古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

築山古墳群

2018年12月25日 | 遺跡・古墳
奈良県大和高田市、近鉄大阪線築山駅の周辺、奈良盆地西部を南北に延びる馬見丘陵の南端に広がる古墳群です。家内の実家がこのあたりにあるので、これまで何十回、いや何百回と足を運んでいるところです。このたび、実家に帰るたびに犬の散歩がてら歩いて見てきたので紹介します。

国土地理院のアプリで地形とあわせて場所を確認。

図の真ん中(奈良盆地西側)を縦断するのが馬見丘陵。築山古墳群はそのいちばん下にあります。標高は60~70mくらい。奈良盆地は南から北に向かってダラダラと標高が低くなっています。川の流れがそれをわかりやすくしてくれています。馬見丘陵の東から順に、高田川、葛城川、蘇我川、飛鳥川が南から北に向かって流れて大和川に合流しています。

築山古墳群のあたり。拡大してみると丘陵の様子と古墳が南北に並んでいるのがわかります。


築山古墳群の盟主墳である築山古墳。

被葬者は明らかでないのですが第23代顕宗天皇の可能性があるとのことで「磐園陵墓参考地」として宮内庁の管理下にあります。全長は210mあり、後円部径120m、前方部幅105mの前方後円墳で、採集された埴輪片から4世紀後半の築造と考えられています。蒲生君平の山陵志では南にある全長75mの前方後円墳である狐井塚古墳(「陵西(おかにし)陵墓参考地」)と共に武烈天皇陵と顕宗天皇陵に比定されています。そういえば、結婚前(30年以上前)に近鉄で来たとき、築山駅にある観光案内板に付近の名所として「伝武烈天皇陵」と書いてあったのを記憶しています。







築山古墳の南西すぐ近くにある陪塚の松島茶臼山古墳。直径47mの円墳でこちらも陵墓参考地です。




同じく築山古墳のすぐ東にあるコンピラ山古墳。

数回にわたる範囲確認調査などで墳丘は直径95mの規模を持つ、近畿地方最大級の円墳であることが判明。墳丘は2段築成、テラスと墳頂には埴輪列が廻らされていたようです。埴輪の特徴から5世紀前半の築造と推定されています。

私有地に囲まれているのですが、なんとか全貌を見たいと思って執念で回りました。










左が築山古墳で右がコンピラ山古墳。


こちらは築山古墳のすぐ南側にある狐井塚古墳。



全長75m、後円部径40m、前方部幅40mの前方後円墳で5世紀中葉の築造とされています。前述の通り「陵西(おかにし)陵墓参考地」として宮内庁管理下にあって立ち入りができません。

前方部右側(北側)の角。

この左側の一段低くなった土地が駐車場になっていますが、周濠であったことが伺われます。この古墳には5つの小さな陪塚があります。

陵西陵墓参考地い号。


陵西陵墓参考地ろ号。


陵西陵墓参考地は号。


陵西陵墓参考地に号。


陵西陵墓参考地ほ号。

ここは周濠跡が確認されたのでしょうか、石敷きで表現されています。

5つの陪塚全てが陵墓参考地になっていて立ち入りができないのですが、ご覧の通り、住宅地の中にある小さな古墳ばかりでスコップで簡単に掘れそうです。5つ目の「ほ号」がある場所は「池田遺跡」と呼ばれ、高田温泉さくら荘(1994年10月開業)、老人ホーム慈光園等の建設のために発掘調査が行われた結果、多くの古墳や遺跡が埋もれていることが判明しました。さくら荘にはよく行ったのですが、遺跡の上にあるとは当時は知りませんでした。

池田遺跡の説明板。


池田遺跡の南に広がる領家山古墳。




山上にある神社の名は天照皇太神社。いかにも、という感じです。


領家山の麓から西を眺めると二上山が見えます。


南西には葛城山。



ここまでは主に築山古墳群の盟主墳である築山古墳の南側を見てきましたが、北側にも古墳が分布しています。

インキ山古墳。

築山駅のすぐ近くですが、古墳の原型をとどめていません。

かん山古墳。

築山古墳の北にある築山児童公園内にある帆立貝式前方後円墳とのこと。登ってみたところ、かろうじて帆立貝の形をイメージできたのですが、古墳だとわからなければ単なる小山です。

さらに北へ行くと大谷山自然公園があり、公園内に大谷1号墳(直径33mの円墳)、2号墳(直径13mの円墳)があるのですが写真を撮り忘れました。2号墳はきれいに整備されて墳丘に登ることもできます。

小道を下った先に大谷2号墳があります。


このほか、築山駅の北側にも黒石山の黒石支群、エガミ田支群、モエサシ支群、新山古墳などがあるそうですが、またの機会にします。最後に、今回歩き回った古墳群の空撮写真をWikipediaから転載させていただきます。インキ山古墳は今はこんなにも緑はなくて宅地になっています。池田遺跡や領家山は一番下のJR和歌山線よりも下になります。



 → 「築山古墳群(続編)」もご覧ください。



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断夫山古墳・白鳥古墳

2018年12月02日 | 遺跡・古墳

 名古屋市熱田区、高蔵遺跡を南へ少し歩くと伏見通り沿い、神宮公園内にそびえる断夫山古墳が現れる。全長が151メートルで愛知県最大の前方後円墳です。三段築成で前方部が発達した古墳時代後期の特徴を示しており、出土した埴輪や須恵器から6世紀前半頃の築造と推定されています。このあと行く白鳥古墳とともに尾張氏の首長の墓と考えられています。この古墳はかつては日本武尊の妃である宮簀媛命の墓とされていました。同様に白鳥古墳は日本武尊の墓とされていましたが、いずれも時代が全く合いません。





ここはもともと熱田神宮の管理下にあったものを戦後に愛知県が県有化し、1987年になって国史跡に指定されました。その後、県営熱田神宮公園として整備されて現在に至っています。

西側のくびれ部の造り出しです。

ここから多量の須恵器が出たそうです。東側に造り出しはありません。また、写真でわかるように周濠が墳丘を囲んでいますが、これは後世に造作されたものです。

前方部の左隅。


こちらは右隅。

左隅と違って削られているようです。

後円部の先端。

許可をもらえば墳丘に登れます。


断夫山古墳から少し南へいくと白鳥古墳があります。高蔵遺跡が熱田台地の東端でしたが、この白鳥古墳は西端に位置します。

白鳥古墳の少し北側の道ですが、西に向かって下っているのがわかります。突き当たりは堀川という川になっています。

川沿いの道から東へすぐ。

この階段の高さがこのあたりの熱田台地の高さといううことになります。

白鳥古墳。

全長が70メートルの前方後円墳で6世紀初頭の築造とされます。ただし、この古墳は前方部の南端は道路建設で、後円部の東側は法持寺の移転改築などで削られていて正確な大きさは不明です。

前方部の先端。

手前には周濠があったとされています。

熱田神宮社伝では、能褒野(のぼの)に葬られた日本武尊が白鳥となって当地に降り立ったという伝承により、この古墳を日本武尊の墓としています。白鳥古墳の名称もそこからきており、白鳥御陵とも呼ばれていますが、断夫山古墳と同様に時代が合いません。

隣接する法持寺。

曹洞宗の寺院で山号は白鳥山。白鳥陵の宝物を護持する寺であることから草創期は宝持寺と称していたそうです。

法持寺の境内。

左側の森が古墳。手前が前方部の東側、奥が後円部の東側です。古墳に接するように、というよりも墳丘を削って境内が作られています。この境内は三保が関部屋の稽古場になっていたようで、ここで鍛錬した北の湖が横綱になったことから、北の湖や相撲に関する石碑もたくさんありました。


以上でこの日の目的を達成したのですが、ここまで来たら熱田神宮を参らないわけにはいきません。

結構疲れていたので正面までまわるのはやめて西門から入りました。

ここでもお決まりの大楠。


三の鳥居。


拝殿。




神社公式サイトによると、主祭神の熱田大神は三種の神器の一つである草薙剣を御霊代(みたましろ)とする天照大神のことだとか。ここ熱田神宮に草薙剣が祀られるようになった理由、というよりも逆にここに祀られている草薙剣がなぜ三種の神器とされるようになったのか、を考えているのですが、それはまたいずれ。

その草薙剣が祀られていた土用殿。


境内の一番奥にある一之御前神社。

天照大神の荒魂(あらみたま)が祀られています。

本殿をぐるりと取り囲む「こころの小径」を歩いて参拝を終了。歩き疲れてクタクタになりました。

尾張氏、熱田神宮、草薙剣、、、、尾張の地は謎でいっぱいです。



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高座結御子神社・高蔵遺跡

2018年12月01日 | 遺跡・古墳
 名古屋市熱田区高蔵町にある高座結御子(たかくらむすびみこ)神社は熱田神宮の境外摂社で、尾張氏の祖神とされる高倉下命(たかくらじのみこと)を祀っています。
 祭神の高倉下命は名古屋市守山区の東谷山の山頂にあった尾張戸神社にも祀られていました。その尾張戸神社のある東谷山の北側、庄内川を渡ったところは高蔵寺町で高座山がありました。この高座結御子神社のあるところも高蔵町です。ということは、記紀に登場する高倉下に因んで地名がつけられたと考えられます。







 熱田神宮の公式サイトには次のように紹介されています。

 祭神の高倉下命(たかくらじのみこと)は、この地域の産土神(うぶすながみ)であり「高座さま」と呼ばれ信仰を集めております。熱田神宮とほぼ同年に創祀された古社で、延喜式に名神大社として記載されております。
 当神社は古来、子育ての神として信仰が篤く、4月3日に幼児成育祈願祭、続く6月1日の例祭には境内末社の御井社(みいしゃ)で名高い「高座の井戸のぞき」があり数多くの人々が子供を連れてお参りします。幼児に井戸をのぞかせると「疳(かん)の虫封じ」になるという信仰です。




ちょうど訪ねたときに、若い夫婦が赤ちゃんを連れて祈願をしてもらっているところでした。そして祈願のあと、この井戸をのぞいていました。


お決まりの大楠の樹。

 
高座結御子神社は弥生時代から古墳時代にかけての遺跡である高蔵貝塚あるいは高蔵遺跡の上に鎮座しています。境内にもそれを示す立札がありました。


神社を囲むように公園があって、何らかの遺跡の痕跡が見れるだろうと思っていたのですが、まさかこんな事態に遭遇するとは思いませんでした。


なんと、神社のすぐ隣でまさに遺跡を発掘していたのです。公園整備に伴う発掘とのこと。


しかも、発掘現場の見学会が終わったばかりでした。


この高蔵遺跡は弥生時代前期としては列島の東端にあたる遺跡であることから全国的にも有名です。出土したこの地方特有のパレススタイル土器は国の重要文化財として東京国立博物館に収蔵されているとのこと。

神社の裏へまわるとこんなに広い公園になっていて、この一帯が高蔵遺跡です。


今は影も形もないですが、ここに古墳がありました。


金網の向こうは神社の境内で、そこには墳丘がみえます。

神社を取り囲むように7基の円墳があったとされており、周辺も含めれば5世紀後半から6世紀後半の15~20基の古墳があったとされ、高蔵古墳群とも呼ばれています。

この高蔵遺跡は南に向かって舌のようにベロンと延びた標高10メートルほどの熱田台地の東端にあります。神社から東に向かうとすぐに坂道を下るので、台地の東端というのがわかります。


ここから少し南側、台地の西端に断夫山古墳と白鳥古墳が、さらに少し行った南端には熱田神宮があり、狭い台地上に尾張氏ゆかりの遺跡や神社が密集する地域となっています。

神社南側の道路を渡ったところにある小学校も遺跡の上に建っています。






遺跡と神社をあとにして、断夫山古墳、白鳥古墳、そして熱田神宮へと向かいました。



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