘陵部にも顕著に現れ、関が原や伊賀盆地を越えて伊勢湾岸地域まで広がり、後期末(2世紀頃)には北陸や東海地方にも広くめられる。寺沢氏はこの2回目のピークにおける高地性集落出現の緊張関係の背景は、1回目のときのような突発的、外的、直接的なものではなく、もっと継続的、内部的で複雑な社会的緊張をはらんでいるという。

 高地性集落が弥生後期末になると北陸や東海まで広がっていることは三遠式銅鐸の埋納と符合し、さらに寺沢氏の言う複雑な社会的緊張というのは、魏志倭人伝にある「倭国大乱」を想起せざるを得ない。倭国大乱の時期は、後漢書によると桓帝と霊帝の治世の間、つまり146年から 189年となり、まさにこのときに高地性集落の2回目のピークと時期が重なる。鳥取県の青谷上寺地遺跡では弥生後期後葉の殺傷痕人骨が多数見つかっており、倭国大乱は日本海側にも及んだ可能性もある。ただし、寺沢氏は倭国大乱もあくまで後期社会の軋轢と緊張関係の延長であるとして、高地性集落との特段の因果を認めていない。しかし、高地性集落が列島における緊張関係を反映したものである以上、その関係を認めざるを得ない。
 いずれにせよ、倭国大乱は弥生時代後期後半に発生した。そして魏志倭人伝は「其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名日卑弥呼」として、倭国大乱のあとに王として卑弥呼が共立されたことを記す。2世紀末から3世紀初頭(寺沢氏は3世紀のごく初めとする)のことである。

 卑弥呼が共立されたと考えられる弥生時代の終末期、大和では画期的な変化が見られる。そのひとつが纒向遺跡の出現である。西暦200年前後に造られた大規模な運河、3世紀前半に建てられた祭殿と考えられる5棟の大型建物、祭祀に用いられたと考えられる導水施設、祭祀用具と見られる弧文円板や鶏型木製品などが検出されているほか、遺跡内で見つかった土器の15%が伊勢や河内、吉備など各地から持ち込まれた外来土器であることが特徴である。また、住居跡は見つかっていないことも含めて、この遺跡は極めて政治的あるいは祭祀的な都市であったと考えられる。

 もうひとつの画期はこの纒向で前方後円墳が発祥したということだ。最古の定型化された前方後円墳とされる箸墓古墳の築造は3世紀中頃とも後葉とも言われるが、それに先駆けて纒向型前方後円墳と呼ばれる古墳が出現する。3世紀中頃の築造とされるホケノ山古墳からは先に見た画文帯神獣鏡が出土している。そして纒向で始まった前方後円墳という首長霊祭祀の舞台はそれまで各地で行われていた祭祀や墓制が集められて出来上がったと考えられる。なお、この纒向でも「見る銅鐸」の破片が見つかっている。新しい祭祀を開始するにあたって銅鐸の破壊が行われたのだ。

 各地の祭祀や墓制の寄せ集めとして最初に確認すべきは前方後円墳そのものである。この前方後円墳は吉備の楯築墳丘墓が原型と言われている。寺沢氏によると、築造が古墳時代直前であること、全長が約80mと大規模ながらも纒向型前方後円墳はそれを少し上回ること、方形部をひとつはずせば前方後円形になり、さらに纒向型前方後円墳の円形部と方形部の比率である2対1になること、そして墳丘上で首長霊祭祀の葬送儀礼が行われていること、などがその理由である。
 その楯築墳丘墓の葬送儀礼で使われた吉備の特殊器台と特殊壺が箸墓古墳で見つかっている。纒向ではほかに西殿塚古墳、中山大塚古墳、弁天塚古墳の3つの古墳からも出ている。弁天塚古墳は詳細不明であるが、西殿塚古墳は古墳時代前期前半、中山大塚古墳は前期初頭の築造とされている。これらの古墳で見つかった特殊器台は宮山型と都月型の2種類があり、宮山型は吉備では宮山墳丘墓でのみで見られ、この墳丘墓はなんと前方後円形なのだ。
 さらに先に述べたように、纒向遺跡からは祭祀用具と見られる弧文円板が見つかっている。これは纏向型前方後円墳である纒向石塚古墳から出土したものであるが、その文様はまさに吉備の特殊器台、あるいは楯築墳丘墓で見つかった弧帯文石の文様にそっくりである。纒向は想像以上に吉備の影響を受けている。

 次に、纒向型前方後円墳であるホケノ山古墳の埋葬施設に見られる木槨を取り囲む積石囲いと同じ構造を持ち、画文帯神獣鏡が出ているのが、ホケノ山古墳に先立つ2世紀末あるいは3世紀初頭の築造とされている徳島県鳴門市の萩原1号墳・2号墳である。いずれも円形部に突出部をもつ前方後円形をしており、阿波や讃岐でよく見られる積石塚墳丘墓である。箸墓古墳は陵墓参考地として宮内庁の管理下にあるが、その宮内庁が台風の影響を調べるために後円部にトレンチをいれたところ、最上段の直径44mにわたる部分が土ではなく石を積んでいることがわかったという。阿波や讃岐の積石構造は埋葬施設のみならず、墳丘の築造そのものにも取り入れられた。
 石という点で見ると、ホケノ山古墳や箸墓古墳に見られ、その後の前方後円墳の特徴の一つとなる葺石がある。その祖型としては、山陰の四隅突出型墳丘墓の貼石、あるいは少し時代をさかのぼった弥生中期後葉から後期前葉の丹後地域に見られる方形貼石墓が考えられる。また、先の阿波・讃岐の積石塚の発展型という考えもある。

 そして最後に銅鏡について確認しておく。ホケノ山古墳やその後、各地の古墳に副葬される鏡は画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡であり、北部九州の墓に副葬されてきた方格規矩鏡や内行花文鏡とは異なる。しかし、鏡を副葬するという儀礼は北部九州から来たものであろう。

 弥生時代終末期に大和に出現した政治都市「纒向」は吉備、阿波、讃岐、出雲、丹後、そして北部九州といった各地の儀礼や墓制を取り入れて出来上がった。それはまさに倭国大乱のあと、各地域の首長たちの合議によって女王卑弥呼を共立した事実に重なる。

 以上、銅鐸に関して知っておくべき基本的なことに加え、先学の成果をもとに銅鐸の始まりから終焉、そしてそれに続く古墳時代幕開けまでの経緯を私なりに考えてみたが、結果的にすでに多くの方が唱えている内容と重なってしまった。しかし、さほど豊かではないながらも最大限のイマジネーションをもって様々な可能性や選択肢を検討した結果、最も蓋然性が高く、合理的に説明ができる内容がこういうことではないかと考える次第である。
 
 最後に、弥生時代の中期初めから後期後半にかけて西日本一帯に広がった銅鐸であるが、記紀はこの銅鐸に全く触れることがない。その理由は何のことはない、記紀の編纂が始まった7世紀には銅鐸のことはすっかり忘れ去られていたのだと思う。縄文時代以来の様々な古代遺跡で翡翠の勾玉がたくさん出ている。今となってはその翡翠が新潟県の糸魚川産というのは周知の事実となっているが、仏教が栄える奈良時代以降、翡翠は歴史から姿を消し、その後1,000年以上もの間、日本で翡翠が採れることが忘れ去られた。日本で翡翠が再発見されるのは昭和の時代に入ってからである。銅鐸もまさに同じ道をたどったのではないだろうか。




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銅鐸の考察⑩(銅鐸終焉時の状況)

2020年04月14日 | 銅鐸
【銅鐸終焉時の状況】
 ムラからクニへ、そしてクニどうしの連合や統合が進み、農耕祭祀や武威発揚祭祀を廃して首長霊祭祀や祖霊祭祀を行うようになって銅鐸は終焉を迎えた。銅鐸がその役割を終えた弥生時代後期の状況について確認しておきたい。弥生時代後期といえば1世紀中ごろから3世紀中ごろまでの約200年間であるが、クニが統合され、祭祀が変化するプロセスをこの200年に見ることができる。

 福永伸哉氏によると、弥生中期に盛行した方形周溝墓は一つの周溝墓に複数の埋葬施設をもつ家族墓であったものが、畿内において後期後半から終末期に入ると埋葬施設を一基しか持たないものが多くなり、有力者の個人墓へと変質した状況が見られるという。墓制の変化という点からは同様に、先にも触れた通り、弥生後期に入ると各地に墳丘墓が築造されるようになり、首長霊祭祀が行われた様子がわかっている。

 広島県の三次盆地に最も古い例がみられる四隅突出型墳丘墓は、弥生後期後半から出雲・伯耆を中心にした山陰地方に、そして後期後葉からは美作・備後の北部地域に広まった。島根県出雲市にある西谷墳墓群の3号墓は、方形部が40m×30m、高さ4.5m、突出部の長さが6~7mもある最大規模の四隅突出型墳丘墓である。墳丘上にある第1主体部の周囲に4つの柱穴が検出され、葬祭用の施設があったと考えられている。その第1主体の木棺内は水銀朱が敷きつめられ、碧玉製管玉や鉄剣など多数の副葬品が出ている。後述する吉備の特殊器台・特殊壺など他の地域から搬入された土器が検出され、亡き首長を弔う葬送儀礼が行われたようだ。四隅突出型墳丘墓は丹後を空白域として東は福井、富山まで見られる。

 その四隅突出型墳丘墓の空白域である近畿北部の丹後地方では、弥生時代終末期に豪華な副葬品をもつ大型の墳丘墓が出現している。京都府京丹後市の赤坂今井墳丘墓は、39m×36m、高さ3.5mの方形墳丘墓である。墳頂中央部で巨大な墓壙が発見され、ガラス製の管玉や勾玉で作られた三連の豪華な頭飾りのほか、鉄剣や鉄刀などが副葬されていた。また、左坂墳墓群、三坂神社墳墓群、大風呂南墳墓群など、丘陵の斜面に沿って階段状に切り出された方形台状墓は丹後地方において弥生時代後期後葉あるいは終末期まで見られる墓制である。素環頭鉄刀やガラス釧などの貴重品が副葬されるとともに墓壙内破砕土器供献が見られ、ここでも葬送儀礼が行われたことがわかっている。

 また、吉備地方では弥生時代後期後葉、全長80mと想定される全国でも珍しい双方中円型の楯築墳丘墓が築かれる。木棺内に厚く敷き詰められた水銀朱や鉄剣などの副葬品もさることながら、墓壙内に落ち込んだと思われる厚さ数十センチにおよぶ円礫堆に混じって見つかった吉備特有の特殊器台と特殊壺、数百の破片に砕かれた弧帯文石が注目される。これらは墓上で葬送の祭祀が行われたことを示している。特殊土器と特殊壺は亡き首長の霊とともに行う供飲供食あるいは飲食物供献の祭祀と考えられ、弧帯文石については他に類例がないので確かなことがわかっていないが、呪術具として穢れを祓う形代のような使い方をしたのではないかと解されている。このように吉備では首長霊祭祀が行われたことがわかっている。

 弥生時代後期後半の中国地方や近畿地方においてこのような状況が確認される一方、北部九州、とりわけ玄界灘沿岸部では少し事情が違っているようだ。弥生中期初頭の吉武高木遺跡を皮切りに首長霊祭祀あるいは祖霊祭祀の兆しが確認された北部九州ではその後も、中期後半の須玖岡本遺跡や三雲南小路遺跡、立岩堀田遺跡、後期初頭の桜馬場遺跡、そして後期前半の井原鑓溝遺跡などで首長霊祭祀が想定される状況が続く。これらの遺跡においては特に大量の銅鏡(前漢鏡)が副葬されていることが特徴である。しかし、弥生後期後半に入るとこの状況に変化が見られる。後期後半としては40面の銅鏡(大型内行花文鏡5面、内行花文鏡2面、方格規矩鏡32面、他1面)が出た糸島市の平原遺跡があるものの、その他の地域においては豊富な副葬品を伴ういわゆる厚葬墓が見られなくなる。これは先に見た出雲、丹後、吉備などの地域と対照的である。また、この時期にこれらの地域で盛んに築かれた大規模な墳丘墓も北部九州ではほとんど見られない。これらのことからも、弥生中期から後期前半にかけて銅鏡の副葬が定着していた北部九州の勢力が後期後半あるいは終末期に東進して中国、四国、近畿を制圧したということは考えにくい。
 福永伸哉氏は「邪馬台国から大和政権へ」の中で「弥生中期後葉には北部九州を中心に多量の前漢鏡の流入が始まり、その後も後漢鏡が継続して列島にもたらされ(た)」、「内行花文鏡や方格規矩鏡などおなじみの漢鏡ではなく、弥生終末期に現れるのは画文帯神獣鏡と呼ばれるあらたなデザインの銅鏡だった」、「画文帯神獣鏡は史上初めて畿内地域に分布の中心をもって現れた大陸文物である」と述べている。
 
 ところで、「見る銅鐸」の最終形である近畿式銅鐸は近畿式といいながら大和ではほとんど出ていない。「聞く銅鐸」を終わらせた大和では「見る銅鐸」による祭祀を選択せず、画文帯神獣鏡による新たな祭祀を取り入れた。その後、各地で「見る銅鐸」が埋納されて銅鐸祭祀が終焉を迎えるのと引き換えに、畿内を中心に銅鏡を用いた祭祀が行われるようになる。





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銅鐸の考察⑨(見る銅鐸の埋納)

2020年04月13日 | 銅鐸
【見る銅鐸の埋納】
 「聞く銅鐸」による農耕祭祀を行っていたムラの統合が進んでクニへと発展していく過程で、あるいはムラやクニの祭祀形態が農耕祭祀から首長霊祭祀や祖霊祭祀へと変化していく過程で銅鐸の集中や埋納が行われた。ただし、農耕祭器としての「聞く銅鐸」を廃止して首長霊祭祀や祖霊祭祀に移行したクニがあった一方で、弥生時代後期に入ってからも銅鐸の大型化をさらに進めて突線鈕2式以降のいわゆる「見る銅鐸」に発展させたクニがあった。この「見る銅鐸」には近畿式銅鐸と三遠式銅鐸の2系統がある。近畿式銅鐸は、鈕の頂に双頭渦文をつけ、鐸身の区画帯を斜格子文で飾ることなどを特徴とし、近畿地方を中心に畿内の周辺部と紀伊西部、近江、伊勢、尾張、三河、遠江などに分布する。三遠式銅鐸は、鈕の頂に飾耳がなく、鐸身の横帯には綾杉文を採用することなどを特徴とし、近畿式銅鐸にやや遅れて成立し、三河、遠江を中心に限られた範囲に分布する。
 滋賀県の守山弥生遺跡研究会のサイトによると、大半の「聞く銅鐸」が埋納される段階で10系統以上あった銅鐸の種類が5つの系統に整理され、その5つの系統の銅鐸がそれまでの形式や装飾を引き継いで「見る銅鐸」として大型化、装飾化が進んだ、とされる。弥生時代後期初頭の「見る銅鐸」の5つの系統とは、山陰および中国地方の製作とされる「迷路派流水文」、近畿東部の「大福型」、瀬戸内東部の「横帯分割型」、東海地方の「東海派」、奈良の「石上型」である。これがさらに近畿式と三遠式に統合されていくのであるが、近畿式は大福型をベースに迷路派流水文と横帯分割型の影響を受けて統合され、三遠式は東海派をベースに横帯分割型の様式が取り込まれた。そして弥生時代後期後葉、最終的には近畿式に統合されることとなる。この銅鐸様式が統合される変遷は、それぞれの銅鐸を保有していた地域勢力が連携あるいは統合されていく変遷をなぞっていると考えられている。

 一方、この頃の北部九州では銅剣や銅矛などの武器形青銅器や中国製の青銅鏡(前漢鏡)を副葬した甕棺墓が弥生時代中期に最盛期を迎えたが、後期に入ると「聞く銅鐸」と同様に廃れていく。武器形青銅器は本来、実用的な武器として利用され、その所有者が亡くなると威信財として甕棺墓に副葬されていたが、朝鮮半島から鉄器が流入するようになると、その実用性を失い、さらには甕棺墓の終焉とともに副葬品としての役割も終えた。
 実用的な武器あるいは威信財としての用途を失った武器型青銅器はその後、武威を発揚するための祭器として用途を転換した。そして、その武威性をより発揚するために大型化が図られたと考えられる。銅剣は細形、中細型、平形と大型化し、弥生時代中期には瀬戸内海沿岸部では平形銅剣、出雲を中心にした山陰では中細形銅剣が分布していたが、それらは弥生後期に入ると出雲の荒神谷遺跡にみられるように一斉に埋納された。また、もうひとつの武器型青銅器である銅矛を見ると、細形、中細形、中広形と大型化が図られ、最終的には広形銅矛として最大化することとなるが、こちらも弥生中期には中国地方で見つかっていたものが、後期に入ると北部九州から豊予海峡を越えて四国南西部という範囲に限られていくこととなる。

 弥生時代後期になって「聞く銅鐸」を埋納して農耕祭祀を廃止したクニ、あるいは武器型青銅器による武威発揚の祭祀を廃止したクニは、新たな統治手段としての首長霊祭祀や祖霊祭祀を司る司祭権を行使するための祭器や祭祀舞台を生み出していった。その結果、それまで「聞く銅鐸」や銅剣、銅矛などの武器形青銅器が見られた瀬戸内海沿岸や山陰から北陸にかけての日本海沿岸は大型青銅祭器の空白域となった。そして、吉備においては特殊器台、特殊壺という儀礼用の大型土器が製作されるとともに双方中円型の楯築墳丘墓が築かれ、山陰では四隅突出型墳丘墓、近畿北部では丘陵上の台状墓という墓制がその舞台となった。これらの新しい祭器や墓制に基づく祭祀に移行したクニにおいても、吉備、出雲、丹後といった地域単位での共通性がみられることから、「見る銅鐸」による農耕祭祀を継続したクニと同様に、祭器や祭祀を同じくする連合勢力として統合が進んでいったと考えられる。弥生時代後期の西日本の勢力図を祭器や祭祀形態の共通性で見るなら、銅矛祭祀の北部九州及び四国南西部、特殊器台・特殊壺の吉備、四隅突出型墳丘墓の山陰、台状墓の近畿北部、そして近畿式銅鐸の近畿、三遠式銅鐸の東海ということになろう。

 3世紀末に書かれたとされる魏志倭人伝には「倭人は帯方東南、大海の中に在り。山島に依り国邑を為す。旧百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国」とあり、これは漢書地理志の「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国と為す」を受けた記述になっている。つまり、漢の時代に朝見する国が100か国以上あったのが、魏の時代には30か国になったということだ。弥生時代中期から終末期にかけてのクニの統合を読み取ることができる。

 弥生時代後期、クニの統合にしたがって様式の統合が進み、近畿式として極大化した「見る銅鐸」であるが、「聞く銅鐸」と同様に、古墳時代を目前にした弥生時代後期後葉に次々と埋納され、終焉を迎える。それは北部九州や四国南西部で武威発揚祭器として用いられていた広形銅矛も同様で、いずれも古墳時代に受け継がれることはなかった。
 この状況について吉田広氏は、「広形銅矛と突線鈕式銅鐸は、少なくとも古墳時代に降ることが特定できた青銅祭器埋納が存在しないこと、古墳という葬送儀礼の新たな祭場に弥生青銅祭器が存在しないことから、古墳成立という時代転換を前にあるいは中で最後の埋納を終え、新たな祭器を作り出すことも、再び取り出すこともなくなり終焉を迎えていった」とする。





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銅鐸の考察⑧(聞く銅鐸の埋納)

2020年04月12日 | 銅鐸
【聞く銅鐸の埋納】
 弥生中期末から後期初頭にかけて古い銅鐸が埋納され、その後、弥生後期後半に新しい銅鐸が埋納され、銅鐸の時代は終焉を迎えた。銅鐸が埋納された理由については諸説ある。
 銅鐸埋納を祭祀と関連づける説として有名なのが土中保管説である。平時は地中に埋納して保管し、祭祀の際に取り出して使用したが、やがて祭祀や信仰の形が変化して銅鐸が使用されなくなり、埋められたまま忘れ去られたという説である。また、ムラの境界に埋納して邪悪な者の侵入を防いだという境界守護説もある。さらに大規模な風水害や干ばつなど、通常の祭祀では収めることができないほどのムラの一大事にあたって、銅鐸が発揮し得る最大の呪力に期待して最終手段として埋めたとする説もある。
 一方、銅鐸の埋納を祭祀と関連づけない考えとしては、政治的な社会変動により不要なものとして埋納したという説がある。この説によると破壊銅鐸の説明も容易となる。また、銅鐸祭祀を行わない外敵が攻めて来たために土中に隠匿したという説があり、この外敵を北部九州の集団とする考えが根強く主張されている。
 銅鐸が埋納された理由はこのように諸説あるが、私はその理由をひとつに求めることに無理があるように思う。とくに古い銅鐸の埋納はいくつかの要因が重なった結果と考える。そのもっとも大きなものとして近藤義郎氏の説を挙げたい。氏は銅鐸祭祀の廃絶について「共同体の成員を一つにむすびつけていた祭祀における呪的媒体が、司祭権を支配の手段として自己の掌下におさめた首長の神性のもとに、不要物と化したことをしめす」とした。私は次のような事態を想定しているのでこの考えに説得力を感じる。(ここで言う「共同体」を前述の「ムラ」と同義と考えて、以降は「ムラ」と表現する)

 稲作に基づく農耕共同体(ムラ)が存続していくためにはリーダーの存在が必要であり、そのリーダーはシャーマンとして万物の精霊と通じることによってムラを統治した。当初、シャーマンは媒体となる銅鐸を身に着けてその銅鐸と一体となって精霊と通じたのであるが、呪力をより高めるために媒体である銅鐸の大型化が図られた。銅鐸が大型化したことでシャーマンが身に着けることができなくなり、樹木などに吊るすようになった。これによってシャーマンと媒体である銅鐸の一体性が解除されて、銅鐸そのものに呪力を認める意識が進んだ。銅鐸はムラの象徴となり、安定した集団生活の拠り所となった。それまでは銅鐸を媒体とする前提で、リーダー自身が持つ精霊と通じる力の大きさが重要であったが、その力が銅鐸側に委ねられることになり、リーダーは呪力そのものから解放された。そしてリーダーはその銅鐸の管理や祭祀そのものを司る立場となり、これによって司祭権というものを手中に収めた。
 弥生時代のある時期に、集団に対する指導力を一元的に発揮するリーダーが司祭権を手にすることによって実質的な首長制が確立していった。この首長制の確立によって、縄文以来の精霊崇拝という信仰の形態が首長霊崇拝や祖霊崇拝へと変化していった。そのために銅鐸による農耕祭祀が徐々に廃れていくこととなった。これが特に古い形式の銅鐸が埋納されることとなった最も大きな要因ではないだろうか。

 次に大きな要因として考えられるのが、ムラの統合である。列島に稲作が広まると各地に稲作を基盤とするムラが生まれた。各ムラは自らが栽培、収穫したコメを消費するとともにムラ内に蓄えていった。それは不作の年に備えて、あるいは他のムラとの交易のためでもあった。また、生活が安定することでムラの人口が増えて新たな耕作地を開拓する必要にも迫られた。農耕生産性はムラによって差があり、その差は自ずとムラ間の貧富の格差となって表れる。また、新田開発や灌漑工事においては近隣のムラとの間で利害衝突が起こることもある。利害調整が不調に終わることもあれば、そもそも利害調整という面倒な手続きを踏まないムラも出てくる。貧富の格差や利害衝突の結果、ムラどうしの争いに発展し、こうした争いの結果としてムラの統合が進んでいく。貧しいムラが豊かなムラに支援を求めて、自発的にその支配下に入っていくこともあったろう。いずれにしても、支配される側が保有していた銅鐸は支配する側に譲渡するか、もしくは自ら廃棄あるいは埋めてしまった。前者の場合はムラの統合が進むにしたがって銅鐸が一か所に集まることになり、その後の複数銅鐸の埋納につながることとなった。また、この要因の派生パターンとして、他の地域から進出してきた銅鐸祭祀を行わない集団によって吸収される場合もあったかも知れない。

 北部九州、とりわけ玄界灘沿岸地域においては弥生時代前期から中期にかけて甕棺墓が盛んに作られた。そして、福岡県の吉武高木遺跡では弥生時代中期初め頃の甕棺墓から剣・鏡・勾玉といういわゆる三種の神器が見つかるなど、早くから階層分化に基づく首長霊祭祀が行われていたと考えられている。中期以降も福岡県の須玖岡本遺跡、三雲南小路遺跡などで大量の鏡を含む青銅器が副葬されていたことが確認され、階層分化と首長クラスの存在が想定されている。また、有明海沿岸部においても、銅鐸そのものが見つかった吉野ヶ里遺跡でさえ、弥生中期に築かれたとされる大規模な墳丘墓から銅剣が副葬された甕棺墓が見つかり、多数の祭祀用土器が出たことから、祖霊祭祀が行われていたと考えられる。
 このように北部九州エリアでは銅鐸祭祀を行っていた地域に先駆けて首長霊あるいは祖霊に対する信仰が定着していたと考えられ、この勢力が東へ進出したことによって銅鐸祭祀から祖霊祭祀や首長霊祭祀への転換が促された側面も少なからずあるだろう。また、これらの勢力が銅鐸祭祀のムラを支配下に置いたことがあったかもしれない。しかしそのことをもって、北部九州勢力が中国・四国から畿内地方を武力で席巻、あるいは制圧して銅鐸祭祀集団を軒並みその支配下に置いていったと考えるには無理がある。北部九州勢力が採用していた甕棺墓という墓制がそれ以外の地域でほとんど見られないのだ。

 弥生時代中期の初め頃に朝鮮式小銅鐸が日本に伝わって以降、日本独自の発展を続けた銅鐸であるが、弥生中期の終わり頃から後期の初めにかけて、精霊崇拝から首長霊崇拝・祖霊崇拝へ、という祭祀形態の変化や、ムラの統合、銅鐸祭祀を行わない勢力の進出など、いくつかの要因が複合的かつ同時並行的に起こった結果、銅鐸を必要としない、あるいは保有できない状況が生まれたと考える。その結果、弥生中期末から後期初頭にかけて各地で古い形式の銅鐸が埋納されることになったのではないだろうか。(「ムラ」の統合が進んだ結果、より広範囲に勢力を拡大した共同体を、以降は「クニ」と呼ぶこととする。)

 紀元前1世紀頃に書かれたとされる中国の史書である「漢書『地理志』」には「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国と為す」とあり、弥生中期の段階で日本国内が100余りのクニに統合されていたことが記されている。





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銅鐸の考察⑦(銅鐸出土時の状況)

2020年04月11日 | 銅鐸
【銅鐸出土時の状況】
 銅鐸は道路工事などの開発に伴って偶然に発見される場合がほとんどであったが、最近になって発掘調査によって見つかるケースも増えてきて、銅鐸が埋められた様子が次第に明らかになってきた。その埋め方については、銅鐸よりもひと回り大きな穴を掘り、そこに鰭を上下にして横向きに置くという方法による場合が多いとされているが、鰭を水平に置く場合も相当数あるようだ。また、わずかではあるが倒立状態で埋められたケースもある。しかし、鰭を上下にして埋納する方法はもっとも古い型式の菱環紐式からもっとも新しい突線紐式までほぼ一貫して見られる。
 また、銅鐸が単独で埋められた場合と、複数の銅鐸が同時に埋められた場合があり、後者の場合は紐を向かい合わせにしたり、入れ子と言って大きな銅鐸の中に小さな銅鐸を入れた状態で埋められたケースが見られる。いずれの場合も何らかの意思を持って丁寧に埋められているので、一般的には「埋納」という表現がなされている。徳島県の矢野遺跡の場合、銅鐸の周囲を黒色の砂質土によって包にこみ、さらにその外側を褐色の砂質土で取り巻くという非常に丁寧な方法で埋められていた。また、周辺からは銅鐸埋納坑を取り巻くようにして7ヵ所の柱穴が検出されたが、棟持柱を有する建物の存在が想定され、最も丁寧に埋納された例である。

 銅鐸の出土場所としては、島根県の加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡のように集落をはずれた丘陵の斜面や麓などの場合が多いとされるが、和歌山県の太田・黒田遺跡、前述の徳島県矢野遺跡、その矢野遺跡と鮎喰川を挟んだ反対側にある名東遺跡などでは集落の中から見つかっている。また、兵庫県加西市の加茂遺跡では集落のすぐ近くから、兵庫県南あわじ市や徳島県阿南市、大阪府堺市では砂浜や海岸付近からの出土であり、和歌山市を流れる紀ノ川の最下流の中州から見つかった紀ノ川銅鐸や同じく紀ノ川下流の河原から出た有本銅鐸のようなケースもある。辺鄙な山奥の斜面から出土することが多いという印象が強いが、実態は必ずしも一律ではない。しかし、いずれの場合も銅鐸が埋められたという事実は確かなようだ。

 銅鐸は完形のものとして出土する場合のほか、破壊された破片の状態で見つかることもある。兵庫県豊岡市の久田谷遺跡で見つかった銅鐸は大きさを整えるように砕かれた5~10センチの117個もの破片がまとめて埋められていた。鐸身の3分の1ほどの破片しかなく完形への復元は困難であるが、突線紐5式の鐸身部分であるとされる。このほか、飾耳部分だけが見つかったようなケースも含めて、これまでに20数例の破壊銅鐸の存在がわかっている。
 破壊された意味については諸説ある。銅鐸が祭器としての機能を果たしえなかった、つまり豊穣という成果を獲得できなかった場合に破壊されたとする考えや、九州から攻め入って来た他の集団に制圧された結果として祭器の破壊を強要されたとする考え、あるいは祭器としての役割を終えたものを破壊して他の器物に再利用したとする考えなどである。静岡県沼津市から出た飾耳の破片は穴をあけてペンダントとして利用された痕跡があるという。
 破壊銅鐸に関して疑問が残ることがある。鐸身の3分の1の破片が埋められていた久田谷銅鐸の残り3分の2はどこに行ったのか。さらに20数例の破壊銅鐸のうち、飾耳だけの場合が数例あるが、この場合も残りの鈕や鐸身の部分はどうなったのだろうか。破壊して埋納する場合は銅鐸全体の破片を埋めるのが自然であると思うが、これまで出土した破壊銅鐸はあくまで銅鐸の一部の破片が出ているに過ぎない。また、破壊銅鐸は新しい形式の突線鈕式が大半で、祭器としての役割を終える最終段階で破壊されている。
 これらの事実から銅鐸が破壊された理由は、個人がその破片を装身具として所持するケースや、銅鐸がもともと保持していた呪力にあやかろうとしてお守りのように保有するというケース、あるいは破片を原料にして他の青銅器物に再利用したケースなどが想定されるのではないだろうか。寺澤薫氏は再利用説を説き、春成秀爾氏も、銅鐸祭祀の終焉時には地上に残されていた銅鐸が積極的に破壊されて他の器物に改鋳されていった可能性があることを指摘している。

 また、銅鐸が出土する場合はその多くは1個単位での出土であるが、多数の銅鐸が同時に出土した例もある。加茂岩倉遺跡では39個、神戸市桜ヶ丘では14個、滋賀県野洲市大岩山からは14個と9個と1個の銅鐸が近接する3つの地点から見つかった。また、静岡県浜松市の都田川流域・浜名湖北岸の三方原台地ではこれまで14地点から16個もの銅鐸が見つかっている。
 福永伸哉氏によると、複数個がまとまって出土した37カ所、159個の銅鐸についてその組合せを見ると、菱環鈕式と外縁付鈕式、外縁付鈕式が複数個、外縁付鈕式と扁平鈕式、扁平鈕式が複数個、扁平鈕式と突線鈕1式、突線鈕1式・2式・3式、突線鈕3式が複数個、突線鈕3式と4式、同じく3式と5式、という組合せに限定され、古い形式の菱環鈕式や外縁付鈕式と、新しい形式の突線鈕式が一緒に出たケースはないという。さらに、古い銅鐸は古いものどうし、新しい銅鐸は新しいものどうしで埋められているという事実は、扁平鈕式以前の古い形式の銅鐸が埋められた時期と、新しい突線鈕式以降の銅鐸が埋められた時期が大きく隔たっていることを示唆している、として、それまでの有力説であった古墳時代を控えた弥生時代終末期に一斉に埋められたとする説に疑問を呈した。そして、古い銅鐸の埋納が集中的に行われたのが弥生時代中期末から後期初頭とし、新しい銅鐸、いわゆる「見る銅鐸」はその巨大化が頂点に達した弥生後期後半に突如として姿を消したとする。合理的な考えだと思う。




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銅鐸の考察⑥(銅鐸の用途)

2020年04月10日 | 銅鐸
【銅鐸の用途】
 銅鐸の型式の変化との関連でその用途について考えてみたい。弥生時代中期前半に朝鮮半島から伝わった朝鮮式小銅鐸は高さが数センチから10センチ程度で吊り手としての鈕がつき、さらに音を鳴らすための舌もついている。そしてこの朝鮮式小銅鐸をモデルに国内で作られた小銅鐸あるいはその後に大型化していく銅鐸には文様が施されるようになる。
 国立歴史民俗博物館発行の「銅鐸の世界」には、朝鮮式小銅鐸をさらに遡る中国の銅鈴は人の腰につけて使っていた、あるいは犬や馬の頸や馬車につけていた、とある。犬や馬につけるのは現代でも犬の首輪に鈴をつけたりしているのと同じであろう。家畜を飼い馴らすため、あるいは家畜の居場所がすぐにわかるようにするため、などの用途が考えられるが、人の腰につけるとはどういうことだろうか。「銅鐸の世界」はさらに、銅鈴が前6世紀に朝鮮半島に伝わったときには、司祭者が身体に着け、神懸かりの状態になるのを助けていた、と続ける。朝鮮式小銅鐸はシャーマンが使う祭器であるということだ。これが弥生中期の初めに日本に伝わったということは、それをモデルとして国内で作られた小銅鐸あるいはその後に大型化していく銅鐸も祭器として認識されていたということになろう。

 シャーマンが身体に着けて神懸りの状態になるのを助ける、というのはどういう姿であろう。想像するに、衣服の腰紐に小銅鐸をぶら下げて神に語りかけながら激しく身体を揺すると小銅鐸は激しい音を鳴らす。もしかするとぶら下げる小銅鐸はひとつでなかったかもしれない。この激しい音によって神懸り状態に入りやすくなるのだろう。あるいはその姿が神懸ったように見えたのだろう。神に念じながら激しく踊る姿は天の岩戸に隠れた天照大神を外に出すために踊る天細女命を彷彿とさせる。朝鮮半島から伝わった朝鮮式小銅鐸はその大きさを維持したままの小銅鐸と、次第に大型化するいわゆる銅鐸に分かれるのであるが、前者については伝来当初と同じような使われ方が続けられたのだろうか。また、後者はなぜ大型化し、文様や装飾が施されるようになったのだろうか。観念的な話になってしまうが次のように考える。

 縄文時代以来、日本列島では自然物や自然現象を崇拝する自然崇拝が行われていた。その対象は、天空、大地、山、海、太陽、月、星、雷、雨、風、樹木、森林、水、火、岩石、さらには動物など、あらゆるものに及んでいた。その自然崇拝が発展して、この世のすべてのものには霊魂や精霊が宿る、その万物に宿る精霊を崇拝するという精霊崇拝が定着していった。
 弥生時代に入って広がっていった稲作を基盤とした農耕中心の社会は集団生活を生み出し、さらには生活の安定をもたらした。耕作地の開拓や水路の確保、田植えや刈り取りといった農作業など、集団の構成員が互いに協力しなければ農耕中心の集団生活は維持できない。そこには自ずと秩序が求められ、集団を統率するいわゆるリーダーが自然発生的に生まれることになる。リーダーは集団に平和と安定をもたらすため、あるいは集団の平和と安定を脅かすものを忌避するために先頭に立つ。あるときは戦闘の場で、またあるときは祈りの場で。リーダーはシャーマンでもあった。精霊崇拝に基づく祭政一致による統治である。シャーマンは神や精霊と交流することによって神託や預言を伝達したり、呪術的な祭祀を行ったりした。つまり、万物に宿る精霊と人々との仲介役を果たすのがシャーマンであった。
 祭器としての銅鐸あるいは小銅鐸はそのリーダーがシャーマンとして祈りの場で身に着けて使用した。この段階では、シャーマンであるリーダーと祭器が一体となって呪力を発揮した。しかし、その祈りはうまく行くこともあればそうでないこともあった。そこでリーダーや集団の構成員は祭器を大きくすればより呪力が高まり、的確な神託を得ることができると考えたのではないか。つまりシャーマンと祭器が切り離されて祭器そのものに呪力を認めるようになっていった。そして祭器である銅鐸は大型化が図られると同時に装飾や文様が施されるようになった。大型化によって音響性や遠くからの視認性が増し、装飾や文様は銅鐸に造形美とともに神秘性をもたらした。この段階の銅鐸は「聞く銅鐸」と言われているが、すでに「見る」要素をも含んでいた。

 シャーマンたるリーダーは銅鐸を用いて何を祈ったのであろうか。前述の通り、集団に平和と安定をもたらすため、あるいは集団の平和と安定を脅かすものを忌避するために祈ったと考えるなら、銅鐸による祈りは豊穣の祈りであった可能性が高いだろう。太陽、雨、風、大地などに宿る精霊と交わり、豊穣のための自然条件が整うことを祈った。あるいは豊穣を阻害する自然災害(台風、水害、旱魃、冷害など)が起こらないことを祈った。さらに、もしもそういう状況に陥ったときにそれを収めるために祈った。銅鐸は農耕祭祀のための祭器であるという通説の通りだと思う。

 祭器としての銅鐸がその呪力を高めるために大型化する流れの中にあって、小銅鐸は若干の文様を伴うものはあったが基本的にはそのサイズを維持しながら関東地方にまで伝播した。古墳時代前期まで残ったとされる小銅鐸が最後までシャーマンの祭器として使われ続けたとは考えにくい。銅鐸が祭器として大型化を始める段階で、一方の小銅鐸は祭器としての利用から勾玉や管玉のようなリーダーの威信を示す装身具としての利用に変化していったのではないだろうか。早い段階としては弥生中期前半の木棺墓(福岡県嘉麻市の原田遺跡)、ほかにも弥生後期前半の方形周溝墓(福岡県築紫野市の立明寺遺跡)や後期後半の木棺墓(静岡県袋井市の愛野向山Ⅱ遺跡)、弥生後期の土壙墓(千葉県君津市の大井戸八木遺跡)、同じく後期の木棺墓(千葉県袖ケ浦市の文脇遺跡)、古墳時代前期の方墳周溝(千葉県市原市の草刈遺跡H区)など、墓あるいはその付近から出土する例が見られることがその証左である。




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銅鐸の考察⑤(銅鐸の文様と絵)

2020年04月09日 | 銅鐸
【銅鐸の文様と絵】
 銅鐸の祖型である朝鮮式小銅鐸には文様が描かれていないが、それが日本に伝わって以降、国内で広がった銅鐸には独自の文様が描かれるようになった。文様が描かれているのは主として紐および鐸身、そして紐の外縁から鰭にかけての部分である。

 鐸身にみられる文様は、帯状の区画帯を縦横に格子のように交差させた「袈裟襷文(けさだすきもん)」、複数の平行する線の束が反転を繰り返しながら描かれる「流水文」の2種類が大半で、このほかに横方向の区画帯のみを用いた「横帯文」を加え、大きく3つの文様に分類できる。割合で言うと、横帯文は全体の5%以内、残りの約8割が袈裟襷文で約2割が流水文となっている。なお、袈裟襷文という表現は僧侶の正装である袈裟の文様に似ていることに由来し、流水文はまさに水が流れる様に見えることによる。
 袈裟襷文の場合、縦帯と横帯によって区切られた方形区画ができる。通常、鐸身の片面につき縦帯は3本で、横帯が3本あるいは4本となる。前者の場合は方形区画が4カ所で、いわゆる「田」の字の形になり「四区袈裟襷文」、後者の場合は6カ所の区画となるので「目」の字の真ん中に縦棒を通した形になり「六区袈裟襷文」と呼ぶ。縦横帯の中は多くの場合、斜格子文で埋められるが、綾杉文(あやすぎもん)や連続渦巻文の場合もある。
鈕の外縁から鰭にかけてはふつう鋸歯文(きょしもん)が並べられるが、渦巻文や重弧文が施される場合もある。紐の断面が菱形になる部分の多くは綾杉文が施される。鈕の内縁は無文、もしくは鋸歯文や重弧文を配置する。鐸身の下部は下辺横帯と呼ぶ横帯で仕切り、ここには鋸歯文、連続渦巻文などをならべ、それより下部の裾には文様を施さない。
 なお、銅鐸の文様は鋳型に刻み込まれた沈線が鋳込みによって銅鐸本体には突線となって表われる。

 鐸身の縦帯と横帯によって区切られた方形区画内や横帯内、あるいは鈕や裾の部分に絵が描かれる場合がある。これまで出土した銅鐸のおよそ1割が絵画銅鐸と言われている。描かれているものは、シカ、サギ、イノシシ、スッポン、トンボ、カエル、イモリ、魚、カマキリなどの生物のほか、人物や高床式倉庫などもある。とくにシカとサギが最も多く描かれており、最も古い絵画銅鐸から最も新しい絵画銅鐸まで途切れることなく登場しているという。春成秀爾氏は、シカが土地の精霊、サギが稲の精霊を表しており、このふたつが特に重要という。また、イノシシ、スッポン、魚などは食料となる獲物、カエルやイモリは水田に生息する生物、トンボは実りの秋の虫である。人物としては、狩りをするヒト、魚を採っていると思われるヒト、脱穀をするヒトが多い。いずれの絵も狩猟や稲作といった食料の確保に関連し、高床式倉庫もそれに類すると考えられる。




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銅鐸の考察④(銅鐸の分類)

2020年04月08日 | 銅鐸
【銅鐸の分類】
 銅鐸を学ぶにあたっての基本知識として押さえておかなければならないのが、佐原真氏が提唱した銅鐸の分類で、鈕が実用的な吊り手から形骸化した装飾へと変遷していく過程に基づいた型式的な分類である。また難波洋三氏はこの佐原分類をもとにした分類体系を唱え、それが実質的に現在のデファクトスタンダードとなっている。大まかにいうと次のようになる。

1. 菱環鈕(りょうかんちゅう)式 (Ⅰ式)
前3~前2世紀。最も古い形態で、鈕の断面が菱型をしていることから名付けられた。鈕や鐸身に装飾性がほとんど見られない。大きさは20cm程度である。1式と2式があり、1式は寸胴タイプで、2式は裾広がりの形をしている。



2. 外縁付鈕(がいえんつきちゅう)式 (Ⅱ式)
前2~前1世紀。鐸身の両側にできる鋳造時のバリが装飾として発達した鰭あり、その鰭が鈕の部分まで延びて、鈕の外側に外縁が付いた形状をなす。大きさが50cm程度のものが作られるようになる。1式と2式があり、1式は舞の型持孔が1つで鐸身の型持孔が鐸身の中心に近いところにあり、2式は舞の型持孔が2つで鐸身の型持孔が鐸身の上辺に近いところにある。



3.扁平鈕(へんぺいちゅう)式 (Ⅲ式)
前1世紀~1世紀。鰭と外縁がさらに発達して装飾性が高くなり、鈕の内側に内縁が付くようになる。もともとの鈕であった菱環部が認識できなくなってくる。古段階と新段階があり、菱環鈕式から扁平鈕式の古段階までが石製鋳型によって製作されたもの、新段階以降が土製鋳型によるものとする。



4. 突線鈕(とっせんちゅう)式 (Ⅳ式)
1世紀~3世紀。もっとも新しい形態で、新しいものほど大型化していく。鰭や鈕に突線と呼ばれる立体の線で装飾が施され、さらに外側に飾耳と呼ばれる装飾も付くようになる。この段階になると本来は銅鐸を吊るすための鈕がその役割を果たさなくなり完全に装飾の一部となる。1式から5式の5段階に分けられており、2式以降は、近畿地方でよくみられる「近畿式」と東海地方で多く見られる「三遠式」の2種類に分かれる。



 銅鐸が次第に大型化することに着目した田中琢氏はこの分類をもとに、突線鈕1式までの銅鐸を「聞く銅鐸」、突線鈕2式以降のものを「見る銅鐸」と呼んだ。滋賀県野洲市から出土したものは高さ134.7cm、重量45kgで、現存する最大の銅鐸である。

 銅鐸には多数の同笵関係が知られている。石製鋳型が使われた扁平鈕式古段階までは高い比率で同笵銅鐸が存在し、石製鋳型を何度も補修しながら複数回の鋳造を行っていたことがわかっている。1つの鋳型での製作個数は最大で7個の場合がある。 しかし、この同笵銅鐸も扁平鈕式新段階以降は激減する。これは複数回の使用が難しい土製鋳型に転換したからである。
 同笵の製作というメリットがある石製鋳型をやめて土製鋳型に転換した理由は、文様の鮮明さと、鋳掛けや補刻といった銅鐸そのものへの補修作業の程度から探ることができる。菱環鈕式・外縁付鈕1式の段階では、文様が不鮮明なものが比較的多く、補修として鋳掛けが施された例はわずかに存在するが、補刻の例は存在しない。これは製造不良と認められた場合は再度鋳込みからやり直すことで対応ができるので、わざわざ補修の手間をかけることをしなかったのだ。
 それが外縁付鈕2式の段階になると文様が鮮明となり、鋳掛けや補刻が行われるようになる。それ以前に比べて文様に対するこだわりが出てきたことが要因であろう。そして扁平紐式新段階において、より鮮明な文様を鋳出すために土製鋳型が用いられるようになった。同笵銅鐸の製作という効率性よりも、ひとつひとつの銅鐸の文様に対するこだわりを優先したのだ。土製鋳型への転換によって、次の段階における突線文様による装飾や、さらには大型化への対応も容易になった。


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銅鐸の考察③(銅鐸の原料)

2020年04月07日 | 銅鐸
【銅鐸の原料】
 銅鐸は銅剣や銅矛などと同じ青銅器のひとつで、青銅とは銅と錫と鉛の合金のことを言う。その3種類の金属の割合は個体差があるものの、だいたい銅が86%、錫が10%、鉛が4%くらいである。青銅器は最初から青い色をしているのではなく、通常、製作してすぐの状態は赤銅色に輝いている、また、錫の割合が高くなるほど白味を増した輝きになるらしい。そして時間の経過とともに、つまり空気に触れているうちに成分中の銅が錆びて(酸化して)青味がかった色になる。したがって、水分を含んだ粘土層などに密閉された状態で出土した銅鐸は製作時の赤銅色を保った状態で見つかることがある。

 それでは弥生時代の人々はこれらの金属をどのようにして手に入れたのか。ひと昔前に言われたのが、中国や朝鮮半島で不要となった青銅器を持ってきて溶かして再利用したといういわゆるスクラップ説。ところが、専門家の分析によってこれが否定されてしまった。森浩一氏の言葉を借りれば、「(スクラップを)溶かした場合に、溶かした中に残る元素と、カスに混ざって出てしまうものがあり、カスになって出てしまうはずのものが銅鐸に残っていた」という。つまり、スクラップではなかったということだ。1964年に神戸で出土した桜ケ丘銅鐸を実際に調べたところ、そういう結果になったというのだ。
 これによって、青銅器の主成分である銅については日本で産出される銅を使用している可能性が高くなった。もちろん中国からインゴットの形で入手したとも考えられるが、そのことが日本産の銅が使用されなかったことの証明にはならない。「青銅器の考古学」を著した久野邦雄氏は、電子顕微鏡による分析によって銅鐸の原料に自然銅が使われているケースが確認されていること、別子鉱山を始めとして銅の産出量が多いとされる銅鉱床が西日本に広く分布しており、銅鐸の分布状況に似ていること、時代は少し下るが7世紀末から8世紀にかけての記録に銅鉱が存在することや自然銅が献上されたことが記されていること、などをもとに弥生時代においても自然銅の採取や銅鉱石の採掘と製錬が行われていた可能性を指摘する。久野氏によると、その著書を執筆した1995年時点で出土している銅鐸約450個の10倍、4500個の銅鐸が弥生時代を通じて製作されたと仮定したとしても、使用された銅の総量は一辺が130㎝の立方体におさまる程度であり、国内の自然銅や銅鉱石から得たと考えることは決して無理はない、という。

 では他の元素である錫や鉛はどうだろうか。鉛については、同位体分析の結果から大半が中国の鉛を使っていることが判明しているというが、森氏などはこれに対して確定的なことが言える段階ではないと異を唱える。一方の錫について森氏は、錫のかたまりが吉野ケ里遺跡など弥生遺跡から出た実例があり、弥生時代における日本での錫の採掘を示唆している、とする。




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銅鐸の考察②(銅鐸の出現と分布)

2020年04月06日 | 銅鐸
【銅鐸の出現と分布】
 国立歴史民俗博物館が発行する「歴博」の第121号の「銅鐸の世界」には「中国では、銅鈴は3900年前(龍山文化末)に純銅製品が現れ、3700年前(夏代、二里頭文化)から青銅製品が普及する。世界最古の青銅鈴は高さ8cmほどの小型品で、人の腰につけて使っていた。3500年前(殷代)には、人のほか、犬・馬の頸や馬車に銅鈴をつける。朝鮮半島には前6世紀ごろ銅鈴が伝来する。司祭者が身体に着け、神懸かりの状態になるのを助けていたようである」とある。この銅鈴は朝鮮式小銅鐸と呼ばれ、弥生時代中期の前半頃に日本に伝わったと考えられている。日本ではその朝鮮式小銅鐸を模して小さな形を維持し続けた銅鐸と、その後に大型化や文様を持つという日本独自の発展をしたいわゆる銅鐸のふたつの系統に分かれていったとされている。前者の小さな銅鐸と後者の中でも小型のものを合わせて「小銅鐸」と呼んでいる。

 小銅鐸は、朝鮮式小銅鐸をもとに北部九州で作られ始めた。福岡県嘉麻市馬見の原田(はるだ)遺跡から出た有文小銅鐸は弥生中期前半に比定され、福岡県松本遺跡の小銅鐸の鋳型は共伴土器から弥生前期末から中期初頭とされる。また、大きさは10数センチと少し大きくなるが、熊本県八ノ坪遺跡出土の鋳型や福岡県福津市の勝浦高原遺跡から出た鋳型はいずれも弥生時代中期前半とされる。小銅鐸は北部九州から関東地方まで広く分布しているが、東へ行くほど新しくなるようで、千葉県袖ヶ浦市の水神下遺跡から出た小銅鐸は古墳時代前期中葉、栃木県小山市田間西裏出土のものは弥生時代後期~古墳時代前期とされている。つまり小銅鐸は弥生時代中期前半から古墳時代前期までの期間にわたって存在したことがわかっている。白井久美子氏によれば、2014年12月時点において全国で見つかった57個の小銅鐸のうち、最小のものが3.4センチで最大が14.2センチ、完形で無いものもあるので類推が入るが大きさの平均は約7.3センチである。

 一方、その後に大型化が図られる日本式の銅鐸については、出雲の荒神谷遺跡出土の神庭5号銅鐸は菱環鈕式で日本最古とされているが、それよりも新しい時期の外縁付鈕式銅鐸や中広形銅矛が共伴したことから、その製作時期を明確にすることは困難であった。そのような状況で2004年に愛知県清須市と名古屋市にまたがる朝日遺跡から出た銅鐸の鋳型片は大きな意味を持った。この鋳型は鐸身の最上部の高さ3.6㎝、幅3.0㎝の小さな破片であったが、鋳型内面のカーブの度合いから高さが20cmほどの小型銅鐸の鋳型であることが想定され、さらに鋳型に残る文様が最古の横帯文をもつ神庭5号銅鐸にきわめて近いものであることがわかった。そしてこの鋳型は、弥生中期初めの朝日式土器とともに出たこと、弥生前期の土器が皆無であったこと、鋳型に摩耗が見られなかったこと、などから弥生中期初めに製作されたことがわかった。これによって銅鐸の出現期が弥生中期初めという蓋然性が高くなった。中期初めの鋳型とされるものがほかに京都府向日市の鶏冠井(かいで)遺跡や福井県三国町の下屋敷遺跡から出ている。ただし、森田克行氏は、1999年に大阪府茨木市の東奈良遺跡から出た高さ14.5㎝の小銅鐸を型式学的見地や土器との文様比較の面から精緻に研究した結果として、この東奈良銅鐸を菱環鈕式に先行する弥生時代前期にさかのぼる可能性を指摘している。なお、この小銅鐸は白井氏のデータでは14.2㎝、茨木市のデータでは14.4㎝となっている。
 
 九州から関東まで広く分布する小銅鐸が古墳時代前期まで使用される状況にあって、もう一方の銅鐸は弥生中期以降、様式を変化させながら大型化を進めたが、それが極限まで進んだ弥生時代の終わりに姿を消すことになる。その分布については、近畿・中国・四国を中心に西は北部九州までがその範囲になり、一方の東は長野、静岡までに限られる状況である。かつて、銅剣・銅矛文化圏と銅鐸文化圏という二大文化圏の考え方によって九州に銅鐸はないとされていたが、1980年に佐賀県鳥栖市の安永田遺跡、1982年に福岡市の赤穂ノ浦遺跡、1991年には再び鳥栖市の本行遺跡などから相次いで鋳型が見つかったことから、北部九州でも銅鐸が製作されていたことが明らかとなり、さらには1999年に佐賀県の吉野ケ里遺跡で銅鐸そのものが発見され、二大文化圏の考え方は消滅した。その銅鐸は現在までに500個以上が見つかっている。




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銅鐸の考察①(銅鐸とは何か)

2020年04月05日 | 銅鐸
 ここのところずっと謎の青銅器「銅鐸」の勉強をしてきました。大和政権成立のプロセスを自分なりに解き明かしたいと考える私にとって「銅鐸」というのは避けて通れない課題という認識があったものの、登る山が大きすぎてどこから手を付けていいのかわからず、ついつい後回しにしてきましたが、いよいよ真剣に考えてみようという気持ちになったのです。基本的な知識を含めてここまで学んできたこと、それをもとに私なりに考えたことを整理しておきたいと思います。
 当初、ふたつの仮説をもって学習を開始しました。その学習の過程でたくさんの遺跡が登場するのですが、これまでに行った遺跡が結構あり、その遺跡を思い出しながら想像力を膨らませて思考をめぐらせながら、徐々にひとつに絞られていきました。今回より11回のシリーズでアップしていきます。


国宝 伝・香川県出土(高さ42.7cm、弥生時代中期)


【銅鐸とは何か】
 銅鐸とは、鐸身と呼ばれる本体に吊り手(=鈕)と振り子(=舌)を備えた青銅製の道具で、舌を振って鐸身の内壁に当てることで音を鳴らした。そもそも「鐸」とは、柄を手に持って振り鳴らす道具で、古代中国において教令を伝えるときに用いられた。後漢時代の書である「釈名」には、文事には木鐸、武事には金鐸が用いられた、と書いてあるらしい。手に持って音を鳴らす道具が「鐸」である。これに対して、吊り下げて外から叩いて音を鳴らすのが「鐘」、同様に吊り下げて内部の舌を揺らして内壁に当てて音を鳴らすのが「鈴」である。
 私たちは、銅鐸は音を鳴らすもので、それは内部の舌を揺らして鐸身の内壁に当てる方法による、という知識を持って銅鐸を見ているが、その知識を持たずに銅鐸を見ると、その形状が釣鐘のように見えるので外側を叩いて音を出したと考えるのではないだろうか。つまり「鐘」の一種であると認識するはずだ。
 銅鐸の鐸身下部の末端付近の内面には、断面が台形や蒲鉾形の突帯がめぐっている。内面に取りつけた舌を揺らすことでこの突帯部分に当たって音が共鳴する。このことがわかったのは、①古い銅鐸には青銅製や石製の舌を伴って出土したものがある、②内面上部に舌を下げるための「環」を取り付けた有環銅鐸が見つかっている、③内面の突帯が舌との摩擦によって磨り減った銅鐸が見つかっている、などの理由による。しかし、これに従うと私たちが銅鐸と呼んでいるものは明らかに「鈴」であるが、それを銅鐸と呼ぶようになったのはなぜだろうか。

 日本の歴史上、銅鐸の名称が初めて使われたのは8世紀末に編纂された続日本紀においてである。和銅6年(713年)に「大和国宇陀郡波坂郷の人、大初位の上村君東人が長岡野地に銅鐸を得て獻ず(大倭國宇太郡波坂郷人大初位上村君東人得銅鐸於長岡野地而獻之)」と記されている。このときの発見者である上村君東人、あるいは受け取った者、または続日本紀の執筆者がこの青銅製の道具が「鐸」に似ていたから銅鐸と呼んだのだろう。つまり、中国の鐸は8世紀初頭の日本において周知の道具であったと言える。
 その後、12世紀に編纂された「扶桑略記」や14世紀の「石山寺縁起」などに登場するが、銅鐸ではなく「宝鐸」と記されている。




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