古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

古市古墳群の探索(後半)

2022年03月23日 | 遺跡・古墳
2022年3月後半の3連休に古市古墳群を探索してきました。後半のレポートになります。前半では、清寧陵(白髪山古墳)→小白髪山古墳→日本武尊白鳥陵(軽里大塚古墳)→峯ヶ塚古墳→小口山古墳、と順に紹介したので、この後半では、仁賢陵(ボケ山古墳)→青山古墳→浄元寺山古墳→墓山古墳→向墓山古墳、を紹介します。

ボケ山古墳は埴生坂本陵(はにゅうのさかもとのみささぎ)として第24代仁賢天皇陵に治定されている全長122mの前方後円墳で、出土した円筒埴輪などの特徴から6世紀前半の築造と考えられています。外堤を調査したときに前方部北西側の堤に接する斜面で2基の埴輪窯が発見されました。







下の写真の白い建物の右手にある石が積まれた小さな丘で埴輪窯が見つかりました。野々上埴輪窯跡群と呼ばれています。埴輪窯が作られたのは6世紀前半頃と考えられているので、ここで焼かれ埴輪が仁賢陵で使用されたのでしょうか。




ボケ山古墳は拝所付近を含む三方を住宅に囲まれているのですが、後円部先端あたりは池に接しているために開放されています。





続いて青山古墳。外環状線を渡ってすぐのところにある直径65mの円墳で築造は5世紀中葉とされています。直径62mあるいは68mという情報もありました。それにしてもこの古墳、目視した時点ではホタテ貝式と思ったのですが、説明板にはその突出部は造出しと書いてありました。なんと幅25m、長さ17mという大きな造出しです。さらに全長が72mとも書いてありました。おそらく17mの造出し部を加えての大きさでしょう。





まさか65mの円墳に17mの造出しがあるとは思ってもみませんでした。上の写真を見てどう思われるでしょうか。そして反対側の周濠にはなんと、シラサギが餌をついばんでいました。白鳥陵から飛んできたのでしょうか。




さらに少し歩くと浄元寺山古墳です。1辺67mの方墳で5世紀中頃の築造。隣接する墓山古墳の陪塚です。方墳で67mの規模はなんと全国5位にあたり、時代は下るものの用明天皇陵の65mを上回る大きさです。






道路などで囲まれているので方墳だろうと察しがつくのですが、墳丘そのものは原形をとどめていませんでした。

浄元寺山古墳を先に進むと次の墓山古墳があるのですが、驚いたのは周堤上や周濠を埋め立てたところに墓地が広がっているのです。墓山古墳の名の由来になったのでしょうか。墓山古墳は全長225mの前方後円墳で5世紀初めの築造です。両側のくびれ部に造出しがあり、墳丘斜面は葺石で覆われ、テラス部に埴輪が巡らされていたそうです。深い周濠と幅32m前後の周堤があり、中心部の竪穴式石槨に長持形石棺が納められていたとも。これはどう考えても大王クラスの墓ではないでしょうか。



そんな墓山古墳がなんと応神陵の陪塚に指定されているのです。さらに驚いたことに、陪塚である墓山古墳はさきほどの浄元寺山古墳を含む5基もの陪塚を持っているのです。まあ、応神陵の規模からすると225mもの墓山古墳が陪塚だとされてもやむを得ないのでしょうが、その陪塚がさらに陪塚を5基も持っているというのが驚きです。その陪塚のひとつである1辺37mの方墳である野中古墳からは鉄製の刀剣や農耕具が大量に出土していて、墓山古墳の被葬者の副葬品とみられています。同様に陪塚である1辺18mの方墳の西墓山古墳(消滅古墳)からも大量の鉄器(刀剣200点、農耕具2000点以上)が出土しています。はたして墓山古墳の被葬者はいったい誰なのでしょうか。










墓山古墳のすぐ東にある向墓山古墳は1辺68mの方墳で5世紀初頭の築造です。方墳としては浄元寺山古墳を上回る全国4位の規模になります。宮内庁はこの向墓山古墳を応神陵の陪塚としていますが、上述した墓山古墳の5つの陪塚のひとつとする考えもあります。






さて、時刻は16時を回っています。ここまで1万5千歩ほど歩いてきたので疲れもたまってきました。駐車場の時間もあるので本日の探索はここまでとしました。古市古墳群にはまだまだ行っていない古墳があるので、また機会を作って探索したいと思います。











古市古墳群の探索(前半)

2022年03月22日 | 遺跡・古墳
2022年3月後半の3連休に古市古墳群を探索してきました。昨年12月に応神天皇陵から北へ向かって仲津姫命陵までの探索に次いで2回目となります。

今回は、清寧陵(白髪山古墳)→小白髪山古墳→日本武尊白鳥陵(軽里大塚古墳)→峰ヶ塚古墳→小口山古墳→仁賢陵(ボケ山古墳)→青山古墳→浄元寺山古墳→墓山古墳→向墓山古墳、というルートを巡りました。駐車場をどうしようかと事前にいろいろと調べた結果、羽曳野市立生活文化情報センター「LICはびきの」の駐車場が2時間まで無料というのがわかったので、ここを起点に巡ることにしました。前半、後半の2回に分けて順に紹介します。

まず最初が河内坂門原陵(こうちのさかどのはらのみささぎ)として第22代清寧天皇陵に治定される白髪山古墳です。



全長115メートルの前方後円墳。この古墳は前方部の幅が後円部直径の2倍もあって裾の広がったスカートのようなちょっと不思議な形の前方後円墳です。前方部が発達した形態は墳形の最終段階を示すものと考えられているそうですが、出土した埴輪などから6世紀前半の築造とされています。





白髪山古墳の名称は、清寧天皇が生まれながら白髪であったことから古事記で「白髪大倭根子命」、日本書紀では「白髪武広国押稚日本根子天皇」と名付けられたことに由来するそうです。白髪山古墳をぐるりと一周したあと、次は軽里大塚古墳へ行ったのですが、先に清寧陵(白髪山古墳)の陪塚とされている小白髪山古墳を紹介します。





白髪山古墳とは外環状線を挟んでいるのでわかりにくいですが、同一の軸線上に並んでいて同じ方向を向いている前方後円墳です。全長46mで幅10mほどの周濠がめぐり、墳丘には円筒埴輪が並べられていたそうなので、陪塚としては立派な古墳です。白髪山古墳とともに6世紀前半の築造と推定されています。

そして次に紹介するのが軽里大塚古墳。白鳥陵古墳とも呼ばれています。日本武尊の白鳥陵に治定されてる全長190mの前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定されています。拝所までの参道の雰囲気がいい。







白鳥陵も一周しましたが、北側の周濠に沿って通っている道が竹内街道です。フェンス越しに周濠をのぞき込むとカモがびっくりしたのか一斉に飛び立ちました。




日本武尊の陵は全国に3カ所あって、伊勢の能褒野、大和の琴弾原、そしてここ河内の古市です。伊勢と大和は以前に行ったことがあるので、今回で日本武尊陵をコンプリートしたことになり、妙な達成感があります。

次が峯ケ塚古墳です。全長96m、出土した埴輪や横穴式石室の特徴から、5世紀末から6世紀初頃の築造とされる前方後円墳です。江戸時代には日本武尊白鳥陵に治定されていたこともあったそうで、また、允恭天皇皇子の木梨軽皇子の墓との伝承もあるそうです。






昨年12月に応神陵など古市古墳群の北部方面を探索した日、ここ峯ケ塚古墳では、造出し部の調査の様子が見れる現地説明会が開催されていたことをあとで知って少し残念に思ったことがあります。調査のあとに埋め戻して造出し部ふうに土が盛られています。



また、発掘調査により二重濠をもつ古墳であることが判明しています。古墳の規模が縮小していく古墳時代後期に二重濠を持つ古墳を築造できた被葬者は大王級の権力のある人物であったと推測されています。公園として整備されるにあたって周濠部分を水色の敷石、周堤部分を茶色の敷石にして頭の中で復元できるように配慮されているのが素晴らしいと思いました。写真右奥の方に見える水色の敷石が外濠を表しています。





羽曳野市のサイトによると、石室は盗掘を受けていたものの豊富な副葬品が見つかっています。銀や鹿角製などの装飾品を付けた大刀をはじめ、武器や武具、馬具など軍事的な副葬品や、装飾品となる金銅製の冠帽や帯金具、魚佩、銀製の垂飾りや花形飾り、ガラス玉や石製玉類などがあり、総数は3,500 点以上にのぼるそうです。たしか発表されたときは古代史ファンの間で大騒ぎになった記憶があります。公園に隣接する「時とみどりの交流館」で魚佩のレプリカが観れます。ここでは百舌鳥・古市古墳群を紹介するビデオも観せていただきました。団体向けの貸し切り用のスペースとのことだったのですが、お客さんが誰もいなかったので無理をお願いしました。ありがとうございました。




峯ケ塚古墳の西側にある丘陵の尾根上に小口山古墳と小口山東古墳があります。小口山古墳は7世紀後半の小さな円墳で、巨石をくり抜いた横口式石槨が見つかって「河内軽里の堀抜石棺」として紹介された考古学史上著名な古墳です(知らなかった)。大きさは直径30mという情報と14mという情報が錯綜していますが、現況を見た感じでは30mもなさそうです。







小口山東古墳は目視ではその存在を確認できませんでしたが、おそらくここがそうだと思います。



古市古墳群は羽曳野丘陵の北端にあって、東側を北上する石川に向かって丘陵がなだらかに傾斜するところに立地していることを実感しました。この場所は大和川と石川が合流する地点でもあり、難波と大和や南河内を結ぶ要衝と言えます。大和から河内へ王権が移るに際しての墓域として相応しい場所でした。高台からはどんづる峯や二上山、遠くに葛城山が見えて眺めが良かったです。



これで古市古墳群探索の前半が終了です。











五斗長垣内遺跡

2022年03月01日 | 遺跡・古墳
2022年2月23日、神戸・淡路経由、四国への車中泊旅の途中で兵庫県淡路市にある五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡に立ち寄りました。五斗長とは、淡路北部を南北に連なる標高200メートルほどの津名丘陵の西側の斜面、瀬戸内海を見下ろす高台にある集落の名前で、正式な住所は淡路市黒谷といいます。



この遺跡は、2004年に淡路島を襲った巨大な台風23号による被害からの復旧の際に見つかった遺跡で、出土品などから弥生時代後期の鉄器製作にかかわる遺跡であることがわかりました。23棟の竪穴建物跡のうち、12棟において鉄器を作る作業を行った炉跡が見つかったほか、朝鮮半島製とみられる鉄斧や鉄鏃など100点を超える鉄器、石槌や金床石、砥石など多数の石製鍛冶工具類も出土しています。直径が10メートルを超える国内最大規模の鍛冶工房を営むなど、ひとつの遺跡で100年以上もの長期にわたって鉄器を作り続けた珍しい遺跡とされていますが、最盛期は2世紀後半で、卑弥呼が登場する頃には稼働を終えていたことがわかっています。



駐車場に車を停めてガイダンス施設に入ると、右手に出土物の展示コーナー、左手が「まるごキッチン」という小さなカフェ、右奥に会議室(研修室かな)があります。この会議室で遺跡の紹介ビデオを見るのですが、地元の津名高校の放送部が制作したビデオはなかなか見ごたえのある素晴らしいものでした。弥生時代に入手できる素材(細竹、蓮の茎、動物の皮など)を使って袋状のふいごを作り、炉に空気を送り込む実験がビデオで紹介されていました。



ビデオを見た後は展示コーナーを見学します。展示物はすべてレプリカで、解説パネルは簡潔でわかりやすい内容でしたが、とくに「鋳造鉄斧片」と書かれた遺物が気になりました。「鍛冶による再加工が困難とされている鋳造鉄斧片が何のために鍛冶工房に持ち込まれたのか、今後の検討課題です」と解説されていました。















この遺跡は鍛冶工房とされているので、朝鮮半島などから材料となる鉄素材を運び込んで、鍛冶炉で熱して石製の工具類を使って鍛造した、と考えられていますが、大きな鉄片は鍛造が難しいということです。この鋳造鉄斧片は本当に外部から持ち込まれたのでしょうか。この場所で鋳造したとは考えられないのでしょうか。

ガイダンス施設を反対側(北側)に出ると一面に遺跡が広がり、右手に津名丘陵、左手に瀬戸内海が見えます。何カ所かに竪穴建物が復元されていますが、まず遺跡全体の立地や構造を考えてみました。

斜面の一番高いところまで上がって海(西側)の方をみると、両側(北側と南側)に延びる一段高い尾根に挟まれた場所に遺跡があることがわかりました。遺跡も丘陵上にあるのですが、両側がそれよりも高いために、相対的に一段低い場所にあることになります。また、遺跡の一番上はそこそこ標高があるので、瀬戸内海からの海風が吹き付けて寒かったです。次に斜面の一番低いところまで下りて山側を見上げると、思っていた以上の急斜面で、海からの強い風を背中に感じることができました。この時期は北西からの強い季節風が吹くようです。



これらのことから、この遺跡のある場所は瀬戸内海からの海風が津名丘陵に吹き上げる風の通り道になっているのではないかと思いました。紹介ビデオにあった袋状のふいごで炉の温度を上げたこともあったでしょうが、この強い風をうまく利用することで同程度の効果を得ることができたのではないでしょうか。さらに妄想を膨らませると、この海風を使って野だたらが行われていたと考えることはできないでしょうか。そうすると、ここで鋳造鉄斧片が出ている事実は重いような気がします。

建物跡は遺跡内に点在するように見つかっており、実験工房として利用されている大型建物「ごっさ鉄器工房」を含めて数棟が復元されていましたが、すべての復元建物の入口が南側を向いています。全国の遺跡から見つかる多くの竪穴住居が南や南東を向いていることからそのように復元されたと思われますが、南を向いているのはおそらく太陽光を住居内に取り入れるため、あるいは太陽信仰につながる精神性などによるものなのでしょう。ところが、この遺跡ではその南向きということに違和感を覚えました。











西側の瀬戸内海から吹き上げてくる風を利用して鍛冶炉の温度を上げていた可能性を考えると、入口は西側(海側)を向いて開いていなければなりません。斜面を吹きあがってきた風を小さな入口で迎え入れて住居内の気圧を一気に高めることにより、酸素濃度の濃い空気が取り込めたのではないでしょうか。これによって炉の温度を上げて鉄を溶融したのだと思います。

そして、鉄の溶融ができたということは野だたらで製鉄を行なっていた可能性も十分に考えられ、この場合、原料をどこから調達したのかが重要なポイントになります。山陰地方で盛んにおこなわれたたたら製鉄の原料は花崗岩に含まれる磁鉄鉱に由来する真砂(まさ)砂鉄ですが、これは淡路では採取されないので、安山岩に由来する赤目(あこめ)砂鉄が用いられたのでしょうか。あるいは播磨や吉備から砂鉄が運ばれたのでしょうか。弥生時代終末期の鍛冶工房跡が出た徳島の矢野遺跡では壺に入れられた砂鉄が見つかっており、採取した砂鉄を運搬するということが行われていた可能性はありそうです。

いろいろと妄想が膨らむのですが、そもそも、畿内最大の鍛冶工房を運営した勢力はどんな勢力で、なぜここで鉄器生産が行われたのか、ここで作られた鉄製品はどこへ供給されたのかなど、考えるべきことがたくさんあるので、検討課題としておきたいと思います。



五斗長垣内遺跡から北東に数キロのところに、五斗長垣内から少し遅れる弥生時代後期から終末期に鉄器生産を行う集落として栄えた舟木遺跡があります。4棟の工房や20棟の竪穴建物跡が発見され、釣り針などの漁具や小刀を含め、およそ170点もの鉄器が出土しました。淡路の勢力を考えるにあたってはこの舟木遺跡も含めて考える必要がありますね。





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応神天皇陵(誉田御廟山古墳)ほか

2021年12月11日 | 遺跡・古墳
2021年12月11日、羽曳野市でランチをした帰りに行ってきました。自宅から車で30分ほどの近さなのに今まで行ったことがなかったのです。まあ、ここ(南河内)に住んでいるとそんなところばかりですが。

今回のコースは、応神陵→大鳥塚古墳→赤面山古墳→古室山古墳→仲津山陵です。允恭陵まで足を伸ばそうかと思いましたが、古市古墳群にはこれから何度も来るだろうから、また次の機会にしようと思いました。

まずは応神天皇陵です。遺跡名は誉田御廟山古墳。全長425メートル、百舌鳥古墳群にある仁徳天皇陵(大仙古墳)に次ぐ日本第二位の大きさを誇ります。また、古墳を築造したときに使用した土の量は約143万立法メートルもあり、これは大仙古墳を上回るそうです。5世紀前半頃の築造と考えられています。





拝礼所までの歩道を歩くと小さな砂利の音が心地よい。拝礼所は仁徳陵よりも広くて美しくて綺麗に整備されている感じがしました。






応神陵の次はすぐ前にある大鳥塚古墳です。ここも世界遺産を構成する古墳です。5世紀前葉頃の築造とされる大型の前方後円墳で全長は110m。両側のくびれ部に造出があったり、陪塚(次に行く赤面山古墳)を持っていたりすることから、この古墳の被葬者は大王に次ぐくらいの地位にあったと言えそうです。




世界遺産の大型古墳の割には放置されている感がしないでもない。後円部が大きくえぐれているのは盗掘にあったからだろうか。応神陵とは互いに前方部を向かい合わせる状態になっています。

次は赤面山古墳。西名阪自動車道の高架下にあって見事に保存されています。高速道路の建設よりも前に国史跡に指定されたために保存されることになったようです。こんな小さな古墳が保存されているのに、同じように高速道路の建設で見つかったものの、結局は破壊されてしまったのが尾張の西上免古墳。なんだか釈然としない。



赤面山古墳は一辺は15mの方墳です。一見すると円墳のように見えたのですが、調べてみると方墳となっていました。4世紀後半~5世紀初頭とされますが、陪塚であるなら大鳥塚古墳よりも古いとは考えにくいので、5世紀初頭ということでしょう。高速道路の下にあって、道路も避けて通る珍しい古墳として、知る人ぞ知る、というところでしょうか。

次は古室山古墳。全長は150mの前方後円墳で、築造は4世紀末から5世紀初頭頃となっています。ちょうど墳丘の整備中で、草刈り機を自在に操って墳丘を走り回るお兄さんに感心しきり。




墳丘に上ると東は二上山から葛城山、金剛山まで見渡せました。








前方部も後円部も周濠部分も、全部が出入り自由な公園になっています。ワンコの散歩にうってつけ、子供と野球やサッカーもできる。こんな場所が近くにあるのは羨ましい。

古室山古墳のすぐ近くが、応神天皇皇后の仲津姫が眠る仲津姫命中津山陵、仲津山古墳です。




応神天皇陵との間には大鳥塚古墳、赤面山古墳、古室山古墳が並んでいますが、この仲津山古墳もそれらにつながっているように設けられています。

応神陵からここまで歩いてわかったことは、これらの古墳が台地上にあるということです。後で調べると国府台地ということがわかりました。地形図で見ると南は応神陵から北は允恭陵まで、台地上に古墳がひしめき合っているのがよくわかります。



1時間ばかりの散策でしたが、楽しい時間でした。帰宅後に、この日は近くの峯ケ塚古墳の発掘調査に伴う現地説明会があったことを知り、そちらに行けばよかったなあ、と少しだけ残念な気持ちになりました。









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南河内の古墳めぐり③

2021年10月08日 | 遺跡・古墳
ここまで、双円墳の金山古墳、双方墳の二子塚古墳を見てきました。続いては二子塚山古墳のすぐ近くにある山田高塚古墳(推古天皇・竹田皇子合葬陵)です。宮内庁は「磯長山田陵」および「竹田皇子墓」として治定しています。

推古天皇は第29代欽明天皇の皇女で、母は大臣の蘇我稲目の娘である堅塩媛です。夫の第30代敏達天皇は異母兄でもあり、第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟で、蘇我馬子は母方の叔父。蘇我氏および蘇我系天皇に囲まれた中で第33代天皇として即位しました。推古天皇については別の機会に勉強したいと思っています。











墳丘は3段築成、東西59メートル・南北55メートルの方墳です。日本書紀には、推古天皇は推古天皇36年(628年)に崩御、同年に遺詔により「竹田皇子之陵」に葬ったとありますが、この陵の所在地は書かれていません。一方、古事記では「御陵在大野岡上、後遷科長大陵也」として「大野岡上」から「科長大陵」へ改葬した旨の記述がありますが、竹田皇子と合葬したとは書かれていません。横穴式石室の内部に石棺が2基あるとする資料も残っているようで、推古天皇と竹田皇子の石棺と考えられています

御陵をぐるりと周回する小径があったので方墳の四辺を歩きました。



二子塚古墳がすぐそこに見えます。



この推古天皇陵を含む天皇陵4基(敏達天皇陵・用明天皇陵・推古天皇陵・孝徳天皇陵)と叡福寺にある聖徳太子墓など約30基からなる古墳群が磯長谷古墳群と呼ばれます。前方後円墳の造営が終了した後の6世紀中ごろから7世紀前半、古墳時代終末期から飛鳥時代初期のものと見られています。古墳群がある磯長谷は皇族の陵墓が集中していることから「王陵の谷」と呼ばれています。


さて次は推古陵から東へ5分、小野妹子の墓に行きました。













太子町のサイトから転載です。

科長神社南側の小高い丘の上に、古くから小野妹子の墓と伝えられる小さな塚があります。妹子は、推古天皇の時代に遣隋使として、当時中国大陸にあった隋という大国に派遣された人物です。妹子が聖徳太子の守り本尊の如意輪観音の守護を託され、坊を建て、朝夕に仏前に花を供えたのが、華道家元 池坊の起こりになったとされることから、現在、塚は池坊によって管理されています。

なるほど、それで池坊家による碑が建てられていたのか。



推古天皇や聖徳太子のもとで外交に尽力したことから、その二人が眠るこの王陵の谷に葬られることになったのでしょう。お墓の向こうは小さな公園のようになっていて、そこからの眺めが結構素晴らしいものでした。右側にPLの塔が見えます。この塔を見ると信者でなくてもなぜか厳かな気持ちになるのは不思議です。



ついでと言っては失礼ですが、麓の科長神社を参拝してきました。





そして次は再び西に下って春日向山古墳(用明天皇河内磯長陵)に向かいました。GoogleMapを頼りにして近づこうとしたのが失敗で、ウロウロと無駄な時間と労力を使った挙句、ようやく拝礼所に到着できました。

3段築成の方墳で大きさは東西65メートル、南北60メートルとなります。天皇陵としては最初の方墳になるらしいです。用明天皇は欽明天皇の第4皇子で第31代の天皇です。母は蘇我稲目の娘の堅塩媛で同母妹に推古天皇がいます。









ここでも御陵を一周して写真を撮って車に戻りました。そろそろ陽が傾いてきたのでこの日は次の太子西山古墳(敏達天皇河内磯長中尾陵)で最後になります。車で3分ほどです。

ここまで蘇我氏系の天皇陵が方墳であることを実感してきたのですが、この第30代敏達天皇の陵は全長が113メートルもある前方後円墳なのです。というのも、敏達天皇は継体天皇嫡男である欽明天皇と仁賢天皇皇女である手白香皇女の間にできた子であるため、まだ蘇我氏の血が混じっていないのです。しかし、その後に欽明天皇が蘇我稲目の娘である堅塩姫や小姉君を妃としたことから蘇我氏が外戚として権力を持つことになりました。このあたりはいずれ詳しく勉強したいと思います。

拝礼所入口の前に車を停めて歩きます。





推古陵や用明陵と違って敏達陵は山の中にあるため、その存在を知る人はあまりいないのではないでしょうか。拝礼所はひっそりと佇んでいました。敏達の母である石姫皇女(いしひめのひめみこ)が合葬されていることを後で知りました。









時刻は17時少し前です。あと1時間くらいあれば聖徳太子の磯長墓を訪ねて叡福寺に行こうと思いましたが、次の機会にまわすことにしました。今年は聖徳太子が亡くなって1400年の御恩忌なので、時間のある時にゆっくりと参拝します。

さて、たくさんの古墳を見て回って長い1日となりましたが、地元に居ながらにしてようやく機会を作ることができ、満足感でいっぱいです。叡福寺をはじめ、まだまだ見どころがあるので、今後の楽しみにしたいと思います。









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南河内の古墳めぐり②

2021年10月07日 | 遺跡・古墳
地元南河内の古墳巡りの2カ所目は太子町にある二子塚古墳です。聞くところによると、双方墳であることが確認された唯一の古墳とのことで、たいへん貴重な遺跡となります。以下、二子塚古墳について太子町サイトからの転載です。

二子塚古墳は7世紀中葉に築造された全長69メートル、幅35メートルの双方墳で、長方形の下段墳丘上に東西二つの方形の上段墳丘がのり、それぞれに同形同大の横穴式石室が構築され、珍しいカマボコ型の家形石棺が納められています。

こちら(→「国指定史跡二子塚古墳」)にはさらに詳しい説明があります。

近くに駐車場はなく、どうしようかと悩みながらとりあえず近寄ってみようと狭い農道の坂道をソロリソロリと上がっていくと、古墳手前にある小屋の前が少しだけ広くなっていたので、そこに停めさせてもらうことにしました。GoogleMapで上空から見るとこんな感じで、まさにこの写真にあるように車を停めさせてもらいました。



どうやら発掘調査中で、墳丘上にロープが張られ、北東の斜面で数人の方が作業をしていたので、作業者のいない南西側(上の写真の左下)から回って墳丘に近づきました。南西面の墳丘斜面は綺麗に残っているのですが、北西面にまわった途端にびっくり。斜面がえぐれています。





ふたつの方墳の間に来ました。見えているのは北東側の方墳です。



説明板はボロボロでした。もともと7世紀中頃の築造とされていたのが、7世紀後半に変更されたようです。



この両側に方墳があるのですが、それらはイメージしていたのとは全く違う姿でした。



右側、つまり南西部の墳丘(西墳丘)です。墳頂は残っているのですが、墳丘全体が方形がまったくわからないくらいにえぐられています。



左側、北東部の墳丘(東墳丘)です。横穴式石室を構成する大きな石が露出しています。



墳丘内の中央土壇に踏み込んでちょうど古墳の真ん中あたりで両側をみるとこんな様子です。右側の西墳丘はもう何がなんだかわからないのグチャグチャ状態です。上にリンクを貼った「国指定史跡二子塚古墳」にある「航空レーザ測量成果による二子塚古墳の立体図」というのを見るとそのグチャグチャ具合がよくわかります。




 
墳丘の反対側に出ました。東墳丘の石室の入口が見えています。西墳丘は墳頂が見えます。ロープが張っているので近づけません。





ちょうど作業員の方が調査されている場所にきました。東墳丘の北東部斜面に浅いトレンチを入れて何か言い合っているところでしたが、そもそも調査中の墳丘に入り込んで写真をパシャパシャと撮っていたので一応断っておこう、上手くいけば詳しい話が聞けるかもしれない、と思って声をかけました。残念ながらいま掘っているところは発表前だからということで写真はNGでしたが、石室に石棺が残っているので入って見ていいですよ、と言ってもらえました。











盗掘のための穴が開けられていて、中は空っぽでした。この石棺は蓋がカマボコ型をした珍しいものです。この石室、石棺と同じものがもう一方の西墳丘にも存在するとのことですが、埋め戻されたのでしょう、その存在を気づかせるものは全くありませんでした。

2021年3月7日の日経新聞に掲載された写真がこれです。



下が見学会の際の資料および太子町サイトで公開されている古墳全体の図面です。





このあと、古墳の周囲をぐるりと回ってみての疑問。上の図面でいうと、墳丘の下側の平地部分は他の三面の平地部分よりも高さが1メートル以上も低くなっています。墳丘そのものの高さでいえば下側の方が高く見えるということです。後世に田畑の開墾や道路の敷設で土が取り除かれたのか、それとも築造時からこの状態なのか。調査員の方に質問しようと思ったのだけど、忙しそうにしていたので聞けずじまいです。残念。

右側が低くなっているのがわかります。





さて、この古墳には東西のふたつの石棺にふたりの人物が葬られていることになりますが、その被葬者を考えるにあたって墳丘上からのこの眺めがヒントになりそうです。次に行く山田高塚古墳、すなわち推古天皇・竹田皇子合葬陵です。



全国でもここだけという双方墳である二子塚古墳はこの推古天皇陵から南東へ200メートルほどのところ、少しだけ高い位置にあって推古陵を見守るように存在しています。このことから2名の被葬者は推古天皇と関係の深い人物だろうと思われます。築造が7世紀中頃なので、推古天皇崩御の628年からすぐあとのことです。また、方墳であることからすると蘇我氏系であると考えられます。

この二子塚古墳こそが推古天皇・竹田皇子の合葬陵であるという説があります。また、蘇我蝦夷が息子の入鹿とともに入ることを意図して生前に造った双墓(ならびのはか)という説もあるようです。直感的にはいずれも違うと思うので、少し考えてみることにします。









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南河内の古墳めぐり①

2021年10月06日 | 遺跡・古墳
2021年10月某日、快晴の秋空に誘われて、南河内の富田林に住んでいる限りは必ず行かなければ、とずっと思っていた自宅から近くにある古墳を巡ることにしました。今回のコースは、日本に数えるほどしかない双円墳の金山古墳、こちらも珍しい双方墳の二子塚古墳、そのすぐ近くにある推古天皇磯長山田陵(山田高塚古墳)、少し山に向かって小野妹子の墓、また山を下って用明天皇河内磯長陵(春日向山古墳)、最後に敏達天皇河内磯長中尾陵(太子西山古墳)と、全部で6つのお墓を訪ねました。

まずは自宅から最も近い金山古墳へ行きました。
古墳時代終末期にあたる6世紀末から7世紀初頭の築造で、2段築成の北丘と3段築成の南丘が並ぶ墳丘長85.8mの双円墳です。



南丘の西側から北に向かって。


北丘の西側から南に向かって。


この2か月ほどの学習で前方後円墳は壺形古墳であり、他の墳形も壺形を基本としていると考えるようになった私はここでさっそく考えをひとつ改めました。この双円墳の築造は前方後円墳が造られなくなった古墳時代終末期、仏教が隆盛を極めようとしていた時期にあたり、権力の象徴や儀礼の舞台は寺院に移ろうとしていた時代です。すでに古墳が壺形であることに意味がなく、墳形は自由な発想で造られたのではないでしょうか。

墳丘西側で検出された北丘主体部の横穴式石室に通じる墓道が復元されています。また、その横穴式石室の玄室と羨道に家形石棺が1基づつ残されています。





南丘でも墓道が見つかり(セメントで固めた部分)、横穴式石室の存在が判明したものの未調査となっています。



墳丘に上ってみました。この古墳は意外にも標高が高い所にあって眺望がひらけています。南丘から北丘ごしに遠くを見ると、なんと主軸の先にあべのハルカスが見えます。



北丘の西側に復元された墓道と石室が見えます。



北丘から南丘を見ると向うの方に金剛山がそびえています。



山並みをバックに遠景を撮ろうと思って墳丘を降りて少し離れたところから眺めた瞬間にひらめいたのです。そのときの映像がこれですが、さて何をひらめいたのでしょうか。



手前が北丘で右奥が南丘です。背景には左手には葛城山、右手には金剛山。真ん中の緑の高まりはすぐ近くの河南台地です。この河南台地の向こうは葛城山と金剛山の間を抜ける水越街道になります。よく見てください。北丘が葛城山に、南丘が金剛山に対応しているではないですか。壺形を意識しなくなった古墳時代終末期にこの地で生まれた双円墳は霊峰である二つの山をイメージして造られたのではないでしょうか。

この金山古墳は被葬者は明らかになっていませんが、「住吉大社神代記」にある「胆駒神南備山本記」の「白木坂三枝墓」に比定して、厩戸皇子(聖徳太子)の子の三枝王の墓とする説があるそうです。でも、上記の様子から、私は次のように想像、いや妄想をしてみました。

この古墳のある場所は大和の葛城から水越峠を越えて河内に入ったところなので、葛城から通じる水越街道を押さえていた葛城氏が峠を越えたこの地まで勢力を伸ばしていたと考えられます。しかしその葛城氏の本宗家は眉輪王の変などで5世紀に滅亡します。ただ、当時この河内側にいた支族はその後も生き残り、大和葛城を偲んで霊峰葛城山と金剛山をかたどった双円墳を築きました。つまり、この古墳の被葬者は葛城氏末裔と考えることができないでしょうか。

朝鮮半島新羅の南部、慶州には6世紀頃の双円墳がたくさん存在します。葛城氏は朝鮮半島外交で勢力を拡大した氏族で、新羅の双円墳という墳形を受容することは容易であったろうと思われます。そして前方後円墳が造られなくなったタイミングでその双円墳を大和から離れた少し目の届きにくいこの南河内に築いたのではないでしょうか。

さて、金山古墳の次は車で10分ほどのところ、これまた珍しい双方墳の二子塚古墳に向かいました。






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卑弥呼の鬼道が道教でなければ何?(前方後円墳の考察⑫)

2021年09月17日 | 遺跡・古墳
卑弥呼の鬼道は道教ではない、という結論になったのですが、それでは卑弥呼の鬼道は何だったのでしょうか。今さらですが、卑弥呼の鬼道についてWikipediaを見ると、幾つかの説があることがわかりました。

①卑弥呼はシャーマンであり、男子の政治を霊媒者として助ける形態とする説
②道教あるいは初期道教と関係があるとする説
③道教ではなく「邪術」であるとする説
④神道であるとする説
⑤単に儒教的価値観にそぐわない政治体制であることを意味するという説

いずれの説もそれを主張されている専門家の論文や書籍を詳しく調べたわけではないので、以下、いい加減な話になってしまうことをご了承ください。

卑弥呼には各クニの首長が持ち得ない何らかの力が備わっていたはずで、だからこそ王となることができたのです。その何らかの力とは何だったのか。②の道教は違う、という結論になりました。

①については、霊媒者としての力、すなわち、超自然的存在と人間とを直接に媒介することができる力で、神や祖霊と対話する能力とでも言えばいいのでしょうか。井上光貞著「日本の歴史1神話から歴史へ」には「もともと呪術宗教的な権威が幅をきかす社会であったから、このような大きな変革の時代には、女子の霊媒的機能が大きくものをいった」「その結果として卑弥呼のような族長一族のシャーマンが統合の要と仰がれたのであろう」と書かれていますが、わかったようなわからない話です。

③については、超自然的な存在に訴えることによって、病気治療、降雨、豊作、豊漁などの望ましいことの実現を目ざした行為を呪術というのに対して、人を苦しめたり呪い殺したり、相手に災厄を与えるものを邪術というのですが、卑弥呼が相手に災厄を与える邪術を使って女王に共立されたとは思えません。この説を唱える謝銘仁氏の論文や書籍を読んでいないのですが、邪術ではなく呪術と解すれば納得がいきます。

④についてWikipediaによれば「神道の起源はとても古く、日本の風土や日本人の生活習慣に基づき、自然に生じた神観念であることから、縄文時代を起点に弥生時代から古墳時代にかけてその原型が形成されたと考えられている」となっており、神道を日本固有の宗教的な概念として捉えているようです。

⑤をWikipediaで見ると「当時の中国の文献では儒教にそぐわない体制を「鬼道」と表現している用法があることから、呪術ではなく、単に儒教的価値観にそぐわない政治体制であることを意味する」となっています。これだと「事鬼道、能惑衆」の意味がよくわからなくなります。


魏志倭人伝には「事鬼道、能惑衆」と記されますが、この部分が後漢書では「事鬼神道、能以妖惑衆」となっています。「鬼道」ではなく「鬼神道」です。これは後漢書の作者である范曄が先に書かれていた倭人伝を参照した際にわかりやすい表現に変更したことによるとされます。中国では「鬼」は「死者の霊魂」のことを言い、孔子は「論語」において「鬼神」を祖先の霊、あるいは祖先以外も含む死者の霊という意味で使っています。春秋時代の「国語」魯語では「鬼道」が「人道」と並列的に使われ、前漢時代の「説苑」では「鬼道を以て聞こゆ」とされた客人が耦土人(どぐう=泥人形)と木梗人(もっこうじん=桃木の木偶)の会話を聞き取ることがき、それが神の啓示の役割を果たしたという内容が記され、ここでは「人事」に対して「鬼道」が使われています。

司馬遷の「史記」封禅書にも「鬼道」が登場します。方士の謬忌(びゅうき)が言った言葉に「天神の貴き者は太一なり、太一の佐を五帝と曰う。古は天子、春秋を以て太一を東海の郊に祭り、太牢を用う、七日、壇を為り、八通の鬼道を開く」というのがあります。太一は天の中心にある北極星を神格化した天神で、ここで使われている「鬼道」は、天神である太一をも含めた鬼神たちのやってくる道(道路)という意味です。「東海の郊に祭り」からは神仙界が想定されます。

ここまでの「鬼道」という言葉には、死者の霊と通じる、霊魂と対話する、死者の霊を迎える、というようなニュアンスが読み取れ、さらには神仙思想の要素が含まれているように感じます。

道教とは(前方後円墳の考察⑨)」で書いた通り、五斗米道を興した張陵の孫に張魯がいます。「後漢書」劉焉伝には、この張魯の母親が息子の張魯の出世のために上司である劉焉をたぶらかす目的で「鬼道」を操る様子が記されます。さらに「三国志」魏書公孫陶四張伝には、張魯は出世させてもらった劉焉に抗い、子である劉璋にも従わず、その結果、母親が殺されたとあります。張魯はさらにその後に師君と名乗って「鬼道」を民衆に教えたとも記されます。

「鬼道」を利己的な目的で使うとか、一般民衆に教えるとか、それ以前のものと何かイメージが違ってきているように感じます。やはり卑弥呼の「鬼道」は道教ではないと考えます。

「鬼」「鬼道」について、「前方後円墳の出現と日本国家の起源」に収録される大形徹氏の論を参照して整理しましたが、私の考えを結論的に言うと、卑弥呼は、人々から禍を取り除き、福を招き入れる能力や、人々を不老長生に導く力を持った「方士」ではなかったか、ということになります。方士とは道教が成立する以前の修行者で、祈祷、卜占、呪術、占星術、煉丹術、医術などの神仙方術の使い手です。私は、この神仙方術が卑弥呼の「鬼道」であったと考えます。

倭国に神仙思想が伝わったのが秦の時代で、徐福および徐福が連れてきたであろう多くの方士が各地に留まって神仙思想や神仙方術を伝えました。卑弥呼は彼らの末裔ではないでしょうか。









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群馬の古墳(保渡田古墳群)

2021年04月06日 | 遺跡・古墳
白石古墳群を見学した日の後半は高崎市にある保渡田古墳群を訪ねました。榛名山南麓の保渡田・井出の地区にあり、二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳の三基の大型前方後円墳が残っています。築造年代は5世紀の後半も終わりに近い頃から6世紀前半にかけてとされ、二子山古墳→八幡塚古墳→薬師塚古墳の順に3代にわたって継続して造営されたと考えられています。

駐車場に車を停めて、まず八幡塚古墳を見学しました。この古墳は綺麗に復元整備されているため、空からの映像が美しく、以前から見たいと思っていた古墳です。Googleマップを切り取ってみました。右上が八幡塚古墳で左下が二子山古墳です。八幡塚古墳は築造当時の状況に復元され、二子山古墳は発掘前の古墳の形状をできるだけ変えない手法で整備されました。


八幡塚古墳は全長102メートルの前方後円墳。後円部を囲むように周濠内に4基の中島が設けられています。






中島のひとつです。墳丘上には円筒埴輪が巡らされて小さな円墳のようにも見えます。

祭祀の場もしくは近親者や従者が葬られた倍塚ではないかと考えらえていますが、確定に至っていないようです。



後円部頂上から前方部の眺め。葺石や埴輪など全てが築造当時の状況に復元されていますが、私はこのような完全な復元は興ざめであまり好きではありません。


石室も復元され、石棺が置かれています。


内堤上に54体の人物・動物埴輪等が配置された「形象埴輪配列区」があります。



古墳が美しく見える角度です。


次はすぐ近くの二小山古墳に向かう途中にある桜の木が見事でした。


夕暮れの二子山古墳。二子山古墳は全長108メートルの前方後円墳。この古墳も周濠内に4基の中島が配置されています。




後円部頂上には石棺の写真が置かれています。





後円部頂上からみた前方部。


中島。






先に見た白石古墳群は5世紀前半には稲荷山古墳が造営され、6世紀前半の七輿山古墳で最盛期を迎え、7世紀前半には皇子塚古墳が存在したので、少なくとも200年ほどは継続していたと考えられますが、この保渡田古墳群は最後の薬師塚古墳が6世紀前半なので、白石古墳群の勢力に吸収されたのか、それとも白石から分派(分家)した勢力だったのか、興味深いところです。保渡田古墳群は白石古墳群から北に15キロのところ、烏川を挟むように位置しています。徒歩で3時間程度の距離ですが、川を挟んでいることから別の勢力が一時的に栄えたと考えることもできるし、東国最大級を誇る七輿山古墳とほぼ同じ時期ということから、勢力拡大を目論んで川の向こうに派遣された白石の一派と考えることもできるのではないでしょうか。

この日はこれから四万温泉に向かうため、日が暮れてきたこともあり、もうひとつの薬師塚古墳はパスしました。是非とも訪ねてみたいと思っていた八幡塚古墳に来れただけで満足です。





群馬の古墳(白石古墳群)

2021年04月05日 | 遺跡・古墳
2021年3月、車中泊で群馬の四方温泉に出かけました。東京の自宅から四方温泉に向かう途中、藤岡市にある白石古墳群や高崎市にある保渡田古墳群に立ち寄ったので、ここで紹介したいと思います。まずは白石古墳群から。

鏑川と鮎川にはさまれた舌状の河岸段丘上にある七輿山古墳は白石古墳群に属する全長150メートルの前方後円墳で、6世紀前半の築造とされています。6世紀代の古墳としては東日本最大級とのこと。Wikipediaによると、二重の周溝がめぐり、前方部の前面にあたる西側では「コ」の字状にめぐる三重目の溝も発見されている、となっていますが、「コ」の字状にめぐる三重目の溝は正確には確認ができませんでした。


  
駐車場のある北側からの眺め。満開間近の桜が見事でした。


後円部を正面から。墳丘の一部が平らに削られてお地蔵さんがたくさん並んでいたのだけど、どのお地蔵さんも首がありませんでした。何かの理由で首を落とされたようです。




北側の後円部から前方部にかけて。くびれ部です。造り出し部があるらしいのですがよくわかりませんでした。


前方部の正面には石垣のような構造物がありました。北側の周濠の外や前方部の正面にも同じような石の構造物があったのですが、中世に墳丘を利用してお城が築かれたのでしょうか。たぶん葺石が利用されたのだと思います。墳丘の下には同じような石がたくさん落ちていました。




前方部の北側の角。ここも桜が見事に咲いていました。


七輿山古墳は6世紀前半における東日本最大級の前方後円墳。このあたりは継体天皇の時代に東国で最大の勢力を持った豪族の拠点だったということになるのでしょうか。

七輿山古墳からのびる坂道を上がった丘陵上に二つの小さな円墳が並んでいました。右が皇子塚古墳で左が平井地区1号古墳です。


皇子塚古墳は直径31メートルの円墳で6世紀後半の築造と考えられています。立派な石室は調査後に埋め戻されました。



平井地区1号古墳は直径24メートルの円墳で、こちらも石室は埋め戻されています。



あたりは公園として整備されています。東屋で休憩していた二人の女性とお話をしました。こちらが古墳が好きだと伝えると、一人の方が満面の笑みで自分もそうだと言って、スマホの「群馬HANIアプリ」なるものを見せてくれました。やっぱり群馬は古墳王国なんだと思いました。この女性から白石稲荷山古墳や伊勢塚古墳を勧められたので、まずは稲荷山古墳に行ってみることにしました。

この公園の南側の丘陵に白石稲荷山古墳が見えます。こちらも立派な桜の木が立っています。


白石稲荷山古墳が5世紀前半の築造とされる全長155メートルの前方後円墳です。


後円部を正面から。あとで知ったことですが、この道は十二天塚古墳・十二天塚北古墳という二つの古墳(稲荷山古墳の倍塚)の上を通っていたようです。気がつかなかった。


近くによると桜がこんな感じです。


後円部頂上から見下ろす前方部と、前方部から見上げる後円部。



心地よい風が吹く中、満開の桜の下から眺める素晴らしい眺望。いつまでもここに居たい気分になりました。なんと、ここにも古墳がお好きな女性がひとり、自ら古墳女子と名乗っておられました。伊勢塚古墳にも行きたかったのだけど、時間の関係でパスすることにしました。

山津照神社古墳・塚の越古墳

2021年03月01日 | 遺跡・古墳
2021年2月27日、朝からの予定がキャンセルになったので急きょ出かけることにしました。早起きしていたのでちょっと遠くまで足を伸ばそうと思って滋賀県あたりで考えていたところ、花が好きな奥さんが少し前に「行きたい」と言っていたことを思い出して、滋賀県米原市にある「ローザンベリー多和田」というイングリッシュガーデンに行くことにしました。9時半頃に自宅を出て、ずっと高速を走り、まったく渋滞することなく、ナビの到着予想時刻よりも10分早い11時40分頃に到着しました。この到着直前、「山津照神社」の案内標示を見つけ「そういえばこのあたりやったんや」と思わずつぶやくと、奥さんが「帰りに寄ってもいいよ」と言ってくれました。





園内のレストランでランチを取ったあと、目的のガーデンを散策しました。この日は天気がよくて気温も上がり、ポカポカとした温かい日差しを浴びながらの散策となりました。ガーデンは夜になるとイルミネーションで彩られ、それを目当てにくるお客さんもたくさんいるようです。ただし、お昼と夜は入れ替え制になっていて、昼の部は16時で終了となり、夜の部はもう一度料金を支払って入園することになります。せっかく来たのだからイルミネーションも見て行こうということなり、15時にいったん出ることにしました。

さて、前置きが長くなりましたが、古墳の話はここからです。15時に出て夜の部が始まる17時までの間、上述の山津照神社へ行くことにしました。正確に言うと境内にある山津照神社古墳が目的です。ガーデンから車で5分とかかりませんでした。奥さんは駐車場で留守番です。

天野川右岸、横山丘陵の最南端の尾根の上に建つ山津照神社。


この奥を進むと大きな二の鳥居と社殿があります。左手が山津照神社古墳。


前方部と後円部の間、くびれ部のところに若宮八幡の祠が建っています。






















説明板によると築造は6世紀前半ですが、資料によっては6世紀中葉となっているものもあります。前方部、後円部とも削平を受けているので墳丘の大きさは現在の見た目よりも大きく、全長が約63メートルもあったらしい。前方部の幅が後円部の直径よりも大きく、典型的な後期の前方後円墳とのこと。明治15年(1882年)の神社境内拡張工事に際して石室が見つかり、倣製の銅鏡2面(獣文鏡・五鈴鏡)、金銅製冠、鉄刀、水晶製三輪玉、鉄製刀子、馬具(轡・杏葉・鞍金具・鎧・雲珠・辻金具・吊金具)、須恵器(蓋杯・台付広口壺・広口壺・大型器台)が、前方部から銅鏡一面(内行花文鏡)、鉄剣、鉄塊が墳丘から埴輪が出土したと伝えられています。残念ながら石室は埋め戻されて見ることができません。

このあたり一帯は息長氏の本貫地とされており、この古墳の被葬者も神功皇后の父である息長宿禰王と伝えられてきましたが、時代が合いません。ただ、朝鮮半島との交流が想定される金銅製冠などの豪華な副葬品から、息長氏の首長墓であることは間違いないとされます。これらの副葬品は、琵琶湖対岸の鴨稲荷山古墳の副葬品とも似ていると言われますが、鴨稲荷山古墳は即位前の継体天皇を支えた三尾氏の首長墓とされるので、この三尾氏首長との関係も想定される山津照神社古墳に眠る息長氏の首長も継体天皇との関係がうかがえます。

左側に前方部、右側に後円部。




墳丘の裏に回ってみました。左側に後円部、右側に前方部。




神社の社殿も撮ってきました。境内は意外に広く、社殿も立派でした。










さて、17時までまだ時間があったので次は塚の越古墳に行くことにしました。息長古墳群を調べているときにこのあたりはGoogleストリートビューで何度も探索して景色が記憶に残っていたので、塚の越古墳の場所はだいたいわかりました。ここでも奥さんは車中で待機です。

北陸自動車に沿う小さな道路脇に古墳が見えます。墳丘はほとんど削平されて一部が残るのみです。左側が前方部で右側(手前)が後円部です。


全長が46メートルで、説明には6世紀初頭の築造とあり、山津照神社古墳に先立つ息長氏の首長墓と考えられています。




後円部です。盛土はほとんどありません。




前方部と後円部の間に小さな祠が建っていました。


左側が前方部です。




右側が前方部です。この小山を登るときに石を踏みつける感覚があったのですが、たぶん葺石が残っていたのでしょう。


塚の越古墳が6世紀初頭で山津照神社古墳が6世紀前半。いずれも継体天皇即位の時代に連続して築かれた息長氏の首長墓です。このあたりの息長古墳群にはほかに、5世紀後半後別当古墳や6世紀後半の人塚山古墳があり、5世紀後半から6世紀後半の100年間にわたり、数十m規模の前方後円墳が継続的に築かれたことがわかっています。詳しくはこちら、あるいはこちらをご覧ください。

塚の越古墳を見ているときに同世代くらいのご夫婦が歩いてこられ、奥さんの方が私の隣に来て同じように古墳の説明を読み始めました。すると突然「どちらから来られたのですか」と話しかけられました。「大阪からです」と答えると、「お好きなんですね」と言われました。「お互いに」という言葉を飲み込んで「そうなんです」と答えると笑顔で去っていきました。

時間はまだ少しあったのでほかの古墳に行こうかとも思ったのですが、イングリッシュガーデンに戻って駐車場で夜の部を待つことしました。少しだけイルミネーションを紹介して終わりにします。















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市尾宮塚古墳・市尾墓山古墳

2021年01月23日 | 遺跡・古墳
2021年1月、結婚前に奥さんと行った奈良の壺阪寺を35年ぶりに訪ねた帰りに立ち寄った市尾宮塚古墳と市尾墓山古墳。いずれも近鉄吉野線の市尾駅からすぐ近くにあって、宮塚古墳は小さな山の頂上に、一方の墓山古墳は田園に囲まれた平地に築かれています。

まずは宮塚古墳から。古墳のある小山の上には天満神社が鎮座しているので麓の鳥居をくぐって参道を登っていきます。









階段を登りきった目の前に神社の社殿が見えるのですが、肝心の古墳が見当たりません。よくあるパターンの古墳の上に神社か、と思いながら社殿の裏側に回ったり、向う側の山すそへ降りて行ったりしてみたものの、それらしい盛り上がりが見つかりません。少し不安な気持ちでネットで検索してみると、社殿の右手の奥に墳丘があることがわかりました。



この林の中を少し下ると説明板が立っていて、なんと石室が見えているではありませんか。



市尾宮塚古墳は6世紀中頃の築造、全長44メートルの前方後円墳で、後円部は直径が23メートルで高さが7メートルとあります。この横穴式石室は後円部にあって開口部が北側を向いていて、くり抜き式の家形石棺がそのまま安置されています。金銅製の太刀、馬具、鈴、耳環、鉄製の小札、鉄鏃、水晶やガラス製の玉などが出土したそうです。







石室のある後円部に上って前方部を見下ろしてみましたが、前方部の先端部分がいまひとつよくわかりませんでした。



こちらは前方部左手から後円部を見た様子です。




さて次は墓山古墳です。こちらは国指定史跡でご覧の通り、きれいに整備されています。







6世紀初め頃の築造とされる前方後円墳で、全長が70メートル、二段築成で高さが10メートルとあります。宮塚古墳同様に後円部の横穴式石室にくり抜き式の家形石棺が確認され、武器、馬具、玉類などが副葬されていました。テラス部には埴輪が並べられ、周濠から鳥・笠・石見型などの木製品が出ています。

後円部に上る階段を上ると石室入口と思われるところに扉があったのですが、残念ながらしっかり施錠されていて内部を見ることはできませんでした。高取町のサイトには、石室にコケやカビが発生したので公開を中止していると書いてありました。







後円部に上るとシートが被せられていました。おそらく石室の保存施設を修復しているのでしょう。後ろを振り返ると一段と高い前方部がそびえていました(ちょっと大げさですが)。





左右に造り出しがありました。









墳丘の傾斜がかなりきついです。



奥さんが撮ってくれました。



飛鳥から紀ノ川に抜ける紀路(きじ)は巨勢路とも呼ばれ、巨勢氏の本貫地を通過する古代の官道です。紀ノ川を下って瀬戸内海へ出れば海路で朝鮮半島や中国へ通じていることから、この二つの古墳がある高取町域には渡来系の人々が多く居住したとのことです。宮塚古墳、墓山古墳ともに6世紀の古墳時代における巨勢氏の首長墓であったと考えられます。

ちなみに、35年ぶりの壺阪寺は寂れていて、入山料を取るようになっていたので境外から眺めるだけにしました。思わず撮った今回唯一の一枚、帰宅してアルバムを見ると偶然にも同じところから撮った写真がありました。






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ウワナベ古墳・コナベ古墳・ヒシアゲ古墳

2020年12月01日 | 遺跡・古墳
2020年11月22日、奈良県と京都府の境界の近くまで行く用事があって車で出かけたので、ついでに近くの佐紀盾列古墳群を見学してきました。車をどこに停めようかと悩んだ結果、平城宮跡遺構展示館の駐車場に停めて歩くことにしました。この駐車場は無料です。

歩いて10分足らずでコナベ古墳の前方部左手の周堤上に到着です。下の写真の左が後円部で右側が前方部です。



徒歩での見学なので効率的に見て回ろうと思って、コナベ古墳はいったんやり過ごしてウワナベ古墳に向かいました。上の写真の右に向かって歩き、前方部右手から下の写真を撮影しました。左側が前方部で右奥が後円部です。





この案内を右に進んで、コナベ古墳とウワナベ古墳の間にある航空自衛隊の施設の前を通過してすぐにウワナベ古墳が見えました。左が後円部で右が前方部です。



よく見ると、墳丘表面の土が剥がされて葺石らしきものが見えています。





さらに周濠に沿って歩いていると、空き地に立てたテントに人が何人か立っています。なんと、そのテントの下のテーブルには土器片が並べられているではありませんか。見せてもらっていいですかと聞くと、どうぞ、という返事。少し興奮してきました。土器片やパネルを見ながら係の人から説明を聞きました。すると、ウワナベ古墳はちょうど調査をしているところで、昨日今日の2日間は現地見学会をしているというではありませんか。そうやった、古代史サロンのメンバーが投稿してくれてたのがこれやったんか。何と間抜けなことです。ウワナベ古墳を見学しようと決めたときにはその投稿を読んでいたのに、話がまったくつながっていなかった。そういえばさっき見た葺石も調査中の場所やったんや。



















見学会は事前申込制なので入れないけど、外から眺めることができるというのでさっそく行ってみました。後円部を中心に調査区域が設定されています。下の写真の右側になります。



陵墓参考地の発掘を見学できる機会なんて滅多にないので、外から眺めるだけでも十分だけど、できることなら入って見たかったなあ。













後ろ髪を引かれながら見学場所をあとにしてさらに周濠を巡ってみると、ほかの区域でも調査が行われていました。この調査は崩れつつある墳丘裾部に護岸工事を施すために裾部を確定すべく行われているもので、結果としてこれまで考えられていた255mよりも少し長い270m~280mの長さがあることがことがわかりました。これは結構大きなニュースになったのですが、さっきの土器片展示のところの係の方の話では「このあたりの周濠のある古墳は調査をすればおそらくどれも長くなるでしょう。だからこの古墳だけ取り立てて言うのはあまり意味がないです。」ということでした。そういうものなんだ。ちなみに、この古墳は5世紀前半の築造とされ、もとは元明天皇陵に治定されていたけど、元明陵は違う古墳になったので、現在は被葬者は特定されずに「宇和奈辺陵墓参考地」として宮内庁の管理になっています。



さて、ウワナベ古墳をあとにして、もう一度コナベ古墳に戻ります。今度は古墳の東側を周濠に沿って歩きます。



後円部のあたりで道が分かれます。コナベ古墳を一周するまえに近くのヒシアゲ古墳に行くことにしました。ヒシアゲ古墳は「平城坂上陵(ならさかのえのみささぎ)」として第16代仁徳天皇皇后の磐之媛命の陵に治定されています。全長219mの前方後円墳で、築造時期は5世紀中葉~後半とされています。









後円部に行くと外堤上に並べられていたとされる埴輪列がそのままの位置に復元されていました。





近くに「飛地ほ号」という陪塚がありました。





ウワナベ古墳、コナベ古墳、ヒシアゲ古墳の位置関係はこうなっています。



来た道を引き返してコナベ古墳の続きを歩きます。





これでコナベ古墳も一周し、佐紀盾列古墳群の東地区にある3つの古墳を見学したことになります。ちなみに最後のコナベ古墳は全長が204mで、こちらも「小奈辺陵墓参考地」として宮内庁が管理しています。

このあとは車に戻って、古墳群西側にある成務天皇陵に治定される佐紀石塚山古墳、垂仁天皇妃の日葉酢媛陵に治定される佐紀陵山古墳、孝謙・称徳天皇陵に治定される佐紀高塚古墳、さらには少し北に行ったところにある神功皇后陵に治定される五社神古墳(ごさしこふん)などを見ようと車で向かいました。事前に駐車できそうな場所を調べていたのでナビをセットして向かったのですが、近くまで行くとあまりに道が細くて車を擦るのが嫌だったのであきらめることにしました。また機会を作って来ようと思います。

それで少し時間があったので、遺構展示館にもどって見学することにしました。これは平城宮の内裏の遺構ですが、このように発掘調査時のままの遺構を保存して展示する方式は私がもっとも好きな博物館の展示形態です。







ここもゆっくり見たいのであらためて来ることにしました。平城宮跡はこのような施設以外は広大な公園としてピクニック気分で時間を過ごすことができる場所です。と知ったかぶって言いますが、実はここにやってきたのは約30年ぶりです。前回来たのは結婚した翌年で、その年に開催された「なら・シルクロード博覧会」の会場になっていました。それ以来です。

この日は急な用事で奈良に来ることになったにもかかわらず、天気も良くて充実の時間を過ごすことができました。とくにウワナベ古墳はあまりの偶然というか幸運な機会に恵まれ貴重な経験となりました。


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加曽利貝塚縄文遺跡公園

2020年07月04日 | 遺跡・古墳
2020年7月4日、恒例の週末遠足の行き先は千葉県千葉市の加曽利貝塚。東京に住むようになってからずっと気になっていた縄文時代の遺跡です。私の古代史の勉強は弥生時代と古墳時代が中心になっていますが、それは古代の日本が国家として成立していく過程を自分なりに解き明かしたいと考えていることに起因しており、その学習目的からすると縄文時代は少し遠いのでなかなか深入りする機会がないだけのことです。縄文時代の遺跡はこれまでにも、青森県の三内丸山遺跡や鹿児島県の上野原遺跡、愛媛県の上黒岩岩陰遺跡、福井県の鳥浜貝塚、東京の大森貝塚など、著名なところは機会を見つけて行っており、これらの遺跡のことを知るだけでも縄文時代は面白いと思えます。加曽利貝塚もきっと面白いだろうと思っていたので、遠足の目的地として選んでみました。

自宅のある北品川を11時20分に出発して徒歩でJR品川駅へ。品川から横須賀線、総武快速と乗り継いで千葉へ、さらにモノレールに乗り換えて桜木駅で下車、そこから徒歩で15分、12時40分頃に到着しました。





ふたつの碑がありますが、左側が1971年および1977年に国の史跡に指定されたことを記念したもので、右側が2017年に国の特別史跡に指定されたことを記念したものです。ちなみに、縄文時代の特別史跡はほかに三内丸山遺跡(青森県)、大湯環状列石(秋田県)、尖石石器時代遺跡(長野県)の3カ所のみです。



加曽利貝塚は直径約130メートルの北貝塚と長径約170メートルの南貝塚が連結した8の字形をしていて、その面積は約13.4ヘクタールで世界でも最大規模の貝塚です。地図のグレーの部分、左側の円形部分が北貝塚で右側の馬蹄形部分が南貝塚です。

遺跡内には加曽利貝塚博物館があるのですが、まず手近なところからと思って入口に近い北貝塚の貝層断面観覧施設に入りました。









貝が小さい。これまでにあちこちの博物館で見てきた貝塚の貝層剥ぎ取り標本の貝はハマグリとかアサリとか、もっと大きな貝殻なのに、ここのはハマグリも小さいし、とにかくゴチャゴチャとした感じ。その答えは博物館でわかりました。

次は竪穴住居群観覧施設に入りました。貝殻層の下から出てきた住居跡で、つまり使わなくなった住居の上に貝殻を捨てていったということです。住居跡の奥に見える1メートル幅くらいの白い層が貝層です。これが住居の上に覆いかぶさっていたのです。







こういう保存の仕方が好きです。施設を出て、この貝塚が台地の縁にあるのを確認しようと建物の裏へまわってみると、急な斜面がありました。この先が坂月川です。加曽利の縄文人は坂月川を利用して東京湾に貝を採りに行っていました。



そしてふと足元を見ると、なんと貝殻が散乱しているではないですか。





この小さな貝はイボキサゴ。この貝塚ではこのイボキサゴが9割近くを占めるとのことで、先に見た貝層がゴチャゴチャとしていたのはこの小さな貝のせいです。東京湾の干潟でよく採れた貝で、現代になって干潟がなくなるとともに絶滅寸前までいったものの、木更津沿岸の干潟で復活したそうです。地面に散らばっている貝殻は縄文人が捨てたものです。持って帰りたくなったのですが、ここは国の特別史跡なので我慢しました。



博物館に向かう途中に見つけたのが下の説明板。この加曽利貝塚は縄文時代の標式遺跡になっているので、「加曽利E1式」とか「加曽利B式」とかの土器が様々な博物館で展示されていて、このEとかBの意味がよくわからなかったのですが、ここでそれが解決しました。ここ加曽利貝塚の発掘地点のことだったのです。E地点とかB地点とか。そしてここがE地点。





そしてようやく博物館。小さい施設ですが展示は見応えがありました。千葉県の貝塚の数は648カ所で全国でもっとも貝塚の多い県、そのなかでも千葉市が最多、すなわち千葉市は全国で最も貝塚の多い市町村ということになります。千葉県が多いのは知っていたのですが、千葉市が最多というのは少し意外でした。







ここで出た土器が並んでいます。奥から古い順に加曽利E式土器、堀之内式土器、加曽利B式土器と並んでいて、それぞれ、縄文時代中期後半(約5000年前)、後期前半(約4500年前)、後期中ごろ(約4000年前)となっています。





土器などの遺物とともに発掘当時の写真も展示されていますが、こういうのも見入ってしまいます。









遺物の数々。















このパネルを見て初めて遺跡の全体像が理解できました。





この3枚のパネルは秀逸。加曽利貝塚の立地や生活圏など、たいへんわかりやすい。(赤丸が加曽利貝塚。わかりやすくするために加筆しました)







イボキサゴという小さな貝が9割近いと書きましたが、そもそもどうしてこんな食べにくくて加工しにくい小さな貝をこれだけたくさん採集したのでしょうか。貝層断面を見たときから不思議に思っていました。たまたま居合わせた職員の方に聞いてみたのですが、要領を得ない回答でした。そしてこんなパネルを見つけました。





どうやら博物館や研究者の間でもよくわかっていないようです。

そもそもハマグリやアサリといった大きな貝があまり採れなかったのでしょうね。だからこんな小さな貝を山のように採集して、おそらく干物とか、もしかしたら佃煮にして保存食として、あるいは交易品として利用したのでしょう。今でいうシジミやタニシのようなものと思えば少しは理解ができます。

博物館を出て北貝塚へ戻ってあらためてよく眺めると、数十センチから1メートルほどの高まりに囲まれているのがわかります。この高まりの下に貝層が埋まっています。(写真ではわかりにくいですが)













南貝塚を眺めます。こちらの方が高まりがよくわかります。







南貝塚の外側に竪穴式住居が復元されています。これはおそらく新しく復元したものでしょう。頑丈で立派な造りで新築感が残っています。



一方で、こちらは古い復元です。奥の住居は朽ちてきています。





この朽ちた住居は史跡公園としてスタートしたときに復元されたとしてもまだ数十年です。それなりにメンテナンスされていたと思うのですが、それでもわずか数十年でこの状態です。竪穴住居群観覧施設で見たとおり、あるいは様々な遺跡において住居跡が重なり合うようにして見つかるケースがたくさんあります。この復元住居のように少なくとも数十年に一度の建替えが必要だとすると、そりゃ重なり合うわな、と思いました。

南貝塚にも貝層断面の保存施設がありました。









時刻は16時15分、博物館の見学も含めて3時間半くらいいたことになります。今回も満足度の高い遠足となりました。

最後に、加曽利貝塚博物館学芸員の佐藤氏が書かれたこのレポート、大変わかりやすいので是非読んでみてください。
 ↓
文化遺産の世界 特別史跡 加曽利貝塚 (千葉県千葉市)




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大田区立郷土博物館・久ケ原遺跡

2020年06月27日 | 遺跡・古墳
2020年6月27日、緊急事態宣言が解除されたものの、まだまだ注意をしながら自主的な自粛生活を続ける中、気分転換と運動を兼ねて出かけました。行き先は大田区立郷土博物館と久ケ原遺跡です。なるべく人ごみを回避するために自宅のある北品川から五反田まで歩き、都営浅草線に乗って西馬込で下車、徒歩数分で到着です。



ここは2回目。1回目は2年前、学芸員の資格を取るために通信制大学で勉強をしていた時にレポートの題材にしようとやってきました。大田区は都内で古代遺跡が最も多いところです。それもあってか区立博物館なのに考古資料の充実ぶりはたいしたもんです。











近代の資料はあまり興味がないのだけどせっかく来たのだからと思って3Fの展示室に上がってみた。おっ! 展示が変わっている。







前に来たときは羽田空港の発展、町工場を中心に発展した大田区の歴史に関するパネルや写真がたくさんあったのに、今回は穴守稲荷や松竹の蒲田撮影所の展示に変わっていました。展示替えが行われたようです。で、肝心の考古資料の展示室。このあと久ケ原遺跡に行くことにしていたのでこれをチェックしました。







3週間前に訪ねた多摩川台古墳群に関する資料もたくさん展示されていました。現地を知ったうえで展示を見るのもいいな。博物館で情報収集してから現地を訪ねるのがいつものパターンだったので、逆もアリ、ということです。

さて、1時間半ほど見学して博物館を出ました。ここから久ケ原遺跡までは歩くのが一番早いので30分ほど歩くことにしました。久ケ原遺跡は武蔵野台地の南端にある久が原台地上に広がる弥生時代後期を中心とした関東地方最大の集落遺跡で、南関東地方後期土器編年基準の「久ヶ原式土器」の標式遺跡です。第二京浜からはずれて久が原に近づくと急に坂道が始まります。遺跡が台地上にあるのがよくわかります。



そして到着したのが久が原南台児童公園。台地上に広がる広大な遺跡のごく一部ですが、遺跡を感じることができる唯一の場所だと思います。





似てるなあと思ったらやっぱり久ヶ原式土器を模したイス。



公園の出入り口にはこんなレリーフも。久ケ原遺跡から銅鐸は出ていないはずだけど。







この自転車止めのフェンスも久ヶ原式土器かな。



そして児童公園からすぐ近くの久ケ原遺跡(久が原六丁目11番6号地点)。ここは平成24年に調査されたとのことなので、おそらくこの2軒のお宅が建つときの事前調査だったのでしょう。3基の方形周溝墓と管玉、石器(敲石)、甕型土器、壺型土器などが出土しています。







次に久ケ原遺跡(久が原六丁目13番地点)。ここは六丁目13番というところまでしかわからないので場所を特定できませんでした。





久が原台地は武蔵野台地が南に突き出した舌状台地なので東側、南側、西側はすべて坂道になっています。東側から坂道を上がってきて、帰りは南側を下って東急池上線の千鳥町駅へ出ました。台地上は平坦できれいに区画整理がされていて豪邸が建ち並んでいましたが、そもそもこの区画整理の時に遺跡が発見されたそうです。大阪人の私はこの地が田園調布とならぶ高級住宅地だとは知りませんでした。久ケ原遺跡は古代から現代に至るまで住宅地として栄えた場所だったことがわかりました。


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