古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

蛇神について(後編)

2021年03月06日 | 龍蛇神
前編」では谷川健一氏の著書「蛇 不死と再生の民俗」をもとに想像を膨らませてみました。この「後編」では、蛇や蛇神を考えるにあたって追加の材料として栃木県にある大平山神社のサイトにある情報を取り上げてみます。

大平山神社には境内摂社として蛇神様(水神様)を祀る蛇神社があります。また、内容は全く分かっていませんが、毎年旧暦の1月8日には神蛇祭(しんださい)と呼ばれる開山式が行われるようです。そんな関係からか「蛇と水神のはなし」というコラムが記載されていましたので、以下に整理してみます。

・蛇は「田を守る神」とされ、①蛇が男根への連想から種神(=穀物神)として信仰されたから、②田の稔りを荒らす野鼠を捕食するから、ということがその理由である。
・水田稲作を中心とする日本の農耕においては、農耕神は水神と密接な関係にある。そして蛇神は、蛇と龍との習合、および湿地を好んで生息する習性にもとづき、水神の使い、もしくは水神そのものと考えられるようになった。
・命の再生の象徴と見なされる脱皮という生態やその生命力の高さが、蛇に対する畏怖の念を強め、さらにそれが「蛇信仰=水信仰」を根強いものにした。
・一方で水神としての蛇は、弁財天や宇賀神の神使としても信仰される。宇賀神は穀霊であり、弁財天には本来水の神の特性がある。(Wikipediaによると、弁財天の化身は蛇や龍とされています。)

要約すると、蛇は「田を守る神」すなわち農耕神と考えられ、農耕に欠かせないものが水であることから、農耕神と水神が結びついた。さらには脱皮から連想される蛇の生命力が蛇への畏怖の念を強めて蛇信仰=水信仰をさらに根強いものにした。要するに、農耕や水の神様として蛇信仰が定着していったということです。

蛇が水神であるという話から、懇意にしていただいている宗教哲学の先生から聞いた話を思い出しました。天上界にいる神様が地上界に降りてくるときは、まず山の上の樹木に降ります。そして木の根から土を伝って水の流れているところへ移動します。いったん水に入ると川の流れに乗って下界の村までやってきます。神様を下界に降ろした神職はその川に浸かり、自らが依り代となって流れてきた神様を身に宿します。これを「神降し」や「神懸り」といいます。古代の巫女の役割です。

この川の流れる様子、水の流れる様は蛇が泳ぐ姿に似ていませんか。小さいころ、川の流れを絵にするとき、必ずSの字をニョロっと長く伸ばした記号のようなものを何本か描きませんでしたか。あれはまさに蛇の姿そのものです。つまり、天上界から降りてきた神は、地上界において蛇の姿となって現れると考えられたのではないでしょうか。


今回、蛇神や蛇信仰について書かれた本は1冊しか読んでいませんが、ネットに掲載された情報をいろいろと調べてみたところ、蛇が神として信仰されるようになった理由は、命の再生と考えられる脱皮に象徴される生命力に対する畏敬の念、鼠などの害虫を捕食する穀物の守り神としての実利面、男根に似ていることからの種神の発想、恐ろしい姿や形に対する畏怖の念など、どれも同じようなことが書かれていて、どれも尤もらしく聞こえるのですが、実はどれも腹落ちしないというのが正直なところでした。

結局、蛇=水神からの連想で、最後に書いたように、古代の人々は「天上界の神が地上界で蛇の姿となって現れる」と考えたので、蛇は神そのものであり、神そのものである蛇を祀るようになった、と理解するのが私にとっては最も納得のいく答えとなりました。そしてこの答えは実は「前編」の結論、すなわち、とぐろを巻く蛇が忌まわしいものを取り除いてくれる神として信仰の対象となった、というものとつながってくるのです。

とぐろを巻く蛇はもともと潮の流れや渦巻からの連想でした。隼人の盾や原尾島遺跡の長頸壺に描かれたS字の文様は潮の流れを表したものです。そして、水の中を泳ぐ蛇の姿もS字に見えます。渦巻の中には神がいて、川の流れの中にも地上界に降りてきた神がいて、そのいずれの神も蛇に見立てられたのでした。




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蛇神について(前編)

2021年03月05日 | 龍蛇神
蛇神、龍蛇神、蛇神信仰、、、古代より蛇が神様として崇められるのはどうしてだろうか。以前から調べてみようと思いながらもここまで放置したままでした。最近、オンラインサロンの仲間から蛇にまつわる話を聞く機会があったので、この際、自分なりに調べてみようと思って谷川健一氏の「蛇 不死と再生の民俗」を読んでみました。

正直なところ、民俗学というのはよくわからない学問で、関連のありそうな事実や事象が並べられて、だからこういうことだ、と直線的(誤解を恐れず言うと短絡的)に結論に導かれる。まるで靴の上から足を掻くような、何となく腹落ちしない気持ち悪さが残る。だからこの本を読んでも明快な答えが書かれているわけではありませんでした。

とはいえ、この機会に改めて調べてみたことも含めて、初めて知る事実や改めて確認できた事実など、材料をたくさん見つけることができました。これまでモヤっとながらも持っていた自分の仮説に肉付けして、少しは自分なりに明快にすることができたように思います。この「前編」では谷川氏の著書の印象に残った個所を取り上げながら、自分の考えを書いてみます。

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●みづち
長野県富士見町、八ヶ岳の麓にある井戸尻考古館に「みづち文深鉢」という土器が展示されています。昨年10月に井戸尻考古館を訪れたときにこの土器を見ていたので興味深く読みました。そもそも「みづち(蛟)」とは井戸尻考古館の説明では「山椒魚とか魚類、または龍の属」「そうした要素が混合した想像的な水棲動物」とありました。ネットで調べると、中国では龍の一種、日本では水神や龍神、龍蛇神を意味すると出ていました。しかし著者はこの文様を「鰐を模したもの」とした上で、「中国の龍は鰐をかたどったという説が有力である」ことと、「中国の長江に鰐がいたこと」をもとに、この土器の文様を「龍」と断定して、縄文時代の中期に龍の文様が伝わっていたことを指摘しています。あわせて長江の河姆渡で紀元前7000年頃から稲作が行われていた事実から、龍の文様とともに縄文時代に稲作が伝わっていた可能性も指摘しています。前者の指摘は少し強引に思いますが、後者についてはこれまでにいろいろと調べた経験から、江南から様々な文化、文物が伝わったことは間違いないだろうと思います。



●大祓詞
6月と12月に行われる大祓詞(おおはらえのことば)にある「海の潮流のもみ合うところ、つまり『八塩道の塩の八百会』に『速開つひめ(はやあきつひめ)』という神がおり、大きな口を開いて、海に流れ出た罪をがぶといきおいよく呑む」という言葉を取り上げています。そして、「八百会」とは根の国、底の国の水門であるという説を引用して、「烈しい渦巻の底は根の国に通じており、そこに罪ケガレを呑み込む女神がいる」とし、さらにこの女神を蛇神と推断しています。渦の底に蛇神がいるとしていますが、これは蛇がとぐろを巻く姿が海の渦に似ていることに由来する話ではないでしょうか。蛇がケガレを取り除くと考えられていたことの表れと言えます。

●ウズ
宮古島や伊良部島などでは「ウズ」は鮫や大ウナギ、ウツボを指すと言います。また、八重山諸島の鳩間島ではウツボ、ウナギ、ハモ、アナゴなどは「ウジ」と呼ばれています。いずれも海に生息する細長い生物で、「ウズ」や「ウジ」はいわゆる海蛇の類を指す言葉だと言えます。

龍巻という自然現象は、古代人はタツという怪物が巻くことだと考えたと言いますが、同様に潮流が渦を巻く渦巻という現象は、ウズ(海蛇類)の巻き起こす現象と思われた、と著者は推測しています。なるほど、これはわかりやすい。大海の渦の底に蛇神がいるという前述の話と符合します。そしてこのような考えは南方から、あるいはもしかすると前述の「みづち」同様に江南発で東シナ海を渡った各地に伝わったと考えることができそうです。

さて、日本書紀の神武東征の話に「珍彦(ウズヒコ)」なる人物が登場します。神武一行が東征に出発してすぐ、豊予海峡とされる速吸之門で出会った海人です。古事記では「宇豆比古」と言い、一行と出会った場所は吉備を出たあとなので、明石海峡とされています。いずれにしても潮の流れのはやい海峡で「ウズ」と名のつく海人が登場していることが興味深い。蛇神を祭祀に取り込んだことの表れかもしれません。

●神光照海
日本書紀第八段の一書に、少彦名神がいなくなったあとの国造りの終盤で大己貴神が出雲に辿り着いたとき、神々しい光が浮かんで海を照らしながら俄かにやって来た、というシーンがあります。古事記にも同様の記述があります。

出雲の佐太神社の神職によると、海を照らしてやってくるものは海蛇だそうで、夜に海蛇が海の上をわたってくるときは、金色の火の玉に見えるらしい。 毎年、11月中旬ころになると北西の風が烈しく吹いて海がシケり、佐太の近傍の浦々や海上に海蛇が流れてくるそうです。この海蛇は龍宮の使いとして「龍蛇さま」と呼ばれ、漁民たちはそれを捕らえて11月下旬の神在祭に際して神社に奉納します。同様の神事は出雲大社、日御碕神社、美保神社でも行われているそうです。この海蛇は強い毒を持つ南方産の「セグロウミヘビ」とされ、黒潮の流れに乗って毎年決まったころに季節をたがえずやってくるセグロウミヘビを、素朴な人たちは龍神の使者と考えて深く信仰したとのことです。そして出雲の西方、石見地方の乙見神社、津門神社などでも龍蛇神の奉納が見られることから、著者は龍蛇信仰が特定の神社の信仰ではないと推測しています。つまり、この地方一帯に龍蛇信仰が広まっていたと考えられるようです。

記紀によると、海を照らしながらやってきた海蛇は、このあと大和の三輪山に祀られます。また、日本書紀の崇神天皇紀には、倭迹々日百襲姫命の夫である大物主神が小さな蛇になって三輪山に登っていく様子が記されます。古事記の崇神記にも活玉依毘売(いくたまよりびめ)の夫として同様の話が記されます。

つまり、出雲の国造りの場面で登場した海蛇が大和の三輪山に祀られた大物主神で、崇神天皇のときに再び蛇となって現れるということになり、蛇にまつわる話としてつながってくるのです。出雲の龍蛇信仰が大和にもたらされたということでしょうか。しかしながら、出雲が海蛇で大和が陸の蛇ということに合点がいきません。もしかすると古代人には海蛇と陸蛇を区分する考えがなかったのかもわかりません。

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ここまで谷川健一氏の著書をもとに感想めいたことを書いてきましたが私なりに整理すると以下のようになります。
  
・大海の中の激しい潮流である渦はケガレを呑み込み、ケガレを取り除いてくれる。
・これは中国江南や南方から海を渡ってやって来た海洋族の発想である。
・渦はウズ(細長い生き物)に通じ、渦巻は蛇のとぐろに似ている。
・渦と同じ形をした蛇がケガレを取り除くと考えられて信仰の対象となった。

ここでいうケガレを「忌まわしいこと」と考えると、忌まわしいものを取り除いてくれる蛇、特にとぐろを巻く蛇が神として信仰の対象となったことがよく理解できます。この結論は私としては十分に納得のいくものとなりましたが、ここで少し話が横道にそれます。

激しい潮流や渦と聞いて連想するのが、南九州の隼人の盾の文様です。私は、隼人族の源流は中国江南から東シナ海を渡って南九州の地に定着し、土着の縄文人と融合しながら勢力基盤を築いた集団ではないかと考えています。また、東シナ海を舞台に活動する海洋族であったとも考えます。この集団がのちに隼人あるいは熊襲と呼ばれ、魏志倭人伝に狗奴国と記されるようになります。



私は、隼人の盾の文様は潮の流れや渦を表していると考えています。そして、この文様と極めてよく似た文様を持つ土器が吉備の百間川原尾島遺跡から出土しています。肩の部分にS字状の渦文4個があざやかに描かれた弥生時代後期の長頸壺で、このS字状文様は龍を簡略化した文様と言われています。



このあたりの考察は「◆吉備の一族」で書いた通りですが、潮の流れや渦を表す文様、あるいは龍を簡略化した文様、いずれをとっても先述の著者の論考に符合します。著者の論考に隼人族をかますことで大いに納得感が高まると思いました。大祓詞に表出する「激しい潮流や渦がケガレを払う」という思想の源流は隼人族を介して中国江南に求めることができる、ということに確信が持てました。

現代の神道の祭祀に用いられる祝詞について詳しいことは調べていませんが、察するに記紀神話をベースにして構成されているのではないでしょうか。このことは大祓詞を含む祝詞が記紀神話の思想を受け継いでいることを意味していると考えてよいのだろうと思います。そして大祓詞の思想の源流が隼人族や中国江南にあるということは、記紀神話の思想の源流も隼人族や江南の地に求めることができると言えるのではないでしょうか。

少し飛躍が過ぎるとも思いますが、以上のことから記紀神話やそれを成立させた天皇家の源流を南九州の隼人族、あるいはさらに遡って中国江南に求めるというこれまでの私の仮説に対する大きな傍証を得たような気がします。

そしてさらに大胆に想像を膨らませると、出雲の国造りの終盤で海上を照らしながら大己貴神に近づいてきた海蛇が三輪山に祀られるという話は、南九州からウズ信仰を持ち込んだ天皇家(大和)が、国造りの終わった出雲を制したことを意味していると考えることができないでしょうか。

(「後編」に続く)





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