生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

ボーイング機などのジェットエンジンの国際共同の設計開発に携わった眼をとおして現代の技術のあり方への疑問を解きます。

メタエンジニアの眼シリーズ(38)古代のインドーヤマト文化圏(その9)

2017年07月22日 08時48分24秒 | メタエンジニアの眼
その場考学研究所 メタエンジニアの眼シリーズ(38)         

このシリーズはメタエンジニアリングで「優れた文化の文明化へのプロセス」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
                                                
TITLE: インドの時代   KMB3359
書籍名;「インドの時代」[2006] 
著者;中島岳志  発行所;新潮社  発行日;2006.7.25
初回作成年月日;H29.7.14 最終改定日;H29.7.22 
引用先;文化の文明化のプロセス  Converging 

 現役の若い日本人とインド人が、どのような見方をしているかを知るための著書がある。在日のインド人、サワジーヴ・スインバ「インドと日本は最強コンビ」講談社α新書[2016]は、題名の通りの中身なので、詳細は省略する。ここでは、外語大学でヒンドウー語を専攻し、アジア・アフリカ研究が専門の日本人の著書を紹介する。少し古いが、現代のインドから絶対的真理を模索している。





 冒頭では、『以上のような急激な都市社会の変化は、』(pp.50)に続けて、インドにおける急激な経済的な発展の結果生じた様々な社会問題について、詳細に述べている。特に、高学歴の若者の数が急激に増えたが、その能力に見合う職業が不足して、深刻な社会問題化しているのだが、インド特有の問題は、その人数の多さで数千万人に上っているということで、そのことは人口減少の日本にとっては、羨ましい話だ。

『経済発展を至上命題としてきた1990年代以降のインドは、経済の自由化によって多くのものを手に入れてきた。しかし、その反面で、多くの大切なものを失ってしまったのではないかという喪失感と虚脱感が多くの人の間で共有されている。そして、彼らの多くが、経済的豊かさの獲得を至上命題とするような生き方を見つめなおし、「如何に生きるべきか」「私の存在とは何か」といった根源的なアイデンティティーを問い始めている。』(pp.56)

この辺りまでは、いかにも東洋的で日本にも当てはまるのだが、その後の展開が大いに異なってくる。
その結果が、「ヒンドウー・ナショナリズム」として現れて、さまざまな形に分裂をして活動されている具体的な内容が示されている。穏健なもの、過激なもの様々である。

やや過激な例としては、『インド固有の科学こそが、世界の最先端の知や技術を生み出してきたことを強調する。(中略)英語の起源はサンスクリット語であるとするシャルマの著書、(中略)ヒンドウー・ナシナリストは、「サンスクリット語を使用するアーリア人によって担われた古代のインド」を至上の価値と措定し、サンスクリット的ヒンドウー教こそがインドの問題をすべて解決すると主張する。』(pp.62)などである。

・新しいヒンドウー教

ここでは、インドの先端社会の変化の速さが強調されている。それは、宗教の世界でも例外ではなく、拙速を忌み嫌う日本とは好対照に思える。しかし、どちらにも長所と欠点があるのだから、両者のハイブリッド化ができれば、有力な力となり得る。
新しいヒンドウー教では、「デザイン化される神々、電飾寺院、ハイテク寺院」などが紹介されているが、どれも相当な規模であるところが日本とは異なる。

『このような寺院のハイテク化は、一見、反伝統的で歪な現象のように見えるが、彼らは概ねそのようなシステムの導入を、伝統的な寺院のありかたと矛盾しないものとして捉えている。多くの寺院の壁には「ラーマーヤナ」をはじめとした神話の場面が描かれ、僧侶が人々に絵解きをしながらダルマのあり方などを語ってきた伝統がある。このような宗教伝統が電化され、ヒンドウーの宇宙観や神話世界をよりリアルに体験できるように工夫されたのが、ハイテク寺院の姿なのである。』(pp.122)

 日本各地にも同様なものが多々あるが、それらはいずれもハイテクではない。そこがインドと異なる。

・単一論的宗教復興の問題

 ここではS・ハンチントンの「文明の衝突」を引き合いに出して、文明の構成原理を各種キリスト教、イスラーム教、儒教、ヒンドウー教などのベースで成り立っている現代文明が、必然的に衝突をするという論理を紹介し、現在はそのような流れの中にあることを認めている。
しかし、『インドにおけるヒンドウー・ナショナリズムとイスラーム過激派の対立も同様の見方をすることができよう。しかし、ここでハンチントンが言うように、現代世界における宗教復興運動は、必然的に宗教対立を生み出してしまうのであろうか。私は断じて「否」と言いたい。』(pp.198)と述べている。

・多一論的宗教復興の可能性

『多一論とは、地球世界という相対レベルにおける多様な個物は、絶対レベルにおいてはすべて同一同根のものであり、地球世界における「多なるもの」は、その「一なるもの」の形をかえた具体的現れであるという概念である。つまり、真理は絶対的で唯一のものであるが、地球世界における現れ方は、各宗教によってそれぞれ異なるという考え方である。』(pp.198)

『地球世界における個別的な宗教体系やそれぞれの差異は、あくまでも言語や物質を伴った相対的なもので、超越的な真理そのものだはない。それぞれの宗教は、あくまでも真理に至るための「道」であるに過ぎず、その「道」自体が真理なのではない。しかし、相対世界に現れた「多なる宗教」は、「一なる真理」へと誘う確かな道である。宗教の違いは、歩む道の違いに過ぎず、すべての道は「一なる真理」へと向かっている。このような絶対レベルにおける唯一性と、相対レベルにおける多様性を認め、世界に存在する宗教的差異を、「一なる真理に至るためのアプローチの違い」と認識することが多一論である。』(pp.199)

『このような多一論はなにも現代社会の宗教対立を乗り越えるために編み出された新しい考え方ではない。これまで、世界中の歴史的な宗教思想家たちが、言語や表現方法を変えつつ主張してきた宗教哲学である。』(pp.199)

その事例として、般若心教の言葉や、西田幾多郎、鈴木大拙和はじめとして、各国の有名宗教家の例を挙げている。このことは、確かなことではあるが、メタエンジニアリング的に考えると、ひどく単純である。つまり、「手段の目的化」がここでも起こっているということに過ぎない。手段の目的化は、通常の社会で頻繁に起こる。そして、一旦起こると、本来の目的を忘れて、手段の達成を目的として突っ走る。つまり、部分最適の世界に入り込む。そして、部分最適は、進めば進むほど、全体最適とは矛盾する結果を引き起こす確率が高くなる。

多一論は、観念論としては正しい。しかし、歴史から考えると、多くの高名な学者が主張してきた有名な理論であっても、グローバル化された世界での実現は、ますます実現が困難な方向に進んでいると思っている。





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メタエンジニアリングの眼シリーズ (37);インドーヤマト文化圏(その8)

2017年07月21日 07時55分01秒 | メタエンジニアの眼
このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化のプロセス」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

TITLE: インダス文明の興亡   KMB3354
書籍名;「古代インドの思想」[2014] 
著者;山下博司  発行所;ちくま新書 

発行日;2014.11.10
初回作成年月日;H29.6.10 最終改定日;H29.7.21 
引用先;文化の文明化のプロセス  Converging 

 副題を「自然・文化・宗教」として、インダス文明の特徴を自然・文化・宗教の面から述べている。知識の羅列の感があるが、多方面から全体像を理解するには役立つ。

 表紙カバーの裏面には、次の言葉がある。

 『緻密な哲学思想や洗練された文学理論など、高度に発達した「知の体系」は、いかに生まれたか。厳しくも豊かな自然環境がインド人に与えた影響とは。外の世界から多くを受け入れながら矛盾なく深化・発展させることで、独自の文化や思想を生み出し、世界中に波及させてきた。ヒンドウー教、仏教、ジャイナ教・・・。すべてを包み込むモザイク国家「インド」の源流を古代世界に探る。』

 「独自の文化や思想を生み出し」までは、日本を表現しているといってもおかしくないが、「世界中に波及させてきた」は異なる。大陸と島国の違いなのだろう。

主な論点は、以下だった。
・地球規模の寒冷化、乾燥化の中で文明として芽生えた。
・乾燥化がより進んだことで衰亡した。その間千数百年間
・乾燥と湿潤のせめぎ合いの中で多様性文化が発生
・氾濫灌漑農業
・英国による鉄道施設時に遺跡を破壊した
・世界4大文明の中で、最も広範囲に広がっていた
・印象文字は、文字か記号か
・民族移動の玉突き現象
・アーリア人が牛を大切にした
・火は供物を天に運ぶ
・「リグ・ヴエーダ」はBC1000頃完成
   1000の賛歌、1万以上の詩

インダス文明は、地理的には『乾燥アジアの東端にあり、インド・パキスタン国境以東に始まる「モンスーン・アジア」との接点に位置する。気候区分でいえば、砂漠気候と熱帯モンスーン気候の境目あたりである。乾燥と湿潤がせめぎ合う気候風土の微妙な陰影が、広大なインダス文明圏内の文化的多様性を織りなしていたのである。』(pp.68)

「氾濫灌漑農業」という点では、他の古代文明と同じだが、気候区分は独特のものになっている。当時は、四季の変化も比較的はっきりしていたのだろう。
 問題は、彼らが文字文化を持っていたかどうかだった。多くの印章が発見されているのだが、それらが文字か記号かが判然としていない。
 多くの学者が、解読結果を発表してきたが、どれも定説には程遠いと言われている。
 
『2000年代に入り、これらの「文字」が自然言語(日常の意思疎通のために自然に発生し発展してきた言語)を反映したものではないという仮説が、アメリカの研究者たちによって表明され波紋を呼んだ。印章に刻まれた諸文字の出現頻度などを統計学的に分析すると、自然言語とは考えにくい諸特徴を示したという。』(pp.75)

 私は、古代における文字文化が文明の条件であることには納得がいかない。漢字やヒエログリフに見られるように、古代の文字の使用は、権威者の威光を、異なる言語社会にまで広く浸透させることが目的だったと思う。日本の縄文時代や、インダス文明のような絶対王権を持たずに、民主的な文化を保った文明は、「文字」を必要としない。簡単な、記号などで十分だったと思う。

『気候の大規模な変動が文明の衰微や民族の南下・移動を促し、他の民族の更なる移動や勢力の再編を導いたのである。(中略)
中国大陸でも、4000年前に始まる北方民系漢族の黄河中流域から長江流域への南下、およびそれにともなう中国奥地や東南アジアへも波及する民族移動の連鎖も指摘されている。その一部が江南から日本に渡来し、稲作をもたらしたと言われる。マレー・ポリネシア系の言語を話す人々を海洋へと追いやったのも、こうした「民族の玉突き現象」の一環である。陸地での大規模な民族移動が、太平洋上にまで及んでいたことになる。』(pp.102)

『「リグ・ヴェーダ」の言語は、(中略)そこから垣間見られるインド・イラン人の宗教では、家庭祭祀を行い、祖霊を供物で慰撫して福にあずかろうとした。天空の神々を崇拝し、ソーマ(ハオマ)を水盤に盛って神に奉納し、動物を供犠し、穀物や牛乳を祭火に投じた。火は供物を天に運ぶと信じられていたのである。』(pp.105)

 「リグ・ヴエーダ」はBC1000頃に完成し、1000の賛歌と1万以上の詩が不含まれている。それらから推定される国家のあり様は、次のように説明がされている。
『社会全体に君臨する者の存在は確認されておらず、政治的には統合されていなかったとみられる。その後しばらく、統一的な権威なしに推移し、地域ごとに小国家が分立してゆくことになる。』
このことも、卑弥呼の時代のヤマトに共通する。

 欧米の文化や文明論に多く出てくる、「日本は独特で、親類の文化を持たない」との主張に対しては、少なくとも、インダス文明を起源とするインドとは親戚関係があるように思う。
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メタエンジニアの眼シリーズ(36) 古代のインド―ヤマト文化圏(その7)

2017年07月10日 14時16分01秒 | メタエンジニアの眼
「古代のインド―ヤマト文化圏(その7)」KMM3355 
このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

TITLE:インドの聖と俗  KMB3355

書籍名;「ヒンドウー教」[2003] 
著者;森本達雄  発行所;中央公論社 中公新書
発行年月日;2003.7.25



 副題を「インドの聖と俗」として、この両面を強調している。そして、この傾向は日本とまったく同じことが多いことを、
実例で示している。

・ヒンドウー教と日本の神々

 『私たち日本人は、遠く父祖の代から、知らず知らずのうちに、日常の信仰や思想、思考方法などにヒンドウー教から少なからぬ影響を受けてきているのである。すなわち、古来日本の精神文化の核であり、支えであった仏教、とりわけ密教へのヒンドウー教(バラモン教)の影響をとおして、いつしか私たちの祖先はヒンドウー教の神々や教えを受容し、したしんできたのである。たとえば、今日ではすっかり日本の民間信仰の神様のように思われている弁財天信仰などは、その好例の一つであろう。』(pp.5)

 ここでは、「弁天様とサラスヴァティー」、「大黒様とシヴァ神」について写真を交えて同一性を説明している。

・日本の生活習慣にとけこんだヒンドウー教

 『私たちの生活習慣の中には、ずいぶんとヒンドウー教の儀礼や慣習が入り込んでいるようである。思いつくままに二、三、例をあげると、仏教(真言密教)の重要な儀礼として、加持祈祷のさいに焚かれる「護摩」がある。あれはインドでは、いまから三千年以上も前の「ヴェーダ時代」と呼ばれている最初期の儀礼で、サンスクリットの「火中に献げる」「献げものをする」といった意味の「ホーマ」が漢訳されて「護摩」となったものである。』
(pp.10)

・日本文化の底流に息づくヒンドウー思想

『我が国の古代からの中世、近世の文字・絵画・建築や造園、能や歌舞伎から、日常の生活様式に至るまで、その底流にさまざまな形で無常観、輪廻や業(ごう)の思想、あるいは浄土への憧れ(欣求浄土)など、仏教的世界・人生観が深く流れていることは、誰もが認めるところである。勿論その源流はといえば、仏教オリジナルなものもあれば、ヒンドウー教の影響によるものもあろう。そこで、明らかにヒンドウー教に起源をもつ輪廻転生について、少し考えてみたい。』(pp.14)

 このことは、輪廻転生を信じていようが信じまいが、それには関係なく、日本人は平家物語や、方丈記、徒然草などの古典や、能のストーリーの作者の意図を理解することができるので、輪廻転生が文化として浸透しているとしている。

・ヒンドウー教の特徴

『ヒンドウー教の定義はむずかしくなる。なぜならヒンドウー教には、まず第一に、キリストやマホメットに相当する特定の開祖は存在しない。それゆえ、成立の年代もいつごろか漠として特定できない。ヒンドウー教は ーある高名な宗教学者の言葉を借りればー 「この宗教には初めも終わりもなく、われわれの地球が存在する以前から、未来永劫、消滅を繰り返すどの世界思貫いておもつらぬいて存在する」ものとして、時間を超越し、歴史を拒否するといった側面すら見受けられるのである。』(pp.24)

 この特徴は、日本における神道とまったく同じである。

・インダス文明へ

ヒンドウー教の起源は、インドでのアーリア人の登場からか、それ以前のドラヴィダ族やムンダ族などの先住民族かも分かっていない。「ヒンドウーイズム」はヒンドウーの土地に住む人々の宗教であって、教義や組織を持たない。「ヒンドウー」の語源は、サンスクリット語の「流れ・川」を意味する「シンドウ」と云われており、この川はインダス川を示しているそうだ。

 インダス文明が、同時代の他の文明と比較して基本的に異なる点を、モヘンジョ・ダーロの発掘者であるイギリス人の考古学者は次のように発言している。

『同時代のエジプトやメソポタミヤでは、「莫大な金と知識が、神々のための壮大な寺院の建物や、王たちの宮殿や墓の造営に浪費され、一般市民はどうやら泥で造った粗末な住居で満足しなければならなかった。」のにたいして、「インダス文明では状況は逆である。そしていちばん立派な建造物は、市民の便宜のために建てられたもの」であった。』(pp.71)
 この傾向は、日本の縄文時代と古墳時代の差を思わせる。やはり、この二つの時代の文化は、根本的に異なっているので、独立した民族による支配と思う。

 また、ネルーの著書「インドの発見」[1946]からの引用として、次の言葉がある。
『ひじょうに驚くべきことは、それ[インダス文明]がなによりもまず、世俗の文明だったということであり、宗教的な要素はあるにはあるが、舞台全体を支配してはいなかった』(pp.72)

以下は、次のような表題での説明が続いている。
・ハラッパー人、先住民たちの信仰
・アーリア人の出現と英雄神インドラ
・アーリア人はどこから来たのか
・「ヴェーダ」の成立とアーリア人の神々
・「ヴェーダ」は口承聖典




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メタエンジニアの眼シリーズ(34) 古代のインド―ヤマト文化圏(その5)

2017年07月05日 07時30分53秒 | メタエンジニアの眼
その場考学研究所 メタエンジニアの眼シリーズ(34)     

TITLE: インダス文明の興亡   KMB3356
書籍名;「埋もれた古代都市、インダス文明とガンジス文明」[ 1979] 
著者;森本哲郎 編  発行所;集英社  発行日;1979.3.30

引用先;文化の文明化のプロセス  Converging 

「このシリーズはメタエンジニアリングで「優れた文化の文明化へのプロセス」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

「古代のインド―ヤマト文化圏(その5)」日本の古代文化は、中国や朝鮮半島から伝わってきたものが多いように思っていましたが、縄文時代や初期の稲作は、東アジアの海洋文化の影響の方が強いようです。中国も、揚子江の南北では文化が全くことなり、北は遊牧民の文化で、南は海洋文化なのでしょう。東アジアの海洋文化の元は、インダス文明のように思われます。そこで、少しインドの古代文化の勉強を始めました。



 この本は「NHK文化シリーズ歴史と文明」全6巻中の第5巻で、かなり古い編集だが、森本氏の文明論や対話の発言が面白い。「まえがき」には、次のように記されている。

『川のごとき特性とは、端的にいえば包摂性、すなわち平気で何もかも自分の中に取り込んでゆくという許容性である。インダス文明についてはさておき、この驚くべき包摂性は現代のインドにそのまま生きている。その最もいい例がヒンドウーの神々であろう。ヒンドウーの神々のあいだにはすべてに無差別の原理が貫徹している。ヒンドウーのパンテオンには、ウバニシャド(奥義書)できめられた最も抽象的なプラフマーという神から、象や、獅子や、イノシシや、ヘビという動物の姿をした神々、さらには仏教の始祖、それどころかガンジーといった政治家に至るまでが、そっくり受け入れられているのである。そこには抽象的な原理も、神も、聖者も、人間も、いや動物でさえ無差別に座を占めている。インドには神と人間、人間と他の動物、そのあいだにさえ、はっきりとした区別はないのだ。』

 さらに続けて、『インド亜大陸につぎつぎに流れ込んださまざまな文明を、片っ端からインド化してしまったのだ。無差別の原理によって。』(pp.2)
この許容性と、さまざまな文明を、片っ端からインド化してしまったとは、なんと日本の古代に似ているではないか。そして、その文化は現代も生き続けていることも共通している。

 本文の冒頭の「対話の初めに インダス文明の遺産」には、次のようにある。
 『4000年以上の前にインダス河畔に築かれたモヘンジョ・ダロの遺跡は、多くの古代遺跡の中でも、際立って特異な風景を見せている。風景を構成しているのは、レンガ、レンガ、ただレンガだけである。(中略)いったい、こんな都市文化を持っていたインダス文明とは、いかなる文明だったのか。』(pp25)
 
それに続く文章は、インダス文明の6つの疑問だ。
 第1、インダス文明を構成した先行文化の形跡が全くない
 第2、道路に面したどの家にも、戸口と窓が全くない
 第3、神殿や王墓が見当たらない
 第4、武器や軍隊の跡がない
 第5、印象に彫られた文字か記号かも分からない
 第6、1000年だけ栄えて、突然消滅し、行方が分からない

『私は、恐らく海上路のほうが中心であって、陸路というのはあったとしても非常にわずかではないかとおう気がするんですが。(中略)それに品物を積む量が違う。ロバやラクダの背に乗せて、あんな暑い砂漠をとぼとぼ行くよりは船のほうがずっと大量のものをはこべるわけですから。』(pp.74)

『アーリア人が残した「リグ・ヴェーダ」のなかに「プランダラの歌」というのがあって、インドラ(アーリア人の軍神)が90の砦をボロボロの着物みたいに破壊したとあるんですが、この90の砦というのが、インダス文明の都市だというわけなんでしょう。』(pp.80)

『考えてみると、高度に発達した都市文明が、なぜ一朝にして滅びたかというのは、まったく逆なんですね。むしろ高度に計画された都市だからこそ、あっさり滅びてしまうわけで、プロミティブなものだったかえって生きのびられたんじゃないですか。』(pp.84)

『いわゆる古代派時代(紀元前2~前1世紀)には、おシャカ様を人間の姿で表してはいけないとされていました。ところが、のちのギリシア文化との接触で、おシャカ様の姿が理想像として描かれるようになる。それが1~2世紀ごろのガンダーラ時代か、あるいはマトウーラ時代ですから、その間におシャカ様はすっかり神聖化されて、人間性が消えてしまったわけですね。』(pp.105)

『仏教はヒンドウー教の中に含まれているというんですね。インド人の気持ちの中には、仏教とヒンドウー教を区別するという意識は無いんでしょうね。』(pp.154)

古代の日本神道がヒンドウー教の神々とその大もとが共通しているとすれば、日本人が仏教と神道を意識的には区別しないことと、共通の意識のように思われてくる。読み飛ばしてしまえばそれまでなのだが、蘊蓄のある言葉が並べられている。

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メタエンジニアの眼(33)古代のインド―ヤマト文化圏(その4)

2017年06月30日 09時31分41秒 | メタエンジニアの眼
インダス文明の興亡   KMB3353
書籍名;「インド密教」[1999] 
このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

著者;立川武蔵 他 編  発行所;春秋社  発行日;1999.5.20
初回作成年月日;H29.6.14 最終改定日;H29.6.30
引用先;文化の文明化のプロセス  Converging 

 「密教シリーズ」の第1巻で、編者のほか12人の専門家が執筆をしている。
ここからの発想は、最澄や空海の時代に盛んになり始めた密教のもとが、弥生時代の古代日本にも伝わっていたことを思わせる歴史が存在するのではないか、といったことであった。

 なぜ今「密教」なのかを詳細に説明することを目的として、「はしがき」には次のように記されている。
『現代の社会は高度産業技術のますますの刷新をめざし、「合理」の名のもとに効率の良さにトップ・プライオリティーを置いている。生物学的生命体としてのヒトの精神・生理学的メカニズムを奪い去り、コンピュータ上で数値として操作できるデータとして人間は扱われ始めた。子供たちは、そして大人たちも、コンピュータのデイスプレイにたち現れる画像の動きと自分たちの生身の肉体の動きとを重ね合わせることによって十分な身体的刺激を得る、あるいは得ると思い込む、現代人はそのようなかたちの観念人間になっている。
 
 この観念人間を世界規模の市場経済はまるのみいしようとしているのが、グローバリゼーションであり、それは要するに世界中を均一の原理、つまり合理化された市場原理によって統括しようとすること以外の何物でもない。だが、それは人類自滅の道なのではなかろうか。』(pp.ⅱ)

『今日、宗教の課題はフロピーの中に組み込まれた「データ人間」を、肉体を持ち生理的反応を有し続けるヒトの中に取り戻すことであろう。安全な地球環境を取り戻すには高度の科学技術が必要だろう。だが、それは今日のあくなき利潤の追求がどこかで止められるか修正されない限りは不可能である。秘術は、それのみでは、いかに高度なものであったとしても、技術のめざす目的を変えることはできない。技術の目的を変えることができるのは、その目的あるいは結果の利用の仕方を決定する人間のみである。
 
 いま、宗教は技術の目的をいかに人間たちの生活の中で利用すべきか、その「利用の仕方」を環境・倫理等の諸条件の中で考える立場にある。この問題は決して科学・政治・経済などの中では解決しない。科学や経済が自己否定を通じて自己を超えて再生することは期待できない。』(pp.ⅳ)
 この書は、20世紀最後に出版されたが、21世紀に入り俄かに経済学の分野でも「自己否定」の議論が進み始めている。しかし、それは議論のみであって、「自己を超えて再生する」ことは、確かに期待できない。

『宗教とわれわれが名づけてきた精神的伝統の中から今日の問題を考える意義は十分にあると思うのである。なかでも密教の伝統が育んできたもろもろの要素は、実は近代合理主義が削ぎ落しおとしたものそのもののように思われる。それ故にこそ、この4半世紀において欧米、日本などにおいて密教が再評価されてきているのではあるまいか。』(pp.ⅴ)

 そして、アジア全域における宗教を考える場合には、ヒンドウー教における「密教」(タントリズム)を視野に入れるべきと主張している。

 『インドに赴いた宣教師たちは、自分たちの宗教とはまるで異なった宗教をまのあたりにし、素保宗教の経典をさす「タントラ」という用語を西欧に紹介した。1799年のことであった。その後、「タントリズム」という語は、ヒンドウー教、ジャイナ教、ア予備仏教に共通する特定の形態をさすようになった。』(pp.21)
 
『仏教やヒンドウー教は一応の展開を遂げた後、5,6世紀以降のインドの時代状況の変化によってそれぞれの救済の方法を変質させざるをえなくなる。その変質した結果としての形態をわれわれは「密教」(タントリズム)と呼んでいるのである。(中略)
 仏教が求めたのは個々の人間の精神的至福としての悟り、目覚めであった。このことは仏教史を通じて変わらない。しかし、問題はこれを得る手段である。初期仏教から6、7世紀までの大乗仏教中期までは、悟りを求める手段は業と煩悩の止滅があり、悟りを得るための主要な手段であった。しかし、5、6世紀以降、徐々にではあるが、業と煩悩の止滅によって悟りを得るという伝統的な方法に揺らぎが見えはじめる。つまり、業と煩悩は単に否定されるべき俗なるものではなくて、業と煩悩をむしろ聖化して受け入れることによって悟りを得ようという傾向が強く見られるようになった。』(pp.23)

 ここには、現代的な合理性が感じられる。

・インド仏教の観自在

 『一般に観自在は慈悲を、文珠は智慧を具現するといわれる。慈悲は迷える生類に対する共感を基盤とするのに対し、智慧は仏の悟りに到達するための基盤となるものである。観自在は、煩悩を有する生類の各々の能力や資質に応じて救済を行うが、特に現世利益において優れている。』(pp.132)

 『観自在はシヴァ等のヒンドウー神的特徴を積極的かつ友好的に包摂して多様な姿をとる。他方、文珠は悟りに邁進する勇者らしく、愚かさを断ち切る智慧の剣をふりかざしたり、智慧の象徴である般若経典などを持つ。ただし観自在ほどにはさまざまな姿に変化させない。観自在は異宗教の者も含めた生類たちを、各々のレヴェルに応じて救済するために変化に富んだ姿をとるのである。』(pp.132)

 観自在は、西暦2世紀後半に成立した。様々なかたちをとり、多様性に富んだ万能の神が現れたことになる。日本では、十一面観自在、不空羂索観自在、千手観自在など。


 『観自在の図像には時代を通して古くからみられる一面二臂で蓮華を手に執る姿がある一方、シヴァ等のヒンドウー神的特徴を数多く包摂する姿や多臂の姿もあり、多様性に富む。ただし、千手観自在ほどに様々要素を数多く統合したような図像は、日本やチベットに比べてインド密教ではあまり知られておらず一般的でない。むしろ各々に特色を持った個性的な姿の観自在が信仰されたようである。』(pp.146)

 このインドにおける、「むしろ各々に特色を持った個性的な姿の観自在が信仰された」は、西洋的な思考が入り込んでいるようにも考えられる。しかし最澄や空海の時代に盛んになり始めた密教のもとが、弥生時代の古代日本にも伝わっていたことを思わせる歴史は興味深い。

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その場考学との徘徊(23) 井の頭公園のカイツブリ

2017年06月04日 19時39分58秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(23)井の頭公園のカイツブリ  場所;東京都武蔵野市 H29.6.4

テーマ;水鳥の子育て     
 
 昼間のウオーキングが暑さで難しくなると、日の出を見ながらの芦花公園までの散歩が日課になる。しかし、今日は井の頭公園まで行くことにした。

 5時過ぎに起きて、6時に出発。日曜日なので通勤者のいない静かすぎる道だ。

6:25 久我山駅前を通過、2950歩。途中で、「第3回 ホタルサミット」の看板を見た。どうやら、神田川と玉川上水にホタルを放流(?)するらしい。残念ながら、早朝で辺りに様子を尋ねる人影はない。
 
6:40 三鷹台駅通過、4670歩。この辺りから、朝のジョギングを楽しむ人との出会いが始まる。公園に近づくと、老人のグループにも出会う。
6:50 井の頭公園に到着、5900歩。池の周りを1周して、カイツブリの様子を観て廻る。

先日、公園の近くに住む友人からこんなメールが届いていた。
 
『公園の観察をまた始めました。現在の状況は、
A巣:営巣から産卵・抱卵・雛誕生・水辺での魚とり訓練・自立回遊。2回目の産卵気配
B巣:営巣から産卵・抱卵・雛誕生・水辺での魚とり訓練・自立回遊
C巣:営巣から産卵・抱卵 まもなく雛誕生
D巣:営巣から産卵・抱卵1週間後雛誕生?
F巣(弁天池):営巣から産卵・抱卵 6月5日頃雛誕生? 6個の卵を確認』

話は、4月初旬に戻る。スギ花粉の危険が去った直後に、第1回の観察に出かけた。
井の頭公園とは生まれて間もなくからのお付き合いで、私の乳母と云えるのかもしれない。終戦直後に生まれて、母乳不足から、井の頭の乳牛から牛乳を分けてもらって育ったそうなのだ。

以来のお付き合いなのだが、「カイツブリ」の子育ては知らなかった。このときに橋の途中にある看板を見て、初めて知った。この日は、最初の巣では、卵を温めている様子が見えたが、他は巣作りの最中だった。




 2度目は、雛の誕生の知らせを受けてすぐの4月28日だった。まだ生まれたばかりで、水には入れないようだ。親鳥が盛んに餌を運んでくる。
 井の頭公園の桜の木は、大きく池に張り出していて、根っこが浅いところまで伸びているそうで、そこに枯れ枝などを積み上げて巣ができている。従って、岸から数メートルしか離れていないので、蛇に頻繁に狙われるそうなのだ。


 

今日は、かなりの数の子育て家族に会えると思っていたが、実際には2家族だけだった。早速に友人にメールをすると、こんな返事が戻ってきた。




『朝の早い散歩ですね。現在4か所に巣があります。
A巣:4羽の雛が生まれましたが、蛇に侵され現在三羽が橋のボート池側で親と回遊しています。巣は別のカップルに乗っ取られて別の親が抱卵しています。見られた通りです。
B巣(公園駅に近い):5羽が生まれ、健在です。潜って魚を獲れるようになってきました。親は餌を与えることと蛇を追い払うので大変です。昨日は追い払う光景を2度見ました。
C巣(ボート池の中央、ステージに近い):抱卵中で1週間以内に誕生するそうです。
D巣(ボート小屋近くの売店裏):卵がありましたが、すべて蛇に侵され消滅状態です。
F巣(弁天池の橋から見える):卵6個を抱いていて、今日明日にも誕生するようです。
E巣(水生園の岸辺):入らなければ見えません。
これからはF,Cで雛が生まれそうです。毎日のWALKINGと兼ねて楽しく観察しています。』
 親鳥の大変さが伝わってくる。


 こんなことを考えてしまった。数百年後に、この池はあるだろうか、その時の子育ては、どのように変化しているのだろうか。また、もっと先には進化論により、どのように進化するのだろうか。それとも絶滅種になってしまうのだろうか。人類と、どちらが持続性を保てるのだろうか。


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メタエンジニアの眼シリーズ(32)古代のインド―ヤマト文化圏(その2)

2017年05月25日 07時55分07秒 | メタエンジニアの眼
TITLE: 「古代のインド―ヤマト文化圏(その2)」 KMM3333,34 
 
このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

清川理一郎の古代インド説 ③of4
書籍名;「薬師如来 謎の古代史」[1997] 
著者;清川理一郎  発行所;彩社流  発行日;1997.3.5
初回作成年月日;H29.5.15 最終改定日; 
引用先;文化の文明化のプロセス  Converging 

 副題を「仏の素顔とインドの魔族」として、現代の仏教の複雑性と、特にインドの仏教以前の神々との関係を探索している。

仏教の経典は、他の宗教に比べて格段に多い。それは何故か。私は、特に仏教に詳しいわけではないのだけれども、彼の説には、なるほどそういった見方もありそうだ、との印象を持った。現地・現物でその場で思考範囲をできるだけ広げてその根源を考える態度は、その場考学流のメタエンジニアリングとまったく同じである。



 先ずは、総論から。
 『仏教の経典の数はきわめて多い。そして、釈尊の直接の教えといわれる金口・直説とされる経典が非常に多いのである。経典類は一括して大経蔵とか一切経とか呼ばれているが、そのなかには教えを記した経典のほかに教団の規律を定めたものと、教えを解釈した論書も含まれる。
いわゆる経・律・論の三蔵である。』(pp.22)

 経典の由来につぃては、
 『文字はシャカの時代よりも千年以上前にすでに存在していた。ただ崇高な教えは文字に写すことはできないということで、口から口へと伝えられたのである。バラモン教の経典についても、このことはいえる。シャカ滅後、経典編集会議(結集)が何回か開かれるようになるが、しばらくの間は、やはり暗記しているものを口で言い合い、確かめあって解散したので、文字に写すことはしなかった。』(pp.23)

 この経過から考えると、文字を使わない文化の方が賢い文化と云える場合もあることを思わせる。プラトンの、「正しいこととは、論じ合うことだ」の言葉を思い出す。
 文字文化が印刷技術の進化により一方的に発達すると、印刷されたものは正しいという文化が育つ可能性がある。

 その後、多くの国家や文字言語が発達したのちに、多くの文字で経典が書かれ始めたので、当然の結果として、多くの経典が生まれた。また、仏像についても無仏時代を経た後、特にアレキサンダーの東進の後で、仏像を作りだしたので、ギリシャ風などの色々な様式が同時代に現れた。

 日本各地には、神仏習合の影響の結果、古い神社と薬師如来信仰が集まっている地域がいくつかあるという。その中の一つに越後の弥彦山周辺がある。
 『仏教の霊地になる以前の弥彦の地に、仏教の・・・』(pp.44)ではじまり、今は無人になっている周辺の寺々の説明が続く。

それらには、『薬師寺の南側にある湯(くすり)神社は石薬師明神を祀るヤクシブツ信仰の神社であり、巨石信仰と蛇神信仰を持つ。野積の妻戸神社は弥彦神の妃神おヨネを祀る神社で、巨石信仰と蛇の信仰を持つ。』のように、不思議と古代の信仰対象が保たれていることが多い。

そして、「ヤクシブツ信仰圏」なるものを想定しており、そこに集まる諸仏についての系譜を纏めている。

『この系譜には、これまで弥彦の神仏習合の諸仏にみなかった仏が登場する。つまり、吉祥天、鬼子母神、夜叉(薬叉)などである。
系譜上の諸仏の本地はみな外道の時代からヤクシブツの本地とつながりがあり、ヤクシブツ信仰圏の系譜を構成している。また薬師十二神将の一つの金毘羅は夜叉大将の一つで、その前身はインダス河の「わに」といわれる。これを海神として祀ったのが四国の金毘羅宮(琴平神社)である。』(pp.51)
つまり、ヤクシブツ信仰圏にある神社は、ヤクシブツ信仰の原態、つまり外道につながる原形をそのまま残している、という。

そこから、古代インドの「魔族」の説明に移る。
『古代インドの魔族について述べる理由は、これまでみたように、今の私たちの周りに存在する仏の中にたくさんの魔族の出目を持つ仏が居るからである。』(pp.80)

『仏の原態が魔族につながる代表例は、前章で述べた外道時代に魔王だったヤクシャ出身のクベーラ(ビシャモン)である。一方、このクベーラはクビラ(金毘羅)に名称を変えて四国の金毘羅宮の祭神にもなっている。そしてクビラは「わに」の神格化ともいわれる。また、先にみた吉祥天は、ヤクシャ出身の夫(ビシャモン=クベーラ)と母(鬼子母神=ハーリーティ)の双方とも魔族とされる眷属を持った女神信仰出身の仏であった。つまり吉祥天の血筋は、魔族の系譜であった。』(pp.80)

『魔族を大きく分けると三つに分類できる。それはアスラとラクシャス、そしてブートに代表される悪霊群である。先ずアスラの中には、ヤクシャとヴリトラがいる。アスラは神々に敵対する魔族であった。(中略)ラクシャスは、アスラが神々に敵対する存在であったのに対して人間におそいかかる悪鬼とされる。(中略)ブードに代表される悪霊群は、事故、自殺、死刑、毒蛇などが原因の死によって出現するブートと呼ばれる死霊や、・・・様々な死霊や悪霊のことである。』(pp82)

 『この分類の最初のアスラを構成する主たる実態はヤクシャである。外道(ヤクシャ)から仏教(大乗仏教)に入り諸仏になったケースは極めて多い。また、分類の二つ目のラクシャスも仏となるが、ヤクシャとラクシャスは外道において性質が異なる魔族である。』(pp.82)

 最後に、「ヤクシブツ(薬師如来)の出目(原像)は古代バラモン教の魔族・ヴァルナ神だった」として、次のことを記している。
 
『中国でのヤクシブツ信仰は、道教的色彩が濃いものとなり南北朝の時代のとくに南朝に「続命法」の中心となって広められた。では、インドにおけるヤクシブツ信仰はどうであったのだろうか。じつは、インドにはヤクシブツが信仰されたことを示す積極的な資料や、ヤクシブツの彫像や画像などが存在しないのである。このことはヤクシブツをめぐる最大の謎である。多くの専門家は古代インドにおけるヤクシブツ信仰を否定的に考えている。私は、この謎を解く鍵はヤクシブツの外道における出目にあると考える。』(pp.114)
 
つまり、インドではヤクシブツが、その自目まで遡った信仰として残されているというわけなのであろう。古代の魔族としての扱いが続いているというわけなのだろう。

最後に、文化の波状理論にもどる。
 
『二つの文化(民族固有と民族間共通の文化)は、民族の移動、戦争などによって他に伝播する。伝播した文化が民族間共通の文化の場合は、相手の文化も同じなので、相手の文化を吸収したり吸収されたりする文化の融合はスムーズに行われる。
 しかし、固有の文化の場合は、注目すべき分化現象が生ずる。それは、固有文化の中で固有性が非常に強い部分、つまり固有の文化の本質を形成しその文化の“核”となる部分は、伝播した後も極めて長い間変わらないで残存することである。文化伝播の理論の一つ、波状理論とは、文化の固有性が非常に強い部分の文化伝播についての理論である。』(pp.119)

                                                         
 
清川理一郎の古代インド説 ④of4   KMB3333
書籍名;「猿田彦と秦氏の謎」[2003]  著者;清川理一郎 
発行所;彩社流 発行日;2003.2.10   
初回作成年月日;H29.5.15 最終改定日; 
引用先;文化の文明化のプロセス  Converging 

 副題を「伊勢大神・ホツマツタエ・ダビデの影」として、猿田彦が秦氏の元祖で、かつての出雲神族の最高神であり、伊勢大神でもあったが、日本書紀の編纂の頃には、その呪術性を天皇家に独占されて、道祖神にまで落とされた経緯、さらに秦氏の先祖を古代イスラエルに求めている。このストーリーはホツマツタエの話として、一時は偽書扱いを受けたが、今では評価が二分されていると思う。超古代の日本と古代ユダヤの繋がりは、多くの時とところで挙げられている。この一連のストーリーについても数冊の著書があるが、氏は改めて各国の古文書の内容から、これを肉付けしている。その集大成ともいえるのではないだろうか。



 『サルタヒコノオオカミは日本の神武天皇朝以前に存在した日本古代のウガヤ王朝の時代、海の向こうから日本に渡来した外来神である。サルタヒコは数代にわたる神系譜を持つ神であり、わが国先住民族の出雲王朝の神々(国つ神)の祖先神として崇められ、またその最高神として信仰を集めてきた。
 日本各地に分布するサルタヒコ大神を祀る神社は多い。その神格像は時空を超えて複雑であり、多様性に富んでいる。そして一方、サルタヒコはオープンでおおらかな神であるから、当時の一般の民衆に支えられた信仰のすそ野は極めて広く、いくつもの時代をとおして重層的なひろがりをみせてきた。』(pp.2)

『記紀(日本書記と古事記)の描写は、サルタヒコを岐の神、クナトの神、街の神などと呼ばれる道祖神や塞の神にまで格下げし、かつては国つ神・出雲神族の最高神だった、サルタヒコ大神の威光ある原像は描かれていないのである。つまり、記紀は、サルタヒコの真の姿を抹殺したうえ、正史の光のあたらない闇の中に葬ってしまっているのだ。』(pp.2)

『日本各地に鎮座する2000余社もあるサルタヒコを祀る神社の、主祭神・サルタヒコの真お姿を理解していただきたいのである。』(pp.3)

 第1章では、サルタヒコの源郷をチベットの羌族に求め、更にその元を古代ユダヤ教徒の一民族としている。
 第2章では、サルタヒコ信仰の多様性の例として、伏見稲荷、水尾神社、椿大神社を挙げている。
 第3章では、伊勢神宮で真夜中に行われる祭祀から、おおもとの神が男であり、伊勢大神と称されているとしている。
 第5章では、4世紀に大挙渡来した秦氏について述べ、猿田彦がその王であったとしている。
 第6章では、日本各地に存在する秦氏の痕跡について、例証している。
 第7章では、古代オリエントの地で出土した古代文書から、サルタヒコとダビデとの関連性を推定している。
 第8章では、伊勢神宮に伝わる古代ユダヤの神跡について詳細に述べている。有名な、八咫鏡の裏面の画像も表示している。

 以下は、各章から興味ある部分のみを抜き書きした。

『ヌナカワヒメとオオナムチとの間に生まれた神をタケミナカタ命としている。タケミナカタノミコトは信州諏訪の出雲系の諏訪大社をはじめ、全国の諏訪神社の祭神である。いずれにせよヌナカワヒメは、出雲系の有名な神々の大母神だったのだ。』(pp.31)
 この有名は話と、まったく同じ話が中国最古の歴史書である「穆天子伝」(前430~225の魏の時代に成立)にある、西方の地の「西王母」の話を挙げている。彼女もまた、古代の玉を算出する地の女王だった。

 『羌の字は、「羊」の字の下に「人」の字を加えて「羌」とするように、羌族は根っからの遊牧民であった。羌族の歴史は古く、中国の殷代(紀元前十五~十一世紀)の遺物として出土した甲骨文の文字から判断すると、殷の王の祭祀に臨んで、犠牲者として祭壇に捧げられたのが、羌族の人間だったと考えられるのだ。』(pp.36)
 つまり、羌族は殷の民族とは敵対する民族であった。ところが、民族としての力は強く、春秋・戦国時代を生き抜いて、ついには秦国を建設する。

『中国の古代国家、周(西周)が東遷したのち(前770年)、西周の都があった陝西省の地に羌を基層民族とする国家が成立した。この国こそが、後の秦の始皇帝の国家統一(前221年)を経て滅亡(前110年)までつづいた秦国である。』(pp.38)

 羌族は、彼らの聖数を「六」とする「六祖観念」を秦国に持ち込んだのだが、この観念は古代ユダヤから持ち込まれたとしている。

 『鈴鹿市の椿ガ岳の麓に広がる、うっそうとした杉木立のなかに、主祭神・サルタヒコを祀る椿大神社が鎮座する。椿大神社は全国二千余社あるサルタヒコ神社の総本宮であり、古来、伊勢国一の宮として崇拝されてきた。』(pp.50)

伏見稲荷大社については、このように記している。かつての御神体である、おやま「稲荷山」の頂上には数基の古墳がある。

『山頂にある古、墳の年代は古くその古墳はおおよそ先住民の首長や有力者の墳墓と考えられるのである。また山麓の円墳の年代は、秦氏が移住した後の時期とも符合するので、秦氏一族の墳墓とみられている。
私は、山頂の古墳の主である先住民こそサルタヒコの神族の人たちと考える。サルタヒコは稲荷神社にとって古層の地主神なのだ。』(pp.76)

また、「イナリ」の名の根源は別のところにあるとして、
『キリストの頭上にかけられたINRIの意味を多くのユダヤ人が知っていたことだ』(pp176)としている。『処刑された十字架上のキリストの頭上に掲げられた“INRI”が転訛して「INARI」になったものと考える。』(pp.182)

『原始キリスト教徒はキリスト教のシンボルを“魚”とみていた。したがって伏見稲荷社の名が、「INARI」だったり、宮司の名の多くが“魚”に因むものだったりすることなどは、原始キリスト教徒が創始した伏見稲荷大社は、古代キリスト教色が極めて濃かったことの証なのである。』(pp.183)

先日、私はこの伏見稲荷を参拝したのだが、参詣者の大多数が西欧人で、恐らくはキリスト教徒と思われたのだが、これは偶然なのであろうか。いずれにせよ、伏見大社の参道には、「外国人参詣者連続日本一」の多くの旗がはためていた。

また、日本独特の真言密教については、次の記述がある。
『空海は唐に行く前から景教に強い関心を持っていたと思われる。それは、空海の出身地の香川県・讃岐は、原始キリスト教徒の秦氏が多く住んでおり、また空海の師であった仏教僧の勤操も、元の名を秦氏といった。(中略)空海が向かった長安には当時すでに、景教の教会が四つあった。空海がいた場所は景教の教会のすぐ近くだった。空海は景浄という景教僧と接触したと伝えられている。』(pp.284)

『私が残念に思うのは、真言宗の総本山には景教をめぐってこれまでみたような決定的な資料や証拠が残っているにもかかわらず、日本のアカデミズムが密教と景教の関係をなぜもっとはやくディスクローズしなかったかである。』(pp.286)

 以上の4冊を読んで感じたことは、仏教の正式な伝来以前の日本列島は、多くの民族による国家が乱立していたのだが、インドから南方を通じて伝わった文化圏に属する民族の力が強かったようだ。それを記紀の編集によって、ひとつのストーリーにまとめ上げた大和朝廷の政治手腕には驚かされる。しかし、あちこちに「文化の核」が残されており、その繋がりは徐々に明らかになってゆくのだろうということだった。

 4冊に示されたストーリーをすべて正しいと断定することはできないのだが、同時に、すべてを否定することもできない。最近は、日本書記と古事記の内容の真否について多くの著書が発行されている。また、そのような古代から伝わる歴史書は、すべて勝利を得た側が、自らの政権に都合の良いように書き残したものだ、との考え方が有力なっている。やはり、「文字の文化を文明とする」という文明論は、全体最適の眼から見るとおかしなところがあるようだ。SNSなどの発達により、新たな文明の定義が生まれることを期待している。

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メタエンジニアの眼(31) 古代のインド―ヤマト文化圏(その1) 

2017年05月24日 08時27分21秒 | メタエンジニアの眼
このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

TITLE: 「古代のインド―ヤマト文化圏(その1)」 KMM3341,30 
 
 始まりは、古代の諏訪大社の歴史への興味であった。特に、前宮は毎年訪れて、そこからの八ヶ岳の山並みを愛でる、そして、縄文文化の息吹を感じることが習慣になってしまった。そこで入手したのが、①の本だった。それから、彼(清川理一郎)の古代のインドからヤマトへ続く文化圏説に興味をもって、数冊を読んでみた。発行順に並べると次の4冊で、主張には一貫性があった。

 ① 「諏訪神社 謎の古代史」[1995]
 ② 「古代インドと日本」[1995]
 ③ 「薬師如来 謎の古代史」[1997]
 ④ 「猿田彦と秦氏の謎」[2003]


清川理一郎の古代インド説 ①of4   KMB3341
書籍名;「諏訪神社 謎の古代史」[1995]
 
著者;清川理一郎  発行所;彩流社 発行日;1995.3.5
初回作成年月日;H29.5.15 
引用先;文化の文明化のプロセス  Converging 

 副題を「隠された神々の源流」として、諏訪の神様の源流を、古代インドから、さらに旧約聖書に求めている。これは、私が読んだ4冊の最初の著書。
 著者は、早稲田大学理工学部の出身で三菱系メーカーに27年間在籍の後に、古代史と古代宗教の研究を開始した。そして、独自の見解を発表している。私は、諏訪大社に参詣の折に、この書を見つけて、以後彼の著作3冊を読むことになった。



 この書の「はじめに」には、各章の中身が概説されている。
 序章は、波状理論とKJ法を用いた経緯の説明
 第1章は、諏訪大社の御柱祭とネパールの柱立て祭りの関係
 第2章は、古代インド・ゲルマンの神々の話
 第3章は、インドラ神の源流について
 第4章は、御柱祭とタケミナカタ命の関係
 第5章は、古代の諏訪での産鉄の話
 第6章は、諏訪大社の前宮の神と旧約聖書の人物の関係
 第7章は、古代カナンのける女神信仰との関係
 第8章は、古代出雲と古代イスラエルの関係
といった具合である。表題だけだと俄かには信じがたいのだが、順を追って読み進めると興味深い説に思えてくる。

 序章では、「文化の核の伝播と融合」と称して、文化の核としてのその地の神々が、他の文化圏に伝播して融合してゆく過程を説明している。

『「文化」とは、人間が生存するために確立した生活様式や行動形態である、と言われる。次に、文化と関係が深い文明はどうか。「文明」とは、文字の使用、都市の存在、広範な政治組織と職業分化の発達を含む文化の形態であり、といわれる。』(pp.14)

この文化と文明の定義は一般的なのだが、メタエンジニアリング的には「文明」の定義は異なってくる。しかし、ここではその違いは必要ない。

『「波状理論」によると、中心部に発生した文化は、丁度水面に石を投じた際の波のように周辺に広がってゆき、周辺部には古い文化が残存する。中心部に近いほどさまざまの中心部から出た改新波にいくども洗われることになる。(大阪外語大学・井本英一教授著「古代の日本とイラン」、学生社、一九八四年刊)』(pp.15)

つまり、周辺国である日本や中国奥地とインドの少数民族には、中心部(ネソポタミアなど)で起こった古い文化の核が存在するであろうという説になる。

第1章の、諏訪大社の御柱祭とネパールの柱立て祭りの関係では、上社で行われる年間75回の神事の中から、核となるものを限定した。それは、御柱祭の伝統的な諸行事の進め方と、その柱の上に刺される「薙鎌」だった。これは、ネパールのネワール族の祭りなどに共通する。

 第2章の古代インド・ゲルマンの神々の話では、この民族の核となる文化を特定し、後の時代に出現したいくつかのインド・ゲルマン民族に引き継がれているとした。それらは、

『(イ)家長を中心とする父系的・貴族的社会。(ロ)騎馬と騎馬戦車。(ハ)戦斧。(二)樫、ぶななどの聖木(神木)信仰。(ホ)孤立家屋、牧畜。(へ)太陽神に犠牲をささげる。』(pp.45)
などである。

また、古代インド・ゲルマンはステップ地帯から南下をして、以下の3つの集団に分かれたとしている。
 ① ヒッタイト帝国の樹立
 ② インド・アーリア族としてインド・イラン・メソポタミアへ
 ③ 広範囲なヨーロッパ

 インドのアーリア人は、BC1200ころバラモン教の聖典「リグ・ヴェーダ」をまとめ上げた。
 イランのアーリア人は、BC1000ころゾロアスター教の聖典「アヴェスタ」をまとめ上げた。

 第6章の諏訪大社の前宮の神と旧約聖書の人物の関係には、次の記述がある。
 
『ミサクチ神は樹や笹や石に降りてくる霊魂や精霊で人にも憑く神である。そしてミサクチ神の祭祀権を持っていたのは神長官で、神長官は代々守矢家の世襲となっていた。』(pp.148)
 
さらに、キリストの磔刑の場面の絵画に頻繁にあらわされている文字から、『ミサクチ神を、より一層理解するためM(接頭語の子音)・ISAKU(イサク)・CHI(接尾語)、とわける。』(pp.160)とある。これはかなり厳しいこじつけだが、古代のキリスト教とも多くの核が共通していることを挙げている。

 第7章は、古代カナンのける女神信仰との関係
 第8章は、古代出雲と古代イスラエルの関係
については、詳細を省略するが、出雲王朝と伊勢神宮の関係を盛んに記している。


清川理一郎の古代インド説 ②of4   KMB3330
書籍名;「古代インドと日本」[1995] 

著者;清川理一郎  発行所;新泉社 発行日;1995.10.20
初回作成年月日;H29.5.15 
引用先;文化の文明化のプロセス  Converging 

 副題を「海のシルクロードを探る」として、インドを出発点とする、東南アジア経由で古代日本(ヤマト・倭)までの文化の伝播ルートを掘り下げている。そして、その証拠を初期の前方後円古墳に求めている。主な章の構成は以下である。そして、まえがきでは、著者は文献や神話をそのまま受け入れずに、現地で直に見聞きして確認することが、この書の特徴であると述べている。

第1章 インドの聖地バナーラスにシバ神を訪ねる
第3章 バラモン教からヒンズー教への系譜
第4章 前方後円墳の源流を訪ねる
第5章 インド文化の伝播ルート「海上の道」
第7章 素戔嗚尊と大国主命の原像とその謎

第1章 インドの聖地バナーラスにシバ神を訪ねる、副題は「シバ神の原像、その源郷」では、インド各地の遺跡や、寺院、博物館の参道などに置かれている「ヨーニ」に注目をしている。

「ヨーニ」は、Wikipediaでは、「リンガ(liṅga)」の項に下記の説明がある。

『特にインドでは男性器をかたどった彫像は、シヴァ神や、シヴァ神の持つエネルギーの象徴と考えられ人々に崇拝されている。
リンガ像の原型は、インダス文明の遺跡から出土されているが、当時から性器崇拝が存在したか否かは判然とはしないものの、リンガ像の原型になったという考え方は正しいと考えられている。「マハーバーラタ」には、豊穣多産のシンボルとしてのリンガの崇拝が記録されているが、後世にシヴァ信仰の広まりとともにより鮮明になり、大小さまざまなリンガ像が彫像され、多くのヒンドゥー教寺院に祀られるようになった。

通常、リンガの下にはヨーニ(女陰)が現され、人々はこの2つを祀り、白いミルクで2つの性器を清め、シヴァの精液とパールヴァティーの愛液として崇める習慣がある。シヴァの主要な性格は、サマディで、これは日本語の「三昧」に相当する。日本では、「博打三昧」「ゴルフ三昧」というような、悪習慣の意味で使われることが多いが、本来はシヴァ神の本質を意味するものであり、シヴァ神とは極度の偏執的な凝り性を表している。このために、性交であれ瞑想であれ、シヴァは何億年もの時をかけてひとつのことに没頭するのである。

さらにそのような姿がリンガに例えられ、尽きることなく生命を生み、さらに破壊するという原理や現世の本質をあらわしている。すなわちシヴァは、この世の万物を生み出し続ける性器そのものという位置づけがなされる。シヴァは多数の別名を有するが、その一つが「マハーカーラ」で「時間を超越する者」、「時間を創出する者」という意味を持ち、すなわち「永遠」を意味する。人知を超えた存在に対する恐れの感情と、自然のメカニズムを具現化したものがシヴァである。』



第4章 前方後円墳の源流を訪ねる 副題は、「そのコンセプトの源流」では、前期の前方後円墳の代表でもある、奈良桜井の茶臼山古墳と崇神天皇陵の形に注目をして、前期では形状が全くの手鏡で、その形は「ヨーニ」(Wikipediaの写真を参考)そのものだとしている。また、あるじが後円部にまつれれていること、周囲が水で囲われていることも共通であるとしている。
更に、これがインド的な宗教の由来である証拠に、仏教の伝来とともに廃れたとして、以下の記述がある。

『前方後円墳が仏教伝来の時期とほぼ同じ時期に奈良や大阪で消滅した原因はこのことにあったのである。私は、以前は古墳の築造と仏教の伝来との因果関係はうすいと考えていたのだが、因果関係がうすいどころか両者は対立関係にあったのだ。つまり、古墳築造の一派は廃仏派であり、他の一派は仏教受け入れの崇仏派であった。(中略)

群馬、埼玉、茨城、栃木、千葉の各地で後7世紀後半まで前方後円墳が盛んに築かれた原因について、私は、7世紀後半にはまだ、崇仏派の勢力が関東各地におよばなかったこと、そして、その時期にはまだ、関東各地の廃仏派の勢力が強かったことの二つが原因であると考えている。』(pp.103)

勿論、日本における前方後円墳の形は、時代が下がるとともに、日本独特のかたちになり、その優美さと権力の象徴としての巨大さが注目されるようになっていったのだが、その原型の由来としては興味深い説だと思う。

 さらに、『前方後円墳と非常によく似ている前方後円的な古墳が、紀元前後の前漢の時代、中国・江南の地に既に存在したことに驚きをおぼえた。(中略)江南の地に存在した、前方後円墳の萌芽とみられる原形や古代インドの文化は、インドから南まわりの「海上の道」をとおってきたことは間違いないと思う。紀元前後には揚子江河口に、すでにインド僧が住んでいたとの記録がある。』(pp.111)

 似たような話は、韓国の歴史ドラマ「キム・スロ」に出てくる。「朝鮮半島南部で小部族をまとめ上げ、優秀な製鉄技術と海洋貿易で名を馳せる国家(伽耶)》の初代王になったのがキム・スロ」として紹介されている。当時既にインドから海を渡って倭の地域へ至るルートは、確かに使われていたのだと思う。

 さらに、前方後円墳の英語名が、「Keyhole Shaped Tomb」であることも紹介をしている。
また、ヒンズー教がバラモン教の核の部分を残していること、また、ヒンズー教のそれらと、日本の神道の真髄の共通性などを、多くの例を挙げて述べている。(pp.123, 133)

第5章 インド文化の伝播ルート「海上の道」、副題は「日本、韓国、中国・江南」では、「アジア文化の模式図」として、①揚子江とガンジス川に囲まれた「東南アジア・南太平洋諸島」の稲・魚介・船を主とする文化圏と、②インダス川から草原・大陸部を経由して黄河流域に至る麦・獣肉・馬を主とする文化圏を明確に分けている。日本の、特に太平洋側はこの①の文化圏にある。

このように考えてゆくと、キッシンジャーが言う「日本の文化は孤独である」のではなく、古代インドとその周辺の少数民族と、東南アジアから江南の地域の文化の核とは共通するものが多く存在することになる。古代からの核となる文化が共通であることは、今後の文明の変遷にも影響がでると思われる。
一方で、現代の米国の文化は、その唯一の核であるキリスト教が、内外の抗争を続けている。このように考えてゆくと、キッシンジャー説は正しくない。

第7章 素戔嗚尊と大国主命の原像とその謎 については、氏の著書の3冊目と4冊目に詳細を譲ることにする。
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その場考学のすすめ(14) ジャック・ウエルチとの出会い

2017年05月17日 07時24分17秒 | その場考学のすすめ
その場考学のすすめ(14)    H29.5.17投稿     

TITLE: ジャック・ウエルチとの出会い

私の過去の名刺ファイルを繰ると、176枚のGEのロゴマークの入った名刺があった。1970年代半ばから2005年までの30年間のお付き合いの結果だ。最初の付き合いは、タービン翼の研究関係で、彼らの伝熱工学の知識と応用技術に関心を持ったが、別途述べたように、特許論争などから、大きな脅威は感じられなかった。最も驚いたのは、材料に関するデータベースで、膨大な資料が全て3種類に色分けしてあった。研究段階、試用段階、実用段階の3種類だ。
本格的な付き合いは、GE90エンジンの共同開発で、このときにはいくつかの疑問があった。そのときのことを思い出し、改めてこの2冊を読みかえす気になった。

2 001年に、ジャック・ウエルチ に関する2冊の本が発行された。一つは、有名な彼自身の自叙伝で、他の一つは彼の在任中にGEから発行された「アニュアルレポート」を年次順に纏めたものだ。この両書を照らし合わせると、今まで疑問に思っていたことの、裏の事実が見えてくる。

① 「ジャック・ウエルチわが経営」(上)、(下)
著者;ジャック・ウエルチ  発行所;日本経済新聞社 発行日;2001.10.21

② 「GEとともに」
著者;GEコーポレート・エクゼクティブ・オフィス 発行所;ダイヤモンド社 発行日;2001.10.18
 


プロジェクトが一段落した後での付き合いは、Value Engineering(価値工学)とQuality Control(品質管理)と防衛庁が導入した自衛隊機に搭載されたエンジンに関するものだった。考えてみると、これら3つの全ては、彼らにオリジナルがあり、我々はそれを導入して成長した。オリジナルに直接アクセスできる機会を常に持っていたことが、メタエンジニアリング指向の根っこになったのかも知れない。

相手方の対応態度は、初めの10年間はもっぱら教師役で、ほぼ何でも答えてくれたし、こちらが望む以上のものまで見せてくれた。GE90プロジェクト前後の10年間は、彼我の長所と欠点が明らかになった期間で、GEへの脅威は全くなくなり、むしろ老齢化が進んだ気の毒な企業に見えたこともあった。そして最後の10年間は、まったくのビジネス・ライクの付き合いで、むしろ数名の友人とのプライベートな会話を楽しんだ。ここでは、中間の
10年間に思っていた疑問を解決するために、その箇所に限って読むことにした。

第1の疑問は会社の組織体系に関するものだった。GE90スタート当初は、V2500プロジェクトも最初の型式承認が取れた後に続けて、第2、第3の型式承認(AirbusA320機用の大型化とMcDonaldのMD90機への搭載型)を得るための開発の真っ最中で、当方のエンジニアの数が圧倒的に不足をしていた。そこでGEに作業委託をすることになったが、紹介されたのが英国の中心部のレスター市にある「GEC」という会社だったが、こことGE本体の関係が不明だった。ある人はGEと一体と言うし、ある人はGEとは全く別の会社だと言っていた。作業委託は20~30人規模の設計業務だった。

第2の疑問は、GEという巨大企業の中で、ウエルチが次々に打ち出す経営改革の手法が、どのように各個人に浸透しているかといったことだった。当時のGEのエンジニアは、担当分野に限らずすべてが過去に作られたマニュアルによって作業を進めていた。つまり、伝統墨守と改革という相い反することが、同時に行われていたことになる。

第3の疑問は人事関係で、当時はベルリンの壁の崩壊から始まった東西冷戦の終焉のために、GEを離れてゆく人が、身の回りにも大勢いた。一方で、V2500で付き合ったRolls Royceのエンジニアが数名GE社に入社しており、お互いに、突然顔を見合わせてびっくりしたものだった。
これらの疑問は、それ以降は解決の当てもなく忘れていたが、この書に出会って、もう一度考えてみることにした。きっかけは、通常のエンジニアリング ⇒リエンジニアリング⇒メタエンジニアリングという一貫した流れに、どうもウエルチの施策が重なって見え始めたからである。
彼の根本思想が、正にメタエンジニアリングそのものに見えてきた。

①の著書は、まったくの自叙伝で冒頭の12ページにわたる彼の家族の写真(自身の少年時代、両親、奥さんと子供たち、孫たち)の後での第1ページにはこんな言葉が記されている。

『数十万のGE社員に捧げる その人たちの知恵と努力のおかげで、私はこの本を書くことができた。
*本書からの著者が得る収益は慈善事業のために寄贈されます』


第4部「流れを変えるイニシアチブ」には、次の言葉がある。

『1990年代われわれは、グローバル化、サービス、シックスシグマ、Eビジネスという四大イニシアチブを追求した。どのイニシアチブも、最初は小さなアイデアの種から始まった。それをオペレーティング・システムのなかに撒いてやれば、成長のチャンスが生まれる。われわれの四つの種は大きく育った。われわれがこの10年間に経験した加速度的な成長を支える重大な要素になった。

これらは「今月のおすすめ」といった類のものではない。GEでは、イニシアチブを全員の心をつかむものと定義する。会社全体に重大な影響を与えられるだけの大きな規模、広範囲、包括的なものだ。イニシアチブの活動に終わりはなく、組織そのものの性質を根底から変える。それがどこで生まれたものであろうとこだわることなく、私はチアリーダーの役目を果たしてきた。すべてのイニシアチブをときに狂信的ともいえるほどの情熱と熱狂によって支えてきた。』(pp.124)

これは、第2の疑問の答えの一部になる。当時も気になっていたが、マネージャー・クラスに対する全員一括教育の徹底が、この雰囲気を作ったのだろう。

ここでの注目は、「会社全体に重大な影響を与えられるだけの大きな規模、広範囲、包括的なもの」という言葉で、特に「大きな規模、広範囲、包括的」と「性質を根底から変える」と云うことに、彼のチャレンジ精神と、同時にリスクテイキングを感じる。多くの日本人の経営者が不得意とする領域だ。

これについて、②の著書の1988年の項には、次のようにある。

『GEの経営陣は、CEOと各事業の工場の間に存在する管理職を九人から四人に削減しました。計算ずくの賭けではありましたが、80年代中ごろには、第2、第3階層の経営陣―セクター,グループと呼んでいた階層―を取り除きました。
14の主要事業部門については、従来のように副社長に報告し、副社長が上級副社長に、しかもすべて補佐とともに報告するのではなく、いまでは我々3人に直接報告しています。この方法が成功するか否かは、業務レベルにおけるリーダーシップの質に依存しています。我々はそれだけの質を備えていると賭けて、これに勝ったのです。』(pp.88)

ここで彼は、「改革は賭けだった」と明言している。日本の大企業は、相も変わらずに、セクターとか、グループと呼ぶ組織を作り続けている。前に紹介したビジネス・プロセス・リエンジニアリングの採用も、中途半端では効果が出ないことは、明らかだ。

これによってGEは、アイデア、イニシアチブ及び判断は、多くの場合音速で(すなわちペーパーではなく会話で)進んでゆくと明言をしている。さらに同時に、セクショナリズムが一体感に変わったとも明言している。まさに、「大きな規模、広範囲、包括的」のためであろう。

第1の疑問の「GECという名の会社」については、同じ②の1988年の項に記されている。

『最後に、89年初め、歴史に残るともいえる、イギリスのゼネラル・エレクトリック・カンパニー(GEC)との一連の契約を締結しました。これによって14の主要事業のうち4事業(メディカルシステム、大型家電、産業用電力システム、送電機器)がヨーロッパ市場に参入する道を大きく広げたことになると思われます。』(②pp.86)

 つまり、それまでのGECは全く米国のGEとは無関係だったのだ。しかも、英国のGECが、ヨーロッパにおける4事業の主力会社だったことが記されている。名刺ファイルを繰ると、「GEC」の名刺は、僅か6枚だった。1990.7.5のDirector of EngineeringのD.B.氏のものが最初で、彼は、「GEC ALSTHOM」の人であった。そして、我々が設計業務を発注した相手は、RUSTON GAS TURBINS LIMITEDのエンジニアであった。このような判断も、GE内では音速のスピードで行われていたのであろう。

 ついでながら①の著書には、こんなくだりがある。

『グローバル化が飛躍的に進んだ年があるとすれば、1989年だろう。それはイギリスにあるGEC(ゼネラル・エレクトリック・カンパニー)会長のアーノルド・ワインストックからの電話で始まった。(GECの名称はGEとまったく同じだが、両者の間には何のつながりもない。やっと2000年にGECがマルコーニに名称変更して、GEの名称に対するすべての権利を買い取ることができた)。』(①pp.135)

①と②の著書の中で、航空機エンジン関係の話は異常に少ない。少なくとも売上高の割合とは全く釣りあっていない。彼のさまざまな施策からのこの分野への影響が、小さかったからかもしれない。
唯一の話は、1995年の話で、①の第20章「サービスの拡大」に記されている。

『1995年11月に、サービス要員に焦点を合わせた特別セッションCミーティングを開いた。96年1月には航空機エンジン事業で他に先駆けて大規模な組織改革を実施した。エンジンサービス担当バイス・プレジデントのポストを新設し、この事業を独立採算制にした。』(pp.154)
 
そして、直ちに規模拡大に向けた戦略を展開した。既に、世界各地にオーバーホウルの拠点工場を持っていた(プロジェクト担当当時、私はGEの手配でロスアンゼルスから成田経由でシンガポールの工場の見学をアレンジされた)が、BA(British Airway)からウエールズの工場を、ヴァリク航空からブラジルの工場を買収した。それらはすべて、サービスコストの大幅な削減に寄与したと述べている。

 ①の第21章「シックスシグマ」では、1995年の心臓発作の話が語られている。既に20回の発作を経験していたそうだが、夜中の1時に「苦しい、死ぬ」と叫んで緊急入院し、手術を受けたとある。そして、「シックスシグマ」の導入は、自宅での療養中に決断をして、実行に移した。「シックスシグマ」の実行は、膨大な作業を伴うので、導入の可否の決断は、このような日常を離れた環境だからこそ、できたのではないかと思う。

 ウエルチは品質改善運動についてはこのように述べている。
『品質改善運動に本気で取り組もうとは決して思わなかった。品質向上プログラムはスローガンばかりが大げさで、その成果はほとんど上がらないものだと考えていた。
1990年代のはじめころ、航空機エンジン事業がデミングの品質向上プログラムに試しに取り組んでいた。このプログラムがあまりにも理論を追いすぎていたために、私はこれを全社的なイニシアチブにしようとは思わなかった。』(pp.167)

『業界では、一般的に100回のうちおよそ97回旨くゆけば通用する、これは3から4シグマだ。この品質レベルは具体的には、不適切な外科手術を毎週5000例、郵便物の紛失が1時間あたり2万件、間違った薬の処方箋が1年に何十万枚も発行される、という数字だ。考えるだけでも愉快な話ではない。』(pp.167)
 ちなみに、このシグマ数値は間違っている。彼の数値は正規分布の両側をとっているが、シックスシグマでは、確率論に意図的なバイアスをかけており、けた違いに厳しい数字になる。

彼が、何故品質管理に対する考え方を180度転換したかは、単純だった。『さらに私が行った調査でも、品質こそGEの抱えている問題だ。これが一点に集約されたとき、私はシックスシグマの信奉者となってその導入に着手した。われわれは、シックスシグマ担当として中心人物を二人指名した。全社的に展開するイニシアチブのトップ、ゲリー・ライナーと、私の長年付き合っている財務アナリスト、ボブ・ネルソンで、費用便益分析を行った。』(pp.168)
 
その費用便益分析の結果は驚くべきもので、コスト削減効果はGE全体の売上高の10~15%になった。そして直ちに、シックスシグマの元祖であるモトローラからシックスシグマ・アカデミーの経営者を招いて全員教育を始めた。つまり、目的は、GE全体の売上高の10~15%のコスト削減だったわけである。
 
さらに、ブラックベルト(指導的立場のスタッフ)に、ストックオプションを設けたり、グリーンベルト(活動のリーダーの資格)のトレーニングを受けることを、マネージャー昇格の条件として、厳しく守らせた。
このストーリーは、私の第3の疑問の人事管理に関する答えになっている。彼は、①の最後でこう述べている。

『人材のトップ20%に報い、ボトム10%に転身を勧める』

 まさに、その時その場での的確な決断の速さを維持するために、多くの情報が智慧化して蓄えられている。
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その場考学のすすめ(13) リエンジニアリングとの出会い

2017年05月16日 07時00分19秒 | その場考学のすすめ
その場考学のすすめ(13)    H29.5.16投稿     
TITLE: リエンジニアリングとの出会い

1989年から、私は10年前からChief Designerとして担当をしていたV2500プロジェクト(英・米・独・伊・日の5か国共同でAirbus A320機に搭載する全く新しいエンジンを開発する)に加えて、General Electricが開発中のGE90プロジェクト(当時Boeingで開発中のBoeing777機に独占的に搭載されることが決まっていた)にChief Engineerとして参画することになった。年間数回繰り返されていたアメリカへの出張は、Pratt & Whitney社のあるEast HartfordとGE社のあるCincinnatiと数社の材料・加工メーカーを渡り歩く羽目になった。
 
当時のGEは、あのジャック・ウエルチの全盛期だったが、彼とのニアミスはたった1回だった。彼が航空機用エンジンのビジネスに本腰を入れたのは1995年からのオーバーホウル・ビジネスからで、当時はフランスのスネクマ社との合弁事業であるCFM56エンジン(Boeing737機に搭載)が好調で、ただ一つ興味は「世界最大の、しかも跳びぬけて大きい革新的なエンジン」を開発することだったと思う。

蛇足だが、1回のニアミスは、私が開発プロジェクトのオフィスからGEの社有滑走路へ行くために乗ったGEの社有車の運転手が、「たった今、ジャックを空港からホテルに送ったところだ、彼がCincinnatiに来るのは、本当に珍しい」と云って、道々エピソードをいくつか話してくれた、たったそれだけだった。
 
しかし、当時ビジネスプロセス全体の改革に取り組んでいたウエルチの具体策を国際共同事業に最初に適用したのが、このGE90プロジェクトだったと思う。それは、この開発のオフィスのあり方や、後に始まった初号機からの製造工場のあり方に明確に表れていた。具体的なウエルチの思想は、彼自身の言葉で書かれた「ジャック・ウエルチ わが経営(上)、(下)」[2001](別途、KMB4084)に譲るとして、ここではその元になった有名な著作から引用する。

書籍名「リエンジニアリング」[1994] 
著者;ダニエル・モーリス、ジョエル・ブランドン  発行日;1994.1.10
発行所;日本能率協会マネジメントセンター



 この書は、1993年にMcGraw-Hill社から発行された「RE-ENGINEERING YOUR BUSINESS」の訳本なのだが、文中にあるように、その思想と方法論は、その10年前から米国内には広がっていた。
 
『原理原則の方法論は、最近のリエンジニアリングの実践にはリンクしなくなってきている。ここで述べられる、ダイナミック・リエンジニアリングの実践導入の方法は、10年前から我々によって開発されてきたRSD(Relational Systems Development)を基礎としてみられたものであり、事業の統合やコンピュータのよる業務の統合にこの方法を導入してきた。』(pp.15)
 
この書の内容の多くは、具体例の説明に終始しているので、そのことは省略して、その本質のみを引用する。そのことは、「著者のまえがき」に凝縮されている。つまり、従来行われてきた各種の社内改革がバラバラで効果が小さかったが、一つの最終目的のためにそれらを統合して、大きな改革を行う、と云うものだった。

『マネジメント革新の考え方もさまざまなものがある。インダストリアルエンジニアリングは事業をいわば一つの機械としてとらえ、事業を新たな機構モデルを設計するような方法で革新にアプローチする。組織開発では業務の心理的側面を強調し、業務の第一線の士気を上げ、事業目標に向かい前進する方法により革新を展開する。品質管理論では、業務というものは処理された業務の結果を再検討し、それをプロセスにフィードバックし続け、常に革新するべきであると考える。一般的な経営アプローチでは、事業を小さな業務に分け、それらのプロセスをガントチャートに書き出し、“それを行え”といった具合に革新を展開する。

これら四つのアプローチはすべて過去に実績があり、その価値が証明されているものである。しかしながら。それらはこれまで効果的に組み合わされることはなかった。インダストリアルエンジニアリングと組織開発は、まったく相反するものと考えられてきた。一流の経営者は、いま、過去のムダにおこなわれてきたさまざまなプロジェクトを超えた、何かしらの新たなアプローチ方法が必要であると感じている。』(pp.1)

『ビジネスプロセスのリエンジニアリングはベテランの管理者にとっては、小規模なものはすでに経験済みのものである。それはこれまでの経営や経営科学の有効的な面や非有効的な面について検討し、全面的な管理を行うことにより、複雑な環境下においても導入可能なものになり得るのである。また、新しい情報技術により効果的かつ管理された方法で、新しいビジネスプロセスの設計が可能になりつつある。我々の目的は経営者に対し価値ある革新とは何かを知るための経営手法を明らかにし、強調することである。』(pp.2)

これではいかにも抽象的なのだが、「価値ある革新とは何か」が、単なる改革活動とは異なるように思う。本論の目次には以下のようなものがあるが、中身は割愛する。
第1章 ダイナミック・ビジネス・リエンジニアリング
第3章 パラダイムの転換
第6章 ポジショニングの実践
第7章 ビジネスプロセスのリエンジニアリング (9つのプロセスの具体的な手順の内容)
第9章 人的資源のリエンジニアリング
第10章 新たな事業環境の創出

 「訳者あとがき」には、次の言葉がある。
 『アメリカが半歩先行している「知的生産性と革新力」が向上することにより、新しい優位性が用意できる。工業化社会での競争優位は機械設備で決まったが、知識社会では、組織の知識・情報・行動で決まる。しかも、その速さが鍵であり、これが日本企業の次のターゲットである。』(pp.306)

 「その速さが鍵」は、まさにその場考学なのだが、日本はまだ「その速さ」が足りないように思うことがしばしばある。GEで経験した具体例は、その場考学のすすめ(14)「ジャック・ウエルチとの出会い」で示す。
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