古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

天照大神と伊勢神宮(第1部・21章)

2022年07月11日 | 伊勢神宮
●山中章氏が考古学から伊勢神宮の成立に迫る



次に、穂積裕昌氏と同様に考古学の立場から伊勢神宮の成立に迫った論考として山中章氏の『考古学から見た古代王権の伊勢神宮奉斎試論』を見てみます。この論文は穂積氏の論考をかなり意識して書かれており、文献研究の成果と考古資料を照応させて、どの時期の説に矛盾無く読み替えられるかを検証する穂積氏の論証方法に対して、いったん文献史料から離れ、遺物や遺構から時期を特定して大和王権の影が色濃く反映する資料に焦点を当てて伊勢神宮に迫ろうとするもので、多くの部分で穂積氏に反論が展開されます。

封建的支配関係にあった古墳時代において、大和王権が地方に進出するには大きな障害があり、これを克服するための措置がミヤケ制、部民制、国造制でした。著者は、これらの諸制度の成立を経て伊勢湾西岸地域において大和王権が直接的に地域へ進出する時期は6世紀前半以降とし、特に空間を占有し、王権の直轄的支配が及ぶのは6世紀後半以降である、とします。4世紀以降に在地首長層が支配していた伊勢の地に大和王権が奉祭する神祀りの場を割譲することを求めたとすると、考古資料にどのような変化が生ずるのか。著者は大和王権を構成する有力首長と地方首長との人的な結合が不可欠と考え、その象徴が前方後円墳であり、伊勢度会の地にこそ、その痕跡がなければならないとして、伊勢および周辺地域における前方後円墳の展開状況を検証します。(著者は広瀬和雄氏らによる古墳編年を用いますが、ここでは実年代に読み替えて表記します。)

北部伊勢地域では4世紀前半に伊勢最古の前方後円墳である高塚山古墳(全長50m)が桑名に築造されます。その後、4世紀後半までに志氐(しで)神社古墳、能褒野(のぼの)王塚古墳、寺田山一号墳などが築かれますが、5世紀代に入るとこの地域に前方後円墳が見当たらなくなります。

中部伊勢地域では4世紀に池の谷古墳(86m)が築造されるまで、中部・南部の古墳は一志郡域を中心とする前方後方墳であり、その後も大型円墳がこれに次ぎます。池の谷古墳に続いて4世紀後半に伊勢最大の宝塚一号墳が築造されます(穂積氏は等古墳の築造を5世紀前半としています)。続く二号墳は矮小化し、帆立貝式に近い前方後円墳になり、その後は5世紀末までこの地域から前方後円墳は姿を消します。この状況は北部伊勢地域と同様であり、著者は中央との間に何らかの問題が生じた可能性を指摘します。

南部伊勢地域では古墳時代を通じて前方後円墳あるいは際立った首長墳が築造されない状況が認められます。当該地域は伊勢神宮が所在する地域であるものの、6世紀中頃まで古墳を媒介とする政治秩序とは無縁の地域であったとします。

伊勢地域におけるこうした大和政権との希薄な関係が激変するのが6世紀に成立した横穴式石室を伴う後期古墳の築造でした。北勢では6世紀初頭、井田川茶臼山古墳に横穴式石室が初めて導入され、6世紀後半になると急激に広がり、安濃郡域の長谷山古墳群のような大群集墳が成立していきます。

南勢における横穴式石室の展開で最も注目されるのが両袖式の巨大横穴式石室をもつ6世紀末築造の高倉山古墳で、この古墳の出現が大和王権の伊勢地域進出の証左であり、6世紀後半になってようやく伊勢神宮所在地の一角に強力な大和王権の痕跡が認められたとします。また、その他の注目すべき後期古墳として双龍環頭大刀を副葬した磯浦(礫浦の間違いか)の宮山古墳をあげます。伊勢地域では一志郡の鬼門塚古墳などに単龍環頭大刀が確認されており、単龍を物部氏、双龍を蘇我氏の配布品とする清水みき氏の見解に従うと、南勢地域は7世紀前後に蘇我氏との関係を深めたことになります。

以上のように主に古墳の築造経緯を通して伊勢神宮の地と大和王権との関係を明らかにした結果、6世紀末に初めて伊勢地域全体が大和王権による統一管理体制下に入ったとします。さらに、穂積氏が神島と坂本一号墳における一定の照応関係を想定した頭椎大刀については、伊勢固有のものではなく蘇我氏によって配布された剣であり、大和王権の関与が度会郡域に及んだことを示す初めての資料だとして、この時期こそ皇祖神天照大神を伊勢に奉祭する絶好の機会であり、伊勢神宮成立の契機を6世紀後半に求める所以とします。

最後に、伊勢神宮をめぐるその他の考古資料についても触れられます。まず、内宮の荒祭宮の立地が古墳時代祭祀場の選地として典型的であり、汎国家的なレベルで決定されている可能性が高いとする穂積氏の見解に対しては、国家権力が全国の祭祀場モデルを示して形成させたわけではない、などとして反論します。次に、神島の八代神社所蔵品にある画文帯神獣鏡について、全国で24面ある同型鏡のうち3割近い7面が伊勢湾周辺にある背景には、国際情勢の変化や大王専制体制の強化のために国家的祭祀の場を必要とした雄略朝による配布が想定されるとする岡田精司氏や同氏の説を首肯する八賀晋氏の論に対して、24面のうち5世紀代の15面は雄略朝による配布としても6世紀代の6面は継体朝によることが想定されると主張します。そして内宮の祭祀遺物について、内宮空間が5世紀代には大規模な祭場であったと推定する穂積説に対しては、当該地域において大和王権との関係を端的に示す前方後円墳が一基もない中で内宮空間に大規模な祭場が展開していたと理解すれば、その利用者は在地首長層以外に考えられないとして、一歩踏み込んだ主張をします。

穂積氏および山中氏の論考は、古墳の規模や築造時期、なかでも高倉山古墳の位置づけ、さらには内宮祭祀空間の意味、神島の八代神社所蔵品の捉え方など、伊勢神宮の成立を考えるにあたっての具体的な材料を提供してくれました。また、陸海の交通路、土師器や須恵器などの土器生産、あるいは土器の分布など、ここでは取り上げなかった課題もあります。文献からのアプローチだけではどうしても隔靴掻痒になるところを物的証拠をもって語れる考古学からのアプローチが欠かせないことを再確認しました。

(つづく)






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天照大神と伊勢神宮(第1部・20章)

2022年07月09日 | 伊勢神宮
●穂積裕昌氏が考古学から伊勢神宮の成立に迫る③



ゲーター祭りの舞台である鳥羽市の神島に鎮座する八代神社には、画文帯神獣鏡1面、四神二獣鏡1面、頭椎大刀2組、金銅製ミニチュア紡績具など、「神島神宝」とも称される多数の遺物が所蔵されています。

画文帯神獣鏡は三重県明和町の神前山一号墳に3面、亀山市の井田川茶臼山古墳に2面、岡崎市の亀山二号墳に1面、計6面を含む24面の同型鏡があり、伊勢湾岸に多く分布することに何らかの政治的意図が読み取られてきました。これらの古墳の築造時期は5世紀後半から6世紀前葉です。

頭椎大刀については伊勢から渥美半島を経て駿河に至る地域に集中的に分布していることから、東国へのルート上の諸豪族へ配布されたものとする岩原説が紹介されます。また、斎宮に程近い坂本一号墳から細かい形式差があるものの同様の頭椎大刀が出土しており、7世紀代の築造で地域の首長墳と考えられる当古墳と八代神社所蔵品は頭椎大刀を介して一定の照応関係にあるとします。

また、八代神社所蔵品と伊勢神宮を媒介するものは神衣祭であるとして、絹の衣である和妙は三河国によって貢納された「赤引糸」が用いられていることから、赤引糸を伊勢に送るルート上に神島があるという観点でミニチュア紡績具を見るべきとする金子裕之氏の論を紹介します。さらに、秡川下流域となる多気郡には神衣の製作を担当する神服部や神麻続部の本貫地があり、この地は斎宮を臨み、坂本一号墳や神前山一号墳と同じ秡川流域で、麻続氏と関係の深い地域であるとします。

以上のように、神島の八代神社所蔵品は頭椎大刀や画文帯神獣鏡、紡績具を介して秡川流域、つまり麻続氏との関係が見て取れるとともに、この地は斎宮が造られる地でもあり、伊勢神宮とも極めて密接な関係を有しています。

神島が伊勢湾口に位置し、ヤマト王権の東国進出に伴って海上交通の安全を期すために神宝類が奉献されたとする主張が根強くありますが、伊勢神宮のある伊勢市域には古墳時代に機能した有力な港湾・湊に相当する有力な遺跡が確認されていません。つまり、現況の考古学的成果からは伊勢神宮の成立理由として伊勢を東国経営の根拠地に擬する考え方は導き出せないとします。『万葉集』に残された大宝2年(702年)の持統太上天皇による三河行幸の歌や『伊勢国風土記』逸文などによると、伊勢から三河に渡る際に使われた天然の良港として現在の松阪市にあったとされる的潟(的形)が注目されます。この的潟が古墳時代に遡って機能していた可能性を指摘した和田萃氏の論を卓見と評価します。

続いて内宮にある荒祭宮の立地について、伊賀市城之越遺跡など古墳時代祭祀場や三輪山麓の大神神社の立地との共通性から、荒祭宮の立地が古墳時代祭祀場の占地として典型的であり、それが汎国家的レベルで決定された可能性を示唆します。荒祭宮は内宮諸施設のなかで中心的位置を占め、正殿は荒祭宮を避けるように形成され、その北方からは相当数の滑石製模造品が見つかっていることなどから、荒祭宮は古墳時代祭祀場を踏襲した可能性が提起されます。
 
著者のカウントによると、内宮神域から出土した滑石製臼玉の総数は400点近くにのぼり、これらのうち荒祭宮北方出土のものは5世紀に遡るものが含まれるとします。また、出土地点の広汎さなどは古墳時代の祭祀場がかなり大規模であったことを示しています。

最後に高倉山古墳について。群構成をせずに単独墳として存在する高倉山古墳に大規模な横穴式石室への拘りが存在したことは大王家の墓制が横穴式石室であったことと関係すると見ます。また、神宮神宝にもある玉纏大刀の付属装飾品である三輪玉が出土していることなども考え合わせると、当古墳の築造は在地の中だけでは完結し得ない。さらにこの地域のそれ以前の古墳には高倉山古墳に比肩する有力なものが想定できないことから、南伊勢全体から推載された被葬者であったことを窺わせる。著者は高倉山古墳をこのように評価しています。

土器生産や機織りに関する論考を割愛しましたが、著者は5世紀以降には南伊勢の有力古墳は徐々に伊勢神宮寄りに占地を移す中、旧神郡の地域が土師器生産、機織り、窯業生産など地域ごとに役割分担をして全体で神宮を支える構造にあったとします。そして現在の考古学の知見では、古墳時代中期に遡る祭祀遺跡で内宮域のものを超える存在はなく、この遺跡の形成主体を在地勢力によるものと考えると、それに見合うだけの勢力が明確でないとして、ヤマト王権が宮川流域以北の多気郡域を拠点とする在地勢力の協力のもとでこの内宮の地に「原・伊勢神宮」ともいうべき祭祀施設を整備し、その年代は5世紀後半頃であった、という推定をします。そして6世紀末頃に在地勢力の中から度会氏がヤマト王権と個別的な関係を結んで在地内の勢力図に大きな変化が生じ、度会氏による神宮への関与が大きくなり、高倉山古墳を築くまでになったと考えます。しかし、高倉山古墳に続くべき同一系譜の有力墳が築造されなかったことから、その関係性は長く続かず、麻続氏が一時的に勢力を増大するものの、最終的には荒木田氏が台頭することになった、とします。

以上、3回にわたって穂積氏の著書を見てきました。物的証拠を以って語る考古学からのアプローチはそこに文献史学を照応させることでより具体性を持たせることができるため、たいへん説得力ある論考になることが実感できました。文献史学の立場からは岡田精司氏が自説の根拠として考古資料を積極的に取り入れることで説得力を高めていましたが、穂積氏の論が神宮成立を5世紀後半とする岡田説を支持する形になっていることはある意味で当然なのかもわかりません。

次は同じ考古学からのアプローチを試みながら、穂積氏とは違う結果に行きついた論考を確認してみます。

(つづく)






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天照大神と伊勢神宮(第1部・19章)

2022年07月07日 | 伊勢神宮
●穂積裕昌氏が考古学から伊勢神宮の成立に迫る②



今回は南伊勢の古墳時代を概観します。まず、4世紀代に松阪市北部に相次いで築造された西山古墳、筒野古墳、向山古墳、錆山古墳という4基の前方後方墳(最大の向山古墳が全長72m)の存在から、この時代の南伊勢の主要勢力は一志郡域に出現したと考えられます。概ね4世紀前半から後半の頃にあたります。筒野古墳からは三角縁神獣鏡2面や水晶製切子玉などが、向山古墳からは内行花文鏡や多数の石製品、鉄刀一振などが出土しており、ヤマト王権勢力との関係性が示唆されます。相前後して一志郡の南にあたる飯高郡域にも30m級の円墳である坊山一号墳や高田二号墳が築かれ、こちらも円筒埴輪列や円筒埴輪棺の存在からヤマト王権勢力とのつながりが考えられます。その飯高郡域では一志郡域での前方後方墳の築造停止と前後して50m級の円墳である久保古墳や清生茶臼山古墳が築かれ、いずれも三角縁神獣鏡が出土しています。つまり、南伊勢の4世紀代の首長墳は概ね一志郡域から南の飯高郡域に移ったと見ることができます。なお、この段階では櫛田川以南、のちの多気郡や度会郡では首長墓と目される古墳は確認されていません。

5世紀に入ると南伊勢で初めての前方後円墳である宝塚一号墳(全長111m)が飯高郡域に築造され、この時期の最有力首長墳は引き続き飯高郡域にありました。くびれ部に付設された出島状施設、その両脇の埴輪樹立区、最新の多様な形象埴輪郡などは奈良県の巣山古墳や大阪府の心合山古墳など、近畿の有力古墳の仕様に通じ、墳丘に樹立された円筒埴輪には河内地域のそれと酷似するものがあります。とりわけ、ヤマト王権から委任された支配権の象徴としての倭装大刀を船首部分に装飾した大型の船形埴輪が注目されます。そして隣接する場所には宝塚一号墳に続いて宝塚二号墳(全長89mの造出付円墳)が築造されます。

宝塚二号墳に続く5世紀後半の首長墳は多気郡と度会郡の間を画する玉城丘陵の多気郡側に移り、帆立貝形の高塚一号墳(全長75m)が築造されます。さらにその近傍には大塚一号墳(全長52.5m)や神前山一号墳(全長40m)という大型造出付円墳があり、後者からは円筒埴輪列とともに3面の画文帯神獣鏡や形象埴輪が出土しています。この画文帯神獣鏡は鳥羽市神島の八代神社所蔵鏡や京都府亀山市の茶臼山古墳出土鏡や熊本県江田船山古墳出土鏡など多くの同笵鏡が知られています。宝塚古墳群に比して総じて規模が縮小し、帆立貝形という墳形が固定化する一方で、副葬品の優秀性が王権との直結性を示しているとも言え、地域の首長墳としては前代の独立性が薄れた一方で、王権の直接的な把握が行われつつあった可能性を指摘します。

6世紀代に入ると玉城丘陵でも古墳規模が縮小し、南伊勢を代表するような盟主級の首長墳が不明瞭となりますが、6世紀前半ではユブミ二号墳(全長45m)、斎宮池十二号墳(全長33m)、野田古墳(全長34m)などが候補となります。このうち野田古墳の位置は度会郡域の西側にあたります。また、この地域の玉城盆地はのちの内宮禰宜の荒木田氏の本貫地とされます。

6世紀末から7世紀初頭になると度会郡域に石室全長18.5mもの巨大な横穴式石室をもつ高倉山古墳(全長40mほど)が外宮南側の高倉山山頂に築かれます。神宮神宝との関連が推定される石製三輪玉などが副葬されていました。

7世紀代になると南伊勢を統括するような首長墓の存在は見られませんが、この時期の南伊勢での最も有力な古墳のひとつである前方後方形の坂本一号墳が注目されます。神島の八代神社所蔵品にある金銅製頭椎大刀(かぶつちのたち)が副葬されていました。造営地は後に斎宮が整備される地域の至近であり、伊勢神宮の神衣祭に関わった麻続(おみ)氏の本貫にも近いところで、築造された時期は大来皇女による斎宮発遣の時期に近いと言えます。

以上のように、南伊勢の首長墳は概ね、4世紀代は一志郡、5世紀前半は飯高郡、5世紀後半は多気郡、6世紀代は前半期に度会郡宮川左岸に候補となる小規模な前方後円墳があるものの全体として不明瞭、6世紀末~7世紀初頭には宮川右岸と、時代を追うごとに首長墳の築造地が南へ移動しく様子が読み取れます。

著者は、南伊勢では5世紀前半の宝塚一号墳以降、大型で定型的な前方後円墳が築かれることはなくなり、6世紀前後の前方後円墳を安定して築造し続けた北伊勢と対照的として、ここに地域的独立勢力の解体を見、ヤマト王権による直接的な把握が推し進められた結果と考えることができるかもしれない、と岡田精司氏の見解を首肯して本章を結びます。

(つづく)






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天照大神と伊勢神宮(第1部・18章)

2022年07月05日 | 伊勢神宮
●穂積裕昌氏が考古学から伊勢神宮の成立に迫る①



これまで主に歴史学、文献史学の専門家として武光誠氏、筑紫申真氏、直木孝次郎氏、溝口睦子氏、岡田精司氏、林一馬氏の論考を見てきましたが、それぞれの説に納得できる点と疑問に思う点があり、どの説も決め手に欠けるということがわかり、古代史を扱う歴史学の限界を見たような気がします。ただ、だからこそ私のような素人が妄想を抱く余地があるとも言えそうです。次は、そんな歴史学の論考に対して物的証拠を以って挑む考古学の穂積裕昌氏の『伊勢神宮の考古学』から、私の興味ある部分をピックアップして紹介します。ここでも引用を多用することになりますこと、ご容赦ください。

まず、伊勢神宮をめぐる研究史を振り返る中で「伊勢大神」に言及します。伊勢大神を在地で祀られていた神(=在地神)とみる意見と、アマテラスないしはその前身的な神などヤマト王権が伊勢で祀っていた神とみる意見に大別されるとした上で、『日本書紀』は先行して渡来中国人が執筆したα群と、その後に倭人(日本人)が執筆したβ群があり、伊勢大神はα群にしか登場せず、天照大神はβ群にしか登場しないとする森博達氏の「日本書紀成立論」に基づく見解を紹介します。そして、これはアマテラスと伊勢大神が同一主体に対する表記の差であり、α群とβ群の編纂の間にアマテラスがより実態を伴って形成された可能性を指摘します。伊勢大神については、森博達氏の著書を読んだ上で私なりに考えてみようと思います。

次に伊勢神宮成立に関する以下のように8つの考古学的論点をあげて、それぞれについて考察が述べられます。

①伊勢の地の弥生・古墳期「不毛の地」説
 昭和の時代、伊勢に弥生から古墳時代の遺跡が見られない、つまり伊勢が未開の地であったことをもって、伊勢神宮成立を古くみる論者に対する批判が行われましたが、その後、外宮近傍の隠岡遺跡や桶子遺跡などの弥生遺跡が発見されたことによって、この批判が成り立たなくなったことを述べます。
 
②内宮神域から出土する滑石製模造品の問題
 岡田精司氏が伊勢神宮成立を5世紀とする説の傍証とした一方で、神宮成立論の傍証とすることへの反論もある中、著者はこの祭祀遺物郡の考古学的情報が極めて重要であり、伊勢神宮成立の議論に大きな影響を及ぼすとします。

③内宮御神体(八咫鏡)を包む御船代の問題
 これも岡田精司氏が、その形態が古墳時代中期に盛行した長持型石棺にそっくりであることから、内宮成立を古墳時代中期と推定できるとした考古資料ですが、こういった物品は交替や移動の可能性を考慮する必要があるので、容器が古体を残すからといってそれが伊勢神宮の当初から備わっていたとは言えない、とします。

④神宮神宝の問題
 古墳時代以来の倭装大刀に由来するとされる玉纏大刀の付属品とみられる三輪玉が高倉山古墳から出土しており、神宮との関係が深いとされる古墳出土品と神宮神宝とのつながりを示す遺物としての解釈を試みます。また、別の神宝である紡績具については、鳥羽市神島八代神社の所蔵品や沖ノ島出土品に同様のものがあり、祭神が女性神の場合に紡織具が神宝となった可能性を指摘する金子裕之氏の説を紹介します。さらに画文帯神獣鏡などの八代神社所蔵品が多気郡内の古墳副葬品と共通することから、神島を介して多気郡の勢力が神宝調達に関与した可能性を想定します。

⑤神宮正殿建物の問題
 近接棟持柱式掘立柱建物である伊勢神宮内宮の「神明造」が、池上曽根遺跡などの存在や弥生土器に線刻された建物絵画などをもって、その形式の淵源が弥生時代にあることを認め、さらには纒向遺跡からも近接棟持柱形式の大型建物が見つかったことから、現在の神宮正殿が7世紀以降にしか成立しないと言った議論は成り立たず、少なくとも古墳時代からの連続性が辿れるとします。

⑥高倉山古墳の問題
 外宮裏山にある高倉山古墳は列島屈指の規模の横穴式石室を内包し、外宮禰宜を務める度会氏が被葬者と考えられてきました。築造時期は6世紀末~7世紀初頭とされ、荒木田氏による内宮禰宜就任以前であり、神宮祭政全体が基本的に度会氏によって差配されていた時期に重なります。
岡田精司氏は外宮神域に古墳が築かれることは、度会氏が神宮をバックに発展したことを示しているとし、さらに外宮一帯が度会一族の祭場であったと考えられることなどから、外宮は内宮祭神の神託によって移されてきたものではなく、度会氏が祖先神の聖地として奉斎してきたのだと主張していました。

⑦ヤマトから伊勢に至る「ルート」
 高島弘志氏による大和の桜井周辺から伊勢に至る4つの古道ルートを紹介します。このうち、初期伊勢神宮を滝原宮とする筑紫申真氏が重視する最も南側のルートは古墳時代の有力遺跡が乏しいことから主要ルートとして相応しくないと指摘。一方で美濃方面に向かう最も北側のルートは通過する各地域を代表する前方後円墳が続き、古墳時代前期後半には確立していたとします。その両者の間にある2つのルートも古墳時代の重要遺跡が多く、海路を含めると東国へ抜ける主要道であったとします。
 直木孝次郎氏は、大和から東国へは北伊勢経由が主要ルートで、南伊勢経由は脇道であったとしますが、穂積氏はむしろ南伊勢経由が主要ルートであったと主張しています。

⑧東国へ向かう湊
 伊勢神宮成立とヤマト王権による東国経営を連動させる論者は、渡海拠点を伊勢市域や鳥羽に想定して伊勢に神宮が成立した要因のひとつとして重視しますが、現時点でこの地域に古墳時代段階の有力な港湾の存在を示す証拠は見出せないとして、ヤマト王権の東の外港として主要な位置を占めていたのは現在の松阪市の櫛田川河口にあった的潟であるとします。このことは政治性重視の理由付けが必ずしも十分な根拠を示すものではないことを提起していると指摘します。
 林一馬氏はそもそも伊勢の地が東国経営の拠点であったことと伊勢神宮の成立に何か密接な関係があったことを示す証拠は見出せないとしていました。

(つづく)






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天照大神と伊勢神宮(第1部・17章)

2022年07月03日 | 伊勢神宮
●林一馬氏が説く伊勢神宮成立史③



天武即位後の大来皇女の伊勢下向をもって伊勢神宮創立の端緒であるとし、天照大神を祀る場所として伊勢が選ばれた理由として、天照大神を自らの守護神として命名しつつ選定した故地(伊勢国朝明郡)に因むこと、南伊勢の地が天武の宮居した飛鳥のほぼ真東に当たるという宇宙論的地理観が想定されること、をあげます。さらに内宮の現在地が特定されたのは、究極的には天武側が占地したとしながらも、大化前後から度会・多気に屯倉が設置されて天皇家にとって親しい土地柄であったこと、天武自身の養育者だった大海氏やそれとの縁で関係のあったと思われる伊勢部や磯部氏、あるいは在地豪族の宇治土公氏、サルタヒコ神話から想定される猿女氏などによる勧奨や土地提供などがあったことが推定されるとします。

そして『日本書紀』垂仁25年の「故、随大神教、其祠立於伊勢国。因興斎宮于五十鈴川上。是謂磯宮。則天照大神、始自天降之処也」を読み解きます。著者は『日本書紀』に見られる「祠」の字の使われ方を分析した結果、ヤシロやホコラと読んで祭祀施設を意味するのではなく、マツリもしくはマツリゴトと読んで、神郡を意識した祭祀体制や経済的基盤を含めた神マツリゴトの全体を伊勢国に確立した、と解します。そして当初の具体的な神マツリの施設としては五十鈴川のほとりに建てられた「磯宮」と呼ばれる斎宮しかなかった、すなわち、この磯宮こそが神宮そのものだったということになります。

そのことの検証として柿本人麻呂が詠んだ高市皇子の挽歌「度会の 斎の宮ゆ 神風に い吹き惑はし …」を取り上げます。この「斎の宮」はまさに前述の神宮(磯宮)を指していること、「度会の」とある以上は最初から五十鈴川のほとりにあったとするのが素直な考えであること、さらには垂仁紀一書にある「遷于伊勢国渡遇宮」の「渡遇宮」も同様に解してよいこと、つまりは磯宮、斎の宮、渡遇宮、これらはすべて初期的な伊勢神宮、度会郡にある内宮を指していると主張します。

その上で、この人麻呂の挽歌はそれが詠まれた持統10年(696年)においては神宮が厳然として存在したことを踏まえて、壬申の乱において天武自らが自軍の守護霊として選んだ天照大神の加護の下に戦勝したことを叙事詩的に表現したとします。また著者は、斎宮=初期的な神宮が営まれた場所は内宮の正殿地ではなく、荒祭宮の位置であったかもしれないとの仮説を提示しますが、その根拠は今ひとつ明快ではありません。

天武時代の初期的な伊勢神宮は斎宮と呼ぶ状態を脱していない、つまり神殿としての正殿をはじめとする社殿型式が整っていない状態であったとして、それが整うのは持統6年(692年)3月だった、とピンポイントで指摘します。『日本書紀』や『万葉集』によると、持統天皇はそのときに伊勢行幸をしていますが、これは神宮社殿の完成を見届け、そこでの祭儀に自らも参列するものであったと推定し、この持統6年3月がまさに内宮が確立した時期であるとします。

この伊勢行幸の記事には神宮を参拝したとは書かれていませんが、神郡(度会・多気)を通過していることから遥拝あるいは遣使をして奉幣することもなかったとするのは不自然であり、これほど著名で大々的な行幸の主たる目的が不分明であるのも異常であること、この行幸に対して大三輪高市麻呂が強硬に中止を訴えたのは皇祖神祭祀を三輪山から伊勢に移そうとしていることに反対する意思を示したと考えられること、神宮の式年遷宮がほぼ同じ時期に開始されたと考えられること、最初の恒久的帝都である藤原京が造営されている真っ只中での伊勢行幸が皇大神宮確立と無関係なはずがないと考えられること、これらを理由として内宮の確立時期を持統6年3月と推定するのです。

著者はこの後さらに外宮成立の論証に移り、『続日本紀』にある文武2年12月29日の記事「遷多気大神宮于度会郡」を論拠として内宮成立を文武2年(698年)とする筑紫申真氏らに対して、これを内宮遷座の記事とすると『日本書紀』と『続日本紀』という正史上の記述に矛盾が生じること、「多気大神宮」は「多気の大神宮」ではなく「多気大神の宮」として南伊勢地方の有力神の遷座記事であること、その多気大神宮とは外宮の前身であったと反論します。

その南伊勢の有力地方神である多気大神は、多気地方の首長(竹首あるいは多気連)によって祀られた「ウケの神」つまり食物神であり、度会郡への遷座後は『古事記』に「次登由気神、此者坐外宮之度相神者也」にあるとおり、外宮に鎮座する神として登場する神だとします。

このように考えることによって、祭典や奉幣は必ず外宮を先にするという「外宮先祭の慣習」が理解できるとします。つまり、朝廷が皇祖神であり最高神である天照大神に対して奉幣する際に、まずその地方の代表的な神格に対して敬意を表した、ということです。

このあと最後に、斎宮の成立についての論証で本稿は締めくくりとなりますが、今回はここまでで天照大神が皇祖神になった経緯とともに内宮・外宮の成立に関する著者の論考の要約とします。先学研究に対する厳しい批判をベースに自論を展開するという点でロジックとしてはわかりやすいのですが、個々の論証では読み進めるのに難儀することもしばしばでした。著書の論によると、天武天皇即位前の天武元年(672年)に天照大神を守護神とすることを決め、持統天皇6年(692年)に内宮が成立し、文武天皇2年(698年)に外宮が成立、という具合にわずか20数年の短期間の出来事であり、天武が始めた政策を持統が完結させたという点では溝口睦子説に通じるものがあります。

(つづく)






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天照大神と伊勢神宮(第1部・16章)

2022年07月01日 | 伊勢神宮
●林一馬氏が説く伊勢神宮成立史②



林一馬氏による先学研究の考証の最後の論点である、伊勢神宮が天武朝よりずっと以前から存在したとの主張の論拠として言及されてきた「神宮側の史料の解釈」について見てみます。

まず、『神宮雑例集』や『皇宇沙汰文』などが引く『大同本紀』逸文に「物ノ部八十友諸人等率」などの記載があることを以って「伊勢神宮においても物部氏が中臣氏の地位にあったことをひそかに語る」として、神道学者の西田長男氏が神宮創立を6世紀中葉以前と説くことに対し、『万葉集』などに頻出する物部之八十伴男などと同義で、すべての群臣を称したものであると西田説を否定します。また、岡田精司説でみたとおり、荒木田・度会両氏の系譜において度会氏の系譜が合理的であるとする説に対しても反論します。さらに、『皇大神宮儀式帳』にある度会・多気・飯野の神郡設置に関する記事に対しても、孝徳朝に度会・多気が神郡として成立していたとするなら、天智朝に多気評(郡)から四郷を割いて飯野評を立てて公郷としたことは神郡に対する措置としてあり得ないとして、屯倉設置という事実をのちに神郡設置の記事に仕立てたものであるから、この記事をもって天智朝以前に神宮が成立していたとすることはできない、と結論づけます。

以上のように著者は①~⑤の論点に対する考察を以って、天武朝より以前に皇祖神を祀る伊勢神宮が成立していたとすべき積極的な理由はなく、従前説の過半は再検討が必要であるとし、内宮成立は天武朝以降であると主張します。

『日本書紀』天武元年(672年)6月26日の「旦、於朝明郡迹太川邊、望拜天照大神」の一文が従来から、大海人皇子が戦勝を祈願して伊勢神宮を遥拝した、と理解されてきたことに対して、文面に「伊勢神宮」と書かれていないこと、この時点において皇祖神(著者はタカミムスヒとします)は近江朝側で祀られるべき存在であり、朝廷に対する反逆者とも言える大海人皇子はそれを強奪でもしない限りは崇拝したり祭祀することはあり得ないと考えられることなどから、皇祖神としての伊勢神宮なり天照大神がすでに成立していたと解する場合の相当大きな障害になるとします。その上で、この時点での伊勢神宮成立に否定的な立場に立つ著者は、このときに大海人皇子が天照大神を拝礼したのは、そういう神を新たに命名しつつ、自らの陣営の守護神として選定した、との大胆な仮説を提示します。天照大神を守護神として選定した理由は、この神明の示す超越性や透明性とともに、諸国に散在するアマテルミタマなどと類同すること、アマテルやアマテラスは日神への連想を禁じ得ないことをあげます。

そしてこのように考えなければ、タカミムスヒからアマテラスへの皇祖神の転換が成立し得ないとします。本来は別系統である両神の間で一方から他方への自然な発展はまずあり得ないし、考えられるとすれば王位継承を巡る武力闘争、それも謀叛者が勝利したという特殊な歴史背景とそれを主導した人物のカリスマ的性格を想定するほかない、と言います。全く違う理由でしたが、溝口睦子氏も皇祖神転換を目論んだのが天武天皇であるとしていました。

さらに、この一文にある「望拝」が皇祖神の転換、天照大神誕生の直接的な契機であったものの、一方でその後も記紀神話においてタカミムスヒが命脈を保ち、時として天照大神を凌ぐ至高神として扱われていた理由として、天武の次の天皇が天智の皇女たる持統であったこと、つまり最終的には両系統を共に生かそうと選択した結果だとします。

なぜ皇祖神を転換したのか、それはなぜ天照大神だったのか、に続いて皇祖神を祀る場所として伊勢が選ばれた理由を考えます。『日本書紀』天武2年(673年)4月14日の「欲遣侍大来皇女于天照太神宮、而令居泊瀬斎宮」と、天武3年(674年)10月9日の「大来皇女、自泊瀬斎宮向伊勢神宮」の両記事は戦勝して即位した天武天皇が最初に実施した神祇政策であるので、長く途絶えていた伊勢斎王を復活させたと単純に解することはできないとします。

まず「泊瀬斎宮」を後世の野宮(ののみや)の初見とする一般的な解釈に対して、論点④にあった宮廷近傍にて皇祖神祭祀の伝統と形式を踏襲したものであったろうとします。野宮とは皇女が斎王となる時に伊勢の斎宮に移るまでの一年間、潔斎のためにこもる宮殿のことを言います。また、「天照太神宮」という変則的な表記をもって、この時点で未だ伊勢神宮は創設されていない可能性が高いとしつつ、ふたつめの記事の年月日が史実とすれば、わずか1年半の間に急速に発展したとみなさざるを得ないとして、大来皇女の伊勢下向こそが初代斎王たる倭姫命による天照大神の伊勢遷祀に擬すべき事態であったとして、ここに伊勢神宮創立の端緒を推定します。

(つづく)






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天照大神と伊勢神宮(第1部・15章)

2022年06月29日 | 伊勢神宮
●林一馬氏が説く伊勢神宮成立史①



ここまで伊勢神宮や天照大神を研究する著名な日本史学者5名の著書を見てきました。次は少し毛色の違う建築史学の林一馬氏の論文『伊勢神宮成立史考』を見てみます。林氏は、伊勢神宮の日本建築史上に占める位置の重大さからすればその成立史は建築史学的に看過できない、その成立年代の如何によっては日本の古代建築の歴史的な組立てに甚大な影響を及ぼす、として自らの試見を提示されました。

この論文はこれまでに取り上げた各氏を含む先学研究を包括的に整理して論点を抽出し、論理的な批判を展開しながら自身の考えを主張するものです。すでに何度か登場してもらっているので重複する部分があるかもわかりませんが、あらためて紹介したいと思います。論文から適宜引用しながら確認していきます。

著者はまず、皇大神宮(内宮)が現在地に設立されたのがいつだったか、という一点に絞って主要な説を以下のように年代順に整理します。

①垂仁天皇の治世下、3世紀後半(~4世紀前半)頃…田中卓説
②5世紀後半の雄略天皇21年(477年)…岡田精司説
③5世紀後半の雄略朝以後、とくに6世紀前半の欽明朝を重視…直木孝次郎説
④遅くとも6世紀中葉…西田長男説
⑤早くとも6世紀後半…津田左右吉説
⑥舒明天皇の時代よりもずっと遡ったころ…福山敏男説
⑦斉明天皇3年(657年)…神崎勝説
⑧天武天皇13年(685年)~持統天皇4年(690年)…鳥越憲三郎説
⑨文武天皇2年(698年)12月乙卯(29日)…筑紫申真、川添登、築地康明らの説
⑩奈良朝初め、養老元年(717年)頃…鶴岡静夫説

伊勢神宮はこのうち①の立場で自らを位置づけています。②③⑨はすでに当ブログで紹介したものですが、著者は内宮成立を5世紀後半から6世紀前半とする②や③の説、内宮成立は7世紀後半以降とするものの、内宮の前身的な存在が南伊勢地方のどこかに遅くとも6世紀中頃以前に成立していたとする⑧や⑨などの説に妥当性を認め、これら説の論拠を次の5つに整理して考証に入ります。それぞれ簡単に見ておきます。

論点① 垂仁紀一書にみえる丁巳年
論点② 大和朝廷の東国経略との関連性
論点③ 地方神昇格説の可能性
論点④ 大化前代の斎王記事
論点⑤ 神宮側の史料の解釈について

まず論点①の「垂仁紀一書にみえる丁巳年」に対する考察です。先に見たように岡田精司氏はこの丁巳年を西暦477年であるとしますが、氏がその理由とした朝鮮半島での敗退に伴う国際的危機、5世紀後半の社会的変動や信仰の変質、大和朝廷による東国経営の進展、などの歴史的背景は5世紀後半に限定されるものでなく、それ以降なら多かれ少なかれ該当すると指摘します。また、この一書の趣意は大倭神社の祭祀の由来を述べた所伝であるので、まず大倭神社の起源を検討するのでなければ片手落ちだとする建築史家の福山敏男氏の説を支持します。その上で、大倭神社の文献上の初見が『日本書紀』持統6年であることから、そもそもこの一書の所伝はそれほど古くに形成されたとは考えられないと主張します。これらのことから「垂仁紀一書にみえる丁巳年」を根拠に神宮の成立を5世紀後半や6世紀前半に求める説には従えないと反論します。

次に論点②の「大和朝廷の東国経略との関連性」に対してはどうでしょう。これは特に直木孝次郎氏が神宮成立を考えるふたつの手がかりのひとつとして重視していたことは先に見た通りですが、著者は、大和朝廷にとっての東国経営の重要さやその一拠点として南伊勢地方が注目された時期があったことを否定するものではなく、古代的な戦乱は一面では神々の争いであり、征略に向かう軍団に何らかの神霊が奉じられていた可能性などを疑うものではないとしつつも、それらのことと神宮の創立に何か密接な関係があったことを示す証拠が何一つ見出せないとして、この考えを否定します。そして『巫女の文化』などを著した倉塚曄子(あきこ)氏による「伊勢に皇祖神の社が設けられたのは、なまの政治的・歴史的契機にもとづくものではなく、王権に内在する神話的契機によるのではないか」との主張を支持します。

続いて論点③「地方神昇格説の可能性」に言及します。直木孝次郎氏の「地方神昇格説」は先に詳しく見たのでここでは触れませんが、著者はこの説に対して、何の証拠もないばかりか、そもそも古代人の氏族宗教的心性に照らしてあり得たこととは思われない、と一蹴します。

また論点④「大化前代の斎王記事」について、地方神昇格説や大化前代における皇祖神遷座説が疑問視されるとなると記紀にみられる斎王記事をどう理解するか、著者の考えが述べられます。筑紫申真氏が主張した通り、伊勢に派遣された初代の斎王は天武朝の大来皇女であり、それ以前は実在性が疑われる、または大和の宮廷近傍で祭祀に従事したこと、垂仁朝の倭姫命によって天照大神を伊勢に遷座して伊勢神宮が創建されたというのが『日本書紀』の歴史設定である以上、それ以降の斎王記事はこの文脈に従って改変を受けていると考えられること、敏達6年2月条の「詔置日祀部・私部」にある日祀部は日神祭祀に当たる斎王のために設置された部民と考えられ、6世紀後半には天皇家の斎王制度の経済的基盤が整備され、公的に確立されていたとみなされること、大和の地で歴代の斎王が奉祭していた皇室の氏神はもとから日神であったがそれは未だ天照大神ではなく、より古い皇祖神とみられるタカミムスヒの神(正確にはそれの前身)が該当すること、などがその主な主張となります。

タカミムスヒ(の前身)が日神であり、天照大神よりも古い皇祖神である、と述べられていることが注目されますが、その根拠が示されていないのが残念です。

(つづく)






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天照大神と伊勢神宮(第1部・14章)

2022年06月27日 | 伊勢神宮
●岡田精司氏が説く伊勢神宮と天照大神③



続いて著者は、ここまでの論証で存在が明らかになった天照大神以前の太陽神が、神話の中に痕跡をとどめていないかを探り、心御柱=ヒモロギを依り代とする神の連想から、高皇産霊尊の別名として『古事記』に見える高木大神(高木神)がそれであるとします。『日本書紀』本文では一貫して最高司令神、一書においても天照大神とかかわりつつ、『古事記』では天照大神と並んで司令神とされています。また『日本書紀』の天孫降臨の一書ではその発する言葉に「勅」の文字が使われ、瓊瓊杵尊の誕生では「皇祖」と表現されます。さらに『出雲国造神賀詞』では「神王」とされており、これらはすべて高皇産霊尊が古くは大王家の祖神であったことを示していると説きます。また、宮中で祀られる「宮中八神」の筆頭に神産日神、高御産日神があることも、大王守護神としての伝統に基づくものとします。以上のように荒祭宮に祀られていた古い日神は「高皇産霊尊」であり、より古い名称は「高木神」であったとします。

高木神については筑紫申真氏も『アマテラスの誕生』で、心の御柱によりつく太陽霊であったとし、天照大神はその高木神の巫女であり、カミ妻であったとします。そしてカミとカミをまつるものが同一視され、ついには高木神と天照大神の区別がなくなったと説いています。

著者はさらに、高木神から日女(ひるめ)の神への転換によって太陽神をめぐる神話も大きく変化したとして、『日本書紀』の天岩戸神話の第2・第3の一書に「天照大神」ではなく「日神」と記されること、スサノヲが機殿に生き馬を投げ入れたときに神衣を織っていたのが天照大神自身であったこと、スサノヲが天上に登っていったときに天照大神が武装して雄叫びをあげるという姿は女性とは思えないことなどをあげて、これらは本来は高皇産霊尊にまつわる話だったとします。

そしてこれらの太陽神話は、大阪湾周辺に祭場があった時代=5世紀以前の古い神話と、伊勢に移ってからの祭儀を背景とした新しい神話に区別できると言います。前者は日神の妻と御子が海辺に漂着する神話を中心とするもので、天孫降臨・神武・神功など天皇家の祖先伝承に断片を伝えるだけとします(これについて著者は別稿で論証をしていますがここでは立ち入りません)。一方、後者については、天岩戸神話で天照大神が機殿で神衣を織る場面、常世の長鳴鳥を鳴かせる場面、天岩戸が開かれる場面、あるいは天孫降臨神話で多くの神々を従えて降臨する場面、猿田彦が天孫降臨を迎える場面、さらには猿田彦が伊勢の阿邪訶で比良夫貝に手を食われて溺れる場面などに伊勢の祭儀の反映をみます。

このように、大王家の守護霊である「日神」が高木神(高皇産霊尊)から日女(ひるめ)の神を経て天照大神に変化した、つまり男性神から女性神に変化したことを精緻に論証した上で、次の①を前提として②~⑤をその理由としてあげます。

①神格化した斎王=ヒルメの神がすでに成立し、日神である高皇産霊尊と並んで祀られるようになっていたこと。
②天皇家の古い祖先神話として、海の彼方より来臨する母子神伝承があり、その母神の伝統的信仰と新しいヒルメの神とはいずれも「日神の妻」としての共通性から両者のイメージが重複したこと。
③古い太陽神=高皇産霊尊は人格神以前の神格で、巫女が昇化したヒルメの神は人格神であり、太陽霊の人格神への発展が人格神ヒルメの神と合一した。
④斎王は天皇家の肉親だから、太陽神の守護霊から皇祖神への発展の過程で、斎王の神格化したヒルメの神と結合しやすかった。
⑤各地で信仰された太陽神(アマテルミタマ)は人格神以前ではあるが、男性とされるのが普通だった。天皇家の守護神をそれらと区別させるために故意に女性化が推進された。

ここまでの精緻な論証に比べると、この部分は少し抽象的であり根拠が薄い印象です。そして著者はいよいよ最後に太陽神である高皇産霊尊が天照大神に変化した時期に言及します。まず、伊勢に祭場が移される以前から日神への斎王的な皇女の奉仕の伝統(トヨスキイリヒメの伝説の如く)があったと考えられるから、6世紀の早い時期に巫女神=ヒルメの神の神格化が完成していたとします。

さらに、天岩戸神話や天孫降臨神話の考察から、これらが成立したと考えられる6世紀時点ではまだ高皇産霊尊が大王家の守護神であり、ヒルメの神に太陽神の座を奪われていないこと、推古朝で宮廷祭祀が発展するとともに、老女帝の存在がヒルメの神の地位を向上させて日神=高木神(高皇産霊尊)と対等に並ぶ存在にまで高められたこと、そしてこのようなヒルメの神の成熟という条件の上に、伊勢神宮における荒祭宮とヒルメの宮との並立に大変革を加え、ヒルメの宮をもって太陽神の祠とし、ヒルメの神を単独の最高神として「天照大神」と名を変えるのは天武朝のことであった、と論証します。

少し詳しくなりましたが、以上が岡田精司氏の説となります。結論だけを言えば、太陽神である高木神(高皇産霊尊)に奉仕する巫女が神格化し、やがて太陽神と合一して天照大神が生まれた、ということになりますが、このとき高木神が消滅したのではなく、天照大神とは別に存在しているということは案外に重要なことだと思います。岡田説に従えば、本来は荒祭宮にそのまま高木神が祀られているはずなのですが、現在の荒祭宮は天照大神の荒御魂が祭神となっています。

なぜ荒御魂だけが別で祀られているのか、同様に和御魂だけを祀る社はないのか、瀧原宮は和御魂を祀っているけど隣の瀧原並宮で荒御魂が祀られているので、これでセットと考えれば納得。内宮には荒祭宮とセットになる神社がないことをずっと不思議に思っています。

なお、史学者の上田正昭氏は著書『大和朝廷』においてこの岡田説を「軽視できない」として、皇祖神としての確立は7世紀後半であるが雄略朝ごろに伊勢地域の大神の祭祀権が掌握された、と概ね支持する考えを示しています。

(つづく)






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天照大神と伊勢神宮(第1部・13章)

2022年06月25日 | 伊勢神宮
●岡田精司氏が説く伊勢神宮と天照大神②



著者は、戦後の諸研究において天皇家と太陽信仰の結びつきを6世紀後半以降とする、つまり新しく考えようとする傾向があることに対して批判的立場を取り、大王家の祖霊・守護神の信仰が簡単に変化することはないとした上で、大王が太陽神の子孫である、つまり太陽霊が古くから大王家の守護霊であったことの証拠を『古事記』の歌謡にある「比能美古(=日の御子)」に見い出し、少なくとも5世紀代、応神天皇以降の河内王朝における大王が太陽神の子として認知されていたと説きます。

そしてその太陽霊を祀る恒常的な祭場として、古くからあった難波の浜のほかに河内国高安郡にある「天照大神高座神社二座」をあげます。社名から天照大神が祭神であることが明らかなこと、高座神が従五位以上の神階を得る一方で、天照大神は伊勢神宮や日前神宮と同様に神階記事が見えないこと、などからこの付近に大王家の古い太陽神祭場があったとします。ただしこれについては、大和書房創業者で古代史研究家でもある大和岩雄氏は、『延喜式』神名帳に「元号春日戸神」とあることに全く触れていないので賛同できないと主張します。

天照大神高座神社二座と難波津の祭場との関係としては、もともと難波の浜で太陽神が祀られていたが、5世紀中葉以降に宮都を大和に移してからは一代一度の就任儀礼である八十嶋祭のみを難波津で行い、平常の祭祀は都により近い高安山麓で行われるようになったとします。

その後、5世紀後半になって大王権の発展に伴って大王家の守護霊=太陽神を国家的祭祀の対象に昇格させようとする動きが現れます。新羅では5世紀末から6世紀初めに“神宮”の名称が国王の祖廟の称として使われるようになり、“大王”の称号も朝鮮三国で使われ始める中、朝鮮半島に対して大王の権威を高める必要が生じたこと、また国内では、雄略天皇が三輪山の神体である蛇を捕えさせたり、葛城山の一言主神と一緒に狩りをするなど、中央権力による地方神祭祀に対する干渉という形で信仰の変革の動きが見られる中、この前後に“神社”が成立したと考えられること、臣系の有力豪族である葛城氏の滅亡によって旧来の臣系豪族群による大王への制約がゆるんだこと、などを背景として大王家の守護神の祭場が河内から伊勢に移されることになります。

著者は470年代の雄略朝に伊勢神宮の創建年代を求められることは考古学資料からも裏付けられるとして、第1に祭祀遺跡をあげます。外宮神域内から子持勾玉が、内宮神域では荒祭宮北方から大量の滑石製臼玉が出土しており、いずれも5世紀代のものとされ、度会氏の祭場であった外宮はもとより、内宮においても5世紀代に太陽神祭場が存在した証拠になるとします。第2には、内宮のご神体を納める「御船代」の形態が古墳時代中期に盛行した長持型石棺にそっくりであることから、内宮の成立を古墳時代中期と推定できるとします。

さて次に、『日本書紀』で天照大神の別名とする大日孁貴(おおひるめのむち)、天照大日孁尊(あまてらすおおひるめのみこと)、大日孁尊(おおひるめのみこと)の「ヒルメ」の語義を、日の妻=太陽神の巫女の神格化したもの、として巫女が本来仕えていた太陽神が何であったかを考えようとします。日本では巫女が神格化する例は決して珍しくないとして、八幡、住吉、枚岡などの大社では祭神の中に併記される「姫神」は巫女神と考えられています。ところが、天照大神を巫女の神格化と見た場合、その巫女が仕えた古い神格が全く不明なのです。これに対しては以下の考察から、内宮の荒祭宮こそが古い太陽神の神殿であり、最初に河内から伊勢に移されたのはこの神であったとします。

神宮第一の別宮として別格の扱いを受ける荒祭宮は内宮の西の正殿の真北に位置することから、内宮正殿と荒祭宮は一般の神社建築の拝殿と本殿の関係にあること、その荒祭宮の神域には5世紀からの祭場があったと想定されていること、度会氏の祖先が神宮遷座にあたって荒御魂宮地の造営に奉仕したと『大同本記』逸文に記されること、などから皇大神宮たる内宮正殿よりも先に荒祭宮(の前身)が設けられたと考えられます。

さらに神宮で古くから行われている年中三節祭(神嘗祭と6月・12月の月次祭)において、斎王は最初に玉串を奉奠したあとは内宮内院にある「斎内親王侍殿」に籠って神事には参加せず、また神事の最後に行われる荒祭宮に対する遥拝も行いません。このことは、斎王がヒルメの神であると考えれば、太陽神に玉串奉奠をしたあとは拝まれる立場として遥拝をしない、と理解ができます。そして『皇大神宮儀式帳』に、内宮正殿内の御船代が安置される御床に各一具の様々な御被(おんふすま)とともに二基の御枕が並べられる、との記載があることなどをもとに、もともと神事の最中に斎王が籠った場所は現在の内宮正殿にあたる場所で、そこで荒祭宮の太陽神と斎王の聖婚儀礼が行われたのだとします。これはまさに斎王がヒルメ(=日の妻)であることを端的に表していると思います。

また著者は、年中三節祭で行われる由貴大御饌(ゆきのおおみけ)の供進や20年ごとに行われる社殿造営の方法や手順の考察から、内宮正殿の床下にある「心御柱」が太陽神のヒモロギであるとします。しかし先に見たように正殿の前身が斎王の籠りと聖婚の場であったとすれば、その床下にヒモロギが立てられているのはおかしいので、もともとは荒祭宮の床下にすえられていたものが、巫女神の神格化と太陽神の地位を入れ替えるという祭神の変革によってヒルメの神が主神として扱われるようになったときに正殿の下に移されたのだろうとします。

(つづく)






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天照大神と伊勢神宮(第1部・12章)

2022年06月23日 | 伊勢神宮
●岡田精司氏が説く伊勢神宮と天照大神①



次に日本史学者の岡田精司氏が著した『古代王権の祭祀と神話』に収録された「伊勢神宮の起源」と「古代王権と太陽神」をもとに氏の説を考えたいと思います。様々な資料や事実に基づく極めて実証的かつ論理的な論考となっています。適宜引用しながら見ていきます。

伊勢神宮には荒木田氏を神官とする内宮と度会氏を神官とする外宮があり、『日本書紀』や延暦年間に編纂された『皇大神宮儀式帳』には垂仁天皇25年の内宮鎮座の記事が見られ、一方の外宮は同じく延暦年間の『止由気宮儀式帳』に、雄略天皇のときに天照大神の御饌都神(みけつかみ)として丹波国から豊受大神を迎えたとする記事があります。これが事実だとすると、伊勢神宮には祭典や奉幣は必ず外宮を先にするという外宮先祭の慣習があること、外宮神域内に巨大な末期古墳があること、外宮と度会神主一族との間には密接な結びつきがあるが内宮と荒木田氏との間にはそれが見られない、などの不可解なことがあると指摘します。

さらに、伊勢神宮創建前は度会県主的な土豪(伊勢地方の特色である県造)であった度会氏が、大化の改新以降に神三郡(度会・多気・飯野)の国造に任じられたこと、中期以前の古墳が少ない中でも5世紀頃には画文帯神獣鏡を伴う神前山古墳などを築いた権力者が生まれ、これを度会県造に擬することは可能とし、さらに後期に入ると先述の通り、外宮神域にある高倉山山頂に巨大石室を持つ高倉山古墳が築かれることなどは、神宮が伊勢に遷されて以降、度会氏が神宮をバックに発展したことを示しているとします。また、外宮一帯には国津神の社や県神社のほか、度会一族の祭場が高倉山を取り巻くように散在するとともに、高倉山に住む国津神が度会氏の祖神である天日別命を迎えたという伝説があることも指摘します。

これらのことから著者は、外宮は皇大神宮祭神の神託によって他処から移してきたものではなく、度会氏の祖先神の聖地である高倉山を中心にして、国造一族によって斎かれてきたものとします。

また、垂仁朝の内宮鎮座以来の禰宜であったと主張する荒木田氏の系譜と、天武期に禰宜制度が制定されるまで二宮大神主に任命され、さらに両宮とも初代禰宜を務めたと主張する度会氏の系譜を比較し、新興の荒木田氏は旧族の度会氏と肩を並べられる家柄ではないなどの理由から、度会氏の系譜のほうに妥当性を認めています。但しこれに対しては、両者が両宮の禰宜を分掌したことで一致する持統朝より以前の主張は別の客観的傍証がない限り、いずれも虚構的述作とみてよい、とする建築史家の林一馬氏の批判があります。

さらに先述の通り、外宮の前身が度会氏と密接な関係をもつ存在だとすれば、その祭神は度会氏の祖神または守護神である天日別命であり、外宮の摂・末社には天日別命の妃や子などを祀る神社はあるが、天日別命を祀る社がないことがその裏づけになるとします。そして天日別命はその名に「日」を持つことから太陽神であるとした上で、度会郡の高倉山の南に「陽田(ヒナタ)」という郷があったことなどから、度会地方は太陽信仰の聖地として畿内周辺に知られていたに違いないとします。

伊勢地方は大和盆地から見ると東方の山脈の彼方の陸地の果てにあって海から太陽が昇る国であり、畿内周辺で海の上に日の出を望めるのは伊勢・志摩だけで、大和で古くから太陽信仰が行われていれば、太陽信仰の聖地として神聖視されていたに違いないとし、伊勢の度会が皇大神宮の鎮座地として選ばれたのは太陽神の聖地としての伝統が重要な条件となった、と指摘します。直木説の考察の最後に書いたように、これに対しては全く同感です。

さて、著者は伊勢神宮の成立時期について、『日本書紀』垂仁天皇25年の天照大神鎮座に関する記事にある「然後、隨神誨、取丁巳年冬十月甲子、遷于伊勢国渡遇宮(そのあと、神の教えの通りに、丁巳年の冬10月に伊勢国の渡遇宮に遷った)」という一文の「丁巳年」を手がかりとして、雄略朝の西暦477年であるとします。『日本書紀』雄略天皇紀に伊勢に関する伝承が集中すること、伊勢地方は4世紀までに大和政権の支配下に入っていたこと、5世紀後半の朝鮮半島情勢悪化に伴う東国進出計画によって伊勢支配を強化したこと、雄略朝の栲幡皇女(稚足姫皇女)以降の斎王任命が確実視されること、『日本書紀』にある渡遇宮は内宮・外宮分離前の呼称と考えれば神宮関係の諸書が外宮鎮座を「丁巳年」としていることと一致すること、などについて根拠を示しながら丁巳年=477年の妥当性を説き、大王家の守護霊の祭場を伊勢に遷したのが477年であると主張します。ただ、これに対しては「丁巳年」は537年(宣化2年)、あるいは657年(斉明3年)などとする説が提唱されています。

ではなぜ、大王家は守護霊を伊勢に移したのか。大和政権に参加していた諸豪族は大王家と同様にそれぞれに自己の氏の守護霊を奉じていましたが、様々な情勢変化の中、大王家は専制体制を確立する必要から、大王の権威の根源である守護霊、太陽の精霊を諸豪族の守護霊の上に位置づけて、国家的祭祀の対象に発展させようとしました。また同時に、朝鮮半島支配のゆきづまりから、東国進出へと国家政策を転換することを迫られたこともあり、太陽神の聖地である伊勢の度会に新しい祭祀場を移すことを決定したのです。

(つづく)






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天照大神と伊勢神宮(第1部・11章)

2022年06月21日 | 伊勢神宮
●溝口睦子氏の「アマテラスの誕生」③



記紀神話二元構造論に基づき、直木孝次郎氏の伊勢神宮論や記紀の神功皇后伝説などをもとにヤマト王権時代、すなわち5~7世紀のアマテラス、要するに皇祖神になる前のアマテラスについて解説がなされ、続いて「ウケヒ神話」ではアマテラスを皇祖神の地位に就けるために、スサノヲが生んだオシホミミを含む五男神をアマテラスの子とする変更が行われたとします。さらに、当時の豪族は「連」「臣」「君」などのカバネ(姓)を持っていましたが、「連」は王権内の職掌に由来する名を持ち、天皇家の存在を存立基盤とする豪族で、「臣」「君」は本拠とする土地の名を持つ場合が多く、天皇家との関係でいえば半独立的な土着の豪族であるとして、神話の二元構造がこのふたつのグループによって分担されていたことを説きます。

そして話はいよいよ7世紀末に行われたタカミムスヒからアマテラスへの皇祖神転換に及びます。アマテラスの皇祖神化を決断、実行したのは天武天皇であるとして、当時の時代背景を、大化の改新以降の国家体制の一大転換期で、中国の文字文化を受け入れ始めて唐風化がいっきに進行した時代であるとともに、白村江での敗戦以来の支配者層の関心が国際問題や外交文化の摂取に向けられる中、皇祖神問題の重要性が相対的に軽くなった時代であった、と整理します。その上で天武天皇が抱える政治課題が、新しい統一国家建設を支える思想基盤としての「神話と歴史の一元化」、新しい支配機構を作り上げていくための氏族対策としての「カバネ(姓)制度の改革」であったとします。

そういう状況下で皇祖神の転換が行われた理由を4つあげます。第1には、タカミムスヒが一般の人々にはほとんど親しまれていない馴染みのない神であり、さらには「連」を中心とするグループが信奉した派閥的色彩の強い神であったこと。天武天皇は、新しい統一国家を挙国一致で作るためには派閥の匂いの強いタカミムスヒではなく、土着の太陽神としてすべての人々に古くから馴染みの深いアマテラスを神々の中心に据えるのが得策と考えた、とします。

第2の理由は、天皇は即位後すぐに大伯皇女(大来皇女)を伊勢に派遣して実質的な斎宮制度を開始していますが、皇位に就く前からアマテラスを特別に重視する何かが天武の胸中に芽生えていたからだとします。しかし著者はどのような意味での重視なのかはわからないと言います。直木孝次郎氏などが説く壬申の乱における神助説は事柄の軽重からいって納得しがたい、とまで言いながらこの点を曖昧にするのは残念です。

第3には、中国の文字文化という新しい外来文化を取り入れるために、北方ユーラシアの支配者文化という古い外来文化を捨てようとしたことをあげます。さらには第4の理由として、新羅への対抗意識があったとします。朝貢国として遇しようとする新羅と共通する国家神ではなく、日本固有の神を国家神として掲げようとしたのだと。しかし、もしそうだとするとアマテラスをタカミムスヒよりも上位に位置づける神話を構築すべきであるのに、『古事記』ではタカミムスヒは造化三神とされ、『日本書紀』でもアマテラスよりも先に誕生し、高天原において両者は同等もしくはタカミムスヒの方が上位に位置づけられていることに矛盾を感じます。

著者の論に従うならば、天武天皇がアマテラスを新しい皇祖神にしようと考えたのは、反旗を翻して争った壬申の乱の敵方である天皇家が祀る神(タカミムスヒ)をそのまま受け継いで祀るのではなく、新たに自らの皇祖神を創造しようと考えたからではないでしょうか。建築史学の林一馬氏は、壬申の乱でアマテラスを望拝したときにこの神を自らの守護神にすることを決めたとし、その神名が示す超越性や透明性とともに、諸国に散在するアマテルミタマなどと類同すること、日神への連想が働くこと、などを理由としてあげています。著者もまとめにおいては、アマテラスが選択された最大の要因は、この神が伝統文化の広く厚い地層にしっかりと根を張った神であったことをあげています。

いずれにしても天武天皇は皇祖神の転換を契機として「神話と歴史の一元化」に取り組んだわけですが、そのために天武自らが『古事記』の編纂にタッチしたと著者は言います。『古事記』にアマテラスを持ち込むことで神話を一元化し、統一国家として一元的な世界観を創出したのだと。また、その『古事記』に記された氏族の先祖の記載は臣・君やその下級氏族である国造に偏り、連やその下級の伴造氏族は極端に少ないとします。そのことと連動するように「カバネ制度の改革」において、第一位の「朝臣」になったのはほとんどが臣・君の氏族で、連では物部氏と中臣氏だけ、逆に第二位の「宿禰」はほとんどが連となっています。つまり『古事記』編纂もカバネ制度改革も、天皇家を存立基盤としてきた連ではなく臣・君を重視する氏族政策、土着の古い伝統文化の尊重という同じ目的のために天武によって同時並行で実行された事業であった、とします。


以上、溝口睦子氏の「アマテラスの誕生」を見てきました。タカミムスヒを軸にした神話の二元構造はなるほどと思う反面、敵国であった高句麗の王権思想を取り入れることが人の感情として考えにくいこと、「ムスヒ」の解釈からタカミムスヒを太陽神とする理由が今ひとつ明快でないこと、同様にアマテラスを皇祖神とした理由も明快でないことなど、素直に納得できない部分が少なからず残りました。

(つづく)




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天照大神と伊勢神宮(第1部・10章)

2022年06月19日 | 伊勢神宮
●溝口睦子氏の「アマテラスの誕生」②



前回は、5世紀になって「王の出自は天に由来する」という新しい王権思想を高句麗から取り入れた結果、太陽神であるタカミムスヒが生まれ、天孫降臨神話ができあがったことを見ました。ここからはいよいよ天照大神に迫っていきます。

記紀神話は二元構造になっていて、それが『日本書紀』の「神代上」と「神代下」に見て取れるとします。「神代上」はイザナキ・イザナミの国生みからオオクニヌシまで、「神代下」がタカミムスヒを主神とする天孫降臨神話を中心とする話で、ふたつの神話体系が下巻はじめの「国譲り神話」で結び付けられているというのです。そして、上巻は古くから伝承された日本土着の神話・伝説を集成して構成された神話体系で、下巻は5世紀になって取り入れた北方系支配者起源神話に範をとった建国神話であるとして、この二元構造が形成された過程を試論として次のように示します。

<第一段階>
 ムスヒ系建国神話の成立…大王家と大伴・物部など王権中枢の伴造氏族が作成者
<第二段階>
 イザナキ・イザナミ~アマテラス・スサノヲ~オオクニヌシ系の成立…地方豪族が作成者
<第三段階>
 イザナキ・イザナミ系の中の主神である「オオクニヌシ」がムスヒ系建国神話の主神である「タカミムスヒ」に国の支配権を譲るという神話が挿入されることによって、ムスヒ系とイザナキ・イザナミ系、ふたつの神話が接着され、全体がひと続きの神話になる…大王家と伴造家が主たる作成者
<第四段階>
天孫降臨神話と神武東征は元来ひと続きになって建国神話を形成していたが、その中間に海幸・山幸神話あるいは日向神話と呼ばれる部分があとから加えられる

第一段階の神話ができた段階で、政治的に中央から遠い立場にあった豪族たちがこれに対抗して、自らが4世紀以前から伝承してきた神話・伝説の集成を行いました。この第二段階で創られた神話は、過去の神話研究によって、主として中国の江南から東南アジア、東インド・インドネシア・ニューギニアにかけての南方系であると言っても誤りではないとして、「海洋的世界観」と「多神教的世界」というふたつの特徴をあげます。

まず「海洋的世界観」について。たとえば、オオクニヌシとともに国作りをしたスクナヒコナは海上はるか彼方の理想郷「常世の国」の神で、そのスクナヒコナが常世の国に帰った後、オオクニヌシが嘆いていると海の彼方から海面を照らしながらやって来る神がいました。この神は大和の大神神社に祀られる大物主だという伝承をもち、大神神社に隣接する纒向には初期の大王墓とされる4世紀の巨大な前方後円墳があります。常世の国にかかわる伝承は初期王権と海洋的世界観との結びつきを強く示唆しているとします。

常世の国とは不老不死の国を意味すると見るのが定説で、その「不老不死」という表現が中国の神仙思想を彷彿とさせる、と著者は言います。この言い回しは、常世の国の不老不死は神仙思想とは別物であることを意味していると思われますが、4世紀にはすでに中国から神仙思想や道教の思想が入っていたことから、不老不死の概念はまさに神仙思想を表していると考えることができます。中国の神仙思想では、東方の海上にあると信じられた蓬莱山は仙人が住む不老不死の仙境であるとします。まさに常世の国のイメージに重なります。

次に「多神教的世界」について。イザナキ・イザナミ系の神話には多種多様な神々が活躍します。イザナキ・イザナミが大八嶋国を始め万物を創造し、アマテラスとスサノヲによる「ウケヒ神話」や「天岩屋神話」があり、そのスサノヲの英雄譚が展開され、最後にオオクニヌシをめぐる神話で締めくくられます。

著者は、「天岩屋神話」の意義・本質を、アマテラスが至上神、最高神として、また天上界と地上界を貫く宇宙的秩序の体現者として姿を現したことにある、と説く現在の有力な見方に対して、アマテラスはきわめて寛容で心やさしい神、多神教世界の自然神のひとりとしての太陽神、手に負えないスサノヲに対してなす術をしらない女神であり、神々のトップに立つ最高神・至上神や北方系の「天帝」とも言い換えられる太陽神では決してなく、天岩屋神話での主人公はむしろ67名もの後裔系譜をもつスサノヲである、と反論します。

そしてこの第二段階のイザナキ・イザナミからオオクニヌシへと続く神話、すなわち4世紀以前の日本土着の神話世界における神々の王はアマテラスではなく、圧倒的な量の伝承を持つ国作りの神、オオクニヌシであると説きます。記紀神話は、5世紀段階で新しく取り入れられた北方系の王権思想に基づく建国神話と、在来の土着の伝承を集成したイザナキ・イザナミ系神話という全く異質なふたつの神話が一本化されて、ひとつながりの神話となっています。そのために、後者の主神「オオクニヌシ」が前者の主神「タカミムスヒ」に国の支配権を譲る、すなわち「国譲り神話」という方法がとられたのです。記紀神話の二元構造の第三段階です。

(つづく)






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天照大神と伊勢神宮(第1部・9章)

2022年06月17日 | 伊勢神宮
●溝口睦子氏の「アマテラスの誕生」①



次に日本史学者の溝口睦子氏による「アマテラスの誕生」を見てみます。タイトルは筑紫申真氏の著書と同じですが「古代王権の源流を探る」というサブタイトルを冠して筑紫氏とは全く違うアプローチで天照大神に迫ります。弥生時代から4世紀までの政治体制やその拠り所となる政治思想、宗教観が5世紀初頭に大きく変化し、8世紀の律令体制の確立に伴ってさらに変化を遂げたとして、そのプロセスの中でどのようにして天照大神が誕生したかを描き出します。なお、溝口氏の論を紹介するにあたっては神の名をカタカナで表記する著書に従った方がわかりやすい良いと思うのでそのようにします。こちらも著書から適宜引用しながら紹介します。


三国史記や好太王碑文によると、4世紀から朝鮮半島に進出して新羅への侵攻を繰り返した倭政権は、5世紀初頭に高句麗に大敗を喫し、政権の権威が失墜します。著者はこの敗戦が抜本的な体制変革のきっかけになったとします。実際にこの5世紀は、巨大古墳の造営地が奈良盆地から大阪平野へ移動したこと、その古墳の副葬品に武具・馬具などが含まれるようになることなど、それを裏付けるような変化が見られるとします。

中でも最も必要とされた変革は新しい政治思想、王権思想の導入であり、それを朝鮮半島きっての先進国であり倭の主敵でもあった高句麗から導入したというのです。その新しい政治思想とは、王の出自が「天」に由来するとする考え方で、この天に由来する王権思想は、高句麗を通して百済・新羅・加羅など朝鮮半島諸国が軒並み取り入れた当時流行の思想です。その源流は北方ユーラシアの遊牧民族が古くから持っていたもので、それを反映した神話が「天孫降臨神話」だとします。

著者は、民族学の大林太良氏の主張や神話学の松村武雄氏の説を引用して、天孫降臨神話や神武東征伝説が高句麗や百済の建国神話につながりを持ち、さらには北方ユーラシアに興った匈奴に始まる北方遊牧民の国家の始祖神話に源郷があるとします。

さて、5世紀に全く新しい王権思想を取り入れたとすれば、それを実行したのはいわゆる倭の五王(讃・珍・済・興・武)ということになります。五王をどの天皇に比定するかはさておき、彼らは皆、中国南朝の宋に対して遣使を送っていますが、その目的は、中国の先進的な文明を摂取するとともに、中国皇帝の威光を借りて国内の支配を安定させることに加え、朝鮮半島諸国、とくに高句麗との外交を有利に進めて半島での権益を確保する意図があったとされています。そんな五王たちが果たして高句麗の王権思想を取り入れようと考えるでしょうか。ましてや、大敗を喫した屈辱の相手国です。

著者は次に、天照大神よりも以前に最高神、皇祖神の座にあったのはタカミムスヒ(『古事記』では高御産巣日神、『日本書紀』では高皇産霊尊)であるとします。つまり、5世紀に高句麗の王権思想を取り入れて生まれた「天」に由来する最高神がタカミムスヒだということです。天孫降臨神話において、天孫に地上世界の統治を命じて天降らせたのがタカミムスヒであることは、研究者の間では決着しているそうです。

記紀神話や宮中で行われる月次祭(つきなみのまつり)の祝詞の分析などから、本来の皇祖神はタカミムスヒであったが、7世紀末から8世紀初めにその皇祖神・国家神の地位が天照大神に転換しました。著者は先に見た直木孝次郎氏の「地方神昇格説」を支持しており、伊勢神宮の皇祖神昇格の時期を奈良時代初期前後であるとする直木氏の考えも取り入れて、皇祖神・国家神の変遷を「5世紀~7世紀のヤマト王権時代はタカミムスヒ、律令国家が成立した8世紀以降はアマテラス」と整理します。

さらにこのタカミムスヒもアマテラス同様に太陽神であったとします。アマテラスがその名から太陽神だとわかるように『日本書紀』では「高皇産霊尊」と書くタカミムスヒもその名に太陽神の意味があると言うのです。「高」も「皇」も尊称なので残りの「産霊」つまり「ムスヒ」をどう解釈するか。そして「ムス」は「生産」「生成」を意味する点で諸説一致しますが、「ヒ」については「霊力」とみる説と「日(太陽)」とみる説があり、前者なら霊力神、後者なら太陽神ということになります。本居宣長が『古事記伝』で前者として解釈し、津田左右吉がそれを認めて以降、こちらが有力となっていますが、著者は後者の立場をとります。

いくつかの根拠を上げて北方遊牧民の匈奴や高句麗における「天」は「太陽」と置換可能な概念であると説く著者に対し、芸能史学者の諏訪春雄氏は、大陸北方の遊牧民族の天の信仰は北極星に代表される星辰に対する信仰であり、古代朝鮮にみられる太陽信仰は日本と同様に稲作とセットになった中国南部の太陽信仰の影響を受けたもの、と反論しています。日本の太陽神が農耕神の一面を持っていることを考えると、諏訪氏の反論に同意したいところです。

(つづく)






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天照大神と伊勢神宮(第1部・8章)

2022年06月15日 | 伊勢神宮
●直木孝次郎氏が説く伊勢神宮の成立③



直木氏は、伊勢神宮が天皇家の氏神の社の地位を独占し、天皇家の最高の神社となるのは天武朝以後で、その画期は壬申の乱であったとします。大海人皇子が北伊勢の朝明郡で天照大神を望拝した行為は、伊勢神宮に敬意を表すとともに援助を要請したと考え、伊勢神宮もこれに応えて加勢したと推測します。

去く鳥の 争ふはしに 度会の 斎の宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひたまひて 定めてし 瑞穂の国を

696年の高市皇子の死に際して柿本人麻呂が詠んだ挽歌の一節ですが、壬申の乱に際して度会から吹いてきた神風によって大海人皇子が勝利して天下を平定した、というこの歌から、伊勢神宮の援助が大きな力になったことを読み取ります。673年に大海人皇子が天武天皇として即位し、大来皇女を斎王に任命し、翌年に伊勢に参向させます。伊勢神宮は天武とともに壬申の乱に運命を賭け、成功したとする著者は、このときに伊勢神宮の地位が確立したとします。

伊勢神宮に関する様々な制度は天武朝以降に整備されたと考えられ、20年に一度の式年遷宮も天武あるいは持統天皇の時に始まったとされます。また、「大神宮」と呼ばれるようになるのも奈良時代に入ってから盛んになり、797年に完成した『続日本紀』では50数例を数えます。神宮司が設置され、その職をほぼ独占した中臣氏やその同族とされる荒木田氏が力を持つようになります。斎王に関する役所として斎宮司あるいは斎宮寮も設置されます。これらの神官職制度の整備によって伊勢神宮は大和政権の管理下に入り、皇祖神の地位を保ったまま国家神へと上昇していったのです。


以上、3回にわたって直木孝次郎氏の伊勢神宮成立に関する説を見てきましたが、南伊勢の太陽神を祀る地方神であった伊勢神宮が、同じ太陽神を祀る天皇家との関係をもつことによって皇祖神を祀るようになり、さらには壬申の乱から天武・持統朝を経て国家神へと地位を高めていったという考えから、この説は「地方神昇格説」と呼ばれたりします。この説には賛同者が多く存在する一方で、異を唱える専門家も存在します。たとえば、平安遷都後の賀茂社が斎院として皇女が派遣されたものの、その祭神が皇祖神とみなされたわけではないことを例に挙げて、地方神が皇祖神に昇格することなどそもそも古代人の氏族宗教的心性に照らしてあり得ない、と厳しく反論する論者もいます。

最後に、直木氏の説はあくまで伊勢神宮成立の話なので、天照大神は最初から皇祖神として存在することが前提になり、その皇祖神を祀る場所が大和から伊勢に遷った時代やその経緯が説かれているにすぎません。唯一、天照大神に触れているのが斎王寮の設置に関するところで、このように書かれています。

「…そしてこの十司であるが、その構成は養老令の後宮職員令にみえる朝廷の後宮の官司に酷似している。斎王が伊勢大神の妃とみなされていたことを物語るものであろう(伊勢大神は女神の天照大神で、女性に妃のいるのは不合理だが、天照大神はもと男神であったと考えられる)。」

天照大神がもともと男神だったことは武光誠氏が言及していました。また、歴史学の大家である津田左右吉は、太陽神が皇祖神となった経緯について「太陽が天にあって国土を照らすという自然現象と、皇室がこの国を統治するという政治形態とが相通じる関係にあるとして、皇室を太陽に擬すことによって太陽神が皇祖神とみなされるようになった」とし、さらに「家々の祖先が男として記されているのであるから、皇室の祖先である皇祖神も男神と考えるのが自然である」として、天照大神はもともと男神であったとする「皇祖神男神論」の立場をとっています。

天照大神が男神か女神かは別にして、大阪で生まれて大阪で育った私には、伊勢で太陽信仰が盛んになった理由がわかるような気がするのです。そしてこの感覚はおそらく河内や大和で暮らした古代人にとっても同様のものだったろうと思います。というのは、大阪や奈良に住んでいると海の向こうの水平線から昇る朝陽を見ることがないため、朝の空をオレンジ色に照らして大海原から昇ってくる朝陽を見たときの感動や感激は格別なものがあります。手軽に各地を旅してそのような光景を見る機会が増えた今でも、その感動は衰えることはありません。河内や大和からはるばる伊勢までやってきて、生まれて初めてこの光景を目にした古代の人々は現代人が想像する以上に感動したことでしょう。そしてこの場所はまさに太陽神の聖地であり、現代風に言うとパワースポットだと感じたのではないでしょうか。ましてや、神が海の向こうからやってくると信じた古代人にとってこの朝陽は神そのものであるとすら思ったことでしょう。とくに天皇家にはその感情が強くあったと想像します。

(つづく)








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天照大神と伊勢神宮(第1部・7章)

2022年06月13日 | 伊勢神宮
●直木孝次郎氏が説く伊勢神宮の成立②



直木氏は、伊勢は東国への交通の要地であるという第1の手がかりをさらに深掘りします。雄略朝のころ、大和から東海を経て東国へ通じるルートは、伊賀から北伊勢を通って尾張、そして東国へ、という陸路が主要ルートで、南伊勢から渥美半島へ船で渡る海路は脇道だとします。難波の住吉、尾張の熱田、敦賀の気比、筑前の宗像など古代の大社は交通上の要地にあるものが多いが、この時代に脇道であった、つまり交通上の要地でなかった南伊勢は神宮が設けられる条件を満たしていなかったとします。

私はこの南伊勢ルートが脇道であったとの考えには賛成しかねます。愛知県清須市にある歴史博物館を訪ねたときに学芸員の方から「清須市周辺は古代には湿地帯あるいは海の底であって、人が住める場所ではなかった」「人が住むようになったのはつい最近のこと」と聞いたことがあり、実際にこのあたりの標高を調べてみると、名古屋市から大垣市に至る新幹線が走るラインよりも南側、つまり濃尾平野の南西域は内陸部であっても海抜数メートル、場所によってはゼロメートルというところがあります。また、7世紀の濃尾平野の古地図を見ると、現在の一宮市あたりに大きな島があるものの、内陸部まで海が広がっています。これでは北伊勢から陸路で東国へ行こうと思えば大きく北へ回って美濃を経由することになります。つまり、大和から東国へのルートは美濃を経由する遠回りな陸路をとらない限り、南伊勢経由でも北伊勢経由でも海路になる、ということです。

著者は続けて、継体天皇死後の皇位継承をめぐる内乱によって、その脇道であった南伊勢ルートの交通上に占める意義が変化したとします。その内乱とは、尾張連から出た目子媛を母とする安閑・宣化と、仁賢天皇の皇女の手白香皇女を母とする欽明とが継体天皇の死後にそれぞれに皇位継承を主張して両朝が並び立った事態のことです。欽明側は勢力拡大のために東国を支配下に収めようとするものの、尾張連が押さえる北伊勢ルートは選択できずに南伊勢ルートをとらざるを得ず、このときに伊勢神宮の地位が高まり(著者は一貫して伊勢神宮の存在を前提に話を展開します)、欽明天皇家の尊信を得たと考えるのです。その後、この対立は欽明側の勝利に終わって両朝が統一されました。

『日本書紀』に記される継体天皇崩御から欽明天皇即位に至る紀年に矛盾が見られることから、このときに皇位継承争いがあったとする説があります。「継体・欽明朝の内乱」あるいは「辛亥の変」と呼ばれる争いですが、著者はそれを大きな材料として伊勢神宮の成立を考え、結果、6世紀前半の欽明朝のはじめに伊勢神宮と天皇家の関係が強化・確立されたとします。

とはいえ、この時点で伊勢神宮に天皇家の祖先神である天照大神が祀られていたわけではないとも言います。それどころか、天照大神を伊勢に遷し祀ったことについて『古事記』が全く触れないこと、『日本書紀』で天照大神が伊勢神宮のある地に天降ったと伝えていること、持統天皇6年に伊勢大神が天皇に奏上して伊勢国の調と力役の免除を請うていることなどから、伊勢神宮はある時期に皇祖神である天照大神を大和から伊勢に遷して建設したのではなく、古くから伊勢地方に神威を有する地方神の社であった、つまり天照大神は祀られていないものの地方神を祀る伊勢神宮はすでに存在していたとします。

その上で、伊勢の地は東に海をひかえる自然的条件から太陽信仰が盛んで、伊勢神宮の元来の祭神も太陽神であったことから、天照大神との習合・合体が行われたとします。伊勢神宮にとっては自己の政治的地位を高めることができ、天皇家にとっては伊勢から東国に勢力拡大するのに便利であるという両者の利害が一致したということです。その結果、地方神のうちの太陽神と習合した天照大神は内宮に祀られ、太陽神の性格を除いた農業神の性格を持った地方神が食物の神として外宮に祀られることになります。つまり、6世紀前半のこのときに天照大神を祀る伊勢神宮は成立したと説きます。しかしそれが天皇家の氏神の社の地位を独占し、国家最高の神社となるのは7世紀以降であると言います。

(つづく)








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