建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える                下山眞司        

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復刻・「筑波通信」―7   「峠」について  

2016-07-25 11:57:01 | 復刻・筑波通信

草繁る


「峠」について                    1982年1月1日刊 の復刻
   復刻・編集にあたり相当整理しましたが、かなり長くなります。ご容赦ください。

昨年の春以来(1981年の春です)この三月に卒業してゆく学生の数人が、協同して鉄道の枕木を使って山小屋を造っている。これは、彼らの「卒業設計」。資金集めから木材の加工・組立てまで全て自分たちでやるのだから、これは、教室で聞く下手な授業などより、数等よい学習になったようである。また、おそらくこれは、彼らにとって、大学時代の最も充実した「体験」として心に刻まれたものと思う。
彼らの山小屋の現場は、今ごろは雪の中。

信州の中央部、西に松本、北に上田・小諸、北東に佐久、南に諏訪、少し離れて南東に甲府の街々があり、これらの街々のある平地・盆地に囲まれる形で一連の山塊がある。西から言うと、美ヶ原霧ヶ峰蓼科そして八ヶ岳へと連なる山塊であり、観光地として有名な一帯でもある。
   「日本地図帳」を開きながらお読みいただければ幸いです。
彼らの「現場」は、この蓼科山中、大門峠という峠を少し北に下った標高1400mに近い地点に在る。
この峠を含め、この山系には、その南と北に展開する街々を結ぶ山越えの道が、古来数多く開かれていたらしい。古代の東山道もこの山系を横切っていたことがあるようだし、近世の中山道も諏訪から佐久へこの山中を縫っている(現在の国道142号は、その道筋に従っている)。つまり、この山中には、既に廃れたものも含め、数多くの峠が並んでいたのである。その多さは他に類を見ない。
この一帯に、私は以前から興味があった。ここは高冷・寒冷の地。何故こんなところに道を開いたのか、不思議でならなかったからだ。そしてまた、この山系の麓の街々のあるところより一段上がった斜面、特に南面の高原状の一帯には(今は開拓地や別荘地になっているが)縄文期をはじめとする住居址、集落跡:遺跡群が所狭しとばかりに密集していて、これも私の興味をそそるものであった。
何故、この高冷・寒冷の地に?
そして、諏訪に生まれ諏訪を愛する考古学者:藤森栄一氏の諸著作でそのあたりのことについていろいろと教えていただき、かねてから実際に訪ねてみたいと思っていたのである。そして昨年の夏、彼の学生諸君の山小屋を見るついでに、この山系の南北を、十分とは言えないまでも歩き回り、貴重な体験を得ることができた。そこで、以下に、その際「峠」について考えたことを書くことにする。

諏訪に暮す人が、「ごく普通に」小諸・佐久・上田あるいは長野に行こうとする場合、今は鉄道を使うことになろう。しかし、鉄道は、地図で分るように、これらの山々の縁を回って走っているから、地図の上の直線距離では直ぐそこでも、かなりの時間を要するはずで、「遥か山の彼方の遠い町へ行く感じ」を抱くはずである。概して、今の鉄道は「中央」と「地方」を結ぶには非常に便がよいけれども、地方の街々を結ぶことに関しては、一時よりも便が悪くなっており、東京から長野に行くよりも、諏訪から長野に行く方が時間がかかるかもしれない。また、自動車を使うにしても、主要国道(国道20号、18号、19号など)も大体鉄道と並行しているから、結構時間がかかる。
主要な鉄道も主要道も、「地方」の街々を結ぶことよりも「地方」を「中央」に結びつけることに意が注がれているから、山の向うとこちら側とをつなぐことなどは念頭にはなく、もし注ぐことがあったとすれば、それは、そうすることがそのときの「中央」にとって「都合がよい」からだと言っても過言ではない。「中央」が近畿にあった古代には「東山道」は東国への近道だったし、江戸期の「中山道」も江戸と近畿を結ぶ近道であった。しかし、「中央」が東京になってからの鉄道敷設では、この山越えの部分は避けられ、山の両側に、それぞれ、東京長野東京松本を結ぶ鉄道が敷かれることになる。それは、山越えの鉄道が技術的に難しかったからではないはずである。なぜなら、鉄道の碓氷峠の山越えを見れば明らかである。
時の政府が、中山道全線の鉄道化の必要を認めなかったのである。その結果、山系の南北は鉄道とは無縁のままとなり、「山の向こうとこちら」になってしまったのである。先に「ごく普通に行く」となるとと書いたが、この「ごく普通」の状態は、鉄道敷設後の話であり、鉄道敷設以前は、「山越え」が「ごく普通」だったに違いなく、当然そのときは「山の向うとこちら」という感覚などなく、両側はもっと密で近しい関係にあったと考えられる。
つまり、鉄道敷設は地域の人びとの関係まで一変させてしまったのである。誰もわざわざ山越えをして上田へ行こうなどと思わなくなってしまった。人びとは歩かなくなった。

人びとの往来が減り、人びとの往来に拠っていた町の生活が、言わばその活動を停止し「変化」が停まってしまった(停まらざるを得なくなった)その道筋の街々が、最近になって、「伝統的街並」と称されてもてはやされている。
確かに、鉄道敷設後に寂れてしまった中山道沿いの街々には、歩いてみると分るが、今現に栄えている街々にはない心和むものがあるのは事実である。
しかし、それらの街並みをそのように在らしめた中山道は、既にその役割を失ってしまっているのも事実である。つまり、それらの街々は、中山道に拠らない生活を、その昔中山道に拠って造ってしまった「つくり」の中で、それを変えることもできず、言わば止むを得ず営んでいるのである。
中山道華やかなりし頃、活気あふれる町筋の家々は、頻繁に建て替えも行われていたに違いない。そのとき街の人びとは、先人・先代のやったことを単に順守するのではなく、もらうものはもらい、捨てるものは捨てる、つまり彼らの主体的判断でことにあたったはずである。それは、ただ受け継ぐという安易な営みではなかったのだ。
すなわち、今もてはやされている「伝統的街並」とは、そういう言わば人びとのダイナミックな活動が、鉄道の敷設にともない、突然停止を余儀なくされ、言うなれば時間が停まってしまった時の姿に他ならないのである。
昨今盛んに言われる「街並保存」の動きに、私が今一つ納得できないのは、それゆえである。一つには、そういう「保存運動」というのが、大抵(鉄道で訪れた)「よそ者」の発想であり、そこで生活・暮している人たちのことが念頭にないように思えるからである。それは、そこで生活・暮す人たちに、「時間を停めて生きろ」と言うに等しい。そのような僭越なことが許されてよいのか。
そして更に、そういった「旧いものを保存することで満足する」、その安易な考え方に同調できないからである。
確かに、こういった心和む街並がどんどん消えてゆく。そして、心和まない、むしろ逆なでするようなものになってきている。それとの対比の中で「旧きもののよさ」を見出したからといって、それらを保存すれば済むというものではあるまい。まして、それらを保存すれば、「現代のやりかた」への免罪符になるわけでもあるまい。
このような「よいものを遺しておけばよい」とするような「単純な」考えかたは、今の街並を心和まないものにしている「つくりかた・考えかた」の裏返し、つまり「構造」が全く同じであると、私には思える

彼等には、「街々や街並の形成:生成のダイナミズム」が全く見えていない。そこに生き・暮した人びとの、そのときどきの主体的な自らの感性に拠る判断の積層・蓄積のうちにそれらが成ったことが見えず、その成因を、ただ徒らに(変えることもできずに止むを得ずそのまま遺ってしまった)目の前に在る「もの」、その「ものの形:造形そのもの」に求めようとしているのだ。

敢えて言えば、人間の歴史は、まさに「つくりかえの歴史」であると言ってよいだろう。
ゆえに、私たちが「保存」しなければならないのは、出来上がった結果としての「もの」そのものではなく、そのような「結果」をあらしめた「つくりかえの論理:すなわちものづくりの論理」、そしてそれを支えてきた「感性の存在」であり、その「存在」を保証することである。そうでなければ、今私たちがやることは、決してその「よき旧きもの」以上のものには成り得まい。そして、そうでなければ、「旧きよきものを保存する」ことは、単なる骨董趣味と何ら変りないことになってしまう。

先月の初め(1981年12月初め)、学生たちと桂離宮を見学した。ちょうど修復中で、檜皮葺きの屋根も新しくなって、それまでの見慣れたいわゆる古色とは全く違って見えた。おそらく建設当初はこうだったのだろう。
この姿を見て、ある人たち:同業の教師で、いわゆるデザイナーを自負する方だったが:の「感想」は、「まわりと馴染んでなく、《元通りになるのに》!!どれだけ時間がかかるだろう」というものであった。
私に言わせれば、この姿が「元通り」なのだ、いや、木材も含めすべての材料が「新しい色」をしていたとき、それが「元通り」なのだ。この山荘を実際に使ったのは、たかだか数十年だから、その時この建物はいわゆる「古色」にはなっていなかったはずだし、第一、造営者も三百年後の《よさ》を思って造ったわけでもあるまい。
この人たちのつぶやきを小耳にはさんで、私は、、《桂離宮が素晴らしい》と言う人たちは、「何をもって素晴らしい」と言っているのか、その「《素晴らしい》のなかみ」を疑いたくなった。今、自分が(勝手に)「いい」と思った諸点、それをこれを造った人たちも求めていた、そう勝手に思い込んでいるのだ。
ここには、「誤り」が二重に積み重なっている。そして、そうか、こういう見かたで「教育」が行なわれてきたのだな、これは大変なことだ、と改めてことの重大さに気付かされたのである。
何故このような「事態」になるのか?
端的に言えば、ものごとを what と how だけでしか問わなくなっているからではないだろうか。
すなわち、本来、ものごとは 5W1H すべての疑問詞をもって問うべきなのに、問を「省略」しているのである。
今触れてきた「伝統的街並保存のはなし」も「桂離宮のはなし」も、そこでは when where who why の問いが欠落し、あるのは、what と how だけである。はたして、それだけの視点・問いで、人間の営為を語れるか、ものが造れるか?否である。
「旧きよき街並」を実際に造ってきた人たちや桂離宮造営に関わった人たちは、当たり前のこととして、これらの全ての「問」でものごとにあたっていたはずである。それを忘れてしまったのは、今の私たちだけ。その結果、「それはそれ、昔は昔、今は今・・・」という「発想」が当たり前になってしまったのだ。
旧いものも新しいものも、このすべての「問」で問うた時、初めて、そして当然のこととして、その「本当の姿」、」「それが存在する意味」が見えてくるのではなかろうか。私が旧きものに学ぶのは、少なくとも、そして必ずしも、その「形」ではない。私が学ぶのは、それらを造るのに関わった人びとの5W1Hによる身の処し方なのだ。もし保存が必要だとしたら、彼らの「身の処し方」をこそ保存しなければなるまい。


敷石の上で一休みしているシオカラトンボ

峠の話に戻ろう。
先に、山越えの道が鉄道の開通にともない廃れてしまった、と書いた。しかし、昨今、この廃れた道が、装いを新たに復活しだしたのである。専ら歩くしかなく、まったく鉄道に比べ歩が悪かった峠越えの山道が、自動車の普及にともない、見直されてきたのである。そして今、実際に車で走ってみて山の「こちら」と「向う」が驚くほど近いということを改めて発見する。だから、徒歩が全てであった時代、山の向うとこちらは、鉄道敷設後生まれてしまった遥か山の向こう側という感覚とは全く異なり、相当に「近しい」間柄であった、と考えるのが自然だろう。
今、これらの峠道のいくつかは、舗装道路になっているが、その道筋はほとんど古来の道を踏襲している。こういう道筋を見つけ出した先人たちの営みには、ただ驚くばかりである。彼らは、私たちの時代とは違い「正確な地形図」など持っていなかった。今の道路は、おそらく「正確な地形図」の上で策定されるのだろうが、彼らは違うのだ。道のつくられ方:策定法が、根本的に異なると言ってよいだろう。
どこが異なるのかについては、山小屋づくりの学生たちの「経験談」が明らかのしてくれる。
今話題にしている山系の蓼科から美ヶ原にかけて、新規に観光道路が造られているが、そこを走った学生たち曰く。
    古来の道を踏襲したと思われる道では、たとえば、蓼科山は、多少振れることはあっても、常に前方に見え隠れするのだが、
    新しい観光道路では一定せず、突然後方に見えたりして、どこへ向っているのか分らなくなり(現在居るところが分らなくなり)
    「道路標識」に頼るしかなかった・・・。

では、この山越えの最短ルートはいかにして造られたのだろうか。おそらく、中山道などの主要道が生まれる以前から、このようなルートはいくつもあったに違いない。主要道は、その中から選ばれて整備されたものと思われる。
こういうルートを、地図・地形図のない時代に、人びとはいかにして見付けたのか?
これについては、諸説ある。
現在主に人びとが暮している低地よりも一段高い高原状の一帯に、縄文期の人びとの居住地が在った。彼らは、背後に拡がる山地一帯を生活圏としていた。そういう山地が在るがゆえに、人びとはそこに暮したのだ。ゆえに、一帯は「彼らの(脳裡の)地図」に組み込まれていた。
彼らは、はるか山中に貴重品・必需品の黒曜石の鉱脈を発見した。この地産の黒曜石が山を越えた各地で見付かっているから、そいう地を結ぶ道も既に在ったと考えられている。と言うより、それぞれの地を拠点とする生活圏が互いに接していて、そこを黒曜石が通過していった、と言った方が適切かもしれない。そして、そういったルートが時を越えて受け継がれてきた、というのが主要「街道」誕生の有力な解釈である(もちろん、途中で廃れてしまったルートもあるに違いない)。
また、この一帯は、低地農業主体になる以前から盛大に牧畜がおこなわれたらしい。この地の他、信州から上州・甲州の山地一帯は馬の産地で、各地に遺る「〇〇牧」などという地名にその名残がうかがえる。
すなわち、有史以前から、この山地には常に「人びとの暮し」が在り、それゆえ、有史以前からの「道の遺産」も継承されてきた、と言うことができるだろう。
これらのルートは、どういうところを通っているか。
こういう山地の古来からの道のルートのとりかたには、いくつかのやりかたがある。おそらくその方策は、現地に立って道を探るにあたっては、今でも通用するだろう。
一つは、等高線に沿って歩を進める、いわゆるトラバースしてゆくやりかたで、これは、各地の山村で集落間を結ぶ道によく見かける。距離は長くなるが、歩行が楽になる。特に稲作主体の集落になってからは、集落は大体等高に並ぶから(水田る水の得やすい場所は、大体等高に並ぶ)道も当然等高線沿いになるのである(これは、実際に山間地の集落を訪れたり、地形図を詳しく見ると分る)。
因みに、関東平野の北辺を通っていた東山道を復元してみると、赤城山麓の、ほぼ等高線上に点在する自然湧水に拠る集落:村々を繋ぐ形で走っているという。
   註 このあたりについては、10年ほど前に、「居住の条件:人はどこに住みだしたか」で、他の場所を例に簡潔に書いています。

もう一つは、高低を詰める場合の道で、これには、谷筋道尾根(筋)道がある。古来の道で、斜面を《やみくもに》登り詰めるような道のつくりかたは、先ずないと言ってよいのではないか。私が知っている唯一の例は、武田信玄上杉攻略のために造ったという甲州から善光寺平へ向う軍事用直線道路だけである。「信玄棒道」と呼ばれ今話題にしている山系の一画にその跡が遺っている。地形図で見ると、全く呆れるほど、みごとに最短距離を強引に突っ走っている。これは、例外だろう。
   註 このあたりについても、10年ほど前に「道・・・どのように生まれるのか」で触れています。

山越えの道では、尾根筋道よりも谷筋道の方が、圧倒的に多そうだ。考えてみれば当然かもしれない。
実際に現地に行って山々を遠望すると、山越えの道のの位置をおおよそ比定することができる。大体そこは山々の「くびれ」の部分である。いわゆる「鞍部」である。(外国語でに相当する語を探すと、この鞍部を意味する col が出てくる。外国でも、道はそういうところで山を越えるのだ。他には、外国語では pass という語がに相当するようだ。
この「くびれ」の部分には、必ず川が切り込んでいる。逆に言えば、川はそのあたりから始まっている(流れ出している)。しかも、その鞍部を境にして両側に必ず川が在ると言ってよい。これは全くの「自然現象」。すなわち、山越えの谷筋道は、両側から谷川沿いに登り詰め、最後にこの鞍部で顔を合わせているのである。
水の性質上、川は低地へ向けて最短距離を流れ下る。ゆえに、谷筋道は、通ることができるならば、峠:鞍部に向う最も効率のよい道筋なのである。第一、谷川という目印があるから、支流を見間違えなければ迷う恐れも少ない。
おそらく、そのような谷筋道の中から、最も歩きやすいルートが、道:街道として確立していったのだろう。
また、そういう河川が平地に出る辺りには、扇状地などの台地が形成されるが、そこは人が住み着く絶好の場所でもあった。今の大きな町は、大体そのような場所に在る。そういう場所に生活・暮した人びとにとっては、農業が生業の主体であったとしても、背後の谷筋を遡った山地もまた、彼らの手の内に在ったと考えられる。つまり、一帯は彼らの「私の地図」に組み込まれていたはずである。
私たちは、とかく、山のこちらの町と向うの町を結ぶ最短ルートの道が、「後になって、意図的に造られた」かのように考えがちだが、そうではなく、それぞれの側に人びとが、それぞれ地の理に従って生活・暮しを確立していった結果、期せずして、鞍部:峠で両者が顔を合わせたに過ぎない、と考えた方が理に適っているだろう。そして、両側の生活圏相互の交流が盛んになれば、その峠道も街道として整えられる。そしてまた、道筋の村や町は、農業だけではなく「街道」に拠った生活・暮しを営む村々、町々へと変っていった、多分、これが峠道の成り立ちの「筋書き」と言える。
先に触れた「信玄棒道」が現在のような精確な地図のない時代に造り得たのも、その土地に住み着いた人びとの生活圏をよく知り、それを繋ぎ合わせてできる全体像を、目の前に見えるものを基に想定できる鋭敏な感性を人びとが持っていたからこそ可能だったのである。
彼らは、正確な地図、各種の情報を持っている私たちよりも、数等優れた「ものの見かた、捉えかた:感性」を身に着けていた
こういう「感性」を、私たちは、何時、何処に置き忘れてきてしまったのだろうか。しかも、現実は、こういう「感性」を失ってしまった人たちが、いい街並だ、桂離宮は素晴らしい、などとその保存を説き、それどころか、人びとの生活・暮しに関りをもつものを造ったりしているのである・・・。

最近は非常に精密な航空写真(空中写真と呼ぶらしい)が撮れ、このごろの地形図は、それが基になっているらしい。それを見ると、古来から継承されたと思われる道と、最近造られた道とを直ちに見分けることができる。地形・地勢と無関係に造られている道と、そうでない地理に応じている道とが際立って見えてくる。もちろん、前者が最近の道である。最近の道は、地理から考えて極めて「無理な」形状を示すが、古来の道は言わば淡々と地形・地勢のなかに「通れる」場所を探し、選んで走っていて、ゆえに地形・地勢にすっかり馴染んで、道だけが浮きだって見えるようなことがない。先日、人工衛星から撮った関東北部から信越にかけての地域の写真を手に入れたが、そのあまりの見事さに驚嘆した。住めそうな場所という場所には、いかなる山あいといえども人が住み着いていると言ってよく、それらを結んで非常に自然な形で道が在る。そこから窺える居住地域とそうでない地域のモザイク、それらを結ぶ道の網目、その「合理性」は、現代の諸々の計画を圧倒しており、現代のそれは、古代の営為の跡に比べれば、さながら「ひっかき傷」のようなものでしかない。
それは、「大地という自然が備え持つ合理性」に対して、「科学技術という偏狭な合理性」が対抗しようとした「手負い傷」
に見えた。
古来、「大地に拠って生活・暮した人びと」は、「大地の備え持つ合理性」を知らないまま(知ろうとしないまま)、大地に手を付けるような無思慮・無謀なことは、やってこなかったのだ。



ところで、ここで何度も用いてきた「峠」という字は、いわゆる「国字」、すなわち日本で創られた文字である。峠的な地形が中国にないはずがないから、彼らはそういう場所にどういう字をあてるのか興味があり、中国を訪れたとき、中国人の通訳の方に訊ねてみた。ところが納得のゆく答が返ってこないのである。頭をひねっては、「頂」かなあな、どと私たちの持っているイメージにはぴったりこないような答しか戻ってこない。
結論的に言うと、「峠」に相当する字がないらしいのである。それは当然のことだ。もしもそのような字があったならば、国字が創られることはなかったはずだからである。
では、中國の人びとが、「峠」に対応する字を何故もっていないのだろうか?
いろいろ考えているうちに、もしかすると、私が「峠」という字に抱いていた観念が間違っていたのではないか、と思うようになった。
私は、「峠」を、道を登り切った所、そこから先は下る一方になる所、そういう地形的場所を示す「地形名称」と思っていたのだが、その字は、単なる形状を示すものではないのである。
峠的形状の場所に対する地形名称に、「たわ」とか「たるみ」というのがある。これは、鞍部:col に相応する。
   相模湖の近くに「おおだるみ峠」と呼ばれる峠がある。大垂水峠と書いたと思う。
だから、地形的名称ならば、あえて「峠」という字を創らなくてもよいだろう。
そして、峠の場所を地図や実地を見ていて思い至ったのは、この字は、地形そのものを指しているのではなく、そのような地形的な場所が有するいわば「生活的な意味」が込められているのではないか、ということであった。
端的に言えば、「二つの生活圏の接点」を意味するのではないか。「峠を越える」ということは、暮し慣れた所を離れ、慣れない違う場所に行くということだ。人びとは、峠に神を祀った。人びとは生活圏の境界に立ち、それぞれの生活圏の神に、旅の前途の安全を願ったのである。
峠を境に二つの生活圏・文化圏が隣り合う。それぞれは、それぞれが独自であって、峠越しに交流する。交流で得たものを、それぞれがそれぞれなりに消化し成長してゆく。だから、峠の両側は、似ているようで異なっている

思い出して柳田国男の「地名の研究」を読み返してみた。そこに、「峠」を「ひょう」「ひょ」と読む所があることが紹介されていた。
柳田の解釈は、それは、境・境界を意味する「」の字の「音読み」ではないかという。峠的な地形が「村界」であった、というのである。後になって、「ひょう」に新字の「峠」があてがわれ、読みだけが遺ったのではないかという解釈である。
   註 :①こずえ。高い枝。②すえ、はし。いただき。③しるし。めじるし、④まと。めあて。・・・(新漢和辞典) [追記25日11.50]
なぜ中国に「峠」に相応する字が存在しないのか?
彼の地では、峠的地形は、生活圏の境界ではなかった。
彼らの生活圏の境界は、そのような自然地形に拠ることはほとんどなく、境界は、自らが言わば「勝手に設定する」ものだった。それは、彼の国には確固とした城壁・市壁:囲障・囲壁が在るのに、日本にはない、彼の国の文化を積極的に採り入れても、囲壁は造ろうとはしなかったことにつながってくるはずである。
ゆえに、彼の国では、「峠」の字は不要だったのではなかろうか。一方、日本では、それを必要としたのである。




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大暑?!

2016-07-22 14:36:37 | 近時雑感


今日は大暑だそうです。暦の上では一年で一番暑い頃、を意味するとのこと。
学校も夏休みに入りました。
例年なら、その頃から夏の日照りが厳しくなるのですが、当地は、ここ数日も、涼しいというよりも肌寒い日の連続・・・。
天気図を見ても、夏をもたらす太平洋高気圧が見当たりません。「暑中お見舞い」という常用句も使えませんね。

冷夏?農作物は大丈夫なのか、心配です。
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梅雨寒

2016-07-16 11:06:46 | 近時雑感

合歓木
今日は朝から晴れ間が見えますが、昨日までの数日、当地は「涼しい」を通り越して、少し「肌寒い」という感じの毎日でした。
朝から陽射しはあるのですが、冷たい北東風が吹いています。今午前11時、少し雲が広がり始めています。夕立があるかも、という予報。

シリーズものの編集、続けていますが、少し進行ペースが落ちています。もう少し時間がかかりそうです。


17日追記。[17日10.05 追記]
今日も似たようなどんよりとした空模様です。しかし、朝の少し陽が射した頃、何と、ミンミンゼミが鳴きました、普通は、もっと暑い日が続いた夏の終りに鳴くのではなかったか、と少しばかり訝りました。
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梅雨の晴れ間

2016-07-10 10:30:25 | 近時雑感

次から次へと咲きほこるムクゲ。百日紅ももうじきでしょう。

今日は、昨日までの梅雨空が嘘のように、朝からよく晴れています。
梅雨空とはいえ、昨日の雨はひどくはなかった。
雨が激しく降った翌朝、道路にはたくさんのミミズが現れます。おそらく、土の中が雨で酸欠状態になり、空気を求めて土から出てくるものと思われます。土の農道なら何の問題もないのですが、結構舗装道路にも現われます。舗装道路の方が乾燥しているからかもしれません。しかし、乾燥しすぎです。たくさんのミミズが、土に戻れず、息絶えています。時には車にひかれているのもいます。行き場所の選択を間違ったのです。小さなカタツムリが歩いていることもあります。

今日はおそらくヒグラシが鳴くのではないでしょうか。夏はもう直ぐです。
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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-35

2016-07-09 09:18:12 | 「学」「科学」「研究」のありかた



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Collar₋rafter roofs
   Collar-rafter roof : 垂木 rafter で合掌をつくり、首の部分を繋梁 collar で繋ぎAの字形に組み、それを横並べして屋根を形づくる工法(後掲の図参照)

単純な Collar-rafter roof は、一般にごく初期かあるいはごく後期につくられていると一般に考えられてきた。実際、遺構は、二つの時期に明白に分かれて存在する。先に第5章でみたように、13世紀後期から14世紀初期にかけての遺構(多くは大きな石造建物に見られるが)は、比較的幅(梁間)の狭い付属棟に多い。Crown-post roof が14世紀に一般的になり、社会的に広まるにつれ、Collar-rafter roof が姿を消していったようである。table 2 (下に再掲)で分るように、14世紀後期以降の木造建物には、この形式の事例は極めて少ない。この形式の屋根は15世紀初頭から普及しだすが、それも、16世紀に入ると、全体の四分の一にまで減ってしまう。

このような現象の理由は、Collar-rafter roof 工法とそれを用いる建物の認知度と大きく関係している。この工法は、WEALDEN 形式の家屋には全く存在しない。cross wings を持つ家屋に見られることがあるが、多くは(調査された事例の72%程度) end-jettied 形式unjettied 形式の家屋に用いられている。下に載せる fig85 に示す EAST PACKHAMOLD WELL HOUSEBETHERSDENPIMPHURST FARMHOUSE や、用途がはっきりしない建物や複合形式の建物がその例である(それには、厨房と思われる例も含まれる)。
これらの多くは、規模が小さい。下にこのシリーズ「-26」に載せた 家屋の型式別の床面積を整理した表 fig67 を再掲します。

この表で分るように、WEALDEN 形式の家屋の地上階の面積は、時代によらず平均して80㎡程度である。一方、end-jettied 形式の家屋は、1406~75年には75㎡であるが、以後は64㎡程度に低減している。けれども、Collar-rafter roof の建物は、1475年以前は平均68㎡、以降は62㎡になるなど、時期によらずほぼ一定している。
このような違いは、梁を承ける壁の高さ:桁の高さ:で比べてみても同様である。梁を承ける壁の高さ:桁の高さ:を示したのがtable 4 である(下掲)。
この表は、母屋と cross wing :付属棟とに分けているが、Collar-rafter roof の建物は、母屋では全体の61%が3m以下であり、母屋と付属棟を合わせると、Collar-rafter roof の建物の34%は(この数字がどういう算定か分りません)4mよりも低く、総じて低いと見なしてよいだろう。4mを越える例は、134例中僅か7例に過ぎない。梁を承ける壁の高さ:桁の高さが高くなると、Collar-rafter roof 形式は急減するのである。



これらの図は、建設時期が遅いほど Collar-rafter roof は小さく、丈の低い建物に使われ、建物の規模とこの最も単純な形式の屋根の間に密接な相関があることを示している。更に、この形式が14世紀後期と15世紀初頭には建設例がないのは、建物の規模が直接的に関わっていると考えてよいだろう。この形式が一旦使われなくなった後、5・60年後に再び使われだしたなどということは考えにくい。おそらく、crown post を使える余裕のある裕福な人びとにとっても、その代替工法として重用されたのではないだろうか。
つまり、おそらく、この形式の工法 :Collar-rafter roof は実用的な建物、簡単な小さな建物に使われ続けたのである。この類の建物は、15世紀項は以前までは、少しではあるが建てられ続け、それとともに、Collar-rafter roof も生き永らえたのである。
Collar-rafter roof 工法は、多分、14世紀、15世紀初期を通して途切れることなく用いられたと考えられるが、現在、その後期の事例のみが僅かに遺っているに過ぎない。
                                                     この節 了
       *****************************************************************************************************************
      次回は、Collar-rafter roofs with crown struts の節の予定です。


筆者の読後の感想
二本の材を逆V形に組み合掌をつくるのは、木材で建物をつくる最も基本的で簡単な方法です。ただ、合掌の底辺:梁間:を大きくするには、材:垂木:を長く断面も太くする必要がありますが、それは、針葉樹に比べ広葉樹では至難の業です。しかし、それにあくまでもこだわる。その「熱意」はすごいと思わざるを得ません。
日本の場合、垂木だけで屋根形を構成する方法を早々とやめ、束と母屋桁が屋根の構成材の主役となります。それによって、垂木は細身で済み、屋根の形もいわば「自由」になった、と言えるかもしれません。
この彼我の「発想の転換点」が何に拠るのか、考えてみたいと思っています。
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復刻・「筑波通信」―6   「蔵」のはなし:「必要」ということ

2016-07-03 14:03:00 | 復刻・筑波通信

ムクゲが咲きだしています

「蔵」のはなし:「必要」ということ                    1981年12月1日刊 の復刻

こがねむしは かねもちだ かねぐら たてた くら たてた・・・」という童謡がある。
この「童謡」の「詞」の「裏側」には、「蓄財したもの:財産」を格納する場所、それゆえ富裕な人びとが備えるもの、という「理解」、つまり、「蔵」という概念に対する《社会的「通念」》が潜んでいるように思える。いったい、「蔵」とは何なのか。

新潟で日本海にそそぐ阿賀川を遡ると、越後平野を過ぎ山あいを渓谷状に北上し会津盆地に入る。川は盆地の西端をゆるやかに流れ、今度は先の山あいの山塊を巻くようにその東側を再び渓谷状を成し南へと上流へ向う。つまり、会津盆地を転回点としたUの字形を成し、その囲まれたところに山系・山塊がある、ということになる。この上流部を総称して南会津と呼ぶ。川を更に遡ると(概ね南に向うのだが)、山にぶつかる。そこの峠を越えると、そこは関東平野を流れる鬼怒川の上流部になる。日光へはもう直ぐである。この川筋の道は、江戸と会津を結ぶ重要な街道の一で、川路(かわぢ)と呼ばれたらしい。今の川治温泉は、川路温泉だったわけである。
それはさておき、このUの字形に囲まれた山塊のなかに、それこそまさに「辺地」を絵に描いたような山村 S村がある。この村へは、西側の阿賀川支流沿いに入るのが比較的緩やかな道であるが、あとは、会津盆地からも南会津からも険しい峠を越えなければならない。冬季の積雪は村内で3mを軽く超えるから、冬は、先の支流沿いの道(これも時には途絶えることがある)を除いて、完全に途絶する。つまり、孤立してしまうのだ。
S村の村域は、先の阿賀川支流沿いにいくつかの集落が点在する形で展開しているが、元もとは二つの村であったという。
一つは、概ねその川の中下流域の比較的平らな部分、もう一つはその上流の低い峠を越えたところにある小盆地のO集落で、そこはかつて独立してO村であったという。だから、このO村は最奥の集落ということになる。
このO集落は、川沿いの道を下から、いくつもの集落を通り抜けて遡ってゆき、人家がなくなって山道になり、村のはずれに来てしまったなと思いながら、小さな峠を越え下り坂になったとたん、突然前方に家々の屋根がひしめくように、まさに呆気にとられるような形で現われる。たしかに村を名乗ってもおかしくない大きな集落である。
今は車で訪れるが、歩いて訪れたならば、そしてそれが春先で花でも咲いている頃ならばなおさら、まさに桃源郷にでも入り込んだような気分になるに違いない。そのとき一緒に訪れた皆が一様に思ったのは、「こんなところに人が住んでいる」という驚きに近いものだった。
しかし、この「こんなところに・・・」という感想は、よく考えてみる必要がある。人里からあまりにも遠く離れたところに人がいる、という意味もあるし、「常識」からすると人の住めそうにないところに人が住んでいる、という「驚き」の意味も含まれているだろう。
では、東京:都会を見て、どうして「こんなところに」人が住んでいるのか、と思わないのだろうか。何故こんなところにひしめきあって住んでいるのか、と驚いてもいいと思うのだが、誰も不思議に思わないようだ。
そうしてみると、「こんなところに・・・」という感想は、ある特定の視座から一方的に見たことによる感想に過ぎない、ということになる。だから、この「特定の視座」というのが何なのか、ということが問われなければなるまい
人がそれぞれ自分中心のものの見かたを持つというのは確かであるけれども、だから都会に住み慣れた人がこういう山村を見て「こんなところに・・・」と驚いてもまったく構わないし、当然かもしれないが、しかし、その「見かた」「驚き」が直ちに「標準的」普遍的」なものであると見なされてしまっては、それは誤りだ。それでは、肝腎の「人それぞれ」の存在が消えてしまう。都会に住む人だけが人ではない。ましてや、そういう視座・見かたが多数決によって、つまりそういう見かたをする人の数の多少によって正当化されたり、妥当と思われたりするのは論外のはずである。しかし今、大多数の人は都会に住み、彼らの先祖をたどればこういう山村に暮していたかもしれないなどということはすっかり忘れ、都会に慣れ切ってしまっているから、彼らの「見かた」は唯一・絶対であるかの錯覚を持ってしまうのだ。
実際、村に住み暮している人の立場から見れば、「こんなところに・・・」と思われること自体、不可思議で、不当に思えるだろう。彼らは、その場所なりに、彼らなりの生活をしてきているからである。自分他とが「辺地住まい」などとは、まったく思いもしなかったはずである。今は対比する都会や町場の話も伝わってくる。そうであってもなお、「こんなところに・・・」という「感想」は、彼らにとって不当であることは変りあるまい。
私たちの多くは、都会的生活に慣れ切ってしまっているが、しかし、それが唯一・最高の、それゆえに目指すべき標的であるかのように、つい見なしてしまいがちな、そういう悪い癖は、即刻捨て去らねばなるまい。
「期待される人間像」などというのがまったく人を人と思わぬ不当な考えかたであるのと同様、あるべき生活像みたいなものを《抽象的》に定型化するのも、これもまったく不当なのだ。

さて、この「辺地の村むら」で、私にとって印象深かったのが、「蔵」であった。家という家がそれぞれ、少し大げさに言えば母屋よりも立派な「蔵」を持っていたことだ。遠くからも「蔵」が際立って見えた。一見したところ、一帯は決して農業生産高の高いところには見えない。両側から比高はそれほどではないが山が迫り、耕地は限られ、水田用地も狭い。寒冷の地だから、稲作の普及も比較的最近のことだろう。おそらく、元もとは畑作や林業が生業だったのではないか。
   「越後上布」の名で知られる織物の原料「からむし」(チョマ)は、この村の特産で、その栽培法は「焼畑」そのものである。
   こういう山間の村むらでつくられた繊維が集められ加工され献上されたのが「越後上布」である。
つまり、耕地も狭くしかも気候的にも厳しいこの土地からの収益は決して豊かではなく、そこで暮せる人口にも自ずと制限がある。そういう土地柄で、「富」や「財産」を蓄積するなどということはあり得ない。
そうでありながら、全ての家に立派な「蔵」がある。それは、私が勝手に思い込んでいた「蔵」の「概念」とはまったく相容れない。
何故、この「貧しい村」の家々の「蔵」は立派なのか? 
村の人の話を聞き、また考え直してみて、それが至極当然であることに気が付いた。
この「蔵」は、食糧備蓄用の建物なのである。この地域は、年中行事のように「冷害」に遭うのである。それゆえ、最低限来年の分は当然として更にその翌年の食い扶持を保持することが、この土地で暮してゆくために必要だったのである。余剰物や「財」をしまうのではなく、暮しの必需品をしまっていたのである。「蔵」は、この土地で暮してゆくためには絶対に欠くことのできない建造物だったのだ
このことに気が付いたとき、それまで、「蔵」を単に「一般的な意味での倉庫」と見なして済ませていた自分自身の「阿呆らしさ」にも気が付いたのである。
確かに倉庫であることには違いないが、「単なる倉庫」という区分けでは、町中の蔵もこの村の蔵も同じものになってしまうのだが、そして私たちが日ごろ見慣れているのは町なかの商家のそれであり、あるいはまた豪農の家のそれであるがゆえに、蔵というと、何となく蓄財の象徴のように思えてしまうのである。
そして私は、建物の「理解」にあたっては(既存のものも、これからつくるものも)、まずもってその建物に係わる人びとの「生活」の「理解」、その場所で生きてゆく人びとの「生活」の「理解」から始まらなければならないという至極当たり前のことを、あらためて、いやというほど思い知らされたのである。つまり、ある地域にはその地域なりの「生活」がある、という私の「理解」「考えかた」そのものが、未だに「観念的」「机上の理屈」の上のそれであった、ということが明らかになったのである。それまで、私の眼は、いったい何を見ていたのだろうか。

この村の中央部に、もうぼろぼろの、しかし決して取り壊せない、正確に言えば、もう「しばらくは取り壊せない」、強いて呼ぶなら「集会所」とでも言うしかない木造の建物があった。補助金で公民館としてでも建替えることはできるのだが、今はそれはできない、取り壊す気になれないからだという。何故か?
この建物は、この村の「適正人口」と深く関わる建物なのである。
この村では、つい最近まで、こん「適正人口」を保つための策が採られていた。すなわち、長男は家を継ぐが、二・三男は、分家できず、いわば運命的に一生その家の下男同様の生活をして過ごすのだという(娘は必死になって嫁入り先を探して嫁がせる)。長男が嫁をもらうと、彼らは、夜はもちろん、家に居にくくなる。大家族的な生活が為されていたのである(だから、家一軒が白川郷ほどではないが、大きな小屋裏のあるつくりになっている)。
そこで、昭和の初め頃であったか、各家の居ずらくなった似た者同士が集って、協同で夜を過ごす集まり場所をつくろうということになり、役場に土地を提供してくれ、そうすれば、工面して自分たちで「集まり場所:小屋」をつくるから、と申し出た。そして、土地が提供され、彼の「集会所」ができあがったのだという。これは、いわゆる単なる集会所ではない。彼ら二・三男たちの「生活必需品」であったわけなのである。この「運動」への「参加」のしかたは、各人の立場に応じて、資材の現物提供、金の提供、技術の提供・・・、という具合に様々であったという。
今でこそ、このような非人間的な二・三男たちの生活はなくなったようであるが(そうは言っても分家できる土地があるわけではないから、村の外:多くは都会に出て、農業以外で働くことになる)、しかし、この設立に関わった人たちは未だ健在である。だから、今はもう用がなくなったからと言って、この建物を取り壊すなどということは、同じ村の人間として、とてもじゃないが忍び難くてできはしない、そういうわけだったのである。
この話を聞いた後では、先のぼろぼろの一軒の小屋が、よそものの私にさえ、「神聖な」ものに見えてきた。これもまた、私の《観念的理屈》の欠陥を糺すには、十分衝撃的であった。
おそらく、村むらの佇まい、つまり、人びとが自らの生活に根ざし培いつくりあげてきた「ものごと」は、こういう具合に「昔」をひきずりながら、変り、展開し、成り立ってきたのに違いない。
私たちが目にするものは、そういった一つのものができあがる過程、そして、できあがったものに対して人びとが向き合ってきた過程、この全過程を背後に秘めたものなのであるが、残念ながら、この過程は決して目に見える形では存在しない。これは、如何ともし難い厳然たる事実だ。しかし、私たちは目に見えるものを見ることを通して、目に見えるものの「背後」を、何とかして見なければならないのだ
これは、理屈としては分っていても、「言う」と「やる」では大違いなのである。その意味で、この村での「体験」は、まさに、私の《太平の夢》を覚醒するできごとであった。


ネムの花

今、私たちのまわりでは、多様な種類の「公共建築・施設」がつくられている。それらは、《社会の needs をとらえて》だとか、《建物の使われかたの研究の結果》などと称してつくられている。
私は、ここで紹介したこの村の「二・三男たちの集会所」のつくられかたは、まさに公共建築のつくられかたの一つである、と思うのだが、《社会の needs をとらえて》だとか《建物の使われかたの研究の結果》というとき、このような意味での「生活の必需品」としての発想で考えられたことがあるだろうか?はなはだ疑問に思う。
「専門家」に見えているのは、その「表現」にいみじくも現れているように、それは、建物の「使われかた」なのであって、決して人びとの「使いかた」ではない。
そして、仮に彼らが「人びと」を気にしたとしても、そのときの「人びと」は、「人びと一般」としてのそれであって、「この町の人びと」、「この村の人びと」ではないのである。
彼らは何故「使われかた」で見ようとするか?それは、「使いかた」を見るとなると、そこに必ず使う主体としての「個人」の存在を考えざるを得なくなるからだ。そんな「生身の人間」個々などは扱っていられない、ということだ。そんなことをしたら、客観的・科学的でなくなってしまう、と信じているか、信じ込まされているからである。
このような「専門家」には、決して、「この村の二・三男たちのneeds」などは分らないだろう。私たちは、こういう人たちを「専門家」として認めてしまって、本当によいのだろうか?
いったい、何時、誰が彼らに「専門家」の称号を与えたのであろうか?私たちが与えた覚えはまったくない。いつの間にか、彼らが自ら名乗り出たに過ぎなかったのではなかったか。
彼らから専門家の称号を取り去ったとき、そこには何も残らない、ことによると生身の彼自身さえも残らないかもしれない。だからこそ、専門家という包み紙に固執するのだと言ってよかろう。 


先日、加藤周一氏のスタインバーグとの会見のエッセイが新聞に載っていた。
「・・・彼の言葉のなかで、私にいちばん強い印象をあたえたのは、・・・廊下を・・・歩きながらスタインバーグが呟くように言った言葉である。その言葉を生きることは、知識と社会的役割の細分化が進んだ今の世の中では、どの都会でも、殊にニューヨークでは、極めてむずかしいことだろう。『私はまだ何の専門家にもなっていない』と彼は言った。『幸いにして』と私が応じると、『幸いにして』と彼は繰り返した。・・・」

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-34

2016-06-27 14:41:43 | 「学」「科学」「研究」のありかた



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文言補訂[14.41]
Late medieval roof construction

屋根の架構法は、既に存在しない場合や近付くことも不能な場所にあっても、中世建築で元の姿を推測できる唯一の部位と言ってよい。何故なら、当初の形状を、繋梁に穿ってあるの孔や(ほぞ)孔などから推測できる事例が多いからである。そのような調査から、いくつかの家屋では全く知られていなかった屋根を備えていたことが分ってきた。中世の構築技術の進展は、家屋の形式で論じられることが多いが、同様に屋根の架構法の観点で考究することができる。たとえば、地域分布状況からの考究、それぞれの家屋形式で常用される屋根架構法の観点からの検討などである。全容を捉えることが大事で、部分の様態だけからの分析は好ましくないのである。

Crown-post roofs

Crown-post を用いる屋根は、イギリス中に分布しているけれども、15世紀から16世紀の初期にかけて、北東部で最盛期に達している。ケント地域の調査では、1370年以降と見なされる事例の75%、448例中337例が Crown-post 工法に拠る屋根であった。
   註 Crown-post 工法については、このシリーズの「-16」を参照ください。
     そこに掲載の解説図 fig42 を再掲します。図の bCrown-postです。
     合掌の頂部をを承けるのが king-post または king struts それより下部の collar:首回りに設ける繋梁を承ける方法をCrown-postと呼ぶようです。
     その場合、合掌を構成する二面の垂木:rafterは、棟部分で相互を組み合わせ固定しているものと考えられます。
     collar:首回りに設ける繋梁は、大きい合掌のとき、合掌材:垂木・rafter の内側への撓みを防ぐために創案されものと思われます。
     結果として、合掌はAの字形になり安定します。
     おそらく、collar は当初、各合掌ごとに設けられたと考えられますが、数本おきに設け相互を中央部に設けた横材:桁で結ぶようになったのではないか。
     そのとき、更に、この横材とcollar:首回りに設ける繋梁とをからの束柱で承けて安定を強化しようとしたのが、Crown-post と考えられます。
        
下の table2 は、14世紀後期以降建設の木造遺構の、屋根の工法別の年代ごとの分布状況を示した表である。そのいくつかの年代判定は、推量に拠るもの。

表で分るように、14世紀後期では、全体の92%の屋根がCrown-post工法であるが、それより以降では、 collar-rafter 工法の増加や side purlin の採用によって、Crown-postは、時とともに、83%、84%、72%と漸次減少してゆき、16世紀前半に至って、54%へと激減する。最も後期の住居の事例は、1548年建設の PLAXTOLBARTONS FARMHOUSE の二階建の hall に設けられている例であるが、横材に対して二方向の斜材だけのきわめて単純な形である(この事例の 図、写真がないので詳細不明)。
15世紀後期になって side purlin :側面に設ける母屋 が導入されるまで、open hall 上の屋根を端正にすることを望む人びとは Crown-post を採用したのである。
たとえば、屋根の架構形式が記録されている WEALDEN 形式の家屋127事例中、Crown-post 工法以外の屋根は僅か3例に過ぎない。そして、その全ては、side purlin 形式の屋根である。それゆえ、全体的に、最も後期の WEALDEN 形式の家屋では、各種の屋根架構法が可能になっても Crown-post を採用し続けたのである。もちろん、Crown-post工法は、他の形式の家屋にも見られる。
   side purlinpurlin は、母屋と訳される。一般に母屋rafter :垂木を承ける材と考えられるが、この場合は、後項に説明があるが、垂木の側面に添えて、
   垂木相互の「暴れ」を防止する役割を担う補足材と解する。
下の table 3 は、 cross-wing の75%、end jetties 及び各種形式複合家屋の60%以上が Crown-post であることを示している。しかしながら、Crown-post が、WEALDEN 形式 では最も多く、次に cross-wing で多いという事実は、15世紀を通して、人びとにとって、Crown-post 工法の採用がごく普通のことであったことを示唆している。

ケント地域には、大きな、つくりが丁寧な、そしてイギリスでよく知られた木造建物が多いが、それらはいずれも、必ずしも「装飾」が際立っているわけではない。それゆえ、中世後期の装飾の多い SUFFOLK 地域(イギリス東部の州)の建物との同一視は誤りであり、SUSSEX 地域(イギリス南東部)の事例に比べても簡素である。Crown-post の採用への人びとの関心について、この観点を忘れて論じられなければなるまい。
Crown-post の装飾は、一般に、頂部底盤部斜材に、できるだけ簡素に補足的に施されている。1500年頃、大きく最高のつくりの木造家屋を建てた人びとのなかには、より装飾的な屋根を望み、ケントでは一般的ではなかった新しい形式の屋根も採用する人びとも少なくなかった。しかし、全般的に見れば、Crown-post は、ケント地域の人びと一般に幅広く受け入れられた形式・工法であったと言えるだろう。

Crown-post が用いられた約200~250年の間、架構技術上おそび装飾の面での変化・展開は微々たるものであった。付録1 の年輪時代判定法による分析事例が示しているように、後期建設とされる事例と初期のそれとを分別することは容易ではない。というのも、そこに示される各種の様態から、 Crown-post は、当時の木造建築一般に見られる工法であったからである。
13世紀後期から14世紀初頭にかけて、木材を細く小割にするのでなく比較的太い材で用いる傾向がみられる。14世紀のCrown-post は、fig84(下掲) で分るように collar :首部分の繋梁collar purlin :繫梁を結ぶ横材(母屋桁) への斜材の断面がほとんど正方形であることに示されている。

しかし、15世紀中期になると、薄く板状:長方形断面に変ってくる。14世紀には、斜材fig 80afig 81a (下に再掲)のように、soulace を支えていることがあり、更に伸ばしてcollar を越えて rafter まで伸びていることさえある。soulace は、15世紀初頭には用いられなくなるが、fig84g のように、1500年代の丁寧なつくりには再び用いられるようになる。
   soulaceraftercollar を結ぶ斜材の呼称と解します。この材を支える「意味」は何なのか、力の流れはどうなるのか、考えてしまいます。
頂部と底盤部の装飾の変遷は目立つものではなく、区分・分類も至難である。その事例の幾つかを fig84、fig151、fig152 に紹介してあるが、付録1で詳説する。




16世紀になると、屋根架構を格好良く見せることには人びとの関心がなくなり、Crown-post も単純な細身の束柱となり、ときには brace :斜材も設けなくなってくる。
前にも触れたが、ケント地域の人びとは、保守的な気風で、長きにわたり Crown-post にこだわり続けたのである。その結果、架構法の改良などには無関心で、時代を画するような新たな工法をつくりだすこともなかったのである。
                                                              この節 了 
           ************************************************************************************************************
次回は、 Collar-rafter roofs 他 の節になります。

読後の感想
「合掌」架構への、彼の国の人びとの「執念」とでも言える「こだわり」に、驚嘆せざるを得ません。
ふと思います。彼の国の人びとからは、日本の屋根架構法:束立組は、いったいどのように見えるのでしょうか。
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梅雨空

2016-06-21 14:03:54 | 近時雑感

アジサイの季節です。

当地では、ここ数日、蒸し暑かったり、少し寒さを感じたり・・・と典型的な梅雨模様が続いています。
九州のような豪雨にならないだけよしとしなければ・・と思ってます。被災された皆様へお見舞い申し上げます。

「中世ケントの家々」の続きをやっているのですが、この天候のせいと思いますが、体が重く、休憩・休息時間の方が長くなり、なかなか進みません。
去年はどうだったかな、と思い出してみると、これほどまでではなかったように思います。歳だな・・・。
もう少々時間をいただきます。

皆様も、時節柄、くれぐれもご自愛のほど。
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復刻・「筑波通信」―5:「無名」考・・・・「ものの名前」を知ること=「もの」が分る ことか?

2016-06-14 17:30:09 | 復刻・筑波通信

ベニシジミ

筑波通信 -5 : 「無名」考・・・・・「ものの名前」を知ること=「もの」が分る ことか?     1981年8月1日 刊 の復刻

   以下の内容と同趣旨の記事を以前に載せた記憶があります。重複ご容赦ください。

今回は、山について書かれた文章をもとに話を進めようと思う。
下に載せるのは、臼井吉見のエッセイ「幼き日の山やま」の一節である。
この一文を読んで、私が何を言おうとしているか、察しのついた方もおられるのではないか、と思う。

この文章には、私たちの「もの」への対しかた、「もの」の見かた、知りかた・・、の根本的な問題が、「思い出」というかたちでさりげなく、しかし見事に言い表されていると思う。
私たちは今、「もの」について「知る」ということは、その「『もの』の名前を知ること」に等値であるかのように見なして済ませてしまうことが多分にありはしないだろうか。
あるいはまた、「目の前に在る」というだけで、つまり、「目に見えている」というだけで、それらの「全てが均質・等質・等価に見えている・・・」、と思い込んでいないだろうか。
「存在するもの」を全て対象化してみるいわゆる「自然科学的なものの見かた」が隆盛を極め、当たり前になってからこのかた、「もの」の全てが等値に見え、それゆえ、その「ものの名前」もまた、それら等値の「もの」の《単なる区分上の符号》になってしまったような気配さえ感じられる。
いったい、私たちにとって、「あることを知る」ということ、「知っている」ということ、あるいは、「あるものの『名前』を知る」ということ、「知っている」ということ、より根本的には、「あるものに『名前』をつける」ということ、これらは本来どういうことであったのか、いろいろな知識や情報が数限りなく溢れている今、一度落ち着いて考えてみてもよいのではないか、と思い、この文章を話題にしようと思ったのである。

この文章の中の番頭と中年の客のやりとりが書かれているが、このようなやりとりが何故生まれたのだろうか。
番頭は、「木曽の御岳」と呼ばれる山が在ることは知っているようだ。しかし、毎日自分の目の前に見えている山やまのなかの一画にそれが在るなどということは全く「知らない」。ここで「知らない」というのは、そういう呼び名の山が在るということは、何となく知ってはいるが、その呼び名に対応する山については具体的には知らない、ということである。おそらく、そういえば、何処かで聞いたことが在りますね、という程度ではなかろうか。
これに対して、中年の客は、毎日見ていて(見ているはずで)しかも「あんなに有名な山」を、どうして知らないのだ、と不思議に思ったのである。そこには、毎日目の前にしているもの、しかもそれが世に有名なものであるならばなおさら、常にそれを目の前にしている人びとは、必ずそれを(直ちにそれを指し示せるぐらいに)知っていなければならない、知っていて当たり前だ、という考えが、彼の頭のどこかに潜んでいる。
だから「どこかよそから来たのかね」という言葉の裏には、「そんなことも知らないの!」という番頭の「無知」に対する非難の響きが、明らかに覗いている。文中にもあるが、今、私たちの大方は、この中年の客に右同じだろう。
しかし、この「無知」は、はたして、そんな単純に非難したり笑いものにしたりすることのできる類のものなのだろうか。
この中年の客:私たち大方の代表:の「知っていること」というのは、いったい何なのか?何故彼は木曽の御岳を知っているのか?彼がその「実物」を知らないことは、彼がそれを指示できないことで明らかだ。ところが、御岳について、いろいろと「知っている」ようだ。具体的に目の前にしたことのないものの具体的な胃兪について結構「知っている」ようだ。しかし残念ながら、それが現実に目の前に見えていても(現にそうなのだが)「あれ」を「これ」と比定する手段は、自らのものとして持ちあわせていない。人に訊ねるか地図を見ることになる。もちろん「勘」によって、これはこれだ、と思うことはあるが、それは、あくまでも、「これに違いない」である。
そうなると、この中年の客が「知っていること」というのは、実に不可思議なものだ、という気がしてこないだろうか。

中年の客が、木曽の御岳の「名」を知っていること、木曽の御岳について「知っていること」、それは多分、彼が何処かで仕入れた《知識》と思われる。本で読んだのかもしれないし、人から聞いたのかもしれない。あるいは、学校で「教えられた」のかもしれない。いずれにしろ、彼は、中部地方の一画、信州の南の方に「木曽の御岳」という山が在り、それは高さは〇〇ぐらいの際立つ山で、信仰の対象にもなっている・・・といったこと:《知識》:を持っていたに違いない。その《知識》を持った彼が、その先何を思っていたかは分らない。そんなに有名な山なら、一度は目にしてみたいと思っていたかもしれないし、ことによると、登ってみたいと思っていたかもしれない。ともあれ、おそらく彼は、「木曽の御岳」の他にも、こういった《知識》を数多く仕入れてあるに違いない。だから、おそらく、何処へ行っても、これと同じようなことが起きただろう。


シロ ツメクサ

そして今、私たちもまたこの中年の客同様だから、たとえば、「あれが槍」「こっちが穂高」・・・といった具合に、私たちが「知っている名前が」具体的に一つ一つその「対象」をあてがわれてゆくと、何だか長年の宿題が一つ一つ解けてゆくような快感が味わえ、何となく何かが分ったような《満足な気分》となり、《感慨》にふけったりすることになるわけだ。
けれども、「あるもの」の「名前」を知っている、何の名前であるかも知っている、それがどんなものなのかも知っている。しかし実物は知らない。「実物に拠って知った」のではない。では、そのとき、その「知っている」というのは何なのか。そしてまた、それに実物があてがわれて「分った気分になった」とき、いったい何が「分った」のだろうか。単なる《カード合せの快感》に過ぎなければ幸いである。
今、私たちの頭の中には、見たこともないものも含め、おびただしい数の「ものの名前」が詰め込まれている。それは何なのだろうか。何のために詰め込まれたのだろうか。それは、自分の「知識」の世界が広くなっているということなのだろうか。そのために詰め込んでいるのだろうか。それは、「自分の世界が広くなった」ということと同じだろうか。もちろんなかにはそれが等値の人もいるかもしれない。しかしそのときでさえ、その人にとって、その「詰め込むべき知識」の選別・選択の拠りどころは、いったい何なのだろう。そして多くの場合、もしも目の前に現れてきたものが、どこか際立ったものでもあればまだしも、何の変哲もない、それこそそれまで「名も知らないもの」であったとき、彼にの目には何の「気も引かないもの」としてしか映らないであろうから、彼はそれを《単なる雑物》の一として見過ごしてゆくだろう。
けだし、この中年の客的私たちの多くは、「綺麗な花を付ける」草木には(それが「際立って見えるということなのだが)、それなりの名前を付け、あるいはそれを見たことがなくてもその名前を知り、知ろうとし、そうでないものは、その他大勢、雑物・雑草として、「名もなきもの」として(ときには、あたかも「存在しないもの」の如くに)扱い済ませてしまうのだ。
単に「名前」がない、「名前」を知らないというだけで、そのときそれらは、たとえ彼らの目の前に在ったとしても、彼らの目に映らないのである。彼は何を見ていたのだろうか。彼の眼には、「知識」という「眼鏡」がかかっている
のである。
一言で言えば、彼の中年の客すなわち我が近代人代表のこれらの「知識」は、いわゆる「教養」なのだ。おそらく彼は、「専門家」ではないにしても、いろいろなものごとについて、それは「かくかくしかじかのものなり」という(誰かがつくってくれた)「知識」を、どこかで身に着けたのである。しかしそれは、あくまでも《吊るし》の「知識」を知識として仕入れたのであって、それが日ごろの自分の生活とどのように結びついているかなどということとは、全く別の話として、ただ自分がそういう諸々の「知識のかたまり」と結びついているということ自体に《意義を見出している》のだろう。《そういう博識こそが自分の人格を向上させる》のだ、何かそういう気分さえ感じているに違いない。
今、私たちの周りを見渡したとき、こういう「物識り顔」「訳知り顔」の人たちが幅をきかし、あの番頭のような《無教養な人びと》が小さくなっている、ならざるを得ない、そんな状景があちこちに見えてこないだろうか。このエッセイのエピソードは大正中ごろの話である。この中年の《教養人》と《無教養》な番頭の話の食い違いのような例は、今よりもずっと多かったかもしれない。そして《無教養》な番頭の方は、少しも《無教養》など気にもかけず、気の毒そうな顔つきの裏側で、「変な客だ、何で私が木曽の御岳を知ってなけりゃいけないんだい」などと思っていたに違いない。
しかし、今だったら、番頭も、それがサービスというものだと思って、訊かれもしないのに、観光バスのガイドの如くに、山やまの名前を得々と説明しだすに違いない。
このエピソードが大正の中ごろだというのが象徴的である。
おそらく、その頃から、こういう中年の客的人間が増えだしたのではなかろうか。自らの手で獲得したものではなく何処かで仕入れた諸々の「吊るしの知識」が、人びと(特に「教養あること」を誇りに思う人びと)の頭の中を占拠しだしたのである。
ことによると、今はもっと激しくなっているかもしれない。
そして、そういう意味で「無教養な」人びとは、由無く肩身の狭い思いを強いられるである。

では、彼の番頭は、何故《あの有名な》御岳を、それが目の前に在るにもかかわらず、指し示すことができなかったのか。
その答は、既に先の一文中に書かれている。
すなわち、「生まれたときから里近くの山に特別に深くなじんでいるので、奥の高い山などにはとんと無関心で過ごしてしまう」からなのだ。
それは何故なのか。そこにははっきりそうだとは書かれてはいないが、それは、里近くの山やまが、彼ら(その地に暮す人びと)の生活の「範囲:領域」として取り込まれたもので在ったからなのだ。そこは、彼らの生活:暮しと切っても切れない関係にある。単なる景色・景観ではないのである。
故に、目の前にするもの全ては決して等質ではなく、その内の彼らの生活・くらしに具体的に関わるものが、先ず浮き上がって見えてくるのである。しかもそれらは、「教養ある人びと」の目に見えている以上に、彼らの生活なりに、より細やかに、彼らには見えているはずだ。
そしておそらく、「よそ者」でも、中年の客的ではなく、番頭と同様の生活基盤を持つ人たちには、それが見えるだろう。そういう山やま:「もの」には、彼らに拠って、それなりの「名前」が付けられたのである。そのとき、狭間に見える遠くの高山などは、文中にある如く、どこか遠くの彼らには何の関りもない山の一つに過ぎないのであった。もちろん、それがもっと近くにあって、どうしても「日常気になってしょうがない」山であったならば、たとえそれが直接的に彼らの生活・暮しの領域に関りがなくても、それなりの「気遣い」が見られるだろう。例えば、<strong>諏訪</strong>でならば、<strong>蓼科山</strong>や八ヶ岳などは決して放って置かれたり、」ましてやその名前も知らず、「どれでしょうね」などということはあり得ない(実際それらは、諏訪(大社)と密な関係にある)。それに比べれば、木曽の御岳は、彼らとの関りで言えば「遠い」山なのである。早い話、御岳という名の山は各地に在る。それぞれの地域の人びとが、そのように「尊称」をもって呼んだのである。「木曽の」とわざわざことわるようになったのは、各地に御岳が在るということが分ってきたから、その区別が必要になってからのことである。彼の番頭にとって、いくら目の前に見えていようとも、それは「地元の」山でなかった、ということなのだ。

つまり、彼の番頭に代表されるその地に暮す人びとが日常的に名付けて呼んでいるものは、彼らのその土地での生活の都合上「知っている」ものに限られ、従ってそれは、決して「全国的に知られるようになる」とは思えない類のものが大半を占め、それゆえまた、この中年の客が興味を示すような類のものでも決してないのである。番頭が木曽の御岳(の名)を知っていたのも、たまたま泊り客からでも聞いていたことに過ぎず、せいぜい、そういう山があるんだってさ・・、という程度の、言わば、彼にとっては《余計な知識》でしかなかったのだ。実際、その地で長く暮してきた人たちのなかには、木曽の御岳も富士山も、そしておそらく東京さえも知らないで生きてきた人たちがいたに違いないのである。そういう《知識》に対しては「無知」であっても生きられたのである。
すなわち、中年の客と番頭では、その「知っていることのなかみ」が明らかに異なるのだ。だから、番頭に代表される「地元に根付いた生活をしてきた人たちの『知識』」は、いわゆる「教養」「教養的知識」などではないのである。「こういう知識」を、この現代において、いったい何と呼んだらよいのだろうか。

今私たちが「教養的知識」として得ている立えば山の名前にしたところで、私たちは、その名前によって、その名前の付いたものについての《ある程度詳細な事実》をも思い浮かべ、「名前」=「もの」のように見なして当たり前のようになってしまっているわけだが、実は、その「名前」は、私たちによって名付けられたわけではないこと、また《ある程度詳細な事実》というのも、私たちが直接それに「触れて」得たものではないこと、従って、「もの」と私たちの「知識」との間には一つ「回路」が挟まっているのだ、ということに、今こそ改めて気が付かなければならないのではないだろうか。その「回路」が問題なのだ。
そしてまた、実は、多くの場合、例えば山の名前は、彼の番頭のような暮しかたをしてきた人びと:《無教養》《無知》な人びとに拠って名付けられてきたものなのだ、ということにも気が付かなければなるまい。同じく、それらについての詳細な知識の「根」も、彼らが「暮しのなかで獲得した知識」にあることにも気が付かなければならない。
このことは、国土地理院の地図に記されている山などの地名は、それらについてのその地元の人びとの呼び名が取集され、そのなかから選ばれたということ、たとえば、ある山の名は、測量チームが、その山のどちらの側から最初に近付いたかにより(たとえば飛騨側か信濃側か)、最初に近付いた側で呼ばれていた名が与えられることが多かった、ということなどから明らかだ。つまり、一つの山に対して、「幾つもの呼び名」があったこと:「幾つかの地元」があった、ということだ(このような「地元の呼称」が無視されるときには、エヴェレスト、K2などのように、最初の測量者の名前や、測量上の符号などで済まされる)。
しかし、このような《近代的》命名は、地元の人びとの心からはかけ離れてしまう。何故なら、地元の人びとの呼称に備わっているはずの深い「根」「地下茎」をきれいさっぱり切り落として、単なる「符号」と化してしまうからである。そうなった後は、地元以外では、名前は「単なる名前」としてのみ通用するようになってしまう。
昭和初期以降、新興住宅地に、「語のにおわすイメージ」や「語のひびきだ」けで呼称が付けられることが増えたのもこのことと関係あるだろう。たとえば、自由ヶ丘、桜丘、桜台、希望ヶ丘・・・の類である。実際に「その土地」からイメージが出てくるのではなく、名前が先行するのである。
そして逆に、こういういわば「文学的」イメージを切り捨て「物理的」イメージに徹すると、最近の住居表示のごとき「中央〇丁目」などというのになる。

以上で明らかなように、彼の番頭(に代表される人びと)には、「目の前に在るもの」は、彼らの「生活体系」のなかで、その生活との関りの遠近あるいは濃淡の度合いに応じて整えられ位置付けられ、彼らの「知恵」となってゆくのに対し、中年の客(に代表される人びと)においては、《彼らの生活自体とは無関係な何らかの「基準・物差し」》によって選択される《「知識」体系》のなかに位置づけられてゆくのである。
おそらく、この違いは、重要かつ決定的な違いのはずである。端的に言えば、近代的教養人にとって、その日常は、取るに足らない、下らないものとの鬱陶しい付き合いに他なるまい。何故なら、彼らにとって大事なのは、自分の仕入れた《高尚な》「知識・教養」との付き合いだからである。
自ずとそれは、自分を懸けて
社会に関るのではなく、自分の主たる興味の中心たる「知識体系」を通じてのみそれと関り、それ以外については、我関せずとしてすごしてゆくことになる。こういう者にかぎって自ら「専門家」と称したがる。彼らは虚構の世界に遊んでいるのであり、具体的な生活に根を下ろしていないのだ。逆に言えば、泥臭い根や地下茎に触れることを避けることで、私たちは簡単に「今様の教養人・知識人・専門家・・・」になれるのだ。そして今、彼の番頭に代表されるような「草の根付きのものの見かた・知識」は一般的ではなくなっているから、そのような存在の意味さえ分からなくなりつつある、と言ってよいだろう。
つまり、番頭と中年の客の「違い」自体が分らなくなってきているのである。しかし今、私たちが突然絶海の孤島にでも放り出されたことを想定してみると、この「違い」は歴然と露になってなってくるはずだ。そのときはじめて、虚構の世界はあくmでも虚構に過ぎないこと、つまり、星座ではなく、それを構成する「星」の大事さが、そして「星座」の意味が、はじめて分ってくるだろう。「知識」というものの本当の意味が見えてこよう。しかしこんなことは、絶海の孤島に出かけずとも、それこそ「日常」において分らなければならないのだ。私たちは今、ものを「常識」という二重三重にも重なった星座でしか見ない癖がついて(つけられて)しまったのだ。


カタバミ

私は別に、「知識体系」や「教養」を持つことを否定しているのではない。日常の「営為」とそれとの遊離、言い換えれば、生活という根や地下茎を切り捨てて済ますこと、それを問題にしているのだ。正当な理由もなくそれを切り捨て済ます癖がついてしまったからこそ、「それはそれ、昔は昔、今は今・・・」になってしまったのだ、と私は思うのだ。このような傾向、状況は、冒頭に引用した文にもあったように、大正の中ごろから《当たり前に》なってきたように思える。
そして今、私たちの身の回りの「もの」や町や建物などが、ほとんど全て、根や地下茎を見失ってしまった彼の中年の客的発想で語られ、そして造られるようになってしまってはいないだろうか。人びとは抽象的人間として「対象化」され、生身の人間は雲散霧消してしまい、なおかつ、それが「科学的」ということなのだと愚かにも思い、目の前のものも全て「景色」「景観」としてのみ扱われ、その《見えがかり》言うなれば「写真映り」ばかりが問題にされ、それらの私たちの生活・暮しにとっての「思い意味」は決して省みられもしない。私たちの日常には、必ず、大なり小なり、彼の番頭の生活・暮し的な局面があるはずだ。そうでありながら、番頭に代表される人びとの立場・発想が切り捨てられる。
それゆえ、そういう状況下でつくられる「もの」のほとんど全ては、私たちとの語らいを許さない、白々しい、私たちの神経を逆なでするような、あるいはまた、私たちに所定の行動しか許さないような、ある詩人の言葉を借りて言えば「体験の内容となり得ないもの」「魂の象徴を伴わぬような用具に過ぎないもの」になってしまっている。
   この詩人の言葉の当該部分を邦訳原文から下に転載します。
   ・・・・・・
   今の世では、嘗てなかったほどに
   物たちが凋落する――体験の内容と成り得る物たちがほろびる。それは
   それらの物を押し退けて取って代るものが、魂の象徴を伴はぬやうな用具に過ぎぬからだ。
   拙劣な外殻だけを作る振舞だからだ。さういふ外殻は
   内部から行為がそれを割って成長し、別の形を定めるなら、おのづから忽ち飛散するだろう。
   槌と槌のあひだに
   われわれ人間の心が生きつづける、あたかも
   歯と歯のあひだに
   依然 頌めることを使命とする舌が在るやうに。
   ・・・・・・
                      リルケ 「ドゥイノの悲歌」: 第九の悲歌

この詩人は、別のところで、次のようにも記している。すなわち、
・・・・・・
私たちの祖父母にとっては、まだ『家』とか『井戸』とか、なじみ深い『塔』とか、それのみか彼らの着物やマントさえも、今日より段違いに大切なものであり、また親しみ深いものであった。
彼らにとっては、すべてのものが、その中に人間的なものを見出したり、またそれを貯えたりしている器であった。
ところが今は、アメリカから中身のない殺風景な物品が殺到してくる。
それらはただの仮の物、生活の玩具にすぎない。アメリカ式の考えによる住居、アメリカの林檎、アメリカの葡萄には、私たちの祖先がその希望と心やりをこめていた家やくだものや葡萄とは、少しも共通なところはない。
私たちからいのちを吹きこまれ、私たちによって体験され、私たちと苦楽をともにするところの「もの」は、いまだんだん消滅しつつある上に、もはやこれを補う道もない。
たぶん私たちは、このような「もの」を知っている最後の人びとであろう。
・・・・・・
                                     リルケ「ミュゾットの手紙」(唐木順三「事実と虚構」より孫引き)

この「手紙」は1925年に著されている。それから五十余年、今私たちはヨーロッパから半世紀遅れて「最後」に直面しているのだろうか。それとも、もう「最後」を通り過ぎてしまったのか、まだ辛うじて「最後」を引きずっているのだろうか。
そして私は、「もはやこれを補う道もない」という暗い気分に、ともすれば陥りそうになりつつも、しかし、どうしてもそのまま済ます気にもなれないのである。むしろ、補えるという確とした見通しがあるわけではないが、私たち(の世代)がそれをしなくて、いったい誰がそれをするのか、そう思うだけである。
それがきっと、今生きている私たちの、私たちに課せられた「義務」なのだ。そのように思いたい。私たちは、精一杯、切り捨ててしまった根や地下茎を再び探して繋げ直す責を、きっと背負っているのである。

ここしばらく、幸いなことに、私は「学識のない」「無知の」「専門家でもない」人たちが、一般に素人は口をさしはさむべきではないとされるいわゆる専門的なことがらについて、《学識ある》《専門的知識溢れる》専門家に対して、おずおずと、しかし「したたかに」「素朴な」問いかけをする場面に何度も会ってきた。
彼らが「おずおずする」のは、必ず専門のことは専門家の言う通り聞いていればよい、とか、専門的なことだから、どうせ説明したって分らない、などと門前払いをくらうのが常だからである。そして彼らが「したたか」なのは、そうされても彼らは酔い続けるからだ。
何故彼らは諦めないか。それは、全く単純な理由に拠る。自らの体験で「おかしい?」と思ったことは「おかしい」と言う、そして、どう考えても分らないことに対しては、素直に、分らないから説明してくれと言う。それだけである。しかしこれがいかに並大抵のことでないか。世の中の「常識」「慣習」という峠を何度も越えなければならないからだ。
実は、こういう「問いかけ」こそが、まさに学識ある専門家たちを根底から揺さぶることになる、という場面に、ことあるたびにぶつかったのだ。
彼ら専門家のほとんどは根無し草だから、ひとたまりもない。生活・暮しにがっちりと根を張っている人たちの素朴な問というのは、根源的( radical )だからである。
そして、このいわゆる素人たちは、その専門家とのやりとりの中から、自分たちなりに「知識」をどんどん吸収し、自分たちの生活体系に組み込んでゆく。そこには、生活体系と知識体系の二本立てはない。根から幹へ、幹から枝へ、そして葉へと、一本のしたたかな樹木となる。ますます自分たちの生活・暮しを取り囲むものが「分って」くる。言うなれば、あたらしい型の彼の番頭的人びとが生まれてくるのである。この「無知」で「無名のひとたちが、「知識溢れる」「有名」「高名」な人たちと、対等に、ときには対等以上に話を交わすまでになる。
そしてそのとき、あらためて、「専門家」とはいったい何か、ということが問われることになる。


モン シロチョウ>

もちろん、このような「したたかな」人たちの数は、未だ絶対的に少ない。多くの人たちが、自らを「無知」と決めこんで、雲の上の《偉い》人たちの言いなりになっている。だから雲の上の人たちは、ますますいい気になる。雲の上にいることこそ知識人、専門家の望むべき姿だとさえ思うようになる。
けれども、あちらこちらに、自分たちの上に覆い被さるこういう「暗雲」を取り除こうとする人たち、自分たちの生活・暮しに根を張ることを大事にする人たち、こういう人たちが現実に居るということ、そしてその周りに、このことの大事さに気付く人たちが増えていること、そういう現実を目の当たりにするとき、未だ決して「最後」ではないのだ、と思うのは楽観的に過ぎるだろうか。
明らかに、根や地下茎を切り捨てることを拒み、「間抜け」を嫌うひとたちが、いつも踏みつけられながら、そしてそのたびに強くなりながら、したたかに生きている。
こういう素晴らしい「無知な」人たちに、いつも私は勇気づけられてきた。それはほんとに「幸いなこと」であった。



あとがき
原文は、ワープロのない時代、和文タイプで書いています。したがって、誤字などの修正、文章の改定などは、別途タイプ打ちし、それを字の通り「切貼り」して行ないます。今回の文にまとめるにあたり、ときには、糊がとれて剥落している個所もあり、その箇所の「修復」に、結構気を使いました。
しかし、ワープロを使う現在よりも、文章の「推敲」の度合いは、数等高かったように思いました。
あらためて、「便利さ」の持つ「危うさ」について考えさせられています。

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梅雨入り

2016-06-10 09:30:00 | 近時雑感


数日前に梅雨入りしたとのこと。ここ数日、曇り主体の日が続いています。
この季節、近在の畑地を彩るのは、ダイコンの花の群落です。上の写真は、その遠景。
ダイコン畑ではありますが、大根を採るのが目的ではありません。種子を採取するのだそうです。種子の方が収入がよいのだ、と農家の方が話されていました。もう終りましたが、同じように、ミツバも種子採取のために栽培されてます。

近くに寄って撮ったのが下の写真です。少し紫色を帯びた白いきわめて小さな花です。




たくさんのモンシロチョウが舞っているのですが、見分けがつきません。
騒がしい人の世とはちがい、自然界は静かに夏に向っています。

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六月になりました

2016-06-03 10:43:25 | その他

ヒメスイレンの花が、昼近くなると開き出し、4時ごろになると閉じ始めます。陽の光に応じているらしい。

六月になりました。
各地で早くも夏日だ・・・、とにぎやかですが、当地は、霞ヶ浦に飛び出している半島のせいか、夏日:25度を超える日:も滅多になく、快適な日が続いています。
藪も生い茂り、おどろおどろしくなってきました。
あちらこちらで啼いていたキジもウグイスも少なくなり、今はホトトギスの天下です。

今年の六月は、設計事務所登録更新の期限だったのですが、もう「営業」は《面倒》なので、更新しないことにし、既に去る三月、「廃業届」を提出してあります。
ゆえに、今は、字の通りの「自由業」です。
もちろん、「建築をめぐることども」について語ることは、「登録」や「資格」とは関係のないことゆえ、このブログも含め、これまでどおりに続ける所存です
(当ブログのプロフィールは、既に三月に改訂してあります)。

先ずはご挨拶まで・・・・。
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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-33

2016-06-02 14:32:45 | 「学」「科学」「研究」のありかた



    *******************************************************************************************************************

End-jetty houses and end ‘crucks’

先に6章において、小規模で比較的簡素で、年輪判定で遅いと見なされた事例から、「端部跳ね出し(突き出し)形式: end-jetty houses 」の家屋は、主屋に直交して置かれる別棟形式や WEALDEN 形式の家屋よりも後になって発展した形式であると考えられ、よく言われるような後期の形式に先立つ事例ではないことについて触れた。その一つの理由は、それらの多くが、 階上の crucks:upper crucks あるいは end-crucks の名で呼ばれる「湾曲した部材」を持っているからである。この部材は、階上の跳ね出し:突き出し部に設けられ、 half-hipped roof と呼ばれる屋根を承けている。
   half-hipped roof :完全な寄棟屋根ではなく、寄棟屋根の先端部を切り取った形の屋根。fig82, 83 のように、立面上部が台形状になる。
LYMINGEUPSTREET COTTAGESHYTHE 近郊の NEWINGTON にある OLD KENT COTTAGE は、既に公表されている事例である。YALDING 教区の BENOVER にある BURNT OAK は、quasi-aisled :疑似側廊形式の架構で、hallbase ceuck で造られている。一見すると新しい時代のもののように見えるが、調べてゆくと、end crucks が本体とは別の増補された部分であることが分ってきた。このように二期にわたると見なされる事例は他にもある。fig82SMARDEN にある TOLHURST FARMHOUSEfig83DETLINGWELL COTTAGE などがその例である。
   crucks basecrucks については、このシリーズの「-16」「-17」「-18」を参照ください。


二つの部分が見られる場合、どちらが新しい部分か判断に迷う場合があるが、WELL COTTAGEの場合は、きわめて明瞭であった。ここでは、背丈の低かった建物に部材を追加して背丈を高くしている。具体的には fig83 のように cruck 類似の部材が、新しく追加された wall plate梁を承ける桁にあたる部分:を承け、この wall plate が新規の屋根を支えている。
最終的には、STAPLESUMMERFIELD FARMHOUSE のように、end-crucks が両側に二組設けられるような建物も現れるが、SUMMERFIELD FARMHOUSEの建屋は総二階建で、16世紀後期~17世紀に建てられたのではないかと考えられている。
end-crucksのある建物は、概して異様なほど壁の高さが低い。end-jettied 形式の建物や unjettied の建物は、6章でみたように、一般に WEALDEN 形式の建物あるいは直交配置の別棟形式の建物に比べると相対的に壁が低く、その wall plates の高さは平均してGLから 3.8mである。ところが、そのうちで end-crucksを設けた事例(全部で6例ある)は、これよりも低い。3.2mより高い例は一つもなく、平均高は 2.26mと、かなり低い。この建屋に二階を挿入することは、高さと、採光の点で、極めて難しい。とりわけ普通のケント風の寄棟屋根ではなおさら難しい。だから、end-crucksで端部の壁を高くし、屋根を half-hiped roof にする方策は驚くべき工夫なのである。その結果、室は四周各所に設けられ、かつ開口部ある壁も用意できるようになった。また、そこでは、湾曲した cruck-like の部材繋梁承け材として重要な意味を持っている。
これらの事例は、建設が二度にわたっている場合が多く、おそらく当初の平屋建ての端部が増補されたと考えられるが、WELL COTTAGEでは、跳ね出しの二階が既に在ったようだが、階上は屋根裏部屋同然であった。時代判定というものが、正確でないのは珍しいことではない。しかし、end-crucksが二度の時期に造られている傾向が多いこと、そしてそのいくつかは遅れて(多分、 half-hiped roof が別の意味を担うようになってくる頃)現れるという事実、しかも小規模の比較的貧しい家屋に多いこと、これは全て、これらの事例が15世紀後期以降の建設であることを示していると見てよいだろう。
                                                                    この節 了
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筆者の読後の感想は、次回の Late medieval roof construction 紹介後書くことにします。
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復刻・「筑波通信」 -4 : 「間」抜けの話・・・・・「間」が《抜かされる》ということ

2016-05-28 09:58:42 | 復刻・筑波通信

けやきの若葉

筑波通信 -4 : 「間」抜けの話・・・・・「間」が《抜かされる》ということ     1981年7月1日 刊 の復刻

五月の末から六月の初めにかけ、季節外れの夕立が続いた。それも雷雨である。
   註 1981年のことである。
そんなある夜、研究室に、学生の某君が、本を抱えて興奮した面持ちで飛び込んできた。どうしてもこの本を見てもらいたい、というのである。
その本とは、帝国書院から出されている「世界の地理教科書」シリーズのスイスの地理教科書であった(中学生対象ではないかと思う)。もちろん日本語訳である。不勉強で、こういう本があるなどというこよを、ついぞ知らなかった(このシリーズに続いて、世界各国の「歴史教科書シリーズ」も刊行されつつあるとのこと)。
その本にざっと目を通してみて、何故彼が話をしたくなったか、合点がいった。私たちが学んだ(学ばされた)地理の教科書とは全く異なているからである。私が常日ごろ望んでいたことが、この中学生用の教科書に、大げさに言えばものの見事に書かれていたのである(今、同じようなことを、大学生に話さなければならない、というのがあほらしく思えたのである)。
一言で言ってしまえば、この教科書は、「国土」について、諸「知識」を単に並べたものではなく、「国土」を、「そこで、人びとが生活してゆく」という視点で、どのように「把握すればよいか」という見かたで貫かれている、ということに尽きるだろう。
詳しく示せば、スイスという国土を、子どもたちがどのように捉えるか、その捉えかたを述べるのである。たとえば、〇〇山脈が何処にどのように走っていて、高さがどうで、地質やそのできかたがどうであるかというようないわば「物知りおじさん」的「知識」ではなく、もちろん、それも書いてあるが、それだけで終るのではなく、(したがってそれを覚えればよいというのではなく)、そのような山脈のあるところでは、どのような「自然」が展開し、そのような「環境」にあって、人びとはどのようにして暮さなければならなかったか、暮してきたか、暮しているか・・・、つまり、人びとの生活がどのように変ってきたか、人びとはその「自然」にどのように対処してきたか・・、といった現在の学問分野でいうところの「歴史地理学」「人文地理学」「あるいは「集落地理学」に係わる話が、実に分りやすく淡々と述べられている。これが、それぞれの固有の特性をもった地域ごとに語られ、その結果、スイスという「国」と、そこでの人びとの生活が、実にはっきりと浮びあがってくるのだ。
   そのような「特性」が存在するからこそ、「地方」「地域」という「概念」が生まれた、在ったのではなかったか。
   いま日本で「地方」「地域」と言うとき、そういう「特性」の存在を認めた上で語られているだろうか
そこには、ある地域が何故そういう地域になったのか、それを観る見かた・捉えかたが懇切丁寧に書かれており、その一環としてたとえば、ある地域に暮す人びとの一日の、そして一年の生活が、その「地理」との関係で、あたかも日程表のごとくに語られ、そのような生活との関連で、その人びとの家づくりの在りかたについても触れられている。だから、読んでいると、行ったこともなく見たこともないスイスのある地域のありさまが、目の前にありありと浮かんでくる。
そしてこれが大事なことなのだが、それは決して単にその地域について知ったということで終らないということだ。そう見てゆくなかで、たとえば、わが国のあの地方のありさまは、いったいどうなのだろうか・・・、といった具合に、それとの対比でものを観る私の「視野」が自ずと拡がってくるのである。つまり、一つのことを観ることが、十のことを観る観かたをも示唆してくれるのである。
すなわち、このスイスの地理教科書は、現象あるいは事象の「結果」だけではなく、そのような「結果」に至った「過程」を語っているのである。
訪ねてきた学生は、日ごろ、世の中一般に「結果」だけ注目され「結果」だけつなげてものごとが語られ学問・研究がされ、つまるところ、そこに至る「過程」が無視されていることに、言いようのない怒りを抱いていて、たまたま私が、およそ人のやることは「結果」も大事ではあるがそこへ到達するまでの「過程」:「人間の営み:営為」について考えてみることこそ大事である、と日ごろ言い続けていたものだから、私なら怒りを聞いてくれるだろう、と思い訪ねてきたのである。
そのとき、「人はどうしたか」、「どうするか」こそ大事なのではないだろうか。
人の為した「結果」について、あれこれ言うことぐらい易しいことはない。しかしそこからは、決して「人がどうしたか」は見えてこない。
逆に、「人がどうしたか」「どうしてきたか」が見えたとき、私たちは、ある一つの地域、あるいはある一つの現象を見ることを通して、「やがて目にするべき一切の風景を理解すること」ができるようになるはずなのだ。
   註 この文言は、当時読んでいた、サン・テグジュペリの著作の一節からの引用です。
     そのあたりをサン・テグジュペリ「城砦」(山崎庸一郎 訳 みすず書房)より以下に抜粋転載させていただきます。

     ・・・・・・
     かつて、存在するもろもろのものがあり、忠実さがあった。
     私の言う忠実さとは、製粉所とか、帝国とか、寺院とか、庭園とかのごとき、存在するものとの結びつきのことである。
     その男は偉大である。彼は、庭園に忠実であるから。
     しかるに、このただひとつの重要なることがらについて、なにも理解しない人間が現れる。
     認識するためには分解すればこと足りるとする誤まった学問の与える幻想にたぶらかされるからである
     (なるほど認識することはできよう。だが、統一したものとして把握することはできない。
     けだし、書物の文字をかき混ぜた場合と同じく、本質、すなわち、おまえへの現存が欠けることになるからだ。
     事物をかき混ぜるなら、おまえは詩人を抹殺することになる。
     また、庭園が単なる総和でしかなくなるなら、おまえは庭師を抹殺することになるのだ。
     ・・・・・・
     それゆえに私は、諸学舎の教師たちを呼び集め、つぎのように語ったのだ。
     思いちがいをしてはならぬ。おまえたちに民の子供たちを委ねたのは、あとで、彼らの知識の総量を量り知るためではない。
     彼らの登山の質を楽しむためである。
     舁床に運ばれて無数の山頂を知り、かくして無数の風景を観察した生徒など、私にはなんの興味もないのだ。
     なぜなら、第一に、彼は、ただひとつの風景も真に知ってはおらず、
     また無数の風景といっても、世界の広大無辺のうちにあっては、ごみ粒にすぎないからである。
     たとえひとつの山にすぎなくても、そのひとつの山に登りおのれの筋骨を鍛え、
     やがて眼にするべきいっさいの風景を理解する力を備えた生徒、
     まちがった教えられかたをしたあの無数の風景を、あの別の生徒より、おまえたちのでっちあげたえせ物識りより、
     よりよく理解する力を備えた生徒、そういう生徒だけが、私には興味があるのだ。
     ・・・・・・
     私が山と言うとき、私の言葉は、茨で身を切り裂き、断崖を転落し、岩にとりついて汗にぬれ、その花を摘み、
     そしてついに、絶頂の吹きさらしで息をついたおまえに対してのみ、山を言葉で示し得るのだ。
     言葉で示すことは把握することではない。
     ・・・・・・
     言葉で指し示すことを教えるよりも、把握することを教える方が、はるかに重要なのだ。
     ものをつかみとらえる操作のしかたを教える方が重要なのだ。
     おまえが私に示す人間が、なにを知っていようが、それが私にとってなんの意味があろう?それなら辞書と同様である。


では、この教科書が、どういう形でその叙述を締め括っているかというと、地域ごとにその地域の特性:人びとの生活を通観したあと、素直に、その国土の将来の(あるべき)姿を、将来の「(国土の)景観」というかたちで示して、我われ(スイス人)は、将来へ向けていま何を為すべきかを述べて終っている。

一通り目を通して、学生に劣らず、私も少なからず興奮し、何故スイスではこうで、日本ではこうでないのか、大げさに言えば夜の白むまで話が弾んだのである。
話をしてゆくなかで、彼が頭にきたのには、もう一つ別の理由があったことも分ってきた。
実は、この学生は、この本を地理の先生にその講義で紹介されたのだという。そこで彼が、例の「過程」重視論を述べたところ、その先生曰く、では書き方の順序を逆にすればよいのですかね、と言われたのだそうである。かれはそこで先ず頭に来た。そんな書き方の形式を言っているのではない、もっと本質的なことなのに・・・、というわけだ。
そして更に、この先生はこうも言われたのだという。近ごろ、建築を学ぶあるいは研究をする人たちをはじめとして、地理学以外の人たちがどんどん地理学の分野に入り込んでくるものだから、地理学の独自性を保つために地理学はいったい何をしたらよいのか、いろいろと論議がある、と(実際にこういう表現で言われたのではなく、私がいわば「意訳」した文言である)。なるほど、これは私も頭にくる。この学生が頭にきて当然である。「ね、そうでしょう」と言って彼はほっとした面持ちになった。それが印象的であった。もちろん、この「先生」は、「大学の」先生である。

私は、何故日本にはこのような教科書が存在しないのか、考えた。そして、今からでもこんな具合の教科書をつくることができるだろうか、としばらく考えた。子どもの教科書もながめてみた。そして、悲しいかな、書けないだろうという結論に達したのである。何故か、何故在り得ないか。
一つは、日本の現状が、このような書きかたを受け容れないものとなっているからである。
たしかに、ある時代までは、スイス同様、国土と人びとの生活について、つまり、「地理」と「人間の営為」とについて雄弁に語ることができる。
しかし、ある時以降、〈突然〉のように(本当は〈突然〉ではなく、〈下準備〉は着々と為されていたのだが、時間を圧縮して見ると唐突、突然に見えるのである)、地域の特性と人びとの生活とは無関係となり、国土はそれぞれの特性をもった「土地」ではなく、単なる「地面」として扱われるようになり、特性などはかえりみもされず、何処でも全く軌を一にした生活を行い得るのだ、それがよいことなのだ、それでよいのだ、という世の中になってしまっていたのである。
ゆえに、今、現代に生活する上では、「地理(の諸知識など)は不要である、つまり「地理を学ぶこと」と「生活」とは直接的な関係はないように見える。そうなってしまっている。だから、スイスの教科書のようには、素直に淡々と書くことはできないのだ。
書こうとすればするほど、歴史的な意味での「断絶」と、「地理を学ぶこと」と「現実に行われている生活」との間に存在する「断絶」が、より一層、目に見えて明らかになってくるだけなのである。
従って、できることと言えば、これまで慣習的・因習的に行われてきたように、それまでの《蓄積》の上に《最新の》事項を盛り込むことだけで、地理学の《最新諸知識》を〈系統的にきれいに整理して記述する〉ことしかないのである。
ゆえに子どもたちは、それらの《諸知識》が、自分たちの「生活」と如何なる関係があつか分らずじまいのまま、つまり何故に「地理」を学ぶのか、学ばされるのか分らないままに、徒に《暗記を強いられる》こととなる。
それはすなわち、前々号で書いた言いかたで言えば、子どもたちに、「それはそれ、昔は昔、今は今・・・」という「ものの見かたを教え込んでいることに他ならない。
「地理」は、すなわち「地理学」「地理教科書」は、この「現実との不整合」に目をつぶってはいけないのだ。そこから逃げてはいけないのだ。「地理学は今何をしたらよいか、などといういうような「愚痴」をかこっていてはならないのだ。
むしろ、この不整合な事態の不条理についてこそが、「地理学」の言及しなければならないことではなかろうか。それこそが「地理学」の本務だったのではないか。「地理学とは、そもそも何であったのか」ということだ。それを忘れて、自ら進んで自分の「縄張り」を狭めてゆく。その先は見えている。「学際的」研究・・を唱えるだけだ。しかし、そうしたところで、不整合な事態の不条理については言及できないだろう。各分野の「言及できない」ものがいくつ集まったところで言及できるようになるわけがないではないか。地理学以外の(人びとの生活に係わる)学問・研究分野でも同様な不整合が存在している、と私には思えるからである。まさmにこの点こそが、何故スイスのような書きかたの教科書が日本で在り得ない、と私が思う、もう一つの理由である。このような書きかたのできる人が、「地理学」界に、はたして居るのか?ということである。もし居るならば、そういう教科書が一つや二つあってもよいではないか。しかし、在りそうにない(全部を調べたわけではないから、断言はできないが・・・。文部省の規制があるからか?そうだとしても、必ずしも、そういう「外圧」だけとは思えない)。もともと、長年にわたり、「地理を学ぶというこ」=「我が国土について知ること」=「我が国土についての地理学的諸知識を《習得》すること」=「諸知識を辞書的に収集すること」で何ら疑いもせず済ませてきてしまい、「地理を学ぶこと」の「意味」について、何ら考えられてこなかったのだ。それはすなわち、書く側に、何の「反省」もなかったということになる。教えられる側は、つまり子どもたちは、意味も分からないまま(現実と不整合のまま)やみくもに、字面のとおりに《勉強》させられてきたのである。そこには本来の「学習」は存在しない。
   「勉強」の元来の意味は、商人が「勉強しておきましょう」と言うようなときの「勉強」の意であるという。
   その語が、「自らへ問題を課す」というような自制的な意を込めた「学ぶということの在りかた」の意に転じたものと思われる。
   そしてそれは、いつの間にか、多動的にして受動的なすがたになってしまった。つまり「学習」ではなくなった。


ウツギの花

おそらく、このように書くと、何も全てが現実の生活との係わりをもって語られる必要はないではないか、学問の成果は成果として、教えてよいではないか、何故ならそれこそが今人間の到達している最先端なのであって、教育の目的の一つは、その先端を将来更に先に延ばすことにあるのだから、と。そして、(自然)科学・技術(に係わる分野の教育)は、まさにこういう局面で実践されており、人文科学の分野もこれに追随しようとしているように、私には思えてならない。
しかし敢えて私は、これは誤っていると言おうと思う。
何故なら、今の最先端とは、いかにどれだけ「人間としての」立場から遠く離れるか、と言う意味での先端でしかない、ように見えるからである。学問というものが、進めば進むほど鋭角化し、知識自体もより細部にわたるようになることはそれはそれで当然である。
しかし、そうなるまでの過程が忘れ去られ、ただ目前の状況から前へのみ、そうすることの意味さえ忘れてただ突き進むということ、そしてそれを最先端と思い込み平気でいられるということ、に対して私は疑義・異議を申し立てたい。過程を忘れるということは、人間としての立場から、どんどん遠くなってゆくことに他ならないからである。
そしてまた、このような人間としての立場からほど遠くなった、あるいは人間としての立場を欠いた見かたが平然と教えられる一方で、必ず、他人へのいたわりの心、だとか、自然を愛する心、だとか、はたまた「道徳」だとかが、これまた平然と教えられるのが常だからである。考えてみるまでもなく、こんな論理的に矛盾するはなしはない。いったいどうやったら人間としての失ったものの見かたに、人間的なるものを継ぎ足すことができるのだろうか?
私たちは、まずもって人間なのだ。これは疑いようのない事実である。事実以前のはなしである。だから、「人間的な」とか「人間として」とかいうことを、形容詞のごとくに、後から追加しあるいは付加すればこと足りるとするような論法は、私には我慢がならないのである。それは「誤魔化し」であり、確実に誤っている。
言いかたを変えて言えば、いかなる最先端であろうとも、それは人間の為してきた営為の一環として在るのだ、との認識をもつ必要があるということだ。私たちは、常に、それを問う必要がある。私が、現実との、あるいは、今との係わりを問うのもその故だ。そしてそれは、私が現実との係わりを持たざるを得ない建築という職分に係わっているからではない。それが、本質的なことだからである。

「地理」の教育において、かなり昔から、指折り数えて知識を詰め込むのではなく、「『地理』を捉える」教育が行われていたならば、現在のわが国のような状況、すなわち「地理」が「生活:暮し」と無縁な状態、あるいは「それはそれ、昔は昔、今は今」というがごとき事象への対し方にはなっていなかったのではないか、そう思うのはいささか短絡的だろうか。
なぜなら、単に学校の成績のためとしてではなく、「生活してゆく:暮してゆく」上での「常識」となっていたならば、つまり、ごく自然にその「捉えかた」でものが捉えられるようになっていたならば、現在のような状況になる以前に、誰もが当然のように正当にして正常な批判力を行使したと思うからである。
然るに、バラバラの知識を教えることによって、「ものごとをバラバラにして捉える方法」を教えてしまったのである。この修復は大変である。
このような傾向は、今、全ての学問領域で見られる。ものごとを数え上げられるようなかたちに分解し、そうして得られる《知識》を数え上げることで、ものごとが分った気になってしまう。そこでは人間が喪失する。数え上げることができるような事項をいくつか取り出すという操作を施すとき、実は、その取り出し残されたところにこそ、人間の真実があるからだ。事項と事項の「間」にこそ、人間の本当の姿があるのではないか。
なるほど、一歩譲って、ものごとについて語るときには、いくつかの事項を軸に語るしかないのは認めるとしよう。
しかしそれは、あくまでも、「何かを語るために」見出した事項に過ぎないのであって、決して、ものごとがそれらの事項によって成り立っているということを意味しているのではない。それを多くの場合、取り違えるのだ。肝心なのは、「何を語ろうとしたか」「何を見たか」なのである
全く同様に、何故にそれらの事項(だけ)で見るような「癖」になったのかを省みずに、それらの事項がはじめから当然のように在るのだと思い込み、平気で居るのも誤りである。それはいわば、天空の星を見るに、星を見ずに星座を見る見かたに他ならない
こうしてみてくると、今の世のなか、ものの見かた、捉えかたが基幹である、という当たり前なことが、いかに忘れられているかが、空恐ろしいほど浮き上がってくる。言うなれば、「間」の抜けた、あるいは「間」の《抜かれた》、デジタル思考が横行しているのである。事項を指折り数え(digital の原義)、その総量でものごとが分る、というのならば、サン・テグジュペりではないが、辞書でたくさんである。
それ以上に、教育(小学校から大学まで)の現状の空恐ろしさもまた、目に見えるかたちで見えてくる。今、教区は、そのどのステージにおいても、その場限りでは「知識豊富な」、あるいは、ある限られた範囲についてのみ「知識豊富な」、そうであるがゆえに「『間』抜けな」見かたしかできない人間をせっせと養成していると言ってよいのではなかろうか。だから、「教科書」においても、そこに盛られる「知識」の質・量だけが論じられ、それが「間抜け人間」育成書になってしまっていることは全く省みられない。あるいは、論点にされることをきらい、意図的にそのように仕向けられ、仕掛けられているのかもしれない。

先日、某国立大学付属高校の先生たちと話す機会があった。いわゆる有名大学合格率の高さで有名な高校である。かねてから疑問であったことを訊ねてみた。彼らは、その有名大学で何を学ぼうとしているのか、何をしようと選ぶのか?ところが、彼らはほとんど、特に何かをしてみたい、というような「関心のあること」を特に持っていないのが特徴なのだ、という答えが返ってきた。彼らの「選択」は、全く、単に自分の(成績の)「点」に拠るのだという。これには、ある程度は予想はしていたが、驚くというよりあきれて返す言葉もなかった。このデジタル思考に秀でた「間」抜け人間たちは、いずれの日にか、その多くが「役人」として要職にゆき、絶大な権力をもつべく予定されているのである。とんでもない悪循環・再生産が行われている、ということだ。
そして私たちは、その「抜かされた『間』」やむを得ず放り出され、不特定多数として十把一絡げに《まとめて》数え上げる対象にされてしまうのである。というのも、私たちがあまりにも多種多様、十人十色であるため、かれらのデジタル能力の外にはみ出してしまい、そのままでは数え上げることができないからである。もちろん、彼らにとってそれはムダなことだから、数え上げようとする「努力」もしない。
今私は、私たちはやむを得ず放り出され、と書いた。しかしそれは、彼らの視点から見てのはなしであって、私たちにとっては、それはあたりまえだ。やむを得ずどころか、十把一絡げにされることの方こそが、私たちの「望まざる」すがたなのだ。
私たちは、やむを得ず、そうされて黙ってきた。なぜなら、指折り数えることのできない世界に居る私たちにとって、指折り数える、指折り数えられることのみを良しとするやりかたに対し、さしあたって、打つ手が見つからないからである。
指折り数えられるものしか分らない、分ろうとしない、そういう人たちに、指折り数えることのできないものごとを、ものごとが厳然として在ることを、どうしたら、分らせたらよいのだろうか。「『間』の存在」を分らせたらよいのだろうか。はたして、「『間』抜け」の人に「間」を分らせることができるのだろうか。
しかし、私たちは、ついうっかりと、彼らに抵抗しようとして、数え上げることのできないものを、数え上げてみようなどという気を起こして、彼らの土俵に引き込まれて失敗を繰り返す。
私たちのどこかに、未だに「数」に対しての「絶大なる信仰」が巣食っている
からではなかろうか。
そして、よく考えてみると、そのような「信仰」は、はじめから私たちの中に在ったのではなく、後から私たちの中に植え付けられたものであることに気が付くはずだ。
何が、誰が植え付けたのか。その一つが、そしてその最たるものが「教育」、特に「初等教育」であることは、紛れもない事実である。
余談だが、このごろの小学生は、高学年になると大概腕時計を持っている。その大半以上がデジタル表示である。小学生だけではなく、<大人でもそうらしい。心配性の私は、また心配したくなる。「時」に対する見かたが変ってしまうのではないか、と。
永遠に続く「時の流れ」:「時間」という捉えかたがなくなって、「時間とは時刻の集積であるという捉えかた」が先に来るようになるのではないか(既にそのような気配が感じられる)。
そもそも、私たちには、「時の流れ」という感覚があったはずだ。「今」と「一瞬前」と、「一瞬後」と、そして「その前」、「その後」へと、延々と、決して絶えることなく連続的に続く「流れの感覚」があった。それをなぞらえるものとして、針の回転運動による時計が考案された。砂や水の流れにそれをなぞらえた。
それは、私たちの感じている「時の流れ」そのものではないが、それをなぞらえたものであった。
そういう意味で、このような表示のしかたをデジタルに対してアナログ:なぞらえる表示と言うのである。なぞらえる表示のとき、「時刻」というのは、あくまでも「便宜的」なものなのである。「時刻」が先に存在するのではない。「時の流れ」が先ず存在する。「時刻」は、あくまでも「便宜」のために設定されたのである。
このことが忘れられ、私たちの時間が、この便宜的な「時刻」によって左右されてしまうような、いわば「逆転現象」が当たり前になってしまうのではないか、というのが、私の「心配」なのだ。なぜなら、そうなると、それはますます「それはそれ、今は今、昔は昔」的な思考の隆盛に拍車をかけることになる、と思うからである。ますます「『間』抜け」になってしまうと思うからである。


ジャガイモの花

私が今回「地理」の教科書の話から始めたのは、もちろん、別段「地理」「地理学」に他意があったからではない。建築:人が建物をつくる、という営みにあたって、人は、その生きる:暮す「地」の「理」を弁えることが必須と思うがゆえに、話が進めやすかったからに過ぎない。
私が言いたかったのは、私たちの「ものの見かた」が、私たちを「取り囲むものごと:surroundings 」が、あるいは「そのつくられかた」「語られかた」が・・・その全てが「『間』抜け」な状況になっていること、それに気付いていないこと、気が付かなくて当たり前と思われていること、更にそれを推し進めようとしていること、「この空恐ろしさ」について言いたかったのである。
ものごとを指折り数えるその指の隙間から、誰かがつくった枠組でものごとを見るその枠組から、私たちの本当の姿がこぼれ落ち、捨てられる。この「空恐ろしさ」を言いたかったのである。
では、どうしたらよいのだ。いったいどうしたら「『間』抜け」を「『間』抜け」でなくすることができるのだろうか。

それとも、こんなことを思うのは「馬鹿げている」のであって、《現実》に逆らわずに《素直に》世の大勢に従うのが《利口》というものなのかもしれない。
しかし、たとえ《現実》に逆らうことになったとしても、「私自身」には逆らいたくない。《現実》に心を逆なでしてほしくない、ということに、結局は行き着いてしまう。

どうしたら、私たちは「『間』抜け」でなく在り得るのか。『間』を抜かされて扱われることに抵抗できるのか。


あとがき
原文の饒舌な個所を直しましたが、それでも長くなりました。
最後までお読みいただき有難うございます。

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-32

2016-05-13 09:56:37 | 「学」「科学」「研究」のありかた


先回から大分時間が経ちました、「続き」を載せます。      *************************************************************************************************************************

Structural details of Wealdens  

Wealden 形式を特徴づける二階部分の前面への跳ね出し一体屋根は、当初から存在するが、初期の事例のいくつかには、細部の架構法や、木材の継手・仕口の点で、Wealden 形式と見なすことに躊躇う例がある。Wealden の中央部の小屋組には、通常とは逆に、wall plate :桁が、の間ではなくの上に置かれる事例が普通に見られる。
   註 wall plate を桁と訳しています。下掲の fig83 を参照ください。
     梁の上に桁を置くというのは日本の折置組、つまり、先ずで承け、その上にを架ける方式、
     wall plate :桁の間に置くとは、京呂組:先ずに架け、その上にを架ける工法を指している、と解しました。
そこでは、hall の表側の壁を越えて伸び、はそこに載せ掛けられるので、hall の前面を横切る形となっている。
   註 この部分の文意は、日本の「出桁(だしげた、でがた)づくり」に相当する技法のことと推察します。fig80bfig81 参照。
当然、この技法は背面でも使われる。そして、このいわば初期の技法は、Wealden 形式の架構で使われ続けている。しかし、14世紀後期から15世紀ごく初期の Wealden では、この技法が建物の他の部分でも、適宜に用いられている。fig79CHART HALL FARMHOUSESANDWICH 近郊の ASH にある UPHOUSDEN FARM では、柱が横向きに据えられている。これは、桁と梁の享け台になる部分を広くするためと考えられる。
   註 これは、fig79 桁行断面図の左から2本目の柱のような例を指しているものと解します。
しかし、この2例に見られる方法は、一般的ではなく、後期の Wealden 形式の建物で、架構上の問題を解決するために採られたいろいろな方策の一つに過ぎない。この方策は、通常は hall 中央部の軸組・小屋組に用いられるが、 fig80b の1399年建設の WEST COURT(在 COLDREDSHEPHERDSWELL )では hall 端部の仕切壁部分の軸組・小屋組でも使われている。 これらは架構上では些細な部分に過ぎないが、世紀の変わり目の頃になっても、Wealden形式の工法は、まだ形成期にあったことを示している。この工法が未完成であったことは、1400年近辺建設のWealden 工法の事例に、片側に aisle:側廊=下屋 のある建物が見つかっていることでも明らかである。
Wealden形式の後期の事例には、更にいろいろな技法が見られる。しかし、fig81 に見られるような一つの「典型」で建てられることは決してなかった。fig81 は、Wealden 形式の中でも最も洗練されている二つの遺構の中央部の軸組・小屋組の断面図である。fig81aTHE MANOR HOUSE は、前面と背面に(屋根:小屋が)跳ね出していて、必然的に、は延ばされたの上に設けられ出桁になっている。fig81bTHE OLD PALACE では、高く反り返った brace :方杖が使われている。これは、最も後期の open hall によくある架構を強調するための colonettes と同趣旨の装飾の一と考えられる。  
   註 colonettes :A small, relatively thin column, often used for decoration or to support an arcade.
この例では、の下に設けられた腕木上に置かれ、屋根勾配は前後で異なっている。これは、小屋の眞束が、小屋組:屋根の中央ではなく、hall の中央にくるように設置されているからである。
   註 腕木で承ける方策が、なぜ片側だけ採られているのか、分りません。
hall と二階建部分との接続法には、各種の方策が採られている。hall二階建て部分とを、一つ屋根の下で前面に跳ね出すWealden 形式のつくりは、建屋をすべて二階建で造るようになるまで続いている。Wealden 形式のつくりで総二階建の一つの事例が、STAPLEHURSTLITTLE HARTS HEATH の調査で確認された1507年の建設の建物である。これは、総二階建建物の最も初期の事例の一つで、おそらく総二階建住居の「効能」がまだ十分に理解されていなかった頃の建設と考えられる。







                                                この節 了      ************************************************************************************************************************* 

 
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九州の地震に思う-3・・・・・被災建物の様態

2016-05-01 11:11:21 | 近時雑感

桐の花が咲いています。

新聞やTVの写真・映像を見て感じたことを記してみようと思います。
現場の実際を見ていませんので、誤解があると思います。その点ご了承ください。

私の印象に残ったことを順不同に書きます。[文言補訂 15.25]

1.古いと思われる建物で、を使い、木舞土塗壁で仕上げた建物、が意外と少ない。
      差物・差鴨居も見かけなかったように思います。
  縦胴縁を設け、筋交い貫板:厚12㎜程度か)を張り、木摺・メタルラス張り・塗り壁仕上げが多いように見受けられた。
  おそらく、1950年代以降:戦後に改築あるいは新築された家屋が多いのではないだろうか。
  旧いと思われる瓦葺き建物に、いぶし瓦が少なく陶器瓦が多いように見受けられた。これも、戦後の改造・新造が多いことを示唆している。
  つまり、建築基準法制定後の建築が大部分である、ということになる。
      かつて(20年ほど前)、熊本大津町の辺りを訪ねたとき、旧いな、訪れてみたいな、と思う集落や建物が少ない印象を受けたことを覚えている。
      これは、瓦屋根の普及が著しいことから見ても、一帯が、「先進地」であるからなのだろうか?

2.新しい建物には、建築面積が小さい総二階建の家屋が多く(ゆえに縦長の立体が多い)、形体を維持したまま転倒している例が多いように見受けられた。
  それらは、基礎ごと転倒している場合、基礎から外れ、土台から上が転倒している場合、の二様があるようである。
  いずれも、一見、架構自体:柱・梁に損傷が生じたようには見えない。
  こういう転倒は、縦長立体ゆえの挙動 の影響が大きいと思われる。
  この挙動を誘発したのは、基礎に建物が緊結されていたからではなかろうか。緊結されていなければ、建物は基礎上を滑ったと思われる。
  かつて、阪神・淡路地震で、淡路島で実際に見た記憶がある布石の上を滑っていた)。
  基礎に緊結されていると、土台より上の立体が、緊結されている土台を基軸にして転倒するのである。どの位置の土台が基軸になるかは、地震次第。
  そのとき、おそらく多くの場合、アンカーボルト部で土台が割裂しているのではなかろうか。
  そして、地盤が軟弱のところでは、基礎ごと転倒に至ることになる。

  なぜ、建屋が形状を維持したまま転倒するのか。
  多くの転倒事例は外壁面に開口部が少なく、多分、一階、二階が同一面で立ち上がり、各面の壁部分が多いからではなかろうか。

3.古い建築面積が大きい二階建の場合(ゆえに、横長の立体になる)、一階部分が破砕し、二階部分がその上に落下している例が多いようである。
  同じく古い平屋建ての場合では、軸組部が破砕し、小屋組が瓦屋根ごとその上に落下している例が多いように見える。
  これは、破砕部分:下部に比べ、その上部の重さが大きく、上部に生じた挙動・変動下部に生じた挙動・変動の差が大きかったことに拠ると思われる。
  しかも、二階部分はおそらく多数の部屋が設けられているだろうから(つまり間仕切り壁が多い)、一階に比べ、立体としての固まり具合が強いはずで、
  ゆえに一階よりも変形しにくい。同じく小屋組は、切妻も寄棟も、下部の軸組部よりも立体としての固まり具合が大きい。 
  その結果、大きな揺れが生じると、変形しにくい上部変形しやすい下部を押し潰す格好になるのだと思われる。
  RCの建物で、いわゆるピロティ形式の一階が潰れている例が多々見られたが、それも同じだろう。
  これらの事例は、端的に言えば、上下が一体になっておらず、いわば積木を積んだような形になっていた、と言えるだろう。

4.建物の耐震とは、地震にともなう挙動を止める:抵抗することではなく、挙動に耐える:持ち堪えることである、とあらためて思った次第です。
  そして、そのための策としては、建物全体を一つの立体架構として考えることが必須ではなかろうか。
  それはすなわち、いわゆる「伝統工法の考えかた」に他ならない。

5.今回の報道でも、地震後も健在の事例の写真、映像が少なかったように思います。
  被災事例、健在事例を同等に(客観的に)扱う報道がほしい、といつも思う。そこから分ることは測り知れないからです。
    人が犬を噛んだならニュースになるが、イヌが人を噛んだのではニュースにならない、という例え話を聞いたことがあります

以上、きわめて大雑把な感想を書かせていただきました。

現地に実際に行かれた方がたの詳しいお話をうかがいたいと思います。

   追記 [5月3日 9.35追記] 
   以前の記事「とり急ぎ・・・『耐震』の実際」もご覧ください。    
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