わたしの随筆  雪  地  風

心に浮かんだことを気ままに

雪が降る

2012年02月29日 | 随筆

 天気予報通り、閏日の今日、早朝から雪が降っている。庭を見るともう二十センチ位積もっている。桶の水の中に音もたてずにふわっと一瞬に溶けこんでいく大きめの雪。いつも雪は水に落ちると、波紋もたてずに静かに消える。地球は今、氷河期に入ってるらしい。でもそれは、千年、万年単位だから地球温暖化の方にすべて関心が行ってるのだろう。放射能の半減期が万年単位で言われたりすると関心が薄らぐのと似ているのだろうか。本当は大切なことに違いないが。

 

 温暖化で北極海の氷河が随分溶けたのが、この冬の日本の長い寒さに関係していると先日報道していた。急速な温暖化が寒気の変化を招いているのだろう。地球にとっては、原発と共に人類が引き起こした大罪に間違いないだろう。

 

 町には物音一つせずに静かに雪が降りつづいている。窓からいつも見える丘陵は見えない。町の家並みも真っ白な雪に覆われて、どこか夕方のようにも感じられる寒い日だ。昼過ぎには本当に雪はやむのだろうか。不思議な、白一色の静かな、静かな雪の降る貴重な午前だ。


二軒の自転車屋

2012年02月28日 | 随筆

 春は名のみの風の寒さや・・か、また東京にも積雪の予報がでている。さて、また子どもの頃の追憶でもしながらタイムスリップしようか。家の向かいに自転車屋ができた。以前書いた池の埋めて地になったところだ。そこに自分と同い年のHA君がいた。彼の自転車屋の隣に紙を中心に扱う店があり、小さな道を挟んで紙店の倉庫、その並びにまた一軒、別の自転車屋があった。そこにも同い年のNI君がいた。先のHA君とNI君の店とは五十メートルも離れてはいなかっただろう。あとのNI君の店の方が以前からあったようだ。

 

  HA君とNI君は同じ小学校で、自分は違った。でも、近所なので下校するとすぐ、自分は二人とよく遊んだ。家(店)が目の先なのでちょくちょくお互いの家に行った。HA君の父は店に行くと、いつもにこにこしていた。がっちりした自転車のタイヤのパンクの修理もよく見ていた。タイヤからチューブをだして、金盥の水の中でパンクの箇所をよく捜していた。小さくぶくぶくと泡が水の中でたっていた。水からチューブを上げ、印をつけると傷だらけの木の箱の上に置き、軽石で擦り始めた。別のチューブの黒い切れはしを丸くハサミで切り、いい匂いの接着剤をつける。それをさっきのこすった箇所にあてがい、傷のたくさんついた木箱の上でトントンと木槌でたたく。それからタイヤの中へチューブが大きく頑丈そうな手で戻され、手押しポンプで空気が力強く入れられた。入れ終って、最後にあの小さなキャップを付ける時、必ず唾を空気の入れ口の箇所につけた。いつもをそれを不思議に思って見ていた。そうすると、空気が漏れにくくなるんだとその時知ったように思う。それ以来、今日まで自分は自転車に空気を入れる度にそうし続けている。

 

  HA君のおじさんはにこにこして、作業がすむといつもワハハハハアーとけたたましい?位に大きな声で、長く伸ばして笑う癖があった。こちらも、にこにこした。よく笑う人で、遠くでもその笑い声は聞こえた。とても小さな、可愛いHA君の妹が、いつか美空ひばりみたいになるようなこともおじさんは話した。また、奥さんはいつもきれいに化粧して、着物を着て本当によく買い物に出かけていく人だった。ちょっとにぎやかな商店街に行くとよくそのおばさんを見かけた。買うというより、買い物好きの人だったんだろう。

 

  NI君の父は反対に無口なおじさんであまり笑わなかった。商売敵だったからではないと思うのだが、むっつりしていて、頑固な感じのおじさんだった。でも、やはり自転車の修理はHA君の店と変わりはしなかった。HA君もNI君も自分を<さよしちゃん、さよしちゃん>と前の一文字をぬかした名で呼んだ。呼びにくかったから短くしたのだろうか。自分は二人を姓に君を付けて呼んでいた。学校から帰ると直ぐ二人の店へ行き、それから近くの広い原っぱへ出てよく遊んだ。三角ベースの野球もやった。HA君やNI君のほかにもいっぱい遊び友達がいたのだ。

 

 木登りの遊びでこんなことがあった。家の生垣と竹垣の混じったような境の近くにちょっと大きな木があり、よく木登りして遊ぶことがあった。当時、江戸時代生まれの爺さま(祖父)がそのすぐ近くに生活していたから、垣根を崩されてはといつも注意して見ていたのだろうか。我々、子どもたちが木に登る時に、垣根を足場代わりにして登っていたのだろう。それで、きっとみんなが登っているのが見つかってしまったのだ。自分らはあわてて跳び下りて、隠れて見ていたら、逃げ遅れた者が下りずに木の上でじっと隠れるようにしていた。と、爺さまはすぐ近くの肥溜めから下肥を大きな柄杓で掬って、それを木の下に撒き始めた。そして木の幹にもかけはじめた。自分らはじっと様子を覗うだけだった。木に登っていた友人はだれだか覚えていないが、爺さまがまた柄杓で掬いに行ってる隙をついて、あわてて高いところから飛び下りた。つるんと下肥で滑って尻餅をついた後、よろけながら原っぱの方へ駆けだした・・。下肥は臭いだろうなあ、そこまでしなくてもと思いながら、互いに顔を見合わせた・・。

 

  それから、もうその木に登ることはなかった。当時、肥溜めはよく身近にあり、落とし穴遊び、チャンバラごっこなどで時々悪ふざけで使ったりしたものだ。その、少し臭い話は想像するに任しておく。

 

 それから何年かしてHA君の店は、以前書いた爆弾跡地の埋め立て地のすぐそばに引っ越した。その後、いつも綺麗にしてたあの買い物の大好きなおばさんが亡くなったと聞いた。それからひと月もしないうちに、あのいつもにこにこして、時々大声で笑い続けていたおじさんも、力を落として後を追うように亡くなったと母が話した。またHA君は、その頃には家を出て自衛隊に入っていたとも人伝に聞いた。自分は少しも葬儀のことを知らなかった。

 

 近所でよく遊び、仲良しだったHA君にもNI君には子どもの頃以来会ったことはない。二軒の店も早くになくなっていた。二人は今、どうしているのだろう。少年の頃は遠くに過ぎ去ったけれど、二人と遊んだいろんな楽しい思い出は、ちょっと寂しいところもあるが、いつまでも消えることがない・・。

 

 


車やさん

2012年02月25日 | 随筆

  今日、身内の者が軽自動車を買った。去年の暮れあたりから随分といろんな店を回りながらも、なかなか決められなかったようだ。それで、自分が三十代からひいきにしている車の整備士に相談することになった。その店に一緒に訪ねて行って、主人と話す。自分も今まで、何台もこの主人に相談していろんな車種の車に乗ってきた。主人は、ほとんど同年齢なので好みなど直ぐわかってくれるし、アフターサービスもとてもいい。そして何より安くしてくれるから有難い。そういう訳で2時間ばかりのうちにほとんど身内の要望も満たされ、来月には希望の車が随分と値引きされて入ることになり安心したようだ。4月からの通勤にも使えそうでほっとしたことだろう。

   さて、いろんな手続きなんかしてる間に、主人と二人で車やオートバイの話しもした。話してるすぐ近くに昔のいいスポーツタイプのオートバイが置いてあった。いいオレンジ色の、とてもいかした金属製のホンダのバイクなのだ。主人は若い時には、よくバイクのレースに出場していたベテランのライダーでもある。その主人がたまたま市場で見つけ、すぐ手に入れたのだと。20数年前のもので、懐かしくて、性能のいいシンプルなバイクだと教えてくれた。今のバイクはクッションも性能もとてもいいのだが、自分はこんなバイクが本当は好きなのだという。自分もカメラでそんなことをつくづく感じるのだと話が一致する。実は、そのバイクは、たった三千円で買ったのだ。もっと汚く、壊れているところもあつたのだが、自分で部品を集めたり、作ったりしてこのように完成したのだとも。でも直しながら楽しかったという。ここに置いていたら譲ってくれという客がいたが申し訳ないのだが断ったと話してくれた。。いつまでも気を付けて好きなバイクに乗ると本当にいいと奥さんもそばで話してくれた。やはり歳とともにバイク操作も昔ほどにはいかないらしので励ましていたのかなー。

  私と変わらない年齢の整備士の主人。主人の父が昭和9年に車の整備会社をはじめ、そのあと兄が引き継ぎ、兄が早くに亡くなってので主人が昭和50年に引き継ぎ八十年近くやってきたのだ。自分は主人が引き継いで数年してからお世話になりはじめた勘定になる。随分長い付き合いだ。冬はスキーなどで雪道などを走ったりするので、主人にも時々相談もして、今まで事故もなく乗ってこれた。スキーキャリアーなどもあったなー。やはり有難いの一言に尽きる。

 身内の者も、是非これから事故のないようにと祈るばかりだ。以前、主人から車の納期を大安にしましょうかと言われたことがあった。やはり、一番に事故のないことを願っているのだと度々思わされたことがある。整備士という仕事からくる責任ある気持ちだろう。今も甥と一緒に車の下にもぐって現役で仕事をされる頼もしい主人なのだ。どこか、あの「三丁目の夕日」の鈴木オートに似てたりして。こちらの主人はおとなしい人だが。ここはスズキ自動車を主に扱うモータースなのだ。みんなで作業場の大きなストーブにあたりながら話してる時、脳裏にチラチラ昭和の懐かしい時代が浮かんでいた。


中華そば

2012年02月25日 | 随筆

  この間、二度ほど久しぶりに中華そばを食べに行った。いつもは日本そばをよく食べに行くのだが。というのは、行った先の馴染みの日本そば屋がたまたま臨時休業で、じゃ昼食をどうしようかなと考えたところ、昔よく行ったその近くの中華そば屋が急に頭に浮かんだという訳で。一番最初は、同僚の坊さんに旨い店があるよと三十数年位前に教わり、それからその中華そば屋によく行くようになったのだ。古武道のけいこをしたあとも、友人たちと度々行った。おとなしい主人と奥さんと二人だけででやっていた小さな店なのだ。先日行ったのは十年ぶり位なのだが、二人は私に少しおどろいた風で、にっこりされてた。昔から無口な二人なのでそれが普通の感じた。でも、奥さんもやはりその年月だげお年をめされたようには思った。自分もそうなのだが。

  

  あちらも久しぶりなのがわかったようで、何かと親切な振る舞いをされた。「久しぶり」とだけ声をかけた。すると、笑ってうなずかれた。店内は昔と少しも変わっていなかった。壁には昔から続けている毎日の天気の様子を記す年間カレンダーが何年分もやはり貼られていた。二人で毎日塗って記すこの天気記録だけでも凄いなーと感心する。カウンターの上には昔と少しも変わらず、品書がぶら下がっている。白い板に黒い字とか赤い字で書かれた札だ。右側上に、<中華そば>と書かれ、その下に、<並 五00円> <大盛 六00円> <特大  七00円>の三つの札。左側上には、<御飯>と書かれた、<小ライス 100円>、<並ライス 百五十円>の二つの札。ただ五つの札だけの品書。

  

  二度目の今回はこうだった。空腹だったので、稽古中から少しラーメンのことが頭に浮かんでた。終わると早速店へ行った。12時前なのにもう外のよしずの下のイスのところに、背広姿の会社員らしい三人が立っている。並んでるのか尋ねると、そうだと言う。これじゃ遅くなると思い、あの日本そばに変更だと決め、そこへ廻ると、休業中。この前からずっとつづいて休業中のようだ。ガラスに勝手ながら休業云々と詳しく書かれていた。この手打ちそば屋も旨いので、やはり三十年近くの馴染みの店なので長い休業が少し心配だ。この店も庶民的でその上、旨いのだ。皇族の方が独身の頃、お忍びで来たようで以前、その写真もちょこっと貼られていた。それはいいとして、休みでは仕方ないので再度、中華そば屋へ戻る。と、今度はすこし空いていて運よく入れた。前回来た時にも一人、女性の店員がいたので、夫婦二人では何かと大変なので雇ったのかなと思っていた。で、その女性に早速、大盛そばと小ライスを注文すると、大きな声で「大、小」とだけカウンターの中の主人に伝えた。端的な伝達内容だ。よく見るとこの女性はさっきの手打ちそば屋でもよく手伝っていた人なのだ。どちらの店もも近いから、日中国間ではないが、二つのそば屋を手伝う仕事をしているということだろうか。女性も私に気付いて笑っていた。

 

  熱い中華そばと小ライスがテーブルに置かれた。ちょうどよい量の褐色のすこし油の浮いたスープの中に幾分太めの 麺が入っている。とても小さく刻んだ 玉ねぎも混ざっている。コショウをかけ、フーフー息をかけながら麺をのどへ運ぶ。これだ、これだ。こたえられない旨さ。つい旨いので、麺を箸で上げたり下げたりしてしまう。スープの中には、支那竹5,6本、チャーシュー1枚、鳴門1枚、あの薄い小さな焼き海苔一枚が入ってる。小さな沢庵がのった飯の上にゆかり(梅しそ)をぱっぱっと振りかけた。中華そばと小ライスのなくなるバランスも丁度いい具合に食べすすめる・・。やっぱり旨い!先日はほんの少し、麺が柔らか過ぎた。今回はちょうどいい。スープ味も薄からず、濃からず、昔と変わらずいい感じ。

 

  九州の豚骨スープのラーメンも旨い。もやしや焼き豚が少し入ってるし。初めて上京して巣鴨でラーメンを食べて、そのうどんみたいな醤油のスープに愕然とした。これがラーメン?と思った。でも西荻窪なんかにも住んだりして、何回も東京のラーメンなんか食べているうち、少しずつその旨さがわかりだした。年をとってきたせいか、近頃はとんこつスープより、こちらの方が口に合うように感じはじめた。東京では荻窪ラーメンも旨い。また、ここの中華そばという呼び名もぴったりでいい。どこかラーメンとは違うように感じる。本当にいいスープで、醤油とかつお節の味なのかな。新し過ぎることくもなく、また古くもないスープの味。また支那そばという呼び名もあるが、それもいい。どこか、夜泣きそばの感じがするから。熱さ、薬味、店の雰囲気など、いろんなことが旨さに影響するのだろう。でも、この店は、今ありがちの頑固<〇〇らーめん>みたいに張りきらない。普通の感じでなるほど、旨いという店だ。さっきの三人の会社員の一人が「旨いなー」なんて仲間に言っていたから、自分だけではないと思い、うれしかった。ラーメン、中華そば、支那そばは、みんな同じ日本で生まれたものだろう。でも、呼び方の響きが違ったりすると味まで違う感じだ。結局、とんこつだろうと醤油味だろうと旨いものは旨い。そうでないものはそうでないというまでかな。追求しすぎるのはどうでもいいことだろうが、時には中華そばを食べるのももいい。太らないように十分気をつけながら、これからも時々行くだろう。

   「週4日しかやらないの」と小声で話した奥さん。カウンターの中で、もくもくと無口で麺を茹でたりされてるオートバイ好きだったはずのご主人。そんな久しぶりの、昔からある旨ーい<中華そば>屋の話。

 

 


鳥もち(ヤンモチ)の木

2012年02月23日 | 随筆

   また、鳥の話。やはり子どもの頃、よく鳥もちを使って鳥や蝉などを捕っていた。この鳥もちのことを郷里ではもっぱらヤンモチ、ヤンモチと呼んでいた。このヤンモチ、つまり鳥もちを使った捕獲の仕方も祖父や伯父から教わったのだ。笹竹や細目の真竹の先に鳥もちを巻きつけてメジロやシジュウカラなどの鳥やクマゼミ、アブラゼミ、みんみんぜみ、その他の昆虫などを捕った。静かに歩き、息も止める位にこっそりと鳥もちのついた竹の棒を獲物のそばに近付け、一瞬にぺたっとくつけるのだ。鳥は驚いたようにばたつき、そのためいっそう羽に鳥もちがつく羽目に。オスのクマ蝉はオレンジ色の柿の種のような堅い胸を動かし、ガーっという大きな鳴き声をあげる。鳥もちが絡んで捕獲された鳥の方はそれからがちょっとやっかいなのだ。べたつく鳥もちから獲物をとりはずさないといけないのだ。運よく少しだけ付いて捕獲できた時は簡単にはずせてカゴに入れられる。できるだけそのように狙うのだが、つい力が入ってべたっと鳥もちをつけて捕獲することが多いのだ。羽にべったり付いた鳥もちは灯油などの油を使って鳥から外した。羽と鳥もちの間に油をさして丁寧に丁寧に外す。油で鳥もちは粘りがおさまり、つるつるとなって羽から外しやすくなった。でも、時間がかかったぶん、それだけ鳥は弱くなりがちだった。

 

   捕獲した鳥もその他の昆虫などもあまり長生きしなかった。特に成鳥など、どんな捕獲の仕方で捕っても長生きは無理であった。成鳥はいくら好みの餌を用意しても食べなかった。そんなことも大人たちから聞いてはいたのだが。少しでも長く生かしておくために、聞いた通りに無理にでも鳥の嘴から餌や水をあげるしかなかった。何回かは逃がすようにもしたが、その前に死んでしまうことが多かった。ひな鳥もオレンジの口を大きく開けて餌をもらう位なら育ちやすいのだが、少し大きくなったものはなかなか自分で食べようとはしなかった。随分あとから知ったのだが、成鳥はショックなども随分と影響するらしく、捕獲されると直ぐ死ぬものが多いらしいのだ。自決してしまうように・・。

 

   鳥もちの作り方はこうだった。祖父の庭に大きな鳥もちの木が一本、家の門の近くに立っていた。鳥もちはモチノキ、クロガネモチ、ヤマグルマなどとも呼ばれる。その鳥もちの木の幹には随分大きな傷跡と小さい傷跡がいくつか残っていた。ぐさりと樹皮がクリーム色に大きく、深くえぐられているので、その木を見る度にどこか痛そうに見えたのをよく覚えている。自分もその木の黒っぽい皮をナイフで少し剥がし、鳥もちを何回か作った。剥がした皮を石の上に置き、その上から石で搗いた。しばらくすると粘り始めた。長く搗いていると灰色っぽいガムのようになった。つぶれにくい皮の一部を捨てたりしながら一応、鳥もちらしいものができあがった。一応と書いたが、当時は鳥もちを樽に入れて量り売りしている駄菓子屋も何軒かあった。その鳥もちはキャラメルのように光ってきれいなものだった。売り物のそれも何回か買って使ったが、さすがに手作りのよりもずっと立派なものだった。

 

   でも、自家製の鳥もちもよく使えた。あまり作ると、木が傷むといけないからと祖父たちから注意されたこともあった。当時でも、鳥もちの木は珍しい木であったようだ。紀伊の熊野なんかは江戸時代から名産だったらしいが、大きな鳥やその他の獲物なども捕っていたのだろうか。珍しい木と書いて思い出したが、その鳥もちの木から百メートル位離れていただろうか、肉桂(にっけい)の木があった。よその庭の木なので、友だちとこっそり失敬した。ナイフで幹の根元近くの皮を少し剥がした。皮を嗅ぐとあのいい香りが少しした。ほんとは地面に少し出ている根っこを取って、乾燥させてから、ゆっくり噛むといい香りがして旨いのだろうが、よそのうちの大きな木なのでそれは難しかった。

 

  だれかが取っていて、びっくりするほど怒鳴られたとか聞いたので用心してあまり行かなかった。ご主人も、根でも掘り返されたら枯れてしまうので、いつも気が気でなかったのだろうなと今にして思う。珍しい木があると、当時は何が起きるのか心配の種だったりして・・。

 

   そんな珍しい鳥もちと肉桂の木の思い出だ。以前、郷里に帰った時にはまだあの鳥もちの木はあったようだが、肉桂の方はもうなくなっていたように思う。鳥もちの幹に随分大きく抉られていたあの時の傷跡はもう癒えたであろうか。だれにも見向きもされずに生きているような、そのヤンモチの木はどんな風に、今の子どもたちを見下ろしているのだろうか。きっともう二度と皮をはがれることもなく、そこにじっと立ちつづけているのだろうか。ちょっと寂しげに。

 


墓参り

2012年02月20日 | 随筆

   昨日は義母の三年忌の法事に行った。身内中心の小さい子ども混じりのものだった。卒塔婆の前の墓石に刻銘された亡き人を追慕した。そして、ぽかぽかした日中の墓地はどこか気持ち良くもあった。追善供養の祈りをした後の墓参りはまた懐かしい感じもした。孫やひ孫にあたる者たちが墓参したことに、きっと喜んでおられることだろうなどと勝手に想った。

  

   夏、郷里に帰省すると自分の家族や親戚の家族と墓参りに行った。海にもよく泳ぎに行ったのだが、墓にも同じように楽しみに行くというほどよく行った。墓がのんびりした田の広がるところにあるということも度々訪れた理由かもしれない。ほとんど車で行くというのが多かったのだが、子どもが小さい時はバスで行くこともあった。バスを降りて墓までの炎天下を母と一緒に家族そろって行くこともあつた。手提げにろうそく、ライター、剪定ばさみなどを入れ、榊、花を新聞紙にくるみ、かかえて持って行ったりもした。母もどこかうれしそうに微笑んでいる。亡き夫や先祖の墓へみんなが楽しそうに参ってくれることがうれしかったのだろう。車で行った時などは、墓参の後、持っていった網で墓の近くの用水路で小魚すくいをしたこともあった。バケツに小魚などを入れて子どもたちは大喜びであった。

 

   そんなこともできる田舎ののんびりした墓地であった。自分が子どものころもよく父と墓参りをした。途中で藪に入り、自然に生えてる榊の枝を切ってから墓へ行ったものだ。父も墓参りが好きで度々お伴をした。まだ墓地が整備される前だったからたくさんの古風な墓石がいっぱいあった。父は着くなり、さっさっと墓地の道などをきれいに掃いた。さっぱりしたところでいろんな墓に榊をあげ、拝んだ。自分もまねをして次から次に墓に向かって手を合わせた。父は時々、墓の前で、この人にはお世話になったとか独り言のように言ってる時もあった。自分には誰の墓なのかもさっぱりわからなかった。ただ、大きいとか、小さいとか、苔がついてるとか、面白い形をしてる位しかわからなかった。杉林に囲まれた墓地は、夏には幾分涼しい感じがした。

 

  また帰省中の墓参の話にもどるが、こんなことを冗談で言われて、みんなで笑ったことがある。みんながあんまりよく行くので、「そんなにお墓が好きだったらここに来なさい」と言われるよ。「でも、あんまり行かな過ぎるとちょっとこちらへ来なさい」と言われるよと。それほど長い滞在中に度々行ったのだ。稲穂がゆれる中を墓参りすることは、炎天下であれ、爽やかな感じがしたのだ。回りよりちょっと高くなった墓地から眺める景色はのどかであり、みんなで記念写真を行く度に撮ったものだ。そういうことも影響してか、自分の子も大きくなって一人で故郷を訪ねた時、やはり墓参りをしたようだ。マラソンで一里近くあるその墓地まで何度か走って行き、拝んだりと。亡き父は草葉の陰でどんな思いだったろう。明治生まれの父も、小さい時からこの墓地あたりにあった家から反対方向に、同じ道を毎日一里近く歩いて学校へ通ったものだと話していた。

 

  父が「墓参りは祖先を敬うこでもあり大切なことだよ。」と言ったことがある。当時は、そーねーなんていう位にしか思ってなかったが、この年になってくると、父が言おうとした気持ちが何となく理解できるようになった気がする。小さい時から度々、墓詣でをしてきたせいか自分は墓にとても愛着を感じるところがある。上京して、住んでいた近くの染井墓地、それから谷中、雑司ヶ谷などいろんな墓地にもよく行った。作家や画家、哲学者などの墓をいろいろと拝んだりもした。漱石、永井壮吉(荷風)、夢二、芥川、鴎外・・京都では法然院の谷崎、鳥辺野の平安時代の人々など、いろんな人たちの墓を拝んだりもした。

 

  < 寂>と書かれていた谷崎の墓石。彼が存命の時からその文字を決め、準備していたのだ。死。みんなが生き、みんながまた一度はもどるところ。そして考えるに、できるだけゆっくりそこへ行くのがいいのだろうと思ったりする・・。不思議な生命が生まれ、生きて、いろんことをして、またいつかそこへ戻る。一人という孤独と自由。みんなと共に生きる中で生まれ、そして助け合い、生きてきたという人生。時には先祖にちょっとだけでも目を向けることは大切なことだろう。今を精一杯生きる、若者も多忙だろう。ちょっとした、のどかな墓巡りもいいものかもしれない。合掌。

 

 

   春を待つ墓地の桜の蕾は、生きる明日へと少しずつ膨らみを増してもいる。

 


鳥捕り (1)、(2)

2012年02月18日 | 随筆

                                                            (1)

 子どもの頃、田舎にはたくさんの鳥がいた。よくメジロが群れをなして、木々の間を飛び交っていた。くるくると白く縁取られた目をしてほんとにかわいい薄緑色の小鳥だと思った。石叩きと呼んだセキレイは畑などを滑るようにリズムカルに、休み休み飛んだ。地面に下りると長い尾羽を上下にゆっくり叩いた。たくさんのスズメが落ち穂を啄ばんでいた。ヒバリが空高く囀っていた、雲雀と書くように、春、高い高いところでいつまでも鳴きつづけた。おしゃべり鳥というはずだ。友だちとレンゲや菜の花などが咲く畑の中の巣を探し続けたが、見つけられなかった。ヒバリは利巧だから巣に戻ろうとする時も、そのまま巣のところに直接は戻らないと聞いていた。用心深く、巣から離れたところに一度降りて、そこからぴょんぴょんと警戒しながら巣に戻るのだと。地面に降りたヒバリを追うことは到底できなかった。巣を見つけることも無理であった。たまたま農家の人が仕事をしてて雛の入った巣を見つけること位であった。子どもの頃、ヒバリをもらい、飼ったこともある。スズメより大きくて、ちょっと鋭い感じの褐色の鳥だ。

  

  畑などに仕掛けを作って鳥を捕まえたりもした。竹やゴムを使った仕掛けで、鳥はバネに挟まり死んでしまう。餌を取ろうとしたときストッパーが外れ、ゴムで引っ張られていた竹でバチンと鳥を一瞬にして挟む仕掛けなのだ。何羽か捕ったのは主にムクドリだったかなー。食べはしなかった。また、笊を細長い棒で支え、笊の下の米粒などを食べようとした時に捕まえる方法もあった。凧糸を長く引っ張って、鳥が笊の下に入った時をねらって一気に引いて捕ることもした。あまり成功することは少なかったが、ときたま成功した。東京でも、自分の子どもにも教えて、空き地でハトを捕ったこともあるが、かわいそうだしすぐ逃がさせたこともある。

  

  子どもの頃は、まだ野鳥保護とかあまり言われないない時代だった。でも、やはりかわいそうだなーと思ったりしたことは度々ある。こんなことがあった。寒い季節だったと思う。まだ成鳥になりきっていないスズメの幼鳥をゴム銃を手に追いかけた。何羽かが杉の樹だったと思うが、そこに逃げた。下から様子を覗うと、二羽の幼鳥が目白押しではないが、押し合うように横に伸びた枝にじっと止まっていた。どこか震えているようにも思えた。チャンスとばかり、ゴム銃に小さな石の玉を挟み、真下から真上の二羽のスズメの真ん中をねらって打った。一羽狙うか、押し合ってる間を狙うか迷ったのだ。真ん中の方が当たる確率が高いと思ったに違いない。とにかく引っ張って打った。と、二羽のスズメが同時に目の前に落ちてきた。何か不思議な感じがした。二羽ともぐったりとしていた。二羽とも暖かった。でも、ほとんど死にそうであった。傷もなかった。後はあまり覚えていない。どこか悪い気持ちがしていた。寂しい気持ちもしていた。ずっと後から、一石二鳥という言葉を知った時、そのことを思い出した。本当だとよく思った。少年の頃の小鳥の思い出だかどこか寂しい感じで思い出すのだ。

                                                                                                                                                            

                                                       (2)

  

  田んぼのそばには、用水路があった。稲刈りも終わった後などは一面広々としているから草木が茂っている用水路はよくわかった。今のようにコンクリートでできているわけではなく、地面が大きく深く掘り返されて、どこかのんびりした感じの小川みたいなものだった。そこには、魚や貝、カニ、ヤゴ、カエル、ヘビ、ドジョウなど、時にはウナギさえいたものだ。夏などよくそこで網を使って虫捕りやフナなどの魚とりもした。友人が霞網を持っていた。これは目に見えないほど細い糸で編んだ網で小鳥を捕獲するのに使われていた。

 

  友人は用水路の両側のちょっとした木々の茂みをみつけると、そこに降りて行って霞網を仕掛けた。両側の高い部分の木の枝に網の端を結んだ。網はやっと見分けられる位でまっすぐに張られていたが、風にひらひら揺れた。やさしい感じがした。そこの用水路を自分たちは離れ、どれ位歩くいただろうか。また、さっきの用水路の別の地点にぐるっと回って出た。そこでしばらく休み、いよいよ鳥を追い込むことにした。自分らは用水路の両側の土手のようなところを進んだ。オーオーとか声を出したり、パチパチと手を打ちながら鳥を追うように、普通の足どりで網の張られている方へ歩いた。用水路の中を見ると、野鳥がヒューヒューと軽やかに飛んでいるのが見えた。時々、木の茂みの中に入るようだ。でも、パチパチ鳴らす手の音に驚いたようで一、二羽は茂みから出て、また先へと飛んでいく。少しずつ歩きを速め、網の方へ急ぐ感じで進んだ。飛んでる小鳥はヒワだ。友人は網の方へ駆け始めた。自分も後を追った。網には三羽ばかりの野鳥がぶら下がっていた。薄いひらひらした霞のような網の穴に首を突っ込み、あまり動いていない。白っぽい羽毛の混じったスズメに似た小鳥だった。友人が網から外す時、小鳥は少し動いた。

 

  他にもいろんな鳥捕りをしたのを思い出す。霞網もきっと大人たちから教わったに違いない。自分は以前にも書いたが、いろんなことを友だちがするのを見てほとんど学んだ。祖父が若い頃、鉄砲撃をやってたので猟の話を聞いたりしていた。ツルを捕って、そのあと怖く感じた話。結局、剥製にしたらしいが。キジ、ウズラ、カモ、ヒワ・・。それから猟犬、銃、料理の仕方等いろんなことを聞いた。聞きながらドキドキもした。江戸時代生まれの祖父の話はいつまでも忘れことはない。母も懐かしかったのか、その後もよく祖父の猟のことを詳しく私に話してくれた。 

 

  そして、今思う。随分生き物の命を奪ってきたんだと。食べるというのでなくて、ただそんなことを夢中にやってたまでなのだが。当時、生き物の生命の大切さなんてあまり考えもしなかった。 朝から晩まで外で遊んだ。生きてた。大人も子供も今みたいに、そんなに区別なんかなかった。大人も子どもみたいな心だったのかもしれない。話しは変わるが、懐かしくて今回、二度も見た映画「三丁目の夕日」 中での大人の振る舞いも当時に似てると思った。感情がそのままなんだ。純粋なんだ。喜怒哀楽が素直なんだ。ちょうど、途上国の人々の目が輝いているように。

 
  でも、どこか小鳥や昆虫、魚といろんなものを捕り、それが死んでいくとかなしい気持ちになった。たくさん墓を作って埋めた。埋めて棒を立てて拝んだ。もう捕るのをやめようかともよく思った。少しずつ大きくなっていく中で遊びも変わっていった。上京して、しばらくして祖父が亡くなったことも知った。でも、帰ることなんてできもしない時代だった。

 

  

   鳥追いというのではなく、霞網で鳥を捕った田園での遠い思い出や祖父の素晴らしい話はいつまでも忘れることはない。江戸、明治、大正、昭和とつづく中で、みんな笑って、泣いて、怒って、楽しんで生きていた。いろんな商売の人がいた。いろんな職業の人がいた。均質でなく個性的な人々であふれてた。でも折り合えた。怒られもした。助けてくれた。やさしかった。しっかりしろと言われた。心配するなと言われた。頑固だが、本当は今よりずっとやさしい魅力のある人々の多かった時代だったとつくづく思う。

   去っていったたくさんの人の顔が今日もまた浮かぶのだ・・。

 

 


病院での若者たち

2012年02月16日 | 随筆

  今日、検査と薬をもらうために病院へ行った。時間がかかりそうなので、途中六階のレストランで遅めの朝食を軽くとった。病院に来てるのはやはり高齢者が一番多い。付き添いがついたりでみんな大変だ。家族での食事らしい人たちもいる。近くのテーブルに二組の親子連れがいた。どちらも若い母親で、それぞれ三才位の女の子を連れていた。ひと組の方の母親はケイタイに夢中といったところ。もうひと組の方の母親は二十歳位かな。娘と盛んに遊んでる。顔もよく似た親子で、まるまると肥ってる。遊んでる様子もどこか、ちょっとーという感じなのだ。母親はお疲れの様子だし、子どもはもっともっと遊んでほしい様子だ。母親も独特のいでたちで、娘といろんなことをして仲良く遊んでる。年齢の差なんてないみたいに、イスなど使って楽しんでる・・。お互い、達公といった間柄の幼い感じで。でも、二人の娘も元気よさそうだし、風変わりでも、それは、それでいいのかなー。やはり、こんな時代、若くして子育てするのは想像以上に大変なんだろうと思うことにした。仕事で働きに出て、家事をして、保育園などへ送り迎えに行って、病気になって、看病して、へとへとになって・・・。社会教育、環境整備面では、国や自治体もあんまり育児の援助などには消極的なようだし。これじゃ、そんな育児真っ最中の女性たちからの政治への不満もでるだろう。夫ももちろん。そんな不満がまた変なふうに政治、政策などにうまく利用され、掬いとられるはずだなーとも思う。そこいらが、不満のはけ口としても維新の会の人気にもつながるのだろうか?はたして少子化対策が彼らにできるのだろうか。船中八策にも社会保障なんて全然入ってなさそうだし。

 

  病院を出る時、門の辺りに座り込んでいる若い女がいた。ぼろぼろと涙を流して、そばに立っている男に不平を言ってる。顔色も悪い上に、涙がいっぱいあふれてて、ぼそぼそ声を上げている。そばを歩く自分もなぜか悲しくなってしまった。男もどこか、なげやりの感じで、足を広げたような変な格好で見下ろし、何か言ってる。そばを通る人たちはみんな振り返りつつ病院をあとにする。どんなことがあったんだろうと想像し、心配にもなる。でも、それはプライバシーのことだ。昔だったら、「どうしたんだい?大丈夫かい?」  いろんな言葉をかけられたかもしれない。「いや、いいんです。ちょっと痛かったので」なんて、小さい返事があって、立ち上がって泣くのをやめたかもしれない。昔なら、<・・喧嘩は犬も食わない>で、それくらいの声かけで、よかった、よかったで、涙は止まったかも・・。  あの時は、どうしたものだろう?

 

  駐車場へ向かいながら、いろんことを考えた。何か、とても二人が悲しく見えた。レストランの若いい親子連れ。玄関近くで涙を流している若い女となげやり風の男。どちらも大変そう。みんな、いろいろ大変だ。自分なんか、それなりの歳だから、割とあきらめもつく。でも、若い者たちが、いろんなところで困っていると同情したくなる。甘えるなという前に、昨今の日本の状況に、いらだちを感じる時があるからだ。いろんなものが溢れてるが、それでみんな幸せになれてるのだろうか。ばらばらじゃないか。格差もひどいもんだ。子どもも若者も老人も、もっと心から笑えて、貧しくったって、希望をもち、困ったら、助けてと正直に言えて、恥じることもなく、ふつうに声をかけ合い、けんかも時にはしても、最後には、気にするな、お互いさまだよなーなんて言えて、あんまり、個人情報だ、プライバシーなんて宣言しなくったって、幸せにやれてたんだ。昔は本当にプライバシイーも守れない駄目な時代だったんだろうか。そんなことはない。今以上に個人を大切にしたところもいっぱいあった。

 

   親子連れと涙を流していた二人連れをちょっと見て、考えさせられた。やはり子育て支援は大切で、緊急の政策課題だ!政府も本腰を入れてやれ。

   今日のあの親子と二人連れの若者たちも、きっと元気を取り戻して、病院を後にすることだろう。いっそう、仲良くなって。

 


老いも若きも、自分のペースで

2012年02月15日 | 随筆

 昨日も都心に出た。店で早めの昼食をとる。パン、サラダ、紅茶などでよく済ますのだが、会計が、いつも速くてお金を財布から出すのも忙しい。目安をつけて用意してるのだが、それでも店員の対応の方が速いなあー。どんな店も、いつも速い。まさしくファーストフードだ。世の中総体が速い。みんなそれに慣らされちゃって、ちょっとでも遅くなりそうだとイライラ?いろんな機器も超スピードで処理するから、そこに生きる人間もせわしない生き方にならざるをえないのだろう。コインなんか落としてる暇もない。ふー。

 若い時は速いのにもわりとついていける。だが、年をとってくると歩くのから何から、すばやく動くことがだんだん難しくなってくる。焦って急ぐと、かえって遅くなったりする。でも、店員のその速さに感心はする。時々、同情もする。そんなに急いでで仕事をしたからって賃金はどうなんだろうとかね。でも、きっと、そのスピードが慣れててやりやすいのだろう。話すのも、テープのように速くて、鼻にかかった声で脳天の方から響く感じの女店員もよくいるなー。会社で訓練されたのだろう。

 街も年々、やはり中高年の占める割合が多くなったように思う。その世代はそんなに速い感じで動いているようには見えない。歳と比例した速さになるのだろうか?若者は身のこなしが速い。年配組は駅の階段を上がるのだってそんなに速くない。急いでいる時、心の中で、早くしてようという気持ちが時々でる。逆に、速くできない時、そんなに急がせないでよという気持ちになる。わがままで困ったもんだ。でも、お互い、思いやらないとなー。

 昔もこうだったかなーと時々思う。速い時もあったが、今ほどではなかったように思う。何でだろうー?そんな歌があったっけ。こりゃ!やはり市場経済主義のせいだときたもんだ!自分だけは勝つとただ何となく思う競争格差社会なんだ。そうしとこう。

  溢れるような品物。目がぐらぐらするような派手な生地の服。スマートなのか格好いいのかよくわからないハイテクな機器。いろんな化粧品や薬。いろんな国の食べ物・・。面倒だし、都心ではほとんど買わずにそこを通過するだけ。

  こんなに速すぎると、やっと手に入れた喜びもすぐ早くに消えそう。食べ物も、味わうより腹に入れるだけ。人への会話も当たりはいいがほんとはそうじゃないのかも。情報も速くて短くて端的に結論をだ。こんな文章なんてゴミなんだろうなあ。一言で、なるべく短く。ツィッター?何が言いたいの。次があるんですから急いでー。メールもいろいろ。友だちもいろいろ。速い一期一会。やってることもいろいろ。でも、忙しっくって。休んでる閑もないんです。何かに追われるように生きているうち、こんな歳になっちゃって。最近、あんまり海外旅行はしないかなー。お金でなく、将来も考えちゃって。自分には、何もかもがただ速いばかりで、味わいもあまり感じられない、乾燥したような時代だ。

  そんなに急いで何処、行くーん。ゆっくり、味わ深い、昔の古本を読むのもいいよ。ゆっくり町や村を歩くのも楽しいよ。郊外は店も少なくなってきたが、まだ面白い店も時たま見かけるよ。自分の生活ペースで生きてりゃいいんだろう。

 時代に振り回されず、上手に緩急おりまぜてやっていければいいだろう。いろんな人がいるんだもの。幼児も青年も壮年も老人もみんな生きてる。わが国は性別、年齢でも差別しないじゃないか。すばらしい憲法のあの、<個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利>をも決して忘れてはならない。

 あんまり急いで、憲法さえ平気で無視、放棄するような風潮になってしまった。                                                 

 「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」  今こそ、それを確認したい。立派な憲法だ。

 

    こんな時代にこそ、崇高な憲法の条文を時々見直して、問いかけてみるのもとても大切なことかもしれない。

 

 

 


竜馬伝?船中八策

2012年02月13日 | 随筆

 日記か随筆かわからないような自分のブログには政治に関することはなるべく書かないようしていた。でも心配なことでもあるので書く。先日の集まりでは話題にしなかったが、大先輩とは個人的に維新の会のことを話した。大阪の市民はどうしたのかねーだった。東京は昔からもう駄目になったのはご承知の通り。愛知の名古屋市と県も駄目だ。宮崎県もちょっと一時変わってたなー。今度は、大阪の市と府か。

  どうも鹿児島のあの阿久根市のごたごた沙汰とだぶるのだ。今日出た維新の会の衆議院選公約をみて驚く。竜馬の船中八策に帳尻をあわせて大きな八項目の骨格で改革を主張している。都市機構、国会議員数、公務員制度改革、教育委員会、年金制度改革、TPP、日米豪同盟、憲法改革などの八つの骨格だ。やはり彼らの本性はこうだったねだ。多くは語らない。大阪の府民、市民もこれから大変だろう。でもそんな人物を選んだのだから数年は苦しいだろが仕方ない。都民だって石原にさんざん苦労させられた。彼がまた首長連合の音頭とりをやるのだろうか。

  あんまり国会が駄目なもんで一気解決を望んで、もっと危うい道に」紛れ込んでしまったようだ。こんな時代だからこそ、議員を減らすのではなく報酬は減らしていいが、数をへらすのは危ないのだ。もっと国民の意見を吸い上げるパイプのためにも議員数は増やすべきだと思う。その予算など微々たるものではないか。日本の国家レベルの議員数は世界の中でも極めて少数なのだ。米国は少ない方らしいが、州が大きく、しっかり合衆国を維持しているのでいいが、日本は自治も頼りないのだ。そこを今回つかれて維新の会など盛んに自治を謳う。でも、あれも危ない。自治エゴではないだろうが、勝手な方向に流れても、自治という聞こえのいい隠れ蓑で、あることないことやりはじめ、ブレーキも効かなくなるかもしれないのだ。困る者はそこに住む住民と関係者だろう。もちろんよその庶民も困るが。住民転居まで中国みたいに制限されはじめたりはまさかしないだろうなー。彼ら志士は、孤立しないように国にうってでるのが今回の八策とういうことだろう。呆れた平成勤皇の志士だ。昨日の朝日新聞の橋本市長のインタビュー特集は支離滅裂に思えてならなかった。背後に別の何かがあるのではないかと強く感じた。

 どうも民度の低いところほど、マスコミに弱い。昨今の政治の不振は大いにマスメディア依存の悪い証に見えてしょうがない。しかもお笑い番組とかそんな芸能人が多すぎる。政治を笑いにし過ぎる。民主主義なのになぜ、それが悪いのかと言うだろう。確かにそうだろう。でも、ふざけてみたり、奇をてらったりし過ぎるなと言おう。タケシとかそのまんま東とか爆笑問題だとかテレビに出てる無責任な発言関係者が多すぎる。そしてクイズだ、可愛いだ、どうだ、こうだなんてことが多すぎる。教養なんてどうでもいいが、あまりいい歳して、いつまでも無責任で、幼稚すぎては未来の子にも悪いのだ。視聴率がどうとかの前に大事なものを制作者もとうに見失って久しい。世界の中でも、とても恥ずかしい文化ということだろう。お馬鹿キャラなどと。ほんとの馬鹿だ。

 つい憤りなって、素直に自分の気持ちの一部分を書いた。そんなにと思う人には悪いが、よくそう思うことが多すぎる。昨年の明治公園での六万人集まった反原発集会のことをNHK7時のニュースでは一回も流すことはなかった。一部の民報は流した。抗議でもあったのか、9時のニュースであわてて初めて流した。その時、マスメディアの本質をはっきりつかんだ。都合の悪いことは平気で無視するのだとういう確信。そんな反原発の集会より人の頭を平気でたたく笑いなのか。今はそこをつくのは止めておこう。原発報道の裏も学んだではないか。

 さて、本題だが、長くなるのでこれも止める。ただもう、大阪も後戻りすることはなかなか大変だということ。石原の東京で経験済みだ。66年近く守ってきたわが国の平和の歴史は、きっと生ぬるいのだというのだろう。きっと真の勇気も彼らにはないはずなのに。だからこそ、かっこよく、歯切れのいい掛け声の先には、必ず横暴と弱者無視という政治の状況が必ずくるということだ。そしてワンフレーズで、わかりやすい攻撃の的が次から次にやり玉としてあげられるのが歴史の常である。笑いつづけているうちに、いろんなことが面倒になり、<好きにやってー>と大切なものを投げ捨てたのだろうか・・。それは哀しいことだ。

 

 もう遅かったのかもしれないのだが、本当の歴史を知る人々はたくさんいるのだから、そんな目先の利益や損得に目をくもらされることなく正しい道を進んでいこう。作家だ、有名人だ、弁護士だ、高学歴だ、やり手だ、若さだ、老練だなどどうでもいい。真に良い政治を求めて、民主的に道を切り拓こう。自治体労働者も、もし甘い汁をすっているようだとしたら大いに反省し、本当に市民、府民のために謙虚に働かねばならない。ここにも、既得権にすがる不当なマンネリズムもあったのではないのか。心から猛省し、自浄せねばならない。責任は重い。

 きりがないので止めよう。ただ一つ。一度失ったらならもうなかなか奪い返すことが難しいのは、<平和と自由と愛情>だということを。そして、それを得るためにどれほどの尊い命が歴史の中で失われていったかということを常に忘れてはならないのだ。

  もう一度、本当に正しい道を歩んでるのかと厳しく自問しよう。

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空に舞ったビラや落下傘

2012年02月13日 | 随筆

  今から考えると、自分が子どもの頃は随分、世の中大胆だったなーと思うことがいろいろある。その一つだが、よく飛行機から町にビラが撒かれた。撒かれたものは、当時、よく百貨店などが丸いアドバルーンなどを上げていたから店の販売の広告のビラなんかが主だったのではないかと思う。ほかには催し物の誘いなどもあったのだろうか。そのアドバルーンについてだが、赤や、縞の丸い気球の下には大売り出しなんて書かれていた。大きな建物の屋上から天気のいい日にアドバルーンは上がっていた。よく、ビラが空で撒かれて、ぱらぱら舞ってきた。鳥の子紙みたいな優良紙ではないが、一見そんな薄い紙だった。ビラは薄紫色や薄めの黄色、薄緑色の悪い紙質のざらざらしたものが多かったように思う。文字が大きめに印刷されていたが何が書かれてたかは思い出せない。〇〇店大廉売とか大安売りとか〇日開催などと書かれていたのだろうか。テレビもまだなくて、ラジオの時代だし、そこでのコマーシャルなんてほとんどなく、無理だったんだろう。情報の多い昨今とは全然違う世界だ。そんな、空からのビラを使った宣伝。現代だったら危険極まりない。

  そんなビラを何枚かよく拾った。こんなことがあった。ビラに混じって、何個か落下傘も落ちてきた。透明のビニールみたいな傘の下にひもで何か白っぽい包み紙みたいなものがぶら下がっていた。四、五十センチ位の落下傘だっただろうか。子どもたちみんなが必死になって落下傘が落ちていくところへ走った。まわりに木が何本も生えてる原っぱを越え、その先の生垣風のところにふわふわ流れて落ちていく。兄だったと思うが、落下傘をやはり追いかけていた。自分はまだ小さい方だったから無理だと思いながらも上を見て必死に走った。見ると落下傘が兄たちのいる所へするすると落ちている。兄が捕ろうと背伸びしている瞬間、パッと横から跳び上がる者がいた。一瞬のうちに落下傘はその手に握られた。<あー>と思った・・。

 残念で残念でたまらなかった。自分には衝撃だったのでその情景は今でもはっきりと覚えている。きっとその包みにはキャラメルやいろんな欲しいものがいっぱい入っているんだと思った。でも、そのプレゼントの包みは本当は小さいものだっのだが、逃がした魚は大きいのと同じ気分だったのだろう。自分がプレゼントの落下傘をとれそうになったたわけでものでもないのに、とてもがっかりして家へ帰った。

   

  そんな話をしていると、東京の人形町や浜町辺りでも同じようだったと。当時、ヘリコプターだったか飛行機だったかわからないが空でビラや落下傘など撒かれていて拾いに行ったと聞いた。地方だけでなく堂々と空からの宣伝がなされていたことを知り、驚いた。これも戦時中に日本や米国の軍関係が飛行機を使って空から庶民に、あることないこと含めて広報したのに共通している名残だったのだろうか。それにしても大胆にして、またおおらかな時代だったんだなあとつくづく思う。懐かしい落下傘追っかけの思い出だ。

 


ぽかぽかした日射し

2012年02月11日 | 随筆

  今日の日中は陽も射しぽかぽかしてる感じだが、時々吹く風はまだ冷たい。ブロック塀のそばに、小さな草の芽をやっと見つけられるだけ。でも、土手なんか歩いていると、処々に若草を見つけられる。日も長くなってきたので日に日に成長してるのだろう。桜の蕾も少しずつふくらんでいるようだ。梅はもうそろそろ咲き始めるだろう。

  日本海側はこの間、随分雪が降り被害もでた。ひと月前位に金沢を訪れた時には雪もなく春めいてさえいた。店の人が、「今年は、このまま雪も少ないままででしょうかね。」と言ってたのを思い出す。一年前に随分雪が降り大変だったから、あまり降って欲しくないようだった。

  雪も豪雪になると大変だ。雪崩でも困る。風もそう。暴風になるとたくさんの被害がでる。水もそう。洪水で昨年も紀伊半島は大変だった。地面もそう。地震で崩壊し、地滑りなど起こす。  

  あとひと月もすると東日本大震災から一年を迎える。人は自然と闘いながら生きてるのだろうか。人は自然に受け入れてもらって生きてるのだろうか。少しでもよりよい生活を求めて文明を高めているのだろうか。科学技術もそのためにも総動員されてるのだろうか。資本主義がもし利潤追求のみに絞られたら自然破壊も大規模なものになるだろう。文明がそれほど進歩していなかった時代の自然破壊は、今ほどではなかっただろう。イースター島の文明消滅も環境破壊が主原因だったとか。いろんな文明もあっという間に、知らぬ間に崩壊していく。多くがその地域の環境破壊が根底にあるらしいのだ。過去の各文明においても自然との折り合いのつけ方を誤ると命取りになるのだ。文明崩壊もあっという間で、びっくりするほど速いスピードなのだ。地球規模の現代文明はどうなんだろう。やはり自然には勝てないはず。

  どうか、日射しもやわらかく。雪もはらはらと舞って。風もそよそよと吹いて。地面も静かにしてて。水もさらさらと流れて。雲もぼんやりと浮かんで青空を見せてくれ。

 人は、わがままなんだろうか。厳しさに耐えることも大切なんだろうか。ダムは水と発電のため?原発は安上がりだから?公務員はみんな無駄使いばかりしてるの?橋、道路、病、貧困、教育、格差・・などは民間の観点からだけで本当に大丈夫なの?先々責任をもてるの。本当に、時には利益の観点から解き放たれるの。庶民の大切な自由を今までみたいに守りつづけれるの?地道な道をこつこつと歩く人々もいっぱいいるよ。

   昔以上に激しく襲ってきそうな自然の猛威はどうしてなのだろう。  

   ぽかぽかとした、やわらかい陽がもう少しの間、射しつづけていて欲しい。やっとみつけたはずの、貴重な自由と平和のために。そして、真実をきちんと見つめれる者はまだまだたくさんいるのだから。

 

  

 


寒い夜の温かかった映画

2012年02月10日 | 随筆

  映画、「三丁目の夕日」を見た。05年には1作目を見た。その時、少し感動して西岸良平の古い漫画を探し、一応全巻直ぐ読んでみた。普段ほとんど漫画は読まないのだが面白かった。でも、自分は映画の方が好きだ。いろいろその映画に対しての感想はあるだろう。芸術作品がすべてではなかろうし、単純に、この映画はいい映画だと思ってる。変に思わせぶりの芸術風の映画は好きではない。2作目は見ていないが、きっとそれなりにいい作品だろうと思う。3作目を今度見たわけだ。

   映画館で2Dと3Dのどちらも上映していて、時間の都合で値段の高い方の3Dの映画を見ることになった。入場する時、青いレンズのついたメガネを渡された。中学生の頃だったと思うが、当時、立体映画を見るためにパラフィン紙とボール紙?でできたメガネを渡されたのをつい思い出した。今回のは、丈夫なプラスチックでできていたようだ。赤いフレームでがっちりとしていた。あの変なテリー伊藤とかいうタレントがよくつけてるような赤縁の色メガネの分厚いの。マスクなんかしてそれをつけたらどこか月光仮面より怪しい感じ。

   館内が暗かったからいいが、自分はメガネの上にそれをつけて見たので本当に怪しい限りだ。こういうメガネをつけた観客もいることを考えた上で、こういうごついメガネになってるのかも知れない。最初の3Dの予告編でそのメガネをつけた。こんな映像を見つづけたら、目がきつくて、吐き気がそのうちしてきて気持ち悪くならないのかなーなどと考えた。画面はどうなってるのか、そのメガネを上げてはずして見てみた。すると二重線がはいったようなピントはずれの映像だ。こちらはもっと気持ち悪くなりそうと思い、急いでメガネを下してつけた。ふー、困ったなー。そうこうしているうち、肝心の「三丁目の夕日」が始まった。メガネをつけてからしばらくして、いきなり目の前に東京タワーがバーンと浮き出てきた。そのうちカメラはタワーのてっぺんに回り込み、真上からタワーを映し始めた。てっぺんの小さな金属にすぐにも手で触れそうに錯覚した。タワーの四方向へ広がる足の赤い部分が手に取るようにはっきり見えて素晴らしい眺め。ついタワーを作ったとび職人のことなど想像してしまった。

  映画の中で、何度か3Dだからこそと思う場面がいくつもあった。模型飛行機が電線の間を立体的に飛びぬけたり、髪の毛が立ってみたりとなかなか素晴らしい。筋もしっかりしていて何度かぽろっとしてしまった。お涙頂戴ではなく、あまりに人間くさいと思わされたからだった。自分はこの映画はそれでいいんだと思う。少し現実離れしていようと、それがかえって真実味があるように思うのだ。1964年(昭和39年)の東京を映しだしてるいる映画でもあった。ちょうど自分が上京する一年前なので興味をもって場面を見ていた。東京オリンピックで沸いた年なのだ。ジェット機が五輪を描いた。銀座のみゆき族もでてきた。なつかしい型の新幹線も。なんとなく面白く、元気のいいそんな時代だったのだろうと思った。自分はなにせ郷里から学生服姿で初めて上京し、西も東もよくわからないようなオリンピック翌年のアナログの東京だったのだ。ビートルズが来日した年だったかなー。

  そんな時代の社会を、人々の暮らしから上手にとらえている素晴らしい大衆娯楽映画だと思う。映画の展開の中で地道に生きること、夢をもつこと、お金だけでは得れない幸せがあること、実直な生きざまの大切さなどが暗に示めされた。最近の日本の社会で失ってしまった大切ないろんなことを気付かせてくれた貴重な時間であった。子どもたちのランニング姿が時々でてきたが、そういう地域もまだあっただろうから、時代考証の面からも許せる範囲だろう。小道具も細やかに配慮されており当時が懐かしかった。

   とにかく、涙目を拭くうためにメガネをついはずしてしまい、二重写しに画像が一度だけ見えた位だから、映画の筋にのすっかりめり込んでいたようだ。楽しくて、微笑んで、実直で、ほろっとして、悲しくってそんないい映画だった。2時間半近く飽きることもなく愉快に、過ぎ去ったおおらかな良き時代にタイムスリップさせてくれたのだ。きっと何回見ても楽しい映画だ。目も疲れることはなかった。もう一度見てもいいなあと思う。

  見終って一人、帰りの寒い電車でも、温かい気持ちで乗れた二月の夜であった。

 

 

 

 


久しぶりの集まり

2012年02月09日 | 随筆

    昨日は久しぶりにかっての職場の仲間といろいろ話した。年に二、三回先輩の家に七、八人集まり、食ったり、喋ったりするのだ。以前はそこに集まるメンバーで音頭をとったりして旅行もしたが近頃はあまりしない。みんな一度退職した後、再任用で働いていたり、ボランティアや勉強していたりとさまざまだ。

  

   数週間前に、集まる日が連絡されてくるので,都合をつけてできるだけ参加するようにしている。みんなの近況も知ると面白い。先輩は自分より十歳以上の人だ。もう三十年以上の付き合いだ。職場も二度ほど一緒だったので、お互いよくわかる仲。とにかくこの人はいろんなことに造詣が深いので、いろいろと教わることが多いのだ。たとえば、よく寒い中、流れ星など一緒に見て天体のことなどを教わった。が、ほとんど忘れた。でも、そんな風に観測するのだという初歩的なことだけはなんとなくわかったような気がする。いつも疲れを感じさせない働きぶりなのだ。割と近いところの住まいなのでふらっと散歩がてら寄らしていただいて世間話などもする。でも、ほとんどは留守が多い。中南米からアジアといろいろ回る。語学もいろいろされてる。

   寄った時など、焼き物を焼いていたり、かげろふ日記とか更科日記なんか読んでたりする。二人で話が平安時代に入ったり。とにかくいろんなことに博学である。能の話になって、えらく詳しいので聞いたら親が水戸で能面打ちもされていたようなのだ。納得。書から絵画、音楽、天体、植物と実に詳しい。よく、自分で調べてもわからなーい!と音を上げた時、「あ、そうだ!今度、聞こう。」となるのだ。つまり、生き字引の人。有難い。

  で、そこでのあつまりでは、いろんな話をした。思い出話から失敗話。食べ物も適当に持ち寄ってるので味見、調理から始まり、スーパーの葉物が最近高いだの、放射線の海産物が困るだの、いろんな話題で面白い。自分も調理するので女性たちの話はためになる。アロマテラピーの資格をとってリラクゼーションを自宅でこっそりはじめたとので、女性は是非体験してみてなどもあった。

  

   地震が四年以内に70パーセントの割合で東京を襲う話になった。みんなどうするー。それまで生きてるかなーと冗談をいう大先輩。銀色の非常袋を開けてみたら期限切れのかんぱんが出てきて、ちょっと口にしたが食べられない位堅かった。食べ物より、ヘルメット、ロープなど緊急時のものが大切だよ。日本のどこが安心なところなの。家のなかではどこ?こんなテーブルの下?入らないー!あはは。偶然性もあるしねー。高層ビルにいたらどうする。地下鉄の時は。考えるだけでいやになっちゃうねー。この近くは立川活断層も走ってるし・・。結局、結論は出ず、出るのはため息ばかり。

 

  大先輩は農業も教え子と一緒にやられているので、よく季節の作物を頂く。夏は、きゅうり、なす、ズッキーニなどいろいろ。有機栽培なので旨い。昨日は、市に出して残ったたくさんのパンジーを好きなだけもっていってーということだった。歩いて行ったので五鉢だけにした。

 

  十年ばかり、この集まりをやってる。みんな、それなりに年もとってきた。あんなに元気だった人が健康のためのいろんな習い事を始めたとか。ここが痛くてーなど遠慮なしに、笑いながらの披露。五時間ばかりの間に、いつの間にか昔と今が混じりあってほんとに愉快である。

 

  今度は、また暖かくなった頃に集まりの連絡が来るのだろう。女性陣のチャレンジ精神には驚くばかり。日本中のことをくまなくよく知ってる人は時々バスの案内添乗員もやっていた。そんなパワーを見習いながら、自分もみんなに負けないように元気でいよう。

 

 


2012-02-07 17:08:14

2012年02月07日 | 随筆

最近、忙しくなりだしてなかなかブログも書けそうにない。まあ、多忙の方がボケ防止にもいいのだろうが。昨日から久し振りに雨になり、東京も随分寒い。今日は勉強があるので都心に出掛けた。風邪がはやってるのか、行きも帰りも車内はマスク姿の人が多い。今、乗ってる車内は勿論なのだ。自分もさっきマスクを着けた。予防のためと暖のため。
乗客もみんな疲れた様子の人が多い。若者たちだけは、主にスマートフォンをいじってるのが多い。だから、まあ、自分も紛れるかなー?

疲れる時代なんだろう。勤めてる人々も大変だ。昔より大変な働き方に変わってきたようだ。IT時代の中で機器を操作しながら情報を交換し、生産、営業と繋げて部署ごとでも休まる暇もなく働かざるをえないのかなー。

体だけは大切にしないとね・・。

高田馬場駅前の古書市で芭蕉の本を買う。
こんな時代に乗りおくれるも何もない。ついていくのもやっとだが、まあ困らない程度でまだ暫くはやっていけるだろう。便利なものも他にいっぱいあるんだろうがね。だいたい、自分には操作が面倒だし。

もうすぐ、また乗り継ぎの電車が来るのでベンチを離れて乗るとしよう。雨も上がったようだ。
ケイタイから