昨日は69回目の終戦の日だった。新聞やテレビニュースを見る中で、いつもの年とは違って不安な気持ちなっていたのも、安倍政権の進める積極的平和主義なるものが腑に落ちないことも大きく影響している。首相の口からペラペラと発せられる、理念のない多くの言葉が、いつも上滑りしているのは、あまり人格者でないからだろうとさえ思ってしまうのだ。
昨日の新聞から。 元零戦パイロット(98才)は、英軍戦闘機を空中戦で撃ち落とした時のことを次のように語る。 ・・炎上し、落ちてゆく機体の操縦席に、悲痛なパイロットの表情を瞬間的に見た。「助けてくれ」と訴えかけているようだった。自分が手にかけた人間の最期を、初めて見た。・・撃たなければ、自分が殺される。それが戦争。・・だがその後、「あの人にも家族がいたのかもしれない」と思うようになった。・・その方は、戦争中、19機を撃ち落としたという。複雑な思いで現在も苦しみ続け、今の時代は一番危険だとも語っておられる。
また、今日の朝刊の記事から要約。 元陸軍初(しょ)年兵(88才)は、中国・山東省で捕虜たちを、20人ほどの仲間と命令に従って殺した。広場での銃剣による、「突け!」という号令での無残な様子はここでは省く。 ・・口ごたえは一切許されない。・・理由も告げられず、連帯責任で初年兵全員が殴られる。常にビクつき、服従する。「善悪も何も、考える余裕がなくなる。体験者しか分からないが、それが軍隊」 「実際の戦争には、黒い部分がたくさんあるのです」 この方も、「あんな時代が、二度と来ませんように」と目を閉じ、静かに語っておられる。
この若かった二人の方も、ずっと後々まで、消えることのない深い心的外傷を負いもしただろう・・。
上の命令に従うこととは?号令に従うこととは? 一番底辺の部分から、上からの命令だからと、それはどんどん上までつながっていく。でも、詳しい理由は一切告げられることもない。命令一下、至上命令。つまり、絶対に服従すべき命令なのだ。その構造では、重大な過ちだって無視されるだろう。挙句、トップたちが最終責任を問われると、責任不在の有様になるのは歴史が示している。結局、底辺部分が一番犠牲を強いられて、幕引きが始まるのだ。前戦兵士の戦死を初め、戦災による庶民の累々たる屍に見るように。広島、長崎の被爆を初め、東京大空襲も地方の空襲だってそう。もっと言えば、原発による被曝だって、国や電力業界トップへの責任追求をしなかったら、いつの間にか、はぐらかされそう。逆に風評被害だと、国民、庶民側へと責任転嫁し、根本的な責任や原因調査・追求も様変りしてしまう始末。もともと責任感も無いのだから。利益や利権、専門性や名誉や秘匿などが絡み合いながら・・。
トップにいて指示する者が、一度だけでも、先に語った二人のような任務に立って、命令に従い苦しんでみろと言いたい。どうせ、「できる!」という返答だろう。ずっと、ずっと継続してやってみろと言いたい。「俺は、底辺の人間ではない。もっともっと上部の重要な任務遂行という仕事がある!」と怒るだろう。ならば、その上部を支えているのが底辺なのだ。底辺こそ重要なのだから、この持ち場を離れず継続してやってみろと再度言い返したい。そんな強権的で、不当な上部なんて必要としない。とりわけ軍部なんか。犠牲に対して時代遅れで、無知過ぎるのである。歴史から何も学んではいないからである。ただ、美化することでは長けているようだ。正義だとか犠牲精神だとか、国家のためだとか様々である。今日も街宣車が威勢のいい曲を流し、がなり立てて走っていた。「民主党、共産党、公明党どもは・・」と。しかも現政権は、小賢しく、表面上の都合のいい策を弄するだけで、国民のための政治ではなくなってきた。問題を解決する真の外交能力も無いまま、政権維持のため、他国をとやかく言うだけである。まさに、週刊誌記事みたいな政治に成り下がった。
堂々巡りでは知恵がない。戦後は69年でも、100年でも続くかも知れない。それは、この世界から戦争や武力による威嚇が永久に放棄され、崇高な理想と目的が達成される迄なのだから。世界に誇れる、素晴らしい日本国憲法の理念を広げよう。
盆が過ぎ、精霊が帰られるという十六日の今日も、一日中、蝉が訴えるように、鳴き続けていた。日が暮れてさえも・・。
アブラゼミ 案山子・・ ( 2014、8、16 写 )