キリスト教に限らず、本来救いを求めて行ったはずの場所で、
心に傷を負う人が出るならば、
それこそが罪と言わずして、何が罪でしょう・・・・・
内村鑑三の「無教会主義」は、今こそ、その眩しい真理の光を放っているように見えます。
それは、21世紀の今日、再び注目されるべき思想、哲学であり、
宗教全般へのメッセージとも取れるものではないでしょうか?
http://www.geocities.jp/ytpht168/koenkaihokoku.html
「福音の前進と無教会」講演会報告
以下一部転載させていただきます。
教文館版『内村鑑三全集』
①根本理解として
「キリスト教は制度ではない。教会ではない。それはまた信仰箇条ではない。教義ではない。神学ではない。
それはまた書物ではない。聖書ではない。キリストのことばでもない。
キリスト教は人である。生きたる人である。
きのうも、きょうも、永遠(いつまで)も変わらざる主イエス・キリストである。」
(「キリスト教は何であるか」信15巻52頁)
②「無教会主義のキリスト教」
「無教会主義とは、教会はあってはならぬということでない。
有るも可なり無きも可なりということである。
神の生命たるキリスト教が制度でありオルガニゼーション(組織体)であるべきはずがない・・・
信者は教会員ではない。
彼は神の風に吹かれて霊によりて生まれたる者である。
彼が無形たるや言うまでもない。・・・
そして形が神を圧する時に、神は生きんがために形にそむき、これと離れ、これを捨てざるを得ない。
無教会主義はかかる場合に起こる主義である。」
(「無教会主義について」信8巻36頁)
洗礼・聖餐に関しては「われらは信仰によりて救わる。
行為(おこない―儀式的)によりて救わるるにあらず。
これにあずかるはよし。あずからざるもよし。
要は、十字架につけられし神の子の贖罪を信ずるにあり。
その他のことは細事のみ。」
(「洗礼・聖餐廃止論」信14巻201頁)
③「日本的キリスト教」
「ひとりの日本人が真に独立にキリストを信じるとき、彼は日本的クリスチャンであり、
彼のキリスト教は日本的キリスト教である。・・・
日本人クリスチャンは全キリスト教を私するわけではないし、
クリスチャンになることによって新しいキリスト教をつくるわけでもない。
彼は日本人であり、かつクリスチャンである。それゆえ、彼は日本人クリスチャンである。」
(「日本的キリスト教」『内村鑑三英文論説翻訳篇下』306頁)
☆
無教会の集会を持っておられる方々は、今もいらっしゃるのですね(^^)
心に傷を負う人が出るならば、
それこそが罪と言わずして、何が罪でしょう・・・・・
内村鑑三の「無教会主義」は、今こそ、その眩しい真理の光を放っているように見えます。
それは、21世紀の今日、再び注目されるべき思想、哲学であり、
宗教全般へのメッセージとも取れるものではないでしょうか?
http://www.geocities.jp/ytpht168/koenkaihokoku.html
「福音の前進と無教会」講演会報告
以下一部転載させていただきます。
教文館版『内村鑑三全集』
①根本理解として
「キリスト教は制度ではない。教会ではない。それはまた信仰箇条ではない。教義ではない。神学ではない。
それはまた書物ではない。聖書ではない。キリストのことばでもない。
キリスト教は人である。生きたる人である。
きのうも、きょうも、永遠(いつまで)も変わらざる主イエス・キリストである。」
(「キリスト教は何であるか」信15巻52頁)
②「無教会主義のキリスト教」
「無教会主義とは、教会はあってはならぬということでない。
有るも可なり無きも可なりということである。
神の生命たるキリスト教が制度でありオルガニゼーション(組織体)であるべきはずがない・・・
信者は教会員ではない。
彼は神の風に吹かれて霊によりて生まれたる者である。
彼が無形たるや言うまでもない。・・・
そして形が神を圧する時に、神は生きんがために形にそむき、これと離れ、これを捨てざるを得ない。
無教会主義はかかる場合に起こる主義である。」
(「無教会主義について」信8巻36頁)
洗礼・聖餐に関しては「われらは信仰によりて救わる。
行為(おこない―儀式的)によりて救わるるにあらず。
これにあずかるはよし。あずからざるもよし。
要は、十字架につけられし神の子の贖罪を信ずるにあり。
その他のことは細事のみ。」
(「洗礼・聖餐廃止論」信14巻201頁)
③「日本的キリスト教」
「ひとりの日本人が真に独立にキリストを信じるとき、彼は日本的クリスチャンであり、
彼のキリスト教は日本的キリスト教である。・・・
日本人クリスチャンは全キリスト教を私するわけではないし、
クリスチャンになることによって新しいキリスト教をつくるわけでもない。
彼は日本人であり、かつクリスチャンである。それゆえ、彼は日本人クリスチャンである。」
(「日本的キリスト教」『内村鑑三英文論説翻訳篇下』306頁)
☆
無教会の集会を持っておられる方々は、今もいらっしゃるのですね(^^)