わたしの随筆  雪  地  風

心に浮かんだことを気ままに

茅葺き屋根の農家

2015年02月27日 | 随筆

 ぽかぽかとした陽気に誘われて、川向うの郷土博物館へ行く。およそ170年前に建てられたという茅葺き屋根の農家に入ってみる。囲炉裏端で係のおじさんが一対一でいろいろと説明してくれた。「この家が建った頃は、ちょうどエジソンが生まれた頃になるみたい。建ってから五年後位にペリーがやってくるような江戸時代のこと」、「この行灯の灯りが1ワットらしいから、夜は随分と暗いところで生活していた。蛍光灯の小さい補助灯が5ワット位だから・・」

 風呂場を見ると、丸竹を渡した床の上に盥(たらい)が置かれていた。そこで行水をしていたという。行水で使った水は隙間のある丸竹の床下の甕に落ち、畑などで再利用されたそうだ。何から何まで、つつましい生活だったようで、現代生活との格段の差を思う・・。

 時々、子どもたちが社会科見学に来るそうだが、やはり、科学館や未来館なんかの方が興味があるようなことを話してくれた。煤けていて、どこか骨董臭いし、昔の物だから仕方ないのだろう・・。お礼を言って、いろんな時代の雛人形が展示してある本館の方へと廻った。

 

 説明してくれたおじさんと、こんな話もした。「大変な暮らしだったが、でもそんな中からも立派な人たちがたくさん出たんだよねー」とか、「そこの縁側でいろんな世間話もしてたんだろうねー」とか、「きっと、お互い様みたいに助け合ってたんだろう・・」などなど。

 家に帰って、ニュースを見る。川崎の中1殺害事件関連。関与したらしい少年に弁護士がついた云々。聴取、捜査段階からもう、関与者への保護、弁護となるのか・・。先回り?事件後、時間がかかり過ぎたから?でも、やはり順番が違うのではないのか。政治にしろ、いろんなことで腑に落ちないことが多くなってきた。これも時代の流れなのだろうか・・。自分が頑固になってきたから? どちらもか・・。 寂しいことである。

 

                       

                                             立派な茅葺き農家と大正時代の内裏びな           

                                                       ( 2015、2、27 写 )

 


モノクロの町

2015年02月23日 | 随筆

 いろんな所で、春一番が吹いたという便りを聞く。東京もそろそろだろう。今日は朝から春霞がたなびいていて、何となくぼんやりとした天気の一日。花粉が飛ぶという予報も出ているので要注意だ。八百屋などに菜の花や蕗の薹も並んでいる。早春の暖かさで草木も少しずつ芽吹き始めたようだ。

 のんびりした陽気の下、隣りの町に行った。昔ながらの金物屋で、ネズミ捕りを買ったり、映画の看板を写真機で写したりする。この町はモノクロで写すのがぴったりのようだ。レトロの町並みを売りにしているというより、特色としている。やはり、過疎化の町なのであるが、どこか懐かしい佇まい。昭和の雰囲気があちこちに漂っているのである。

 写真に撮った看板の映画の製作年を調べてみた。 映画最後の名場面での、「 カムバック !シェーン! 」で名高い、アラン・ラッド主演の「シェーン」は、1953年(昭和28年)の製作である。 小津安二郎監督、原節子主演の「晩春」は、1949年(昭和24年)製作。長いストールの、髪から首にかけての真知子巻きの流行を生んだ、岸恵子主演の「君の名は」は、1953~54年(昭和28~29年)製作。嵐寛寿郎の「鞍馬天狗」は、1927年(昭和2年)から40本位、製作している。後の市川雷蔵などの鞍馬天狗を入れると60本以上になるようだ。びっくりする数である。嵐寛が俳優としてマキノ撮影所に入った頃の話は面白く、また、彼の一日前に入ったという片岡千恵蔵のことなど興味深い。ああ、昭和は遠くなりにけり・・か。みんなが生き生きとしていて、平和な時代。全く今と逆のようで、夢を抱き、助け合い、穏やかな時代へと進んで行った時代。

 

 そんな、遠き昭和が、やはり懐かしい。戦後の昭和しか知らないが、良いことだけを思い出そう。 飲んで、飲まれて。 迷って、酔って。 遊んで、悩んで。 笑って、泣いて。 理想を求め、突っ走って。 語って、眠って。 夢見て、騒いで・・。 はしゃいで、忘れて・・。 ♪ 飲んで~飲んで~ 飲まれて~飲んで~・・♪   サーカスのじんた(吹奏楽隊)やチンドン屋による、‘天然の美‘の楽曲のような、哀しくも美しい昭和は、遠くへ、遠くへと去りにけり・・。 テンネンでもいい。気分は もう、昭和挽歌、哀歌なのである。

  

 ああ、あの人も去った。ああ、あの人ももういないのだ。時代は変わるはずだ。哀しいけれど、とうに、時代は変わってしまった。二度と戻ってくることもない、良き昭和。懐かしく、楽しい時代だった・・。 正直だった時代。そんなことを思い出しながら、路地裏などをとぼとぼと歩いた早春の日。

 

                                  

 

                                  

                                                             モノクロの町 ( 2015、2、23 写 )                    

    

      * 通りのカラー(天然色)の映画看板は、最後の映画看板絵師と呼ばれている、青梅市の久保板観氏自身の手によるものである。

 

 


スキーと美しい山々

2015年02月17日 | 随筆

 土曜日に長野へ出かけ、昨日帰って来た。長野へ向かう日は、天気が良くて晴れていた。サービスエリアから見える諏訪湖の湖水は少し凍っていたが、立春も過ぎているせいか日中は幾分、解け始めているようだ。八ヶ岳や北アルプスの山々が白く輝いて見えた。

 日曜日は朝から雪だった。松本から車で1時間半ばかりの白馬村へと向かう。途中、ずっと大雪。湿っぽい雪である。鹿島槍を止め、白馬佐野坂のスキー場へ行くことにする。この佐野坂スキー場のある神城地区は昨年の暮れ、地震被害に遭っている。そして、このスキー場は昔、同僚たちや家族でスキーによく訪れた所でもある。二十数年振りで懐かしかった。当時はぶらぶらとゆっくり進むシングルりフトが多かったのだが、現在は殆んどが、クワッド(4人乗り)リフトに代わっていた。木造だったレストハウスなども立派な建物になっていた。

 スキー場は、悪天候ということもあってか混んではいなかった。滑っているのは殆んど若者たちだ。リフトで一緒になった若者が「御家族で来られたんですか」と声をかけてきたので、「孫たちと一緒に来て、どうにか頑張って滑っているんだけど」などと話した。

 相変らず、ゲレンデには雪が降り続き、時折、吹雪となった。眼下の青木湖が霞んだり消えたりしていた。頬に冷たい雪が吹きつけた。一度、深雪の方に暴走し、足を取られて転倒してしまった。スキー板が雪深く埋まってしまい、なかなか起き上がれず数分間もがいていた。もし救急隊にでも来られたら困るなーと焦れば焦る程、深みに入ってしまった。起き上がる時の脚力、筋力の低下などもつくづく自覚した次第である。午後には、天気も少しずつ良くなり、明るくなってきた。4時間ばかりのスキーは、悪天候でちょっと大変な面もあったが、また楽しいひと時でもあった。

 

 月曜の朝、松本の高台にある城山公園展望台から、美しく連なるアルプスの山々を眺める。空気が冷たく、凛として、澄んでいるようだ。大きく息を吸ってから、東京へと道を下って行った。

 

                               

                                                                    白馬佐野坂スキー場へ  ( 2015、 2、15 写 )

                            

           右、美ケ原                          左奥にちらっと槍ヶ岳、どーんと常念岳    須玉辺り、富士山                         

                                                                                                                     松本城山公園から         ( 2015、2、16 写 )

      

        * 今シ-ズンは雪国の積雪量も随分多いようで、越後湯沢町などでは昨年末から合計すると10メートル近くの累積積雪量となるらしい。


雲行き

2015年02月13日 | 随筆

 素晴らしい憲法第9条をもち、世界の平和にも貢献してきた理想の日本国憲法が自民党などによる改正で崩されようとしている。戦後70年を迎えようとする今、日本は大きく変質しようとしている。人質にとられた、大切でかけがえのない命さえ、政治的に利用されているようにさえ思えてしまう。「テロに屈しない」という言葉の空々しさ。

 去年の夏、ガザ地区で、市民を中心とした多くのパレスチナ人がイスラエルの戦闘機などで無惨に殺された。12月、そのイスラエルの首相と「テロ対策」で連携すると安倍首相は語る。中東和平が様々な困難を乗り越え、話し合いで模索されている中での様々な不用意な発言。それが狂信的で暴力的な「イスラム国」を、この時ばかりと刺激したことは間違いないだろう。また、アラブ各国での捉え方も複雑だと思う。

 安倍政権にはブレーキというものが付いていないようである。ブレーキに相当するものと言えば、また次の更に危うい段階に向けての巧妙な弁舌なのである。つまり、もっともらしい詭弁の上塗りが連続するのである。あれよ、あれよという間に政権は凄まじい勢いで勝手に暴走を繰り返している。誰にも止められないようになってきた。まさに、先の戦争突入で、集団的に、取り付かれたように歩み始めた如く・・。

 不安、恐怖、多数派主義、同調圧力、保守・右傾化、メディア統制、無思考、偽りの正義と戦争の美化、諜報・・。だからこそ、決して絶望してはいけない。集団化、暴走、暴力主義、国家の祭りあげ圧力に屈してはならないのだ。更に、強権的な連鎖反応が真理を潰そうとするだろう。いつも、きびしい時代にあっては、反対する者は異物化扱いもされるものだ。だが、そんなところにひっそりと、間違いなく輝くものがいくつもあるのだ。諦めてならない。連帯して暴虐に立ち向かおう。ドイツの立派なワイツゼッカー元大統領を思う・・。

 

 空の雲が形を変える。風に雲が飛ばされる。遠くの富士にかかっている雲さえ飛んでいる。雲が日射しを暗く覆う。穏やかだった空が乱れる。まとまった大きな雲がちぎれ始めた。ちぎれ雲が飛び散る。ますます黒い雲が覆ってきた・・。そんな残照の夕暮れのうすら寒い週末に。

 

    

                                          

 

                                                     

                                                                                                        雲行き   ( 2015、2、13 写 )

       

     * かつての自由民主党は政権奪取するや、愚かにも、不自由非民主党という国民不在の、全体主義的な独裁党に成り下がってしまったようだ。


魚の骨

2015年02月09日 | 随筆

 一昨日はちょっと困ったことがあった。朝、食べたアジの開きの骨が喉に刺さってしまったのである。エーヘン、エヘン。グェー 、ゲー。指を入れたり、いろいろやってみるが、どうも取れない。あいにく、ごはんは全部食べてしまったから、ごはんは飲み込めない。わざわざまたごはんを炊く気もしない。パンがあったから、飲み込みにくいが、がまんして飲み込んだ。でも、駄目よ、駄目。いなり寿司を買ってきて、飲み込んでみたが、やはり駄目。ちくちくと痛くて、気になって仕方ない。塩水やイソジン液で激しくうがいをするが吐き気がしてもう・・。ライトを当てて鏡で覗き込むが骨は見えない。コーラなどでゴックンとしてみるが、それも痛くて異常な感じのままで。

 トホホと思いながら、ネットで神妙に、いろいろと調べてみる。‘ごはん粒を飲み込むと、もっと骨が深く刺さってしまう‘とか、‘こんにゃくを使うといい‘とか、‘うがいがいい‘ ‘酢を飲むといい‘ ‘そのままほっとく方がいい‘ ‘死んだ人もいるので、耳鼻咽喉科へ早く行くに限るし、そんな患者さんも実際多いようです‘など、いろいろ考えさせられる意見がある。土曜だったし、いくつか自分なりに試してみたが、無駄だった。酢を飲んで骨を軟骨化してみるのも手だなと二回程、挑戦してみたが、酸っぱいこと、酸っぱいこと。咽るようで、咳と涙が同時に出てきた。昼が過ぎても、一向に取れる気配がない。釣り針を飲み込んだ魚や鳥の痛さを想像したりして、ぼんやりしていた。

 夕食の時間になった。おかずは、鱩(はたはた)の煮魚。しょっつる鍋ではない。鱩は雷が鳴るような冬の寒い産卵の時期に、東北などで獲れる小さくて旨い深海の魚。カミナリウオとも呼ばれる。魚の骨を見つめながら用心して食べる。骨は柔らかそうだ。腹が減ってるのと、旨いのとでつい沢山ご飯と一緒に食べた。と、どうしたことだろう、食べ終わってみると、さっきまできりきりとしていた喉かすっきり。万歳!万歳!刺さっていた骨が取れたようだ。よかった、よかった。はたはた、はなはだ結構なことで、一件落着という次第。鱩は鰰とも書く。神鳴り(雷)と神様のお蔭かな・・。偶然だろうから、‘鱩を食べるといい‘という参考意見はネットには書けないが・・。

 

 立春にもなったけれど、今日も寒い一日。午後には、はらはらと雪が白く舞ったりしていた。余寒である。そんな、寒い中、ぽつり、ぽつりと梅の花がほころんでいるのを見る。ゲートボール場前の廃屋では、薄ピンク色をした梅の花が満開。日当たりが良い上に、早咲きの梅なのだろう。これから、梅が次第に咲き誇り、そして桜の花へと徐々に移って行くだろう。花粉は厭だが、そんな暖かい春が待ち遠しい春寒の日に。

 

                             

 

                          

                                                      春寒の日に   ( 2015、2、9 写 )

        

 


薄化粧の山々

2015年02月06日 | 随筆

 昨日は、雪は降ったには降ったのだが、積もる程ではなかった。今朝方、山の方を眺めると、雪をほんの少し被った大岳山の上に、有明の月がぽっかりと浮かんでいた。

 朝、検査のために病院へ出かけようとすると、玄関近くの梅の木に一羽の黄緑色のメジロを見つける。ちょんちょんと枝から枝へ跳んでいた。白くふちどった可愛い目がこちらを見たりしていた。早春なんだと思いながら門を出る。道はかりかりと凍り、空気は澄んでいた。

 受け付けが始まる迄の間、病院の屋上に上がった。青梅や奥多摩の山々が少しだけ雪化粧している。薄化粧と言えるのかな。屋上から見渡せる山の名前を書いた表示板が新しく作られていた。今迄、そんなものがなかったので、分かりにくい山もあって困っていた。これでだいたいの山は把握できるので便利である。西の馬頭刈山から、秩父の武甲山辺りまで表示されている。病院に来ての暇つぶしが一つできたようだ。

 今日は、昨日と打って変わり、良い天気の一日となった。川鵜は、気持ちよさそうに多摩川で潜ったりしている。しかしまた、晴れ渡った空を、米軍用機が数機、間隔を置いてブーン ブーンと飛んでいる。そんな、春は名のみの早春の日に・・。

 

                    

     有明の月と大岳山          左に大岳山          中央左、一番奥に白い雲取山      多摩川の川鵜

                                                                        ( 2015、2、6 写 ) 

    * 雲取山は東京で一番高い山で、2017メートルの高さ。どこか、象みたいな大岳山は1266メートル。

 


春が巡ってくる

2015年02月02日 | 随筆

 拘束されていた後藤健二さんが救出されず、無惨にも殺害されてしまった。安倍首相の「・・テロに屈することは決してない」などの小賢しく、高ぶりな言葉が空しく流れていく。そんな愚かな弁解については、何も語る気になれない。それより、後藤さんが様々な紛争地域などに足を運び、我々に伝えようとした志をちょっとでも受けとめたいと思う。

 後藤さんは、荒れすさんだ紛争地域や貧困地域で必死に暮らす子どもたちや民衆に暖かい眼差しを向け続けた。そして、その現状を伝えようと必死に活動されてきた。現地でも慕われる人柄だったという。とりわけ、孤児を初めとする弱者に優しい人だったのだろう。最後に、解放の望みが叶わないと思った時、どんな気持ちであっただろう・・。

 卑劣なテロは決して許されない。そこには、暴力、貧困、無知、自暴自棄、不信、絶望、怨念、破壊、暗黒、虐殺、死・・などが渦巻いているだろう。女性、子どもも巻き込んだ自爆テロなどを耳にすると愕然となる。歴史を振り返れば、異民族虐殺、奴隷制度、アパルトヘイト、民族差別、経済搾取と収奪、ヘイトスピーチ・・などが繰り返されてきた。暴虐の歴史がずっとずっと続いてきた。いや、依然として今も世界で続いているのである。

 武器を捨てること。貧困をなくすこと。怨念から寛容へと努力すること。話し合いでの解決を追求し続けること。大きな格差をなくすこと。真理、真実をおさえること。差別をなくすこと。許し合うこと。自由、平和、人権尊重を求め、希望を決して失わないこと。教育や愛情が大切にされること。そんな様々なことが、紛争、貧困地域に行き渡らないでいる現状・・。愛に飢え、諦め、憎しみへと変化している。先進国と言われる国々は、今一度、冷静に身勝手だったりした歴史を振り返る必要があるだろう。歴史の上だけでなく、今、現在という時代の中での現況をも、しっかりと認識すること。それこそがテロ根絶につながるだろう。そして、憎しみの連鎖を断ち切らねばならない。

 

 節分、立春が近づくと、日中ぽかぽかとした陽気になる。原っぱや堤などには、少しだが青草が萌え始めた。枯れススキが続く日陰には、雪が少し残り、その隣りでは若草が光っている。遠くの方を眺めると、青空が何だか春のように輝いて見える。また春が巡ってくるように、初心に戻り、あくまでも非軍事で平和を希求する国でありつづけて欲しいものだと祈りながら歩いた。後藤健二さんも無念だっただろう。最後まで平和を希求しながら旅立たれたはずだ。平和な未来への思いを我々が受け継ぐということとは・・。

 

                                        

                                                                                                        ( 2015、2、2 写 )