浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2017-10-22 23:53:02 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第一章 或る愚か者の生涯

       ◆初めて世間の風に当たり、お金を稼ぐ◆

先の続き・・・

何年かして母親のほうから、それまで家に送っていた私の給料で
姉達の嫁入り道具をそろえたりして役に立てさせてもらったので、
これからは自分自身のために貯金してほしいと言ってきてくれました。
家のために使わせてもらってきて申し訳ないからとのことでした。
それでは貯金させてもらいますと言って、自分で貯金をしました。
当時、給料は六千円ほどでした。
すぐに十万円ほどできました。
自分の小使いなどほとんど使いませんでした。
でも、毎月給料をもらうと決まって、私は飲みませんが、
仲間に一杯やろうとタカラみりんとスルメを買ってきてみんなに飲んでもらいました。
その頃、私の二つ下の弟が近大に一年通い、それからいい先生がいるというので立命館に
移ろうとしましたが、そのためには入学金として当時五万円必要でした。
そのことを弟は長兄に言うとそんな大金はないと言われ、
どうしても行きたいと私のところに相談に来ました。

私も大学に行きたかったのですが、
兄が戦争から帰って来なければ自分が後を継がなくてはならないので、
上の学校に進むのを諦めて家の手伝いで農業をしていましたが、
戦後まもなく兄が帰って来たので、一粒の葡萄で家を出ることになったのでした。
弟には「よし、そんなら、今、十万貯金できてるから、これを持っていき。兄ちゃんの
代わりにしっかり勉強してや」と言って貯金の全部をあげました。
それから、また一からすべてやり直ししました。
ちょっと寂しい気もしましたし、すっとしたようなヘンな感じもしました。
後年、私の長女が結婚する時にこの弟が百万円もお祝をしてくれました。
「ぎょうさん祝いしてやってくれやなあ」と言って、ありがとうと受け取りましたが、
それを郵便局の(当時の金利で七分以上ありましたので)定期預金に入れて、十年は
出さないでほしいと言って、これをそのままその弟への祝いに返しました。
それが十年すると倍に増えて二百十万円になっていました。

船に乗る時にお世話してくれた人の家が事情があってとても貧乏になって年も越せぬほど
つらい生活をされていると聞いた時、まだ十代でしたが、当時のお金で二万円(当時の
月給が六千円ですから四カ月分ほどですが)を正月のお餅でも買ってくださいと送りました。
非常に喜んでくださいました。
その喜びはその方にとって亡くなるまで忘れられなかったようです。
もらうのはあまり好きではなく、
出してしまうのが好きというのは幼い頃から見てきた布施の習慣からも来ていたのでしょう。
布施の行いが自然に身につき、子供の頃からの積み重ねがあって、今日の私があります。
日銭を稼ぐという言葉がありますが、それも自分の生活のためというよりも、
気がついてみれば一生懸命働いて得たお金は結局は誰かのために役立ててもらったり、
また善い事に使ってもらったりして、そのこと自体に私は喜びを味わってきました。
人生を振り返ると、実に多くのお金の出入りがありました。
人に信用を裏切られたことはたくさんありまあした。
信用して貸したお金が反ってこなかったこと、人にお金を融通させてもらいながら、
なんの挨拶もなかったことなど挙げたらきりがありません。


            ~ 感謝・合掌 ~




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「御垂訓」

2017-10-22 00:05:05 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第一章 或る愚か者の生涯

        ◆初めて世間の風に当たり、お金を稼ぐ◆

十六歳と一か月の時から二十歳までの間は船に乗って、ただがむしゃらに働きました。
給料の封は切らずに故郷に送っていました。
その間、旅客船でしたからチップなどを結構いただいていたので、
お小遣いにも困りませんでした。
船を降りる時、当時の金で三万円ぐらいあった貯金も父母に全部差し上げました。
初めて故郷を後にして一般社会に出てみると、
それまでには考えられなかったような厳しい環境のもとで、
いろいろの体験が待っておりました。
親元にいたらなあと思うことがよくありました。
まず、メスルームボーイという船の下士官の身の回りの世話をする
見習いの仕事から入りました。

「メス!メス!」と呼ばれて人に使われました。
長崎の三菱造船所に、戦後まもなくの昭和二十三年にできた新造船で瑠璃丸と名付けられた
関西汽船の客船がありました。
その船を受け取りに行くのに、乗組員として乗船したのが最初でした。
船の中の狭い社会で上下の人間関係でずいぶん苦労をしている仲間の姿を見るにつけて、
たいへん同情させられたり、
また人の心というもののマイナス面を多く見せられる場面にも遭遇しました。
私はその頃より人生について人間について疑問を持ち始めました。
下船してから染物工場に住み込みで就職しました。
泉大津というところにあり、長姉の嫁ぎ先でした。
そして、姉の嫁ぎ先の染物工場に勤めるかたわら自然と覚えたラジオの組み立てのアルバイトでは、
給料以上のお金を得ました。
昭和二十七年の頃です。

姉婿の弟がラジオをさわるのが好きでした。
近所の古いラジオを修繕するといって持ってきて、つぶしてしまったのです。
どうにかならへんかというので、大阪の日本橋の電機の問屋に行って、ラジオのキットを
買ってくることにしました。
組み立て図や説明書も付いていました。
当時は千円程でした。
幼い頃、鉱石ラジオを作ったことがありましたので、簡単に組み立てられました。
そのキットを利用して壊れたラジオをもとに戻すと、すばらしい音が出るようになったので、
その噂を聞き付けて近所から次々とラジオを組み立ててくれという依頼が来るようになったのです。
箱に入れて千五百円ぐらいで組むことができて、それが三千円で売れ、
口コミで注文が殺到しました。
儲かってしようがなかったのです。
一か月の給料よりもこのアルバイト収入の方が余計に入りました。
蓄音器を組めば一万円以上にはなり、さらに高い収入に結び付きました。
何年間かはそんなことをしていましたが、そのうちナショナルや日立などのメーカーから
完成品のラジオが店にでてきたので、きれいさっぱりやめました。
もう少し頭がよかったらテレビの世界に入って電気関係で儲けていたかもしれません。


            ~ 感謝・合掌 ~



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