生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

ジェットエンジン技術(19)

2024年09月15日 07時03分01秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
第22章 第5世代(2000年代)の民間航空機用エンジン

 この時代の開発機種の代表例はBoeing787 Dreamlinerで、Boeing767と777の一部を後継するための次世代中型ジェット旅客機として開発がすすめられた。特徴は、機体が有する多くの機器の電動化で、大容量のリチウムイオン電池の採用により、その充電のためにエンジンからの抽出動力の割合を大幅に増したことであった。しかし、この開発は当初から難航し、商業飛行の時期が大幅に遅れるとともに、使用開始から数年後の2013年には、電池からの発火事故が複数回起こり、世界中で一時期全便飛行停止処分を受けることになってしまった。

 Boeing787は長い航続距離が可能な中型機として登場し、従来は大型機では収支の採算が厳しいとして特定空路にしか採用されなかった国際間長距離航空路線の多くが開設可能となった。2004年にローンチ・カスタマーとして全日本空輸が50機を発注して開発が始められた。開発当初のスケジュールでは2008年5月に連邦航空局(FAA)の型式証明取得を予定し、全日本空輸(ANA)に引き渡す予定であった。ANAは8月の北京オリンピック開催時に東京- 北京間のチャーター便に使用すると発表していた。
 しかし、新素材を用いた胴体や多くのシステムの電子化を採用したエンジンなどの新設計と、国際共同開発での足並みが揃わなかったことで、開発が大きく後れ、初飛行が行われたのは当初の予定から2年以上遅れた2009年12月であった。

 エンジンは、RRのトレント1000と、GEのGEnxが採用されたが、この2種類のエンジンの交換が可能で、将来も異なるメーカーのエンジンと取り替えることが可能となる設計を初めて採用した。
 GEnxは、当初からBoeing787と747-8用に開発され、1970年代から多用されていた既存のCF6を置き換えることを予定し、2008年2月に最初の運転試験が行われた。
 第1の特徴は、スタータジェネレータがエンジン始動と発電の両方を行うことで、従来スタータタービンにより行われていたエンジン始動の電動化、空調用のエアコンやアンチアイシング装置などもエンジンからのブリードエアを使わず電気化することとした。このために、エンジン圧縮機からの抽気のほとんどを廃止することが可能になり、燃費が向上した。さらに、ファンケースやファンブレードなどに複合材を使用し、大口径エンジン(787-8用ファン直径は2.82m)での軽量化に成功した。


図22.1 GEnxエンジンの先端技術要素(11)


図22.2 GEnxエンジンの各社担当部位(11)
 
 一方で、中型機用に1990年代に開発されたV2500エンジンは、派生型が次々と発表され、中型中距離機のAirbusA320の驚異的な伸びにより生産台数が大幅に予想を超えて、日本のエンジン3社の売上高に大いに貢献した。また、LCCやリース会社所有のエンジン台数が増加して、オーバーホウルのビジネス形態もめまぐるしく代わった。すなわち、エンジンメーカーが、運行時間数に対するオーバーホウル費用を受け持つことであり、このことは、運行中のエンジンデータが十分に蓄積されたことと、設計の進歩により、部品寿命が正確に見積もれるようになったことに起因すると云える。        

22.1 日本国内の状況の変化

 この時期の国内のエンジン3社の動向は、それ以前とは様変わりになってゆくことになる。それは、各社にとって赤字続きのお荷物だったエンジンビジネスが、一気に稼ぎ頭になったことである。原因は3社共通で、2000年前後からV2500エンジンのオーバーホウル台数が急激に増加し、採算性の良い交換部分の販売数が急激に伸びたことと、同エンジンの月間の新製台数の飛躍的な増加で、量産効果により製造単価が大幅に低減したためであった。
 このために、3社それぞれの将来に対する思惑から、それまでは歩調を合わせていた動きが俄かに別々の動きを始めることになっていった。新生エンジンの開発に巨額の費用が掛かり、かつその回収に少なくとも15年間がかかることには変わりはなく、国家補助を継続的に受けることのできるJAECのもとでの参加に変わりはないのだが、GEのGEnxにはIHIとMHIが参加し,RRのTrent1000にはKHIとMHIという棲み分けになった。IHIの思惑はGEとの繋がりを一層強固にすること、KHIの思惑は部品ではなく、常に特定な部位をモジュールとして基本設計から受け持つこと、MHIは燃焼器分野での最新技術を習得して、発電用ガスタービンへの応用を図ることと推察される。しかし、日本としての総合力が分散されることにより、担当するワークシェアーの割合は、V2500の23%から、それぞれ14%と15.5%に減少した。

 1970年に国の大型プロジェクトとして、巨費と10年以上の歳月をかけて、3社一致協力のもとに目指していた、世界市場に通用する新型のエンジンを日本主導で開発をするという夢は、このような分裂とシェアーの減少とともに、エンジン全体の基本設計にまで立ち入るチャンスはほぼなくなってしまった。

 この時期の世界の航空機用エンジンの国別の売上高のシェアーを図22.3に示す。


図22.3 世界の航空機用エンジンの国別の売上高のシェアー(12)
 
 この中にあって、次世代のエンジンとして更なる高バイパス比の実現に向けて、従来研究がすすめられてきた多くのコンフィギュレーションに対して、実現に向かった絞り込みが行われた。その中から、民間航空機用エンジンとしては、もっとも堅実なギアード・ターボファンが選ばれるようになった。


図22.4 高バイパス化に向けた各種のコンセプトと課題(12)

ジェットエンジンの技術(18)

2024年08月30日 08時55分10秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
第21章 第4世代(1990年代)の民間航空機用エンジン

 この時期は、大型航空機用エンジンにとって画期的な発展時期であった。すなわち、従来は3発ないし4発であった大洋横断の大型機が、1980年代後半から2発のエンジンで可能(ETOPS)になったことである。さらに、この間に設計と製造技術の進化により十分な安全性が証明されたために、従来は長距離無着陸飛行の安全性を商業運航の実績で示さなければならなかった認可を、商業飛行の当初から得られることになり(Early-ETOPS)、エアラインの収益性向上に大いに貢献することになった。
 このことは、エンジンの信頼性の向上と、大口径での軽量化構造を実現した強度設計の進歩により達成された。エアラインの直接運航費が軽減し、旅客数が一気に増加した。第4世代は、このような条件に適合するエンジンを指す。

 ETOPS(Extended-range Twin-engine Operational Performance Standards)とは、エンジン2基の旅客機で、仮にそのうちの1基が飛行中に停止した場合でも一定時間以内に代替の空港へ到達することが可能な航空路でのみで飛行が許されるとして、国際民間航空機関 (ICAO) が取り決めたものであり,緊急時にエンジン1基のみで飛行する場合の飛行可能な時間を定めたものである。
 エンジンの信頼性が低かった時代には、双発旅客機は空港から100マイルまで、1953年からは空港より60分以上離れたところを飛ぶことは認められていなかった。このため、大西洋や太平洋を最短距離で横断するような航空路に双発旅客機を就航させることは事実上できなかった。東京からニューヨークまでの飛行ルートは、アリューシャン列島沿いに飛べば、中型機ならば可能であったが、緊急着陸の許可が可能ではなく実用性はなかった。各ETOPSにおける実際の飛行可能範囲を図21.1に示す。ETOPS180では、世界中のほぼすべての2都市間を最短空路で運行することが可能になった。

 その条件が、1985年に120分までと大幅に緩和された。1980年代のETOPSの認定は、機体とエンジンの組み合わせにより旅客機1機ごとに個別で認可を受ける必要があり、同じ機種でもETOPS認定と未認定の機体が混在することになった。この時代、例えばロンドンのヒースロー空港では、同じ航空会社の同型機でも、コックピットの下に「ETOPS」の文字が記されている機体と、そうでない機体が混在していた。






図21.1 ETOPS 60 ,120,180での飛行可能範囲(10)

 そして、大西洋線へBoeing767の航続距離延長型を導入する航空会社や路線が増加することになり、767の受注数は次第に増加し、1989年の受注機数は96機となった。その後胴体延長型の767-300ER型の開発も行われ、1989年には、Boeing767による洋上飛行制限は180分までに緩和された。

 その後、エンジンの信頼性がさらに向上すると、ETOPS-207という規定が設けられ、航続距離の長い双発旅客機は、南極大陸など一部を除き地球上すべての地点間を最短距離で飛行できるまでになった。

 この間、機体については767型の胴体の径を広げて、横に2通路で9~10席を配置できる、より太い真円断面を用いた大きな胴体の採用が望まれ、767-Xに対してユナイテッド航空が1990年に34機発注し、その新たな機体名がBoeing777と決定された。続いて全日本空輸、ブリティッシュ・エアウェイズ、日本航空も発注した。このシリーズ最初のモデルは、最大航続距離は5,210海里(9,649 km)という長距離型であった。

 B777機用のエンジンはP&WのPW4000シリーズ、GEのGE90シリーズ、RRのTrent900シリーズから選択でき、ローンチ・カスタマーでもあるユナイテッド航空はPW4000を選択し、1994年PW4077エンジンを搭載したボーイングの試験第1号機が初飛行に成功した。IHI他が共同開発に参加したGE90はブリティッシュ・エアウェイズに採用された。
 この期間に就航を始めたBoeing777の機体とエンジンによる航続距離は以下のようになっている。

B777-200   1995年就航 5235nm PW4077エンジン
B777-200ER 1997年就航 7700nm PW4090エンジン
B777-200LR 2006年就航 9450nm GE90-110Bエンジン
B777-300   1998年就航 5940nm PW4098エンジン
B777-300ER 2004年就航 7930nm GE90-115Bエンジン


 これらのことによって、長距離の洋上飛行の経済性は、著しく向上することになった。
また、この期間には次世代のエンジンの研究が盛んに進められた。V2500の母体であるIAEは、1994年に、ADP(Advanced Ducted Prop)エンジン構想を発表した。このエンジンは、その前に設計されていたSuper Fanエンジン(ファンを大口径にするためにLPタービンとの間に減速ギアーを設置する)の派生型で、次世代のターボプロップ機のエンジンとして有望視されていた。

21.1 日本の産業育成政策
 V2500開発の成功を確認して、日本が参入すべき次の目標は、100席以下の小型機であるとの見解が纏められ、1996年4月に、JAECはIHI,KHIと共にGEとCF34-8Cの国際共同開発の基本契約書に調印した。日本のシェアーは30%で、部品製造とモジュール組立てまでであり、全体組立ては全てGEで行われた。このエンジンは、ボンバルディアCRJ700等に搭載された。


図21.2 小型輸送機用エンジン(CF34-8)担当部位(9)

 また、将来の超音速旅客機に備えて、「超音速輸送機用推進システム研究開発」(HYPRプロジェクト)が通産省工業技術院の産業科学技術研究開発制度により1989年から10年計画で開始された。飛行速度マッハ5までをカバー可能な推進機関で、亜音速からマッハ3までは通常のターボファンエンジンだが、超音速では空気吸入口に設けられたモードバルブの切り替えによりラムジェットエンジンになるという画期的なアイデアによるエンジンの試作と試験運転を行うものであった。
 さらに、超音速飛行時の騒音対策を研究するための「環境適合型超音速推進システムの研究開発」(ESPRプロジェクト)が1999~2004年にかけて継続された。低騒音、低NOXの要素技術に関する研究計画は順調に推移したが、実機適用のプロジェクトは、その後20年たった現在でも、まだ立ち上がっていない。

 一方で、Post-V2500の民間エンジン開発として小型エンジンやIAEの新エンジン開発への参加を踏まえて、「環境適応型航空機用エンジン研究開発プジェクト(通称エコエンジンプロジェクト)」が2003年から環境適応技術開発を中核に経済産業省の支援を受けてNEDOプロジェクトとして立上げられた。しかし、これらの研究開発事業はすべて完了し、超音速輸送機用推進システム技術研究組合は2012年に解散された。
 このような、各界の一連の努力により、エンジン全体設計の技術面については、かろうじて系統化を保つ努力が続けられた。

国際エンジン開発から得られた教訓(その2)競合他社とのヒトの異動

 V2500エンジンの開発が佳境に入った199X年に、突然GEからGE90エンジンの共同開発の話が持ち込まれた。当時、欧米のビック3社はそれぞれ日本のエンジン3社(IHI,KHI,MHI)と個別にアライアンスを組む戦略を進行中で、P&WがドイツのMTUと日本のMHIの3社連合を設立してしまった。
 当時のMTUはGE90のLPタービン担当で、GEはMTUのシェアー分を丸ごとIHIへ移管することを試みたのであった。その時点で、基本設計は終了しており、詳細設計が始まったばかりのタイミングであったが、MTUの技術は一切継承されなかった。

 GEとのアライアンスは、IHIにとって好都合で早速に合意が成立したが、問題は設計のスピードだった。既に、試験用の初号機の部品製造にかかっていた他社に追い付かなくてはならない。しかし、設計技術者の総数は、当時佳境を迎えていたV2500と、このプロジェクトの二つを同時進行は全く無理な状態だった。 
 私は、当時V2500エンジンの日本チームのチーフデザイナーだったのだが、突然にGE90のチーフエンジニアを兼ねることになった。V2500の設計拠点は英国中部のRR工場と、米国コネチカット州のP&W工場であった。GE90の拠点はオハイオ州のシンシナティーにあり、この3か所を巡る旅を続けることになった。
 このGEの工場を始めて訪問した時に驚くことがあった。事務所の入り口で鉢合わせしたのは、なんとRRでV2500の設計を担当していたかつての仲間だった。彼らは、GEに引き抜かれたのだが、「一時GEで勉強をするが、やがてRRに帰るつもりだ」と話してくれた。民間航空機用エンジンの設計技術者の世界は狭く、このような偶然の出会いは、その後も何回かあった。やはり、エンジン技術の系統化は、ヒトから人へと云うことができる。


ジェットエンジンの技術(17)技術の伝承について

2024年08月28日 08時01分34秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
ジェットエンジンの技術(17)
第20章 ヒトから人への伝承

 技術の系統化すなわち伝承の方法は、大きく二つに分けられる。それらは、人から人への直接伝承と、書籍や実物などのモノを介する伝承になる。人類が文明を築き始めてから延々と続くこの現象の歴史について、P.F.ドラッカーは、大きく3段階に分けている。(1)
 人類の文明は、農耕と灌漑技術の伝承から始まり、そこから都市化、政治、軍事などの社会イノベーションが始まった。この時代は1400年間も続き、その間は徒弟制度などによる人から人への直接伝承だった。そして、次の社会イノベーションは印刷機の発明による大量の印刷物による技術の伝承で、この時から技術が社会と経済の中心に据えられて、近代技術革命の時代になった。現代は3回目の社会イノベーションがSNSにより始まっている。つまり、再び人から人への伝承の時代に戻ったことになる。現代の様々な科学技術の系統化を見ると、多くの場合にはモノ(印刷物もモノの一つ)を介する伝承が多い。

 ジェットエンジンの場合にはどうであろうか。私の経験では、それは圧倒的に人から人への伝承だった。それは、設計、製造、調達、保守の全技術領域にわたって共通しているように思われる。スマホなどの電子製品は、初期の製品の市場投入後に、その機能もハードも大きく進化する。それは、世界中の多くの人がモノを介して得た知識と知恵の進歩によって成されている。それは、ジェットエンジンとは大きく異なる。
 戦後の日本には「空白の7年間」という期間があったが、人から人への技術の伝承は、確実に行われた。それは、大学教育の場と、社内外におけるman to manの会話からであった。ここでは、当時海軍航空技術廠に在籍したIHIの永野副社長と、中島飛行機で誉のエンジン設計の一部を担当した今井専務取締役との思い出の一端を記す。

20.1 永野副社長との思い出

・空技廠でネ20の開発に携わった永野少佐から25年後の私へ、

 私は1970年に石川島播磨重工に入社し、当初から民間エンジンの研究と開発に従事した。FJR710の設計システム班長となった私は、1971年に永野副社長と岡崎教授(東大航空学科)から月例の指導を受けることになった。エンジン設計の進捗を説明して、過去の経験と現代航空工学からの指摘を受けるためであった。そこでは、当時の開発作業のスピードの話を何度も聞かされた。「なぜ、お前たちは初号機の設計と開発に3年間もかかるのだ、やれば半年でできるはずだ」というわけである。「やればできるはずだ」の言葉は、その後の開発プロジェクトで何度も役に立った。

・昼食時の会話

 毎回の指導会の後は、ゲストハウスでの昼食だった。個々の話は忘れてしまったが、仏教関係の話が多かった。唯一覚えているのは、通勤の途中でいくら長距離を歩いても運動にはならない。心臓がドキドキする早さでなければ疲れるだけだ、でした。
 飲食を伴う際の会話は特別の意味がある。私は、この時以来そのことを実行し続けていた。最近は、Zoomなどによる遠隔会議が多いようだが、それでは、ヒトから人への伝承は、半分も充たされないと推察する。

20.2 今井専務取締役との思い出

・入社を決めたひとこと

 私が今井さんに最初にお会いしたのは、修士2年生のリクルートで当時の石川島播磨の田無工場に見学に行った時だった。私に入社の意志は全くなく、友人に誘われてのことだった。しかし、その時話をしてくださった当時の今井副事業部長の、「ジェットエンジンの研究と開発は技術者にとって、これほど面白いものはない」が、気持ちを一転させ、友人を押しのけて入社を決めてしまった。ロシア語のジェットエンジンに関する本を翻訳された工学博士が身近に感じられたからであった。

・さんざん政府の補助金にお世話になったのだから、

 私が陸海空のミサイルに用いられる個体ロケットを得意とする新会社(当時、C.ゴーンがCEOになった日産自動車の独占生産だったが、IHIが営業譲渡を受けて、私は新会社設立の準備室長から続けて、初代の代表取締役を担った)に移ってからは、今井さんから頻繁にメールが来るようになり、年に数回のペースでお宅へ伺うことになった。最初の言葉は,「ミサイルとジェットエンジンは防衛庁にとって全く違う製品になる。一旦国際間の緊張が高まった時に、どうするかを常に考えておきなさい」だった。
 そして、十数年後の定年間近になった時には、「さんざん政府のお世話になったのだから、これからは社会に還元することを考えなさい」との再三の会話から、デザイン・コミュニティー・シリーズという名の小冊子の作成(前月には、第24巻を発行)と、博士号の取得を目指すことになった。「博士の資格は、会社では全く役に立たないが、退社後には、JRのグリーン切符のように、使い勝手が良いので、絶対に取っておきなさい」だった。

「やればできるはずだ」、「これほど面白いものは無い」、「これからは社会に還元することを考えなさい」の三つの言葉は、何年経っても忘れることはない。

参考文献
(1)P.F. ドラッカー「テクノロジストの条件―ものづ くりが文明をつくる」ダイヤモンド社(2005)

八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候(38)標高1130mでのブルーベリーの収穫(その2)

2024年08月01日 09時29分22秒 | 八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候
八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候(38)         その場考学レポート番号 #XX

場所;一紀荘 2024.7.31                                                
TITLE: 標高1130mでのブルーベリーの収穫(その2)

 標高1130mの我が家(一紀荘)では、建築当初の2000年に外房の千倉から、ブルーベリーの苗を二本移植した。多分レッドアイ系と思い、地元の植木屋でハイブッシュ系の苗を2本買って、一緒に植えることにした。結果的には、これが大成功で、先ずは収穫時期が7月から10月まで続くことになる。

 その時から25年が経った。収穫は毎年続けているが、年によって収穫量はかなりの増減がある。現在までの最高値は、H28の23.3kgで、最小値はH30年の1.1kgだった。



 何故、これほどの差が出るのだろうか。私の推定では、花が満開の時期の気候だ。低温で雨が続くと受粉がうまくいかないのではないだろうか。一時は、受粉してくれる蜂や小さな虫が減った為と思ったのだが、蜂の数は過去に比べて大幅に減ったのだが、昨年などは結構な収穫量だった。

 今年は、とにかく猛暑で、標高1130mでも昼間は結構暑い。しかし、朝晩は20℃以下にさがるので、このログハウスにはエアコンはない。しかし、そろそろそれも考えなくてはならないようだ。



 ちなみに、この写真は前回の7月後半のもので、まだ一本だけが数粒のブルーなになったばかりで、他の木の実は、緑のままで小さい。夕方の水まき時で、毎回小さな虹ができる。

八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候(37) 標高1130mでのブルーベリーの収穫(その1) 

2024年07月31日 12時28分20秒 | 八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候
標高1130mでのブルーベリーの収穫(その1)

 標高1130mの我が家(一紀荘)では、建築当初の2000年に外房の千倉から、ブルーベリーの苗を二本移植した。千倉の畑に生えていた木から、隣の畑に芽生えが出てしまったので、それを移すことにしたのだった。
 千倉のブルーベリーは、当時20年近く経った老木で、実の付きは余り良くなかったと記憶している。若木を育てたいのだが、場所がない。当時は、狭い畑で色々な野菜を作る方が面白かった。野菜の他にも、妹は、綿花を栽培して、織物用の糸をつくっていた。草木染めにするためだった。
 
 移植に当たっては、実用書に従って、きっちりと土壌の酸性化をおこなった。また、多分レッドアイ系と思い、地元の植木屋でハイブッシュ系の苗を2本買って、一緒に植えることにした。結果的には、これが大成功で、先ずは収穫時期が7月から10月まで続くことになる。とにかく、木が大きくなると、半日では収穫できないので、実る時期がずれるのは有り難い。

 既に25年が経った今でも、最初の木は最大の収穫量を誇っている。周りには、子供と孫の木が育っている。主だった木でも10本ほどになるが、小さな孫の木の数は数えていない。最近は、芽生えを抜いてしまう方が多い。残した孫の木の収穫量は、まだ100グラムに満たない。
しかし、過去に毎年周囲に生える新しい木を根分けして、ご近所にあげた木の収穫量は、これにも及ばない。覚えているだけでも5件なのだが、成功例は東京の烏山まで持ってきた1本だけのようだ。やはり、土壌の改良が不完全だったのではないかと思っている。

 去年の収穫量は、全部で12.5kg。最近は生食に飽きて、もっぱらジャム造りになっている。昨年は45瓶つくったが、これでは少し少ない。毎年、配るお宅が増えるし、一紀荘への訪問者には、お土産に渡すことにしているので、自家消費分が、翌年の収穫期まで持たない結果になっている。



 ところで、実際に実った数は、この1.5倍位あるのではないだろうか。第一は、不在中に実りすぎて落果する分だ。最盛期には2週間も留守にすると、地面にびっしりと落ちてしまっている。何度か、知り合いに収穫を頼んだこともあったが、やはり毎回では気が引ける。
 第2は、鳥の餌だ。しかし、これは意外に少ない。一時期網をかけた時期があったが、それは数年で止めた。小海線の下には、多くの農家でブルーベリーが栽培されているのだが、どこも立派な網で囲っている。何故なのだろうか。
年によっては、スズメバチの活動が活発で、朝から夕刻の暗くなるまで、数匹のスズメバチがうろついていることがある。そうすると、収穫はおぼつかない。しかし、網を張っていても、その中にスズメバチが入ってしまったら、これでは、その日の収穫は諦めなくてはならない。
 第3は、10月以降も実はなるのだが、小さくて味も落ちるので、そのままにしておく。



 先日あることに気づいた。野鳥には、木の実を好む種類と、虫を好む種類があるようで、ブルーベリーを突っつく野鳥は極端に少ない。見ていると、近くのジュンベリーの木には、朝晩必ず数匹が訪れる。勝手に想像をすると、実の中に種がある実を好んで食べるように思えてくる。つまり、ダ―ウインの進化論の拡張解釈をすれば、種は小鳥に運ばれなくてはならないので、小鳥が好む味の実の子孫だけが、他所での繁殖が期待される。
 一方で、ブルーベリーのように、種なしで、根を伸ばして、その先で子孫を増やすタイプは、実を小鳥に食べられない方が良い。むしろ、近くで食べて、糞尿という肥料を残してくれる小動物に食べてもらうと好都合だ。烏山の我が家の庭でも、金柑と枇杷は鳥が突っつくのだが、ブラックベリーやラズベリーを突っつく小鳥はいない。

ジェットエンジンの技術(16)第3世代(1980年代)の民間航空機用エンジ

2024年05月19日 06時51分25秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
ジェットエンジンの技術(15)

第19章 第3世代(1980年代)の民間航空機用エンジン

 この時代の特徴は、高効率の高バイパス・ファンエンジンの設計手法が確立し、多くの改良型と新型が国際共同開発の資金をもとに盛んに行われたことと言えよう。また、主要都市間を頻繁に運行するために、超大型航空機と比べて中小型機の市場の開拓が進み、そのためのエンジンの開発競争も盛んに行われた。
 大型エンジンとしては、GEのCF6-80シリーズ、P&WのPW4000シリーズ、RRのRB211-524シリーズが挙げられる。また、中型としては、V2500シリーズとCFM56シリーズが世界市場を二分して激しい競争を展開した。このように新規開発機種が目白押しとなったために、エンジン各社は、資金と市場の確保のために、国際共同開発を行うことが常態化した。その代表例が、日米英独伊の5か国が参加したV2500で、この事業と技術については第32章で詳述する。

19.1 航空自由化と国際共同開発

 このような傾向は、この時期に始まった航空自由化の政策によるところが大きい。この動きは米国で始まり、すぐにヨーロッパに広がっていった。例えば、サウスウエスト航空は設立後十年間以上もテキサス州内だけの弱小エアラインだったが、カーター政権が航空自由化政策を行ったことで、全米に路線網を持つ大手航空会社にまで成長した。それまでは、アメリカ国内では、CAB(民間航空委員会)が設立以来40年もの間各種の規制を行ってきたが、1978年に「航空企業規制廃止法」(Airline Deregulation Act) が成立。これにより、CABの規制は廃止され、さらに1985年にはCAB自体が廃止された。その結果、サウスウエスト航空の基本戦略であった「短距離を低運賃・高頻度運航」が大成功をおさめ、1988年には米国運輸省が発表する定時運航率の高さ・手荷物の紛失件数の少なさ・利用者からの苦情の少なさの3部門について米国の全航空会社中でトップとなった。その後、1989年11月からは3か月連続して3部門とも首位となったことから、サウスウエスト航空では1990年に “Triple Triple Crown”(3か月連続の三冠王)と呼ばれるまでに成長した。一方で、大手航空会社はこれに対抗するために、「ハブ&スポークス戦略」を展開した。これらの動向により、130~150席クラスの中小型機用のエンジンの市場が米国及び中近東を含む
 欧州で急激に伸びることが予測された。(Wikipediaの記事を参照して編集)
このことから、航空事業にとって、いかに自由化政策が重要であるかが分かる。これ以降、国際間でも様々な規制(これは主に環境関係)と自由化が揃って行われ続けられたことが、技術の系統化に大いに役立った。

19.2 国内の状況


 この期間に、日本の航空機用エンジン技術は、研究から実用機種の開発へと大きく変遷した。英国での高空性能試験を大成功裏に終了したFJR710エンジンは、試験機(航空自衛隊の輸送機C-1を改造し飛鳥「あすか」と命名)に搭載するための設計変更を行い、1985年10月に初飛行に成功した。独特の高揚力型のエンジンの配置で、機体側面の空気の流れを可視化するための装置を付けた飛行時の写真を図19.1に示す。


図8.1 スイープ試験中の実験機「飛鳥」

 このようなエンジンの特殊な搭載の方法は、国土の狭い日本での地方と離島の短い滑走路での離着陸を可能とするためのもので、STOL (Short Takeoff & Landing)機と呼ばれる。実際に、試験飛行では通常の滑走距離の半分にあたる800mで十分であることを実証した。

 しかし、高度成長時代にあった日本では、地方でも大型の空港が続々と誕生し、「飛鳥に明日はない」との迷言と共に、姿を消すことになった。この挫折は、純国産技術に対するエンジンビジネスはもとより、民間航空機産業全体に、大きな影響を与えることとなり、以降国際共同開発一本に絞ることになってしまった。この流れは現在まで続いており、今後も大きく変化する見込みはない。それは、独自の新規エンジンに関する国内での技術の系統化が途切れたためである。国際共同開発では、マーケティングから始まる全体の構想設計と、基本設計中に行われる大手エアラインとの綿密な交渉に関する技術を維持することができない。

 しかし、この成功の実証は無駄ではなかった。イギリスの国立ガスタービン研究所 (National Gas Turbine Establishment : NGTE)でのエンジン試験成功の事実を高く評価したRRは、1978年初頭、推力 10トン・ クラスのターボファンエンジンの共同開発を呼びかけ、直ちにこれに応じた日本との共同作業で1982年には日英両国で各1機の試験用エンジンRJ500を完成し、試験運転が行われた。
 
 エンジンの技術の系統化と伝承は、モノではなくヒトが主であると述べた。第2次世界大戦中に始まったジェットエンジン技術のそれは、イギリスではサー・スタンレイ、日本では永野治によって行われたといっても過言ではない。両国における系統化は、1980年代まで続いた。サー・スタンレイ・フッカー(彼については、第34章で詳細を述べる)は、1977年に日本への共同開発の提案を旧知の永野治に伝えた。私が、共同開発の先遣隊としてブリストルにあるホイットルハウスと名付けられたメインオフィスに一室を構えたとき、彼のオフィスは正面玄関に最も近い位置にあった。
 
 永野治(当時はIHIの副社長)は、直ちにサー・スタンレイの話を社内と関係官庁に熱心に伝えて、国内合意の成立に奔走した。私は、FJR710プロジェクト初期の設計システム班長時代に、毎月の個人指導会で多くの知見を頂いたことは、前章で述べた。


図19.2 ホイットルの業績を示すWhittle House の正面 (RR提供) 

 RJ500エンジンでのワークシェアーは、日本が低圧系のすべて、RR社が高圧系のすべてを担当し、外装やその他の部分で、50対50の関係を保つこととなった。部位によって、開発時の必要投資額と量産時の回収額が異なるので、量産時には相手側に移すことが比較的容易な部分で、50対50の関係を保つことになる。
 契約に関する主な進捗は次のとおり。(15)

 1979年1月 RRと日本側3社(IHI,KHI,MHI)でMOU(了解覚書)の締結、需要予測、エンジン仕様書の策定、事業性の検討、契約書草案の作成
 1979年12月 共同事業計画の調印、Boeing737-300,FokkerF29への搭載を目的として、推力9トン(21,000ポンド)のエンジンを1985年春の型式承認取得を目標に費用負担50:50で行う。協定期間は30年間とし、その間は同クラスのエンジンの開発は、双方とも単独では行わずに、この協定の下で行う。
 1980年4月 RR-JAEL社の設立。日英同数の役員、会長は日英で1年交代、運営委員会の下に6つの作業部会(設計・技術、営業・販売、業務、経理・財務、生産、プロダクト・サポート)
 1983年3月 5か国共同開発の発足により、実質的に失効(以降も技術提供等については継続)


図19.3 RJ500エンジンの担当部位(9)

 しかし、この RJ500 エンジンは、ボーイング社がBoeing737-300のエンジンとしてCFM56-3を選定してしまったため、それ以上の開発は進められない事態になった。また、同時期にすすめられていたP&WのPW2000エンジンも、このGEとフランスのスネクマ社の共同開発エンジンに負け、日英連合に共同開発を提案した。僅かに先行したCFMエンジンに対抗するためには、推力を130席用から150席用に増す必要があり、日英はそれに同意した。
この合意により、P&WグループのMTU(当時の西ドイツ)およびFIAT(イタリア)が加わり、1983年スイスにIAE(International Aero Engines AG) という名称のエンジン製造会社が5か国間で設立され、V2500エンジンの開発を開始した。名称は、五か国を表すVと、PW2000とRJ500の足し算をも意味する。V2500のワークシェアーは、当初は次の通りであった。
P&W ; 燃焼器と高圧タービン、RR; 高圧圧縮機
JAEC(日本航空機エンジン協会);ファンと低圧圧縮機
MTU;低圧タービン、 FIAT;ギアーボックス


図19.4 V2500断面図(担当部位色分け)(9)

 この国際共同開発エンジンはエアバス A320 やマクドネル・ダグラス MD-90 等に採用され、2019年度末までに7,737台を納入する大成功を収めることになる。
しかし、この間に詳細設計と製造技術に関しては、国際競争に伍するだけの技術を取得したが、シェアーが50%から19.9 %に減ったために、エンジン全体の構想設計と基本設計に参加するチャンスを失った。さらに、もっとも重要であるマーケティングについても機会を失い、以降は民間航空機産業の分野では、エンジン製造会社からエンジン部品製造会社への道を辿ることになる。(最終的には、シェアーが23%、FIATとRRが撤退した)

 RJ500からV2500への乗り換えは、当時の資金と人員などの事情からはやむを得ないことであった。しかし、歴史上唯一無二の対等な関係を捨てることの重大さが正しく認識されていたとは言い難い。RJ500は、RR-JAEL(Rolls Royce & Japanese Aeroengines Ltd.)という名前の会社の下で行われ、将来もこのクラスのエンジン開発は共同で行うとの合意ができていた。V2500に参加する際に、JAEC単独ではなくもしこの組織として参加をしていれば、全体の50%のシェアーを保つことができたはずである。しかし、自国の利益を優先するためのシェアー争いの中では、将来にわたってエンジン全体の計画や基本設計に留まるいう戦略はむなしく消えてしまった。 

参考・引用文献
(1)Wikipedia「ジョン・ストリングフェロー」https://ja.wikipedia.org/wiki/ (2020.4.5)
(2)黒田光彦「プロペラ飛行機の興亡」NTT出版(1998)
(3)吉中 司「アメリカ・カナダにおけるジェットエンジンの発達と進展」日本ガスタービン学会誌(2008)p.169-175
(4)Wikipedia「航空に関する年表」https://ja.wikipedia.org/wiki/A8(2020.4.5) (2020.4.5)
(5)Wikipedia「スピリットオブセントルイス号」https://ja.wikipedia.org/wiki/(2020.4.5)
(6)Wikipedia「Boeing247」https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Pratt_and_Whitney_Wasp.jpg (2020.4.5)
(7)Wikipedia「J57エンジン」https://ja.wikipedia.org/wiki/BC_J57 (2020.4.10)
(8)T.J.ピーターズ、R.H.ウオ-タマン「エクセレント・カンパニー」講談社(1983)
(9)「航空機エンジン国際共同開発20年の歩み」日本航空機エンジン協会(2001)

ジェットエンジンの技術(15)第2世代(1970年代)の民間航空機用エンジン

2024年05月14日 07時19分21秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
ジェットエンジンの技術(15)

第18章 第2世代(1970年代)の民間航空機用エンジン

この時代の民間航空機は超大型の全盛期でジャンボジェットと呼ばれたボーイング747、ロッキード L-1011 トライスターとマクドネル・ダグラスDC-10 の三つ巴の競争の時代であった。それらの機体への搭載エンジンは、米国のGEとP&W、英国のRRに限られ、その3社独占体制は、これ以降現在も続いている。エンジンは、それぞれCF6、JT9D,RB211シリーズで、頻繁に改造型や推力増強、または敢えて推力を下げたエンジンなどが開発された。ここでは、CF6シリーズに限って述べることにする。後述するように、民間航空機用エンジンは、その競争の激しさから、最終的には同じ性能のエンジンになってしまう宿命なのだからである。

18.1 大型エンジンのシリーズ化

 TF39の民間用として開発されたCF6-6は、マクドネル・ダグラスDC-10に最初に搭載され、1971年8月にサービスを始めた。単段のファンとブースター段を5段の低圧タービンが駆動、16段の高圧軸流圧縮機を2段の高圧タービンで駆動する形式で、圧縮比は24.3であった。ファンの直径は86.4in(2.19m)で、41500lbの推力を発揮した。さらに後年、後継としてCF6-50シリーズを、推力を46,000-54,000lb(205 to 240kN)に増強して開発を続けた。

 また、エアバスA300にも採用され、1971年にエールフランスがローンチ・カスタマーになり、さらに1975年にはKLMが最初のCF6-50エンジンを搭載したボーイング機の発注を行った。さらにCF6ファミリーは、CF6-80へと発展することになった。高圧圧縮機は14段となり、2段減らすことに成功した。CF6シリーズの寿命は飛び抜けて長く、2000年代になっても、なお改良型が開発された。それらの中には、全日本空輸がボーイング747SR(国内便のショートレンジ)専用として推力を落としたCF6-45も含まれる。また、他の派生型として産業用と船舶用に開発され、LM6000シリーズと称して高速船舶や艦船に多く搭載されている。

 このように、一旦開発された新型エンジンは、その後数十年間に亘って改造がすすめられることが常態化した時期でもある。このことから、以後のエンジンでは、派生型への変更が容易になる工夫が、設計当初から基本設計に盛り込まれることになった。エンジンの開発費を単独エンジンだけで回収することは、ほとんど不可能であり、エンジン会社は派生型で資金回収を図るビジネスモデルを構築せざるを得なかった。そのために、新規開発エンジンの受注を、大きなエアラインから得ることへの競争が、ますます激しくなった。
 
 最も多く使われたCF6シリーズのエンジンの例を以下に示す。
CF6-6 の搭載機;DC10-10
CF6-50の搭載機;AirbusA300B、DC10-15/-30、KC-10、Boeing747-200、747-300
CF6-80Aの搭載機;AirbusA310-200、Boeing 767-200
CF6-80C2の搭載機;AirbusA300-600/R/F、A310-200/-300、
Boeing 767-200/200ER、767-300/-300ER、767-400ER、E-767/KC-767、747-300、747-400/-400ER、MD-11、C-5M 、
川崎 C-2
CF6-80E1の搭載機;AirbusA330-200/-300、A330
最大出力(Lb.);41,500~72,000。高圧圧縮機の段数;14段~16段、バイパス比;4.24~5.92。これらのエンジン仕様は幅広く変化をしており、50年以上にわたって派生型が使われ続けている。

18.2 国内の状況


 一方、日本では純国産エンジンの研究の機運がたかまり、政府主導の大型プロジェクトとして進められることになった。FJR710は、日本の独自技術のみによって研究された高性能ターボファンエンジンである。1971年から2期に分け合計10年間をかけて、旧通商産業省(経済産業省)工業技術院の大型プロジェクト制度の下に研究開発され、推力5トン(12000lb)、燃料消費率0.34、バイパス比6を目指した。
 この研究は、第一期1971-75年度で総開発費67億円、第二期1976-81年度で、総開発費185億円(当初、その後減額されて130億円)として行われた。技術面の詳細については、後に述べる。


図18.1  FJR710 / 20 (IHI提供)

その場考学との徘徊(78) 淡路島での4日間(その3)

2024年05月13日 07時05分26秒 | メタエンジニアリングのすすめ
その場考学との徘徊(78)    

題名;淡路島での4日間(その3) 場所;淡路島 月日;2024.4.7~9
テーマ;古事記と現代社会の共存


・旅の目的
桜の満開の時期に、淡路島で4日間を過ごした。目的は、3つあった。
① 古事記のおのころ島に滞在すること
② 鳴門の渦潮を船からみること
③ 今は、リゾートの島となっている現状を、少し体験すること

・往復については、
往路;無料航空券で、羽田から伊丹空港へ
 そこから、淡路島の中心の洲本バスセンター行きの高速バスで、ホテルまで直行
帰路;ホテルから新幹線の新神戸までの直通バス
 そこから、新幹線で東京へ戻る

・大日程
 第1日目;洲本の街歩き
 第2日目;レンタカーで駆け巡る
 第3日目;路線バスの旅
 第4日目;3日夜までに決める

・第3日目の詳細

 昨日は終日レンタカーの旅だったが、今日は路線バスの旅の日。目的は鳴門の渦潮なので、洲本から福良までの約1時間半のバス旅になる。幸い、1時間に一本の割合で走っているので、時刻を気にすることはない。
 渦潮の見学には、日にちと時刻の両方を選ばなければならない。60年前の高校の修学旅行では、せっかくの観潮船だったが、渦は全く見ることができなかった。

 先ずは、大潮の日かどうかで、今日は「春の大潮」だそうで、大潮の中でも満潮の潮位が高い。次に時刻なのだが、これは淡路島の南端が満潮になってから6時間後が最高のようである。そのことは、船内でのパネルで分かったので、後に説明をする。

 洲本バスセンター発は8:53に決めた。福良到着は10:16。約30分後に出港の船が、そのタイミングになることは、ネットで調べるとすぐに分かる。30分は、売店を物色するには丁度良い。



 乗船券は、予約が原則のようだが、大型船なので、当日でも心配は無い。ダメならば、次の便でも良い。



 乗船すると、出航前に頭からすっぽりかぶる雨カッパの着装をする。今日は、風も強いそうで必須だそうだ。出港時には、消防用ホースからの盛大な見送りがあった。鳴門海峡までは30分ほどかかるが、説明が途切れなく続くので、船内を探検する時間も無いほどだった。
 甲板には、貴賓室もあるのだが、一番下のパネルとDVD映写が面白かった。特に、鳴門海峡だけに渦潮ができるのが、淡路島の大きさが関係していることは、発見だった。最大で、高さ1.5メートルの海の滝ができるのだ。




 どこを航行中かも、パネルからリアルタイムで分かる。ついでに鳴門海峡は、両側から飛び出す長い砂州の為に、絞り効果で中央部が余計に加速されることも、この地図から納得が行く。その場考学的には、良い発見だった。



 
 渦潮は、どこにできるか全く予想がつかない。しかも、できるとすぐに消えてしまうので、デジカメで瞬間を捉えるのは至難だった。おまけに、風が予想外に強い。しかし、何度かトライするうちに、渦の発生の前兆が分かるようになり、なんとか連続でもなく、Videoではなく、一枚の写真を撮るこつを覚えた。






橋の下を通過の際には、橋の上からの見学者と手を振り合う。



 下船後に、ターミナル内のレストランで昼食をとった。あたりに海鮮丼の店がいくつかあるが、ここからだと次に出向する船を見ることができる。
 注文したのは、「しゃきしゃき七色丼」で、お米が淡路島の形をしていた。




 昼食後には、すぐ目の前の「淡路人形座」で、伝統芸能の人形浄瑠璃を楽しむことで、切符を購入後、開演時刻までの約1時間は町内散歩を楽しんだ。幸い、自焙煎のコーヒーを飲ませてくれる店があり、コーヒー談義も聞かせてもらった。






 場内には、各種説明のパネルや人形が置いてあり、勉強になる。「おひねり」を推奨する為の、説明書と包むための紙まで置いてある。商売熱心だ。開演前の説明も、かなり念入りに行われた。演題は、最も有名な場面で、よく分かった。






洲本への帰りの路線バスも、最終便が19時なので、ゆっくりとあたりを満喫することだできる。
路線バスの旅も、熊本の絵画古墳巡りで味を占めて、地方ではよく利用するようになった。
 


その場考学との徘徊(77)淡路島での4日間(その2)

2024年05月12日 15時50分37秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(77)        
題名;淡路島での4日間(その2) 場所;淡路島 月日;2024.4.7~9
テーマ;古事記と現代社会の共存                                               

・旅の目的
桜の満開の時期に、淡路島で4日間を過ごした。目的は、3つあった。
① 古事記のおのころ島に滞在すること
② 鳴門の渦潮を船からみること
③ 今は、リゾートの島となっている現状を、少し体験すること

・往復については、
往路;無料航空券で、羽田から伊丹空港へ
 そこから、淡路島の中心の洲本バスセンター行きの高速バスで、ホテルまで直行
帰路;ホテルから新幹線の新神戸までの直通バス
 そこから、新幹線で東京へ戻る

・大日程
 第1日目;洲本の街歩き
 第2日目;レンタカーで駆け巡る
 第3日目;路線バスの旅
 第4日目;3日夜までに決める

・第2日目の詳細

 二日目は、終日レンタカーで、路線バスでは行けないところを廻ることにした。島のレンタカーは豊富で、ホテルからバスセンターへの道筋にも一件あり、そこまでホテルの送迎バスで送ってもらった。
私は齢78歳なので、知らない土地でのレンタカーには、少し戸惑いがあったが、先日免許更新をしたばかりで、島内の交通が複雑でないことを願っての借用だった。


 
 9時に借用して、海岸を北上し「淡路ワールドパークONOKORO」の駐車場に止めた。平日なのでガラガラ。古事記の「おのころ島」が、あちこちで借用されていることは、神社巡りに期待が持たれる。



 若い人向けには、様々な乗り物と体験があるのだが、当方は世界の名所のミニチュアと観覧車がお目当てだった。ミニチュアは、思いのほか精巧で、現地では見ることのできない、教会の尖塔の飾りや、寺院の壁面の彫刻の詳細をじっくりと眺めることができ、満足だった。







また、「童話の森」では、世界童話の8作品のジオラマがあり、物語の概要も示されていたので、改めて昔を思い出した。「ヘンゼルとグレーテル」や「ジャックと豆の木」など、忘れていた経緯や結末もあった。



「遺跡の世界」も一巡したのだが、間近でゆっくりと見られるのは、年寄り向きなのかも知れない。



 観覧車は、勿論貸切り。ゆっくりと、公園全体と周辺の町並みを見物した。歩き疲れを癒やすには、こ




 公園での軽い昼食の後に、「伊弉諾神宮」へ向かった。道路は比較的広く、走りやすい。
ここは、伊弉諾の尊が、すべての国産みを終えた後での隠居所とされている。
 お目当ては、「ひのわかみやと陽の道しるべ」という大きな石碑だ。いくつかの古代史の書籍に引用されている。
 この地点から、太陽に関する8つの方向には、それぞれいわれのある神社が存在する。例えば、真東が伊勢神宮、夏至の日の出は熊野大社といった具合だ。






 淡路島を横断して、西の海岸に「幸せのパンケーキ淡路島テラス」という、若者に人気の店がある。そこのパンケーキを楽しんだ。若者のお目当ては、スイーツよりも、海に突き出た二つのモニュメントで、そこでは、撮影のための行列ができていた。




 最後は、「おのころ島神社」で「自凝島神社」と書く。




 レンタカーは、無事夕刻に返却をすることができた。

その場考学との徘徊(76)淡路島での4日間(その1)

2024年05月12日 10時13分20秒 | その場考学との徘徊
ブログ;その場考学との徘徊(76)         

題名;淡路島での4日間(その1) 場所;淡路島 月日;2024.4.7~9
テーマ;古事記と現代社会の共存
                                               
・旅の目的
桜の満開の時期に、淡路島で4日間を過ごした。目的は、3つあった。
① 古事記のおのころ島に滞在すること
② 鳴門の渦潮を船からみること
③ 今は、リゾートの島となっている現状を、少し体験すること

・往復については、
往路;無料航空券で、羽田から伊丹空港へ
 そこから、淡路島の中心の洲本バスセンター行きの高速バスで、ホテルまで直行
帰路;ホテルから新幹線の新神戸までの直通バス
 そこから、新幹線で東京へ戻る

・大日程
 第1日目;洲本の街歩き
 第2日目;レンタカーで駆け巡る
 第3日目;路線バスの旅
 第4日目;3日夜までに決める

・第1日目の詳細

 羽田からの飛行は、AirbusA350-900という大型の最新機種。下は曇りで見えないのだが、3次元画像で、どこを飛んでいるかはよく分かる。しかし、雲の上の富士山と南アルプスは、実物がよく見えた。



 伊丹空港で驚いたのは、淡路島へのバスだった。通常のリムジンバス乗り場に、そのバスは来ない。案内所で聞くと、空港ビルの外れの別のビルに停留所があるという。かなり歩いて、そこまで行くと、看板があるだけ。バス会社に連絡をすると、予約がないと、乗れないかも知れない。つまり、満員でなくても、そこから乗る人の予約がないと、通過するそうだ。
 幸い、二組が乗車したので、なんとか乗ることができた。最悪は、淡路島までレンタカーを考えた。



 車内は、結構混んでいた。夕方の通勤時間帯ならばともかく、日曜日の昼下がりでは、通常の空港リムジンでは考えられない混雑だ。

 しばらくして、原因が分かった。いくつものトンネルを抜け、明石海峡大橋を渡ると、「ニジゲンノモリ」という停留所がある。そこで、大部分の乗客が降りてしまった。
 子供ずれ、外人客など色々だ。そこは最新のテーマパークで、ドラゴンクエストや、ゴジラの実物大のアトラクションがある。「ゴジラが淡路島に上陸」との宣伝文があった。
 後にTV番組の「Youは何しに日本へ」で、アメリカ人が「ゴジラに食べられるために来た」といっていた。最近のゴジラは海外での人気が高い。
 そこから淡路島縦断は、ガラガラ。終点の「淡路バスセンター」で降りたのは我々だけだった。バスは何と「ニジゲンノモリ」のラッピングカーだった。日曜日の昼前という、とんだ時間に混んでいたのを、納得した。



 洲本バスセンター内の観光案内所は、なんでも親切に教えてくださった。島内の南北へ向かう路線バスも、時刻表が数種類あるのだが、目的地を決めれば、計画は立てやすいし、本数もかなりある。
 近くのレストランで昼食を摂り、ホテルに向かうことにした。ホテルには、別途送迎バスの時刻表があるのだが、連絡をすれば、いつでも臨時に迎えを出して貰える。これは年寄には大変ありがたい。

 チェックイン時刻には間があるので、城山に登ることにした。登山道が二つあり、山道と普通の路だという。
せっかくなので、山道を選んだ。木々の間から、時々海が見える。
 頂上らしき処は二つあって、一つは城の天守閣がある。しかし、私が登ったところは、公園で、数組が幼児を遊ばせながら花見をしていた。桜の木は大きくないのだが、記念樹に見えた。どうも、北海道のどこかと姉妹都市のようだ。


 
 この疑問は、すぐに分かったのだが、先ずは、下におりてホテルにチェックインをした。部屋は、一人なのだが、ツインになっている。淡路島は、土地が広い。



後で知ったのだが、どうやら特別フロアーだったようで、エレベータ横にラウンジがあり、飲み物と新聞が置いてある。
 翌朝の朝刊は、5時からの朝風呂の後には、もう4紙置いてあった。東京の我が家よりは、早いのでびっくりだ。

ホテルを出て、街歩きを始めた。最初は、ホテルの前の松林。海風に晒されるので、独特の曲がった幹が面白い。



 すぐに、「国指定名勝 旧益習館庭園」という処に出た。観光案内所で、今日は特別公開をしているので、見に行かれたら、とおすすめのあったところだ。
 閉園5分前だったが、ゆっくりと回遊をさせていただいた。

大きな岩がほどよく配置されていた。




 江戸時代の後期に、淡路島は蜂須賀家の領地だったが、実質は城代家老の稲田氏が治めていた。
明治維新時に、蜂須賀家は将軍家と結び、稲田氏は朝廷と縁があった。そのために事変が起こり、結局両家は罰を受けたのだが、稲田氏は、明治政府から北海道の静内に移住して開拓をするとの命令が下された。先ほどの山頂の記念樹の意味が、ここでようやく分かった。
 この庭園の横には、小さな桜並木があり、奥には、山頂に向かう別の登山道の階段が見えた。



 住宅街の路地をジグザグに進むと、10分ほどで街に出る。「洲本レトロ小道」との名前が付けられた路地があり、のぞいてみた。残念ながら日曜日はどこも閉店。わずかに、「淡路島でのドラマの撮影スポット」なるパネルの展示列があり、それを楽しむくらいだった。