わたしの随筆  雪  地  風

心に浮かんだことを気ままに

若い世代

2014年01月31日 | 随筆

 新しい万能細胞、<STAP細胞>の研究で小保方晴子さんが画期的な成果を上げたという。最初、誰も信じてくれない中で、こつこつと実験やデータとりに励み、数々の壁を乗り越えて大発見につなげた若手、女性研究家。他の研究機関や大学等で同じように研究に取り組んでいる女性たちに、今回の成功が大きな力を与えたそうだ。

 2013年度、理系の大学や研究機関に進む女性は、二十年前の2.2倍になった。だが一方で、女性の割合は、海外と比べると低さが目立つという。女性の割合が、欧米諸国では30~40%位だが、日本は10数%なのだ。女子が理系へ進むことや、大学院まで長く行くことへの偏見、あるいは婚期が遅れるなどというケースもかつて見られたという。そういう面からも、今回の成果は理系女子や女性研究家に力を強く与えた。更に理系に興味を持つ女性が増えてくれたらという若手女性研究者も多いそうだ。

 出産、育児、進学、就職、介護・・あるいは男女平等参画等々で、よく日本と欧米の国々とが比較される。それを見たりすると、殆んど日本は下位の所に位置していることが多いのが現状だ。やはり、そう言った男女平等の点は随分遅れいるのではと考えさせられることが多い。自分も、今迄の生き方、対応を含め、反省しつつ、少しでも男女差別のないように、残りの人生を過ごしたいと思ってはいるのだが。

 余談だが、今、日本が中韓や欧米諸国から、人権上、非難に近い抗議の声が様々上がっているのも、ただ外交政策での問題だけに限らないように思える。安倍首相の近隣諸国への無表情で一辺倒な対応や、一方では、中東、アジア、アフリカ諸国訪問での居丈高な態度を垣間見るに、どこか差別的なものがそこに見え隠れするのだ。それは、国内にあっては、経済的弱者蔑視、あるいは少数者無視につながっているのだろう。女性の雇用推進とか言ってはいるが、低賃金での過労働に結局追いやられるのではとも危惧する次第だ。常に、調子よく、ペラペラと偽りの言葉で、<しっかりと>誤魔化されてしまいそうで・・。

 とにかく、柔らかい発想に満ちた、若手女性研究者の、常識を突破したような発見に、久し振りに明るい希望が見えたようだった。がんばれ!明日へと躍進していく若い世代!封建的で、抑圧的で、強権的な縛りから解き放たれ、信念と希望をもって、明るく自由な未来へと進もう!!

 

  

 


信じられるということ

2014年01月28日 | 随筆

  日中になると日射しも、どこか春めいた感じで、ぽかぽかと暖かい。ちょうど後1週間で立春だから、朝夕の寒さももう少しの辛抱なんだと思うことにしよう。散歩しながら、先週行ってきた所のことを思い出したりする。震災復興が一向に進まなかったり、原発被害地が帰宅困難地域のままだったりと・・。きちんとした伝手のある視察訪問ではないから、そこで暮らしている人々に深く、いろいろ問いかけることは勿論できない。ただ、此処にも避難してきている大変な帰宅困難者の人達が多くいるんだと聞いたりする程度なのだ。

  町を歩いたり、電車に乗ったりする中で、ほんの少しだけ、その地域の様子を知る。海、港、川、丘、山、田畑、集落。住民は勿論、そこの気候、風土、産業、歴史がその町や村を長い間かかって育ててきた。見て回る中で、時間帯にもよるが、あまり子どもや若者の姿を目にしないとか、この辺りが昔からの中心地だったとか気付いたりもする。でも、やはり被害を受けた地域全体を見つめていると、本当に気の毒だなあと思ってくる。それが、いつまでも長く続く原発被害だと考えると、一層どうしようもない複雑な気持ちになってしまうのだ・・。

  

   都知事選挙候補者が原発推進なのか又は脱原発かなどを除いて、テレビなどで原発に関連する報道を、最近余り聞かない。NHKニュース番組に於いて、トップ扱いの報道とか見ていて、近頃、疑心暗鬼な気持ちになることがよくある。NHK会長会見報道は自ら避けるだろうしとか、これは少し、報道規制しているなとか、これは誘導のためなんだろうか、あるいは、国民の目くらましを狙ったのかなあとか・・。考え過ぎもあるだろうが、正直そうなのだ。以前程には、余り信じれれなくなってきたのだ。また、安倍政権に近い五人がNHK経営委員会に新たに入り、その一人は安倍首相の元家庭教師だった人物だと聞いたりすると、もうそれだけで、公平性そのものを疑ってしまうのだ。しかも、案の定、籾井会長のトンデモナイ、確信犯的な問題発言も露呈したのだから。

  政、官、民などによる閉鎖的な原子力ムラ社会。そういう秘密的な構造が原発事故をより大きなものにした。多くの人々に多大な被害をもたらし、現に今も、苦しませ続けている。いや、これからも苦しませ続けるという道を歩むのだろうか。あの悲惨な原発大事故の大切な教訓は、利害関係の中でまたしても忘却されるていくのだろうか・・。アベノミクスという経済利益追求と支持率優先の政権の政策の下で、原発稼働がまた振り出しに戻ろうとしているようだ。しかも、これからは、秘密保護法やメディアによる情報操作などが一層、その路線を強くガードしようとするだろう。まさしくそのことは、露骨になってきた憲法改正や、様々な強権的立法の流れと繋がっているのである。

  

  きついことだが、こんな時代は、しっかりと目を見開いて、政権の動向を注視せねばならない。それを怠った時、してやったりとニヤリとするだろう権力者たちに、社会全体が以前のように、厳しい統制をかけられ、何も言えなくなるだろう・・。油断すると、いつだって、どの国だって、善良な庶民を虐げるという、そんな危険な歴史に逆戻りするということでは何ら変わらないのだから。

 

  * 放射線の危険性を知りつつも、そこに暮らす人々は容易に移転できる訳では決してない。そこで働き、学び、生活していかねばならない。それは、そこに根差し、長い間住み続けてきた人々にしか理解し得ない、深くて尊いものなのだ。26日迄、大津で開かれていた日教組の教研集会の分科会で次のような報告があった。福島県郡山市の小学校の取り組みでは、事故直後から校内の様々な場所の放射線量を測り、低学年でも危険な場所から身を守る課題を追求してきたという。マス目を描いた紙を使って、測った線量を赤や青色で「見える化」して記入し、その見えない放射線から少しでも身を守る取り組みだという。除染も進んでいるが、これからもどんなことに気を付ければよいかを定着させたいという。小さな子どもたちに、何マイクロシーベルトでは難しいし、酷である・・。決して負けないで。

 

 


安達太良山を眺めて

2014年01月24日 | 随筆

  朝食後、宇都宮から郡山へとまた北上する。郡山駅から、いわき方面へ行こうと思っていたのだが、遅い時刻の電車しかなかったので諦めた。東北本線で二本松駅へ行くことに変更した。雪を頂いた、美しい容姿の安達太良山を眺めながら、二十分ちょっとで着いた。ここは、学生時代に兄達と、初めてスキーをやるために訪れた所。近くに岳温泉があり、その近くにゲレンデがあった。ロープを手で必死に握って、登っては、転びながら滑った。巧く滑れなかったが、南国育ちの自分には、それでも楽しくて仕方なかった。

 そんな昔のことを思い出しながら、駅近くの小川沿いのベンチに座っていた。岳温泉へのバス発車まで、3時間位の待ち時間だったのだ。これからどうしようかと考えながら、すぐ近くに見える、美しい安達太良山を眺めていた。高村光太郎のあの有名な詩が駅前の案内に載っていたし、小川の近くに智恵子の像が立っていたことも影響したのかも知らない。いや、誰だって、こんな美しい山をじっと眺めないでいられようかと思う。本当に美しい山で、新幹線でこの辺りを通る度に、窓から眺めるのをいつも楽しみにしているのだから。  「 阿多多羅山の山の上に毎日出てゐる青い空が智恵子のほんとうの空だといふ 」 

  

 小川に白鷺がじっと立っていた。安達太良山は白く化粧している。空は青く澄んでいる。すべてが美しいと思った・・。でも、この美しい自然にも容赦なく、原発は被害を及ぼしたのではないかと考えてもいた。線量計をベンチ近くの植え込みに置いて計測すると、毎時1.66マイクロシーベルトを示した。自分が住む辺りは、0.06か0.07位を示すから、やはり高い。近くの他の所を計ると、0.72とか0.69と低かった。すべて基準量からは見れば大丈夫だろうが、原発被害というものは、本当に広範囲に影響を及ぼすものだと思うことしきりであった。

 大山忠作美術館も近くにあり、健康そうな女性像の大きな彫刻が二つ、川沿いの道に立っていた。空を見上げ、羽ばたくように手を広げている。やはり、長い間バスを待つこともできないし、帰ることにした。郡山に戻り、帰りの新幹線に乗り継いだ。福島のことをいろいろ思った。津波、そして原発事故。家が失われ、田畑から山、川、湖、海と自然も町も村も多くのものが汚染された。除染作業の努力や半減期などで汚染も徐々に減ってきてはいるが、その被害は甚大だ。福島を巡る中で、いつも脳裡から離れないのは、どうしても原発被害のことである。悲しいことであるが、全てがそこに集約されるように思わざるを得ないのである。

 そこに暮らす人たちのことを、頭を下げるような気持ちになって考えた・・。本当に原発再稼動でいいのだろうか・・。経済や諸々のことを考慮しての判断だろうか・・。<中間>貯蔵施設というが・・。基地にしてもそうだが、どうもそこに暮らしている人々のことはいつも蚊帳の外みたいで・・。いろんなことを考えさせられた、旅でもあったのだ。

 乗り継ぎが良かったこともあり、二本松を11時前に出て、それから自宅迄、3時間半位で帰れた。ずんと心に重たかったのは、今日の美しい安達太良山を見たり、原発災害のことや暮らし向きのことなどを考えたこと・・。福島を応援しなければ・・。どんな風に・・。物凄く大きくて、またとても細かな問題を含んでいて・・。いろいろと思いを巡らすばかりなのだが・・。

 

 

 


郡山から会津へ

2014年01月23日 | 随筆

  今日もケイタイから少しだけ書こう。仙台を発ち、郡山市に。そこから磐越西線で会津若松へ出た。郡山駅を出ると直ぐに綺麗な雪景色に変わった。会津は中通りや浜通りと違って、随分と雪が降り、良いスキー場も沢山ある。バスで飯盛山に行き、さざえ堂や白虎隊の墓、自刃した所を見て回る。飯盛山から雪に輝やく会津の町を見渡す。素晴らしい眺めだ。隊士が遥か先の鶴ケ城を悲しそうな表情で見つめている石像が立っていた。そこが自決した場所だという。
 左手に雪を被った、♪ 宝の山、磐梯山をうっとりとした気分で眺めながら、古風な佇まいの会津から、また郡山に戻った。戻ってから、磐越東線で三春の先の船引という田村市の駅まで行ってみた。ここから、ほぼ真東、四十数キロの先に福島原発があるはずだ。暫くそこにいてから、またそこから、郡山に引き返した。電車の本数が少ないので、宿泊のことなど考慮すると仕方ないのだ。西も東も、その二つの在来線には、地元に暮らす人たちが主に乗っていたのだが・・。郡山に泊まるつもりだったが、ホテルが少なくて困り、急遽、宇都宮駅迄新幹線で南下したという訳。三十分位で着いた。明日はどうしようかなーと思案中。ホテルはダブルの部屋しかなくて、ちょっと割高だが、疲れてたのでここに泊まることにした。今日は、持参した、ガイガーカウンター・線量計を見ると、時々、自宅の四倍位の数値を示す、ハイポイントの所もいくつかあったのだが・・。放射線量のことは、また別の折りにでも。  ケイタイから


被災地、気仙沼へ

2014年01月22日 | 随筆

   朝、ホテルの窓から外を眺めると、かつて青函連絡船として津軽海峡を行き来した八甲田丸が見えた。函館港には、摩周丸もあるから対の関係だ。青森港は、降り続く雪で霞んだかと思うと、急に日が射し始めて青く輝いた。龍飛崎に行こうと思っていたが、日に数本しか近く迄通じる電車がないと聞き、止めることにした。同じように不便な下北半島に行くのも今回は止めにして、南下することにした。
  岩手県の一ノ関駅から大船渡線に乗り換え、気仙沼に向かった。しばらくすると、雪が少なくなり、何だか春のような、長閑な山里の風景に変わった。眠気もさしてきた。絵に出てくるような昔風の家も、眠い目にぼんやりと見えた。でもまた、山が深くなると、そこには雪がまだまだ積もっている。春の季節のような、雲がぽかんと浮かんだ空と、山間の日陰の冬らしい残雪の森の世界が、混ざって見え隠れしていた。     短いトンネルをいくつも抜けて、気仙沼にやっと着いた。ロッカーに荷を入れ、身軽にしてからタクシーで港に向かった。震災後、初めての気仙沼訪問だった。震災後直ぐに訪れたのは宮古だった。その時、きつかったのを思い出していた。
  運転手はいろんなことを話してくれた。昔の町の様子さえ、どうだったか忘れてきているのだと・・。海辺の方の線路は無くなったままだし、もう鉄道は通らないのでは・・。聞いてて、じーんとしてきて、うなずくしかなかった。以前とすっかり変わり果てた、港に面する所で車を降りた。建物のコンクリートの基礎部分だけが残り、どこまでも平坦な荒れ地のようになった一帯を歩き続けた。急いで避難したという高台へ上がり、ずっと港を見下していた。港には真っ白な、新しい漁船が何隻も何隻も絵の様に静かに浮かんでいた。坂を下り、またずっと歩いた。港近くに、一人でぽつんと立っていた年配の人と暫く話した。みんなやられちゃって、いつになったら本当に復興ができるのかと思っているんですよと静かに語った。今度は駅迄、いろいろと話しに聞いたことを確認するように歩いて戻った。
  駅からバスに乗り換えて不通になったままの海岸線を、南三陸町の方へずっと南下する気になれなかった。一ノ関に引き返す頃は夕方近くだった。窓の外を見ると、雪がしんしんと降り始めていた。空に雪雲がかかり、昼間とすっかり様相が変わっていた。まだ、ここは冬だった。
  学校が終わったらしく、男女の高校生が途中の駅からワイワイと、元気よく乗ってきた。急に車内が賑やかになった。ここいいですかと言って、明るそうな二人の女子高校生が前の座席に座った。二人仲良く、イヤホーンを付けて、クスクス笑ってスマートフォンを見ている。車内のどの子も、楽しくてしょうがないといった様子で互いに話したりしている。八戸の在来線でも、ドカドかと高校生が乗ってきて、元気が良かった。急に何だか賑やかになった。暗いより、明るいのがずっといい。屈託のない世代だ。
  一ノ関から仙台に来た。今夜は仙台泊である。   ケイタイから


八戸へ

2014年01月21日 | 随筆

  岩手県一ノ関を過ぎる頃から、一層真っ白な雪国の世界になった。八戸駅には東京駅からピッタリ3時間で着いた。本八戸に行き、ぶらぶらと町を歩く。駅に着いた時、八戸は冬でも雪は少ないんですと親切な駅員さんが教えてくれた通りだ。以前、訪れた時も、確かにいつも雪は少なかった。
  八戸には高台の公園に八戸城の城跡だけが残っている。城下町でもある。三日町、六日町、八日町、十一日町・・といった具合に、沢山の市日(いちび)の名が付いた町が連なっている面白い町でもある。八戸の町名は、その市立(いちだち)にちなんで命名されたと考えられているようだ。
  陸奥湊駅に行ってみると、昔からの魚市場がいくつもあり、魚屋の軒先に魚が沢山干されていた。かつて、八戸浦から千石船が盛んに出帆したという。カモメの飛び交う八戸魚港は今も賑やかだ。寿司定食を食べた、旨かった。寿司に、魚の煮物、あら汁、茶碗蒸しが付いて、ピッタリ788円。安くて、新鮮で、清潔だった。東京だったら、二倍はするだろうに。
  八戸に泊まるつもりでいたが、インターハイがあるとかで、どのホテルも満室。仕方ないので、青森へ。歌の文句ではないが、夜の函館行きの電車を降りた時から、青森駅は雪の中だった。駅前のホテルに泊する。今日は、三人の駅員さんと少し話した。どの駅員さんも青森弁で話し、実に親切な人たちばかりであった。良い人が青森も多いようだ。    ケイタイから


みちのくへ

2014年01月20日 | 随筆

 大寒という日だけあって、今朝も零下となり、随分と寒かった。しかし、昼頃には明るい日射しで、小春日和といった陽気になった。少しずつ、日も長くなってきているので、あと二十日もすれば寒さも少しは和らいでくるだろう。それまで、もう少しの辛抱だ。

 沖縄名護市では辺野古移設反対の現市長が再選を果たした。安倍政権の、地元の民意を無視した体質が露呈したとも言える結果だ。何かと言えば、自らの口でアベノミクスを繰り返し、デフレ脱却、経済成長を強調する。戦後最悪の首相ではないのかと思いたくなるような、世論無視、タカ派・保守・強行路線を突っ走る。ちょっと支持率が下がるようだと察すれば、福島視察や諸外国訪問や欺瞞的会見で煙に巻く。生活が苦しければ、景気が良くなると言われて、心が揺れもする。望んでもいない事で、政権に巧く操られもする。いろんなことで、先行き不安なんだし。でも、殆んどの庶民は、そんなアベ政権の腹の底をお見通しだ。恥知らずに、亦、いけしゃあしゃあと言ってらあ、位にしか思っていないのだ。何と庶民の願いと遊離した政治家たちの多い時代なんだろう。情けないことだが、それが今風の政治家に違いない。派手なショーみたいな党大会もやっているようだし・・。都知事選だって、そう。当選のための策略ばかりで、都政のことなんか二の次。そんな点では、最初に立候補した宇都宮けんじ氏は、都政に臨んで、真面目で立派だと思う。後だしジャンケンだの、人気だの、兎に角、当選すればいいのだからと。嗚呼・・。

 

 明日から、東北へ行くつもりだ。健康で、動けるうちに行けたらいい。安いフリ-チケットだし、天候と体調を見計らって、気ままな旅だ。<みちのく一人旅>かな。 ♪ 時の流れに逆らいながら  ひとりゆく身の胸のうち  俺は男とつぶやきながら  みちのくひとり旅 ♪

 

  冬の東北。八戸港に近い本八戸へ。昭和風の横丁があって、魚が旨くて、町並もどこか昔風で、訪ねるのも久し振りなんだし。雪の少し積もった、町を歩いて、<せんべい汁>か、魚の入った<じゃっぱ汁>を食らって、時々、写真をパチリと撮って・・。次の日は、空の具合と駅の時刻表を見てから。下北か津軽か・・?まあ、冬の旅は、無理しない方がいい。観光地でもない普通の所に降り立ったのに、何となくいい所だなあと思う時がよくある。地方は今、少子高齢化で町や村も寂しくなった所も随分多い。懐かしく、温かい灯が次第に消えていくようで・・。修行ではないが、寒さに負けず、元気に冬の旅に出よう。

 

 

 

 


成人の日

2014年01月13日 | 随筆

 今日は成人の日。河原の土手を散歩する。広場でのどんと焼きも、どうにか終わったようで、銀紙に包んだ焼き芋などを持ち歩いている人達もいる。この広場ではいろんな行事も行われる。また、いろんなスポーツをしたり、個人で凧上げなんかもしてる。昨日も若い大人の人が凧上げをしていた。長い尾を付けた角凧らしいのが、丘陵の上、ずっと先の方に小さく見える。どれ位、揚げてるか尋ねると、凧糸の巻かれた大きな器具を見て、「ちょうど500メートル」という。随分、揚がるもので、感心して見上げていた。以前にも、友人達と高く揚げているのを見たことがあるが、この人たちは特別のようだ。

 

  昼から用事で立川の街へ出かけた。街はいつものようにいっぱいの人出である。成人式に出た後だろうか、綺麗な着物や正装した若者もたくさん見かけた。清々しい印象を受ける時もある。どんな気持ちなんだろう。きっと、仲間たちと会ったりして、楽しいのだろう。おめでとう。

 

  自分のその頃は、どんな時代だったのか、思い出してみた。いろんなことをやってたので、成人の日のことなどは全然覚えていない。ただ、東京にいて、バイトしたり、友達と会ったり、いろんなことをしてたことは間違いない。でも、今思えば、やっぱり楽しかった。きついこともいっぱいあったが、でも充実してたんだろう。今考えると、ひやひやすることもいっぱいあったのかも知れないが、若かったのだろう。若い時にしかやれないこともありそうだ。子どもの時にしかやれないこと。若い時にしかやれないこと。変に、経験が足を引っぱる前に、やっておきたいこともあるのかも。若いということは、それだけれで素晴らしいということも多いはず。こういう時代だからこそ、いっそう、いろんなことにチャレンジした方が良さそうだ。人それぞれかも知れないが、失敗を恐れず、積極的に何でもやってみること。転んだら、転んだで、そこで、がんばって立ち上がるしかない。そして、強くもなれる。


とんでもない時代

2014年01月11日 | 随筆

 小春日和の今日は、久し振りに近くの丘陵に登ってみた。見晴らし台から、遠く池袋や浦和方面のビルが見えた。眼下には多摩川が見える。水量は少ないようだ。ゆったりとした気持ちになって眺めていると、自然と心も穏やかになってくるようだ。空気も澄んでいるせいか、息をしているなあと自覚できる。もう若くはないが、でも元気を出そう。

 河原近くの梅の木は、蕾が膨らみ、二、三個小さな白い花を咲かせている。モクレンの蕾も随分大きくなっている。今か今かと、寒い季節を乗り越えた、暖かな春の日を待っているようだ。

 ちょっと前に、もうすぐ八十歳になられる先輩と話した。世の中、変になったねー。何から何まで、こんなにひどくなるとは思いもしなかった。考えられないようなことが、勝手にどんどん決まっていく。暴走にブレーキをかけられるような、自民党内の良心的な政治家もいなくなった。憲法違反なんかへっちゃら。やりたい放題。安倍も政治家もメディアも国民も、みんな駄目になっちゃった。おかしいぞと首を傾げる若者も減った。ケイタイなんかを見てるだけ。お先、そんなに長くは無いだろう我々が、どうのこうのと、もう言いたくはないが・・。何も声を上げなかったら、向こうの思う壺なのに。これから先の子ども達は可哀そうだ。大バカ者たちが、勝手放題にやってる、とんでもない時代だ。云々。

 やっぱりそうなんだ。そういう捉え方でいいのだ。間違ってはいないのだ。しっかりと根本をおさえた認識に立つべきなのだ。毎年、正月三箇日には、祈祷のうち続く名刹本堂で、お札に名を書いたりと大忙しの大先輩。こんな時代のせいか、今年は例年よりもっと参拝者が多かったという。

 

 * 瀬戸内寂聴が特定秘密保護法案に対し、「若い人たちのため、残りわずかな命を反対に捧げたい」と昨日、批判の声を上げた。日本は戦争のできる国に一途に向かっていると。母と祖父を爆撃で亡くした彼女は、軍靴の音が大きくなっていった、あの暗く、恐ろしい時代の戦前に戻りつつあると言う。「私は、残りわずかな命を秘密法反対に捧げます。でも、私たちのように戦争を生き残った一握りの人間たちだけだと、とても戦えません。若い人たちこそ、歴史の過ちをもう一度振り返ってみてほしい。そして、立ち上がってほしい。」と語る。 我々も大きな視点に立って、信じる方向へ、堂々と最後まで生きて行くという気概が必要なんだろうと思う。若者も、未来へ勇気をもって、くじけずに生きて行け。人間らしく。くよくよせず。            なるようになる 心配するな (一休和尚)  

  

 

 


立川の街

2014年01月05日 | 随筆

 今日は小寒。旧暦では迎春ということで、もう春を迎えたが、季節の上ではこれから寒さがいよいよ厳しくなってくる。寒さに負けず、元気に過ごしたいと思う。さっき散髪してきたばかりで首筋がすーすーした感じである。年末は忙しくて行けなかったのだが、髪を切ったら何だか気分もさっぱりしてきた。

 昨日は立川の街をぶらぶら歩いた。この街も以前と随分変わり、駅の建物の中の南北通路や北口は特に混み合う。こうなるずっと以前は、駅前直ぐの所に高島屋のデパートがあった。近くに米軍立川基地が見えるその屋上には、小さな遊園地があり、日曜など家族連れで賑わっていた。また昭和41年頃の立川駅は平屋造りの駅舎だった。その時分、大学の寮から砂川闘争支援で立川基地に来た。いろいろな経過があって、最終的に砂川町の基地拡張は中止となり、その後もずっと長い間、畑の中に砂川闘争の鉄塔だけは建っていた。後に、基地は全て返還された。その後、基地跡が国・都・市に3分割され、その一つとしては昭和記念公園などになった。かつて基地もあった、歴史ある立川の街。

 そんな昔のことを考えながら、駅近くを歩いても、もう殆んど、その頃の面影はない。北口のちょっと離れた高松町に行くと、まだその頃の雰囲気は若干残っている。駅前のビックカメラに入ってみた。若者を中心とした客でごった返していた。一階はスマートフォンなどの情報機器を主に売っているようだ。客がイヤホーンを付けたり、指で画面をタッチしたりしている。便利な物なんだろうが、そんな機器のことはチンプンカンプンだし、興味もない。二階に行くと、デジタルカメラなんかが沢山並んでいる。ここは、まーまーの人数。いろいろ見たが、どのカメラも欲しいとは思わない・・。8階へ行く。ゲームやおもちゃ売り場。ここは中・高・大生が多い感じだ。正月で家も飽きたので、面白いゲーム機器でも物色しに来たのだろう。ゲーム機器のことも、自分には異次元の世界。どうなってるのか、さっぱり分からない。プラレールのおもちゃを眺めていた。

 日の落ちそうな駅前で、西の空の三日月とモノレールをカメラでパチリ。ぐるりと辺りを見渡すと、デパートや旅行店や銀行などの建物がライトやネオンで光っている。西の方を見下ろすと、ずっと先へと続く通りは人も余り通らず、静かなようで、ちょっと前迄、そこにあったはずの個人商店の並びはすでに無く、全て白い板に覆われていた。蛍光灯のような光で、その辺りが寂しそうに見えた。また新しいデパートが建つようだ。

 町も店も物も人も明かりも時代と共に変わる。好みも傾向も考えも文化も政治も経済も変わる。歌も歌手も映画も政治家もみんな変わった。世の中が変わった。しかも、恥も外聞も無く、偽物もいっぱい含んで・・。でも、立川の街はずっと好きだ。

  いつ迄も信頼できる、真実で変わらないもの・・。心のあるもの・・。三日月と濃紺のような夜空を見上げ、ため息をつきたいような気持に襲われた。またいつか、どこかへ放浪の旅に出たいなあと思った。


謹賀新年

2014年01月01日 | 随筆

  2014年の年が明けた。朝から良い天気に恵まれ、気持ち良く初詣ができた。河原の土手を歩きながら、青空に揺れる凧を見上げた。子ども時分、正月頃になると、はね突きやコマ回しなどよくやったものだ。楽しかったー。これからも、そんな昔からの遊びが廃らないような、平和な落ち着いた時代であって欲しいと思う。この一年が良い年であるよう願うばかり。              元旦