建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える                下山眞司        

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師走の風景

2016-12-04 14:07:15 | 近時雑感

カバザクラ

ケヤキ

田園

夕映え
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12月!

2016-12-01 09:49:22 | 近時雑感


ススキが寒さを呼んでいる・・・。晴れた日の光景です。

今日は12月の1日。早いものです。
朝から冷たい雨が降っています。

ここ数日の朝の散歩道は一面の霜柱でした。
粘土質の農道は、一面に苔で被われていて、凍ると苔の部分だけもちあがり、かさぶたのように剥がれています。
ただ、暖かくなると、元通りに収まるようです。

散歩の時間が少し遅れ、8時半を過ぎると、気温が上がり、凍土が融けてぬかるみのようになり、歩くのが難しくなるので、極力8時ごろに歩くように努めています。

これからますます寒くなります。要注意です。

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復刻・「筑波通信」―11   水田の風景・・・・・ものの見えかた

2016-11-30 11:12:35 | 復刻・筑波通信


復刻・「筑波通信」―11   水田の風景・・・・・ものの見えかた                   「筑波通信」1982年6月 刊 の復刻

〇水田の風景・・・、それは驚異的である
筑波の近在では、四月末から五月初めにかけての連休の前後が田植えの季節である。水の張られた田んぼが、少し大げさに言えば、はてしなく延々と拡がっている。
その昔、私が子どもの頃、田植え時には田んぼという田んぼは、これも大げさに言えば、人で埋っていたものだ。しかし今は、田植え機があっという間に済ましてしまう。人の手に拠っていたとき、苗は実に見事な平行直線をなして植えられていたものだが、機械になってからは、ぎくしゃくした並行線が描かれるようになった。機械の走った軌跡なのである。こんな不揃いでもいいのなら、糸を張って一直線に植えていたあの努力は何であったのかと思わずにはいられない。辺りを見回しても、人影はあちらに二人、こちらに三人・・・といった具合にまばらにしか見当たらない。昔の活気あふれる田植えどきを見知っている者の目には、噓のような、何か気の抜けた「これで大丈夫なのかな」という不安感さえ湧いてくる、そんな光景である。
中国の畑作地帯で、これも大げさに言えば地面が見えなくなるほど人が群がって土地を耕していた姿、これで農業が機械化されたらこの人たちはどうなるのかと考えた、そんな光景が対比的に私の頭をよぎっては消えた。だから、ほとんど人影の見えない、目の前の水平面の連続は、なお一層広々と見えたのである。

水の張られた水田を見ていつも思うのは、およそ人間のやってきたことのなかで、この水田開発ぐらい凄いこと、驚異的なことはないのではないか、ということだ。
この田んぼの水平面は、天然自然の海原や湖水ではない、まったくの人工の水平面なのだ。しかも、ただの水平面ではない。ただの水平面なら穴を掘って水を溜めれば直ぐできる。水田は、しかし、そんな生易しいものではない。先に水平面の連続と書いたが、それは、言わば無数に近い異なった水平面で構成されているのである。
それぞれの面が一定の水深を保ちつつ、水上から水下へと微妙な段差で隣り合う。水は、幅広い水面を成しながら、僅かな落差の《ひな壇》形の滝を落ちつつ、時間をかけて流れてゆく。落差は、勾配千分の一などざらである。建物などの排水の場合のそれは、どんなに緩くても百五十分の一程度なのだから、水田の勾配の緩さが、いかに驚異的であるか!!しかも、水田をゆっくりと流れ下ってきた水の末端は、現在のような排水ポンプのなかった時代には、自然流下で下の河川すじに戻らなければならなかった。大規模住宅団地の土地造成で排水計画をたてたところ、どうやっても末端で排水ポンプでくみ上げることになってしまうのに、ふと、隣り合う水田を見たところ、そこでは当たり前のように自然流下にまかせており、あらためて水田造成技術の卓越さに舌を巻いたという話を聞いたことがあるが、ことほどさようにこれはそんなに簡単なことではない。
つまり、自然流下にまかせ延々と続く水田風景は、単にのどかな風景として見て済ましてしまうにはまことに畏れ多い、人びとが古来為してきた一大偉業なのである。驚異的なのである
もっとも、私たちが今目にする水田は、ほとんどが、元もとは自然流下によって開かれたものを、農業の近代化により《改善・改良》を施した水田である。水源となる河川は排水を容易にするため深く掘り下げられ、給水はポンプで汲み上げることになる。これにより深田も改良される。しかし、掘り下げられた河川は全長の高低差のつじつまが合わなくなり、ところどころで排水ポンプが必要になる。
このような《近代化》により、今まで考え及びもしなかったようなところにも水田をつくれるようになり、丘のてっぺんに田んぼがあっても珍しくもないし、山林の一部が伐採されて突然田んぼが出現したりもする。昔の田んぼを知っている者の目には、こういう風景は違和感を抱かせるに十分である。
しかし、この違和感は、単に私の既製の田んぼ観と比べての違和感ではなく、よくもここまで機械に頼れるものだ、もしも台風による停電で機械がストップしたらどうするのだ?という思いも抱かせるような、つまり機械に対する絶大な信頼に対しての違和感でもある。

〇水田風景、その成り立ちの経緯
このような機械力による近代農法が水田の拡大・整備を、それなりに進めたことは確かではあるが、しかし、その基になっている私たちが「田んぼ」ということばでイメージする広々とした水田地帯の風景自体も、その成立の時期はそんなに旧いものではない。
たとえば、関東平野の中央部:利根川の南(埼玉県の北部にあたるが)その一帯に拡がる見事な一面の水田風景、背後には村々の杜が島のようにぽっかりと浮いている、こういう典型的ともいえる農村の風景:これはほとんど、高々三百年、徳川の世になってから徐々に開かれ出来上がってきたのである。水を引き、その自然流下にまかせた広く延々と続く水田開発という一大農業土木工事が営々として行われてきたのだ。
しかし、かくも見事になったのは:全面的に埋め尽くされるようになったのは:むしろ最近ということばの範囲にはいる時期のことだとみてよく、明治期には未だあちらこちらに手の付けられない湿地帯:池沼が数多く残っていた(下図参照)。



初期の機械による排水は、このような湿地帯の解消のために為されたのである。各地の排水機場のそばには、その地の水との闘いの経緯を記した石碑を見かける。それは、単なる排水機場の竣工記念ではなく、その地で為されてきた農民の苦労の積み重ね:営農の記録と見た方がよいだろう。
明治以来数度にわたり編集しなおされた国土地理院の地図(当初は陸軍参謀本部作成)を年代順に見比べてみても、そこに、人びとの努力の様態:営為の変遷を如実に読み取ることができる。
   「日本図誌体系」など、このような見かたで「時代ごとの地図」を編集した図書資料もある。
つまり、今私たちが目にする水田風景が成り立つ少し前に、しばらくの間、あちらこちらに湖沼を残したままの状態、すなわち幾たびか水田化を図りつつも一進一退を余儀なくさせられていた時期が続いたのである。
これを、単に、技術がなかったからだと見るのは簡単な話である。
しかし、技術というのは、やみくもに天から降ってくるものではない。
技術というのは、問題の解決のために編み出されるものだ。問題意識の高まりが、新しい技術を生み出す下地となる。問題意識のない場面では新しい技術は生まれないのだ。
だから、この時期は、それなりの問題は抱えていても、それを解決する技術を思いつかない時期であった、と見るのが妥当な見かたではあるまいか。
彼らには、排水すればよいのだということはよく分っていたのだが、高きから低きへ流れるという水の《原理》を覆す効率的な方策を見つけられなかっただけなのだ。排水ポンプという機械の導入によって、彼らの問題意識の高まりを抑えていた堰が切れ、あっという間に低湿地の水田化が進んだのである。
私たちは、とかく。技術が先ずあって、それを如何に利用するか、という段階へ進む、という発想を採りがちだが、当然ながら、これは誤りである。
「技術の意味」を本当に知ろうとするならば、その「時々の問題」とその「問題意識」がどのように高まり、どのように解決されていったか、その「過程」をこそ見なければならないだろう。「技術の利用」は、それを「利用」しようとする側に、「解決すべき問題」が「確として存在していることが前提」なのである。残念ながら、現在は、多くの場合、それが逆転しているのではなかろうか。
もしも、今私たちが更地の関東平野を目の前にして、その水田化を目指そうとしたとき、私たちはどうするだろうか?
おそらく、私たちは既にいろいろな水田づくりについての《知識》を持っているから、それらの知識を総動員して、低湿地の解消:乾地化から手を付ける、あるいは手は付けなくても、そのことを念頭に置いて事を進めるだろう。
更地としての関東平野には、もともと自然現象としての低湿地が各所に散在している(前掲の地図参照)。
今の私たちならば、平野全体を見回して、低・高のつじつまを考慮に入れ、低地から高地へと攻め上ってゆく方策を採るだろう。最低の地は東京湾の海面にほかならず、そこを基準面にして上へ上へと考えてゆくのが《容易》だからである。
しかし、この平野で実際に行われてきたのは、これとは全く逆に、高地から低地へと攻めてきたのである。しかも、高地から低地へ、そして次の低地へと、順次、その都度、その局面でのつじつまだけを考えて攻めてきたから、低地がより低地になればなるほどつじつま合せが苦しくなるのは当然。最終的には既存の天然自然の湿地帯に行き着き、そこで足踏みしてしまうか、あるいは、その自然の湿地帯をさらに拡げて一層始末に負えない湿地帯にしてしまったのである。江戸期末~明治初め頃の関東平野は、多分、こういう様態を呈していただろう。当時まで考えつくされた技術では、そこまでだった、と言ってよい。それまでの比較的順調な水田面積の増加は足踏み状態になり、そのような状況は、初期的な機械の導入までのしばらくの間続くのである。

〇なにが合理的か
先に述べた今の私たちが為すであろうやりかたに比べたら、現実に為されたことは、たしかに極めて非合理的ではある。しかしそれを非合理と切って捨てるのは容易なことだ。だが、そう思うのは、むしろ根本的に誤りと言ってよいだろう。結果論に過ぎないからだ。結果を云々することぐらい楽なことはないからだ。
実際にこの平野の開拓に関ってきた人びとは、合理的ではなかったのだろうか?
今の私たちなら為すであろうことをもって「合理的」と見なすのならば、確かに彼らは合理的ではない。
しかし、私たちにとって「合理的」なやりかたとは、あくまでも私たちにとってしか意味がないということを忘れてはならないだろう。
彼らもまた、彼らにとって合理的なやり方を為してきたという意味で合理的であったのだし、ことによると、今の私たちよりも数等合理的であったのかもしれないのだ。
彼らは、今私たちが機械に頼って水の流れの原理に逆らってまでして(自然の良田を一方で休耕田と称して荒地に変えながら)開田をしている様を見たら、何という無茶な非合理なことを・・と言うに違いない。
この状況について、中公新書 小出博 著「利根川と淀川」に、以下のように述べられている。
・・・・研究者は近代合理主義と経済合理主義を強く押し出して、解釈しがちになる。しかし、河川開発は、時に思わぬ猛威をふるう自然現象に対する人間の挑戦である。とくに江戸時代の自然河川に相対したとき、いわゆる近代科学を足場とする近代合理主義で理解できない部分が非常に多い。・・・
では、関東平野の開田にあたり、なぜ低地から高地へではなく高地から低地へと下りてくる方策が採られたのであろうか。おそらく、その理由は簡単な話なのだ。人は、《その時》抱いている「目的」を達成するために、《その時の状況》に於いて最も良い結果を生むだろうと予測され、なおかつその状況下で最も容易なやりかたを採ろうとするからである。この《原理》は、今の私たちにもあてはまるはずだ。
稲を栽培することに拠って生きることを見つけた人たちがいたとする。実際、縄文時代後期には、そういう人たちが居たのである。彼らは、初めに稲作について詳しく研究・学習をし尽くした上で、しかるべき土地:水田を造成し・・・、しかる後に稲作にとりかかったのだろうか。
今の私たちならそうするかもしれないが、彼らはそんな気長なことはしなかった。最も手っ取り早く、既存の自然地形の中に適当な場所を探し出した。深すぎもせず浅すぎもせず、洪水でもすぐに流されることもない、ほんの水たまり程度の湿地帯:「ぬた」「のた」「やち」「うだ」などと呼ばれるちょっとした湧き水や小川の傍、そういう猫の額ほどの谷状の場所をそのまま、手を加えずに利用することから始めたのである。
そういう所を捜しまわっては、《住めるところ》に人は定住しだした。なぜなら、彼らにはそれで十分だったからである。人びとに拠る開田という壮大なドラマはそういう場所から始まったのだ。
人びとが定着し、人口が増えると、水田も増やさねばならない。そこで人びとは、かつて彼らが自然地形のなかに探し求めていた土地と同じような状況の土地を「造りだす」ことを覚え、同時にそのための技術をも覚え、かつての自然田に続く下流へと徐々に平野へ向けて下りだす。つまり、自然利水の段階から、人びとの目的の変化に応じて、次ぎ次ぎに利水の技術が生み出される段階へと変っていったのである。これは関東平野だけではなく、どこの平野でも同様の毛化を見ることができる。つまり、人びとが最初に定住するようになるのは、平野を取り囲む山々の縁(へり)の部分だったということになる。それは、(当時の)人びとにとってきわめて「合理的な」営みであった。だから、今でこそ、人びとは平野の最低地部に集中しているけれども、古代から中世にかけては平野の縁の部分、主に、現在の県名で言えば埼玉県西部、群馬・栃木県の北部が栄えていたのである。ここで触れてきたことは、(遺跡)地図上で、初期の稲作いそんで暮した人びとの住居・村跡、水田の条里制遺構、古墳、国府の所在地、東山道の道すじ、有力荘園の所在地、古代豪族の拠点の地、あるいは中・近世の村の位置・・・などの分布状況、その性向を確かめることに拠って自ずと明らかになる。遺構・遺跡は人が何かを考え、何かを為した、その名残りだからである。下図は、関東平野の古墳の分布地図である。

このあたりの状況について、先に引用した専門研究者 小出 博 氏の著書「利根川と淀川」(中公新書)に明快な解説があるので、当該箇所を以下に抜粋する。
・・・・・・(鎌倉時代、埼玉平野の)古利根川筋、中川筋の湖沼・沼沢地帯に大規模な開発工事を行うことは、たとえ鎌倉幕府の強い 権力を背景とし、関東武士団が・・・・・多くの農民層の労役を駆使したとしても、技術的に不可能であったと思われる。
技術的にという意味は、当時この低地を乱流する利根川、渡良瀬川、荒川を治めることがむずかしいため、開発ができなかったということではない。この考えはいかにももっともらしく、良識的である。
しかしわが国水田の開発経過をみると、治水が利水に先行して行われた場合はほとんどなく、治水を前提としなければ水田開発ができない場所はごく限られ、河畔の局部にわずかに分布するにすぎない。農民による水田開発がある程度すすんだ段階で、はじめて治水が取り上げられ、生産の場の安定と整備の役割を果すというのが普通であった。
この意味で、利水は常に治水に先行する。従ってこの場合、問題は利水(水田化)のむずかしさにあったといわなくてはならない。
湖沼・沼沢の開発は、技術的に非常にむずかしい多くの問題をもっている。まず湖沼・沼沢の排水をどうするか、排水に必然的に伴う用水の確保は可能か、ということは開発に当って直面する重要な課題である。その解決は、当時まだ経験的に知られていなかっただろうし、ことに水田農業ですすんだ技術をもつ西南日本で(も、そういう場面はほとんどないから)ほとんど経験のないことである。従って広大な湖沼・沼沢に(対してその水田化へ向けて)不快関心をもったとしても、ただちに大開発をすすめることはできなかったにちがいない。湖沼・沼沢を取り囲む自然堤防に居を構え、地先を部分的に排水して低湿田とし、可能な場合にかき上げの囲堤を設け、不安定な水田を開くことがせいいっぱいで、先ず農民の発想でこれが行われたのではなかろうか。・・・・・・


〇風景の見えかた
都会の雑踏を逃れ、いわゆる《田舎》に出向いたとき、目の前に拡がる山々や川や湖沼や森、林そして田園・・・の風景。
そのような風景を、最近の私たちは、単に、《映像としての風景》=《景観》としてしか見ないようになっているのではなかろうか。目の前にする風景の「背景」と「奥行きの深さ」について想いをめぐらす、そういう見かたをしなくなってしまった・・・。
人と大地の係わりだとか風土と人間の関係などについては、確かにあちらこちらで語られてはいるけれども、その多くは観念的でリアリティを欠いているように思う。
「水田」という語を見たり聞いたりした瞬間から、《稲を植えるために仕立てた土地のこと・・》などという辞書的解説が頭に浮び、「それは人間がつくりあげたのだという事実」については思い及ばない。
そこで見えているのは、まさに《映像としての風景》に過ぎず、それと人間一般とをただ突き合わせたところで、人と大地、風土と人間の係わりが分る道理もないにもかかわらず、相変らずそのような見かたが大手を振ってまかり通っている。
稲を植えるために「仕立てた」のは、その稲に拠ってその地で生きてゆかなければならなかった人びとであった、という理解・認識が失われてしまっているのだ。
私がこの「事実」を身にしみて「知った」のは、というより、理解のいとぐちが私に見えてきたのは、筑波に移り住んで、実際にそういう風景の一画に身を置くようになってからのことだった。遅すぎたなぁと何度思ったかしれない。こういう見かたがあるのだ、大事なのだ、ということを、その時まで、学んでいなかったのだ・・・。
もしも、こういう見かた:単に映像としての風景としてのみ見て終るのではなく、その背景にまで思いを至らしめて見ようとする習慣が当たり前になっていたならば、畑や山林一つをとっても、単に〇〇が栽培されている畑、〇〇の林という扱いで済ますのではなく、これはあの村の、そしてこれはこの村の人びとが営んでいる畑・山林である、あるいは、それが今のような姿になるまでにはかく「かくしかじかの過程があったに違いない・・・」、といった、それこそまさに「人と風土との関り」がはっきりと目に見えてくるだろう。
そして、そうであったならば、仮に、そこを貫いて新しい道を通さなければならないというような場面にぶつかったときでも、いいかげんなことはできない・・・、という「正当なためらい」が心に湧き上がってくるはずだ

先日、自転車で散歩に出た。かねてから土浦市の自然保護団体が保存を訴えている宍塚(ししづか)大池を見に行ってみようと思い立ったのだ。このあたりは霞ヶ浦に続く低地が拡がっているのだが、そこだけ小高い丘陵が続いていて、その丘陵の中の谷地の一つである。
舗装された道を行くのは面白くないので、集落の点在するこの丘陵を縫って自転車を走らせた。微妙に襞(ひだ)が入り組んでいるから道は激しく登ったり下ったりする。それとともに、林があり、田んぼがあり、また林があり、畑が拡がる・・・といった風景が次ぎ次ぎに展開する。そのような山林の中で、草で覆われて辛うじて道らしいとしか思えない畦道風の道が交叉しているところに出た。どちらに行こうか思案していたところ、なんとその草陰に道しるべ、しかも石の道しるべが立っている。宍塚へ〇丁、古来(ふるく)へ〇丁、吉瀬(きせ)へ〇丁、上室(うえのむろ)へ〇丁とあった。いずれも集落名である。明治の町村合併以前は、村名であった。
今私の目の前に続いている道は、ほんの少し前まで、これらの集落を結んでいた主要な道だったのだ。村を訪れる人たちは、皆この道を歩いた。その人たちのための道しるべ
あらためて、この丘陵地がこの地域においてもつ意味、集落の立地要件、道とは何か、・・・こういったことが実感をもって見えてきた。
現代の主要道は、自動車の都合のためだろうか平坦な低地の真ん中を通る。そこを走るバスの中からこの丘陵を眺めていて、いったいどれだけの人が、かつてこの地域の主要な街道があの丘陵の上を通っていたなどと思うだろうか?今も昔も変りなく、道はこの平坦なところを走っていたと思うだろうし、またそう思っても不思議ではない。
道しるべに従って藪をこいで走ると、右手に静まり返った水面が見えてきた。まわりは繁った森に囲まれ、木々の枝が水面に被さっている。季節には渡り鳥が群れていると聞いていたがもっともだ。
これはそのまま「公園」になる、と思った。しかし、そう思った次の瞬間、ある種の違和感とでもいうべき思いが私のなかに湧いてきた。「公園」?「公園って何だ?」私に「そのまま公園になる」と思わせたのは、いったい何か?
子の近在に暮してきた人たちは、「ここは公園になる」などと思うだろうか?そうは思わないだろう。しょうもない沼地、むしろそんな風に見るのでは、見てきたのではなかろうか。私の見かたは、こういう景観:映像としての風景は公園のものだ、という見かたが、当たり前のものとして私の中に在ったからではないか。それは、私の勝手な思い込みに過ぎない・・・。これは間違いだ。
一つの映像としての風景が、見る人の見かたに拠って異なる。それが当たり前だ。この池を、しょうもない沼地と見るであろう今の農民の見かたも、それは今の見かたであって、古代の農民なら、もってこいの田だ(田になる所だ)、と見たかもしれないのである。
ものごとを「一つの見かた」で一律に処理することがどんなに危険なことか!都会人、都会に育ち、慣れてしまった私たちは、これまでどんなに多くの「見間違い」を押し付けてきたことか・・・。
この池を目の前にして私の頭の中に去来したこと、思い至ったこと、それは私にとって久しぶりの衝撃的なできごとだった。
帰りはバス道路を行こうと思い、往路と逆に谷地沿いに走りだした。谷地に沿って、今では滅多に見られなくなった昔ながらの不整形の田んぼが続いていた。傍に苗代があり、田植えの準備が始まっていた。ふと見ると苗代の端に向かい合わせに二本の太めの竹が突き刺してあり、その先に黒いものがぶら下がっている。何だろうか?近くに寄ってみた。カラスの死骸であった。鳥避けなのだった。多分、近代以前から代々引き継がれてきた方策なのだ。
近代は突如として近代という形を成して私たちの目の前に現れたのではなく、常に前代の人びとの営みを引きずっている、ゆえに近代以前が今・現在と共存することが在ってもおかしくない、そのことをこのカラスは教えてくれたのである。


〇「知ること」「分ること」「ためらうこと」
先に、「・・・・そこを走るバスの中からこの丘陵を眺めていて、いったいどれだけの人が、かつてこの地域の主要な街道があの丘陵の上を通っていたなどと思うだろうか?今も昔も変りなく、道はこの平坦なところを走っていたと思うだろうし、またそう思っても不思議ではない。・・・」と書いた。それで当たり前なのだ。今の日常の生活は今の現実との対応で明け暮れるのだから、それで当たり前なのであり、それは都会からの移住者にとっても、代々この地に住んできた人にとっても、《現象としては同じ》だろう。昔はどうだったか、などとも思いはしまい。しかし、同じだというのはあくまでも《現象として》なのだ。新規の移住者は単純に知らないからそう思うのであり、代々この地に住んできた人たちは、知ってはいたけれども現実の暮しのなかで、単に忘れてしまっていたに過ぎない。だから、必要に迫られたときには、かつての方策を、近代農法の世の中でも、思い出すこと:もちだすこと:ができるのである。
これを非合理だとか残酷な仕打ちだ、などと思うのは、多分、近・現代は突如として近・現代というかたちを成して目の前に現れた、とでも思い込んでいる人たちだ。
   今でも、近在の種子を蒔いたばかりの畑で、こういう風景を、普通に見かける。本当に効き目があるようだ。
それぞ入れの地域・土地で、人びとは、その時の「今」を、」その時の「昔」を意識下にしまいながら生き、そしてその「今」を、その時の生活を基におき、《変えてきた》のである。それが「生活・暮し」というものなのだ。「その時の今」に生きている:暮している人びとにとっては、「その時の昔」は《空気のようなもの》でしかないだろう。だからそれらは、日常眼中にないし、よほどのことでもない限り頭に浮んでこないだろう。それが「当り前」ということの意味だ。
そしてまた、おそらく、近代以前にあっては、その土地に新しく移り住んだ人びとが先ずやったことは、その土地の「空気のようなもの」を知ろうとすることではなかったか。
なぜなら、人びとは、日ごろの生活・暮しから、そうすることが、それこそが、今その土地で生きる・暮すことだということを知っていたはずだからである。
そして多分、その地で何ごとかを為すにあたっては、必ず、「これでいいのだろうか」という「思い」「ためらい」を抱いただろう。それは、単なる《新入り》の遠慮のそれではなく、「正当なためらい」であった。

今私たちは、ともすると、その僅かな期間現代に暮した経験だけを基に(しかも多くの場合、都会で経験することが唯一絶対だと思い込み)「一つの映像としての風景」に「一つの見えかた」だけをあてがい、一律に処理して済ませてしまっている。
そして更には、今現在の私たちのとる「見かた」、そしてその「見かた」を形成した私たち自らの「経験」に、私たちの「意識下にある昔」「空気のような存在の昔」が大きな比重を占めているという「事実」に気付かず、何ごとも自分が編み出したかのような錯覚に陥っているのではなかろうか。
とりわけ、近代合理主義的な思考法に徹すれば、率先して「空気のようなもの」は切り捨てようとするだろう。というより、端(はな)からそんなものの存在は認めないだろう。
日ごろ吸っている「空気」の存在を知らず認めず、《現代は現代という形を成して突然現れた》と思い込んでいる《幸せな》人たち。今や、《建築や地域の計画の専門家》と称する人たちの多くは、この《幸せな》人たちになってしまっている。そして、彼らの為していることの多くは、私たちにとっては「環境破壊」以上に怖ろしいことなのではなかろうか。
逆に言えば、この「空気のようなもの」を、「専門家」こそ、専門家である以上、積極的に、意識的に見よう、捉えよう、とすべきなのではないだろうか。
何ごとかを為すにあたって、私たちは、一瞬でも「ためらうこと」が必要なのではあるまいか

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地震

2016-11-22 14:04:56 | 近時雑感

近くの森の紅葉です。手前左は、つぼみをつけ始めている梅の木です。

今朝は、地震で目が覚めました。かなり大きかった。
気象庁発表では、当地は震度4とありましたが、棚のものが落ちるなどということもなく、そこまで大きいようには感じませんでした。

幸いなことに、震源に近いところでも、今のところ、大きな被害の情報はないようです(22日午後1時半現在)。
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復刻・「筑波通信」―10   「十人十色:人それぞれ」 とはどういうことか

2016-11-14 09:35:10 | 復刻・筑波通信

                                                                                     夕暮れの筑波

原文が春に書いたものであるため、今回の書きだしが季節外れの風景の描写から始まります。
また饒舌部分をかなり整理しましたがそれでも長文になっています。ご承知おきください。


復刻・「筑波通信」―10   「十人十色:人それぞれ」とはどういうことか                 「筑波通信」1982年3月28日刊 の復刻

降ったとも知らずにいた夜来の雨で、乾ききっていた地面も本来の土の色にもどっていた。空気も湿り暖かく、あたりも霞んでいる。
もう少し陽射しが強まれば、陽炎の季節だ。葉の落ち切った木々も、いつの間にか、冷たい灰色から温かみを増した灰色に変ってきている。
目を遠くに霞む高い山の方に向けると、そこには未だ冬が残っている。昨夜の雨もそこでは雪であったらしく新雪がまばゆく輝いている。そちらの方から下りてくる風も、心なしか冷たく感じられる。こういう頃、山あいの村々を歩くのが私は好きだ。
ここ二年ほど、ある仕事のために、関東平野を東西に、数えきれないほど往復してきた。それぞれの季節の平野の情景も、そして季節が少しずつ移り変ってゆくさまも、一見の客の目に映るようなものとしてではなく、より確かな目で見られるようになってきたように思う。まったく同じ一つのものも、見るたびに新鮮に見え、それとともに、そのものが、その存在のさまが、より確かなものとなって私のなかに定着してくるようなのだ。
今日もまた、夜来の雨が新しい情景を描き出してくれたせいか、全てが新鮮に見えてくる。今私は、後方:東の方に広く霞んだ関東平野を遠く望みながら、平野の西端:いわゆる関東山地の麓の町や村のなかを車で走っている。
昔名がらのつくりの店や現代風なそれが並ぶ街並みをはずれ、道は、多分地形に応じているのだろう、微妙に曲がりくねり、あるいは小さな起伏を繰り返し、気が付いてみると川沿いに少しずつ山あいへと向って登っている。
そういうとき、突然目の前に見事な家並み:屋根の重なりあいがつくりだす村の風景が拡がることがある。思わず、「いいなあ」という言葉が口をついて出る。ほっとする。安心して見ていられるからだ。
このあたりの家々には、切妻の瓦葺き総二階のつくりが多い。釉をかけた瓦ではないから、にぶい色をしている。切妻の単純な形とその勾配のせいか、重くもなく軽すぎるでもなく適度な重さをもって見えてくる。ときおり混じる土蔵の白壁が眩い。
家々のまわりに、遠く近く、家並みの背景を成している温かみを帯びた灰色の山林のなかに散らばるぼやっとした白いかたまりは、多分、今が盛りの梅の花だ。
こういう見事な家並みの光景は、別の季節でも、もう何度となく見てきているけれども、木々が葉をつけている時季には、家並みも木々に埋もれてしまい、こうはくっきりとは見えないのである。
もちろん、四季折々の光景も、それぞれがそれなりの風情があるのだが、たとえば真夏の暑さのなかでじわっと静まりかえっているのもそれなりだが、ちょうど今ごろの、冬の静けさから覚めこれから先の賑わいを予感させるような風光が、私は好きだ。
多分、こういう家並みを初めて見る人には、家々がどれも同じ家であるかのように見えるのではあるまいか。
先にも触れたように、このあたりの家々は、大体東西に長い長方形の平面で、棟も東西に走る。軒の出は四周とも深く、ときには六尺近くもあろうかと見えるものもある。二階の長手:南面には、出桁(だしげた)造りに拠る出窓様の突き出しが全面にわたって延々と付いている。どの家も同じと言っても過言ではない。したがって屋根面もかなり大きい長方形になる。
こういった家々が、南向きの緩い斜面に、ほぼ等高線に平行に長辺をそろえて並んでいるので、山肌は同じ向き、同じ形をした瓦屋根で幾重にも重なったように覆われてしまうことになる。だから、一見すると、同じ形の家が、同じ向きにひしめきながら並んでいるように見える。時折混じる寄棟や入母屋屋根の家は、異様なものに見えてしまう。
しかし、このどれも同じように見える家々も、じっくりながめてみると、実は一軒として同じもののないことに気付く。同じようでいながら一軒一軒にそれなりの顔がある。だから、そういう村うちの道を歩いていて次々に目の前に現われる家々は、一軒一軒違っていて、十軒十様の顔をしている。
この山あいの村に入り込む前に、街の街並みを少し外れたあたりで、向いの山の斜面に、最近開発されたらしい住宅地を見かけた。建設中のも含め、住宅がひしめいていた。それでも、都会近辺のそれとはちがい、かなりゆったりと建ち、ことによるとその家々の混み方は、この辺の村村のそれと大差ないのかもしれないと思えた。しかし、これが村々の家並みと大きく違う点なのだが、この信仰住宅地の家並みは、見るからに一軒一軒が異なり、はっきりと十軒十様の姿をしている。
ここで、二つの風景に対して、同じ「十軒十様」という言葉を用いたが、明らかにその意味する内容は同じではない。この二つの風景は質が違うからである。
この違いは何なのか。なぜ違うのか。社会が変り、生活が変り、人は変り、・・・、技術も変った・・・、それ故なのだろうか?第一、昔と今は違ってあたりまえ、昔のもの、それは消えてゆくもの、違いは何か、なぜ違うのか、などと問うことは、無意味なことではないか?
私はそうは思わない。
この「違い」、「この違いを生じさせているもの」、そこにこそ重要な問題があるはずなのだ。ゆえに、「この違い」は、一考に値する。
結論から先に言えば、この違いはその「成り立ち」の違いであり、唐突に聞こえるかもしれないが、それは「人それぞれ」ということに対しての、「個人」ということに対しての、今と昔の理解の仕方の違いに拠るのだ、そのように私は思っている。
ここまで、度重ねて「人それぞれ」ということを、改めて問い直してみるべきだ、と書いてきた。何を今さら、と奇異に感じる方もおられるかもしれない。個人は個人、人はそれぞれ、それは当たり前であって、今さらこと改めて言うことなどあるまい・・・。
しかし、これはそんなに簡単・単純な、考え直す必要は何もない分かりきったことなのだろうか?

今、ごく一般的な設計の場面では、この「人それぞれ」は、如何に理解・解釈されているのだろうか?
一般に採られているのは、いわゆる個人の住宅は個人個人に応じて建てられる、しかし都市社会での大量供給の住宅づくりの場面では、個人対応が成り立たずいわゆる「不特定多数」を相手にすることになるから、個人個々人に応じて用意することは現実問題として不可能である、そうかと言って住宅の形が決っていなければ建てられない、そこで、ある一つの形を決めてそれをその多数に対応させざるを得なくなる・・・、こういう理解・解釈・考えかたであると言ってよかろう。
この理解・解釈の根底にあるのは、人はそれぞれ「まったく違う」のだから、本来、人それぞれに応じて一軒一軒まったく違うのが当り前だ、とする考えかただろう。
それゆえ、使用者を特定できない大量供給の住宅や、その利用者を特定の個人に限定できないいわゆる公共建築の設計の場面では、この不特定多数の数だけある使用・利用の様態を、如何に一つに括りこむかが課題、と考えられるようになる。
実際ここ数十年、この不特定多数の人びと:使用者・利用者の needs をどう捉えるか、あるいはどうやってその最大公約数を算出するかが、いわゆる公共住宅、公共建築の設計・計画の場面で(同様に、大量生産されるいわゆる工業製品の設計・計画の場面で)設計者・デザイナーそして研究者たちの頭を占領していた「問題」であった。そしてこの間、こういう考えかたに対して誰も疑問を抱かなかった、と言っても過言ではないだろう。
使用者・利用者あるいは注文者としての一般の人びとも、こういう考えかたにいささかも疑いを持たず、個人で受託を建てることができる場合、精一杯その個性:それぞれの違いという意味での個性:を具現化する、そう思ってきた、と見なしても、これも過言ではなかろう。それは、メディアではなやかに宣伝される〇〇ハウス、〇〇の家・・などのセールスポイントに、如実に表れている。
その根底にあるのは、《如何に他との違いを形あらしめるか》、という考えに他ならない。それは、「人それぞれ」とは、人それぞれが己の見えがかりに現われる違いを競い合うことである、とでも言うかのようだ。実際昨今の大量生産品のデザイナーの最大の関心事は、買い手・使い手である個々人に、如何に人とは違うという感覚を抱かせるか、という点にあるのだという。それは、「隣りの〇〇が小さく見えます・・・」「これには〇〇が付いています・・・」などというキャッチコピーに、みごとに反映している。
これが昨今のものづくりの場面で考えられている「人それぞれ」観である、と見なしてよいのではなかろうか。
そして、このような考えかた、すなわち、人はそれぞれまったく違うのだから、それに対応する諸事もそれぞれまったく違って当然なのだが、対応相手を特定できないときは止むを得ず何らかの形で一つに絞りこむしかない・・・、この考えかたこそ、結果として現代の街並み・家並みをつくりだしたのである。一方でまったく画一的な同形の建物が建ち並ぶかと思えば、その一方では逆に見るからに十軒十様の建物が建ち並ぶ・・・、こういうまったく対極の風景が、この全く同じ考えかたの下で生み出される。
そして、この二つに分極した風景の挟間に、所在なさげに昔ながらの村々の風景が残っている・・・、これこそ、今私たちが目の当たりにする街並み・家並みの実態に他ならない。
では、この昔ながらの村々の風景は、いかにして成り立ったのヵ。それを成り立たしめた時代、人それぞれはそれぞれであるという考えかたがなかった、つまり人が皆各位乙的であったからなのか?ひとびとがその個性の表出を規制されていたからか?しかし、いずれであるにしろ、今の当たり前の考えかたでは解釈できないだろう。過去の遺産、そう切って捨てるしかないはずで、言ン位そうしつつある。価値を認めるとすれば、《文化財》として、あるいは《観光資源》としてのみなのではないか。現に、今、「文化財=観光資源」と見なすのが《普通の感覚》になっている。

「十人十色」という成句がある。辞書には、「人の好む所、思う所、なりふりはそれぞれに違うこと」とある。要は、「人はそれぞれだ」ということである。それは、単純な意味で《さまざまだ》ということなのだろうか。
そこで、私たちが「十人十色」という言いかたを、いかなる場面で用いるかを考えてみると、それは決して、単に《さまざまだ》とか《いろいろある》という場合に使われるのではなく、かなり限定された場面においてのみ使われる、ということに気付く。さまざまな国のさまざまな人が集っているからといって、あるいはスキー場で色とりどりのスキーウェアが花咲いているからといって、それを「十人十色」とはまず言わないと思う。「十人十色」という成句が私たちの口を突いて出るのは、ことあらためて「人それぞれ」ということを私たちが意識させられたときなのだ。
すなわち、普段は人それぞれだとか、あるいは互いに互いを意識するなどということもなく、なにごともなく平然・平穏に過ごしていたのが、あることをきっかけに、急に互いの違いが目に見えてくる、そんな場合にこの成句が使われるようなのである。
たとえば、ある目標へ向うための具体的な行動方針を決めようとする会合で、目標自体はなにごともなく了解されても、具体的なやりかたについていろいろと案が出され、それぞれ一理あって決め手を欠き、一つに決めあぐね、見通しもたたないままにお開きとなり、なんとなく白けた気分で、似た考えを持ったもの同士、あらためて考えかたの多様さに気付き、先を思い、半ば嘆くようにぼやく、そんなときに「十人十色だからなぁ」などという具合にこの言葉はとびだすのだ。辞書にある「思う所」の違いである。あるいはまた、「好む所」の違いにあたるのでもあろう。
また、ある場面で、そういう場面でめったに見かけることのない格好の服を着た人が現れ、それが意外とその人にも場面にも合って《さまになっている》、そんなときにも、半ば感嘆の意も込めて、この言葉を口にする。
つまり、「十人十色」という成句には、互いに互いの違いをあらためて発見し、感嘆、驚嘆、あるいは慨嘆する、そんなニュアンスも込められている、とも言えよう。

ここで注目しなければならないのは、この「十人十色」という成句が意味する「人それぞれ」の「それぞれ」は、決してその人それぞれが互いにまったく無関係なのではなく、むしろ、互いに関係しあう「お互い」の一員である、ということである。
すなわち、互いにある場面・局面を共有していて(しかもそのことを普段は意識しておらず)、その上で、それぞれの振舞いかた、思う所、好む所がそれぞれに違う、ということをこの「十人十色」という成句は言っている、のである。

このように見てくると、私たちはそれほど深く考えもせずに「人それぞれ」と思い、言っているけれども、「人それぞれ」という言葉の意味には、「それぞれ」の解釈の仕方により、二様の捉え方があり得るということが分かってくるように思う。すなわち、無関係のものが多種集っているが故の「それぞれ:多様」という意味と、異種のものが集った上での「それぞれ:多様」という意味、この二様である。簡単に言えば、「根っから違う」のか、」それとも「根は同じ」であるか、この二様である。そして、「十人十色」の意味するものは、これまで見てきたとおり、明らかに後者の意:「根は同じ」であるが互いに違う、という意:に他ならない
しかしながら、いわゆる現代的な考えかたでは、「人それぞれ」あるいは「個人」ということについて、明らかに、前者の意味、すなわち《多種であるが故の多様である》という意味:根っから違う:という意で捉えられているのである。
従って、人の集団とは、根っから違う個人の群れであり、故に互いに無関係であり、互いに共通の場面などそもそも存在せず、それぞれが独自の場面を持っている、そういう理解になる。けれども、私たちは、こういう現代的な考えかたの特性について、その中に埋もれこんでしまっているため、少しも気付いていない。  

対話・コミュニケーションが不足している、回復しなければならない・・・などとよく言われる。
しかし、互いに無関係な間柄の人と人の間のコミュニケーションは可能だろうか?コミュニケーションを回復しなければならない・・・、と言われるのは、それがないがしろにされているからであって、そうであるならば、ただ単に、その重要さを説くだけで済むわけがない。
何故ないがしろにされているのか、されるようになったのか、をこそ問わなければならない。
そう問うことで直ちに分ることは、私たちが互いに無関係な人の集まりであるという「前提」を固持している限り、コミュニケーション・対話は、そもそも存在し得ない、という単純な「事実」である。
すなわち、コミュニケーション・対話は、人と人がある局面を共有している、あるいは共有できる、という前提があってはじめて成り立つのである。
つまり、現代的な「人それぞれ観:人は互いに根っから違うとの理解・解釈」の下では、対話は存在しなくて当たりまえなのであり、対話・コミュニケーションが不足を嘆くこと自体矛盾しているのである。
そうでありながら私たちは、その不足を嘆き、回復を望み、その必要を説く・・・。
ならば、私たちは、その前提を問い直さなければなるまい。

では、「人それぞれ」という言葉は、いったい、どのような意味として理解・解釈したらよいか?
和辻哲郎が、その著書「風土」の冒頭で日本人のよく交わす時候の挨拶について、次のように書いている。
   ・・・寒さを体験するのは我々であって単にのみではない。我々は同じ寒さを共同に感ずる。だからこそ我々は寒さを言い表す
   言葉を日常のあいさつに用い得るのである。我々の間に寒さの感じ方がおのおの異なっているということも、寒さを共同に感ず
   るという地盤においてのみ可能になる。この地盤を欠けば他我の中に寒さの体験があるという認識は全然不可能であろう。・・・

「人それぞれ」とは、言い換えれば、「個々の私」ということである。「私」と他との関係について述べたこの一文ほど、「人それぞれ」ということについて、簡にして要を得た、そして説得力のある説明はないのではあるまいか。
先に、「十人十色」という成句の使いかたの検討の際に見えてきたその意味、すなわち、互いにある共通の基盤を認めあった上でのそれに対する個々の振舞いかた:身の処し方、つまり「思う所」「好む所」がそれぞれに違うということ、それが「人それぞれ」ということなのだが、しかし今、私たちは、このことをすっかり忘れてしまっているのではないだろうか。
言うまでもなく、私たちが何の共通基盤も持たない、あるいは持とうとしないそれぞれであったのならば、私たちの間には、ことば:言語は存在しなかっただろう。
以前にも書いたが、私たちが『冬』という言葉を持ち得ているのは、私たちそれぞれが、それぞれの冬の事象にめぐりあい、それぞれ異なるイメージを抱きながらも、『冬』という「概念」を共有し得ているからである。だからこそ、互いに冬について語ることができるのである
このことは、「方言」の存在、あるいは「地名」の付けかたを考えるとよく理解できるように思う。いずれも、ある地域・土地に暮す人びとの間に「共通基盤」がなければ存在し得ないからである。

このように考え直してみると、昔ながらの村々の風景の成り立ちが、よく理解できるのではなかろうか。
その土地に暮す人びとは、「その土地に対する共通の認識」を持っている。平たく言えば、「同じもの」を見ているし感じているのである。その上で彼らは暮している。その土地との関わりかた、彼らにとっての「その土地の意味」、そこで生活を営むことの意味、・・・それは共通なのだ。
互いに違う・異なるのは、彼らが共通に認識していることの、個々人のいわば《運用のしかの違いた》、あるいはその《取り込みかたの違い》、つまり、その共通基盤に対する思う所、好む所の違いに過ぎないのである。家の間取りも、屋根のかたちも、屋敷の構えかたも、そしてその敷地の選定についても、長い間のその地での体験の蓄積のなかで、その地で暮してゆく上での適切なやりかた:方針(それは「思想」と言ってもよく、それは必ずしも目に見えるかたちを成しているわけではないから、一見の訪問者には直ちに見えるとは限らない)というものが共通に認識されていて、違ってくるのは、個々人がそれぞれの家でのその「方針」の具現化の場面に於いてなのだ。ゆえに、「同じようなもの」はあっても「同一のもの」はなく、また逆に、「同じような点が何一つない」などというものもないのである。場合がそれぞれ違うからといって、「方針」を崩す:「思想」を異にする:わけではなく、あくまでも同じ「方針:思想」の下、個々それぞれの場合に応じて、いわば臨機応変にその具現化にあたっている、と言ってよいだろう。
これに対して現在は、ある土地に家を建てる人たちは、その土地への共通の認識を持たず、持とうともしない
それぞれが、《それぞれの敷地:それぞれの地面としての土地》に対してのみ、しかも彼だけにのみ分る認識を持つだけなのだ。

今回の冒頭「・・・突然目の前に見事な家並み:屋根の重なりあいがつくりだす村の風景が拡がることがある。思わず、いいなあ、という言葉が口をついて出る。ほっとする。安心して見ていられるからだ。・・・」という「感想」を書いた。
この「感想のなかみ」を考えてみる。私はいったい、そこに何を見たのか?
私はそこに、単に《美しい絵》を見たのではない。私はそこに、そこに暮す人びとの「共通基盤」を見たのである。より正確に言えば、私がその土地に住むとしたら、「その基盤とするであろうもの」をそこに見たのである。私がその地を見て得たものが、既にそこに暮している人びとが得ているものと変らないこと、私もまた彼らと共通の基盤を共有できる、つまり、その地で私が為すであろうことと、彼らが現に為していること、その両者が一致する、すなわち「分った」(という気になれた)のである。ゆえに、素直にその世界に馴染んでゆくことができ、それが先の「感想」となったのである。
しかし、「現代の住宅地」の風景には、残念ながら私は、私と共通の基盤をまったく見ることだできない。それは、私に《見る力》が欠けているからだろうか?そうではない、と私は思う。
それは、それらが、もともと共通基盤の存在を否定したところで生まれたものだからなのだ。最初から、「互いに分る」ということを無視・黙殺するところから始まっているからだ。「人それぞれ」ということを、互いに根っから違うこと」と考え・見做すことに根ざしているからなのだ。だから、他人は絶対にその世界に馴染めない。
大抵の場合、こういう風景は雑然として滅茶苦茶な印象を与える。
そして、そのような場面に接すると、「環境との調和」ということが説かれるのが常だ。
しかし、私には、この「環境との調和」という《ことば・思想》を素直に受け入れることはできない。
何故なら、調和しているとか調和していないとかいうことは、単純な「見えがかり」:「表に現われた形」の話であるはずがなく、従って当然、よく言われる「修景」などという表面的な処理でことが済むようなことであるはずもないからだ。
そもそも、そのような結果を招いている因は、見えがかりにではなく、その成り立ちの根底に潜んでいるのである。

おそらく、設計という作業に於いて基本的に為さねばならないのは、ある場面・局面に於ける(人びとあるいは私たちの)「共通の基盤」を探すことと言ってよいだろう。それはすなわち、先ず、いかなる局面に置かれているいるかを見ることであり、そこに於ける十人を、根っから違う十人としてではなく、その局面に置かれている十人として見ることから始まるだろう(昔はそれがあたりまえであったから、意識せずにそうしていたが、今は意識してやらなければならない)。
従ってその十人に対して、根底から違う十品を用意するのではなく、その十人にとって共通の認識たり得る一品を探すことがこの作業の主たるなかみとなる。
考えてみれば、この「共通の認識」となるものこそ、私たちがつくるもののいわゆる「機能」というものなのではなかろうか。そこから先の個々の違いは、まったく臨機応変的にいわば応用問題を解くことにより生じることでしかない。そしてそこにおいて、好む所・思う所の違いが出てくるのである。
しかし、この「共通の認識」「共通基盤」は、私たちの外から一方的に与えられるものではない。また、そうあってはならない。
それは、あくまでも、私たちのもの、私たちの内から生まれるもの、たとえば、私たちが私たちそれぞれの冬を語るうちから生まれるものなのである
つまり、私たちの「共通基盤」は、私たちが自らの感性に自信をもって依拠することによって生まれるものでなければならないのだ。
そして、そうであるために、私たちは、常に、自らの感性を研ぎ澄ましていなければならない。、
    ***********************************************************************************************************
   最後まで読んでいただき有難うございました。
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冬至も近い

2016-11-10 10:40:49 | 近時雑感


一昨・8日は立冬
ここ数日、朝の散歩道の枯れ草が濡れています。多分霜が降りたのでしょう。

ドウダンツツジの葉も日ごとに紅さが濃くなってゆきます。近在のケヤキもいい色になってきました。
昨日は木枯らしが吹きました。
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早くも11月!

2016-11-02 10:04:03 | 近時雑感


私の住まいの近在には、あちらこちらに柿の木があります。
今年は生り年なのか、今、どの木もたわわに実をつけています。まさに「秋」の光景。
昔なら、子どもたちが、道すがらもいで食べたものですが、最近はそういう風景は見かけなくなりました。今日も朝から鳥がつついています。

11月になり、朝の冷え込みが一段と増したように思います。
茨城県でも、北の方では、霜が降りたようです。このあたりも、もうそろそろでしょう。
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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-37

2016-10-28 15:53:27 | 「学」「科学」「研究」のありかた



    *******************************************************************************************************************
かなり間が空いてしまいましたが、Late medieval roof cobstruction の 最終項を載せます。前回とあわせお読みいただければ、と思います。

       Side-purlin roof

    Side-purlin roof とは、垂木の側面に、垂木相互の暴れ防止のために添える添木:補強の横材であると推察します。
    以下の図を参照ください。通常のpurlin:母屋とは異なり、屋根の荷重を承けるのが主たる役目ではないと考えられます。

ケント地域で Side-purlin が見られるようになるのは、かなり遅れる。地域によると、比較的大きな建物で、14世紀の第二四半期に crown post に代って使われるようになるが、ケントにはその事例はない。 1340年代の PENSHURST PLACE の屋根では、crown post と併用されているが、典型的なケントの事例とは言い難く、後継事例もない。
イギリス各地の初期の Side-purlin roof の多くは、高い繋梁に至る斜材:brace との併用が目立つ。しかしケントでは、このような斜材が用いられる場合でも IGHTHAM MOTECOBHAM COLLEGE の例のように、その上に crown post が設けられることがあり、また WOULDHAMSTARKLEY CASTLEWROTHAMYALDHAM MANOR のように、垂直方向の部材が見当たらない例もある。
これらの事例は石造であるが、中流以下の人びとの木造架構の建物に用いられるSide-purlin roofは、多くの建物に使われるようになる15世紀後期まで知られていなかった。この工法は、初めに北西部で現れるが、多分 WESSEX 地方から入ってきたものと考えられ、ケント東部で使われるようになるのは、16世紀も第二四半期になってからであろう。clasped purlin(下図参照)、queen-strutwind-brace 併用の小屋組は、世紀の変り目に北西部で見かけるようになる。fig87bNORTHFLECT GRAVESEND に在る1488~1489年建設の THE OLD RECTORY HOUSEや、SUNDRIDGEDRYHILL FARMHOUSENEOPHAMOWLS CASTLE などがその例である。
     clasped purlin
      fig87のように、合掌材:垂木を中途で承け、垂木の暴れを防ぐために設けられる部材:垂木を「留める:clasp」:日本の母屋桁に相当と解します。
      ただし、日本の場合に比べ、材寸が小さめですから、荷重を承けることよりも垂木の暴れ止め:位置の調整が主たる目的と思われます。    



詳細な記録が為された SURREY には、clasped purlinの屋根を架けた事例が多数在り、西部よりも東部の方が進んでいる傾向がうかがえる。しかし、それを普及速度が遅かったからと見なすのは誤りで、比較的新しいclasped purlin roof を、ケント地域内の各地で見ることができる。東部地域には、WEALDEN 形式の2事例:1496~97年建設の CHARTHAMDEANERY FARMSANDWICH 近傍の ASHTHE CHEQUER INNfig87a) が在るが、この2例は似たような屋根をしている。他に、やや小さく、建設年代も遅いと思われる UPPER HARDRESCOTTAGE FARMHOUSE などが在る。CHRIST CHURCH 教区には、同様のclasped purlinの屋根がかなり遺っていると報告されており、また、CHARTHAMDEANERY FARM は修道院によって建設されているから、これら東部地区の事例の発祥の由来には、教会が大きく関係しているものと思われる。
ここまで紹介してきた事例には全て、queen strutwind brace があるが、建設年代が遅いと思われる他の事例は、必ずしもこの特徴を有さない。
16世紀の30~40年代の建設と見られる WALTHAMANVIL GREEN に在る DENNES HOUSE THE COTTAGE の2事例には、煙で黒くなった clasped purlin の屋根が遺っている。
ケント北部の BORDEN に在る SHARPS HOUSE にも crown^post の屋根を補強するために採用された clasped purlinの屋根 があるが、hall は昔の形のままだが、新しい部材は煙で黒ずんでいるから、改造は16世紀に入った頃に為されたのではないだろうか。
16世紀の中頃までには、Side-purlin roof は大半が crown^post roof に改造されたようである。ただ、世紀中期~後期の事例については、今回は、十分に調査・検討されてはいないが、数多くの clasped purlin roof の事例が見つかっている。これらは、特に cross^wing に見られる。いずれも、当初の建物を改造した事例に見られる:、CHILHAMHURST FARMSITTINGBOURNE 近傍の NEWINGTON に在る CHURCH FARMHOUSE などがその例である。Side-purlin roofには別の形式もある。それは butt purlin :太めの母屋桁:を用いる場合で、そこでは、縦方向の部材が、繋梁と垂木の間に単に置かれているのではなく、主要な垂木でしっかりと留められている。この工法は、東部では1600年代以前に現われるが、ケント地域にはやや遅れて伝わったと考えられてきた。しかし太めの母屋を使う事例は特殊であり少なく、その用法はよく分っていない。
イギリスの他地域では、butt purlin :太めの母屋桁 は既に14世紀後期までに現れているが、ケントで最も早い事例は、CANTERBURY の石造の MEISTER OMER'S の木造屋根である。これは、1440年に枢機卿 HENRY BEAUFORTによって建てられた建物である。それから少し遅れてCANTERBURY CATHEDRAL の北西の TRANSEPT :翼廊(本体に対して直角に建つ棟の呼称)に建てられている。MEISTER OMER'S の木造屋根の建設年確定しているとは言い難いが、 butt purlin :太めの母屋桁 が、なぜその頃まで使われなかったのか、その理由は不明である。ケント地域が crown-post 形式 へのこだわりが特に強かったとは思えないから、上流階級の建物の建設や CANTERBURY CATHEDRALでの建築でbutt purlin が用いられなかった理由か分らないのである。
butt purlin 屋根が現れるのは全般に遅い。ただ、普通よりも上層の建物に例外が2例ある。いずれも1500年ごろか16世紀初頭に建てられた造りのよい arch-braced 屋根の建物である。それは HORSMONDENRECTORY PARKcross wingGOUDHURSTTHE STAR AND EAGLE INNfig88) である。

同じような事例が WOULDHAM の STARKEY CASTLE の石造の建屋に遺っていたが、既に改造されてしまった( fi9 89)。

同じようにbutt purlin :太めの母屋桁crown-post 形式 とを併用している事例は、一般的ではないが、SHAKESPEARE HOUSE でも見られるが、そこでは crown post はなく、arch bracebutt purlin が中央の collar purlin と一体になっている。
   註 この部分、直訳しておきます。図がないので理解に苦しみます。
ほとんど同じ頃、単純な butt purlin は、数は少ないが、小さな建物で使われている。これらでは、普通の tie-beam の小屋組と太めの母屋桁と併用されている。FARRINGTONS では、wealden 形式EDENBRIDGE BOOKSHOP の建物は、butt purlin queen strutwind brace とともに用いられているが、。の建物は年輪時代判定法によると1476~77年よりも早い時期の建設とされている(fig 90a)。rocks 、east malling 、larkfield は総二階建の建物は1507~08年の建設と思われるが、この建物では小屋組二つはbutt purlin を使用し、もう一つは clasped purlin の小屋組としている(fig 90b)。垂直方向の安定性は crown strut が担い、wind brace が母屋桁から頂部を結んでいる。これらの屋根は、clasped purlin roof 工法の別種と見なしてよく、中世後に現われる butt purlin 屋根との類似点は少ない。これらの事例では、母屋桁は、梁間に主たる合掌材:垂木を承けるべく架けられ、他の垂木は母屋桁に単に架けるだけではなく、母屋に枘で留めている。ケント地域では、butt purlin がこれまでの想定よりも早くから用いられていたのは明らかではあるが、一般的な工法ではなく、中世後の形式として1600年頃に注目されるようになるまでは、影響は小さかった。

    *******************************************************************************************************************
  以上でLate medieval roof cobstructionの章は了となります。
  次回からは、Form and function:the internal organisation of houses in the laye Middle Agesの章の紹介になります。
  編集に時間がかかりそうです。ご了承ください。
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編集遅れてます・・・

2016-10-21 09:41:52 | その他


大分寒くなってきました。

今日は、かつて、世界反戦デーだったように思います。盛大なデモもあった・・。

所用重なり、「シリーズもの」の編集作業、来週月曜日アップを目指していますが、大分遅れています。どうなることやら・・・。
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秋深まる

2016-10-16 10:18:50 | 近時雑感


ここ数日、朝の外気温が10度に達しません。しかし、まだ、寒いなぁとは感じません。
霜が降りるようになると、外に出るとき、一瞬、身構えるのですが、今のところ、その必要はないようです。

日照が不足だったのか、今年は、柿がいい色になりません。木の葉も、あまり紅葉、黄葉になっていないように感じています。
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復刻・「筑波通信」―9   「万が一の事態」と「判断」

2016-10-08 15:36:19 | 復刻・筑波通信


言い回しの改定など編集に時間がかかり、間が空いてしまいましたが、「筑波通信」復刻版の続編を載せます。

復刻・「筑波通信」―9   「万が一の事態」と「判断」             「筑波通信」1982年7月1日刊の復刻

五月の末、梅雨入り前だというのに真夏になってしまったような暑い日が続いた(1982年のことである)。そんなある日、中央東線で特急が脱線したというニュースが夕刊に載っていた。その日の昼過ぎ、甲府盆地のある駅のあたりで、暑さで伸びて歪んだレールに乗り上げ脱線したらしい。盆地はとりわけ暑くなる。真夏なら気を付けていたと思うが、まだ五月。今年の天候は少し異常なのかもしれない。それほどの事故ではなかったようだし、まして私の日常に関わるものでもなかったから、普通だったら、季節外れの暑い日を印象づけただけで、そのまま忘れ去られてゆくだけだったろう。
ところが、中一日おいた朝刊でもこの事故が話題になっていた。復旧に意外と手間取り、開通したのが丸一日以上経った昨日の夕方だったとのこと。意外と時間がかかったのは、その列車の車両の連結が、連結器ではなく、鉄の棒でいわば固定されていたためだという。その切り放しに時間を要したらしい。それを読んで、一度忘れかけていたこの事故のことが、私の中で、再び、ある「重さ」を持ちはじめた。

子どもの頃、乗り物好きだった人なら大抵知っているのではないかと思うが、車両の連結の仕方には、「ねじ式(下図左上)」(今でも西欧をはじめ諸外国で主流のやり方で、いわばフックの付いた鎖を引掛ける方法で、これと対を成してバネの入った丸型のバンパーが二個付く。日本では博物館にでも行かなければ見られない(なぜ「ねじ式」と呼ぶのかは知らない)。
日本で、現在でも貨物列車や旧型の旅客列車に主に使われているのが、通称「自動連結器(下図左下)」。日本では、1925年㋆1日を期して「国鉄」の全車両を自動連結器に切り替えたという。これはまさに画期的なことであったらしく、諸外国では今でも「ねじ式」が大半だという。現在は、国鉄・私鉄の大部分は「密着連結器」と呼ばれるタイプになっている(下図右)。
         
 「自動連結器」には20~30㎜の「あそび」があるので、発車や停車時にがたつくことになる。停車している貨物列車が動き出すとき、機関車の発車の汽笛が聞こえても目の前の貨車は直ぐには動き出さず、前の方からガチャンガチャンという重い鉄の塊がぶつかりあう音が移動してきて近付いたと思った瞬間、ガクンと動き出す。旅客列車でも同じで、駅に停まるごとに同じことが繰り返し、おちおち居眠りもできない。このがたつきを感じさせないように動かすのが運転士の腕の見せどころであったようだ(私がよく乗る常磐線は、1980年代初めまだ電車化していなかった・・・)。このような「あそび」をなくすために考案されたのが「密着」式なのである。

ところが、この脱線した特急列車の場合には、車両間に連結器がないのだ。一列車は十数両の車両から成っているのではあるが、それらは、連結器ではなく鉄の棒で、「連結」ではなく「緊結」されていたのである。各車両は切り離すことは最初から考えていない、つまり、車両を任意に寄せ集め編成することを考えていないのである。竹の筒を十個ほど並べ、相互を針金の軸でつなぎ合わせた玩具がある。末端を持つとちょっとした持ち方の違いで微妙に形を変えるが、この列車は、この玩具のようなつくりになっているのである。
脱線した列車の航空写真は、まさにこの玩具同然であった。連結されていたのならば、連結器のところで外れてしまうと思われるが、「緊結」されていたゆえに、この玩具のような様態になってしまったのではないだろうか。
復旧にあたって「意外と手間取った」のは、まったくの推測であるが、元へ戻すために車両を切り離さねばならず、ただうっかり切り放すと、互いに鉄の棒で緊結されているため横転を辛うじて免れていたのが、支えを失って共倒れになる怖れがあり、それへの配慮に手間取ったのだと思われる。逆に言えば、緊結してあったために、全車両の半分以上が共倒れ的に引きずられ脱線してしまったと解釈することもできる。これが連結されている列車だったならば、連結器部分で切れ、別の様態になっていたのではないだろうか。当然復旧も早くなる。「意外と手間取った」という表現が為されているのは、通常の連結した列車の脱線事故の例をもとに復旧予測がたてられた、つまり、「緊結」した列車であることを失念していたからではなかろうか。

では、この列車はなぜ連結ではなく緊結されていたのだろうか。今まで大抵連結で編成していた列車を「緊結」にする、その「発想の転換」はいったい何だったのだろうか?
これには、おそらく次のような経緯があったものと思われる。先ず、従来のいくつかのハコを機関車が引っ張る、すなわち動力を一か所に集中させるやりかたから、動力を分散させる「電車化」が一般化してきた。従来は必要に応じて編成していたのを、固定化するようになった。旅客列車もほとんど電車化した。最近の特急のように二地点間を何本も往復するようになると、一編成自体が一定である方が互換性もあり都合がよい。同じ編成の列車を数組用意して置けばよいわけだ。多分、乗車券予約のシステムもプログラムが楽だろう。そうなってくると、更に進んで、一編成を一単位と見なす発想が出てくるのが自然である。車両の切り離し無用の発想である。「連結」ではなく「緊結」への転換である。当然「がた」も少なくなる。この発想の転換は、一見、いいことだらけである。
しかし、この一単位・一編成を構成しているハコ:車両のどこかで支障が生じたらどうなるか。これがそれまでの列車と大きく異なる点なのである。従来ならば、故障した部分:車両だけ切り離して運転することができたが、この方式では、故障部分だけではなく、一編成全部がダメになるのである。故障部分だけ切り離そうにも、緊結してあるから容易ではない。これが例の脱線した特急列車の様態であり、故に復旧に「意外と」時間がかかったのである。

このような事態になるのは、今では緊結した列車だけではなく普通の連結した列車でも同じようである。普通の列車に問題が生じたときも、昔のように不具合の車両だけ切り離して運転することはせず、乗客を全部おろしてきれいさっぱり運休させてしまうようだ。特に特急のように座席指定のある場合にそうなることが多い。その一本だけではなくその折り返しも運休し、一本の事故が数本にひびいてくる。運休にしないで故障部分を抜いて異常編成で運転すると、予約客に大きく影響する。その処理のことを考えるなら、一本丸ごと取り消してしまう方が「事務的に」楽になる。特にコンピュータ処理の上では・・・。また、その方が運行ダイヤの「正常化」にとっても、当然ながら楽である。一旦白紙に戻し、始発時の様態で始めれば済むからである。
私がよく使う常磐線は、(1980年代当時)よく停まってしまう。予定した列車の20分ほど前にホームに着いてみると、水戸のあたりの事故で不通。何本も動かなかったため、当の列車は既に超満員。後続の予定が立たないから、これに乗ってくれとの放送が繰り返される。後続列車すべてが故障で動けないわけではないのだから、どうして「適宜に」発車させないのか訝っていたところ、やがて、この列車は〇時〇分発の〇行きの列車として発車するとの放送。まだ 10分以上もある。本来のダイヤの数本後の列車に「読み替える」ということらしい。そこで合点がいった。運行ダイヤというのは、運行している常磐線なら常磐線の列車全部で一つのシステムを成しているわけで、その一部で起きた障害がシステム全体をダメにしてしまったのである。それを「正常に」戻す手っ取り早い方法が、このような「読み替え」を行う方法であり、その方策のために、なかなか発車させずに「時間待ち」をしていたのだ。(乗客に「負担」が生じても)「効率的」で「合理的」な方法だ、ということなのだろう。
たしかに、乱れてしまったダイヤは「正常に」復さなければならない。これは、いわば至上命令である。けれども、目の前にホームにあふれている乗客を目の当たりにしながら、それをさばくことには手を付けず、専らダイヤの修復に腐心する。ダイヤが正常なら異常は起きない、だから正常に戻すことが先決である。これはたしかに合理的に見える。しかし、そもそも運行ダイヤは客を運ぶために意味があるのであって、ダイヤのシステム自体・その「維持」に意味があるわけではない。目の前に客が満ち溢れている。ならば、交通機関の本義に戻って、満員の客をさばきつつダイヤの正常化に努めようとする、そういう発想があってもよいのではないか。多分、そういうやりかたでは、ダイヤの正常化完了をもって事後処理の完了と見なす視点からすれば手間も時間もかかり効率的・「合理的」なやりかたとは言えないかもしれない。しかし客の視点に立てば、そうしてもらう方がずっと合理的なのである。多分、かつてはその方策が採られていたと思う。だから、客が所在なくホームで過ごす時間は短くて済み、その代わり、鉄道関係者の苦労は並大抵ではなかったであろう。今は客が苦労する。
特急列車の脱線事故の処理の話から、事故一般の後処理にまで話が及んでしまったが、これらの話に通底している「ある種のものの考え方」に、私は「ひっかかる」のである。
つまりこれは、私には、今では当たり前になっているいわゆる「近代的・合理的な」考え方の典型的な様態、に見えるのである。

では「『近代的・合理的な』考え方」いうのは、どのような性質・性格のものか。
一言で言えば、この考え方は、「万が一」ということ、「マイナスと評価される局面・状況」は、あってはならないことゆえ、考慮の外に置き、専ら「正常」「プラスの局面・状況」のみに考慮を払う考え方である、と言ってもよい。理想状態・完成完結した状態への揺るぎない(信仰に近いほどの)信頼・願望と言ってもよいかもしれない。
別の言いかたをすれば、ある全体なりシステムが「絶対」として在り、その全体・システムを構成する部分部分は、なかば絶対的にその「絶対」に服するしかなく、構成の編成替えなどということは存在しないのである。
つまり、「一つのパターンが(望ましき完全形として)在る」というのである。そして、そのパターンが乱れることを「異常」と称するのである

これに対して、前近代的・非合理的、場当たり的に見える従来のやりかた・考えかたというのは、如何なるものであったか。
これも一口で言えば、確かにそれもある全体やシステムをつくりだしてはいるが、それが唯一つしかないのではなく(定型があるのではなく)、言わば、「万が一の状態」と「理想の状態」の両極の間で(マイナスからプラスの局面にわたって)場面場面に応じて適切と思われる全体・システムを任意に組み立てる、そのような考え方であった、と言えるだろう。
それゆえに、仮に事故が起きても、その事故の様態に応じて、まさに字の如く「臨機応変の」対応、すなわち当面の状況に於ける全体の建て直しを、考えることができる。しかも、ただ「元の完成形であったパターン」へ戻すことにのみ執心することなく、当面の「交通機関としての本来の課題(客をさばく)」に意を注ぐことができる。つまり、客をさばきつつ、徐々に「元」へ復してゆくわけである。したがって、その過程では、何度かシステムの組み直しが必要となるから手間がかかる。その点では、近代的なやりかたははたしかに効率がよい。ただ、一方で、システムの「正常な状態への復元」だけが「目的化」してしまう
つまり、本末が転倒して「状態の復元」の本来の意味:何のために復元するのか:が見失われてしまう。それはすなわち、事態への対処のしかたは、本来、場面に応じて、いくつものパターンが「任意に」用意できなければならない、という大事な視点が忘れられてしまうことに他ならない。パターンは、場面場面に対応して、場面の数だけある、無数存在するのだ、と言ってもよいだろう。
しかしそれは、場面やそれへの対応パターンが、あたかもショーウィンドウの中の品物のように並んでいて、そこから私たちが選び取っている、というわけではない。それはあくまでも、私たちの、私たち自身による「判断」に拠り創案されたパターンなのであって、それが無数存在するということである
つまり、「私たちの「判断」が無数である、ということである。場面の設定、それへの対応のしかた、いずれも「私たちの判断」なのである。今置かれている場面はかくかくしかじかであると私が「判断」し、今為すべきことを私が「判断」し、そして適切であると私が「判断した」方策をたてるのである。
言い換えれば、ものごとのとらえかたの数だけパターンがある、原理的に言えば無数あることになる。それゆえ、同じ事態・状況に対しても、それへの対応パターンは判断する人により違うだろう。しかし、違っているからといって間違い・誤りなのではなく、また違っているからと言って「方向」もまったく異なりめちゃくちゃに違っているのではなく、「方向」は同一であっての「違い」なのだ。すなわち、「多種多様」ではなく、「同種多様」である、ということ。
このような「従来のやりかた」に対して、近代的・合理的なやりかたでも、同様に「判断」を必ず伴うけれども、「判断の場所」が違う。そこでは、ある最も合理的と見なされるパターンがあらかじめ設定されていて、それに合うか合わないかが「判断のポイント」になる。その意味では、人によって違うなどということはあり得ない。正解があらかじめ唯一在り、それ以外に「解」があるなどということは、甚だしく秩序を乱すけしからぬこと。つまり、all or nothing 、〇か一か、一か八か、・・・なのである。コンピュータ用プログラムにはたしかに適しているだろう・・・。
こんなことを言うと、場面に応じたいくつかのパターンを用意しておけばいいではないか、という反論があるかもしれない。実際、複数のプログラムが用意されるようになってきているようで、そういったプログラム、パターン探しが、その面での学問分野での関心事でもあるようだ。「多様な人びと」をして、「不特定多数の人びと」として括って済ます「発想」も、そこから生まれたのではないか。「多様性」についても考えているぞ・・・、という言わば自己満足・・・。
しかし、このような、いくつかの場面とそれへの対応をあらかじめセットとして用意しておくやりかたでは、そのパターンの数は原理的には有限であり、万一用意されたパターンに合わない事態に遭遇したら最後、手の下しようもない滅茶苦茶な状態に陥るだろう。

従来のやりかたでは、パターンはあらかじめ設定はされておらず、むしろ、その都度、「万が一」と「正常」の状態、その両極の間に場面が設定されるわけで、パターンは両極の間に連続的に無数・無限に在ると言ってよく、だからこそ、いかなる場合にも臨機応変に対することができるのである。
すなわち、近代的なやりかたは、完璧のようで極めて脆く、逆に従来のやりかたは、不確かなように見えて極めて強か(したたか)なのである。
いったい、どちらのやりかた・考えかたが本当の意味で合理的と言えるのだろうか。
当然ながら、私は従来のやりかた・考え方を採る。それは、単なる私の《好み》でそうするのではない。ものごとが、あらかじめ考えておいたいくつかのパターン(としてのみ)で出現するなどとする考えかたこそ、非合理だと思うからである。まして、それへの「対応」:「判断」までもがレディメードで存在し、その中から選べばよい、というのも、極めて安易、非合理・不合理である、と思うからである。それでは、ロボットではないか。

こうやって見てくると、いわゆる近代的・合理的な考えかたというのは、いかに人びと・個々人のの判断を嫌い、あるいは信をおかず、「規範」を他に求めたがるものであるか、がよくわかる。それでいて、また、近代ほど、個人の尊厳を強くうたいあげ、個性の主張をとりたててあげつらう時代もなかったのではないだろうか。
今こうして見てきて、近代という時代の姿がまことにくっきりと見えてきたように私には思える。
すなわち、個々人を超えたところに「規範とすべきパターン」があり、個々人は、そのパターンの中のどれを選択するかの裁量権・判断権のみを有し、選択したパターンをいかに個性的に修飾するかが個人の個性であるとする、これが近代というものの姿なのではあるまいか。
では、そのパターンをあらかじめ用意して人びとに提示するのは誰なのか。その道の専門家?設計者?デザイナー?

もしそうだとするならば、その根底には、表向きの個人・個性の尊重、人間性の尊重という主張とは裏腹の、徹底した人間性無視:人間不信、その裏返しとしての選民意識が流れていると言わざるを得ないだろう。
なるほどたしかに、近代以前にも在る問題に対応したあるパターンが存在するという事例は多々ある。
しかしそれらは、そのパターンをあらかじめ設定し目指して生み出されたのではなく、個々の判断の積み重ねがそのように結果したのであって、その「拠りどころ」は個々人にあったのである。個々人の判断は、ある方向を持ちつつも、多様であったろう。しかし、その「共通の方向」ゆえに、ある時点で振り返ってみたとき、ある一つのパターンに収束しているように:つまりある「定型」のように:見えただけなのである。
ともすると、近代の人びとはそのパターンだけ:つまり「結果」だけをつかまえてとやかく云々し、背後に厳然として在った人びとの判断:「人びとの営為」を見忘れ、更には、個々の判断を越えた地点に、目指すべき、期待される像を設定し、それへの近づきかたの遠近で、ことの良し悪しを決めよう、などとさえしだしてしまう。それは、どう見ても愚行にしか私には見えない。
私は、いかにそれが多様であろうとこ、私たちの私たち自身の「ものごとの判断」を信じたい。そうでないならば、私たちの間に真のコミュニケーションは存在しないだろう。コミュニケーションとは単に「ことばを繰る」ことではない。できあいのいくつかの応答パターンのなかから、どれかを選択すればよい、などというものではあるまい。「ことば」にいったい何を託すかこそが問題なのだ。
「ことば」に託すもの、それは、私たちの私たち自らの感性に拠る私たち自らの「思考」のはずだ。その「思考」が、用意された有限のパターンのみに限定されるような状況は、私は認めるわけにはゆかない。
いわゆる「近代化」は、先進・先端の名の下に、諸作業の合理化:省力化を目指してきたと言えるだろう。しかしそれが、「思考」という作業:営為の合理化・省力化をも意味するのであるならば、そこでは真に新しいものが生み出されるはずもない。
「思考」もたしかにあるパターンをもつ。ただ、そのパターンは決して有限ではなく、臨機応変に無限であるはずだ。「思考」をも《合理化》と称していくつかのパターンに整理しようとするのが近代である、とするならば、ましてそれを《合理》というのならば、私はそれを「合理」とは認めない。そもそも、合理とは、システムにとっての整合性のことなのではなく、「私たちにとって『合理』であるかどうか」の問題のはずだからである。システムは、私たちが私たちの思考作業によって生み出すもの。しかも、システムのためにではなく、私たちのために・・・。

北海道でもまた特急が脱線したという。季節外れの異常な暑さでレールが曲がり、その復旧まで時間待ちをしたためにダイヤが狂ってしまった。一方それとは関係なく、別の保線作業:枕木交換:が行われていた。保線作業者たちは、ダイヤは正常であると頭から信じているから、列車は来ない時間帯と思い込み、枕木を外してしまった。ところがそこに、予想外の列車が来て、なるべくして脱線してしまった、ということのようであった。
今、合理化のために、保線は保線として独自に外注されているのだそうである。
運行のシステムが正常であったならば、保線は平常に行われていたのだから、別に問題がなかったのである。つまり、システムとシステムが、ある正常な状態で成り立つべく設定されていた。ゆえに、平常であったならば、システム相互の連絡は強いて必要ない。それが平常、正常ということ。しかし、それに慣れきってしまったとき、異常に対して対応できないのである。万が一の事態は容易に発生するのだ

近代というのは、こういう「薄氷を踏むような保証」の上に成り立ったシステムの群れに囲いこまれているのかもしれない。 
    
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秋の薫り

2016-10-03 15:35:12 | 近時雑感


外を歩いていると、至る所にモクセイの薫りが漂っています。まさに秋の気配を感じさせてくれる薫りです。残念なのは、秋晴れにならないこと!
モクセイは樹形自体は目立ちませんから、普段はそれと意識していませんが、薫ってくると、こんなところにも在ったんだ、とあらためて気づくのです。
私の住まいの西側には、北西風を避けるため数本植えてありますが、植えてから十数年、今はこんもりと、かなりの大きさになっています。上の写真は、その根元で咲きだしたシュウメイギク。
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止まない雨はない?!

2016-09-23 14:25:03 | 近時雑感


止まない雨はない、と言いますが、このところ、天上の水栓が壊れてしまったのではないか、と思いたくなるように、毎日のように雨が降ります。そのせいか夏風邪も完治とは言い難い状態です。お日様と青空を見たい・・・!
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秋の長雨?

2016-09-13 10:49:42 | 近時雑感

先日の強風で倒れた叢に咲くクサハギ

今年は、夏らしい青空・入道雲を見る機会がが少なかったように思います。
あっという間に立秋が過ぎ、九月も早や半ば。ここ数日も、愚図ついた天気が続いています。今日も朝から雨・・・。今、結構激しく降ってます。

一旦良くなった体調も、停滞気味。どうもすっきりしません。青空が見たい・・・・・・。

シリーズものの続き、やってますが、遅々として進まず。


追記 9月16日10.30am
体調、ここしばらく毎日37度台で、何となく気だるい感じが続いています。36度台に戻るまで、しばし休憩することにいたします。老化現象の一か?

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-36

2016-09-09 10:10:50 | 「学」「科学」「研究」のありかた



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大分間が空きましたが前回の続きです・・・。

Collar-rafter roofs with crown struts
  一部補訂[0908、1010am)

collar-rafter roof の事例中、14件には crown struts繋梁を支える束柱 があった。
この束柱は、crown post とは異なり、繋梁だけを承け、桁行方向の材:母屋桁は承けてはいない。
   註 collar-rafter roofcrown post については、(前回記事「―35」参照)
一見すると、これらは、先に5章で触れた13世紀から14世紀初頭にかけての CANTERBURY 地方の crown struts roof に似ている。これらの事例は、最近になり、 SUSSEX、SURREY 地方の木造建築に見られる似たような形態の屋根も関係しているかもしれないと考えられるようになっている。この地域の事例には、14世紀あるいはそれ以前の建設と見なされる例もあり、それらは、ケント地域でのcrown struts 誕生との関係を確かめるために、調査する価値があるからである。
この14事例のうち12事例では、crown struts は open hall 形式の建物にあるが、そのうちで唯一 EAST PECKHAMOLD WELL HOUSE の事例は、fig86b (下図)のように open truss空間を横切る小屋組 の上にある例である。

多くの事例では、 open truss は取り壊されていて如何なる形状であったかは確認できない。しかし、5事例では、crown strutsは、仕切り壁になっている小屋組にだけに見られる。fig86cSHELDWICHOAST COTTAGE のように、桁行1間で、梁が仕切り壁内だけにあるからである(空中を飛ぶがない)。
第二の注目点は、crown strutsを備えている家屋の形式にある。と言うのも、crown strutsWEALDEN 形式の家屋にはなく、cross-wing にも見かけず、唯一 end-jetty 形式にあることである。その例が、 fig86aSMARDENTOLHURST FARMHOUSE や EASTLINGPLANTATION HOUSE や、 end-jetty 形式 であったと思われるが、現在はきわめて部分しか遺っていないいくつかの事例である。たとえば、EAST PECKHAMHALE STREET FARMHOUSEBUSH FARM COTTAGE などがその例である。
collar-rafter roofのこれらの様態から分るのは、それが15世紀よりもやや早くから現れるということである。
これは、SURRY のMEAD MANOR の1465年建設と考えられる厨房棟でも使われていることでも明らかだろう。同様に、ROCKS,EAST MALTING AND LARKFIELD は用途は不明ではあるが、1507~8年建設と考えられる(下掲のfig90b参照)。

しかし、crown strutsの全てが15世紀後期以降の建設事例だけにに見られるというわけではない。たとえば、WALTHAM の HANDVILLE GREEN などでは、二個の尖頭アーチの出入口があるが、15世紀中期あるいはそれ以前建設と考えられている。
crown strutsが wealden 形式や cross wing では見られないというのは事実であるが、比較的大規模の建物にだけもちいられているように思われる。先に、collar-rafter roof、の家屋の地上階の面積は平均62~68㎡であると書いたが、crown strutsがあり、地上階の全容の分かっている open-hall 8事例の地上階面積は、80から123㎡ある。つまり、平均値を超えているのである。これらの事例は建物の幅(梁行のことか?)も平均より大きく、それゆえ、crown strutsは、過大で補強斜材のない屋根の小屋組で用いられたと考えられてもおかしくない。この束柱が、構造上の役割を十分に果たしているとは言い難いが、しかし、他の役割が在ったとも言い得ない。それは、crown post roof 形式の屋根一般の部材として実用上、あるいは装飾上の役割を担っていたのではなく、比較的格の低い end-jetty 形式や collar-rafter 形式の屋根を有する建物に限定的に用いられたと見なしてよいだろう。以上のように、13世紀あるいは14世紀初期のcrown strutsと大きな関係がありそうだ。この時期の struts も構造的役割を有してはいるが、ケントの場合は、高級な石造家屋だけに事例が見られ、また open tussres :間仕切り部ではなく宙を飛ぶ小屋組:にだけ用いられている。
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次回 Side-purlin roof に続く
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