古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

古代史仲間と行く北部九州2泊3日の旅④

2024年03月16日 | 実地踏査・古代史旅
2024年3月10日、いよいよ最終日。まずはホテルから車で10分ほどの小迫辻原遺跡へ。ここも2回目ですが、以前に来た時は広い台地のど真ん中に車を停めて、遺跡全体を眺めて帰ったのですが、あとで調べると端っこの方に説明板があることが分かって少し後悔したので、今回はその説明板を目指しました。




一面に見える黄色の花は朝霜が凍てついた菜の花です。弥生時代から古墳時代にかけての住居跡や墳墓などが発掘され、なかでも3基の環壕居館は日本最古の豪族居館跡と考えられています。安徳台遺跡もそうだったけど、防御などのために台地上に集落を形成するのはわかるとしても、水の調達が大変だったろうな、と思って調べてみると「史跡小迫辻原遺跡保存管理計画書」に「辻原台地上には湧水がないため灌漑用の水路がひかれている」と書いてありました。環濠集落や環濠建物が出ているので、どこかから水を引いてくる必要あるよな。

日田インターから高速に乗って一気に宇佐を目指します。途中、由布岳PAから由布岳を眺めてちょっとだけ観光気分。



ほぼ予定通りに宇佐神宮に到着。ここは3回目になります。当初の計画では宇佐神宮に来る前に御許山の上にある大元神社を訪ねることにしていたのですが、どうやら車で近づくのが難しそうなのであきらめました。




宇佐神宮は謎の多い神社。邪馬台国宇佐説では上宮本殿のある亀山が卑弥呼の墓ということになっていますが、果たしてどうでしょうか。一之御殿に八幡大神(応神天皇)、二之御殿に比売大神、三之御殿に神功皇后がそれぞれ祀られます。只今は鎮座1300年を迎える令和7年の勅使奉幣祭に備えて改修中でした。




この上宮のすぐ下に下宮があり、祭神は上宮と同じ三神です。こんなすぐ近くに同じ祭神を祀るのはどうしてでしょうか。下の説明から考えるに、下宮にはもともと大和の大神神社の社家の生まれとされる大神比義(おおがひぎ)が祀られていたのではないでしょうか。欽明天皇のときに大和から宇佐に派遣され、宇佐の菱形池に現れた八幡大神を初めて見たとされる人物です。




神宮寺跡や一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)跡、勅使が渡る呉橋など、広い境内をひと通り見て回ったあとは、参道の商店街でお土産を購入して次に向かいました。





次の目的地は宇佐風土記の丘。大分県立歴史博物館を見学して、すぐ横の赤塚古墳を見て、というコースですが急きょ、凶首塚古墳や百体神社に立ち寄ることにしました。大和朝廷は養老4年(720年)に九州の隼人を一斉に討伐。凶首塚古墳はその隼人の首が埋められていると伝えられます。そして隼人の霊を慰めるために宇佐神宮では放生会が行われ、その霊が百体神社に祀られることになりました。





勅使道がまっすぐに伸びた先に呉橋があります。まるで北海道でみるような真っすぐな道はちょっと感動でした。



寄り道のあとは風土記の丘へ。寄り道したことと博物館で少し時間を要してしまったので、風土記の丘に並ぶ古墳群(川部・高森古墳群)の見学をあきらめて赤塚古墳だけで我慢しました。




赤塚古墳は3世紀後半、九州最古の前方後円墳とされています。全長が57.5mほどでそれほど大きくないものの、畿内の椿井大塚山古墳やこのあと行くことにしている石塚山古墳と同笵の三角縁神獣鏡が出ており、大和と北部九州のつながりを考える上で重要な古墳です。また、3世紀後半は邪馬台国の時代でもあるので卑弥呼の墓と言われたことも。





後ろ髪を引かれる思いで次を目指します。次は京都郡みやこ町にある綾塚古墳と橘塚古墳です。ここも当初の予定になかったものの、北部九州の遺跡に詳しいメンバーのオススメがあったので行くことにしました。いやあ、行った甲斐がありました。






綾塚古墳は7世紀前半、直径40mの円墳。7世紀前半と言えば畿内では巨大古墳の築造がすでに終わっています。それなのにこの地ではこんなにデカい石を使った複室構造の巨大横穴式石室。東国でも古墳時代後期に巨大な前方後円墳が造られるなど、やはり大和から離れた地域では中央の動きが遅れて伝わるのか、それとも中央への従属意識が薄れて自立するようになっていったのか。



この説明板に登場するウイリアム・ガウランドは古墳研究の先駆者で「日本考古学の父」と呼ばれ、前方後円墳は円墳と方墳が合体したものであるとの説を唱えました。前方後円墳を勉強したときに知った名前にこんなところでお目にかかることになろうとは。

次は橘塚古墳。ここは小学校の敷地内にあるので入れないかもしれないと言いながら到着してみると、なんと校門が開いているではないですか。職員の方に了解を得ようとしてくれたものの誰もいない様子だったので、勝手ながら入らせていただきました。綾塚古墳よりも少し古い6世紀末、一辺が37〜39mの方墳で、こちらも巨石を使った複室構造の石室を持っています。飛鳥の石舞台を彷彿とさせます。綾塚古墳と橘塚古墳、来た甲斐がありました。






次はいよいよ3日間の最終目的地、出現期の前方後円墳とも言われる石塚山古墳。15分ほどで到着し、先に隣接する苅田町歴史資料館を見学します。舶載の三角縁神獣鏡7面や素環頭大刀などが出土していますが、この地を神域としていた宇原神社が社宝として所蔵しているため、残念ながら資料館には展示されていませんでした。現存する鏡は京都府の椿井大塚山古墳などの出土鏡と同笵とされています。



説明板に築造時期が書かれていませんが、もともと4世紀初めごろとされてきたのが、最近では年代を遡らせて3世紀中頃から後半を想定する考えが広がりつつあるそうです。





墳丘に登って周囲を歩いて全長130m、高さ10mを実感してきました。後円部の墳頂には竪穴式石室が出たと思われる場所が石で囲われ、墳丘は斜面を含めて一面に葺石が見られました。墳丘には浮殿神社が鎮座します。








これで予定した行程を完遂。小倉まで走ってレンタカーを返却、お茶してから小倉駅で解散です。とにかく事故なく無事に終われてホッとしたとともに、充実した旅の満足感に浸りながら新幹線で帰路につきました。次は丹後や吉備という案が出ているので、またまた企画に腕を振るいたいと思います。(おわり)


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古代史仲間と行く北部九州2泊3日の旅③

2024年03月15日 | 実地踏査・古代史旅
2024年8月10日、2日目の午後は私がこの旅でもっとも楽しみにしていた場所のひとつ、王塚古墳から。

王塚古墳は6世紀前半の築造で、遠賀川流域では最大となる全長86mの前方後円墳。ここの見どころは何と言っても石室内の装飾壁画です。靫・盾・騎馬・珠文・双脚輪状文・わらび手文・三角文などが赤・黄・緑・黒・白の5つの色でびっしりと描かれています。



壁画の実物は見れませんが、隣接する装飾古墳館の中に見事に復元されています。この中に入ると時間が経つのを忘れていつまでも立っていられます。というか、横になって被葬者の目線で石室内を眺めたくなりました。いつか装飾古墳を勉強してみよう。


この古墳は遠賀川水系の大分川と穂波川が合流する地点、穂波川右岸に立地します。遠賀川も穂波川もこんなに内陸まで遡っても流れが穏やかでそこそこの水量があります。古代の遠賀川は直方市あたりまで潟が広がっていたともされ、この流域は水運によって栄えたことでしょう。飯塚市歴史資料館に展示されていた解説には立岩遺跡が不弥国であると書かれていました。

さて次はここから近いということで急きょ加えた大分八幡宮。ここも2回目の参拝。筥崎宮の元宮とされ、祭神は応神天皇、神功皇后、玉依姫の三神。


境内の裏手にある小山の上には仲哀天皇の陵があるとされ、急な階段を登ってきました。仲哀天皇陵は大阪の藤井寺市にある岡ミサンザイ古墳に治定されていますが、『記紀』それぞれで崩御の描かれ方が違うものの、いずれも九州で亡くなっています。いったいどこがホントの陵墓なんだろうか。


さあ、ここから山越えで福岡平野に戻ります。渋滞する大宰府をなんとか通りぬけて安徳台遺跡のふもと、裂田溝わきのカワセミ公園の駐車場に到着。裂田溝は神功皇后が武内宿禰とともに開削したと『日本書紀』に記される用水路。流れる水のなんと澄んでいることか。


安徳台遺跡は駐車場のすぐうしろに見える台地の上に広がる弥生時代中期の集落遺跡で、130棟もの住居跡や甕棺墓などが見つかっています。比高差30mほどの台地上からは奴国が一望できます。


時刻は16時近く。山越えのショートカットで次の安永田遺跡を目指します。細いクネクネ道を難なく通り抜けて予定より少し早い到着。


1980年に九州で初めて銅鐸の鋳型が出土した場所です。さらに銅矛の鋳型片、溶解炉跡、フイゴなども出たことから、弥生時代中期の青銅器工房跡と考えられています。


説明板にある通り、銅鐸も銅矛も鋳型片が散らばった場所から出土しているのだけど、これはどう考えればいいのでしょうか。工房としての役目を終えたあと、鋳型を破壊してまき散らしたのか、それとももともと一カ所にあったものを後世の人が移動させたのか。いずれにしても九州で銅鐸が生産されていたことを示すエポックメイキングな場所と言えます。またこの発見のあとの1998年、吉野ヶ里で銅鐸そのものが出土しています。

そろそろ夕暮れが近づいてきたので次の高良大社へは高速を走って急ぎます。高良大社も2回目。今回は境内への階段を使わずに車で社殿裏手の駐車場まで登りました。その結果、神籠石を間近に見ることができてラッキーでした。


Wikipediaによると、高良大社の神籠石は城郭説と神社を取り囲む聖域であるとする霊域説があり、明治時代に論争が展開されましたが、昭和になって佐賀県の神籠石の調査から山城であることが確定的になったとあります。しかし、どうみても山城や城郭には見えません。うーん、どうなんでしょう。


境内から筑後川下流域が一望できます。遠くには吉野ヶ里遺跡、邪馬台国があったとされる朝倉なども望めます。眼下の平野では磐井の乱が展開されたそうです。この地を物部の故地とする専門家もいます。とにかく古代史好きなら必見の場所ですね。

高良大社の祭神は高良玉垂命。左殿に八幡大神、右殿に住吉大神を従えます。高良玉垂命とは誰なのか、Wikiによると、武内宿禰、中臣鳥賊津臣命、物部胆咋連、饒速日命、彦火々出見尊、景行天皇などなど諸説があって定まっていません。個人的には武内宿禰もしくは物部氏に関係する人物だと思います。


時刻は17時半。いよいよ日が暮れようとしています。おそらく夕陽待ちをしているのでしょう、たくさんのカップルがいました。


さて、いよいよこの日のラスト、高良大社のふもとにある祇園山古墳へ向かいます。卑弥呼の墓という説があるのにこれまで知らなかった古墳です。


一辺が約23mの方墳で3世紀中頃の築造です。墳丘上には箱式石棺が残されていて、墳丘の裾には葺石が、周囲には殉葬墓とも言われている石棺墓や甕棺墓などがたくさんありました。


太陽がまもなく地平線にタッチする時刻、なんとも幻想的な風景を見ることができました。以上で2日目が終了です。朝一番から精力的に動いて計画を完遂、何とも言えない充実感に浸りました。

この日の宿泊は3日目に備えて日田駅前のホテルを取っていたので、最後に高速を走って日田を目指します。チェックイン後にホテルのダイニングで晩ご飯。疲れもあって早々に解散しました。(つづく)


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古代史仲間と行く北部九州2泊3日の旅②

2024年03月14日 | 実地踏査・古代史旅
2024年3月9日、旅の2日目。空気が冷たくてかなり冷え込んだ朝、朝食を済ませて7時半に出発です。この日の行程は「那珂八幡古墳→光正寺古墳→飯塚市歴史資料館→立岩遺跡→王塚古墳→大分八幡宮→安徳台遺跡→安永田遺跡→高良大社→祇園山古墳」と盛りだくさんなので時間を無駄にせずに効率的に周る必要があります。

那珂八幡古墳は何度も福岡に来ていて行こうと思えばすぐに行けるのに、これまで行ったことがなかったので、少し感慨深いものがありました。寺澤薫氏が纒向型前方後円墳としていましたが、最近になって少し長さが変わったために纒向型ではないと発表されていました。





全長85mの前方後円墳で築造時期は説明板には4世紀初めとか4世紀前半と書かれていますが、出現期の前方後円墳という考えが定着している感があるので、さすがに4世紀はないだろう、遅くとも3世紀後半としてくれた方が納得がいきます。ここでメンバーの一人が、九州では古墳の築造時期をできるだけ遅い時期にする意識が働いていると言いました。3世紀に前方後円墳があったとすれば始まりの地である大和の箸墓はそれよりも早い時期になり、邪馬台国大和説に有利に働くから、ということです。さもありなん。






次は光正寺古墳。3世紀後半、全長54mの前方後円墳。糟屋郡最大で、ヒスイ製勾玉や鉄刀、鉄剣、絹織物でまかれた刀子などの副葬品が出ていることなどから、この地の首長墓と考えられ、不弥国の盟主墳との説もあるようです。那珂八幡古墳よりも古いとするわりには出現期古墳としての知名度はどうだろうか。墳丘は綺麗復元整備されていて、墳丘からの眺望は王墓を実感できます。














次は飯塚市歴史資料館。ここは2回目。何と言っても立岩遺跡群から出た多数の甕棺や10面の前漢鏡など、展示資料の迫力が見ものの資料館です。残念ながら写真投稿は禁止となっていました。



資料館で情報収集した後はそのまま立岩遺跡へ。丘陵上のわずかな空間が保存されているだけですが、資料館で見たでっかい甕棺を想像しながらの見学です。






このあと、すぐ近くにあるという立岩神社に行こうとして車でグルグル回ったのですが、参道を発見できずにあきらめました。あとで調べると、熊野神社の境内に車を停めて、神社の裏手から歩いていくことができたようです。

さて、次は私にとってはこの旅でもっとも楽しみにしていた場所のひとつ、王塚古墳ですが、向かう途中のとんかつ屋さんで少し早いランチを取ることにしました。2日目の午前の部は以上です。(つづく)


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古代史仲間と行く北部九州2泊3日の旅①

2024年03月13日 | 実地踏査・古代史旅
久しぶりの投稿です。今回は5人の古代史仲間とともに北部九州を巡ったときのレポートとなります。昨年2023年11月頃に仲間で集まった際に誰ともなく発案され、その後に私が行き先の希望を聞くなどして3日間の行程を企画した旅で、日程は2024年3月8日〜10日の3日間で、博多、飯塚、久留米、日田、宇佐、京都などを巡りました。いつもなら行程マップを掲載するのですが、今回はいきなりの大きなハプニングがあって、いろいろと変更を余儀なくされたので、行ったところを順番に紹介することとします。

2024年3月8日(金)、朝9時半に博多駅近くのレンタカー屋さんに集合すべく、私は自宅の最寄り駅から始発の電車に乗り、新大阪を6時25分に出発する「さくら541号」に乗り込みました。予定では9時4分に博多駅に到着です。ところが、、、

福山駅を通過してすぐ、突然に列車が停止しました。「広島・新岩国間で停電が発生したため、一時運転を見合わせます」との車内アナウンス。ところが、その後に停車の原因が「人と列車が接触する事故」に変わり、運転再開見込みが10時と告げられました。集合時間に間に合わないだけでなく、博多着が正午頃になりそうなのですぐに仲間に連絡して、残念だけど本日は不参加の旨を伝えました。その後、再開見込みが10時半に変更され、三原駅まで進み、最終的に広島駅まで走って運転中止が決定されました。



広島駅からは後続のこだまに乗り換えです。その肝心のこだまが到着する前に続々と運転中止を決定したのぞみが入ってきて、ホーム上は人であふれてきました。幸いにもこだまが30分遅れくらいで到着し、座席を確保することができました。結局、博多駅に到着したのが13時を過ぎていたので、トータルで4時間の遅れとなりました。ひとりでどこかへ行こうかとも考えていたのですが、気持ちが少し萎えていたのでランチを取ってそのまま博多駅近くに取っていたホテルに向かうことにしました。

予定通りに出発したメンバーから、16時頃に香椎宮で合流しましょうと連絡が入ったので、もともとこの日の夕方に入る予定だった一人とホテルで落ち合った後、電車で香椎宮に向かいました。少し遅れたものの、無事に香椎宮の境内で合流ができ、本殿を参拝後に仲哀天皇大本営旧跡、沙庭跡、不老水など周辺を散策して本日の踏査が終了となりました。













聞くと、本日の行程を大幅に変更して、もともと翌日に行く予定だった金隈遺跡、板付遺跡、須玖岡本遺跡など、すでに私が行ったことのあるところをこの日に行ってきたとのこと。ありがたや。これで明日は王塚古墳に行けるぞ。

いったんホテルに入ったあと、博多駅すぐ近くの居酒屋で晩ご飯。わたしは新幹線での人身事故という滅多にないアクシデントに見舞われたものの、ほかの皆さんが楽しい1日を過ごしてくれたようで、この旅を企画してよかったと思いました。古代史談議に花が咲き、食後はホテル近くのファミレスで23時過ぎまでワイワイやってました。(つづく)


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