建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える                下山眞司        

シリーズ名を「カテゴリー」にしましたので、シリーズで載せた記事の全編へは、「カテゴリー」から直ぐにアクセスできます。

記念日?

2017-01-18 11:02:17 | その他


四年前(2013年)の今日は、脳出血で入院した日です。
その日も、今日と同じように冷え込んでいました。今朝、当地はは氷点下5℃を下回ったようです。
幸い、左手足の痺れの他には大きな後遺症もなく現在に至ってます。ただ、冷え・寒さは痺れにこたえます。
   発症~発症後の経緯については、以前「回帰の記」で書かせていただきました。
脳出血は、若くても(40代でも)発症することがあるとのこと、過信は禁物です。
   
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編集作業遅延のお知らせ

2017-01-16 09:55:31 | 復刻・筑波通信


ここ数日の冷え込みには参っています。今朝は氷点下5度くらいまで下った・・・。

「復刻・筑波通信」の続きを編集中ですが、まだ数日かかりそうです。ご了承ください。

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新年10日

2017-01-10 10:30:00 | その他


新しい年になって、早くも10日になりますが、何かをやったという実感のないまま過ぎた・・・。
新年早々風邪をひいたのが大きな理由です。
ここ数日の冷え込みに体がついて行けず、37度程度の微熱がなかなか抜けなかった・・・。
歳だなぁと、思わず思ってしまいます。
この7日で80歳になりました。意味のある80年だったかな?


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新年のご挨拶

2017-01-01 11:30:56 | その他

                        男神神社の杜の日の出

今年 八十路の入り口に到着します。元気です。
本年が安寧な歳であることを祈念します。
今年も宜しく!

今年から賀状は歳が改まってから書くことにいたしました。多分これから午後いっぱいかかるのでは・・・。


                        ホオジロたちの朝の語らい
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ご挨拶

2016-12-28 09:30:44 | その他

朝 霧
今年は、今回で終りとします。
一年間、お寄りいただき 有難うございました。

来る年の安寧を願っております。
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復刻・「筑波通信」―12    「地方」の重さ

2016-12-25 10:58:51 | 復刻・筑波通信

                                                                                        晩 秋

復刻・「筑波通信」―12   「地方」の重さ               「筑波通信」1982年9月 刊 の復刻

〇地図の上のアメリカ
アメリカ帰りの人から、向うの道路地図をいただいた。1ページが「わら半紙」より一まわり大きく、見開き2ページに一州が納まるようになっている。
日本の地図を見慣れている目には、いささか驚く点が多かった。
驚きの一つは、その国土の途方もない大きさについてである。その昔、カリフォルニア半島に日本列島が全部入ってしまうと教わって驚いたことがあるが、そのときは実感の裏付けを欠いた観念的なそれであったように思う。道路や街々の所在が細かく描きこまれたこの地図を見ていると、その巨大さが、あらためて日常的感覚で伝わってくる。
はじめは日本の地図を見るような感覚で眺めていたのだが、ふと気になって縮尺を調べてみた。なんと、そのほとんどが百万分の一、百五十万分の一!見開き二ページで一州をおさめるため、州ごとで縮尺が異なっている。日本の道路地図は大抵見開き二頁でわら半紙大(アメリカのそれのおよそ半分)、縮尺は大体四十万分の一。中高の学生用地図も見開き二頁がわら半紙大だが、そこにたとえば「関東・中部地方」が百五十万分の一で収まっていて、東は福島県、西は京都府あたりまで入っている。アメリカの一州がいかに大きいか・・・。
ページごとに縮尺が違うなんて不親切な編集だな、と最初は思ったのだが、考えてみれば、彼の地では、日本のように一日のうちに数ページにわたり移動するなどということがまずないのである(そういう場合は空路を使うのでは・・・)。いずれにしろ、日本に慣れた目を修正しながら見ないと、とんだ錯覚を起こしかねない。

もう一つ驚いたのは、地図の上に示される「道」の形状であった。
もちろん例外はあるが、まず八割がたは東西・南北に向きを揃えた方形の格子状をなしている。百万分の一~百五十万分の一の縮尺では、街並みや家並みは当然表示できず、道も地物も記号化して示すことになる。そのため、かえって格子状の道の形が際立って見えてくる。それはあたかも、スケールはまったく違うが、条里制の水田あるいはその痕跡をとどめる地図を見ているかのようである。もっともそれは平原状の大地の場合で、山地はさすがにそうではない。しかし、平原状だからといって、たとえば関東平野を被う道がすべて格子状を成しているいるような姿を、私たちは想像できるだろうか。
私たちの知っている道は、川にぶつかれば素直に向きを変えるのを厭わない。
彼の地に川や大地の起伏がない、などということはない。もちろん、その向きが東西・南北を向いているわけでもない。しかし、彼の地の道は、よほどの大河でない限り、川の向きなどお構いなしに、《初志を貫徹している》、つまり突き進んでいるのである。
道というのは、人がつくったという意味で「人工物」である。しかし、アメリカの地図のうえの道を見ていると、これこそが「人工物」なのであって、私たちの見慣れている道は「自然物」であるかのように見えてくる。
しかし、全部の道が格子様なのではない。よく見ると、全体から見れば《異質》に見えるのだが、東西・南北の向きとは関係なく斜めに走る道もある。私たちが通常見かける道と同じで、少しばかりホッとする。
何故斜めに走っているのか?理由は単純。素直に川に沿っているのである。
この道の《成因》は、明らかに、格子様の道と違う。大きな町、その地域の中心と思われる町は、この斜めに走る道に沿ってあるように見える。多分、この斜めの道は、この地域の「古道」なのである。そして、格子様の道は、おそらく開拓の結果生まれた、道というよりも「地割線」なのではなかろうか。
つまり、人びとは、開拓を目的に、下流から川を遡ってくる。適当と思われる場所に仮にとどまり、そこを拠点に、定着地を決めるためにまわりの土地を探す。仮の場所はいわば前進基地。開拓中の土地が前線である。まさに字の通りのフロンティア。開拓が進むにつれ、前進基地は町として発展してゆく。開拓した農地は整然と区画され、その境界がそれらを互いに結ぶ道となる。おそらくそのときは、それらの方形の線:道が全土を被う道路網になるなどということは思いもかけないことだったに違いない。そうなったのは、ずっと後になってからのことだ。なぜなら、拠点の町へ行く道はともかく、開拓地を越えてさらに先へと進む道は、彼ら開拓者たちには当面必要なかったはずだからである。それらを全土を被う道路網に組み込んだのは、多分、後の時代の、別の目的をいだいた人びとなのだ。そのように思うのは、いかなる国・地域であろうと、その全域を被う道路網の建設が、人びとの定着・定住に先行するはずはないからである。先行するのはまず人びとが定着すること、そうしてできた村や町が、そこに暮す人びとの必要に応じて道を介してつながってゆく。
人びとが遥か数百キロ先にある彼らの生活・暮らしとは何の関係もない町とのつながりをまず先に考えるわけはない。
確かに今は、先ず基幹としての道路を整備してから開発を進めるのが常道になっているが、それはあくまでも近代合理主義的発想のしからしむるところなのであって、唯一そういう見かただけで古今の人びとがその暮す大地に拠って為してきたことを見てしまったら、大きな誤解・間違いが生じてしまう
だろう。
また、そういう近代的な見かたでは、あの格子状の網の目の下に、開拓した人びと以前に住み着いていた人びとたちの道が隠されているかもしれないことに、まったく思いが及ばなくなってしまうだろう。

〇地図のなかの人びと
こうした《驚き》をともないながら地図を見ていると、それがまったく見知らぬ土地の地図だからでもあろうが、その地図の上の隅々で暮している人たちの生活がいったいどういうものなのか、いろいろな思い・想いが湧いてくる。
たしかに初めのうちは地図を拡げその縮尺を確認し、その大きさにため息をつき、隣り町までちょうど土浦と東京ほどの距離がある、・・・などと、どちらかと言えば、その物理的な側面での《感嘆》を繰り返していたのだが、そのうちに、そのような状況のなかで暮している人びとの生活(感覚)というのはいたいどんなものなのか、とても気になりだしてきた。
たとえば、そこの町に暮している人びとにとって、ワシントンやニューヨークなど私たちも名前を知っている都市やそ子での《動向》は、いったい、いかばかりの意味をもっているのだろうか。
その町に暮す覚悟をしている限り、彼らにとって、それら大都市など、その名前などはもちろんのこと、いわば《どうでもよいこと》として受けとめられているのではないだろうか。
つまり、あそこはあそこ、ここはここ、という捉えかたが、至極当たり前に為されているのではないか、と思う。
ワシントンなどは、彼らにとっては遥か彼方の場所であり、地図で探すには何ページもめくらなければならない。仮にそこへ行くとすると、日付はともかく時計の針は何度か変更しなければならないのだ。
つまり、そこの町に暮す人びとの日常の生活のなかには、抽象的なアメリカ全体:《全国」などという概念は入り込んではこないのだ。《全国的な世界》は、日常の何段階か上の次元のはなしなのであって、日常では、先ず、その町でしかあり得ない:その町だから当然の:ものごとが考えられるだろう。そしてこれだけ広い国土だと、一生、自分の町のまわり数百キロ以上の外に出たこともなく終わってしまうというのも決して珍しくはないだろう。その土地・地域に根を張れば張るほど、「自分の世界」だけで過ごして終ってしまうのである。そう考えてくると、成功をおさめたアメリカの(いなかの)おじいさん、おばあさんが世界一周の旅にくりだしてゆくというのも、分るような気がしてくる。
少しばかり短絡的かもそれないが、アメリカの国内政治が、一つの「中央」に拠るのではなく、各地方:各州の州政治を基とした連邦制をとっているのが、まことに理の当然であると思えてくる。統一的、画一的なやりかたで一律に全国・全地域を一律に処するなどということは、物理的にもまず不可能だからである。
この百五十万分の一という地図の上に辛うじて点となって描き示されている町には、その地図上では目に見える点にもなり得ない人びとが暮している。しかし、この人びとがそこに居るからこそ、その街や村が存在し得ているのである。この人びとは、まさに「草の根」なのだ
この広大な土地の地図は、それが広大であるがゆえに、かえってこの「草の根」の人びとの存在を、ひしひしと感じさせてくれる。
そのような「草の根」が繁茂しているがゆえに「町」が在り、「州」が在る。州という「林」が成り立つ。そしてその集合体が、合州国:合衆国という「森」を形づくっているのである
現実に「草の根」たちがどのように扱われているかは知らない。しかし、アメリカの(少なくとも《建前として》の)「民主主義」とはこういうものなのだろう。このことはアメリカに限らない。どこの国でも「草の根」の存在しない村・町・・・国が在るわけがない。
とりわけ、「国」というような抽象的な概念:存在が「草の根」よりも先に在るわけがない。
しかし、日本の様相はどこか違うのではないか。
日本では、「中央」という名の《大樹》が、「草の根」を一本残らず根こそぎにしてしまうことに拠って繁茂している。更に、繁茂し続けている。はたしてそれは「国力が強くなる」ということなのであろうか?そしてこの日本の現今の様相は、国土が狭いという特性ゆえの、《日本なりの当然の様相》なのであろうか?
たしかに、「統一的」「画一的」な《ことの処理》は、狭いがゆえに数等やりやすいだろう。
しかし、「ことの処理が容易である」ということと、「草の根の存在を認めるかどうか」ということは、本来「別の問題」である。
先に触れたように、国土は広かろうが狭かろうが、画一的な処理がし易かろうがし難かろうが、「草の根」すなわち「個々の人びと」は厳然として存在するのである。その個々の人びとの個々としての存在が都合が悪いからといって、現実に、そして論理的に言っても、その「存在」を消し去ることは、絶対にできないのだ。
いま私は、アメリカの地図を見ていてそこに「草の根」の存在を見た、と書いた。しかしほんとは、日本の地図の上でも、それを見なければいけないのである。もしそこに、そこで暮す人びとの姿が見えてこないのであるならば、それは、そこに単なる地面の拡がりを見ているに過ぎない。そして、そういう見かたが当たり前になってしまうと、その地で日々を過ごしている生身の人間の姿が、頭のなかから消えていってしまう。更には、個々の人びとが存在しない前提の下で、人びとに関わるはずのことがらが、次から次へと、処理されてゆく。これを矛盾と言わずして何と言うのだろうか。

〇「地方」の《ニュース》・・・・「事実」と《ニュース》
八月の初め、所用で山梨県へ行ってきた。泊ったのは一足信州に入った所だったが、そのあたり一帯は一週間ほど前の台風でかなりの被害を受けたようであった。「・・ようであった」と書いたのは、現地に着くまで被害があったことをまったく知らなかったからで、私が走った道も一日前までは通れなかったのだという。現地に着くまで、そういう情報は何も知らなかったのである。
このような場合、私たちはどうやって「情報」を知るのだろうか。
その地に知り合いでもいればいち早く知り得たかもしれないが、そうでもない限り、せいぜい新聞、ラヂオ、テレビの報じることに拠るしかない。その頃、ニュースでは東海道線の富士川鉄橋の倒壊や東名、中央両高速道の土砂崩れによる不通など、どちらかといえば首都圏に係わりが深そうな状況が多く報じられていたように思う。私の向う先が大きな被害を受けているとは思ってもいなかったから、道路情報で状況を知ろうともしなかった。
実際はかなりの被害であった。その頃、信州は二つの幹線:中山道・信越線、甲州街道・中央線の障害で一時的に孤立した状態だったのだそうである。各地で、浸水、洪水、鉄砲水、土砂崩れが発生し、大変だったらしい。よく考えてみれば、富士川下流の鉄橋が倒壊するほどの水が流れた以上、その上流域の雨がいかにひどいものであるかは自明のはずである。しかし、ニュースで報じられると、どうしても報じられた《こと》にのみ関心が向き、それだけで終ってしまい、その背景:全景・全体像にまで目をやらないで済ませてしまうのである。
私は、その地の新聞:信濃毎日や山梨日日を読んで、やっとのことで現地の状況の概要を知ることができた。と言うより、筑波で読んだ《向う側》の中央紙の報道と、そこで読んだ《こちら側》の地方紙の報道とを合わせてみて、台風10号がどんな具合に列島を横切っていったかが、初めてよく分ったような気がしたのである。
とかくこのような場面に出くわすと、「中央紙」なる新聞の紙面をにぎわす記事というのは、いったい何なのか、とあらためて考えざるを得なくなる。
なぜなら、現場に居合わせでもしない限り、多くの人は、その読む「中央紙」に報じられる個々の事例だけに拠って、例えば今回の台風10号についてのイメージを《勝手に》描き、それで全てだと思い込んでしまい、更には、事態の全容が《分った》気にさえなってしまうのだ。もちろん、その《勝手》は、必ずしも総て読み手の責任ではないのだが・・・。
言うまでもなく、全ての事件あるいは全景を、隈なく報じることは不可能だから、報じることの内容に、ある種の選択が行なわれることがあって当然である。それゆえ、その「選択」の為され方の当否を問うことも必要ではあるが、私たちは、報じられていることは、あくまでも全体・全容のほんの一部に過ぎないということを認識しなければなならない。そして、その報じられた「ほんの一部」を基に、私たちは個々に、その全体:全景・全容あるいは背景に対して、思いを馳せるべきなのである。おそらくそうすることが、知ろうとする私たちの「最低の務め」なのである。



〇「中央発」のニュース・・・・「知らされること」と「知ること」
実際、「中央」の近くに住み時折「地方」に出向いたとき、その地の新聞やテレビを見ていると、日ごろ気付かずに見過ごしていた同一のことがらも、自分の立ち位置によって全く異なる見えかたをするものだ、ということにあらためて気付く。言わば《向う側》に押しやって見ていたものを、《こちら側》に引き寄せて見ることになり、「自分の立ち位置」の確認を迫られることになる。いつもいったい何をみていたのか、ということである。
よく「地方」でテレビのニュースを見ていると、「今日は久しぶりに夏らしい青空が拡がり・・・」だとか「今日は九月一日、新学期が始まり、真っ黒に日焼けした子どもたちが元気よく・・・」などと報じているのに出くわすことがあるけれども、「中央」に関わるニュース」を報じているからだ(寒冷の地では、8月下旬には新学期が始まっている・・・)。
ことによると、中央:東京のことは、何であろうと、《全国共通・標準である》かの錯覚に陥っているからなのかもしれない。そして、知らせる方も知る方も、錯覚どころか素直にそう思ってしまい、それどころか、その《全国共通・標準》から外れることが悪いことであるかのようにさえ思ってしまっているのかもしれない。そのニュースが、たまたま自分の身の回りで起きたことがらに関わることであった場合、事実と違うではないかと白々しく思うだけで(もしかすると、そういうことに慣れてしまって《またか》と思うだけで)、その他のことは、多分、そのまま鵜呑みにしてしまうのではあるまいか。
これはまことに怖ろしいことだ。なぜなら、《ニュース》を知ったことで、あたかも「事実」を知ったかの気になってしまうのだ。
こういう《習慣》に慣れてしまうと、《自ら知り得ていないことまで、知っている》かの錯覚にさえ陥りかねない。つまるところ、「ものごとに対する自らの判断」が放棄され、ものごとの判断まで他人まかせとなる
しかしほんとは、自ら知り得ない、それゆえ分らない、そうはっきり言い切ることが大事なのであり、そう言い切れるとき(《知ったかぶりはしない》としたとき)、逆に、そのとき初めて「自ら知ろう、分ろうと努める気持ち」が湧いてくるのではないだろうか。
「中央」から、《誰かの手に拠って整理された事実》だけが知らされるのに慣れ、それで全てだ、と思い込んでしまったとき、私たちはこの「自ら知ろう、分ろうと努める気持ち」さえも失ってしまうに違いない。
私たちがそれに慣れてしまったとき、そのとき「私たちに知らされるもの」、それはいったい何なのか。そしてそのとき、「私たちはどのような振舞いかた」をするようになるか。
多分そうなってしまったとき、私たちは、それぞれの判断を忘れ、(強制されていることに気付かず、あたかも自らの判断であるかの如くに)画一的な判断をするようになるのではなかろうか。
事実、敗戦前、私たちが置かれていた状況は、まさにそういう様態であったし、三十七年を経過した今、「ある種の人たち」が、民主主義を片方で《建前として》掲げつつ、つくろうとしているのもまたこういう状況に他なるまい。そうでなければ、あれほどしつこく教科書の画一化に拘るわけがない。私たちがともすると負いいる《知らされtらことを事実であると思い込む錯覚》が巧みに利用され、私たちの《強制されているとも気づかずに成す画一的な判断》を生む状況づくりが着々と行われている。
そしてまた、情報量の増加、一見したところ多種多様な情報は、人びとをしてただ単純にいろんなことや考えが在るのだと思わせるだけで、逆に人びと自らが、自ら知ろうとする気を喪失させてしまっているように思える。
そして、その多種多様な情報でさえ、それは決して多種多様な人たちに拠って発せられているのではなく、端的に言えば、「中央」にいる(「中央」こそ全てであると思い込んでいる)一群の人たちに拠って発せられていると言ってよいだろう。
それらもまた、テレビで報じられる事件のニュースと同じに、必ず一度「中央」を経由して「全国」に流されるのである。これは、ことによると、戦前戦後を通してなんら変らなかった日本特有の現象なのではないだろうか。
    註:「三十七年を経過した今」とは原文作成時点を指しています。以下も当時の社会の状況についての筆者の実感です。
      しかし、再編集しながら、2016年の今も、何も変わっていない・・・、と感じています。
いったいなぜ総ての情報やニュースが「中央から」、あるいは「中央を経由してから」伝えられれなければならないのだろうか。そしてなぜそれが、日本では「当たり前のこと」になっているのだろうか。
たとえば、先のアメリカの道路地図上で見つけた名も聞いたことのない小さな町でも、ニュースは「中央」から伝えられるのだろうか。
そんなことはないだろう。新聞で言えば、彼の地には、日本のような「中央紙」はない(系列はあるらしい)。「全国紙」はなく、(系列はあっても)全ては「地方紙」である。というより、「「全国紙」「地方紙」という《ことば》がないはずだ。どれもが言わば「地方紙」なのだから。ニューヨークタイムズにしたところで、その名のとおり「一地方の新聞」に過ぎまい。それが何故有名なのかと言えば、それは発行部数に拠るのではなく、その「内容」に拠ってだろう。
当然、先の小さな町にも「地方紙」があるに違いない。部数はとるに足らない小さな新聞。そしてそれは、多分、その「地方の目」で編集されているに違いない。言わば、「世界」は彼らの目でもって捉えられる。もちろん、ニュースは通信社からも配られるだろう。しかしその《扱い方》、つまり編集は、「彼らの目」に拠るはずである。つまり、《その「地方」のために》つくられるのだ。
おそらく、論説や主張・論調もまた、その「地方」に根ざして説かれるだろう。ことによると、中立を装うなどということもなく、旗印の鮮明な新聞がいくつもあるのかもしれない。
そして、その論説や主張が、その「地方」を越えて共通性・普遍性のあるものであれば、それはまた他の「地方紙」に転載されることもあるという話も聞いたことがある。
筋の通った「一地方の主張」は、それが仮に数の上ではとるに足らない「地方」や「地方紙」であったとしても、無視・黙視できない価値が認められるということだ。実態は詳しくは私は知らないが、建前は、そしてその土壌は、基本的に、こういうものなのだと思われる。第一、あの広大な拡がり・広さという物理的状況の下では、こうでなければ成り立たないだろう。
すなわち、「中央」ではなく、「中央だけ」ではなく、そして「中央」におもねることなく、「一地方」がそれぞれ「世界」を語ることができる。これが日本では、《正しい》情報は「中央」だけが持ち得るのだと自他ともに思い込んでいるから、《正しくない》あるいは情報量の乏しい「地方の見解」なんて、とばかり一笑に付されるのがおちだろう。実際、各地の「地方紙」で、自負と見識をもって編集されている例は少ないように思う。ただ、その少ない例で見ると、一般紙面はもとより、投稿欄などを見ても、一見して、強く地元の人びとに支えられていることが分る。そかし、大方の場合、第一面から三面記事のようで読む気が起きない。「地方」のことも「中央」に全てまかせておけばよいかのようである。
筑波でいわゆる「科学万博」が開かれる前、地元の新聞は万博開催のキャンペーン紙と化した。万博を開催できれば、それを契機に「公共投資」という名の「金」が地域に落ちる。それを確実のものにしようと、誘致活動の先兵となったのである。万博がどういう意味をもつかなどという論議は脇に置き落ちてくる金勘定が先になった。第一、その「金」のそもそもの出所が何処かが忘れられている。それは、元は、それぞれの「草の根」から集められたものだ。ある地方行政の担当者が、使途をやたらに細かく規定された補助金・下付金よりも、それらをまとめた金をくれた方がどれだけよいか分からない、第一、一度「中央」に吸い上げられてから戻ってくるという過程もあほらしい、と言っていたけれども、まことに正当にきこえる。しかし現実はそうでないから、できるだけ「中央」にすり寄ろう、という発想になり、それに慣れ切ってしまっている。結果として、およそ全てが「中央」の思う通りに動くことになり、「地方」も「地方紙」も、多くの場合、それに迎合する。「地方の時代」という《聴こえのよいことば》が出回ったことがあるけれども、その出元も「中央」なのであって、その趣旨:意味は、あくまでも《「中央」のため「地方」》なのであり、決して「地方の自治」を意味しているのではない。
考えるまでもなく、《「地方」からの発想》が当たり前に当たり前になっていたならば、「地方の時代」などという「新語」が生まれる訳がないではないか。

〇「知ること」と「知らせること」
このように見てくると、今私たちが置かれている状況、そして(当たり前だと思い)それに慣れ切ってしまっている状況、更には、エライ人たちから知らされることをもって事実の全てと思い込みがちな私たちの状況・・・、これはまた大変に怖ろしい。
益田 勝実 著「『北越雪譜』のこと」に、次のような一節がある。
  ・・・中央と地方の問題は、その地域がそれぞれにもつ固有性によって、いっそうむつかしいものになっている。地域の社会と文化、
  人間の暮らしかたの総体を真に深く理解し得るのは、まずそこに住むもの自身であり、そこに住むものが、自分たちの暮らしかたの
  実態と地域に深く横たわっている問題とを、広く他の地方や中央の人々に知らせる必要がある。だが、情報時代といわれる今日に
  おいても、それが実際にはむつかしいこと、無限にむつかしいことは変りがない。
  近世末期に越後湯沢の一商人にすぎない 鈴木 牧之 が、「北越雪譜」二編七巻を著して、雪に埋もれて暮らす自分たちの地域のこ
  とを、巨細、天下の人々に知らせ、その理解を深めようとしたのは、稀有の出来ごとであった。・・・

難しいことは分り切っている。しかし、私たちに残されているのは、それはつまるところ《始めにして終りでもある》のだが、私たちが私たち自らを語ることだけだろう。
なぜなら、「中央」という「大樹」が「草の根」よりも先に存在するわけがないからである。
「草の根」は、得体の知れぬ「中央」のために在るのではないからである。
知るということは、《知らされることを知る》ことではなく、《私たち自らが自分の目で知る》ことだからである。
これは、少なくとも、私たちの世代が、1945年8月15日以降、身をもって身に着けてきた考えかたなのである。
***********************************************************************************************************
   まとまりのない文章を、最後まで読んでいただき有難うございました。

   シリーズものの続きは、年明けになると思います。

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冬の風景

2016-12-16 11:42:51 | 近時雑感


当地でも今朝は氷点下。日向は暖かでも風は冷たい北西風。

森も林も冬の景色に変わってきました。

今、「復刻・筑波通信」の続きを再編集中ですが、ここ数日、風邪気味で、少し作業速度が落ちています。
もう少しかかりそうです。

しかし、元気です。


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師走の風景

2016-12-04 14:07:15 | 近時雑感

カバザクラ

ケヤキ

田園

夕映え
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12月!

2016-12-01 09:49:22 | 近時雑感


ススキが寒さを呼んでいる・・・。晴れた日の光景です。

今日は12月の1日。早いものです。
朝から冷たい雨が降っています。

ここ数日の朝の散歩道は一面の霜柱でした。
粘土質の農道は、一面に苔で被われていて、凍ると苔の部分だけもちあがり、かさぶたのように剥がれています。
ただ、暖かくなると、元通りに収まるようです。

散歩の時間が少し遅れ、8時半を過ぎると、気温が上がり、凍土が融けてぬかるみのようになり、歩くのが難しくなるので、極力8時ごろに歩くように努めています。

これからますます寒くなります。要注意です。

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復刻・「筑波通信」―11   水田の風景・・・・・ものの見えかた

2016-11-30 11:12:35 | 復刻・筑波通信


復刻・「筑波通信」―11   水田の風景・・・・・ものの見えかた                   「筑波通信」1982年6月 刊 の復刻

〇水田の風景・・・、それは驚異的である
筑波の近在では、四月末から五月初めにかけての連休の前後が田植えの季節である。水の張られた田んぼが、少し大げさに言えば、はてしなく延々と拡がっている。
その昔、私が子どもの頃、田植え時には田んぼという田んぼは、これも大げさに言えば、人で埋っていたものだ。しかし今は、田植え機があっという間に済ましてしまう。人の手に拠っていたとき、苗は実に見事な平行直線をなして植えられていたものだが、機械になってからは、ぎくしゃくした並行線が描かれるようになった。機械の走った軌跡なのである。こんな不揃いでもいいのなら、糸を張って一直線に植えていたあの努力は何であったのかと思わずにはいられない。辺りを見回しても、人影はあちらに二人、こちらに三人・・・といった具合にまばらにしか見当たらない。昔の活気あふれる田植えどきを見知っている者の目には、噓のような、何か気の抜けた「これで大丈夫なのかな」という不安感さえ湧いてくる、そんな光景である。
中国の畑作地帯で、これも大げさに言えば地面が見えなくなるほど人が群がって土地を耕していた姿、これで農業が機械化されたらこの人たちはどうなるのかと考えた、そんな光景が対比的に私の頭をよぎっては消えた。だから、ほとんど人影の見えない、目の前の水平面の連続は、なお一層広々と見えたのである。

水の張られた水田を見ていつも思うのは、およそ人間のやってきたことのなかで、この水田開発ぐらい凄いこと、驚異的なことはないのではないか、ということだ。
この田んぼの水平面は、天然自然の海原や湖水ではない、まったくの人工の水平面なのだ。しかも、ただの水平面ではない。ただの水平面なら穴を掘って水を溜めれば直ぐできる。水田は、しかし、そんな生易しいものではない。先に水平面の連続と書いたが、それは、言わば無数に近い異なった水平面で構成されているのである。
それぞれの面が一定の水深を保ちつつ、水上から水下へと微妙な段差で隣り合う。水は、幅広い水面を成しながら、僅かな落差の《ひな壇》形の滝を落ちつつ、時間をかけて流れてゆく。落差は、勾配千分の一などざらである。建物などの排水の場合のそれは、どんなに緩くても百五十分の一程度なのだから、水田の勾配の緩さが、いかに驚異的であるか!!しかも、水田をゆっくりと流れ下ってきた水の末端は、現在のような排水ポンプのなかった時代には、自然流下で下の河川すじに戻らなければならなかった。大規模住宅団地の土地造成で排水計画をたてたところ、どうやっても末端で排水ポンプでくみ上げることになってしまうのに、ふと、隣り合う水田を見たところ、そこでは当たり前のように自然流下にまかせており、あらためて水田造成技術の卓越さに舌を巻いたという話を聞いたことがあるが、ことほどさようにこれはそんなに簡単なことではない。
つまり、自然流下にまかせ延々と続く水田風景は、単にのどかな風景として見て済ましてしまうにはまことに畏れ多い、人びとが古来為してきた一大偉業なのである。驚異的なのである
もっとも、私たちが今目にする水田は、ほとんどが、元もとは自然流下によって開かれたものを、農業の近代化により《改善・改良》を施した水田である。水源となる河川は排水を容易にするため深く掘り下げられ、給水はポンプで汲み上げることになる。これにより深田も改良される。しかし、掘り下げられた河川は全長の高低差のつじつまが合わなくなり、ところどころで排水ポンプが必要になる。
このような《近代化》により、今まで考え及びもしなかったようなところにも水田をつくれるようになり、丘のてっぺんに田んぼがあっても珍しくもないし、山林の一部が伐採されて突然田んぼが出現したりもする。昔の田んぼを知っている者の目には、こういう風景は違和感を抱かせるに十分である。
しかし、この違和感は、単に私の既製の田んぼ観と比べての違和感ではなく、よくもここまで機械に頼れるものだ、もしも台風による停電で機械がストップしたらどうするのだ?という思いも抱かせるような、つまり機械に対する絶大な信頼に対しての違和感でもある。

〇水田風景、その成り立ちの経緯
このような機械力による近代農法が水田の拡大・整備を、それなりに進めたことは確かではあるが、しかし、その基になっている私たちが「田んぼ」ということばでイメージする広々とした水田地帯の風景自体も、その成立の時期はそんなに旧いものではない。
たとえば、関東平野の中央部:利根川の南(埼玉県の北部にあたるが)その一帯に拡がる見事な一面の水田風景、背後には村々の杜が島のようにぽっかりと浮いている、こういう典型的ともいえる農村の風景:これはほとんど、高々三百年、徳川の世になってから徐々に開かれ出来上がってきたのである。水を引き、その自然流下にまかせた広く延々と続く水田開発という一大農業土木工事が営々として行われてきたのだ。
しかし、かくも見事になったのは:全面的に埋め尽くされるようになったのは:むしろ最近ということばの範囲にはいる時期のことだとみてよく、明治期には未だあちらこちらに手の付けられない湿地帯:池沼が数多く残っていた(下図参照)。



初期の機械による排水は、このような湿地帯の解消のために為されたのである。各地の排水機場のそばには、その地の水との闘いの経緯を記した石碑を見かける。それは、単なる排水機場の竣工記念ではなく、その地で為されてきた農民の苦労の積み重ね:営農の記録と見た方がよいだろう。
明治以来数度にわたり編集しなおされた国土地理院の地図(当初は陸軍参謀本部作成)を年代順に見比べてみても、そこに、人びとの努力の様態:営為の変遷を如実に読み取ることができる。
   「日本図誌体系」など、このような見かたで「時代ごとの地図」を編集した図書資料もある。
つまり、今私たちが目にする水田風景が成り立つ少し前に、しばらくの間、あちらこちらに湖沼を残したままの状態、すなわち幾たびか水田化を図りつつも一進一退を余儀なくさせられていた時期が続いたのである。
これを、単に、技術がなかったからだと見るのは簡単な話である。
しかし、技術というのは、やみくもに天から降ってくるものではない。
技術というのは、問題の解決のために編み出されるものだ。問題意識の高まりが、新しい技術を生み出す下地となる。問題意識のない場面では新しい技術は生まれないのだ。
だから、この時期は、それなりの問題は抱えていても、それを解決する技術を思いつかない時期であった、と見るのが妥当な見かたではあるまいか。
彼らには、排水すればよいのだということはよく分っていたのだが、高きから低きへ流れるという水の《原理》を覆す効率的な方策を見つけられなかっただけなのだ。排水ポンプという機械の導入によって、彼らの問題意識の高まりを抑えていた堰が切れ、あっという間に低湿地の水田化が進んだのである。
私たちは、とかく。技術が先ずあって、それを如何に利用するか、という段階へ進む、という発想を採りがちだが、当然ながら、これは誤りである。
「技術の意味」を本当に知ろうとするならば、その「時々の問題」とその「問題意識」がどのように高まり、どのように解決されていったか、その「過程」をこそ見なければならないだろう。「技術の利用」は、それを「利用」しようとする側に、「解決すべき問題」が「確として存在していることが前提」なのである。残念ながら、現在は、多くの場合、それが逆転しているのではなかろうか。
もしも、今私たちが更地の関東平野を目の前にして、その水田化を目指そうとしたとき、私たちはどうするだろうか?
おそらく、私たちは既にいろいろな水田づくりについての《知識》を持っているから、それらの知識を総動員して、低湿地の解消:乾地化から手を付ける、あるいは手は付けなくても、そのことを念頭に置いて事を進めるだろう。
更地としての関東平野には、もともと自然現象としての低湿地が各所に散在している(前掲の地図参照)。
今の私たちならば、平野全体を見回して、低・高のつじつまを考慮に入れ、低地から高地へと攻め上ってゆく方策を採るだろう。最低の地は東京湾の海面にほかならず、そこを基準面にして上へ上へと考えてゆくのが《容易》だからである。
しかし、この平野で実際に行われてきたのは、これとは全く逆に、高地から低地へと攻めてきたのである。しかも、高地から低地へ、そして次の低地へと、順次、その都度、その局面でのつじつまだけを考えて攻めてきたから、低地がより低地になればなるほどつじつま合せが苦しくなるのは当然。最終的には既存の天然自然の湿地帯に行き着き、そこで足踏みしてしまうか、あるいは、その自然の湿地帯をさらに拡げて一層始末に負えない湿地帯にしてしまったのである。江戸期末~明治初め頃の関東平野は、多分、こういう様態を呈していただろう。当時まで考えつくされた技術では、そこまでだった、と言ってよい。それまでの比較的順調な水田面積の増加は足踏み状態になり、そのような状況は、初期的な機械の導入までのしばらくの間続くのである。

〇なにが合理的か
先に述べた今の私たちが為すであろうやりかたに比べたら、現実に為されたことは、たしかに極めて非合理的ではある。しかしそれを非合理と切って捨てるのは容易なことだ。だが、そう思うのは、むしろ根本的に誤りと言ってよいだろう。結果論に過ぎないからだ。結果を云々することぐらい楽なことはないからだ。
実際にこの平野の開拓に関ってきた人びとは、合理的ではなかったのだろうか?
今の私たちなら為すであろうことをもって「合理的」と見なすのならば、確かに彼らは合理的ではない。
しかし、私たちにとって「合理的」なやりかたとは、あくまでも私たちにとってしか意味がないということを忘れてはならないだろう。
彼らもまた、彼らにとって合理的なやり方を為してきたという意味で合理的であったのだし、ことによると、今の私たちよりも数等合理的であったのかもしれないのだ。
彼らは、今私たちが機械に頼って水の流れの原理に逆らってまでして(自然の良田を一方で休耕田と称して荒地に変えながら)開田をしている様を見たら、何という無茶な非合理なことを・・と言うに違いない。
この状況について、中公新書 小出博 著「利根川と淀川」に、以下のように述べられている。
・・・・研究者は近代合理主義と経済合理主義を強く押し出して、解釈しがちになる。しかし、河川開発は、時に思わぬ猛威をふるう自然現象に対する人間の挑戦である。とくに江戸時代の自然河川に相対したとき、いわゆる近代科学を足場とする近代合理主義で理解できない部分が非常に多い。・・・
では、関東平野の開田にあたり、なぜ低地から高地へではなく高地から低地へと下りてくる方策が採られたのであろうか。おそらく、その理由は簡単な話なのだ。人は、《その時》抱いている「目的」を達成するために、《その時の状況》に於いて最も良い結果を生むだろうと予測され、なおかつその状況下で最も容易なやりかたを採ろうとするからである。この《原理》は、今の私たちにもあてはまるはずだ。
稲を栽培することに拠って生きることを見つけた人たちがいたとする。実際、縄文時代後期には、そういう人たちが居たのである。彼らは、初めに稲作について詳しく研究・学習をし尽くした上で、しかるべき土地:水田を造成し・・・、しかる後に稲作にとりかかったのだろうか。
今の私たちならそうするかもしれないが、彼らはそんな気長なことはしなかった。最も手っ取り早く、既存の自然地形の中に適当な場所を探し出した。深すぎもせず浅すぎもせず、洪水でもすぐに流されることもない、ほんの水たまり程度の湿地帯:「ぬた」「のた」「やち」「うだ」などと呼ばれるちょっとした湧き水や小川の傍、そういう猫の額ほどの谷状の場所をそのまま、手を加えずに利用することから始めたのである。
そういう所を捜しまわっては、《住めるところ》に人は定住しだした。なぜなら、彼らにはそれで十分だったからである。人びとに拠る開田という壮大なドラマはそういう場所から始まったのだ。
人びとが定着し、人口が増えると、水田も増やさねばならない。そこで人びとは、かつて彼らが自然地形のなかに探し求めていた土地と同じような状況の土地を「造りだす」ことを覚え、同時にそのための技術をも覚え、かつての自然田に続く下流へと徐々に平野へ向けて下りだす。つまり、自然利水の段階から、人びとの目的の変化に応じて、次ぎ次ぎに利水の技術が生み出される段階へと変っていったのである。これは関東平野だけではなく、どこの平野でも同様の毛化を見ることができる。つまり、人びとが最初に定住するようになるのは、平野を取り囲む山々の縁(へり)の部分だったということになる。それは、(当時の)人びとにとってきわめて「合理的な」営みであった。だから、今でこそ、人びとは平野の最低地部に集中しているけれども、古代から中世にかけては平野の縁の部分、主に、現在の県名で言えば埼玉県西部、群馬・栃木県の北部が栄えていたのである。ここで触れてきたことは、(遺跡)地図上で、初期の稲作いそんで暮した人びとの住居・村跡、水田の条里制遺構、古墳、国府の所在地、東山道の道すじ、有力荘園の所在地、古代豪族の拠点の地、あるいは中・近世の村の位置・・・などの分布状況、その性向を確かめることに拠って自ずと明らかになる。遺構・遺跡は人が何かを考え、何かを為した、その名残りだからである。下図は、関東平野の古墳の分布地図である。

このあたりの状況について、先に引用した専門研究者 小出 博 氏の著書「利根川と淀川」(中公新書)に明快な解説があるので、当該箇所を以下に抜粋する。
・・・・・・(鎌倉時代、埼玉平野の)古利根川筋、中川筋の湖沼・沼沢地帯に大規模な開発工事を行うことは、たとえ鎌倉幕府の強い 権力を背景とし、関東武士団が・・・・・多くの農民層の労役を駆使したとしても、技術的に不可能であったと思われる。
技術的にという意味は、当時この低地を乱流する利根川、渡良瀬川、荒川を治めることがむずかしいため、開発ができなかったということではない。この考えはいかにももっともらしく、良識的である。
しかしわが国水田の開発経過をみると、治水が利水に先行して行われた場合はほとんどなく、治水を前提としなければ水田開発ができない場所はごく限られ、河畔の局部にわずかに分布するにすぎない。農民による水田開発がある程度すすんだ段階で、はじめて治水が取り上げられ、生産の場の安定と整備の役割を果すというのが普通であった。
この意味で、利水は常に治水に先行する。従ってこの場合、問題は利水(水田化)のむずかしさにあったといわなくてはならない。
湖沼・沼沢の開発は、技術的に非常にむずかしい多くの問題をもっている。まず湖沼・沼沢の排水をどうするか、排水に必然的に伴う用水の確保は可能か、ということは開発に当って直面する重要な課題である。その解決は、当時まだ経験的に知られていなかっただろうし、ことに水田農業ですすんだ技術をもつ西南日本で(も、そういう場面はほとんどないから)ほとんど経験のないことである。従って広大な湖沼・沼沢に(対してその水田化へ向けて)不快関心をもったとしても、ただちに大開発をすすめることはできなかったにちがいない。湖沼・沼沢を取り囲む自然堤防に居を構え、地先を部分的に排水して低湿田とし、可能な場合にかき上げの囲堤を設け、不安定な水田を開くことがせいいっぱいで、先ず農民の発想でこれが行われたのではなかろうか。・・・・・・


〇風景の見えかた
都会の雑踏を逃れ、いわゆる《田舎》に出向いたとき、目の前に拡がる山々や川や湖沼や森、林そして田園・・・の風景。
そのような風景を、最近の私たちは、単に、《映像としての風景》=《景観》としてしか見ないようになっているのではなかろうか。目の前にする風景の「背景」と「奥行きの深さ」について想いをめぐらす、そういう見かたをしなくなってしまった・・・。
人と大地の係わりだとか風土と人間の関係などについては、確かにあちらこちらで語られてはいるけれども、その多くは観念的でリアリティを欠いているように思う。
「水田」という語を見たり聞いたりした瞬間から、《稲を植えるために仕立てた土地のこと・・》などという辞書的解説が頭に浮び、「それは人間がつくりあげたのだという事実」については思い及ばない。
そこで見えているのは、まさに《映像としての風景》に過ぎず、それと人間一般とをただ突き合わせたところで、人と大地、風土と人間の係わりが分る道理もないにもかかわらず、相変らずそのような見かたが大手を振ってまかり通っている。
稲を植えるために「仕立てた」のは、その稲に拠ってその地で生きてゆかなければならなかった人びとであった、という理解・認識が失われてしまっているのだ。
私がこの「事実」を身にしみて「知った」のは、というより、理解のいとぐちが私に見えてきたのは、筑波に移り住んで、実際にそういう風景の一画に身を置くようになってからのことだった。遅すぎたなぁと何度思ったかしれない。こういう見かたがあるのだ、大事なのだ、ということを、その時まで、学んでいなかったのだ・・・。
もしも、こういう見かた:単に映像としての風景としてのみ見て終るのではなく、その背景にまで思いを至らしめて見ようとする習慣が当たり前になっていたならば、畑や山林一つをとっても、単に〇〇が栽培されている畑、〇〇の林という扱いで済ますのではなく、これはあの村の、そしてこれはこの村の人びとが営んでいる畑・山林である、あるいは、それが今のような姿になるまでにはかく「かくしかじかの過程があったに違いない・・・」、といった、それこそまさに「人と風土との関り」がはっきりと目に見えてくるだろう。
そして、そうであったならば、仮に、そこを貫いて新しい道を通さなければならないというような場面にぶつかったときでも、いいかげんなことはできない・・・、という「正当なためらい」が心に湧き上がってくるはずだ

先日、自転車で散歩に出た。かねてから土浦市の自然保護団体が保存を訴えている宍塚(ししづか)大池を見に行ってみようと思い立ったのだ。このあたりは霞ヶ浦に続く低地が拡がっているのだが、そこだけ小高い丘陵が続いていて、その丘陵の中の谷地の一つである。
舗装された道を行くのは面白くないので、集落の点在するこの丘陵を縫って自転車を走らせた。微妙に襞(ひだ)が入り組んでいるから道は激しく登ったり下ったりする。それとともに、林があり、田んぼがあり、また林があり、畑が拡がる・・・といった風景が次ぎ次ぎに展開する。そのような山林の中で、草で覆われて辛うじて道らしいとしか思えない畦道風の道が交叉しているところに出た。どちらに行こうか思案していたところ、なんとその草陰に道しるべ、しかも石の道しるべが立っている。宍塚へ〇丁、古来(ふるく)へ〇丁、吉瀬(きせ)へ〇丁、上室(うえのむろ)へ〇丁とあった。いずれも集落名である。明治の町村合併以前は、村名であった。
今私の目の前に続いている道は、ほんの少し前まで、これらの集落を結んでいた主要な道だったのだ。村を訪れる人たちは、皆この道を歩いた。その人たちのための道しるべ
あらためて、この丘陵地がこの地域においてもつ意味、集落の立地要件、道とは何か、・・・こういったことが実感をもって見えてきた。
現代の主要道は、自動車の都合のためだろうか平坦な低地の真ん中を通る。そこを走るバスの中からこの丘陵を眺めていて、いったいどれだけの人が、かつてこの地域の主要な街道があの丘陵の上を通っていたなどと思うだろうか?今も昔も変りなく、道はこの平坦なところを走っていたと思うだろうし、またそう思っても不思議ではない。
道しるべに従って藪をこいで走ると、右手に静まり返った水面が見えてきた。まわりは繁った森に囲まれ、木々の枝が水面に被さっている。季節には渡り鳥が群れていると聞いていたがもっともだ。
これはそのまま「公園」になる、と思った。しかし、そう思った次の瞬間、ある種の違和感とでもいうべき思いが私のなかに湧いてきた。「公園」?「公園って何だ?」私に「そのまま公園になる」と思わせたのは、いったい何か?
子の近在に暮してきた人たちは、「ここは公園になる」などと思うだろうか?そうは思わないだろう。しょうもない沼地、むしろそんな風に見るのでは、見てきたのではなかろうか。私の見かたは、こういう景観:映像としての風景は公園のものだ、という見かたが、当たり前のものとして私の中に在ったからではないか。それは、私の勝手な思い込みに過ぎない・・・。これは間違いだ。
一つの映像としての風景が、見る人の見かたに拠って異なる。それが当たり前だ。この池を、しょうもない沼地と見るであろう今の農民の見かたも、それは今の見かたであって、古代の農民なら、もってこいの田だ(田になる所だ)、と見たかもしれないのである。
ものごとを「一つの見かた」で一律に処理することがどんなに危険なことか!都会人、都会に育ち、慣れてしまった私たちは、これまでどんなに多くの「見間違い」を押し付けてきたことか・・・。
この池を目の前にして私の頭の中に去来したこと、思い至ったこと、それは私にとって久しぶりの衝撃的なできごとだった。
帰りはバス道路を行こうと思い、往路と逆に谷地沿いに走りだした。谷地に沿って、今では滅多に見られなくなった昔ながらの不整形の田んぼが続いていた。傍に苗代があり、田植えの準備が始まっていた。ふと見ると苗代の端に向かい合わせに二本の太めの竹が突き刺してあり、その先に黒いものがぶら下がっている。何だろうか?近くに寄ってみた。カラスの死骸であった。鳥避けなのだった。多分、近代以前から代々引き継がれてきた方策なのだ。
近代は突如として近代という形を成して私たちの目の前に現れたのではなく、常に前代の人びとの営みを引きずっている、ゆえに近代以前が今・現在と共存することが在ってもおかしくない、そのことをこのカラスは教えてくれたのである。


〇「知ること」「分ること」「ためらうこと」
先に、「・・・・そこを走るバスの中からこの丘陵を眺めていて、いったいどれだけの人が、かつてこの地域の主要な街道があの丘陵の上を通っていたなどと思うだろうか?今も昔も変りなく、道はこの平坦なところを走っていたと思うだろうし、またそう思っても不思議ではない。・・・」と書いた。それで当たり前なのだ。今の日常の生活は今の現実との対応で明け暮れるのだから、それで当たり前なのであり、それは都会からの移住者にとっても、代々この地に住んできた人にとっても、《現象としては同じ》だろう。昔はどうだったか、などとも思いはしまい。しかし、同じだというのはあくまでも《現象として》なのだ。新規の移住者は単純に知らないからそう思うのであり、代々この地に住んできた人たちは、知ってはいたけれども現実の暮しのなかで、単に忘れてしまっていたに過ぎない。だから、必要に迫られたときには、かつての方策を、近代農法の世の中でも、思い出すこと:もちだすこと:ができるのである。
これを非合理だとか残酷な仕打ちだ、などと思うのは、多分、近・現代は突如として近・現代というかたちを成して目の前に現れた、とでも思い込んでいる人たちだ。
   今でも、近在の種子を蒔いたばかりの畑で、こういう風景を、普通に見かける。本当に効き目があるようだ。
それぞ入れの地域・土地で、人びとは、その時の「今」を、」その時の「昔」を意識下にしまいながら生き、そしてその「今」を、その時の生活を基におき、《変えてきた》のである。それが「生活・暮し」というものなのだ。「その時の今」に生きている:暮している人びとにとっては、「その時の昔」は《空気のようなもの》でしかないだろう。だからそれらは、日常眼中にないし、よほどのことでもない限り頭に浮んでこないだろう。それが「当り前」ということの意味だ。
そしてまた、おそらく、近代以前にあっては、その土地に新しく移り住んだ人びとが先ずやったことは、その土地の「空気のようなもの」を知ろうとすることではなかったか。
なぜなら、人びとは、日ごろの生活・暮しから、そうすることが、それこそが、今その土地で生きる・暮すことだということを知っていたはずだからである。
そして多分、その地で何ごとかを為すにあたっては、必ず、「これでいいのだろうか」という「思い」「ためらい」を抱いただろう。それは、単なる《新入り》の遠慮のそれではなく、「正当なためらい」であった。

今私たちは、ともすると、その僅かな期間現代に暮した経験だけを基に(しかも多くの場合、都会で経験することが唯一絶対だと思い込み)「一つの映像としての風景」に「一つの見えかた」だけをあてがい、一律に処理して済ませてしまっている。
そして更には、今現在の私たちのとる「見かた」、そしてその「見かた」を形成した私たち自らの「経験」に、私たちの「意識下にある昔」「空気のような存在の昔」が大きな比重を占めているという「事実」に気付かず、何ごとも自分が編み出したかのような錯覚に陥っているのではなかろうか。
とりわけ、近代合理主義的な思考法に徹すれば、率先して「空気のようなもの」は切り捨てようとするだろう。というより、端(はな)からそんなものの存在は認めないだろう。
日ごろ吸っている「空気」の存在を知らず認めず、《現代は現代という形を成して突然現れた》と思い込んでいる《幸せな》人たち。今や、《建築や地域の計画の専門家》と称する人たちの多くは、この《幸せな》人たちになってしまっている。そして、彼らの為していることの多くは、私たちにとっては「環境破壊」以上に怖ろしいことなのではなかろうか。
逆に言えば、この「空気のようなもの」を、「専門家」こそ、専門家である以上、積極的に、意識的に見よう、捉えよう、とすべきなのではないだろうか。
何ごとかを為すにあたって、私たちは、一瞬でも「ためらうこと」が必要なのではあるまいか

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地震

2016-11-22 14:04:56 | 近時雑感

近くの森の紅葉です。手前左は、つぼみをつけ始めている梅の木です。

今朝は、地震で目が覚めました。かなり大きかった。
気象庁発表では、当地は震度4とありましたが、棚のものが落ちるなどということもなく、そこまで大きいようには感じませんでした。

幸いなことに、震源に近いところでも、今のところ、大きな被害の情報はないようです(22日午後1時半現在)。
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復刻・「筑波通信」―10   「十人十色:人それぞれ」 とはどういうことか

2016-11-14 09:35:10 | 復刻・筑波通信

                                                                                     夕暮れの筑波

原文が春に書いたものであるため、今回の書きだしが季節外れの風景の描写から始まります。
また饒舌部分をかなり整理しましたがそれでも長文になっています。ご承知おきください。


復刻・「筑波通信」―10   「十人十色:人それぞれ」とはどういうことか                 「筑波通信」1982年3月28日刊 の復刻

降ったとも知らずにいた夜来の雨で、乾ききっていた地面も本来の土の色にもどっていた。空気も湿り暖かく、あたりも霞んでいる。
もう少し陽射しが強まれば、陽炎の季節だ。葉の落ち切った木々も、いつの間にか、冷たい灰色から温かみを増した灰色に変ってきている。
目を遠くに霞む高い山の方に向けると、そこには未だ冬が残っている。昨夜の雨もそこでは雪であったらしく新雪がまばゆく輝いている。そちらの方から下りてくる風も、心なしか冷たく感じられる。こういう頃、山あいの村々を歩くのが私は好きだ。
ここ二年ほど、ある仕事のために、関東平野を東西に、数えきれないほど往復してきた。それぞれの季節の平野の情景も、そして季節が少しずつ移り変ってゆくさまも、一見の客の目に映るようなものとしてではなく、より確かな目で見られるようになってきたように思う。まったく同じ一つのものも、見るたびに新鮮に見え、それとともに、そのものが、その存在のさまが、より確かなものとなって私のなかに定着してくるようなのだ。
今日もまた、夜来の雨が新しい情景を描き出してくれたせいか、全てが新鮮に見えてくる。今私は、後方:東の方に広く霞んだ関東平野を遠く望みながら、平野の西端:いわゆる関東山地の麓の町や村のなかを車で走っている。
昔名がらのつくりの店や現代風なそれが並ぶ街並みをはずれ、道は、多分地形に応じているのだろう、微妙に曲がりくねり、あるいは小さな起伏を繰り返し、気が付いてみると川沿いに少しずつ山あいへと向って登っている。
そういうとき、突然目の前に見事な家並み:屋根の重なりあいがつくりだす村の風景が拡がることがある。思わず、「いいなあ」という言葉が口をついて出る。ほっとする。安心して見ていられるからだ。
このあたりの家々には、切妻の瓦葺き総二階のつくりが多い。釉をかけた瓦ではないから、にぶい色をしている。切妻の単純な形とその勾配のせいか、重くもなく軽すぎるでもなく適度な重さをもって見えてくる。ときおり混じる土蔵の白壁が眩い。
家々のまわりに、遠く近く、家並みの背景を成している温かみを帯びた灰色の山林のなかに散らばるぼやっとした白いかたまりは、多分、今が盛りの梅の花だ。
こういう見事な家並みの光景は、別の季節でも、もう何度となく見てきているけれども、木々が葉をつけている時季には、家並みも木々に埋もれてしまい、こうはくっきりとは見えないのである。
もちろん、四季折々の光景も、それぞれがそれなりの風情があるのだが、たとえば真夏の暑さのなかでじわっと静まりかえっているのもそれなりだが、ちょうど今ごろの、冬の静けさから覚めこれから先の賑わいを予感させるような風光が、私は好きだ。
多分、こういう家並みを初めて見る人には、家々がどれも同じ家であるかのように見えるのではあるまいか。
先にも触れたように、このあたりの家々は、大体東西に長い長方形の平面で、棟も東西に走る。軒の出は四周とも深く、ときには六尺近くもあろうかと見えるものもある。二階の長手:南面には、出桁(だしげた)造りに拠る出窓様の突き出しが全面にわたって延々と付いている。どの家も同じと言っても過言ではない。したがって屋根面もかなり大きい長方形になる。
こういった家々が、南向きの緩い斜面に、ほぼ等高線に平行に長辺をそろえて並んでいるので、山肌は同じ向き、同じ形をした瓦屋根で幾重にも重なったように覆われてしまうことになる。だから、一見すると、同じ形の家が、同じ向きにひしめきながら並んでいるように見える。時折混じる寄棟や入母屋屋根の家は、異様なものに見えてしまう。
しかし、このどれも同じように見える家々も、じっくりながめてみると、実は一軒として同じもののないことに気付く。同じようでいながら一軒一軒にそれなりの顔がある。だから、そういう村うちの道を歩いていて次々に目の前に現われる家々は、一軒一軒違っていて、十軒十様の顔をしている。
この山あいの村に入り込む前に、街の街並みを少し外れたあたりで、向いの山の斜面に、最近開発されたらしい住宅地を見かけた。建設中のも含め、住宅がひしめいていた。それでも、都会近辺のそれとはちがい、かなりゆったりと建ち、ことによるとその家々の混み方は、この辺の村村のそれと大差ないのかもしれないと思えた。しかし、これが村々の家並みと大きく違う点なのだが、この信仰住宅地の家並みは、見るからに一軒一軒が異なり、はっきりと十軒十様の姿をしている。
ここで、二つの風景に対して、同じ「十軒十様」という言葉を用いたが、明らかにその意味する内容は同じではない。この二つの風景は質が違うからである。
この違いは何なのか。なぜ違うのか。社会が変り、生活が変り、人は変り、・・・、技術も変った・・・、それ故なのだろうか?第一、昔と今は違ってあたりまえ、昔のもの、それは消えてゆくもの、違いは何か、なぜ違うのか、などと問うことは、無意味なことではないか?
私はそうは思わない。
この「違い」、「この違いを生じさせているもの」、そこにこそ重要な問題があるはずなのだ。ゆえに、「この違い」は、一考に値する。
結論から先に言えば、この違いはその「成り立ち」の違いであり、唐突に聞こえるかもしれないが、それは「人それぞれ」ということに対しての、「個人」ということに対しての、今と昔の理解の仕方の違いに拠るのだ、そのように私は思っている。
ここまで、度重ねて「人それぞれ」ということを、改めて問い直してみるべきだ、と書いてきた。何を今さら、と奇異に感じる方もおられるかもしれない。個人は個人、人はそれぞれ、それは当たり前であって、今さらこと改めて言うことなどあるまい・・・。
しかし、これはそんなに簡単・単純な、考え直す必要は何もない分かりきったことなのだろうか?

今、ごく一般的な設計の場面では、この「人それぞれ」は、如何に理解・解釈されているのだろうか?
一般に採られているのは、いわゆる個人の住宅は個人個人に応じて建てられる、しかし都市社会での大量供給の住宅づくりの場面では、個人対応が成り立たずいわゆる「不特定多数」を相手にすることになるから、個人個々人に応じて用意することは現実問題として不可能である、そうかと言って住宅の形が決っていなければ建てられない、そこで、ある一つの形を決めてそれをその多数に対応させざるを得なくなる・・・、こういう理解・解釈・考えかたであると言ってよかろう。
この理解・解釈の根底にあるのは、人はそれぞれ「まったく違う」のだから、本来、人それぞれに応じて一軒一軒まったく違うのが当り前だ、とする考えかただろう。
それゆえ、使用者を特定できない大量供給の住宅や、その利用者を特定の個人に限定できないいわゆる公共建築の設計の場面では、この不特定多数の数だけある使用・利用の様態を、如何に一つに括りこむかが課題、と考えられるようになる。
実際ここ数十年、この不特定多数の人びと:使用者・利用者の needs をどう捉えるか、あるいはどうやってその最大公約数を算出するかが、いわゆる公共住宅、公共建築の設計・計画の場面で(同様に、大量生産されるいわゆる工業製品の設計・計画の場面で)設計者・デザイナーそして研究者たちの頭を占領していた「問題」であった。そしてこの間、こういう考えかたに対して誰も疑問を抱かなかった、と言っても過言ではないだろう。
使用者・利用者あるいは注文者としての一般の人びとも、こういう考えかたにいささかも疑いを持たず、個人で受託を建てることができる場合、精一杯その個性:それぞれの違いという意味での個性:を具現化する、そう思ってきた、と見なしても、これも過言ではなかろう。それは、メディアではなやかに宣伝される〇〇ハウス、〇〇の家・・などのセールスポイントに、如実に表れている。
その根底にあるのは、《如何に他との違いを形あらしめるか》、という考えに他ならない。それは、「人それぞれ」とは、人それぞれが己の見えがかりに現われる違いを競い合うことである、とでも言うかのようだ。実際昨今の大量生産品のデザイナーの最大の関心事は、買い手・使い手である個々人に、如何に人とは違うという感覚を抱かせるか、という点にあるのだという。それは、「隣りの〇〇が小さく見えます・・・」「これには〇〇が付いています・・・」などというキャッチコピーに、みごとに反映している。
これが昨今のものづくりの場面で考えられている「人それぞれ」観である、と見なしてよいのではなかろうか。
そして、このような考えかた、すなわち、人はそれぞれまったく違うのだから、それに対応する諸事もそれぞれまったく違って当然なのだが、対応相手を特定できないときは止むを得ず何らかの形で一つに絞りこむしかない・・・、この考えかたこそ、結果として現代の街並み・家並みをつくりだしたのである。一方でまったく画一的な同形の建物が建ち並ぶかと思えば、その一方では逆に見るからに十軒十様の建物が建ち並ぶ・・・、こういうまったく対極の風景が、この全く同じ考えかたの下で生み出される。
そして、この二つに分極した風景の挟間に、所在なさげに昔ながらの村々の風景が残っている・・・、これこそ、今私たちが目の当たりにする街並み・家並みの実態に他ならない。
では、この昔ながらの村々の風景は、いかにして成り立ったのヵ。それを成り立たしめた時代、人それぞれはそれぞれであるという考えかたがなかった、つまり人が皆各位乙的であったからなのか?ひとびとがその個性の表出を規制されていたからか?しかし、いずれであるにしろ、今の当たり前の考えかたでは解釈できないだろう。過去の遺産、そう切って捨てるしかないはずで、言ン位そうしつつある。価値を認めるとすれば、《文化財》として、あるいは《観光資源》としてのみなのではないか。現に、今、「文化財=観光資源」と見なすのが《普通の感覚》になっている。

「十人十色」という成句がある。辞書には、「人の好む所、思う所、なりふりはそれぞれに違うこと」とある。要は、「人はそれぞれだ」ということである。それは、単純な意味で《さまざまだ》ということなのだろうか。
そこで、私たちが「十人十色」という言いかたを、いかなる場面で用いるかを考えてみると、それは決して、単に《さまざまだ》とか《いろいろある》という場合に使われるのではなく、かなり限定された場面においてのみ使われる、ということに気付く。さまざまな国のさまざまな人が集っているからといって、あるいはスキー場で色とりどりのスキーウェアが花咲いているからといって、それを「十人十色」とはまず言わないと思う。「十人十色」という成句が私たちの口を突いて出るのは、ことあらためて「人それぞれ」ということを私たちが意識させられたときなのだ。
すなわち、普段は人それぞれだとか、あるいは互いに互いを意識するなどということもなく、なにごともなく平然・平穏に過ごしていたのが、あることをきっかけに、急に互いの違いが目に見えてくる、そんな場合にこの成句が使われるようなのである。
たとえば、ある目標へ向うための具体的な行動方針を決めようとする会合で、目標自体はなにごともなく了解されても、具体的なやりかたについていろいろと案が出され、それぞれ一理あって決め手を欠き、一つに決めあぐね、見通しもたたないままにお開きとなり、なんとなく白けた気分で、似た考えを持ったもの同士、あらためて考えかたの多様さに気付き、先を思い、半ば嘆くようにぼやく、そんなときに「十人十色だからなぁ」などという具合にこの言葉はとびだすのだ。辞書にある「思う所」の違いである。あるいはまた、「好む所」の違いにあたるのでもあろう。
また、ある場面で、そういう場面でめったに見かけることのない格好の服を着た人が現れ、それが意外とその人にも場面にも合って《さまになっている》、そんなときにも、半ば感嘆の意も込めて、この言葉を口にする。
つまり、「十人十色」という成句には、互いに互いの違いをあらためて発見し、感嘆、驚嘆、あるいは慨嘆する、そんなニュアンスも込められている、とも言えよう。

ここで注目しなければならないのは、この「十人十色」という成句が意味する「人それぞれ」の「それぞれ」は、決してその人それぞれが互いにまったく無関係なのではなく、むしろ、互いに関係しあう「お互い」の一員である、ということである。
すなわち、互いにある場面・局面を共有していて(しかもそのことを普段は意識しておらず)、その上で、それぞれの振舞いかた、思う所、好む所がそれぞれに違う、ということをこの「十人十色」という成句は言っている、のである。

このように見てくると、私たちはそれほど深く考えもせずに「人それぞれ」と思い、言っているけれども、「人それぞれ」という言葉の意味には、「それぞれ」の解釈の仕方により、二様の捉え方があり得るということが分かってくるように思う。すなわち、無関係のものが多種集っているが故の「それぞれ:多様」という意味と、異種のものが集った上での「それぞれ:多様」という意味、この二様である。簡単に言えば、「根っから違う」のか、」それとも「根は同じ」であるか、この二様である。そして、「十人十色」の意味するものは、これまで見てきたとおり、明らかに後者の意:「根は同じ」であるが互いに違う、という意:に他ならない
しかしながら、いわゆる現代的な考えかたでは、「人それぞれ」あるいは「個人」ということについて、明らかに、前者の意味、すなわち《多種であるが故の多様である》という意味:根っから違う:という意で捉えられているのである。
従って、人の集団とは、根っから違う個人の群れであり、故に互いに無関係であり、互いに共通の場面などそもそも存在せず、それぞれが独自の場面を持っている、そういう理解になる。けれども、私たちは、こういう現代的な考えかたの特性について、その中に埋もれこんでしまっているため、少しも気付いていない。  

対話・コミュニケーションが不足している、回復しなければならない・・・などとよく言われる。
しかし、互いに無関係な間柄の人と人の間のコミュニケーションは可能だろうか?コミュニケーションを回復しなければならない・・・、と言われるのは、それがないがしろにされているからであって、そうであるならば、ただ単に、その重要さを説くだけで済むわけがない。
何故ないがしろにされているのか、されるようになったのか、をこそ問わなければならない。
そう問うことで直ちに分ることは、私たちが互いに無関係な人の集まりであるという「前提」を固持している限り、コミュニケーション・対話は、そもそも存在し得ない、という単純な「事実」である。
すなわち、コミュニケーション・対話は、人と人がある局面を共有している、あるいは共有できる、という前提があってはじめて成り立つのである。
つまり、現代的な「人それぞれ観:人は互いに根っから違うとの理解・解釈」の下では、対話は存在しなくて当たりまえなのであり、対話・コミュニケーションが不足を嘆くこと自体矛盾しているのである。
そうでありながら私たちは、その不足を嘆き、回復を望み、その必要を説く・・・。
ならば、私たちは、その前提を問い直さなければなるまい。

では、「人それぞれ」という言葉は、いったい、どのような意味として理解・解釈したらよいか?
和辻哲郎が、その著書「風土」の冒頭で日本人のよく交わす時候の挨拶について、次のように書いている。
   ・・・寒さを体験するのは我々であって単にのみではない。我々は同じ寒さを共同に感ずる。だからこそ我々は寒さを言い表す
   言葉を日常のあいさつに用い得るのである。我々の間に寒さの感じ方がおのおの異なっているということも、寒さを共同に感ず
   るという地盤においてのみ可能になる。この地盤を欠けば他我の中に寒さの体験があるという認識は全然不可能であろう。・・・

「人それぞれ」とは、言い換えれば、「個々の私」ということである。「私」と他との関係について述べたこの一文ほど、「人それぞれ」ということについて、簡にして要を得た、そして説得力のある説明はないのではあるまいか。
先に、「十人十色」という成句の使いかたの検討の際に見えてきたその意味、すなわち、互いにある共通の基盤を認めあった上でのそれに対する個々の振舞いかた:身の処し方、つまり「思う所」「好む所」がそれぞれに違うということ、それが「人それぞれ」ということなのだが、しかし今、私たちは、このことをすっかり忘れてしまっているのではないだろうか。
言うまでもなく、私たちが何の共通基盤も持たない、あるいは持とうとしないそれぞれであったのならば、私たちの間には、ことば:言語は存在しなかっただろう。
以前にも書いたが、私たちが『冬』という言葉を持ち得ているのは、私たちそれぞれが、それぞれの冬の事象にめぐりあい、それぞれ異なるイメージを抱きながらも、『冬』という「概念」を共有し得ているからである。だからこそ、互いに冬について語ることができるのである
このことは、「方言」の存在、あるいは「地名」の付けかたを考えるとよく理解できるように思う。いずれも、ある地域・土地に暮す人びとの間に「共通基盤」がなければ存在し得ないからである。

このように考え直してみると、昔ながらの村々の風景の成り立ちが、よく理解できるのではなかろうか。
その土地に暮す人びとは、「その土地に対する共通の認識」を持っている。平たく言えば、「同じもの」を見ているし感じているのである。その上で彼らは暮している。その土地との関わりかた、彼らにとっての「その土地の意味」、そこで生活を営むことの意味、・・・それは共通なのだ。
互いに違う・異なるのは、彼らが共通に認識していることの、個々人のいわば《運用のしかの違いた》、あるいはその《取り込みかたの違い》、つまり、その共通基盤に対する思う所、好む所の違いに過ぎないのである。家の間取りも、屋根のかたちも、屋敷の構えかたも、そしてその敷地の選定についても、長い間のその地での体験の蓄積のなかで、その地で暮してゆく上での適切なやりかた:方針(それは「思想」と言ってもよく、それは必ずしも目に見えるかたちを成しているわけではないから、一見の訪問者には直ちに見えるとは限らない)というものが共通に認識されていて、違ってくるのは、個々人がそれぞれの家でのその「方針」の具現化の場面に於いてなのだ。ゆえに、「同じようなもの」はあっても「同一のもの」はなく、また逆に、「同じような点が何一つない」などというものもないのである。場合がそれぞれ違うからといって、「方針」を崩す:「思想」を異にする:わけではなく、あくまでも同じ「方針:思想」の下、個々それぞれの場合に応じて、いわば臨機応変にその具現化にあたっている、と言ってよいだろう。
これに対して現在は、ある土地に家を建てる人たちは、その土地への共通の認識を持たず、持とうともしない
それぞれが、《それぞれの敷地:それぞれの地面としての土地》に対してのみ、しかも彼だけにのみ分る認識を持つだけなのだ。

今回の冒頭「・・・突然目の前に見事な家並み:屋根の重なりあいがつくりだす村の風景が拡がることがある。思わず、いいなあ、という言葉が口をついて出る。ほっとする。安心して見ていられるからだ。・・・」という「感想」を書いた。
この「感想のなかみ」を考えてみる。私はいったい、そこに何を見たのか?
私はそこに、単に《美しい絵》を見たのではない。私はそこに、そこに暮す人びとの「共通基盤」を見たのである。より正確に言えば、私がその土地に住むとしたら、「その基盤とするであろうもの」をそこに見たのである。私がその地を見て得たものが、既にそこに暮している人びとが得ているものと変らないこと、私もまた彼らと共通の基盤を共有できる、つまり、その地で私が為すであろうことと、彼らが現に為していること、その両者が一致する、すなわち「分った」(という気になれた)のである。ゆえに、素直にその世界に馴染んでゆくことができ、それが先の「感想」となったのである。
しかし、「現代の住宅地」の風景には、残念ながら私は、私と共通の基盤をまったく見ることだできない。それは、私に《見る力》が欠けているからだろうか?そうではない、と私は思う。
それは、それらが、もともと共通基盤の存在を否定したところで生まれたものだからなのだ。最初から、「互いに分る」ということを無視・黙殺するところから始まっているからだ。「人それぞれ」ということを、互いに根っから違うこと」と考え・見做すことに根ざしているからなのだ。だから、他人は絶対にその世界に馴染めない。
大抵の場合、こういう風景は雑然として滅茶苦茶な印象を与える。
そして、そのような場面に接すると、「環境との調和」ということが説かれるのが常だ。
しかし、私には、この「環境との調和」という《ことば・思想》を素直に受け入れることはできない。
何故なら、調和しているとか調和していないとかいうことは、単純な「見えがかり」:「表に現われた形」の話であるはずがなく、従って当然、よく言われる「修景」などという表面的な処理でことが済むようなことであるはずもないからだ。
そもそも、そのような結果を招いている因は、見えがかりにではなく、その成り立ちの根底に潜んでいるのである。

おそらく、設計という作業に於いて基本的に為さねばならないのは、ある場面・局面に於ける(人びとあるいは私たちの)「共通の基盤」を探すことと言ってよいだろう。それはすなわち、先ず、いかなる局面に置かれているいるかを見ることであり、そこに於ける十人を、根っから違う十人としてではなく、その局面に置かれている十人として見ることから始まるだろう(昔はそれがあたりまえであったから、意識せずにそうしていたが、今は意識してやらなければならない)。
従ってその十人に対して、根底から違う十品を用意するのではなく、その十人にとって共通の認識たり得る一品を探すことがこの作業の主たるなかみとなる。
考えてみれば、この「共通の認識」となるものこそ、私たちがつくるもののいわゆる「機能」というものなのではなかろうか。そこから先の個々の違いは、まったく臨機応変的にいわば応用問題を解くことにより生じることでしかない。そしてそこにおいて、好む所・思う所の違いが出てくるのである。
しかし、この「共通の認識」「共通基盤」は、私たちの外から一方的に与えられるものではない。また、そうあってはならない。
それは、あくまでも、私たちのもの、私たちの内から生まれるもの、たとえば、私たちが私たちそれぞれの冬を語るうちから生まれるものなのである
つまり、私たちの「共通基盤」は、私たちが自らの感性に自信をもって依拠することによって生まれるものでなければならないのだ。
そして、そうであるために、私たちは、常に、自らの感性を研ぎ澄ましていなければならない。、
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   最後まで読んでいただき有難うございました。
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冬至も近い

2016-11-10 10:40:49 | 近時雑感


一昨・8日は立冬
ここ数日、朝の散歩道の枯れ草が濡れています。多分霜が降りたのでしょう。

ドウダンツツジの葉も日ごとに紅さが濃くなってゆきます。近在のケヤキもいい色になってきました。
昨日は木枯らしが吹きました。
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早くも11月!

2016-11-02 10:04:03 | 近時雑感


私の住まいの近在には、あちらこちらに柿の木があります。
今年は生り年なのか、今、どの木もたわわに実をつけています。まさに「秋」の光景。
昔なら、子どもたちが、道すがらもいで食べたものですが、最近はそういう風景は見かけなくなりました。今日も朝から鳥がつついています。

11月になり、朝の冷え込みが一段と増したように思います。
茨城県でも、北の方では、霜が降りたようです。このあたりも、もうそろそろでしょう。
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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-37

2016-10-28 15:53:27 | 「学」「科学」「研究」のありかた



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かなり間が空いてしまいましたが、Late medieval roof cobstruction の 最終項を載せます。前回とあわせお読みいただければ、と思います。

       Side-purlin roof

    Side-purlin roof とは、垂木の側面に、垂木相互の暴れ防止のために添える添木:補強の横材であると推察します。
    以下の図を参照ください。通常のpurlin:母屋とは異なり、屋根の荷重を承けるのが主たる役目ではないと考えられます。

ケント地域で Side-purlin が見られるようになるのは、かなり遅れる。地域によると、比較的大きな建物で、14世紀の第二四半期に crown post に代って使われるようになるが、ケントにはその事例はない。 1340年代の PENSHURST PLACE の屋根では、crown post と併用されているが、典型的なケントの事例とは言い難く、後継事例もない。
イギリス各地の初期の Side-purlin roof の多くは、高い繋梁に至る斜材:brace との併用が目立つ。しかしケントでは、このような斜材が用いられる場合でも IGHTHAM MOTECOBHAM COLLEGE の例のように、その上に crown post が設けられることがあり、また WOULDHAMSTARKLEY CASTLEWROTHAMYALDHAM MANOR のように、垂直方向の部材が見当たらない例もある。
これらの事例は石造であるが、中流以下の人びとの木造架構の建物に用いられるSide-purlin roofは、多くの建物に使われるようになる15世紀後期まで知られていなかった。この工法は、初めに北西部で現れるが、多分 WESSEX 地方から入ってきたものと考えられ、ケント東部で使われるようになるのは、16世紀も第二四半期になってからであろう。clasped purlin(下図参照)、queen-strutwind-brace 併用の小屋組は、世紀の変り目に北西部で見かけるようになる。fig87bNORTHFLECT GRAVESEND に在る1488~1489年建設の THE OLD RECTORY HOUSEや、SUNDRIDGEDRYHILL FARMHOUSENEOPHAMOWLS CASTLE などがその例である。
     clasped purlin
      fig87のように、合掌材:垂木を中途で承け、垂木の暴れを防ぐために設けられる部材:垂木を「留める:clasp」:日本の母屋桁に相当と解します。
      ただし、日本の場合に比べ、材寸が小さめですから、荷重を承けることよりも垂木の暴れ止め:位置の調整が主たる目的と思われます。    



詳細な記録が為された SURREY には、clasped purlinの屋根を架けた事例が多数在り、西部よりも東部の方が進んでいる傾向がうかがえる。しかし、それを普及速度が遅かったからと見なすのは誤りで、比較的新しいclasped purlin roof を、ケント地域内の各地で見ることができる。東部地域には、WEALDEN 形式の2事例:1496~97年建設の CHARTHAMDEANERY FARMSANDWICH 近傍の ASHTHE CHEQUER INNfig87a) が在るが、この2例は似たような屋根をしている。他に、やや小さく、建設年代も遅いと思われる UPPER HARDRESCOTTAGE FARMHOUSE などが在る。CHRIST CHURCH 教区には、同様のclasped purlinの屋根がかなり遺っていると報告されており、また、CHARTHAMDEANERY FARM は修道院によって建設されているから、これら東部地区の事例の発祥の由来には、教会が大きく関係しているものと思われる。
ここまで紹介してきた事例には全て、queen strutwind brace があるが、建設年代が遅いと思われる他の事例は、必ずしもこの特徴を有さない。
16世紀の30~40年代の建設と見られる WALTHAMANVIL GREEN に在る DENNES HOUSE THE COTTAGE の2事例には、煙で黒くなった clasped purlin の屋根が遺っている。
ケント北部の BORDEN に在る SHARPS HOUSE にも crown^post の屋根を補強するために採用された clasped purlinの屋根 があるが、hall は昔の形のままだが、新しい部材は煙で黒ずんでいるから、改造は16世紀に入った頃に為されたのではないだろうか。
16世紀の中頃までには、Side-purlin roof は大半が crown^post roof に改造されたようである。ただ、世紀中期~後期の事例については、今回は、十分に調査・検討されてはいないが、数多くの clasped purlin roof の事例が見つかっている。これらは、特に cross^wing に見られる。いずれも、当初の建物を改造した事例に見られる:、CHILHAMHURST FARMSITTINGBOURNE 近傍の NEWINGTON に在る CHURCH FARMHOUSE などがその例である。Side-purlin roofには別の形式もある。それは butt purlin :太めの母屋桁:を用いる場合で、そこでは、縦方向の部材が、繋梁と垂木の間に単に置かれているのではなく、主要な垂木でしっかりと留められている。この工法は、東部では1600年代以前に現われるが、ケント地域にはやや遅れて伝わったと考えられてきた。しかし太めの母屋を使う事例は特殊であり少なく、その用法はよく分っていない。
イギリスの他地域では、butt purlin :太めの母屋桁 は既に14世紀後期までに現れているが、ケントで最も早い事例は、CANTERBURY の石造の MEISTER OMER'S の木造屋根である。これは、1440年に枢機卿 HENRY BEAUFORTによって建てられた建物である。それから少し遅れてCANTERBURY CATHEDRAL の北西の TRANSEPT :翼廊(本体に対して直角に建つ棟の呼称)に建てられている。MEISTER OMER'S の木造屋根の建設年確定しているとは言い難いが、 butt purlin :太めの母屋桁 が、なぜその頃まで使われなかったのか、その理由は不明である。ケント地域が crown-post 形式 へのこだわりが特に強かったとは思えないから、上流階級の建物の建設や CANTERBURY CATHEDRALでの建築でbutt purlin が用いられなかった理由か分らないのである。
butt purlin 屋根が現れるのは全般に遅い。ただ、普通よりも上層の建物に例外が2例ある。いずれも1500年ごろか16世紀初頭に建てられた造りのよい arch-braced 屋根の建物である。それは HORSMONDENRECTORY PARKcross wingGOUDHURSTTHE STAR AND EAGLE INNfig88) である。

同じような事例が WOULDHAM の STARKEY CASTLE の石造の建屋に遺っていたが、既に改造されてしまった( fi9 89)。

同じようにbutt purlin :太めの母屋桁crown-post 形式 とを併用している事例は、一般的ではないが、SHAKESPEARE HOUSE でも見られるが、そこでは crown post はなく、arch bracebutt purlin が中央の collar purlin と一体になっている。
   註 この部分、直訳しておきます。図がないので理解に苦しみます。
ほとんど同じ頃、単純な butt purlin は、数は少ないが、小さな建物で使われている。これらでは、普通の tie-beam の小屋組と太めの母屋桁と併用されている。FARRINGTONS では、wealden 形式EDENBRIDGE BOOKSHOP の建物は、butt purlin queen strutwind brace とともに用いられているが、。の建物は年輪時代判定法によると1476~77年よりも早い時期の建設とされている(fig 90a)。rocks 、east malling 、larkfield は総二階建の建物は1507~08年の建設と思われるが、この建物では小屋組二つはbutt purlin を使用し、もう一つは clasped purlin の小屋組としている(fig 90b)。垂直方向の安定性は crown strut が担い、wind brace が母屋桁から頂部を結んでいる。これらの屋根は、clasped purlin roof 工法の別種と見なしてよく、中世後に現われる butt purlin 屋根との類似点は少ない。これらの事例では、母屋桁は、梁間に主たる合掌材:垂木を承けるべく架けられ、他の垂木は母屋桁に単に架けるだけではなく、母屋に枘で留めている。ケント地域では、butt purlin がこれまでの想定よりも早くから用いられていたのは明らかではあるが、一般的な工法ではなく、中世後の形式として1600年頃に注目されるようになるまでは、影響は小さかった。

    *******************************************************************************************************************
  以上でLate medieval roof cobstructionの章は了となります。
  次回からは、Form and function:the internal organisation of houses in the laye Middle Agesの章の紹介になります。
  編集に時間がかかりそうです。ご了承ください。
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