建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える                下山眞司        

シリーズ名を「カテゴリー」にしましたので、シリーズで載せた記事の全編へは、「カテゴリー」から直ぐにアクセスできます。

止まない雨はない?!

2016-09-23 14:25:03 | 近時雑感


止まない雨はない、と言いますが、このところ、天上の水栓が壊れてしまったのではないか、と思いたくなるように、毎日のように雨が降ります。そのせいか夏風邪も完治とは言い難い状態です。お日様と青空を見たい・・・!
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秋の長雨?

2016-09-13 10:49:42 | 近時雑感

先日の強風で倒れた叢に咲くクサハギ

今年は、夏らしい青空・入道雲を見る機会がが少なかったように思います。
あっという間に立秋が過ぎ、九月も早や半ば。ここ数日も、愚図ついた天気が続いています。今日も朝から雨・・・。今、結構激しく降ってます。

一旦良くなった体調も、停滞気味。どうもすっきりしません。青空が見たい・・・・・・。

シリーズものの続き、やってますが、遅々として進まず。


追記 9月16日10.30am
体調、ここしばらく毎日37度台で、何となく気だるい感じが続いています。36度台に戻るまで、しばし休憩することにいたします。老化現象の一か?

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-36

2016-09-09 10:10:50 | 「学」「科学」「研究」のありかた



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大分間が空きましたが前回の続きです・・・。

Collar-rafter roofs with crown struts
  一部補訂[0908、1010am)

collar-rafter roof の事例中、14件には crown struts繋梁を支える束柱 があった。
この束柱は、crown post とは異なり、繋梁だけを承け、桁行方向の材:母屋桁は承けてはいない。
   註 collar-rafter roofcrown post については、(前回記事「―35」参照)
一見すると、これらは、先に5章で触れた13世紀から14世紀初頭にかけての CANTERBURY 地方の crown struts roof に似ている。これらの事例は、最近になり、 SUSSEX、SURREY 地方の木造建築に見られる似たような形態の屋根も関係しているかもしれないと考えられるようになっている。この地域の事例には、14世紀あるいはそれ以前の建設と見なされる例もあり、それらは、ケント地域でのcrown struts 誕生との関係を確かめるために、調査する価値があるからである。
この14事例のうち12事例では、crown struts は open hall 形式の建物にあるが、そのうちで唯一 EAST PECKHAMOLD WELL HOUSE の事例は、fig86b (下図)のように open truss空間を横切る小屋組 の上にある例である。

多くの事例では、 open truss は取り壊されていて如何なる形状であったかは確認できない。しかし、5事例では、crown strutsは、仕切り壁になっている小屋組にだけに見られる。fig86cSHELDWICHOAST COTTAGE のように、桁行1間で、梁が仕切り壁内だけにあるからである(空中を飛ぶがない)。
第二の注目点は、crown strutsを備えている家屋の形式にある。と言うのも、crown strutsWEALDEN 形式の家屋にはなく、cross-wing にも見かけず、唯一 end-jetty 形式にあることである。その例が、 fig86aSMARDENTOLHURST FARMHOUSE や EASTLINGPLANTATION HOUSE や、 end-jetty 形式 であったと思われるが、現在はきわめて部分しか遺っていないいくつかの事例である。たとえば、EAST PECKHAMHALE STREET FARMHOUSEBUSH FARM COTTAGE などがその例である。
collar-rafter roofのこれらの様態から分るのは、それが15世紀よりもやや早くから現れるということである。
これは、SURRY のMEAD MANOR の1465年建設と考えられる厨房棟でも使われていることでも明らかだろう。同様に、ROCKS,EAST MALTING AND LARKFIELD は用途は不明ではあるが、1507~8年建設と考えられる(下掲のfig90b参照)。

しかし、crown strutsの全てが15世紀後期以降の建設事例だけにに見られるというわけではない。たとえば、WALTHAM の HANDVILLE GREEN などでは、二個の尖頭アーチの出入口があるが、15世紀中期あるいはそれ以前建設と考えられている。
crown strutsが wealden 形式や cross wing では見られないというのは事実であるが、比較的大規模の建物にだけもちいられているように思われる。先に、collar-rafter roof、の家屋の地上階の面積は平均62~68㎡であると書いたが、crown strutsがあり、地上階の全容の分かっている open-hall 8事例の地上階面積は、80から123㎡ある。つまり、平均値を超えているのである。これらの事例は建物の幅(梁行のことか?)も平均より大きく、それゆえ、crown strutsは、過大で補強斜材のない屋根の小屋組で用いられたと考えられてもおかしくない。この束柱が、構造上の役割を十分に果たしているとは言い難いが、しかし、他の役割が在ったとも言い得ない。それは、crown post roof 形式の屋根一般の部材として実用上、あるいは装飾上の役割を担っていたのではなく、比較的格の低い end-jetty 形式や collar-rafter 形式の屋根を有する建物に限定的に用いられたと見なしてよいだろう。以上のように、13世紀あるいは14世紀初期のcrown strutsと大きな関係がありそうだ。この時期の struts も構造的役割を有してはいるが、ケントの場合は、高級な石造家屋だけに事例が見られ、また open tussres :間仕切り部ではなく宙を飛ぶ小屋組:にだけ用いられている。
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次回 Side-purlin roof に続く
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復刻・「筑波通信」―8   「今」「昔」 について・・・「分る」ということは?  

2016-09-01 11:21:45 | 復刻・筑波通信

「今」「昔」について・・・「分る」ということは?                    1982年2月1日刊 の復刻
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                                                        秦 恒平 著「梁塵秘抄」(NHKブックス311)より抜粋
   ________________________________________________________________

この正月休み(1982年の正月である)は本を読むことに達して過ごした。
上に掲げたのはその中の一冊のなかに見付けた文章の抜粋である。
全般に、著者の解釈はよく分り楽しかったが、先に峠道のについて書いたばかりだったから、この部分が私の目にとまったのである。
実際、古文・古典をこういう形で評釈している書物には初めて出会ったように思う。高校あたりの教科での「古文」は、考えてみれば実につまらなかった。この書のような評釈もまじえて教えられたならば、単に「旧きもの」という意味を越えて、より生き生きとしたものとして吸収され、得るところがもっと多かったに違いない(「古文」は何故教えられているのだろうか?)。
この一文を、私は、「遠さ」のはなしにひかれて引用したのだが、著者は、実は、「時代による時間感覚の違い」について述べるためにこの一節を書いているのである。
「梁塵秘抄」に集められている「うた」は、どれも「うたう」もの、つまり、ただ文字を目で追い読むものではなかった。
著者は、それがどういう調子、どういうテンポでうたわれたのか知りたかった。
残念ながらレコードも録音機もない時代。「梁塵秘抄」には楽譜が示されているようだけれども、しかしそれだけでは調子もテンポも分らない。「梁塵秘抄」の「うた」の復元の試みがなされたことがあり、著者もそれを聴いたのだが、あまりにも悠長で納得がゆかなかったという。
しかし、納得がゆかないのは、現代だからであって、彼らの時代はこれでよかったのかもしれない。それでもなお、「うた」のなかみから考えるとその「うたいかた」に今一つ疑念がわく、つまり「分らない」。上記の評釈は、この点についての著者の「感想」なのである。その節のおしまいごろで、著者は次のように著している。
  ・・・・・この時間感覚を思えば、「秘抄」の「うた」がどういうテンポで歌われたかを議論するよりも、それが当時の人には
  十分新鮮に面白く、妙味も分って楽しまれていたことを信じるので足りているのだな、と私は思うのです。・・・・・
この評釈に誘われて、今回は、「時代の違い」を「分る」、あるいは「違う時代につくられたもの」を「分る」ということについて、少しばかり考えてみたいと思う。

「秘抄」に集められている「うた」の数々を読んでいると、すんなりと分る(という気になる)もの:〈遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん・・・〉などがその一例:と、文意は分るけれどもそのリアリティにはたどり着きがたいものとがある。引用した一文の冒頭の「うた」がその例だ。そのリアリティに到達するには、その「状況」をつかむためにかなりの想像力を働かせなければならない。
そしてリアリティへの近づきかたの「程度」によって、その「うた」の分りかたの深浅の程度もまた変ってくる。
しかも、そのリアリティなるものも、これがそれだと言える確としたものがあるわけでもなく、それ自体もまた、想像力の産物以外の何ものでもない。その「うた」が言おうとしていることの概ねは直ぐに分る。遠かっただろうな、それは分る。そのとき、それが詠まれたであろう(と思われる)状況を極力想像して、そこへわが身をのめり込ませていったとき、その「遠さ」が単なる抽象的・概念的な「遠さ」ではなく、「その遠さ」として見えてくるような気になってくる
その状況に実際に居るわけではない私にできることと言えば、そこまでである
それ故、そこから先、考え方が二つに分かれてしまう。つまり、「古のもの」あるいは「古の状況」など、絶対に分らない、分り得ない、とするか、相対的には分る、分り得るとするかである。
古の状況・様相は今見られるわけがないし、もちろん、そのとき人びとが為した営為はその場限りで直ぐ見えなくなる性質のものだ。遺っているのは「結果」だけである。具体的に目に見えるものにしか信が置けないするならば、前者の立場になるだろう。そのとき、その「立場」は、「それはそれ、昔は昔、今は今」として扱い済ます立場にもう直ぐだ。
もちろん私は後者の立場をとる。人びとの為した営為は、それが目の前に形を成して存しなくても見える、と考える。つまり、相対的には分り得るとする立場をとる。人の感性を信じるからである。
今の時間感覚、距離感覚をもって先の「うた」を分ろうとしたら、到底信じられない、ばかなことをやったもんだ、などと思うのがオチだろう。しかし、彼らの時代の状況を想像し得たとき、そのような状況に放り込まれた私が思うことは、彼らが思ったであろうこととほとんど変りはないだろう。「(人の)感性を信じる」と言ったのはそういう意味だ。
今と昔とのはなしに限らず、今、私たちが互いに話ができるというのも、私たちが互いの状況を想定し、そこで思うであろうことを想像し得る、ということに裏打ちされている。互いの感性に信がおけるからこそ、言葉というものが存在できるのではなかったか。。少なくとも日常的に私たちが用いている言語:「自然言語」は、それゆえに存在する言ってよい。
しかし今、数式に代表されるような「科学言語」の方に信がおかれ、「自然言語」をも、従って人間のやることをも、科学言語的に扱いたがる気配がありはしないだろうか。自然言語つまり普通の言葉はあいまいで絶対的でないと見なされているからであろう。自然言語というのはいわゆる《科学的分析》によって保証されたものではなく私たちそれぞれの感性によって保証されているわけであるから、自然言語に信がおけないということはすなわち、私たちの感性に信がおけない、というに等しいのである。つまり、今私たちは日常的に自然言語を使っているのに、互いに互いの感性が信じられないということだ。
このれに関して、「科学」の「範」とされる「物理学」の先達が次のように語っている。

・・・・・自然言語の概念は、漠然と定義されているが、知識を発展させる際には、制限された現象の群からの理想化として造られた科学言語の明確な言葉よりもいっそう安定しているように思われる。
これは驚くには当らない。というのは、自然言語の概念はリアリティと直接結びついて形成されているからで、これらはリアリティを表している。なるほど非常にはっきりとは定義されていないが、従ってまた数世紀の間にリアリティそのものと同じように変化を受けるかもしれないが、しかしいつになってもリアリティとの直接の連絡を失うことはない。
・・・・・科学言語は、理想化の過程と明確な定義とを通すことにより、リアリティとの直接の連絡は失われる。その概念は研究の対象であった自然の部分においてはリアリティとやはり非常に密接に対応しているが、しかし他の現象を含む別の部分においては、対応が失われるおそれがある。・・・・・
                             ハイゼンベルク「現代物理学の思想」1958 より

先にも書いたが、人の為したことは、いかなる状況で為されたかはもとより、そこで人の為した「過程」も残らず消えてしまう。残るのは「結果」だけである。 考えてみるまでもなく、今私たちのまわりを取り囲んでいるものの大部分は、そういった「結果」の「群れ」なのだと言っても決して過言ではないだろう。言わば、私たちは、「過去の遺物」に取り囲まれているのである。しかし私たちは、よほどのことでない限り、それらを「遺物」と思わずに暮している。
それはすなわち、それら「過去」の「「結果」が、私たちの今の日常に何らかの関りを持っていることを、十分であるかどうかは別として、私たちが認識しているということだ。つまり、私たちは、それらの「過去の結果」、そして私たちにとっての「その意味」が、過去に為されたことであるにも拘らず、「分る」ということである。
しかし、その「分りかた」が、その「結果をあらしめた人びと」の「分りかた」と同一である、という保証は一切ない。だからと言って、「ゆえに過去のもの・ことは絶対に分らない、」分り得ない」、と思ってしまうのは誤りだろう。私たちは、その「分りかたの深浅・程度」はともあれ、その「本質」は(相対的に)分ることができる、そのように私は考えたい。

「常陸風土記」などの「風土記」には、それを編んだ人びとの生活・暮しとは何ら関りのない「得体のしれない人為的遺物」(彼らには
得体のしれない人工物に見えたのである)に対して、彼らなりの「解釈・説明」を懸命に施そうとしているのを読むことができる。
その「遺物」とは、例えば、縄文期の竪穴住居址や貝塚などである。彼らがそのあたりに住みだしたとき、それらは既にそこにあった。明らかに人為的だ。誰かが何かをやったのは確かだが、彼らとは何の関りもない「遺物」でしかない・・・。だが彼らはそれを放置しなかった。
彼らは、それらの「遺物」と自分たちの「今」との間の空白を埋めるべく、壮大な「解釈・物語」を案出する。いわゆる《巨人伝説》などがそれである。
彼らの時代の海岸より遥か離れた、それゆえ運ぶのさえ容易ではないところに、海の貝殻が山と積まれて捨てられていて、近くに足跡のような穴もある。そこで人びとは、海岸とそこを一跨ぎできるような巨人がいて貝を採ってきてはそこで食べたのだ、という壮大な物語をつくりあげたのである。人びとの間に伝わっていたこういう類の「話」を基に編まれたのが「風土記」なのである。そこには、この他にも、地名の由来、「もの」の由来などについて、読んでいて思わず楽しくなる「解説」がいろいろと書かれている。言うならば荒唐無稽な話ばかりだと言ってもよい。
しかし「壮大なものがたり」だとか「荒唐無稽な」と評するのは、今の私たちの「ものの見かた」であって、この「作業」は、彼らにとっては、目の前の「得体の知れない人為的な遺物」と「自分たち」の間の「断絶」を埋めようとするいわば懸命な合理化作業:科学的な営為であったと見なすべきであろう(私たちが当時の状況に置かれたとしたら、私たちもまた同様な「解釈」を施したのではないだろうか)。
私はいつも思う。彼らは、「「それはそれ、昔は昔、今は今」として済ませてしまう今の一部の人たちよりも、数等優れて健全な精神の持ち主だった、と。
何故なら、彼らは「過去・昔」と「今」との連関を問うている。
しかし今、「結果」と他の「結果」の間の連関を問おうとさえしなくなりつつあるし、ましてそのそれぞれの「結果」を成らしめた情況:人びとの置かれた状況そして人びとが思った情況:を想像力を駆使して思い遣るなどということも、なくなりつつある。
むしろ、《科学的であろう》とすればするほど、そのような「不確かなこと」に係わるなどということは忌み嫌われるのが目に見えている。
しかしながら、私たちを取り囲んでいるものの大部分は「過去の結果」であるというのは厳然たる事実であり、今、それらを、今の私たちが「わかるか、分らないか」、それが問題なのである。通常は、日常的には「分っている」。ただ意識されていないだけなのだ。余ほどのことでもないかぎり、過去に成されたものも「遺物」としてではなく「今のもの」と同様に対している。それは古来人びとが為してきたことと、何ら変りない。そして、人びとは、それらのものが「よほどのこと」になってくれば、つまり状況が変り「遺物」になりかかりそうになると、すすんで「つくりかえ」を試みるのである。それは「部分的改造」であるかもしれないし、「全面更改」であるかもしれない。
そして、この「行動の拠りどころ」になっていること、それは、「分る」ということであった。それはただ単に「新しいもの」あるいは「今」が分るということではなく、既に在ったもの、更改しようとしているもの:取り壊そうとしているもの、それをも「分る」ということである。
これは、「ものの意味」を、私たちが、時代を越えて相対的に分り得るということが前提にあって初めて可能である。
そしてそれは、人びとが、ものに対する人間の感性を信頼していた、ということに他ならない。
今、世の中一般に、「「分る」ということは「目に見えるものを知ること」と誤解している傾向が強いから、目には見えない「それを為した人びとの営為が無視・黙殺されてしまうのが常だ。
ある時代の「諸々の結果」は「その時代の人びとの為した結果」であるにも拘らず、しかもそれは時代を越えて相対的に分り得る性質のものであるにも拘らず、旧くて役立たずのもの、せいぜい、その時代の「記念物」としてのみ、単純に扱い済まされてしまうのだ。
確かに、その一方で、「旧いもの」、「伝統(的なもの)」を大事にしようと考える人たちもいるけれども、その多くは、言わば骨董趣味的に旧いものに興味を示しているに過ぎない、と言っては過言であろうか。それでは、役立たずとして無視する立場の裏返しに過ぎまい。
人びとの営為に目を遣らず、結果だけに拘るのは、ものごとを what だけで問うに等しい(先回触れたように、ものごとは、5w1h で問わねばならない)。残念ながら、世の中の気配には what だけで問いたがる気配が感じられる。それゆえに、「過去」と「現在」:「昔」と「今」の間に、如何ともしがたい「裂け目」が入り、大きくなっているように思われる。
「伝統」という言葉がことさらに言われるようになったということは、この「裂け目」が気になりだしたからではあろうが、ただ、それを what だけで問おうとする限りでは、風土記の時代の人びとより、数等「質が悪い」と言わざるを得ないだろう。


いま、私の属する世代の人びとは、その過ごした時代体験を無視・黙殺することなく、その「ものの見かた・捉えかた」を、より強く示すべきだと思う。もちろん、私たちだけがものごとが分っているなどという思いあがった意味ではない。そうではなく、「つくりかえる:乗り越えられる対象として、広く明示・開示するのだ。もし、私たちの世代自体が「無視・黙殺の論理」だけでことを処理し続けるならば、私たち自体もまた「無視・黙殺の対象」になってしまうはずである。
私たちの時代が、そしてそれぞれの時代が、つくりかえられ、乗り越えられるものであったとき、初めて、正当な世代交代が行われるなのだ。私たちは、次の世代の人たちから、もっと「うるさく思われ」なければならない、そのように私は思う。これは、各世代に共通に言えることであるが・・・。
そして、このように身構えたとき、私たちそれぞれは、自らの感性に裏打ちされた「もののみかた・捉えかた」に、自信と責任を持たざるを得なくなる。
また、そのように身構えない限り、私たちのものごとの「分りかた」自体、極めて独りよがりの、あたかも幼児語的段階に留まり、決して「自然言語」的レベルで、通用しないだろう。


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台風 再び

2016-08-31 09:55:00 | 近時雑感
29日30日と、TVの台風情報をつけっぱなしにしながら、外を眺めて過ごしました。
各地で大きな被害が多発しているようです。被災地の方がたへ、お見舞い申し上げます

幸い、当地はTVの報じるほどのことはなく済んだようです。むしろ、吹き降りは、先回の方が激しかったように思います。
今朝は青空ものぞき、すこやかな風が吹いています。

明日から九月。例年はこれからが台風のシーズン・・・。
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夏風邪

2016-08-28 10:39:05 | 近時雑感


この金曜日(26日)眼科の定期健診(白内障・緑内障の予防)で病院に行ってきました。
暑い日で、体が重いなと感じたので、受付で体温計を借りて測ったところ、なんと39度を超えていた!!
急遽、内科も受診。風邪らしいとのこと。
ただ、のどが痛い、関節が痛い・・などの自覚症状は全くない。だるいなぁと感じていただけ・・・。しかし、傍から見ると、動きが緩慢でぎこちなかったようです。
処方の解熱剤で、夕刻には37度台に下がり、今日は平熱に戻りました。
医師の助言に従い、しばらく「静かに」過ごすことにします。
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台風一過

2016-08-23 14:08:05 | 近時雑感

草刈りが待ってます・・・
昨日、22日は、朝9時ごろから雨が降り出し、昼前からは風も強まり、夕方まで吹き降りが続きました。
そのうえ、午後3時ごろからは停電。復旧したのは夜8時前。
ゆえに、夕食は蝋燭の明かりがたより。戦時中の灯火管制を思い出しました。
被害などなく、夜が明けましたが、台風一過の晴天とはならず、今もどんよりしています。暑さは多少和らいだかな。
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晩夏

2016-08-20 13:38:29 | 近時雑感
昨日あたりから、ツクツクボウシが鳴きだしました。今日の朝も、雨の降る中、林の奥で鳴いていました。夏も終りに近づいたのか・・・。
福島・いわきの方が、今年はアブラゼミが少なかったように思う、と話されていました。そういえば当地でも、暑さのかたまりのようなアブラゼミの声が少なかったように思います。天候のせいだろうか?

それにしても暑い!なかなか編集作業がはかどりません・・・。
更新にはもう少し時間をいただきます。
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原爆忌

2016-08-06 16:20:38 | 近時雑感

神社の杜の上の入道雲


1945年8月、当時私は、山梨県竜王町に「疎開」していた。8歳だったから「国民学校」3年だったと思う。今の小学校である。
この年の8月は猛暑だったように覚えている。8月6日も9日も、つまり広島、長崎に原爆が投下された日も、猛暑のなか、「事実」を知らぬまま、安穏と夏休みの一日を過ごしていた。
当時の最も早い情報源はラジオしかない時代。それでさえ、「事実」を知ったのは大分日数が経ってからだった。多分、終戦:敗戦が確実になった「理由」として報じられたときだ。その実態の詳細は、更に後になって、やっと知ることができた。しかし、そうであったがゆえに、その実態の様は、強烈であった。こんなことが起きたのだ、起こしてしまったのだ・・・。


6日の毎日新聞に青野由利編集委員の書かれた「一銭五厘の旗は今」というコラムが載っていました(下掲)。

  一銭五厘の旗は今  青野由利

  ご多分に漏れず、我が家も「暮しの手帖」を購読していた。子どもの私も当然、めくって見る。

  そしてタイトルしか覚えていない初代編集長・花森安治の詩「見よぼくら一銭五厘の旗」だ。

  連続テレビ小説「とと姉ちゃん」をきっかけに読んで、思わず執筆年を確かめてしまった。
  46年前の作品なのに、書いたばかり?と錯覚するほど現代的だったからだ。

  一銭五厘は戦時中のはがきの値段。これで兵隊が召集できた。
  「一銭五厘を べつの名で言ってみようか/<庶民>/ぼくらだ 君らだ」と花森は書く。
  戦争が終わり、庶民が「主人」に、役所や大臣が「家来」になったのに、いつの間にか逆転する。
  それは言うべき時に言うべきことを言わなかった自分の心のせいだと、自戒を込める。

  そして新たに生じた「公害」問題。政府は、大企業は救うが、一個人は救わない。
  公害をつきつめていくと、倒してならない大企業ばかり。「公害」を「原発」に置き換えると、まさに今の話だ。

  あれだけの事故を起こしたのに、再稼働を進める。「例外中の例外」だった老朽原発の稼働も既定路線とする。
  審査にあたった原子力規制委員長は、いみじくも「いくら投資しても動かしたいというなら、40年だから(廃炉)ということではな  い」と発言した。

  原発1基を動かすとひと月で数十億円が浮く。だから安全対策に千数百億円かかっても電力会社は老朽原発を動かす。
  庶民の感覚とは遠い、大企業の経済の論理だ。

  それに、老朽だろうとなかろうと、原発を動かせば使用済み核燃料がたまる。ここからプルトニウムを取り出し再び燃料とする政策を政府は変えない。
  先週の発表では日本が持つプルトニウムは47・9トン。核爆弾5000発分以上。核武装の疑念を払拭(ふっしょく)するには消費しなくてはならない。
  そのために原発を動かす。するとまた使用済み核燃料がたまる。これを悪循環といわずしてなんというのだろう。

  花森は言う。
  「ぼくらの暮しと 企業の利益とが ぶつかったら 企業を倒す ということだ/ぼくらの暮しと 政府の考え方が ぶつかったら 政府を倒す ということだ
  それが ほんとうの<民主々義>だ」

  かんしゃく持ちの変人だったとしても、今を考える力がある。
  全文は日本ペンクラブのウェブサイト「電子文藝館」でも読める。(専門編集委員)


「一銭五厘の旗」とは、1070年10月の雑誌「暮しの手帳」に、同誌の編集者、花森安治氏の書かれた「詩」です。
目にした記憶はありましたが、すっかり忘れていました。凄いです!

以下にネットから全文を転載させていただきます。


見よぼくら一銭五厘の旗

美しい夜であった
もう 二度と 誰も あんな夜に会うことは ないのではないか
空は よくみがいたガラスのように透きとおっていた
空気は なにかが焼けているような香ばしいにおいがしていた
どの家も どの建物もつけられるだけの電灯をつけていた
それが 焼け跡をとおして一面にちりばめられていた
昭和20年8月15日
あの夜
もう空襲はなかった
もう戦争は すんだ
まるで うそみたいだった
なんだか ばかみたいだった
へらへらとわらうと 涙がでてきた
 
どの夜も 着のみ着のままで眠った
枕許には 靴と 雑のうと 防空頭巾を
並べておいた
靴は 底がへって 雨がふると水がしみこんだが ほかに靴はなかった
雑のうの中には すこしのいり豆と三角巾とヨードチンキが入っていた
夜が明けると 靴をはいて 雑のうを肩からかけて 出かけた
そのうち 電車も汽車も 動かなくなった
何時間も歩いて 職場へいった
そして また何時間も歩いて家に帰ってきた
家に近づくと くじびきのくじをひらくときのように すこし心がさわいだ
召集令状が 来ている
でなければ
その夜 家が空襲で焼ける
どちらでもなく また夜が明けると
また何時間も歩いて 職場へいった
死ぬような気はしなかった
しかし いつまで生きるのか
見当はつかなかった
確実に夜が明け 確実に日が沈んだ
じぶんの生涯のなかで いつか
戦争が終るかもしれない などとは
夢にも考えなかった
 
その戦争が すんだ
戦争がない ということは
それは ほんのちょっとしたことだった
たとえば 夜になると 電灯のスイッチをひねる ということだった
たとえば ねるときには ねまきに着かえて眠るということだった
生きるということは 生きて暮すということは そんなことだったのだ
戦争には敗けた しかし
戦争のないことは すばらしかった
 
軍隊というところは ものごとを
おそろしく はっきりさせるところだ
星一つの二等兵のころ 教育掛りの軍曹が 突如として どなった
貴様らの代りは 一銭五厘で来る
軍馬は そうはいかんぞ
聞いたとたん あっ気にとられた
しばらくして むらむらと腹が立った
そのころ 葉書は一銭五厘だった
兵隊は 一銭五厘の葉書で いくらでも
召集できる という意味だった
(じっさいには一銭五厘もかからなかったが……)
しかし いくら腹が立っても どうすることもできなかった
そうか ぼくらは一銭五厘か
そうだったのか
〈草莽(そうもう)の臣〉
〈陛下の赤子(せきし)〉
〈醜(しこ)の御楯(みたて)〉
つまりは
〈一銭五厘〉
ということだったのか
そういえば どなっている軍曹も 一銭五厘なのだ 
一銭五厘が 一銭五厘を
どなったり なぐったりしている
もちろん この一銭五厘は この軍曹の
発明ではない
軍隊というところは 北海道の部隊も
鹿児島の部隊も おなじ冗談を おなじアクセントで 言い合っているところだ
星二つの一等兵になって前線へ送りだされたら 着いたその日に 聞かされたのが きさまら一銭五厘 だった
陸軍病院へ入ったら こんどは各国おくになまりの一銭五厘を聞かされた
 
考えてみれば すこしまえまで
貴様ら虫けらめ だった
寄らしむべし知らしむべからず だった
しぼれば しぼるほど出る だった
明治ご一新になって それがそう簡単に
変わるわけはなかった
大正になったからといって それがそう簡単に変わるわけはなかった
富山の一銭五厘の女房どもが むしろ旗を立てて 米騒動に火をつけ 神戸の川崎造船所の一銭五厘が同盟罷業をやって
馬に乗った一銭五厘のサーベルに蹴散らされた
昭和になった
だからといって それがそう簡単に変わるわけはないだろう
満洲事変 支那事変 大東亜戦争
貴様らの代りは 一銭五厘で来るぞ と
どなられながら 一銭五厘は戦場をくたくたになって歩いた へとへとになって
眠った
一銭五厘は 死んだ
一銭五厘は けがをした 片わになった
一銭五厘を べつの名で言ってみようか
<庶民>
ぼくらだ 君らだ
 
あの八月十五日から
数週間 数カ月 数年
ぼくらは いつも腹をへらしながら
栄養失調で 道傍でもどこでも すぐに
しゃがみこみ 坐りこみながら
買い出し列車にぶらさがりながら
頭のほうは まるで熱に浮かされたように 上ずって 昂奮していた
 
戦争は もうすんだのだ
もう ぼくらの生きているあいだには
戦争はないだろう
ぼくらは もう二度と召集されることは
ないだろう
敗けた日本は どうなるのだろう
どうなるのかしらないが
敗けて よかった
あのまま 敗けないで 戦争がつづいていたら
ぼくらは 死ぬまで
戦死するか
空襲で焼け死ぬか
飢えて死ぬか
とにかく死ぬまで 貴様らの代りは
一銭五厘でくる とどなられて おどおどと暮していなければならなかった
敗けてよかった
それとも あれは幻覚だったのか
ぼくらにとって
日本にとって
あれは 幻覚の時代だったのか
あの数週間 あの数カ月 あの数年
おまわりさんは にこにこして ぼくらを もしもし ちょっと といった
あなたはね といった
ぼくらは 主人で おまわりさんは
家来だった
役所へゆくと みんな にこにこ笑って
かしこまりました なんとかしましょう
といった
申し訳ありません だめでしたといった
ぼくらが主人で 役所は ぼくらの家来だった
焼け跡のガラクタの上に ふわりふわりと 七色の雲が たなびいていた
これからは 文化国家になります と
総理大臣も にこにこ笑っていた
文化国家としては まず国立劇場の立派なのを建てることです と大臣も にこにこ笑っていた
電車は 窓ガラスの代りに ベニヤ板を
打ちつけて 走っていた
ぼくらは ベニヤ板がないから 窓には
いろんな紙を何枚も貼り合せた
ぼくらは主人で 大臣は ぼくらの家来だった
そういえば なるほどあれは幻覚だった
主人が まだ壕舎に住んでいたのに
家来たちは 大きな顔をして キャバレーで遊んでいた
 
いま 日本中いたるところの 倉庫や
物置きや ロッカーや 土蔵や
押入れや トランクや 金庫や 行李の隅っこのほうに
ねじまがって すりへり 凹み 欠け
おしつぶされ ひびが入り 錆びついた
〈主権在民〉とか〈民主々義〉といった
言葉のかけらが
割れたフラフープや 手のとれただっこちゃんなどといっしょに つっこまれたきりになっているはずだ
(過ぎ去りし かの幻覚の日の おもい出よ)
いつのまにか 気がついてみると
おまわりさんは 笑顔を見せなくなっている
おいおい とぼくらを呼び
おいこら 貴様 とどなっている
役所へゆくと みんな むつかしい顔をして いったい何の用かね といい
そんなことを ここへ言いにきてもダメじゃないか と そっぽをむく
そういえば 内閣総理大臣閣下の
にこやかな笑顔を 最後に見たのは
あれは いつだったろう
もう〈文化国家〉などと たわけたことはいわなくなった
(たぶん 国立劇場ができたからかもしれない)
そのかわり 高度成長とか 大国とか
GNPとか そんな言葉を やたらに
まきちらしている
物価が上って 困ります といえば
その代り 賃金も上っているではないかといい
(まったくだ)
住宅で苦しんでいます といえば
愛し合っていたら 四帖半も天国だ と
いい
(まったくだ)
自衛隊は どんどん大きくなっているみたいで 気になりますといえば
みずから国をまもる気慨を持て という
(まったく かな)
どうして こんなことになったのだろう
政治がわるいのか
社会がわるいのか
マスコミがわるいのか
文部省がわるいのか
駅の改札掛がわるいのか
テレビのCMがわるいのか
となりのおっさんがわるいのか
もしも それだったら どんなに気がらくだろう
政治や社会やマスコミや文部省や
駅の改札掛やテレビのCMや
となりのおっさんたちに
トンガリ帽子をかぶせ トラックにのせて 町中ひっぱりまわせば
それで気がすむというものだ
それが じっさいは どうやら そうでないから 困るのだ
 
書く手もにぶるが わるいのは あのチョンマゲの野郎だ
あの野郎が ぼくの心に住んでいるのだ
(水虫みたいな奴だ)
おまわりさんが おいこら といったとき おいこら とは誰に向っていっているのだ といえばよかったのだ
それを 心の中のチョンマゲ野郎が
しきりに袖をひいて 目くばせする
(そんなことをいうと 損するぜ)
役人が そんなこといったってダメだといったとき お前の月給は 誰が払っているのだ といえばよかったのだ
それを 心の中のチョンマゲ野郎が
目くばせして とめたのだ
あれは 戦車じゃない 特車じゃ と
葉巻をくわえた総理大臣がいったとき
ほんとは あのとき
家来の分際で 主人をバカにするな といえばよかったのだ
ほんとは 言いたかった
それを チョンマゲ野郎が よせよせととめたのだ
そして いまごろになって
あれは 幻覚だったのか
どうして こんなことになったのか
などと 白ばくれているのだ
ザマはない
おやじも おふくろも
じいさんも ばあさんも
ひいじいさんも ひいばあさんも
そのまたじいさんも ばあさんも
先祖代々 きさまら 土ン百姓といわれ
きさまら 町人の分際で といわれ
きさまら おなごは黙っておれといわれ
きさまら 虫けら同然だ といわれ
きさまらの代りは 一銭五厘で来る といわれて はいつくばって暮してきた
それが 戦争で ひどい目に合ったからといって 戦争にまけたからといって
そう変わるわけはなかったのだ
交番へ道をききに入るとき どういうわけか おどおどしてしまう
税務署へいくとき 税金を払うのはこっちだから もっと愛想よくしたらどうだ
といいたいのに どういうわけか おどおどして ハイ そうですか そうでしたね などと 
おどおどお世辞わらいをしてしまう
タクシーにのると どういうわけか
運転手の機嫌をとり
ラーメン屋に入ると どういうわけか
おねえちゃんに お世辞をいう
みんな 先祖代々
心に住みついたチョンマゲ野郎の仕業なのだ
言いわけをしているのではない
どうやら また ひょっとしたら
新しい幻覚の時代が はじまっている
公害さわぎだ
こんどこそは このチョンマゲ野郎を
のさばらせるわけにはいかないのだ
こんどこそ ぼくら どうしても
言いたいことを はっきり言うのだ
 
工場の廃液なら 水俣病からでも もうずいぶんの年月になる
ヘドロだって いまに始まったことではない
自動車の排気ガスなど むしろ耳にタコができるくらい 聞かされた
それが まるで 足下に火がついたみたいに 突如として さわぎ出した
ぼくらとしては アレヨアレヨだ
まさか 光化学スモッグで 女学生バッタバッタ にびっくり仰天したわけでも
あるまいが それなら一体 これは どういうわけだ
けっきょくは 幻覚の時代だったが
あの八月十五日からの 数週間 数カ月
数年は ぼくら心底からうれしかった
(それがチョンマゲ根性のために
もとのモクアミになってしまったが)
それにくらべて こんどの公害さわぎは
なんだか様子がちがう
どうも スッキリしない
政府が本気なら どうして 自動車の生産を中止しないのだ
どうして いま動いている自動車の 使用制限をしないのだ
どうして 要りもしない若者に あの手この手で クルマを売りつけるのを
だまってみているのだ
チクロを作るのをやめさせるのなら
自動車を作るのも やめさせるべきだ
いったい 人間を運ぶのに 自動車ぐらい 効率のわるい道具はない
どうして 自動車に代わる もっと合理的な道具を 開発しないのだ
(政府とかけて 何と解く
そば屋の釜と解く
心は言う(湯)ばかり)
 
一証券会社が 倒産しそうになったとき
政府は 全力を上げて これを救済したひとりの家族が マンション会社にだまされたとき 政府は眉一つ動かさない
もちろん リクツは どうにでもつくし
考え方だって いく通りもある
しかし 証券会社は救わねばならぬが
一個人がどうなろうとかまわない
という式の考え方では 公害問題を処理できるはずはない
公害をつきつめてゆくと
証券会社どころではない 倒してならない大企業ばかりだからだ
その大企業をどうするのだ
ぼくらは 権利ばかり主張して
なすべき義務を果さない
戦後のわるい風習だ とおっしゃる
(まったくだ)
しかし 戦前も はるか明治のはじめから 戦後のいまも
必要以上に 横車を押してでも 権利を主張しつづけ その反面 なすべき義務を怠りっぱなしで来たのは
大企業と 歴代の政府ではないのか
 
さて ぼくらは もう一度
倉庫や 物置きや 机の引出しの隅から
おしまげられたり ねじれたりして
錆びついている〈民主々義〉を 探しだしてきて 錆びをおとし 部品を集め
しっかり 組みたてる
民主々義の〈民〉は 庶民の民だ
ぼくらの暮しを なによりも第一にするということだ
ぼくらの暮しと 企業の利益とが ぶつかったら 企業を倒す ということだ
ぼくらの暮しと 政府の考え方が ぶつかったら 政府を倒す ということだ
それが ほんとうの〈民主々義〉だ
政府が 本当であろうとなかろうと
今度また ぼくらが うじゃじゃけて見ているだけだったら
七十年代も また〈幻覚の時代〉になってしまう
そうなったら 今度はもう おしまいだ
 
今度は どんなことがあっても
ぼくらは言う
困まることを はっきり言う
人間が 集まって暮すための ぎりぎりの限界というものがある
ぼくらは 最近それを越えてしまった
それは テレビができた頃からか
新幹線が できた頃からか
電車をやめて 歩道橋をつけた頃からか
とにかく 限界をこえてしまった
ひとまず その限界まで戻ろう
戻らなければ 人間全体が おしまいだ
企業よ そんなにゼニをもうけて
どうしようというのだ
なんのために 生きているのだ
 
今度こそ ぼくらは言う
困まることを 困まるとはっきり言う
葉書だ 七円だ
ぼくらの代りは 一銭五厘のハガキで
来るのだそうだ
よろしい 一銭五厘が今は七円だ
七円のハガキに 困まることをはっきり書いて出す 何通でも じぶんの言葉で
はっきり書く
お仕着せの言葉を 口うつしにくり返して ゾロゾロ歩くのは もうけっこう
ぼくらは 下手でも まずい字でも
じぶんの言葉で 困まります やめて下さい とはっきり書く
七円のハガキに 何通でも書く
 
ぽくらは ぼくらの旗を立てる
ぼくらの旗は 借りてきた旗ではない
ぼくらの旗のいろは
赤ではない 黒ではない もちろん
白ではない 黄でも緑でも青でもない
ぼくらの旗は こじき旗だ
ぼろ布端布(はぎれ)をつなぎ合せた 暮しの旗だ
ぼくらは 家ごとに その旗を 物干し台や屋根に立てる
見よ
世界ではじめての ぼくら庶民の旗だ
ぼくら こんどは後(あと)へひかない
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梅雨明け・・・夏本番

2016-07-30 10:45:52 | 近時雑感


数日前に梅雨明けの「宣言」があり、以来、連日夏空が続いています。今、遠く南の方に入道雲が現れ始めました。
幸い、南北の開口を開けておくと、風がよく通り、「暑い!」という感じにはなりません。今のところ、エアコンは動かさずに済んでいます。

この暑さを口実に、ここしばらくブログの更新を休ませていただこうと考えております。「夏休み」です。ご了承ください。
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復刻・「筑波通信」―7   「峠」について  

2016-07-25 11:57:01 | 復刻・筑波通信

草繁る


「峠」について                    1982年1月1日刊 の復刻
   復刻・編集にあたり相当整理しましたが、かなり長くなります。ご容赦ください。

昨年の春以来(1981年の春です)この三月に卒業してゆく学生の数人が、協同して鉄道の枕木を使って山小屋を造っている。これは、彼らの「卒業設計」。資金集めから木材の加工・組立てまで全て自分たちでやるのだから、これは、教室で聞く下手な授業などより、数等よい学習になったようである。また、おそらくこれは、彼らにとって、大学時代の最も充実した「体験」として心に刻まれたものと思う。
彼らの山小屋の現場は、今ごろは雪の中。

信州の中央部、西に松本、北に上田・小諸、北東に佐久、南に諏訪、少し離れて南東に甲府の街々があり、これらの街々のある平地・盆地に囲まれる形で一連の山塊がある。西から言うと、美ヶ原霧ヶ峰蓼科そして八ヶ岳へと連なる山塊であり、観光地として有名な一帯でもある。
   「日本地図帳」を開きながらお読みいただければ幸いです。
彼らの「現場」は、この蓼科山中、大門峠という峠を少し北に下った標高1400mに近い地点に在る。
この峠を含め、この山系には、その南と北に展開する街々を結ぶ山越えの道が、古来数多く開かれていたらしい。古代の東山道もこの山系を横切っていたことがあるようだし、近世の中山道も諏訪から佐久へこの山中を縫っている(現在の国道142号は、その道筋に従っている)。つまり、この山中には、既に廃れたものも含め、数多くの峠が並んでいたのである。その多さは他に類を見ない。
この一帯に、私は以前から興味があった。ここは高冷・寒冷の地。何故こんなところに道を開いたのか、不思議でならなかったからだ。そしてまた、この山系の麓の街々のあるところより一段上がった斜面、特に南面の高原状の一帯には(今は開拓地や別荘地になっているが)縄文期をはじめとする住居址、集落跡:遺跡群が所狭しとばかりに密集していて、これも私の興味をそそるものであった。
何故、この高冷・寒冷の地に?
そして、諏訪に生まれ諏訪を愛する考古学者:藤森栄一氏の諸著作でそのあたりのことについていろいろと教えていただき、かねてから実際に訪ねてみたいと思っていたのである。そして昨年の夏、彼の学生諸君の山小屋を見るついでに、この山系の南北を、十分とは言えないまでも歩き回り、貴重な体験を得ることができた。そこで、以下に、その際「峠」について考えたことを書くことにする。

諏訪に暮す人が、「ごく普通に」小諸・佐久・上田あるいは長野に行こうとする場合、今は鉄道を使うことになろう。しかし、鉄道は、地図で分るように、これらの山々の縁を回って走っているから、地図の上の直線距離では直ぐそこでも、かなりの時間を要するはずで、「遥か山の彼方の遠い町へ行く感じ」を抱くはずである。概して、今の鉄道は「中央」と「地方」を結ぶには非常に便がよいけれども、地方の街々を結ぶことに関しては、一時よりも便が悪くなっており、東京から長野に行くよりも、諏訪から長野に行く方が時間がかかるかもしれない。また、自動車を使うにしても、主要国道(国道20号、18号、19号など)も大体鉄道と並行しているから、結構時間がかかる。
主要な鉄道も主要道も、「地方」の街々を結ぶことよりも「地方」を「中央」に結びつけることに意が注がれているから、山の向うとこちら側とをつなぐことなどは念頭にはなく、もし注ぐことがあったとすれば、それは、そうすることがそのときの「中央」にとって「都合がよい」からだと言っても過言ではない。「中央」が近畿にあった古代には「東山道」は東国への近道だったし、江戸期の「中山道」も江戸と近畿を結ぶ近道であった。しかし、「中央」が東京になってからの鉄道敷設では、この山越えの部分は避けられ、山の両側に、それぞれ、東京長野東京松本を結ぶ鉄道が敷かれることになる。それは、山越えの鉄道が技術的に難しかったからではないはずである。なぜなら、鉄道の碓氷峠の山越えを見れば明らかである。
時の政府が、中山道全線の鉄道化の必要を認めなかったのである。その結果、山系の南北は鉄道とは無縁のままとなり、「山の向こうとこちら」になってしまったのである。先に「ごく普通に行く」となるとと書いたが、この「ごく普通」の状態は、鉄道敷設後の話であり、鉄道敷設以前は、「山越え」が「ごく普通」だったに違いなく、当然そのときは「山の向うとこちら」という感覚などなく、両側はもっと密で近しい関係にあったと考えられる。
つまり、鉄道敷設は地域の人びとの関係まで一変させてしまったのである。誰もわざわざ山越えをして上田へ行こうなどと思わなくなってしまった。人びとは歩かなくなった。

人びとの往来が減り、人びとの往来に拠っていた町の生活が、言わばその活動を停止し「変化」が停まってしまった(停まらざるを得なくなった)その道筋の街々が、最近になって、「伝統的街並」と称されてもてはやされている。
確かに、鉄道敷設後に寂れてしまった中山道沿いの街々には、歩いてみると分るが、今現に栄えている街々にはない心和むものがあるのは事実である。
しかし、それらの街並みをそのように在らしめた中山道は、既にその役割を失ってしまっているのも事実である。つまり、それらの街々は、中山道に拠らない生活を、その昔中山道に拠って造ってしまった「つくり」の中で、それを変えることもできず、言わば止むを得ず営んでいるのである。
中山道華やかなりし頃、活気あふれる町筋の家々は、頻繁に建て替えも行われていたに違いない。そのとき街の人びとは、先人・先代のやったことを単に順守するのではなく、もらうものはもらい、捨てるものは捨てる、つまり彼らの主体的判断でことにあたったはずである。それは、ただ受け継ぐという安易な営みではなかったのだ。
すなわち、今もてはやされている「伝統的街並」とは、そういう言わば人びとのダイナミックな活動が、鉄道の敷設にともない、突然停止を余儀なくされ、言うなれば時間が停まってしまった時の姿に他ならないのである。
昨今盛んに言われる「街並保存」の動きに、私が今一つ納得できないのは、それゆえである。一つには、そういう「保存運動」というのが、大抵(鉄道で訪れた)「よそ者」の発想であり、そこで生活・暮している人たちのことが念頭にないように思えるからである。それは、そこで生活・暮す人たちに、「時間を停めて生きろ」と言うに等しい。そのような僭越なことが許されてよいのか。
そして更に、そういった「旧いものを保存することで満足する」、その安易な考え方に同調できないからである。
確かに、こういった心和む街並がどんどん消えてゆく。そして、心和まない、むしろ逆なでするようなものになってきている。それとの対比の中で「旧きもののよさ」を見出したからといって、それらを保存すれば済むというものではあるまい。まして、それらを保存すれば、「現代のやりかた」への免罪符になるわけでもあるまい。
このような「よいものを遺しておけばよい」とするような「単純な」考えかたは、今の街並を心和まないものにしている「つくりかた・考えかた」の裏返し、つまり「構造」が全く同じであると、私には思える

彼等には、「街々や街並の形成:生成のダイナミズム」が全く見えていない。そこに生き・暮した人びとの、そのときどきの主体的な自らの感性に拠る判断の積層・蓄積のうちにそれらが成ったことが見えず、その成因を、ただ徒らに(変えることもできずに止むを得ずそのまま遺ってしまった)目の前に在る「もの」、その「ものの形:造形そのもの」に求めようとしているのだ。

敢えて言えば、人間の歴史は、まさに「つくりかえの歴史」であると言ってよいだろう。
ゆえに、私たちが「保存」しなければならないのは、出来上がった結果としての「もの」そのものではなく、そのような「結果」をあらしめた「つくりかえの論理:すなわちものづくりの論理」、そしてそれを支えてきた「感性の存在」であり、その「存在」を保証することである。そうでなければ、今私たちがやることは、決してその「よき旧きもの」以上のものには成り得まい。そして、そうでなければ、「旧きよきものを保存する」ことは、単なる骨董趣味と何ら変りないことになってしまう。

先月の初め(1981年12月初め)、学生たちと桂離宮を見学した。ちょうど修復中で、檜皮葺きの屋根も新しくなって、それまでの見慣れたいわゆる古色とは全く違って見えた。おそらく建設当初はこうだったのだろう。
この姿を見て、ある人たち:同業の教師で、いわゆるデザイナーを自負する方だったが:の「感想」は、「まわりと馴染んでなく、《元通りになるのに》!!どれだけ時間がかかるだろう」というものであった。
私に言わせれば、この姿が「元通り」なのだ、いや、木材も含めすべての材料が「新しい色」をしていたとき、それが「元通り」なのだ。この山荘を実際に使ったのは、たかだか数十年だから、その時この建物はいわゆる「古色」にはなっていなかったはずだし、第一、造営者も三百年後の《よさ》を思って造ったわけでもあるまい。
この人たちのつぶやきを小耳にはさんで、私は、、《桂離宮が素晴らしい》と言う人たちは、「何をもって素晴らしい」と言っているのか、その「《素晴らしい》のなかみ」を疑いたくなった。今、自分が(勝手に)「いい」と思った諸点、それをこれを造った人たちも求めていた、そう勝手に思い込んでいるのだ。
ここには、「誤り」が二重に積み重なっている。そして、そうか、こういう見かたで「教育」が行なわれてきたのだな、これは大変なことだ、と改めてことの重大さに気付かされたのである。
何故このような「事態」になるのか?
端的に言えば、ものごとを what と how だけでしか問わなくなっているからではないだろうか。
すなわち、本来、ものごとは 5W1H すべての疑問詞をもって問うべきなのに、問を「省略」しているのである。
今触れてきた「伝統的街並保存のはなし」も「桂離宮のはなし」も、そこでは when where who why の問いが欠落し、あるのは、what と how だけである。はたして、それだけの視点・問いで、人間の営為を語れるか、ものが造れるか?否である。
「旧きよき街並」を実際に造ってきた人たちや桂離宮造営に関わった人たちは、当たり前のこととして、これらの全ての「問」でものごとにあたっていたはずである。それを忘れてしまったのは、今の私たちだけ。その結果、「それはそれ、昔は昔、今は今・・・」という「発想」が当たり前になってしまったのだ。
旧いものも新しいものも、このすべての「問」で問うた時、初めて、そして当然のこととして、その「本当の姿」、」「それが存在する意味」が見えてくるのではなかろうか。私が旧きものに学ぶのは、少なくとも、そして必ずしも、その「形」ではない。私が学ぶのは、それらを造るのに関わった人びとの5W1Hによる身の処し方なのだ。もし保存が必要だとしたら、彼らの「身の処し方」をこそ保存しなければなるまい。


敷石の上で一休みしているシオカラトンボ

峠の話に戻ろう。
先に、山越えの道が鉄道の開通にともない廃れてしまった、と書いた。しかし、昨今、この廃れた道が、装いを新たに復活しだしたのである。専ら歩くしかなく、まったく鉄道に比べ歩が悪かった峠越えの山道が、自動車の普及にともない、見直されてきたのである。そして今、実際に車で走ってみて山の「こちら」と「向う」が驚くほど近いということを改めて発見する。だから、徒歩が全てであった時代、山の向うとこちらは、鉄道敷設後生まれてしまった遥か山の向こう側という感覚とは全く異なり、相当に「近しい」間柄であった、と考えるのが自然だろう。
今、これらの峠道のいくつかは、舗装道路になっているが、その道筋はほとんど古来の道を踏襲している。こういう道筋を見つけ出した先人たちの営みには、ただ驚くばかりである。彼らは、私たちの時代とは違い「正確な地形図」など持っていなかった。今の道路は、おそらく「正確な地形図」の上で策定されるのだろうが、彼らは違うのだ。道のつくられ方:策定法が、根本的に異なると言ってよいだろう。
どこが異なるのかについては、山小屋づくりの学生たちの「経験談」が明らかのしてくれる。
今話題にしている山系の蓼科から美ヶ原にかけて、新規に観光道路が造られているが、そこを走った学生たち曰く。
    古来の道を踏襲したと思われる道では、たとえば、蓼科山は、多少振れることはあっても、常に前方に見え隠れするのだが、
    新しい観光道路では一定せず、突然後方に見えたりして、どこへ向っているのか分らなくなり(現在居るところが分らなくなり)
    「道路標識」に頼るしかなかった・・・。

では、この山越えの最短ルートはいかにして造られたのだろうか。おそらく、中山道などの主要道が生まれる以前から、このようなルートはいくつもあったに違いない。主要道は、その中から選ばれて整備されたものと思われる。
こういうルートを、地図・地形図のない時代に、人びとはいかにして見付けたのか?
これについては、諸説ある。
現在主に人びとが暮している低地よりも一段高い高原状の一帯に、縄文期の人びとの居住地が在った。彼らは、背後に拡がる山地一帯を生活圏としていた。そういう山地が在るがゆえに、人びとはそこに暮したのだ。ゆえに、一帯は「彼らの(脳裡の)地図」に組み込まれていた。
彼らは、はるか山中に貴重品・必需品の黒曜石の鉱脈を発見した。この地産の黒曜石が山を越えた各地で見付かっているから、そいう地を結ぶ道も既に在ったと考えられている。と言うより、それぞれの地を拠点とする生活圏が互いに接していて、そこを黒曜石が通過していった、と言った方が適切かもしれない。そして、そういったルートが時を越えて受け継がれてきた、というのが主要「街道」誕生の有力な解釈である(もちろん、途中で廃れてしまったルートもあるに違いない)。
また、この一帯は、低地農業主体になる以前から盛大に牧畜がおこなわれたらしい。この地の他、信州から上州・甲州の山地一帯は馬の産地で、各地に遺る「〇〇牧」などという地名にその名残がうかがえる。
すなわち、有史以前から、この山地には常に「人びとの暮し」が在り、それゆえ、有史以前からの「道の遺産」も継承されてきた、と言うことができるだろう。
これらのルートは、どういうところを通っているか。
こういう山地の古来からの道のルートのとりかたには、いくつかのやりかたがある。おそらくその方策は、現地に立って道を探るにあたっては、今でも通用するだろう。
一つは、等高線に沿って歩を進める、いわゆるトラバースしてゆくやりかたで、これは、各地の山村で集落間を結ぶ道によく見かける。距離は長くなるが、歩行が楽になる。特に稲作主体の集落になってからは、集落は大体等高に並ぶから(水田る水の得やすい場所は、大体等高に並ぶ)道も当然等高線沿いになるのである(これは、実際に山間地の集落を訪れたり、地形図を詳しく見ると分る)。
因みに、関東平野の北辺を通っていた東山道を復元してみると、赤城山麓の、ほぼ等高線上に点在する自然湧水に拠る集落:村々を繋ぐ形で走っているという。
   註 このあたりについては、10年ほど前に、「居住の条件:人はどこに住みだしたか」で、他の場所を例に簡潔に書いています。

もう一つは、高低を詰める場合の道で、これには、谷筋道尾根(筋)道がある。古来の道で、斜面を《やみくもに》登り詰めるような道のつくりかたは、先ずないと言ってよいのではないか。私が知っている唯一の例は、武田信玄上杉攻略のために造ったという甲州から善光寺平へ向う軍事用直線道路だけである。「信玄棒道」と呼ばれ今話題にしている山系の一画にその跡が遺っている。地形図で見ると、全く呆れるほど、みごとに最短距離を強引に突っ走っている。これは、例外だろう。
   註 このあたりについても、10年ほど前に「道・・・どのように生まれるのか」で触れています。

山越えの道では、尾根筋道よりも谷筋道の方が、圧倒的に多そうだ。考えてみれば当然かもしれない。
実際に現地に行って山々を遠望すると、山越えの道のの位置をおおよそ比定することができる。大体そこは山々の「くびれ」の部分である。いわゆる「鞍部」である。(外国語でに相当する語を探すと、この鞍部を意味する col が出てくる。外国でも、道はそういうところで山を越えるのだ。他には、外国語では pass という語がに相当するようだ。
この「くびれ」の部分には、必ず川が切り込んでいる。逆に言えば、川はそのあたりから始まっている(流れ出している)。しかも、その鞍部を境にして両側に必ず川が在ると言ってよい。これは全くの「自然現象」。すなわち、山越えの谷筋道は、両側から谷川沿いに登り詰め、最後にこの鞍部で顔を合わせているのである。
水の性質上、川は低地へ向けて最短距離を流れ下る。ゆえに、谷筋道は、通ることができるならば、峠:鞍部に向う最も効率のよい道筋なのである。第一、谷川という目印があるから、支流を見間違えなければ迷う恐れも少ない。
おそらく、そのような谷筋道の中から、最も歩きやすいルートが、道:街道として確立していったのだろう。
また、そういう河川が平地に出る辺りには、扇状地などの台地が形成されるが、そこは人が住み着く絶好の場所でもあった。今の大きな町は、大体そのような場所に在る。そういう場所に生活・暮した人びとにとっては、農業が生業の主体であったとしても、背後の谷筋を遡った山地もまた、彼らの手の内に在ったと考えられる。つまり、一帯は彼らの「私の地図」に組み込まれていたはずである。
私たちは、とかく、山のこちらの町と向うの町を結ぶ最短ルートの道が、「後になって、意図的に造られた」かのように考えがちだが、そうではなく、それぞれの側に人びとが、それぞれ地の理に従って生活・暮しを確立していった結果、期せずして、鞍部:峠で両者が顔を合わせたに過ぎない、と考えた方が理に適っているだろう。そして、両側の生活圏相互の交流が盛んになれば、その峠道も街道として整えられる。そしてまた、道筋の村や町は、農業だけではなく「街道」に拠った生活・暮しを営む村々、町々へと変っていった、多分、これが峠道の成り立ちの「筋書き」と言える。
先に触れた「信玄棒道」が現在のような精確な地図のない時代に造り得たのも、その土地に住み着いた人びとの生活圏をよく知り、それを繋ぎ合わせてできる全体像を、目の前に見えるものを基に想定できる鋭敏な感性を人びとが持っていたからこそ可能だったのである。
彼らは、正確な地図、各種の情報を持っている私たちよりも、数等優れた「ものの見かた、捉えかた:感性」を身に着けていた
こういう「感性」を、私たちは、何時、何処に置き忘れてきてしまったのだろうか。しかも、現実は、こういう「感性」を失ってしまった人たちが、いい街並だ、桂離宮は素晴らしい、などとその保存を説き、それどころか、人びとの生活・暮しに関りをもつものを造ったりしているのである・・・。

最近は非常に精密な航空写真(空中写真と呼ぶらしい)が撮れ、このごろの地形図は、それが基になっているらしい。それを見ると、古来から継承されたと思われる道と、最近造られた道とを直ちに見分けることができる。地形・地勢と無関係に造られている道と、そうでない地理に応じている道とが際立って見えてくる。もちろん、前者が最近の道である。最近の道は、地理から考えて極めて「無理な」形状を示すが、古来の道は言わば淡々と地形・地勢のなかに「通れる」場所を探し、選んで走っていて、ゆえに地形・地勢にすっかり馴染んで、道だけが浮きだって見えるようなことがない。先日、人工衛星から撮った関東北部から信越にかけての地域の写真を手に入れたが、そのあまりの見事さに驚嘆した。住めそうな場所という場所には、いかなる山あいといえども人が住み着いていると言ってよく、それらを結んで非常に自然な形で道が在る。そこから窺える居住地域とそうでない地域のモザイク、それらを結ぶ道の網目、その「合理性」は、現代の諸々の計画を圧倒しており、現代のそれは、古代の営為の跡に比べれば、さながら「ひっかき傷」のようなものでしかない。
それは、「大地という自然が備え持つ合理性」に対して、「科学技術という偏狭な合理性」が対抗しようとした「手負い傷」
に見えた。
古来、「大地に拠って生活・暮した人びと」は、「大地の備え持つ合理性」を知らないまま(知ろうとしないまま)、大地に手を付けるような無思慮・無謀なことは、やってこなかったのだ。



ところで、ここで何度も用いてきた「峠」という字は、いわゆる「国字」、すなわち日本で創られた文字である。峠的な地形が中国にないはずがないから、彼らはそういう場所にどういう字をあてるのか興味があり、中国を訪れたとき、中国人の通訳の方に訊ねてみた。ところが納得のゆく答が返ってこないのである。頭をひねっては、「頂」かなあな、どと私たちの持っているイメージにはぴったりこないような答しか戻ってこない。
結論的に言うと、「峠」に相当する字がないらしいのである。それは当然のことだ。もしもそのような字があったならば、国字が創られることはなかったはずだからである。
では、中國の人びとが、「峠」に対応する字を何故もっていないのだろうか?
いろいろ考えているうちに、もしかすると、私が「峠」という字に抱いていた観念が間違っていたのではないか、と思うようになった。
私は、「峠」を、道を登り切った所、そこから先は下る一方になる所、そういう地形的場所を示す「地形名称」と思っていたのだが、その字は、単なる形状を示すものではないのである。
峠的形状の場所に対する地形名称に、「たわ」とか「たるみ」というのがある。これは、鞍部:col に相応する。
   相模湖の近くに「おおだるみ峠」と呼ばれる峠がある。大垂水峠と書いたと思う。
だから、地形的名称ならば、あえて「峠」という字を創らなくてもよいだろう。
そして、峠の場所を地図や実地を見ていて思い至ったのは、この字は、地形そのものを指しているのではなく、そのような地形的な場所が有するいわば「生活的な意味」が込められているのではないか、ということであった。
端的に言えば、「二つの生活圏の接点」を意味するのではないか。「峠を越える」ということは、暮し慣れた所を離れ、慣れない違う場所に行くということだ。人びとは、峠に神を祀った。人びとは生活圏の境界に立ち、それぞれの生活圏の神に、旅の前途の安全を願ったのである。
峠を境に二つの生活圏・文化圏が隣り合う。それぞれは、それぞれが独自であって、峠越しに交流する。交流で得たものを、それぞれがそれぞれなりに消化し成長してゆく。だから、峠の両側は、似ているようで異なっている

思い出して柳田国男の「地名の研究」を読み返してみた。そこに、「峠」を「ひょう」「ひょ」と読む所があることが紹介されていた。
柳田の解釈は、それは、境・境界を意味する「」の字の「音読み」ではないかという。峠的な地形が「村界」であった、というのである。後になって、「ひょう」に新字の「峠」があてがわれ、読みだけが遺ったのではないかという解釈である。
   註 :①こずえ。高い枝。②すえ、はし。いただき。③しるし。めじるし、④まと。めあて。・・・(新漢和辞典) [追記25日11.50]
なぜ中国に「峠」に相応する字が存在しないのか?
彼の地では、峠的地形は、生活圏の境界ではなかった。
彼らの生活圏の境界は、そのような自然地形に拠ることはほとんどなく、境界は、自らが言わば「勝手に設定する」ものだった。それは、彼の国には確固とした城壁・市壁:囲障・囲壁が在るのに、日本にはない、彼の国の文化を積極的に採り入れても、囲壁は造ろうとはしなかったことにつながってくるはずである。
ゆえに、彼の国では、「峠」の字は不要だったのではなかろうか。一方、日本では、それを必要としたのである。




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大暑?!

2016-07-22 14:36:37 | 近時雑感


今日は大暑だそうです。暦の上では一年で一番暑い頃、を意味するとのこと。
学校も夏休みに入りました。
例年なら、その頃から夏の日照りが厳しくなるのですが、当地は、ここ数日も、涼しいというよりも肌寒い日の連続・・・。
天気図を見ても、夏をもたらす太平洋高気圧が見当たりません。「暑中お見舞い」という常用句も使えませんね。

冷夏?農作物は大丈夫なのか、心配です。
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梅雨寒

2016-07-16 11:06:46 | 近時雑感

合歓木
今日は朝から晴れ間が見えますが、昨日までの数日、当地は「涼しい」を通り越して、少し「肌寒い」という感じの毎日でした。
朝から陽射しはあるのですが、冷たい北東風が吹いています。今午前11時、少し雲が広がり始めています。夕立があるかも、という予報。

シリーズものの編集、続けていますが、少し進行ペースが落ちています。もう少し時間がかかりそうです。


17日追記。[17日10.05 追記]
今日も似たようなどんよりとした空模様です。しかし、朝の少し陽が射した頃、何と、ミンミンゼミが鳴きました、普通は、もっと暑い日が続いた夏の終りに鳴くのではなかったか、と少しばかり訝りました。
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梅雨の晴れ間

2016-07-10 10:30:25 | 近時雑感

次から次へと咲きほこるムクゲ。百日紅ももうじきでしょう。

今日は、昨日までの梅雨空が嘘のように、朝からよく晴れています。
梅雨空とはいえ、昨日の雨はひどくはなかった。
雨が激しく降った翌朝、道路にはたくさんのミミズが現れます。おそらく、土の中が雨で酸欠状態になり、空気を求めて土から出てくるものと思われます。土の農道なら何の問題もないのですが、結構舗装道路にも現われます。舗装道路の方が乾燥しているからかもしれません。しかし、乾燥しすぎです。たくさんのミミズが、土に戻れず、息絶えています。時には車にひかれているのもいます。行き場所の選択を間違ったのです。小さなカタツムリが歩いていることもあります。

今日はおそらくヒグラシが鳴くのではないでしょうか。夏はもう直ぐです。
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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-35

2016-07-09 09:18:12 | 「学」「科学」「研究」のありかた



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Collar₋rafter roofs
   Collar-rafter roof : 垂木 rafter で合掌をつくり、首の部分を繋梁 collar で繋ぎAの字形に組み、それを横並べして屋根を形づくる工法(後掲の図参照)

単純な Collar-rafter roof は、一般にごく初期かあるいはごく後期につくられていると一般に考えられてきた。実際、遺構は、二つの時期に明白に分かれて存在する。先に第5章でみたように、13世紀後期から14世紀初期にかけての遺構(多くは大きな石造建物に見られるが)は、比較的幅(梁間)の狭い付属棟に多い。Crown-post roof が14世紀に一般的になり、社会的に広まるにつれ、Collar-rafter roof が姿を消していったようである。table 2 (下に再掲)で分るように、14世紀後期以降の木造建物には、この形式の事例は極めて少ない。この形式の屋根は15世紀初頭から普及しだすが、それも、16世紀に入ると、全体の四分の一にまで減ってしまう。

このような現象の理由は、Collar-rafter roof 工法とそれを用いる建物の認知度と大きく関係している。この工法は、WEALDEN 形式の家屋には全く存在しない。cross wings を持つ家屋に見られることがあるが、多くは(調査された事例の72%程度) end-jettied 形式unjettied 形式の家屋に用いられている。下に載せる fig85 に示す EAST PACKHAMOLD WELL HOUSEBETHERSDENPIMPHURST FARMHOUSE や、用途がはっきりしない建物や複合形式の建物がその例である(それには、厨房と思われる例も含まれる)。
これらの多くは、規模が小さい。下にこのシリーズ「-26」に載せた 家屋の型式別の床面積を整理した表 fig67 を再掲します。

この表で分るように、WEALDEN 形式の家屋の地上階の面積は、時代によらず平均して80㎡程度である。一方、end-jettied 形式の家屋は、1406~75年には75㎡であるが、以後は64㎡程度に低減している。けれども、Collar-rafter roof の建物は、1475年以前は平均68㎡、以降は62㎡になるなど、時期によらずほぼ一定している。
このような違いは、梁を承ける壁の高さ:桁の高さ:で比べてみても同様である。梁を承ける壁の高さ:桁の高さ:を示したのがtable 4 である(下掲)。
この表は、母屋と cross wing :付属棟とに分けているが、Collar-rafter roof の建物は、母屋では全体の61%が3m以下であり、母屋と付属棟を合わせると、Collar-rafter roof の建物の34%は(この数字がどういう算定か分りません)4mよりも低く、総じて低いと見なしてよいだろう。4mを越える例は、134例中僅か7例に過ぎない。梁を承ける壁の高さ:桁の高さが高くなると、Collar-rafter roof 形式は急減するのである。



これらの図は、建設時期が遅いほど Collar-rafter roof は小さく、丈の低い建物に使われ、建物の規模とこの最も単純な形式の屋根の間に密接な相関があることを示している。更に、この形式が14世紀後期と15世紀初頭には建設例がないのは、建物の規模が直接的に関わっていると考えてよいだろう。この形式が一旦使われなくなった後、5・60年後に再び使われだしたなどということは考えにくい。おそらく、crown post を使える余裕のある裕福な人びとにとっても、その代替工法として重用されたのではないだろうか。
つまり、おそらく、この形式の工法 :Collar-rafter roof は実用的な建物、簡単な小さな建物に使われ続けたのである。この類の建物は、15世紀項は以前までは、少しではあるが建てられ続け、それとともに、Collar-rafter roof も生き永らえたのである。
Collar-rafter roof 工法は、多分、14世紀、15世紀初期を通して途切れることなく用いられたと考えられるが、現在、その後期の事例のみが僅かに遺っているに過ぎない。
                                                     この節 了
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      次回は、Collar-rafter roofs with crown struts の節の予定です。


筆者の読後の感想
二本の材を逆V形に組み合掌をつくるのは、木材で建物をつくる最も基本的で簡単な方法です。ただ、合掌の底辺:梁間:を大きくするには、材:垂木:を長く断面も太くする必要がありますが、それは、針葉樹に比べ広葉樹では至難の業です。しかし、それにあくまでもこだわる。その「熱意」はすごいと思わざるを得ません。
日本の場合、垂木だけで屋根形を構成する方法を早々とやめ、束と母屋桁が屋根の構成材の主役となります。それによって、垂木は細身で済み、屋根の形もいわば「自由」になった、と言えるかもしれません。
この彼我の「発想の転換点」が何に拠るのか、考えてみたいと思っています。
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