古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

琵琶湖一周 車中泊の旅(No.6 奥琵琶湖パークウェイ)

2019年09月29日 | 旅行・車中泊
 車中泊の経験は今回で5回目となります。これまで、倉敷(1泊)、九州北部一周(4泊)、尾道(1泊)、金沢(1泊)を訪ねましたが、経験を重ねるにつれて少しづつ工夫を重ねて、あるいは備品類を購入して車中で快適に過ごせるようになってきました。今回は前回以降に購入した「シートをフラットに倒した時の段差解消用のマット」と夏場のための「モバイルバッテリーから給電できるUSB扇風機」「窓を開けても虫が入ってこないウインドーネット」を初めて使用するので楽しみにしていたのですが、ここのところ一段と涼しくなってきて夜間の気温がそれほど高くなかったので、扇風機とネットは使うことなく少し残念でした。段差解消マットはそれなりに効果はあったのですが、これだけでは十分ではなく、快適に寝るためにはその上に敷くマットレスが重要であることを再認識しました。厚さ10センチの高反発マットレスが1万円弱であることがわかったので、これを購入すれば問題なし。

 さて、道の駅マキノ追坂峠での車中泊はどうだったのでしょうか。停めた場所が悪かった、というか運が悪かったのか、夜中から朝方にかけて両隣の車が3回ほど入れ替わり、さらに人が乗り降りするたびにワンコが吠えるために何度も目が覚めて、正直なところ寝た気がしない、という状況でした。この道の駅を選択した以上はどうしようもないのですが、そもそも他の場所も候補に考えていたので、そのことも含めて今回の旅は総合的に反省すべき点がたくさんありました。それは改めて。







 道の駅の売店がオープンする前に出発したので朝ご飯をとる場所を探さないといけないのですが、とりあえず奥琵琶湖の景色や雰囲気を堪能しようと琵琶湖に突き出した海津大崎をぐるりと、そしてゆっくりと走ります。気持ちのいいドライブです。続いて葛籠尾半島に入って奥琵琶湖パークウェイへ。今回の旅でいちばん楽しみにしていたのがここを走ることだったかもしれません。坂道をどんどん登って行った先にあるつづら尾崎展望台。ここからの景色はなんとも爽快で雄大で清々しいものでした。



 遠くに見える伊吹山、その手前で野焼きの白い煙があがっています。湖北、奥琵琶湖の風景はいいなあ。そしてこの平野部が神功皇后を輩出した息長氏の故郷です。

 ワンコもリードをはずしてもらって嬉しそう。景色を堪能し、トイレを済ませて出発です。車を走らせながら気がつきました。路面にはセンターラインのあとが見え、もともと2車線の道路だったことが明らかなのに、あちこちで落石を防ぐコンクリート製のガードフェンスが並べられ、センターラインをまたぐように車線が設定されています。つまり1車線になっているのです。ということは一方通行ということです。たしか展望台までは2車線で対面通行だったのに。
 帰宅後に調べてみると、葛籠尾半島東側は台風などによる崖の崩落で通行止めになることがよくあるそうで、今年も7月下旬に通行止めが解除になったばかりでした。頻繁に崩落があることから、もともと2車線の対面通行だったのが1車線の一方通行になったようです。今回は西側から入ったので気づかずに行きましたが、これが東側からだったらいったん西側に回ってからでないと登れなかったということです。

 いよいよお腹がすいてきたので「道の駅 塩津海道あぢかまの里」へ向かいました。地元の方が作った栗おこわと、前日の浮御堂で見送ったゴリの佃煮を買って車の中で食べました。ゴリというのは琵琶湖に生息するヨシノボリというハゼの仲間の小魚のことで、佃煮の味はいかなごの釘煮にそっくりでした。おこわと佃煮の相性が想像以上に良かったです。ほかに、大根や茄子など地元の野菜を買い込みました。人気の道の駅なのか、人も車もいっぱいでした。

 この日に行こうと決めていたのは2カ所だけだったので、それ以外はドライブを楽しもうという魂胆でした。別に道の駅をはしごする意図があったわけではないのですが、次に目指したのが「道の駅 湖北みずどりステーション」です。実は事前の調査で車中泊にいい道の駅であることがわかっていたので、自分の眼で確かめておきたかったのです。行ってみると確かにいい。駐車場が広くて人目につかないように停めることができる場所がたくさんある。近くに温泉もあるので人気の車中泊スポットだということがよくわかった。湖西の山に沈む夕陽を眺めることができ、日本の夕陽百選にも選ばれているスポットです。あとで考えると、そもそも琵琶湖を時計回りに走ったのが間違いだったと気がつきました。東からまわっていればここで泊まることができたのです。前日の夕食難民も温泉での大混雑も回避できたし、夕陽を眺めることもできたはずです。これぞあとの祭り。

 ここからは湖岸沿いのさざなみ街道をひたすら走ります。信号もあまりなくて快適なドライブです。風もなくて鏡のような湖面が美しい。琵琶湖一周の醍醐味はここを走ることかな。

 そして次の目的地は彦根市にある稲部遺跡。2世紀から4世紀(弥生時代後期中葉から古墳時代前期)の大規模な集落跡です。180棟以上の竪穴建物に加え、大型建物や独立棟持柱建物が発見されたほか、鉄器の生産が行われた鍛冶工房群や青銅器の鋳造工房も発見されています。大和政権の成立期における近江の巨大勢力の存在を物語る大集落ということです。

 明らかにこのあたりというところまで来たのに、どこが遺跡かよくわかりません。これまでいろいろな遺跡を訪ねてきましたが、公園として整備して保存されていたり、そうでない場合も説明板が立っていたりして、どこが遺跡なのか、どんな遺跡なのかというのがわかるようになっているのですが、ここは埋め戻されて田畑や野原が広がるだけで説明板も何もないのです。だいたいここかな、というところを車から写真に収めるだけになりました。ちょっと残念。





 この遺跡は息長氏との関連で理解しようと考えていたのですが、息長氏の拠点からは少し場所が離れているのかな、という印象でした。

 次は今回のツアーのフィナーレとなる近江八幡です。



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小嶋浩毅
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琵琶湖一周 車中泊の旅(No.5 田中王塚古墳)

2019年09月27日 | 旅行・車中泊
 完全に日が沈んでしまいましたが、まだ少し明るさは残っています。真っ暗にならないことを祈りながら車を走らせました。目的地は北の方向へ数キロのところにある田中王塚古墳です。第26代継体天皇の父親である彦主人王の墓と考えられているため、宮内庁が管理する陵墓参考地(安曇陵墓参考地)となっています。





 この古墳は高島平野の西部、泰山寺野台地の東端部に形成された田中古墳群の盟主墳で、直径約58メートル、高さ約10メートルの帆立貝形古墳です。築造年代は墳形や埴輪から5世紀後半頃と推定され、安曇川以南で最初に造られた首長墓とされています。先に見た稲荷山古墳は6世紀前半の築造だったので、この田中王塚古墳のあとになります。

 空にはわずかに白さが残っているものの、古墳が林の中にあるために地面にはわずかな光も届かずに暗闇になってしまいました。車を停めたところから100メートルほど続く参道の先に古墳があります。車のヘッドライトを照らしてもこの状態。







 墳丘はフェンスで囲われているものの、よく見るとフェンスに沿って小道があります。足元に気をつけながら左手から小道に踏み込みました。墳丘の低い部分が微かに見えますが上の方は真っ暗です。
 まっすぐ進んで、わずかに左に膨らんだあとはぐるりと墳丘を回り込んでいきます。前方後円墳か帆立貝式古墳であることを感じることができました。











 どうやら周囲にも古墳らしきものがあるようでしたが、暗闇の中ではどうすることもできず、車に引き返すことにしました。あと30分ほど早く到着していればもう少し楽しむことができたのでしょうが、あとの祭りです。もともと、時間を気にしない旅と決めていたので後悔はありませんでした。あくまでこの時点では。

 もともと温めていた琵琶湖一周プランでは、この高島平野の北部には豊富に沸き出る安曇川水系の伏流水を活かして生活する「川端文化(かばたぶんか)」を守る人々が暮らす針江という村があって、のんびりと散策してみたいと考えていたのですが、とんでもないことでした。針江はまた別の機会に訪ねたいと思います。

 さて、時刻は18時半です。お腹がペコペコなのでご飯を食べる所を探さなければなりません。お風呂は「まきの高原温泉さらさ」というところに決めていたので、そこへ行くまでに晩ご飯を食べないといけないのですが、ここで遅い時間になったことを後悔することになったのです。いくら走ってもお食事処が見つかりません。ファミレスもないのです。あるのはラーメン屋さんくらい。出発するときには「晩ご飯は近江牛」と言ってたのに。駅の周辺なら何かあるかと思って近江今津駅まで戻ってみたのですが、あるのは飲み屋さんくらい。あまり遅くなると今度はお風呂が終わってしまうので、晩ご飯はいったん棚上げにしてお風呂に向かいました。
 そして、暗闇の中を走って「まきの高原温泉さらさ」に到着。車を停めてお風呂へ行くと、なんと幸運にもレストランが開いていたので、先にご飯を食べることにしました。とにかくご飯にありつけたのはよかったのですが、コスパの悪いお店でした。
 さらに、お風呂にも少しガッカリさせられました。温泉はよかったのですが、とにかく狭い。狭いうえに人が多い。ここはキャンプ場を併設しているので、三連休を利用してキャンプをしている人が閉館前に押し寄せてきてぐちゃぐちゃ状態。奥さんに聞くと、女湯のほうはお湯に浸かるのも、身体を洗うのも、髪を乾かすのも順番待ちだったそう。かわいそうに。
 結局、時間を気にしない気ままな旅の初日は最後に大きなしわ寄せがやってきて、反省点の多い一日となったのです。

 この時点で時刻は21時半。満足は得られなかったものの、いちおう晩ご飯もお風呂も済ませることができたので、あとは車中泊の場所をどこにするかだけです。いくつか候補はあったのですが、疲れていたこともあって一番近いところ「道の駅マキノ追坂峠」にしました。
 到着すると駐車場には明らかに車中泊と思われる車が結構停まっています。うまいこと一台おきに停められていて、一周してもいい場所がありません。仕方なく一番隅っこに停めてある車の隣に潜り込みました。ワンコの散歩を済ませ、寝る準備をして、とっとと寝ることにしました。いつもならしばらくエンジンをかけたままにしてテレビを見たりするのですが、この日は最後のドタバタで気持ちが疲れていたのです。

 初日で琵琶湖の西半分を走ったことになりました。翌日は東半分を巡るのですが、朝一番から始動できるのでこの日のようなことはないでしょう。では、おやすみなさい。



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琵琶湖一周 車中泊の旅(No.4 鴨稲荷山古墳)

2019年09月25日 | 旅行・車中泊
 白鬚神社を出たのが18時過ぎ。太陽は西の山に沈みかけています。次はどうしても行きたかったところのひとつ目、鴨稲荷山古墳です。





 高島平野の中央部、鴨川右岸にある古墳で、見ての通り現在は墳丘は完全に失われています。本来は南に前方部を向ける墳丘長約50メートルほどの前方後円墳であったと推定されています。
 明治35年(1902年)の県道改修工事で刳抜式の家形石棺が発見されました。発見当時には、長さ9メートル・幅約1.8メートル・高さ約1.8メートルの石室内にあったとされ、棺内からは冠・沓など多くの豪華な副葬品が見つかりました。現在これらの副葬品は東京国立博物館に保存されていますが、石棺はそのままの位置に建屋で覆って保存されています。











 築造時期は6世紀前半と考えられ、当地で生まれたとされる第26代継体天皇を支えた三尾君(三尾氏)首長の墓であると推定されるとともに、出土した副葬品から朝鮮半島との強い交流が見られる古墳です。

 日本書紀によると、第15代応神天皇の四世孫である彦主人王(ひこうしのおおきみ)は近江国高島郡の「三尾之別業」にいて、三尾氏一族の振媛(ふるひめ)との間に男大迹王(をほどのおおきみ)を設けたとあります。のちの第26代継体天皇です。継体天皇の在位は6世紀前半と考えられており、三尾氏とつながりがあったことは同氏から2人の妃が嫁いだことからもわかります。このことから古墳の被葬者が三尾氏の首長であると考えられています。

 東京国立博物館でここの副葬品を確認しなければ、と思うものの、これまで何度か見学したのに記憶にないということは、展示室ではなく収蔵庫に保存されているということかも知れない。

 すぐ近くに神社がありました。志呂志神社と言います。滋賀県神社庁サイトによると祭神は瓊瓊杵尊で、延喜式内の神社にしてその昔、川中島の白州に鎮座し所知食(しらすめ)天皇ゆえに志呂志の天皇と称し奉り白州の神社とも申せし由、とあります。今一つよくわかりません。





 さて、すでに太陽は西の山に沈んでしまいました。徐々に暗くなってきます。もうひとつ行っておきたい場所がある。先を急がねば。



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琵琶湖一周 車中泊の旅(No.3 白鬚神社)

2019年09月23日 | 旅行・車中泊
 湖岸を舐めるように国道161号線を走ると見えてきました。湖の中に立つ白鬚神社の赤い鳥居。途中、渋滞があって予想以上に時間がかかったのでパスしようかと思っていたのですが、この鳥居を実際に目にすると車を停めないわけにはいかないと思って目の前の駐車場に入りました。なんと、ここも満車です。少し待って車を停め、ワンコと一緒に車を下りました。



 神社の公式サイトによると、この神社は近江最古の大社で、第11代垂仁天皇の25年に皇女倭姫命が社殿を御創建(御再建とも)、第40代天武天皇の白鳳3年(675年)に勅旨を以て「比良明神」の号を賜った、とあります。先に訪ねた高穴穂神社は、第13代成務天皇が先帝の偉徳を追頌して祀ったのが始まりで、伊勢、三輪に次ぐわが国最古の神社、となっていたのですが、ここは第11代垂仁天皇の時代なのでそれよりも古いということになります。この比較だけで言えば「近江最古」ということになりますね。

 祭神は猿田彦神で、全国に292社ある白鬚神社の総本社です。神社の由来については、元々は西にある比良山を神奈備として祀ったとする説や、白鬚信仰の多く分布する武蔵国北部や近江・筑前には渡来人が多いことから、それら渡来人が祖神を祀ったことに始まるという説もあるようです。そういえば「新羅」が転訛して「白鬚」になったということを本で読んだ記憶があります。











 時間があれば境内を散策したいところですが、間もなく日が暮れます。参拝を済ませてすぐに出発しました。




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琵琶湖一周 車中泊の旅(No.2 浮御堂)

2019年09月21日 | 旅行・車中泊
 高穴穂神社から浮御堂までは20分ほどで到着。しかし駐車場がいっぱいで停められないので、しかたなく空くのを待ちました。浮御堂は正確には「臨済宗大徳寺派 海門山満月時浮御堂」と言い、禅宗のお寺なのです。近江八景のひとつになっています。
 いただいたパンフレットによるとその歴史は「一条天皇の長徳年間(995年頃)比叡山横川恵心院に住した源信(恵心)僧都が、びわ湖を山上より眺め湖中に一宇を建立して自ら一千体の阿弥陀仏を刻んで「千仏閣」「千体仏堂」と称し湖上通船の安全と衆生済度を発願したに始まる」と書いてあります。湖面に浮かぶように建つお堂は写真でよく見る風景です。



 拝観料は300円。ダメもとでワンコも一緒に入れるかどうか聞いてみると「抱っこなら大丈夫です」とのことだったので、ショルダーキャリーに入れて一緒に拝観しました。







 ここはたしか40年近く前に来たことがあり、そのときはこんな立派な石柱の上に乗っかってなかったような記憶があります。というより、石柱ではなく木の柱だったはず。しかし、この記事を書くにあたっていろいろ検索しても木の柱だけの写真は出てこないので、記憶違いなのかな。
 橋を渡ってお堂のまわりを歩きます。湖面に吹く風が気持ちいい。お堂には小さな阿弥陀仏がびっしり並んでいます。本当に千体もあるのだろうか。ここはお寺を拝観するというよりも琵琶湖の雄大な景色を楽しむ、その琵琶湖を背景にお堂を眺める、そしてお堂に立って風を感じる、それだけで300円の価値は十分にあると思いました。

 境内を出てあたりを散策しました。湖岸に出ると遊歩道があります。夕方の時間帯、ワンコを連れて散歩する近所の方々が集まってきます。なかなか風情があって心地よい場所です。こんなところを毎日散歩できるなんて羨ましい。



 お堂の左側に石碑が見えます。お堂から眺めたときに「あれは何?」「何やろ」と。答えがあとでわかります。

 湖岸から戻って村の中をうろうろ。小さなお店があります(あとで調べると「魚富商店」とありました)。佃煮屋さんです。アユ、エビ豆、ゴリ、、、「エビ豆って何?」「どんな豆?」 気になってお店に入りました。でも残念ながらエビ豆は売り切れでした。エビ豆は豆の種類ではなく、小エビと大豆をいっしょに煮て佃煮にしたものでした。お店にはテレビのロケで訪れた芸能人の写真がたくさん飾ってありました。
 奥さんが「お堂の横に立っている石碑は何なんですか?」とお店のご主人に尋ねました。何も買わない冷やかし客なのに気さくに答えてくれました。「あれは個人が建てた句碑で、いろいろあったんですよ」って。何だか奥歯に物が挟まった様子。句碑を建てた人は地元の名士なのかな。行政側は撤去したかったのかな。それともあの水域は個人の所有域なのかな。いろいろ想像してもっと詳しく聞いてみたかったけど「いろいろ揉めたみたいです」が精一杯の答え。たぶん、地元の方なので詳しい事情をご存じなのでしょう。それでも言えないのはご近所のよしみなのかな。
 そして奥さんはさらに尋ねます。「このあたりで見ておいたらいいおすすめの場所はありますか」と。ご主人は「すぐそこに神社があって、幸福を呼ぶ石というのが有名みたいです。それぐらいですね」と教えてくれました。で、その神社に行ってみることしました。





 伊豆神社といいます。滋賀県なのに伊豆神社とはこれ如何に。祭神は大山祗命(おおやまつみのみこと)となっています。大山祗は「大山津見」とも「大山積」とも表記されます。全国に400社ほどある三島神社は三嶋大明神としての大山祇神を祀り、その総本社が愛媛県今治市大三島の大山祇神社と静岡県三島市の三嶋大社とされています。この伊豆神社は寛平4年(892年)に三嶋明神の分霊を勧請したのが始まりとされていますが、おそらく伊豆の三嶋大社からの勧請であったのでしょう。



 これが幸福を呼ぶ石。ハート型をしていることから縁結びのパワースポットとして脚光を浴び始めているらしい。参詣者が撫でまくってツルツルになっている部分をふたりでナデナデしてきました。

 さて、時刻は17時前です。先を急がないと日が暮れます。時間を気にしない気ままな旅のはずですが、どうしても行っておきたいところがあったのです。トイレを済ませて出発。



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小嶋浩毅
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琵琶湖一周 車中泊の旅(No.1 高穴穂神社)

2019年09月19日 | 旅行・車中泊
2019年9月14日~15日、思い立って久しぶりの車中泊ツアーに出かけました。行き先は琵琶湖。当初は四国へ渡って室戸岬まで走ろうかと考えていたのですが、前夜、東京からの帰省で自宅に着いたのが22時を過ぎていたために準備ができなかったこともあり、手近なところで済ませようという気持ちが働いて、以前から企画していた一泊コースの琵琶湖一周ということになりました。いつも通り、奥さんとワンコと一緒です。

 ということで当日の朝に準備をしたために出発は12時を少し回った時間となりました。そして、今回は全く時間を気にせずに行き当たりばったりで行こうと決めたので、高速道路も使わずに全て一般道を使うことにしました。しかし、これは少し失敗だったようです。よくよく考えれば世の中は3連休です。あちらでもこちらでも渋滞に巻き込まれてしまい、琵琶湖に到達するのに3時間を要してしまいました。

 琵琶湖を西から時計回りに一周しようと考えていたので琵琶湖にたどり着いたら、大津市の皇子山古墳、近江大津宮跡、高穴穂神社(高穴穂宮跡)、日吉大社などを訪ねたいと思っていたのですが、さすがに3時を過ぎてしまったので、このなかから一カ所、高穴穂神社を選択しました。


 ここは第12代景行天皇が晩年に纒向日代宮から遷都した志賀高穴穂宮があったところとされています。景行天皇のあと、第13代成務天皇、第14代仲哀天皇の三代にわたって宮が営まれました。




 神社の祭神は景行天皇で成務天皇も合祀されているとのこと、そして相殿神として住吉神(上筒男神・中筒男神・下筒男神)と事代主神が祀られています。

 左手奥に見える白のミニバン、これが私の車です。



 神社の裏は「穴太の森」という小さな森になっています。森を横切るように小さな溝があり、比叡山から流れ出したきれいな水が勢いよく流れていました。森を抜けると石碑が建っていました。



 この森でワンコのリードをはずしてあげました。3時間も車に乗っていたためか、嬉しそうに走りまわりました。




 石碑の前は小さな公園になっていて、あやしげなおじさんが入ってきました。あとで奥さんに聞くと、日本書紀と書かれた本を片手にうろうろしていたとのこと、ひとりで神社や遺跡を訪ねるときの私のような人だということですね。

 比叡山の東麓にあるこの地は穴太ノ里(あのうのさと)と呼ばれ、安土桃山時代に石垣施工を担った石工の集団である穴太衆の故郷でもあります。穴太衆は古墳築造などを担っていた石工の末裔とされていますが、古墳の築造には葺石、石槨、石棺など石材加工と積石の技術は欠かせないものです。穴太衆の積石の技術は穴太積みと呼ばれ、近江地方の城郭や寺院に多く見られるそうです。神社の横に穴太積みの石垣が復元されていました。


 果たして本当にここに高穴穂宮があったのかどうか。「ご自由に持ち帰り下さい」として置いてあった由緒書きによると、景行天皇が崩御したあと、次の成務天皇が先帝の偉徳を追頌して御尊霊を祠るために穴穂宮廷内の一隅に設けた天徳前王社が高穴穂神社の発祥であり、それは今から約1,860年前のこととしています。なんと、伊勢、三輪に次ぐわが国最古の神社であるとも書いています。
 大津市北部の近江神宮から日吉大社付近にかけての山麓地域には1,000基を超えるといわれる古墳が群集しているそうです。高穴穂神社の裏手を少し上がったところにも穴太野添古墳群があります。6世紀前半から7世紀初めのものとされているので、高穴穂宮とは関係ないのかもしれませんが、この宮の建設、運営に関わった豪族や皇族たちの後裔集団の墓域であったのかもわかりません。

 さて、高穴穂神社はこれくらいにして、次は堅田にある浮御堂へ向かいました。 


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金隈遺跡

2019年09月07日 | 遺跡・古墳
 2019年8月、福岡県福岡市博多区、福岡平野の東を御笠川に沿って南北にのびる月隈丘陵のほぼ中央部、標高30mのところにある金隈(かねのくま)遺跡に行ってきました。福岡空港からバスに乗って金隈遺跡前で下車、ダラダラとした坂道を登りきったところです。この遺跡の西2kmほどのところには板付遺跡があり、南西3kmのところには須玖岡本遺跡があり、いずれも弥生時代を代表する遺跡です。



坂道の途中から見あげる丘陵。この上に遺跡があります。


 ここは一昨年の11月に「魏志倭人伝と神功・応神の痕跡を訪ねる旅」と称して古代史仲間3人で巡った実地踏査ツアーの踏査地として候補に挙げていたものの、当時はリニューアルのために閉館中だったのであきらめたところです。今年の5月にリニューアルを終えて再開されたのでようやく来ることができました。



ここを上がります。


 この遺跡は、1968年(昭和43年)に農道建設に伴って発見された弥生時代の共同墓地です。調査の結果、弥生時代前期中頃から後期前半の甕棺墓348基、土壙墓119基、石棺墓2基が見つかりました。 また、甕棺墓からは136体の人骨が検出されています。これらの人骨から男性の平均身長が162.7cm、女性が151.3cm、さらには平均死亡年齢が40歳代であることがわかりました。副葬品には南方海域にしか生息しないゴホウラ貝で作った腕輪や石剣、石鏃、首飾り用の玉などが見つかり、中国大陸や南方文化との交流が想定されています。

 遺跡を保存、展示するため、発掘調査現場に屋根をかけるような形で展示館が建てられ、甕棺や人骨が発見されたままの状態で見学することができます。当日は朝が早かったこともあって私のほかに見学者は誰もいません。警備員の方が玄関を掃除しているところにお邪魔しました。

この上が展示館の入口。




 展示館に入ると甕棺墓が発掘されたままの姿が保存されていました。カバンから眼鏡を出そうとしているとうしろから警備員の方が近づいてきて説明を始めてくれました。名札には「橋隈」とあり金隈遺跡とのゆかりを感じました。橋隈さんの説明によると「約400年の間に約400体の遺体が葬られたということは平均すると1年間に一体ということになり、集落の一般民衆の共同墓地だとすると1年に一体というのは少なすぎるので、おそらく特別な一族の墓であろう。ゴホウラ貝の腕輪が出ていることから祭祀を司るような集団のリーダー的な一族の墓だと言う先生もいる。」とのことでした。 なるほど、と思う一方で疑問もわきます。同じ北部九州の弥生遺跡で甕棺が出た立岩堀田遺跡、須玖岡本遺跡、平原遺跡、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などからは副葬品として銅鏡が検出されているのに、この金隈遺跡からは銅鏡はおろか、副葬品がほとんど出ないのは何故だろう。ゴホウラ貝ひとつで祭祀集団の墓と決めることは相当に無理がある。

展示館の内部です。


手前からの全景。


人骨も実物が保存されています。


奥からの全景。


テラス部に実物の甕棺が展示されています。


 入口の横には小さな展示スペースがあり、時間の経過とともに形状が変化する甕棺の実物が展示されていて、ここでも橋隈さんが甕棺の形状の変化や甕棺製作技術の変化について説明してくれました。

展示スペースです。


遺跡の紹介。

こんなところまで中国語や韓国語が。



甕棺の形状の変化。




遺跡の全体図。白く浮かび上がった部分が展示館として保存された場所。




 詳しい説明をしてくれるだけでなく、質問にもそれなりに答えてくれる橋隈さんは5月のリニューアルオープンのために警備員として赴任してきた警備会社の方で、考古学や古代史はまったくの門外漢とのこと。警備のみならず受付を含む見学者の応対を実質的にまかされるので渡されたマニュアルをもとに勉強をしているそうで、付け焼刃にしては堂々と適切に説明されるので驚きました。2015年に福岡市博物館で開催された特別展「新・奴国展」の分厚い図録を見せてくれたり、福岡平野にあるほかの遺跡を紹介してくれたりと至れり尽くせりです。毎日の来館者数はせいぜい十数人と少ないので、来館者との会話が楽しいのかもわかりません。おかげで私も楽しい時間を過ごすことができました。展示館を見学した後は展示館の裏側の公園(もちろん多数の甕棺が出たところ)をぐるっと回って帰路につきました。

石棺が出たところ。盛り土をして円墳のように復元されています。


このあたり一帯から甕棺が出ました。



以上、金隈遺跡の紹介でした。



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すみだ水族館

2019年09月04日 | 博物館
 2019年8月の暑い日、「東京金魚ワンダーランド2019」を開催中のすみだ水族館に行ってきました。スカイツリータウンの中にあることがわかっていたので北品川から京急に乗り、品川で乗り換えて押上で下車したまではよかったのですが、どうやら反対側の出口へ出てしまい、ソラマチを楽しむことなく水族館へ行くことになってしまった。



 入館料は2,050円。ビルの上の施設なので規模は大きくなく、展示される生物も小さなものばかりだろうと思っていたので「2,050円は高い!」が第一印象。ひととおり見学を終えたあとは「これくらいなら許せるかな」と、高額な印象が少しだけ和らぎました。それはこの水族館が自分にとって少なからず価値を感じられるものだったからだと思います。

 休日ということもあって小さな子供のいる家族連れで大賑わいでした。6Fのフロアは想像通り、小さな水槽が多くてどれもこれも人だかり。水槽の前を子供に譲ってあげるので思うように見学ができない状況でした。それでも、クラゲやチンアナゴには癒されました。いつまでも眺めていれます。これは一種の精神安定剤ですね。会社の同期の友人が熱帯魚にはまって自宅に水槽を並べるようになったのが少し理解できた気がします。





 横に長い水槽に水を取り巻く小さな生態系を作りだした自然水景という展示も良かった。水槽の底部一面に張られた水草が光合成によって酸素をはきだし、小さな魚やエビ、微生物がこの酸素を使って呼吸し、水草はこれらの生物が放出した二酸化炭素で再び光合成を行う、という生態系で美しい展示でした。





 大水槽を優雅に泳ぐサメ、エイ、ウツボにも癒されます。凶暴な生物が水槽の中でぶつかり合うことなく、争うことなく、共存していることがある意味で信じられない光景でした。





 5Fには6Fとの吹き抜け空間に設営された国内最大級とされる屋内開放のプール型水槽があって、マゼランペンギンが空を飛ぶように泳いでいます。個々のしぐさを間近で見ていると何ともかわいくて愛くるしい。これまた癒されました。その隣では4頭のオットセイが泳いでいます。せまい水槽の中を互いにぶつかることなく、壁にもぶつからず絶妙の技術でターンします。いつまで見ていても飽きません。





 この水族館に来た目的は開催中の「東京金魚ワンダーランド2019」という展示を見るためでした。金魚の常設展である「江戸リウム」と合わせてたくさんの金魚を見ていると「金魚もいいもんだ」と思えてくるから不思議です。



 1時間半ほどかけてすべての展示を見て外に出ると入口にはすごい行列ができていました。あれだけ混んでいるのにまだこれだけの人が入っていくのか、と思うと子どもたちが可哀そうになってきました。入館料2,050円は安くはないという気持ちは変わらないけど、癒しを求めて来る人にとってはリーズナブルなのかもしれない。年間パスポートは4,100円。近くに住んでいて癒されるために何度も来ようと思う人にとっては安いと言えるかもしれないな。そんなことを考えると歴史博物館の料金は格安だ。公立博物館の中には無料のところもある。有難いことだ。

 水族館を出てソラマチをぶらぶらしてご飯を食べて帰ってきました。





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原美術館

2019年09月02日 | 博物館
 2019年8月、東京都品川区北品川、御殿山の閑静な住宅街に佇む原美術館へ行ってきました。単身赴任宅から徒歩10分のところです。東京への転勤でこの北品川に住むようになって4年とちょっとになりますが、引っ越してきたときから気になっていた美術館です。いつでも行けると思いながらも訪ねることなく4年以上が経過、そしてついに来年末に閉館という記事を目にしたので重い腰がようやく上がって見に行ってきました。
 

 
 この美術館は、実業家であった原邦造氏が昭和13年(1938年)に建てた邸宅を再生して昭和54年(1979年)に開館しました。年に何度か美術館を訪ねることがありますが、通常は作品を鑑賞することが目的なのですが、この美術館の場合は作品の鑑賞が目的ではなく、建物そのものを見たい、邸宅がどのように美術館として利用されているのかを見てみたい、というのが目的でした。
 

 
 訪ねた日は「加藤泉 – LIKE A ROLLING SNOWBALL」と題した個展が開催されていました。私には現代アートはよくわからないのですが、意味不明ながらも非常にユニークな作品がこれだけ密集して並んでいると、個々の作品を鑑賞するというよりもむしろその空間が楽しく感じられました。それは私邸を活用したこの美術館だからこそ、なのかもわかりません。建物や部屋の構造や形、壁や床の色や材質、窓から見える庭園や木々の葉などのすべてが作品群と一体となって眼に入ってきます。いつまでもそこに留まっていたいとさえ思えてきます。小さな空間なので何度も行ったり来たりして、まるで小さい頃に親戚の家に遊びに行ったような無邪気な感覚に陥ってしまいます。建物と一体化した常設展もあり、本当に楽しい空間でした。
 

 

 

 

 



 
 この美術館の素晴らしい点をもうひとつ。それはミュージアムショップです。ここのショップはまるで小さな展示室です。並べられた商品は商品と言うよりもひとつひとつが作品、アートです。どれを手にとっても「へえー、面白い」「発想がすごい」と思えるものばかり。撮影許可が必要なショップは初めてでした。
 
 中庭に面したガラス張りの空間を利用したカフェも人気があるようでしたが、今回は利用しませんでした。
 
 当館は2020年12月に閉館することが発表されています。竣工から80年が経過した建物の老朽化というのが閉館の大きな理由です。古い建築を再利用しているのでユニバーサルデザインやバリアフリーの観点からこの先も美術館として運用していくには問題があるそうです。たしかに全ての展示室を車いすで鑑賞することはできず、エレベーターなんてとても設置できそうにない。そもそも美術館として必要な収蔵庫もなさそうだし、作品の搬入や搬出は建物の入口や廊下、階段を利用せざるを得ず、大型の作品を展示することはできないでしょう。また、資金面や行政面での制約を考えると建て替えも現実的でなく、群馬県渋川市にある姉妹館「原美術館ARC」に集約するという選択は納得のできるものです。
 
 美術館の閉館後はこの建物は取り壊されるのでしょうか、それとも住宅として残されて誰かが住むことになるのでしょうか。たいへん興味のあるところです。
 

 
 
 
 
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