建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える                下山眞司        

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-34

2016-06-27 14:41:43 | 「学」「科学」「研究」のありかた



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文言補訂[14.41]
Late medieval roof construction

屋根の架構法は、既に存在しない場合や近付くことも不能な場所にあっても、中世建築で元の姿を推測できる唯一の部位と言ってよい。何故なら、当初の形状を、繋梁に穿ってあるの孔や(ほぞ)孔などから推測できる事例が多いからである。そのような調査から、いくつかの家屋では全く知られていなかった屋根を備えていたことが分ってきた。中世の構築技術の進展は、家屋の形式で論じられることが多いが、同様に屋根の架構法の観点で考究することができる。たとえば、地域分布状況からの考究、それぞれの家屋形式で常用される屋根架構法の観点からの検討などである。全容を捉えることが大事で、部分の様態だけからの分析は好ましくないのである。

Crown-post roofs

Crown-post を用いる屋根は、イギリス中に分布しているけれども、15世紀から16世紀の初期にかけて、北東部で最盛期に達している。ケント地域の調査では、1370年以降と見なされる事例の75%、448例中337例が Crown-post 工法に拠る屋根であった。
   註 Crown-post 工法については、このシリーズの「-16」を参照ください。
     そこに掲載の解説図 fig42 を再掲します。図の bCrown-postです。
     合掌の頂部をを承けるのが king-post または king struts それより下部の collar:首回りに設ける繋梁を承ける方法をCrown-postと呼ぶようです。
     その場合、合掌を構成する二面の垂木:rafterは、棟部分で相互を組み合わせ固定しているものと考えられます。
     collar:首回りに設ける繋梁は、大きい合掌のとき、合掌材:垂木・rafter の内側への撓みを防ぐために創案されものと思われます。
     結果として、合掌はAの字形になり安定します。
     おそらく、collar は当初、各合掌ごとに設けられたと考えられますが、数本おきに設け相互を中央部に設けた横材:桁で結ぶようになったのではないか。
     そのとき、更に、この横材とcollar:首回りに設ける繋梁とをからの束柱で承けて安定を強化しようとしたのが、Crown-post と考えられます。
        
下の table2 は、14世紀後期以降建設の木造遺構の、屋根の工法別の年代ごとの分布状況を示した表である。そのいくつかの年代判定は、推量に拠るもの。

表で分るように、14世紀後期では、全体の92%の屋根がCrown-post工法であるが、それより以降では、 collar-rafter 工法の増加や side purlin の採用によって、Crown-postは、時とともに、83%、84%、72%と漸次減少してゆき、16世紀前半に至って、54%へと激減する。最も後期の住居の事例は、1548年建設の PLAXTOLBARTONS FARMHOUSE の二階建の hall に設けられている例であるが、横材に対して二方向の斜材だけのきわめて単純な形である(この事例の 図、写真がないので詳細不明)。
15世紀後期になって side purlin :側面に設ける母屋 が導入されるまで、open hall 上の屋根を端正にすることを望む人びとは Crown-post を採用したのである。
たとえば、屋根の架構形式が記録されている WEALDEN 形式の家屋127事例中、Crown-post 工法以外の屋根は僅か3例に過ぎない。そして、その全ては、side purlin 形式の屋根である。それゆえ、全体的に、最も後期の WEALDEN 形式の家屋では、各種の屋根架構法が可能になっても Crown-post を採用し続けたのである。もちろん、Crown-post工法は、他の形式の家屋にも見られる。
   side purlinpurlin は、母屋と訳される。一般に母屋rafter :垂木を承ける材と考えられるが、この場合は、後項に説明があるが、垂木の側面に添えて、
   垂木相互の「暴れ」を防止する役割を担う補足材と解する。
下の table 3 は、 cross-wing の75%、end jetties 及び各種形式複合家屋の60%以上が Crown-post であることを示している。しかしながら、Crown-post が、WEALDEN 形式 では最も多く、次に cross-wing で多いという事実は、15世紀を通して、人びとにとって、Crown-post 工法の採用がごく普通のことであったことを示唆している。

ケント地域には、大きな、つくりが丁寧な、そしてイギリスでよく知られた木造建物が多いが、それらはいずれも、必ずしも「装飾」が際立っているわけではない。それゆえ、中世後期の装飾の多い SUFFOLK 地域(イギリス東部の州)の建物との同一視は誤りであり、SUSSEX 地域(イギリス南東部)の事例に比べても簡素である。Crown-post の採用への人びとの関心について、この観点を忘れて論じられなければなるまい。
Crown-post の装飾は、一般に、頂部底盤部斜材に、できるだけ簡素に補足的に施されている。1500年頃、大きく最高のつくりの木造家屋を建てた人びとのなかには、より装飾的な屋根を望み、ケントでは一般的ではなかった新しい形式の屋根も採用する人びとも少なくなかった。しかし、全般的に見れば、Crown-post は、ケント地域の人びと一般に幅広く受け入れられた形式・工法であったと言えるだろう。

Crown-post が用いられた約200~250年の間、架構技術上おそび装飾の面での変化・展開は微々たるものであった。付録1 の年輪時代判定法による分析事例が示しているように、後期建設とされる事例と初期のそれとを分別することは容易ではない。というのも、そこに示される各種の様態から、 Crown-post は、当時の木造建築一般に見られる工法であったからである。
13世紀後期から14世紀初頭にかけて、木材を細く小割にするのでなく比較的太い材で用いる傾向がみられる。14世紀のCrown-post は、fig84(下掲) で分るように collar :首部分の繋梁collar purlin :繫梁を結ぶ横材(母屋桁) への斜材の断面がほとんど正方形であることに示されている。

しかし、15世紀中期になると、薄く板状:長方形断面に変ってくる。14世紀には、斜材fig 80afig 81a (下に再掲)のように、soulace を支えていることがあり、更に伸ばしてcollar を越えて rafter まで伸びていることさえある。soulace は、15世紀初頭には用いられなくなるが、fig84g のように、1500年代の丁寧なつくりには再び用いられるようになる。
   soulaceraftercollar を結ぶ斜材の呼称と解します。この材を支える「意味」は何なのか、力の流れはどうなるのか、考えてしまいます。
頂部と底盤部の装飾の変遷は目立つものではなく、区分・分類も至難である。その事例の幾つかを fig84、fig151、fig152 に紹介してあるが、付録1で詳説する。




16世紀になると、屋根架構を格好良く見せることには人びとの関心がなくなり、Crown-post も単純な細身の束柱となり、ときには brace :斜材も設けなくなってくる。
前にも触れたが、ケント地域の人びとは、保守的な気風で、長きにわたり Crown-post にこだわり続けたのである。その結果、架構法の改良などには無関心で、時代を画するような新たな工法をつくりだすこともなかったのである。
                                                              この節 了 
           ************************************************************************************************************
次回は、 Collar-rafter roofs 他 の節になります。

読後の感想
「合掌」架構への、彼の国の人びとの「執念」とでも言える「こだわり」に、驚嘆せざるを得ません。
ふと思います。彼の国の人びとからは、日本の屋根架構法:束立組は、いったいどのように見えるのでしょうか。
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梅雨空

2016-06-21 14:03:54 | 近時雑感

アジサイの季節です。

当地では、ここ数日、蒸し暑かったり、少し寒さを感じたり・・・と典型的な梅雨模様が続いています。
九州のような豪雨にならないだけよしとしなければ・・と思ってます。被災された皆様へお見舞い申し上げます。

「中世ケントの家々」の続きをやっているのですが、この天候のせいと思いますが、体が重く、休憩・休息時間の方が長くなり、なかなか進みません。
去年はどうだったかな、と思い出してみると、これほどまでではなかったように思います。歳だな・・・。
もう少々時間をいただきます。

皆様も、時節柄、くれぐれもご自愛のほど。
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復刻・「筑波通信」―5:「無名」考・・・・「ものの名前」を知ること=「もの」が分る ことか?

2016-06-14 17:30:09 | 復刻・筑波通信

ベニシジミ

筑波通信 -5 : 「無名」考・・・・・「ものの名前」を知ること=「もの」が分る ことか?     1981年8月1日 刊 の復刻

   以下の内容と同趣旨の記事を以前に載せた記憶があります。重複ご容赦ください。

今回は、山について書かれた文章をもとに話を進めようと思う。
下に載せるのは、臼井吉見のエッセイ「幼き日の山やま」の一節である。
この一文を読んで、私が何を言おうとしているか、察しのついた方もおられるのではないか、と思う。

この文章には、私たちの「もの」への対しかた、「もの」の見かた、知りかた・・、の根本的な問題が、「思い出」というかたちでさりげなく、しかし見事に言い表されていると思う。
私たちは今、「もの」について「知る」ということは、その「『もの』の名前を知ること」に等値であるかのように見なして済ませてしまうことが多分にありはしないだろうか。
あるいはまた、「目の前に在る」というだけで、つまり、「目に見えている」というだけで、それらの「全てが均質・等質・等価に見えている・・・」、と思い込んでいないだろうか。
「存在するもの」を全て対象化してみるいわゆる「自然科学的なものの見かた」が隆盛を極め、当たり前になってからこのかた、「もの」の全てが等値に見え、それゆえ、その「ものの名前」もまた、それら等値の「もの」の《単なる区分上の符号》になってしまったような気配さえ感じられる。
いったい、私たちにとって、「あることを知る」ということ、「知っている」ということ、あるいは、「あるものの『名前』を知る」ということ、「知っている」ということ、より根本的には、「あるものに『名前』をつける」ということ、これらは本来どういうことであったのか、いろいろな知識や情報が数限りなく溢れている今、一度落ち着いて考えてみてもよいのではないか、と思い、この文章を話題にしようと思ったのである。

この文章の中の番頭と中年の客のやりとりが書かれているが、このようなやりとりが何故生まれたのだろうか。
番頭は、「木曽の御岳」と呼ばれる山が在ることは知っているようだ。しかし、毎日自分の目の前に見えている山やまのなかの一画にそれが在るなどということは全く「知らない」。ここで「知らない」というのは、そういう呼び名の山が在るということは、何となく知ってはいるが、その呼び名に対応する山については具体的には知らない、ということである。おそらく、そういえば、何処かで聞いたことが在りますね、という程度ではなかろうか。
これに対して、中年の客は、毎日見ていて(見ているはずで)しかも「あんなに有名な山」を、どうして知らないのだ、と不思議に思ったのである。そこには、毎日目の前にしているもの、しかもそれが世に有名なものであるならばなおさら、常にそれを目の前にしている人びとは、必ずそれを(直ちにそれを指し示せるぐらいに)知っていなければならない、知っていて当たり前だ、という考えが、彼の頭のどこかに潜んでいる。
だから「どこかよそから来たのかね」という言葉の裏には、「そんなことも知らないの!」という番頭の「無知」に対する非難の響きが、明らかに覗いている。文中にもあるが、今、私たちの大方は、この中年の客に右同じだろう。
しかし、この「無知」は、はたして、そんな単純に非難したり笑いものにしたりすることのできる類のものなのだろうか。
この中年の客:私たち大方の代表:の「知っていること」というのは、いったい何なのか?何故彼は木曽の御岳を知っているのか?彼がその「実物」を知らないことは、彼がそれを指示できないことで明らかだ。ところが、御岳について、いろいろと「知っている」ようだ。具体的に目の前にしたことのないものの具体的な胃兪について結構「知っている」ようだ。しかし残念ながら、それが現実に目の前に見えていても(現にそうなのだが)「あれ」を「これ」と比定する手段は、自らのものとして持ちあわせていない。人に訊ねるか地図を見ることになる。もちろん「勘」によって、これはこれだ、と思うことはあるが、それは、あくまでも、「これに違いない」である。
そうなると、この中年の客が「知っていること」というのは、実に不可思議なものだ、という気がしてこないだろうか。

中年の客が、木曽の御岳の「名」を知っていること、木曽の御岳について「知っていること」、それは多分、彼が何処かで仕入れた《知識》と思われる。本で読んだのかもしれないし、人から聞いたのかもしれない。あるいは、学校で「教えられた」のかもしれない。いずれにしろ、彼は、中部地方の一画、信州の南の方に「木曽の御岳」という山が在り、それは高さは〇〇ぐらいの際立つ山で、信仰の対象にもなっている・・・といったこと:《知識》:を持っていたに違いない。その《知識》を持った彼が、その先何を思っていたかは分らない。そんなに有名な山なら、一度は目にしてみたいと思っていたかもしれないし、ことによると、登ってみたいと思っていたかもしれない。ともあれ、おそらく彼は、「木曽の御岳」の他にも、こういった《知識》を数多く仕入れてあるに違いない。だから、おそらく、何処へ行っても、これと同じようなことが起きただろう。


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そして今、私たちもまたこの中年の客同様だから、たとえば、「あれが槍」「こっちが穂高」・・・といった具合に、私たちが「知っている名前が」具体的に一つ一つその「対象」をあてがわれてゆくと、何だか長年の宿題が一つ一つ解けてゆくような快感が味わえ、何となく何かが分ったような《満足な気分》となり、《感慨》にふけったりすることになるわけだ。
けれども、「あるもの」の「名前」を知っている、何の名前であるかも知っている、それがどんなものなのかも知っている。しかし実物は知らない。「実物に拠って知った」のではない。では、そのとき、その「知っている」というのは何なのか。そしてまた、それに実物があてがわれて「分った気分になった」とき、いったい何が「分った」のだろうか。単なる《カード合せの快感》に過ぎなければ幸いである。
今、私たちの頭の中には、見たこともないものも含め、おびただしい数の「ものの名前」が詰め込まれている。それは何なのだろうか。何のために詰め込まれたのだろうか。それは、自分の「知識」の世界が広くなっているということなのだろうか。そのために詰め込んでいるのだろうか。それは、「自分の世界が広くなった」ということと同じだろうか。もちろんなかにはそれが等値の人もいるかもしれない。しかしそのときでさえ、その人にとって、その「詰め込むべき知識」の選別・選択の拠りどころは、いったい何なのだろう。そして多くの場合、もしも目の前に現れてきたものが、どこか際立ったものでもあればまだしも、何の変哲もない、それこそそれまで「名も知らないもの」であったとき、彼にの目には何の「気も引かないもの」としてしか映らないであろうから、彼はそれを《単なる雑物》の一として見過ごしてゆくだろう。
けだし、この中年の客的私たちの多くは、「綺麗な花を付ける」草木には(それが「際立って見えるということなのだが)、それなりの名前を付け、あるいはそれを見たことがなくてもその名前を知り、知ろうとし、そうでないものは、その他大勢、雑物・雑草として、「名もなきもの」として(ときには、あたかも「存在しないもの」の如くに)扱い済ませてしまうのだ。
単に「名前」がない、「名前」を知らないというだけで、そのときそれらは、たとえ彼らの目の前に在ったとしても、彼らの目に映らないのである。彼は何を見ていたのだろうか。彼の眼には、「知識」という「眼鏡」がかかっている
のである。
一言で言えば、彼の中年の客すなわち我が近代人代表のこれらの「知識」は、いわゆる「教養」なのだ。おそらく彼は、「専門家」ではないにしても、いろいろなものごとについて、それは「かくかくしかじかのものなり」という(誰かがつくってくれた)「知識」を、どこかで身に着けたのである。しかしそれは、あくまでも《吊るし》の「知識」を知識として仕入れたのであって、それが日ごろの自分の生活とどのように結びついているかなどということとは、全く別の話として、ただ自分がそういう諸々の「知識のかたまり」と結びついているということ自体に《意義を見出している》のだろう。《そういう博識こそが自分の人格を向上させる》のだ、何かそういう気分さえ感じているに違いない。
今、私たちの周りを見渡したとき、こういう「物識り顔」「訳知り顔」の人たちが幅をきかし、あの番頭のような《無教養な人びと》が小さくなっている、ならざるを得ない、そんな状景があちこちに見えてこないだろうか。このエッセイのエピソードは大正中ごろの話である。この中年の《教養人》と《無教養》な番頭の話の食い違いのような例は、今よりもずっと多かったかもしれない。そして《無教養》な番頭の方は、少しも《無教養》など気にもかけず、気の毒そうな顔つきの裏側で、「変な客だ、何で私が木曽の御岳を知ってなけりゃいけないんだい」などと思っていたに違いない。
しかし、今だったら、番頭も、それがサービスというものだと思って、訊かれもしないのに、観光バスのガイドの如くに、山やまの名前を得々と説明しだすに違いない。
このエピソードが大正の中ごろだというのが象徴的である。
おそらく、その頃から、こういう中年の客的人間が増えだしたのではなかろうか。自らの手で獲得したものではなく何処かで仕入れた諸々の「吊るしの知識」が、人びと(特に「教養あること」を誇りに思う人びと)の頭の中を占拠しだしたのである。
ことによると、今はもっと激しくなっているかもしれない。
そして、そういう意味で「無教養な」人びとは、由無く肩身の狭い思いを強いられるである。

では、彼の番頭は、何故《あの有名な》御岳を、それが目の前に在るにもかかわらず、指し示すことができなかったのか。
その答は、既に先の一文中に書かれている。
すなわち、「生まれたときから里近くの山に特別に深くなじんでいるので、奥の高い山などにはとんと無関心で過ごしてしまう」からなのだ。
それは何故なのか。そこにははっきりそうだとは書かれてはいないが、それは、里近くの山やまが、彼ら(その地に暮す人びと)の生活の「範囲:領域」として取り込まれたもので在ったからなのだ。そこは、彼らの生活:暮しと切っても切れない関係にある。単なる景色・景観ではないのである。
故に、目の前にするもの全ては決して等質ではなく、その内の彼らの生活・くらしに具体的に関わるものが、先ず浮き上がって見えてくるのである。しかもそれらは、「教養ある人びと」の目に見えている以上に、彼らの生活なりに、より細やかに、彼らには見えているはずだ。
そしておそらく、「よそ者」でも、中年の客的ではなく、番頭と同様の生活基盤を持つ人たちには、それが見えるだろう。そういう山やま:「もの」には、彼らに拠って、それなりの「名前」が付けられたのである。そのとき、狭間に見える遠くの高山などは、文中にある如く、どこか遠くの彼らには何の関りもない山の一つに過ぎないのであった。もちろん、それがもっと近くにあって、どうしても「日常気になってしょうがない」山であったならば、たとえそれが直接的に彼らの生活・暮しの領域に関りがなくても、それなりの「気遣い」が見られるだろう。例えば、<strong>諏訪</strong>でならば、<strong>蓼科山</strong>や八ヶ岳などは決して放って置かれたり、」ましてやその名前も知らず、「どれでしょうね」などということはあり得ない(実際それらは、諏訪(大社)と密な関係にある)。それに比べれば、木曽の御岳は、彼らとの関りで言えば「遠い」山なのである。早い話、御岳という名の山は各地に在る。それぞれの地域の人びとが、そのように「尊称」をもって呼んだのである。「木曽の」とわざわざことわるようになったのは、各地に御岳が在るということが分ってきたから、その区別が必要になってからのことである。彼の番頭にとって、いくら目の前に見えていようとも、それは「地元の」山でなかった、ということなのだ。

つまり、彼の番頭に代表されるその地に暮す人びとが日常的に名付けて呼んでいるものは、彼らのその土地での生活の都合上「知っている」ものに限られ、従ってそれは、決して「全国的に知られるようになる」とは思えない類のものが大半を占め、それゆえまた、この中年の客が興味を示すような類のものでも決してないのである。番頭が木曽の御岳(の名)を知っていたのも、たまたま泊り客からでも聞いていたことに過ぎず、せいぜい、そういう山があるんだってさ・・、という程度の、言わば、彼にとっては《余計な知識》でしかなかったのだ。実際、その地で長く暮してきた人たちのなかには、木曽の御岳も富士山も、そしておそらく東京さえも知らないで生きてきた人たちがいたに違いないのである。そういう《知識》に対しては「無知」であっても生きられたのである。
すなわち、中年の客と番頭では、その「知っていることのなかみ」が明らかに異なるのだ。だから、番頭に代表される「地元に根付いた生活をしてきた人たちの『知識』」は、いわゆる「教養」「教養的知識」などではないのである。「こういう知識」を、この現代において、いったい何と呼んだらよいのだろうか。

今私たちが「教養的知識」として得ている立えば山の名前にしたところで、私たちは、その名前によって、その名前の付いたものについての《ある程度詳細な事実》をも思い浮かべ、「名前」=「もの」のように見なして当たり前のようになってしまっているわけだが、実は、その「名前」は、私たちによって名付けられたわけではないこと、また《ある程度詳細な事実》というのも、私たちが直接それに「触れて」得たものではないこと、従って、「もの」と私たちの「知識」との間には一つ「回路」が挟まっているのだ、ということに、今こそ改めて気が付かなければならないのではないだろうか。その「回路」が問題なのだ。
そしてまた、実は、多くの場合、例えば山の名前は、彼の番頭のような暮しかたをしてきた人びと:《無教養》《無知》な人びとに拠って名付けられてきたものなのだ、ということにも気が付かなければなるまい。同じく、それらについての詳細な知識の「根」も、彼らが「暮しのなかで獲得した知識」にあることにも気が付かなければならない。
このことは、国土地理院の地図に記されている山などの地名は、それらについてのその地元の人びとの呼び名が取集され、そのなかから選ばれたということ、たとえば、ある山の名は、測量チームが、その山のどちらの側から最初に近付いたかにより(たとえば飛騨側か信濃側か)、最初に近付いた側で呼ばれていた名が与えられることが多かった、ということなどから明らかだ。つまり、一つの山に対して、「幾つもの呼び名」があったこと:「幾つかの地元」があった、ということだ(このような「地元の呼称」が無視されるときには、エヴェレスト、K2などのように、最初の測量者の名前や、測量上の符号などで済まされる)。
しかし、このような《近代的》命名は、地元の人びとの心からはかけ離れてしまう。何故なら、地元の人びとの呼称に備わっているはずの深い「根」「地下茎」をきれいさっぱり切り落として、単なる「符号」と化してしまうからである。そうなった後は、地元以外では、名前は「単なる名前」としてのみ通用するようになってしまう。
昭和初期以降、新興住宅地に、「語のにおわすイメージ」や「語のひびきだ」けで呼称が付けられることが増えたのもこのことと関係あるだろう。たとえば、自由ヶ丘、桜丘、桜台、希望ヶ丘・・・の類である。実際に「その土地」からイメージが出てくるのではなく、名前が先行するのである。
そして逆に、こういういわば「文学的」イメージを切り捨て「物理的」イメージに徹すると、最近の住居表示のごとき「中央〇丁目」などというのになる。

以上で明らかなように、彼の番頭(に代表される人びと)には、「目の前に在るもの」は、彼らの「生活体系」のなかで、その生活との関りの遠近あるいは濃淡の度合いに応じて整えられ位置付けられ、彼らの「知恵」となってゆくのに対し、中年の客(に代表される人びと)においては、《彼らの生活自体とは無関係な何らかの「基準・物差し」》によって選択される《「知識」体系》のなかに位置づけられてゆくのである。
おそらく、この違いは、重要かつ決定的な違いのはずである。端的に言えば、近代的教養人にとって、その日常は、取るに足らない、下らないものとの鬱陶しい付き合いに他なるまい。何故なら、彼らにとって大事なのは、自分の仕入れた《高尚な》「知識・教養」との付き合いだからである。
自ずとそれは、自分を懸けて
社会に関るのではなく、自分の主たる興味の中心たる「知識体系」を通じてのみそれと関り、それ以外については、我関せずとしてすごしてゆくことになる。こういう者にかぎって自ら「専門家」と称したがる。彼らは虚構の世界に遊んでいるのであり、具体的な生活に根を下ろしていないのだ。逆に言えば、泥臭い根や地下茎に触れることを避けることで、私たちは簡単に「今様の教養人・知識人・専門家・・・」になれるのだ。そして今、彼の番頭に代表されるような「草の根付きのものの見かた・知識」は一般的ではなくなっているから、そのような存在の意味さえ分からなくなりつつある、と言ってよいだろう。
つまり、番頭と中年の客の「違い」自体が分らなくなってきているのである。しかし今、私たちが突然絶海の孤島にでも放り出されたことを想定してみると、この「違い」は歴然と露になってなってくるはずだ。そのときはじめて、虚構の世界はあくmでも虚構に過ぎないこと、つまり、星座ではなく、それを構成する「星」の大事さが、そして「星座」の意味が、はじめて分ってくるだろう。「知識」というものの本当の意味が見えてこよう。しかしこんなことは、絶海の孤島に出かけずとも、それこそ「日常」において分らなければならないのだ。私たちは今、ものを「常識」という二重三重にも重なった星座でしか見ない癖がついて(つけられて)しまったのだ。


カタバミ

私は別に、「知識体系」や「教養」を持つことを否定しているのではない。日常の「営為」とそれとの遊離、言い換えれば、生活という根や地下茎を切り捨てて済ますこと、それを問題にしているのだ。正当な理由もなくそれを切り捨て済ます癖がついてしまったからこそ、「それはそれ、昔は昔、今は今・・・」になってしまったのだ、と私は思うのだ。このような傾向、状況は、冒頭に引用した文にもあったように、大正の中ごろから《当たり前に》なってきたように思える。
そして今、私たちの身の回りの「もの」や町や建物などが、ほとんど全て、根や地下茎を見失ってしまった彼の中年の客的発想で語られ、そして造られるようになってしまってはいないだろうか。人びとは抽象的人間として「対象化」され、生身の人間は雲散霧消してしまい、なおかつ、それが「科学的」ということなのだと愚かにも思い、目の前のものも全て「景色」「景観」としてのみ扱われ、その《見えがかり》言うなれば「写真映り」ばかりが問題にされ、それらの私たちの生活・暮しにとっての「思い意味」は決して省みられもしない。私たちの日常には、必ず、大なり小なり、彼の番頭の生活・暮し的な局面があるはずだ。そうでありながら、番頭に代表される人びとの立場・発想が切り捨てられる。
それゆえ、そういう状況下でつくられる「もの」のほとんど全ては、私たちとの語らいを許さない、白々しい、私たちの神経を逆なでするような、あるいはまた、私たちに所定の行動しか許さないような、ある詩人の言葉を借りて言えば「体験の内容となり得ないもの」「魂の象徴を伴わぬような用具に過ぎないもの」になってしまっている。
   この詩人の言葉の当該部分を邦訳原文から下に転載します。
   ・・・・・・
   今の世では、嘗てなかったほどに
   物たちが凋落する――体験の内容と成り得る物たちがほろびる。それは
   それらの物を押し退けて取って代るものが、魂の象徴を伴はぬやうな用具に過ぎぬからだ。
   拙劣な外殻だけを作る振舞だからだ。さういふ外殻は
   内部から行為がそれを割って成長し、別の形を定めるなら、おのづから忽ち飛散するだろう。
   槌と槌のあひだに
   われわれ人間の心が生きつづける、あたかも
   歯と歯のあひだに
   依然 頌めることを使命とする舌が在るやうに。
   ・・・・・・
                      リルケ 「ドゥイノの悲歌」: 第九の悲歌

この詩人は、別のところで、次のようにも記している。すなわち、
・・・・・・
私たちの祖父母にとっては、まだ『家』とか『井戸』とか、なじみ深い『塔』とか、それのみか彼らの着物やマントさえも、今日より段違いに大切なものであり、また親しみ深いものであった。
彼らにとっては、すべてのものが、その中に人間的なものを見出したり、またそれを貯えたりしている器であった。
ところが今は、アメリカから中身のない殺風景な物品が殺到してくる。
それらはただの仮の物、生活の玩具にすぎない。アメリカ式の考えによる住居、アメリカの林檎、アメリカの葡萄には、私たちの祖先がその希望と心やりをこめていた家やくだものや葡萄とは、少しも共通なところはない。
私たちからいのちを吹きこまれ、私たちによって体験され、私たちと苦楽をともにするところの「もの」は、いまだんだん消滅しつつある上に、もはやこれを補う道もない。
たぶん私たちは、このような「もの」を知っている最後の人びとであろう。
・・・・・・
                                     リルケ「ミュゾットの手紙」(唐木順三「事実と虚構」より孫引き)

この「手紙」は1925年に著されている。それから五十余年、今私たちはヨーロッパから半世紀遅れて「最後」に直面しているのだろうか。それとも、もう「最後」を通り過ぎてしまったのか、まだ辛うじて「最後」を引きずっているのだろうか。
そして私は、「もはやこれを補う道もない」という暗い気分に、ともすれば陥りそうになりつつも、しかし、どうしてもそのまま済ます気にもなれないのである。むしろ、補えるという確とした見通しがあるわけではないが、私たち(の世代)がそれをしなくて、いったい誰がそれをするのか、そう思うだけである。
それがきっと、今生きている私たちの、私たちに課せられた「義務」なのだ。そのように思いたい。私たちは、精一杯、切り捨ててしまった根や地下茎を再び探して繋げ直す責を、きっと背負っているのである。

ここしばらく、幸いなことに、私は「学識のない」「無知の」「専門家でもない」人たちが、一般に素人は口をさしはさむべきではないとされるいわゆる専門的なことがらについて、《学識ある》《専門的知識溢れる》専門家に対して、おずおずと、しかし「したたかに」「素朴な」問いかけをする場面に何度も会ってきた。
彼らが「おずおずする」のは、必ず専門のことは専門家の言う通り聞いていればよい、とか、専門的なことだから、どうせ説明したって分らない、などと門前払いをくらうのが常だからである。そして彼らが「したたか」なのは、そうされても彼らは酔い続けるからだ。
何故彼らは諦めないか。それは、全く単純な理由に拠る。自らの体験で「おかしい?」と思ったことは「おかしい」と言う、そして、どう考えても分らないことに対しては、素直に、分らないから説明してくれと言う。それだけである。しかしこれがいかに並大抵のことでないか。世の中の「常識」「慣習」という峠を何度も越えなければならないからだ。
実は、こういう「問いかけ」こそが、まさに学識ある専門家たちを根底から揺さぶることになる、という場面に、ことあるたびにぶつかったのだ。
彼ら専門家のほとんどは根無し草だから、ひとたまりもない。生活・暮しにがっちりと根を張っている人たちの素朴な問というのは、根源的( radical )だからである。
そして、このいわゆる素人たちは、その専門家とのやりとりの中から、自分たちなりに「知識」をどんどん吸収し、自分たちの生活体系に組み込んでゆく。そこには、生活体系と知識体系の二本立てはない。根から幹へ、幹から枝へ、そして葉へと、一本のしたたかな樹木となる。ますます自分たちの生活・暮しを取り囲むものが「分って」くる。言うなれば、あたらしい型の彼の番頭的人びとが生まれてくるのである。この「無知」で「無名のひとたちが、「知識溢れる」「有名」「高名」な人たちと、対等に、ときには対等以上に話を交わすまでになる。
そしてそのとき、あらためて、「専門家」とはいったい何か、ということが問われることになる。


モン シロチョウ>

もちろん、このような「したたかな」人たちの数は、未だ絶対的に少ない。多くの人たちが、自らを「無知」と決めこんで、雲の上の《偉い》人たちの言いなりになっている。だから雲の上の人たちは、ますますいい気になる。雲の上にいることこそ知識人、専門家の望むべき姿だとさえ思うようになる。
けれども、あちらこちらに、自分たちの上に覆い被さるこういう「暗雲」を取り除こうとする人たち、自分たちの生活・暮しに根を張ることを大事にする人たち、こういう人たちが現実に居るということ、そしてその周りに、このことの大事さに気付く人たちが増えていること、そういう現実を目の当たりにするとき、未だ決して「最後」ではないのだ、と思うのは楽観的に過ぎるだろうか。
明らかに、根や地下茎を切り捨てることを拒み、「間抜け」を嫌うひとたちが、いつも踏みつけられながら、そしてそのたびに強くなりながら、したたかに生きている。
こういう素晴らしい「無知な」人たちに、いつも私は勇気づけられてきた。それはほんとに「幸いなこと」であった。



あとがき
原文は、ワープロのない時代、和文タイプで書いています。したがって、誤字などの修正、文章の改定などは、別途タイプ打ちし、それを字の通り「切貼り」して行ないます。今回の文にまとめるにあたり、ときには、糊がとれて剥落している個所もあり、その箇所の「修復」に、結構気を使いました。
しかし、ワープロを使う現在よりも、文章の「推敲」の度合いは、数等高かったように思いました。
あらためて、「便利さ」の持つ「危うさ」について考えさせられています。

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梅雨入り

2016-06-10 09:30:00 | 近時雑感


数日前に梅雨入りしたとのこと。ここ数日、曇り主体の日が続いています。
この季節、近在の畑地を彩るのは、ダイコンの花の群落です。上の写真は、その遠景。
ダイコン畑ではありますが、大根を採るのが目的ではありません。種子を採取するのだそうです。種子の方が収入がよいのだ、と農家の方が話されていました。もう終りましたが、同じように、ミツバも種子採取のために栽培されてます。

近くに寄って撮ったのが下の写真です。少し紫色を帯びた白いきわめて小さな花です。




たくさんのモンシロチョウが舞っているのですが、見分けがつきません。
騒がしい人の世とはちがい、自然界は静かに夏に向っています。

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六月になりました

2016-06-03 10:43:25 | その他

ヒメスイレンの花が、昼近くなると開き出し、4時ごろになると閉じ始めます。陽の光に応じているらしい。

六月になりました。
各地で早くも夏日だ・・・、とにぎやかですが、当地は、霞ヶ浦に飛び出している半島のせいか、夏日:25度を超える日:も滅多になく、快適な日が続いています。
藪も生い茂り、おどろおどろしくなってきました。
あちらこちらで啼いていたキジもウグイスも少なくなり、今はホトトギスの天下です。

今年の六月は、設計事務所登録更新の期限だったのですが、もう「営業」は《面倒》なので、更新しないことにし、既に去る三月、「廃業届」を提出してあります。
ゆえに、今は、字の通りの「自由業」です。
もちろん、「建築をめぐることども」について語ることは、「登録」や「資格」とは関係のないことゆえ、このブログも含め、これまでどおりに続ける所存です
(当ブログのプロフィールは、既に三月に改訂してあります)。

先ずはご挨拶まで・・・・。
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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-33

2016-06-02 14:32:45 | 「学」「科学」「研究」のありかた



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End-jetty houses and end ‘crucks’

先に6章において、小規模で比較的簡素で、年輪判定で遅いと見なされた事例から、「端部跳ね出し(突き出し)形式: end-jetty houses 」の家屋は、主屋に直交して置かれる別棟形式や WEALDEN 形式の家屋よりも後になって発展した形式であると考えられ、よく言われるような後期の形式に先立つ事例ではないことについて触れた。その一つの理由は、それらの多くが、 階上の crucks:upper crucks あるいは end-crucks の名で呼ばれる「湾曲した部材」を持っているからである。この部材は、階上の跳ね出し:突き出し部に設けられ、 half-hipped roof と呼ばれる屋根を承けている。
   half-hipped roof :完全な寄棟屋根ではなく、寄棟屋根の先端部を切り取った形の屋根。fig82, 83 のように、立面上部が台形状になる。
LYMINGEUPSTREET COTTAGESHYTHE 近郊の NEWINGTON にある OLD KENT COTTAGE は、既に公表されている事例である。YALDING 教区の BENOVER にある BURNT OAK は、quasi-aisled :疑似側廊形式の架構で、hallbase ceuck で造られている。一見すると新しい時代のもののように見えるが、調べてゆくと、end crucks が本体とは別の増補された部分であることが分ってきた。このように二期にわたると見なされる事例は他にもある。fig82SMARDEN にある TOLHURST FARMHOUSEfig83DETLINGWELL COTTAGE などがその例である。
   crucks basecrucks については、このシリーズの「-16」「-17」「-18」を参照ください。


二つの部分が見られる場合、どちらが新しい部分か判断に迷う場合があるが、WELL COTTAGEの場合は、きわめて明瞭であった。ここでは、背丈の低かった建物に部材を追加して背丈を高くしている。具体的には fig83 のように cruck 類似の部材が、新しく追加された wall plate梁を承ける桁にあたる部分:を承け、この wall plate が新規の屋根を支えている。
最終的には、STAPLESUMMERFIELD FARMHOUSE のように、end-crucks が両側に二組設けられるような建物も現れるが、SUMMERFIELD FARMHOUSEの建屋は総二階建で、16世紀後期~17世紀に建てられたのではないかと考えられている。
end-crucksのある建物は、概して異様なほど壁の高さが低い。end-jettied 形式の建物や unjettied の建物は、6章でみたように、一般に WEALDEN 形式の建物あるいは直交配置の別棟形式の建物に比べると相対的に壁が低く、その wall plates の高さは平均してGLから 3.8mである。ところが、そのうちで end-crucksを設けた事例(全部で6例ある)は、これよりも低い。3.2mより高い例は一つもなく、平均高は 2.26mと、かなり低い。この建屋に二階を挿入することは、高さと、採光の点で、極めて難しい。とりわけ普通のケント風の寄棟屋根ではなおさら難しい。だから、end-crucksで端部の壁を高くし、屋根を half-hiped roof にする方策は驚くべき工夫なのである。その結果、室は四周各所に設けられ、かつ開口部ある壁も用意できるようになった。また、そこでは、湾曲した cruck-like の部材繋梁承け材として重要な意味を持っている。
これらの事例は、建設が二度にわたっている場合が多く、おそらく当初の平屋建ての端部が増補されたと考えられるが、WELL COTTAGEでは、跳ね出しの二階が既に在ったようだが、階上は屋根裏部屋同然であった。時代判定というものが、正確でないのは珍しいことではない。しかし、end-crucksが二度の時期に造られている傾向が多いこと、そしてそのいくつかは遅れて(多分、 half-hiped roof が別の意味を担うようになってくる頃)現れるという事実、しかも小規模の比較的貧しい家屋に多いこと、これは全て、これらの事例が15世紀後期以降の建設であることを示していると見てよいだろう。
                                                                    この節 了
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筆者の読後の感想は、次回の Late medieval roof construction 紹介後書くことにします。
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復刻・「筑波通信」 -4 : 「間」抜けの話・・・・・「間」が《抜かされる》ということ

2016-05-28 09:58:42 | 復刻・筑波通信

けやきの若葉

筑波通信 -4 : 「間」抜けの話・・・・・「間」が《抜かされる》ということ     1981年7月1日 刊 の復刻

五月の末から六月の初めにかけ、季節外れの夕立が続いた。それも雷雨である。
   註 1981年のことである。
そんなある夜、研究室に、学生の某君が、本を抱えて興奮した面持ちで飛び込んできた。どうしてもこの本を見てもらいたい、というのである。
その本とは、帝国書院から出されている「世界の地理教科書」シリーズのスイスの地理教科書であった(中学生対象ではないかと思う)。もちろん日本語訳である。不勉強で、こういう本があるなどというこよを、ついぞ知らなかった(このシリーズに続いて、世界各国の「歴史教科書シリーズ」も刊行されつつあるとのこと)。
その本にざっと目を通してみて、何故彼が話をしたくなったか、合点がいった。私たちが学んだ(学ばされた)地理の教科書とは全く異なているからである。私が常日ごろ望んでいたことが、この中学生用の教科書に、大げさに言えばものの見事に書かれていたのである(今、同じようなことを、大学生に話さなければならない、というのがあほらしく思えたのである)。
一言で言ってしまえば、この教科書は、「国土」について、諸「知識」を単に並べたものではなく、「国土」を、「そこで、人びとが生活してゆく」という視点で、どのように「把握すればよいか」という見かたで貫かれている、ということに尽きるだろう。
詳しく示せば、スイスという国土を、子どもたちがどのように捉えるか、その捉えかたを述べるのである。たとえば、〇〇山脈が何処にどのように走っていて、高さがどうで、地質やそのできかたがどうであるかというようないわば「物知りおじさん」的「知識」ではなく、もちろん、それも書いてあるが、それだけで終るのではなく、(したがってそれを覚えればよいというのではなく)、そのような山脈のあるところでは、どのような「自然」が展開し、そのような「環境」にあって、人びとはどのようにして暮さなければならなかったか、暮してきたか、暮しているか・・・、つまり、人びとの生活がどのように変ってきたか、人びとはその「自然」にどのように対処してきたか・・、といった現在の学問分野でいうところの「歴史地理学」「人文地理学」「あるいは「集落地理学」に係わる話が、実に分りやすく淡々と述べられている。これが、それぞれの固有の特性をもった地域ごとに語られ、その結果、スイスという「国」と、そこでの人びとの生活が、実にはっきりと浮びあがってくるのだ。
   そのような「特性」が存在するからこそ、「地方」「地域」という「概念」が生まれた、在ったのではなかったか。
   いま日本で「地方」「地域」と言うとき、そういう「特性」の存在を認めた上で語られているだろうか
そこには、ある地域が何故そういう地域になったのか、それを観る見かた・捉えかたが懇切丁寧に書かれており、その一環としてたとえば、ある地域に暮す人びとの一日の、そして一年の生活が、その「地理」との関係で、あたかも日程表のごとくに語られ、そのような生活との関連で、その人びとの家づくりの在りかたについても触れられている。だから、読んでいると、行ったこともなく見たこともないスイスのある地域のありさまが、目の前にありありと浮かんでくる。
そしてこれが大事なことなのだが、それは決して単にその地域について知ったということで終らないということだ。そう見てゆくなかで、たとえば、わが国のあの地方のありさまは、いったいどうなのだろうか・・・、といった具合に、それとの対比でものを観る私の「視野」が自ずと拡がってくるのである。つまり、一つのことを観ることが、十のことを観る観かたをも示唆してくれるのである。
すなわち、このスイスの地理教科書は、現象あるいは事象の「結果」だけではなく、そのような「結果」に至った「過程」を語っているのである。
訪ねてきた学生は、日ごろ、世の中一般に「結果」だけ注目され「結果」だけつなげてものごとが語られ学問・研究がされ、つまるところ、そこに至る「過程」が無視されていることに、言いようのない怒りを抱いていて、たまたま私が、およそ人のやることは「結果」も大事ではあるがそこへ到達するまでの「過程」:「人間の営み:営為」について考えてみることこそ大事である、と日ごろ言い続けていたものだから、私なら怒りを聞いてくれるだろう、と思い訪ねてきたのである。
そのとき、「人はどうしたか」、「どうするか」こそ大事なのではないだろうか。
人の為した「結果」について、あれこれ言うことぐらい易しいことはない。しかしそこからは、決して「人がどうしたか」は見えてこない。
逆に、「人がどうしたか」「どうしてきたか」が見えたとき、私たちは、ある一つの地域、あるいはある一つの現象を見ることを通して、「やがて目にするべき一切の風景を理解すること」ができるようになるはずなのだ。
   註 この文言は、当時読んでいた、サン・テグジュペリの著作の一節からの引用です。
     そのあたりをサン・テグジュペリ「城砦」(山崎庸一郎 訳 みすず書房)より以下に抜粋転載させていただきます。

     ・・・・・・
     かつて、存在するもろもろのものがあり、忠実さがあった。
     私の言う忠実さとは、製粉所とか、帝国とか、寺院とか、庭園とかのごとき、存在するものとの結びつきのことである。
     その男は偉大である。彼は、庭園に忠実であるから。
     しかるに、このただひとつの重要なることがらについて、なにも理解しない人間が現れる。
     認識するためには分解すればこと足りるとする誤まった学問の与える幻想にたぶらかされるからである
     (なるほど認識することはできよう。だが、統一したものとして把握することはできない。
     けだし、書物の文字をかき混ぜた場合と同じく、本質、すなわち、おまえへの現存が欠けることになるからだ。
     事物をかき混ぜるなら、おまえは詩人を抹殺することになる。
     また、庭園が単なる総和でしかなくなるなら、おまえは庭師を抹殺することになるのだ。
     ・・・・・・
     それゆえに私は、諸学舎の教師たちを呼び集め、つぎのように語ったのだ。
     思いちがいをしてはならぬ。おまえたちに民の子供たちを委ねたのは、あとで、彼らの知識の総量を量り知るためではない。
     彼らの登山の質を楽しむためである。
     舁床に運ばれて無数の山頂を知り、かくして無数の風景を観察した生徒など、私にはなんの興味もないのだ。
     なぜなら、第一に、彼は、ただひとつの風景も真に知ってはおらず、
     また無数の風景といっても、世界の広大無辺のうちにあっては、ごみ粒にすぎないからである。
     たとえひとつの山にすぎなくても、そのひとつの山に登りおのれの筋骨を鍛え、
     やがて眼にするべきいっさいの風景を理解する力を備えた生徒、
     まちがった教えられかたをしたあの無数の風景を、あの別の生徒より、おまえたちのでっちあげたえせ物識りより、
     よりよく理解する力を備えた生徒、そういう生徒だけが、私には興味があるのだ。
     ・・・・・・
     私が山と言うとき、私の言葉は、茨で身を切り裂き、断崖を転落し、岩にとりついて汗にぬれ、その花を摘み、
     そしてついに、絶頂の吹きさらしで息をついたおまえに対してのみ、山を言葉で示し得るのだ。
     言葉で示すことは把握することではない。
     ・・・・・・
     言葉で指し示すことを教えるよりも、把握することを教える方が、はるかに重要なのだ。
     ものをつかみとらえる操作のしかたを教える方が重要なのだ。
     おまえが私に示す人間が、なにを知っていようが、それが私にとってなんの意味があろう?それなら辞書と同様である。


では、この教科書が、どういう形でその叙述を締め括っているかというと、地域ごとにその地域の特性:人びとの生活を通観したあと、素直に、その国土の将来の(あるべき)姿を、将来の「(国土の)景観」というかたちで示して、我われ(スイス人)は、将来へ向けていま何を為すべきかを述べて終っている。

一通り目を通して、学生に劣らず、私も少なからず興奮し、何故スイスではこうで、日本ではこうでないのか、大げさに言えば夜の白むまで話が弾んだのである。
話をしてゆくなかで、彼が頭にきたのには、もう一つ別の理由があったことも分ってきた。
実は、この学生は、この本を地理の先生にその講義で紹介されたのだという。そこで彼が、例の「過程」重視論を述べたところ、その先生曰く、では書き方の順序を逆にすればよいのですかね、と言われたのだそうである。かれはそこで先ず頭に来た。そんな書き方の形式を言っているのではない、もっと本質的なことなのに・・・、というわけだ。
そして更に、この先生はこうも言われたのだという。近ごろ、建築を学ぶあるいは研究をする人たちをはじめとして、地理学以外の人たちがどんどん地理学の分野に入り込んでくるものだから、地理学の独自性を保つために地理学はいったい何をしたらよいのか、いろいろと論議がある、と(実際にこういう表現で言われたのではなく、私がいわば「意訳」した文言である)。なるほど、これは私も頭にくる。この学生が頭にきて当然である。「ね、そうでしょう」と言って彼はほっとした面持ちになった。それが印象的であった。もちろん、この「先生」は、「大学の」先生である。

私は、何故日本にはこのような教科書が存在しないのか、考えた。そして、今からでもこんな具合の教科書をつくることができるだろうか、としばらく考えた。子どもの教科書もながめてみた。そして、悲しいかな、書けないだろうという結論に達したのである。何故か、何故在り得ないか。
一つは、日本の現状が、このような書きかたを受け容れないものとなっているからである。
たしかに、ある時代までは、スイス同様、国土と人びとの生活について、つまり、「地理」と「人間の営為」とについて雄弁に語ることができる。
しかし、ある時以降、〈突然〉のように(本当は〈突然〉ではなく、〈下準備〉は着々と為されていたのだが、時間を圧縮して見ると唐突、突然に見えるのである)、地域の特性と人びとの生活とは無関係となり、国土はそれぞれの特性をもった「土地」ではなく、単なる「地面」として扱われるようになり、特性などはかえりみもされず、何処でも全く軌を一にした生活を行い得るのだ、それがよいことなのだ、それでよいのだ、という世の中になってしまっていたのである。
ゆえに、今、現代に生活する上では、「地理(の諸知識など)は不要である、つまり「地理を学ぶこと」と「生活」とは直接的な関係はないように見える。そうなってしまっている。だから、スイスの教科書のようには、素直に淡々と書くことはできないのだ。
書こうとすればするほど、歴史的な意味での「断絶」と、「地理を学ぶこと」と「現実に行われている生活」との間に存在する「断絶」が、より一層、目に見えて明らかになってくるだけなのである。
従って、できることと言えば、これまで慣習的・因習的に行われてきたように、それまでの《蓄積》の上に《最新の》事項を盛り込むことだけで、地理学の《最新諸知識》を〈系統的にきれいに整理して記述する〉ことしかないのである。
ゆえに子どもたちは、それらの《諸知識》が、自分たちの「生活」と如何なる関係があつか分らずじまいのまま、つまり何故に「地理」を学ぶのか、学ばされるのか分らないままに、徒に《暗記を強いられる》こととなる。
それはすなわち、前々号で書いた言いかたで言えば、子どもたちに、「それはそれ、昔は昔、今は今・・・」という「ものの見かたを教え込んでいることに他ならない。
「地理」は、すなわち「地理学」「地理教科書」は、この「現実との不整合」に目をつぶってはいけないのだ。そこから逃げてはいけないのだ。「地理学は今何をしたらよいか、などといういうような「愚痴」をかこっていてはならないのだ。
むしろ、この不整合な事態の不条理についてこそが、「地理学」の言及しなければならないことではなかろうか。それこそが「地理学」の本務だったのではないか。「地理学とは、そもそも何であったのか」ということだ。それを忘れて、自ら進んで自分の「縄張り」を狭めてゆく。その先は見えている。「学際的」研究・・を唱えるだけだ。しかし、そうしたところで、不整合な事態の不条理については言及できないだろう。各分野の「言及できない」ものがいくつ集まったところで言及できるようになるわけがないではないか。地理学以外の(人びとの生活に係わる)学問・研究分野でも同様な不整合が存在している、と私には思えるからである。まさmにこの点こそが、何故スイスのような書きかたの教科書が日本で在り得ない、と私が思う、もう一つの理由である。このような書きかたのできる人が、「地理学」界に、はたして居るのか?ということである。もし居るならば、そういう教科書が一つや二つあってもよいではないか。しかし、在りそうにない(全部を調べたわけではないから、断言はできないが・・・。文部省の規制があるからか?そうだとしても、必ずしも、そういう「外圧」だけとは思えない)。もともと、長年にわたり、「地理を学ぶというこ」=「我が国土について知ること」=「我が国土についての地理学的諸知識を《習得》すること」=「諸知識を辞書的に収集すること」で何ら疑いもせず済ませてきてしまい、「地理を学ぶこと」の「意味」について、何ら考えられてこなかったのだ。それはすなわち、書く側に、何の「反省」もなかったということになる。教えられる側は、つまり子どもたちは、意味も分からないまま(現実と不整合のまま)やみくもに、字面のとおりに《勉強》させられてきたのである。そこには本来の「学習」は存在しない。
   「勉強」の元来の意味は、商人が「勉強しておきましょう」と言うようなときの「勉強」の意であるという。
   その語が、「自らへ問題を課す」というような自制的な意を込めた「学ぶということの在りかた」の意に転じたものと思われる。
   そしてそれは、いつの間にか、多動的にして受動的なすがたになってしまった。つまり「学習」ではなくなった。


ウツギの花

おそらく、このように書くと、何も全てが現実の生活との係わりをもって語られる必要はないではないか、学問の成果は成果として、教えてよいではないか、何故ならそれこそが今人間の到達している最先端なのであって、教育の目的の一つは、その先端を将来更に先に延ばすことにあるのだから、と。そして、(自然)科学・技術(に係わる分野の教育)は、まさにこういう局面で実践されており、人文科学の分野もこれに追随しようとしているように、私には思えてならない。
しかし敢えて私は、これは誤っていると言おうと思う。
何故なら、今の最先端とは、いかにどれだけ「人間としての」立場から遠く離れるか、と言う意味での先端でしかない、ように見えるからである。学問というものが、進めば進むほど鋭角化し、知識自体もより細部にわたるようになることはそれはそれで当然である。
しかし、そうなるまでの過程が忘れ去られ、ただ目前の状況から前へのみ、そうすることの意味さえ忘れてただ突き進むということ、そしてそれを最先端と思い込み平気でいられるということ、に対して私は疑義・異議を申し立てたい。過程を忘れるということは、人間としての立場から、どんどん遠くなってゆくことに他ならないからである。
そしてまた、このような人間としての立場からほど遠くなった、あるいは人間としての立場を欠いた見かたが平然と教えられる一方で、必ず、他人へのいたわりの心、だとか、自然を愛する心、だとか、はたまた「道徳」だとかが、これまた平然と教えられるのが常だからである。考えてみるまでもなく、こんな論理的に矛盾するはなしはない。いったいどうやったら人間としての失ったものの見かたに、人間的なるものを継ぎ足すことができるのだろうか?
私たちは、まずもって人間なのだ。これは疑いようのない事実である。事実以前のはなしである。だから、「人間的な」とか「人間として」とかいうことを、形容詞のごとくに、後から追加しあるいは付加すればこと足りるとするような論法は、私には我慢がならないのである。それは「誤魔化し」であり、確実に誤っている。
言いかたを変えて言えば、いかなる最先端であろうとも、それは人間の為してきた営為の一環として在るのだ、との認識をもつ必要があるということだ。私たちは、常に、それを問う必要がある。私が、現実との、あるいは、今との係わりを問うのもその故だ。そしてそれは、私が現実との係わりを持たざるを得ない建築という職分に係わっているからではない。それが、本質的なことだからである。

「地理」の教育において、かなり昔から、指折り数えて知識を詰め込むのではなく、「『地理』を捉える」教育が行われていたならば、現在のわが国のような状況、すなわち「地理」が「生活:暮し」と無縁な状態、あるいは「それはそれ、昔は昔、今は今」というがごとき事象への対し方にはなっていなかったのではないか、そう思うのはいささか短絡的だろうか。
なぜなら、単に学校の成績のためとしてではなく、「生活してゆく:暮してゆく」上での「常識」となっていたならば、つまり、ごく自然にその「捉えかた」でものが捉えられるようになっていたならば、現在のような状況になる以前に、誰もが当然のように正当にして正常な批判力を行使したと思うからである。
然るに、バラバラの知識を教えることによって、「ものごとをバラバラにして捉える方法」を教えてしまったのである。この修復は大変である。
このような傾向は、今、全ての学問領域で見られる。ものごとを数え上げられるようなかたちに分解し、そうして得られる《知識》を数え上げることで、ものごとが分った気になってしまう。そこでは人間が喪失する。数え上げることができるような事項をいくつか取り出すという操作を施すとき、実は、その取り出し残されたところにこそ、人間の真実があるからだ。事項と事項の「間」にこそ、人間の本当の姿があるのではないか。
なるほど、一歩譲って、ものごとについて語るときには、いくつかの事項を軸に語るしかないのは認めるとしよう。
しかしそれは、あくまでも、「何かを語るために」見出した事項に過ぎないのであって、決して、ものごとがそれらの事項によって成り立っているということを意味しているのではない。それを多くの場合、取り違えるのだ。肝心なのは、「何を語ろうとしたか」「何を見たか」なのである
全く同様に、何故にそれらの事項(だけ)で見るような「癖」になったのかを省みずに、それらの事項がはじめから当然のように在るのだと思い込み、平気で居るのも誤りである。それはいわば、天空の星を見るに、星を見ずに星座を見る見かたに他ならない
こうしてみてくると、今の世のなか、ものの見かた、捉えかたが基幹である、という当たり前なことが、いかに忘れられているかが、空恐ろしいほど浮き上がってくる。言うなれば、「間」の抜けた、あるいは「間」の《抜かれた》、デジタル思考が横行しているのである。事項を指折り数え(digital の原義)、その総量でものごとが分る、というのならば、サン・テグジュペりではないが、辞書でたくさんである。
それ以上に、教育(小学校から大学まで)の現状の空恐ろしさもまた、目に見えるかたちで見えてくる。今、教区は、そのどのステージにおいても、その場限りでは「知識豊富な」、あるいは、ある限られた範囲についてのみ「知識豊富な」、そうであるがゆえに「『間』抜けな」見かたしかできない人間をせっせと養成していると言ってよいのではなかろうか。だから、「教科書」においても、そこに盛られる「知識」の質・量だけが論じられ、それが「間抜け人間」育成書になってしまっていることは全く省みられない。あるいは、論点にされることをきらい、意図的にそのように仕向けられ、仕掛けられているのかもしれない。

先日、某国立大学付属高校の先生たちと話す機会があった。いわゆる有名大学合格率の高さで有名な高校である。かねてから疑問であったことを訊ねてみた。彼らは、その有名大学で何を学ぼうとしているのか、何をしようと選ぶのか?ところが、彼らはほとんど、特に何かをしてみたい、というような「関心のあること」を特に持っていないのが特徴なのだ、という答えが返ってきた。彼らの「選択」は、全く、単に自分の(成績の)「点」に拠るのだという。これには、ある程度は予想はしていたが、驚くというよりあきれて返す言葉もなかった。このデジタル思考に秀でた「間」抜け人間たちは、いずれの日にか、その多くが「役人」として要職にゆき、絶大な権力をもつべく予定されているのである。とんでもない悪循環・再生産が行われている、ということだ。
そして私たちは、その「抜かされた『間』」やむを得ず放り出され、不特定多数として十把一絡げに《まとめて》数え上げる対象にされてしまうのである。というのも、私たちがあまりにも多種多様、十人十色であるため、かれらのデジタル能力の外にはみ出してしまい、そのままでは数え上げることができないからである。もちろん、彼らにとってそれはムダなことだから、数え上げようとする「努力」もしない。
今私は、私たちはやむを得ず放り出され、と書いた。しかしそれは、彼らの視点から見てのはなしであって、私たちにとっては、それはあたりまえだ。やむを得ずどころか、十把一絡げにされることの方こそが、私たちの「望まざる」すがたなのだ。
私たちは、やむを得ず、そうされて黙ってきた。なぜなら、指折り数えることのできない世界に居る私たちにとって、指折り数える、指折り数えられることのみを良しとするやりかたに対し、さしあたって、打つ手が見つからないからである。
指折り数えられるものしか分らない、分ろうとしない、そういう人たちに、指折り数えることのできないものごとを、ものごとが厳然として在ることを、どうしたら、分らせたらよいのだろうか。「『間』の存在」を分らせたらよいのだろうか。はたして、「『間』抜け」の人に「間」を分らせることができるのだろうか。
しかし、私たちは、ついうっかりと、彼らに抵抗しようとして、数え上げることのできないものを、数え上げてみようなどという気を起こして、彼らの土俵に引き込まれて失敗を繰り返す。
私たちのどこかに、未だに「数」に対しての「絶大なる信仰」が巣食っている
からではなかろうか。
そして、よく考えてみると、そのような「信仰」は、はじめから私たちの中に在ったのではなく、後から私たちの中に植え付けられたものであることに気が付くはずだ。
何が、誰が植え付けたのか。その一つが、そしてその最たるものが「教育」、特に「初等教育」であることは、紛れもない事実である。
余談だが、このごろの小学生は、高学年になると大概腕時計を持っている。その大半以上がデジタル表示である。小学生だけではなく、<大人でもそうらしい。心配性の私は、また心配したくなる。「時」に対する見かたが変ってしまうのではないか、と。
永遠に続く「時の流れ」:「時間」という捉えかたがなくなって、「時間とは時刻の集積であるという捉えかた」が先に来るようになるのではないか(既にそのような気配が感じられる)。
そもそも、私たちには、「時の流れ」という感覚があったはずだ。「今」と「一瞬前」と、「一瞬後」と、そして「その前」、「その後」へと、延々と、決して絶えることなく連続的に続く「流れの感覚」があった。それをなぞらえるものとして、針の回転運動による時計が考案された。砂や水の流れにそれをなぞらえた。
それは、私たちの感じている「時の流れ」そのものではないが、それをなぞらえたものであった。
そういう意味で、このような表示のしかたをデジタルに対してアナログ:なぞらえる表示と言うのである。なぞらえる表示のとき、「時刻」というのは、あくまでも「便宜的」なものなのである。「時刻」が先に存在するのではない。「時の流れ」が先ず存在する。「時刻」は、あくまでも「便宜」のために設定されたのである。
このことが忘れられ、私たちの時間が、この便宜的な「時刻」によって左右されてしまうような、いわば「逆転現象」が当たり前になってしまうのではないか、というのが、私の「心配」なのだ。なぜなら、そうなると、それはますます「それはそれ、今は今、昔は昔」的な思考の隆盛に拍車をかけることになる、と思うからである。ますます「『間』抜け」になってしまうと思うからである。


ジャガイモの花

私が今回「地理」の教科書の話から始めたのは、もちろん、別段「地理」「地理学」に他意があったからではない。建築:人が建物をつくる、という営みにあたって、人は、その生きる:暮す「地」の「理」を弁えることが必須と思うがゆえに、話が進めやすかったからに過ぎない。
私が言いたかったのは、私たちの「ものの見かた」が、私たちを「取り囲むものごと:surroundings 」が、あるいは「そのつくられかた」「語られかた」が・・・その全てが「『間』抜け」な状況になっていること、それに気付いていないこと、気が付かなくて当たり前と思われていること、更にそれを推し進めようとしていること、「この空恐ろしさ」について言いたかったのである。
ものごとを指折り数えるその指の隙間から、誰かがつくった枠組でものごとを見るその枠組から、私たちの本当の姿がこぼれ落ち、捨てられる。この「空恐ろしさ」を言いたかったのである。
では、どうしたらよいのだ。いったいどうしたら「『間』抜け」を「『間』抜け」でなくすることができるのだろうか。

それとも、こんなことを思うのは「馬鹿げている」のであって、《現実》に逆らわずに《素直に》世の大勢に従うのが《利口》というものなのかもしれない。
しかし、たとえ《現実》に逆らうことになったとしても、「私自身」には逆らいたくない。《現実》に心を逆なでしてほしくない、ということに、結局は行き着いてしまう。

どうしたら、私たちは「『間』抜け」でなく在り得るのか。『間』を抜かされて扱われることに抵抗できるのか。


あとがき
原文の饒舌な個所を直しましたが、それでも長くなりました。
最後までお読みいただき有難うございます。

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-32

2016-05-13 09:56:37 | 「学」「科学」「研究」のありかた


先回から大分時間が経ちました、「続き」を載せます。      *************************************************************************************************************************

Structural details of Wealdens  

Wealden 形式を特徴づける二階部分の前面への跳ね出し一体屋根は、当初から存在するが、初期の事例のいくつかには、細部の架構法や、木材の継手・仕口の点で、Wealden 形式と見なすことに躊躇う例がある。Wealden の中央部の小屋組には、通常とは逆に、wall plate :桁が、の間ではなくの上に置かれる事例が普通に見られる。
   註 wall plate を桁と訳しています。下掲の fig83 を参照ください。
     梁の上に桁を置くというのは日本の折置組、つまり、先ずで承け、その上にを架ける方式、
     wall plate :桁の間に置くとは、京呂組:先ずに架け、その上にを架ける工法を指している、と解しました。
そこでは、hall の表側の壁を越えて伸び、はそこに載せ掛けられるので、hall の前面を横切る形となっている。
   註 この部分の文意は、日本の「出桁(だしげた、でがた)づくり」に相当する技法のことと推察します。fig80bfig81 参照。
当然、この技法は背面でも使われる。そして、このいわば初期の技法は、Wealden 形式の架構で使われ続けている。しかし、14世紀後期から15世紀ごく初期の Wealden では、この技法が建物の他の部分でも、適宜に用いられている。fig79CHART HALL FARMHOUSESANDWICH 近郊の ASH にある UPHOUSDEN FARM では、柱が横向きに据えられている。これは、桁と梁の享け台になる部分を広くするためと考えられる。
   註 これは、fig79 桁行断面図の左から2本目の柱のような例を指しているものと解します。
しかし、この2例に見られる方法は、一般的ではなく、後期の Wealden 形式の建物で、架構上の問題を解決するために採られたいろいろな方策の一つに過ぎない。この方策は、通常は hall 中央部の軸組・小屋組に用いられるが、 fig80b の1399年建設の WEST COURT(在 COLDREDSHEPHERDSWELL )では hall 端部の仕切壁部分の軸組・小屋組でも使われている。 これらは架構上では些細な部分に過ぎないが、世紀の変わり目の頃になっても、Wealden形式の工法は、まだ形成期にあったことを示している。この工法が未完成であったことは、1400年近辺建設のWealden 工法の事例に、片側に aisle:側廊=下屋 のある建物が見つかっていることでも明らかである。
Wealden形式の後期の事例には、更にいろいろな技法が見られる。しかし、fig81 に見られるような一つの「典型」で建てられることは決してなかった。fig81 は、Wealden 形式の中でも最も洗練されている二つの遺構の中央部の軸組・小屋組の断面図である。fig81aTHE MANOR HOUSE は、前面と背面に(屋根:小屋が)跳ね出していて、必然的に、は延ばされたの上に設けられ出桁になっている。fig81bTHE OLD PALACE では、高く反り返った brace :方杖が使われている。これは、最も後期の open hall によくある架構を強調するための colonettes と同趣旨の装飾の一と考えられる。  
   註 colonettes :A small, relatively thin column, often used for decoration or to support an arcade.
この例では、の下に設けられた腕木上に置かれ、屋根勾配は前後で異なっている。これは、小屋の眞束が、小屋組:屋根の中央ではなく、hall の中央にくるように設置されているからである。
   註 腕木で承ける方策が、なぜ片側だけ採られているのか、分りません。
hall と二階建部分との接続法には、各種の方策が採られている。hall二階建て部分とを、一つ屋根の下で前面に跳ね出すWealden 形式のつくりは、建屋をすべて二階建で造るようになるまで続いている。Wealden 形式のつくりで総二階建の一つの事例が、STAPLEHURSTLITTLE HARTS HEATH の調査で確認された1507年の建設の建物である。これは、総二階建建物の最も初期の事例の一つで、おそらく総二階建住居の「効能」がまだ十分に理解されていなかった頃の建設と考えられる。







                                                この節 了      ************************************************************************************************************************* 

 
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九州の地震に思う-3・・・・・被災建物の様態

2016-05-01 11:11:21 | 近時雑感

桐の花が咲いています。

新聞やTVの写真・映像を見て感じたことを記してみようと思います。
現場の実際を見ていませんので、誤解があると思います。その点ご了承ください。

私の印象に残ったことを順不同に書きます。[文言補訂 15.25]

1.古いと思われる建物で、を使い、木舞土塗壁で仕上げた建物、が意外と少ない。
      差物・差鴨居も見かけなかったように思います。
  縦胴縁を設け、筋交い貫板:厚12㎜程度か)を張り、木摺・メタルラス張り・塗り壁仕上げが多いように見受けられた。
  おそらく、1950年代以降:戦後に改築あるいは新築された家屋が多いのではないだろうか。
  旧いと思われる瓦葺き建物に、いぶし瓦が少なく陶器瓦が多いように見受けられた。これも、戦後の改造・新造が多いことを示唆している。
  つまり、建築基準法制定後の建築が大部分である、ということになる。
      かつて(20年ほど前)、熊本大津町の辺りを訪ねたとき、旧いな、訪れてみたいな、と思う集落や建物が少ない印象を受けたことを覚えている。
      これは、瓦屋根の普及が著しいことから見ても、一帯が、「先進地」であるからなのだろうか?

2.新しい建物には、建築面積が小さい総二階建の家屋が多く(ゆえに縦長の立体が多い)、形体を維持したまま転倒している例が多いように見受けられた。
  それらは、基礎ごと転倒している場合、基礎から外れ、土台から上が転倒している場合、の二様があるようである。
  いずれも、一見、架構自体:柱・梁に損傷が生じたようには見えない。
  こういう転倒は、縦長立体ゆえの挙動 の影響が大きいと思われる。
  この挙動を誘発したのは、基礎に建物が緊結されていたからではなかろうか。緊結されていなければ、建物は基礎上を滑ったと思われる。
  かつて、阪神・淡路地震で、淡路島で実際に見た記憶がある布石の上を滑っていた)。
  基礎に緊結されていると、土台より上の立体が、緊結されている土台を基軸にして転倒するのである。どの位置の土台が基軸になるかは、地震次第。
  そのとき、おそらく多くの場合、アンカーボルト部で土台が割裂しているのではなかろうか。
  そして、地盤が軟弱のところでは、基礎ごと転倒に至ることになる。

  なぜ、建屋が形状を維持したまま転倒するのか。
  多くの転倒事例は外壁面に開口部が少なく、多分、一階、二階が同一面で立ち上がり、各面の壁部分が多いからではなかろうか。

3.古い建築面積が大きい二階建の場合(ゆえに、横長の立体になる)、一階部分が破砕し、二階部分がその上に落下している例が多いようである。
  同じく古い平屋建ての場合では、軸組部が破砕し、小屋組が瓦屋根ごとその上に落下している例が多いように見える。
  これは、破砕部分:下部に比べ、その上部の重さが大きく、上部に生じた挙動・変動下部に生じた挙動・変動の差が大きかったことに拠ると思われる。
  しかも、二階部分はおそらく多数の部屋が設けられているだろうから(つまり間仕切り壁が多い)、一階に比べ、立体としての固まり具合が強いはずで、
  ゆえに一階よりも変形しにくい。同じく小屋組は、切妻も寄棟も、下部の軸組部よりも立体としての固まり具合が大きい。 
  その結果、大きな揺れが生じると、変形しにくい上部変形しやすい下部を押し潰す格好になるのだと思われる。
  RCの建物で、いわゆるピロティ形式の一階が潰れている例が多々見られたが、それも同じだろう。
  これらの事例は、端的に言えば、上下が一体になっておらず、いわば積木を積んだような形になっていた、と言えるだろう。

4.建物の耐震とは、地震にともなう挙動を止める:抵抗することではなく、挙動に耐える:持ち堪えることである、とあらためて思った次第です。
  そして、そのための策としては、建物全体を一つの立体架構として考えることが必須ではなかろうか。
  それはすなわち、いわゆる「伝統工法の考えかた」に他ならない。

5.今回の報道でも、地震後も健在の事例の写真、映像が少なかったように思います。
  被災事例、健在事例を同等に(客観的に)扱う報道がほしい、といつも思う。そこから分ることは測り知れないからです。
    人が犬を噛んだならニュースになるが、イヌが人を噛んだのではニュースにならない、という例え話を聞いたことがあります

以上、きわめて大雑把な感想を書かせていただきました。

現地に実際に行かれた方がたの詳しいお話をうかがいたいと思います。

   追記 [5月3日 9.35追記] 
   以前の記事「とり急ぎ・・・『耐震』の実際」もご覧ください。    
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九州の地震に思う-2・・・・前震・本震?

2016-04-26 13:39:08 | 近時雑感

柿の若葉が鮮やかです。例年より早いような気がします。

今回の九州の地震では、今までにない頻度で地震が起きているようです(先ほどのニュースでは、今日午前の段階で900回を超えたそうです。
つまり、平均して一日当たり約100回近いということ)。
そのうち、震度7は二回あったとのこと。一回目が、今回の最初の地震。その後は、それ以下の震度がいわゆる「余震」として続き終息に向うのがこれまでの大地震の形。ところが、今回はその数日後、震度7が発生した(最初の震度7の地震よりも大きかったようです)。
その際、私が「?」と思う「解説」が発表されたのです。すなわち、
「最初の震度7の地震は『前震』であり、今回の震度7の地震が(今回の地震:「平成28年熊本地震」)の『本震』である。・・・」
この発表にと思ったのは、私だけでしょうか。

」と「」とに分けるのに、何の意味があるのか?そう私は訝ったのです。
多分、専門家のなかに、大きな地震では、その予兆として小さな地震があり、大きな地震の後には、いわば揺れ残しのような地震:「震」が続くものだ、という「定説」が在るのだと思われます。ほぼ同じ強さの地震が、続けざまに起きる、などというのは、「定説」の「想定外」ということ。
最近になり公表された、同規模の大きな地震が数日の間に発生する、というのは、かつてないこと、稀有なことである、との「説明」が、そのことを証明しています。

私はそのとき、こういう「定説」は、実際に起きている「事象・現象の観察」の妨げになるかもしれない、と思いました。つまり、先入観・予断が、事態を見誤る・・・

もしかすると、私たちの日ごろの行動のなかにも、こういう「思い込み」による判断が多々あるかもしれません。気をつけよう、とあらためて思った次第です。

  
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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-31

2016-04-25 09:48:06 | 「学」「科学」「研究」のありかた


      *************************************************************************************************************************

Wealden construction
Development of the Wealden
   註 Wealdenweald 地方 :ケントの南部域:の意と解します。森林地帯のようです。本シリーズ-3を参照ください。

14世紀には、後の Wealden 形式の発明を導くことになる数多くの技法的進展が見られる。
その第一は、それまでの aisled construction の束縛から逃れ、(を承けるの載る)hall の壁を高くする試みが始まった。この実例は、hall 部分だけが遺っている14世紀後期の事例に多く見ることができる。
たとえば、1401年建設の EAST SUTTONWALNUT TREE COTTAGE や、SITTINGBOURNE 近くの NEWINGTONCHURCH FARMHOUSE などでは、quasi-aisled construction がまだ用いられているが( fig72 下に再掲参照)、他の事例では、1364年建設の SUTTON VALENCEHENIKERS (下図 fig80a )や、ALDIGTONPARSONAGE FARMHOUSE のように、aisle :側廊・下屋が全く存在しない。


第二の進展は、二階建ての居室部の必要性が増えたことである。hall の低い端部や天井の低い倉庫上の居室に代って、hall端部は特別の役割を担うようになり、それは、その部分を総二階建に変える契機となるのである。
この願望を実現する一つの方策が、主屋に直交する棟:cross wing を建てることであり、その一例の1380年建設の TEYNHAMLOWER NEWLANDS (下図 fig52 )に、その様態を正確に見ることができる。

このような進展は、ケント地域だけでなく全地域に影響を与えている。ただ、これには第三の、ケント的な方策を考える必要がある。このケント的な方策の存在こそ、The Wealden 形式の進化にとって決定的であった。
それは、建物を寄棟の一つ屋根の下に納めるケント地方特有の技法である。しかしこれは決して新しい発明ではない。最古の事例は1300年頃から見られ、最も有名なのが1309年建設のNURSTEAD COURT である。
   註 NURSTEAD COURTについては、はこの紹介シリーズの第14回に説明があります。また、図、写真を下に縮小して再掲します。

     
        
     

これらの事例は、13世紀後期~14世紀初頭にかけて、COPTON MANORMERSHAM MANOR のように石造家屋に多く在り、おそらく木造家屋でも至る所で見られた思われる。
またこれらは、AYLESHAMRATLING COURTSITTINGBOURNECHILTON MANOR のような大家屋の端部の階上のない部分に多く見られるが、おそらく、PETHAMDORMER COTTAGE のような小さな家屋でも在ったのだろうが、遺っている事例は少ない。寄棟屋根hipped roof を用いたいという人びとの希望は、ケント地域西端部以外では極めて強く、建物・棟が交叉するような場合( cross wing )にも使われている。その事例が TEYNHAMLOWER NEWLANDS や の PETHAMOLD HALLfig51 下に再掲)である。ただ、それらを THAMES (テームズ川)北部域に見られる cross wing :切妻屋根が多い:と同一と見なしてはならない。

先の2事例では、hall の壁が低いゆえに、直ぐに分る。しかし aisle をなくし、hall の壁が高くなると、hall の明り取りの窓も高くすることができ、また、寄棟の屋根の下に一体になった hall wing :付属棟は、見分けがつかなくなる。
これらの事例を見れば、建屋全体を一つ屋根の下にまとめる策が何故生まれた理由がはっきりと見えてくる。
すなわち、それぞれの建屋に寄棟の屋根を架けるよりも、全体を一つ屋根の下に収める方が、工事が容易で工費も低廉だからなのである。る。
これらの事例の示すところが正しいとするならば、Wealden 形式のつくりは独自に発展した、と考えてもよさそうである。この仮説は、fig65 (下に再掲)の示すように、14世紀後期において、ケント地域では Wealden 形式のつくりが、群を抜いて多いことで分る。また、木造家屋では以前から一つ屋根に収めるという傾向が在ったことは、初期の事例に見られる断片的な痕跡の示すところでもある。

実際、hall から wing :付属棟への接続部や、hall から Wealden への接続部の架構、あるいは階上の jetty :跳ね出し部の架構には、ほとんど同じ技法が用いられている。更に、次章(第8章)で触れるが、Wealden形式のつくりの階上の居室の間取りは、ほとんど(主屋+付属棟形式の) wing :付属棟の間取りと同様がである。このような、ある形式から別の形式への変遷は左程驚くべきことではない。この変遷は、基本的に、架構上の問題を解決することに発しているのであり、その第一の課題は、を、独立の柱だけで(下屋:側廊の柱なしで) 如何にして承けるか、という点にあった。
   註 下屋:側廊があれば、梁を承ける上屋:身廊柱は、下屋:側廊の柱で支えられている。
Wealden 形式のつくりが、何時、何処で始まったのかについては、議論の余地がある。Wealden 形式のつくりは、ほぼ完成した形で現れたが、ただ、1370年頃より前には存在しないようだ。
最古の遺構は、1379~80年建設の のCHART SUTTONCHART HALL FARMHOUSE である。下の fig66fig79 が、その全景と断面図。


この建物は、fig 68a(下に再掲) および fig 80a(前掲) の SUTTON VALENCEHENIKERSfig68c(下に再掲) 、fig72b(前掲) の EAST SUTTONWALNUT TREE COTTAGE から僅か数マイルのところにあり、そこでは、同じ時期にaisle :下屋・側廊 なしで hall の梁間を拡げる異なる方策が採られている。

おそらく、 Wealden 形式 は、ケント地域のこの辺りで創案されたものと思われる。しかし、14世紀後期から15世紀初めの10年頃の建設と見なされる事例は、この地域全体から東部 SUSSEX まで、広く分布していることにも留意しなければならない。

                                                      この節 了
     *************************************************************************************************************************

筆者の読後の感想   14.50追記
   ずっと気になっているのが、屋根。「軒の出」がない、あっても短いこと。
   気候が関係しているのはもちろんですが、
   軒を出す習慣がない、少ない、ということが、「跳ね出し(持ち出し)の技法」にも影響しているのではなかろうか、と思うのです。
   jetty と呼ばれる部分、ほとんど「 brace :方杖」が設けられています。
   それは、材料の故なのでしょうか? それとも石造がモデルだからなのでしょうか? 
 
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九州の地震に思う-1・・・・「科学的根拠」?

2016-04-21 15:39:18 | 近時雑感

ブルーベリーの花が咲いてます。例年より少し早い。

相変らず一時間に数回、かなりの揺れが続いているようです。気が休まらないと思います。
TVで報じられる様子を見ていて、いろいろ思うことがあります。そのいくつかを書いてみようと思います。

いろいろな専門家が、いろいろと話されています。その中には、私には「?」と思わざるを得ない話が多々ありました。
その一つは「科学的根拠が、あるかないか」というある「専門家」の「発言」です。
それは、今回の地震の震源に近い「川内(せんだい)原発」の稼働を停止を求める各界からの「見解」に対し、「『科学的根拠のない』稼働停止の要請」には、全く応じられない」という原子力規制委員会、委員長の発言です。
この「発言」に違和感を抱いたのは、私だけでしょうか。
新聞等の解説によると、今回「川内原発」が受けた地震の揺れは、「川内原発」の「設計基準」としている地震の揺れの大きさの数分の一に過ぎないから問題はない、ということのようです。つまり、「想定内であったから、支障は生じていないはずだ」ということなのでしょう。
そこに、「稼働停止を求める見解」との決定的な相違点があるのです。

稼働停止を求める見解は、「想定外の事態」が起きることを危惧しているのに対し、
委員長は、現在の「科学・技術」に想定外はない、現在の「科学・技術」においては、森羅万象全て想定範囲内である、と言っているに等しいからです。
言わば、現代の科学・技術に不可能はないということに等しい。
ゆえに、彼らは、「絶対に安全」を「技術」が保証できる」という、とんでもない《信念》を持ってしまっているのです。
いったい、そのような《信念》を抱ける、森羅万象全てが想定内であると言い切れる、その「科学的根拠」は何なのでしょうか
私には、これは、近・現代の「理工系」の「専門家」にありがちな奢りにしか見えません。

先に紹介した「復刻・筑波通信-3」の中で、私は、「絶対的安全を技術は保証できない」と書いています。おそらく、その当時の(理工系の)「風潮」を危ぶんでいたからなのでしょう。
あれから40年近く過ぎます。「理工系」の方がたの「発想」は、今も変らないのです。むしろ更に凝固し、硬化著しい、そのように私には思えます。
私は、この世は、人智の及ばない事象に満ち溢れている、今でもそう思っています。それが「森羅万象」の実相ではないでしょうか。
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被災お見舞い申し上げます

2016-04-16 09:48:59 | 近時雑感
熊本をはじめ、今回の地震被災地の皆様へお見舞い申し上げます。

まだ余震が続いているようです。

震源が、熊本から阿蘇を越えて大分へと移っているとのこと。
日本地図を開いてみたところ、その延長線上には、四国の構造線があることに気付きました。まさか・・・。

かつて設計に係った大津町の「護川(もりかわ)小学校」の様子が気になっています。震度6だったようです。
おそらく現地は慌ただしい事でしょう、問合せするのを躊躇っています。
被害のない(少ない)ことを祈るのみです。

今しがたも、依然として強い地震が頻発していることをTVが伝えていました。心配は尽きません。


   註 護川小学校については、2006年11月15日の「RCの意味を考える-1」以下のシリーズで触れています。
     続きはバックナンバーで検索願います。
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復刻・「筑波通信」 -3 : 『逃・避』考・・・・・《絶対に安全》を、「技術」は保証できるのか?

2016-04-13 10:00:00 | 復刻・筑波通信


筑波通信-3  「逃・避」考・・・・《絶対に安全》を、「技術」は保証できるのか?    1981年6月1日 刊 の復刻

昨年(1980年)、折あって、中国の河西回廊いわゆるシルクロードを訪れることができた。それは非常に貴重な体験であった。これには二つの意味がある。
その一つは、そこで、「人びとの住む(暮す)すがた」を見ることができたこと。
もう一つは、たまたま同行の方がたが建築関係の方ではなくその「関心」が私とは違うところにある研究者であったため、学問とは何か、今学問や研究というものが、一般に、どうなってしまっているのか、それがものの見事に見えてきたからだ。
彼らは、研究者として、「人びとからの金」で暮しているのにも係わらず、「人間として」の視点を欠いて、ものを見ている、それでは、その学問は「人間の(ための)学問」でなく、「学問・研究のための学問」になってしまうではないか、そう思えたのである。

さて、シャンハイからセイアン(古の長安)を経てトンコウまで、およそ3000km)、これほど目に見えて姿が変ってゆく「大地」、あるいは「自然」「風土」は、日本のそれに慣れた目には、まったく想像を絶するものであった。 
そして、その大地の変容にともなって、その「大地」への人の対処のしかたも、ものの見事に変ってゆく。
   註 ここで書いている「変容」は、鉄道、バスでの移動中、車窓から見た「景色」に拠っている。

一般に、中国の建物というと、大概、瓦屋根のそっくり返った《いわゆる中国風》の建物を思い浮かべるだろう。
しかし、あの姿は中国の建物のなかの全く極く一部のものに過ぎず、中國だからといって直ぐその姿を思い浮かべるのは、西欧の建物を全て石造りだと思い込んでしまうのと同様に誤りである。単なる「事実の見誤り」ならともかく、そういう《事実》を基に、西欧の思想は《石の思想》で、日本は《木の思想》などと言われてしまうと、全く困ってしまう。

今回は、この屋根の話から始めようと思う。
列車が、シルクロードを東から西へと進むにつれ、初めかなりの勾配(6寸勾配以上はある)の瓦屋根が、だんだんと緩くなり、次いで、瓦がなくなって土泥だけの勾配屋根になり、遂にはほとんど水平に近い土泥だけの屋根になってくる。いずれの場合も、屋根の骨組みは木造の梁・垂木の上に葦の類を敷き並べ、その上に土をこねた泥を塗り付けるのが基本となる。土は、建物を建てる屋敷まわりを掘ったもの。瓦は、塗り付けた土泥の上に敷き並べることになる(日本のいわゆる土居葺きである)。
当り前と言ってしまえばそれまでだが、この屋根形状の変容のしかたは、実に見事にその地の雨の降り方次第のようだ。
日本でも、地域・地方によってそれぞれ独特な形の屋根が見られるが、ただ見た限りでは、これほど単純に「雨次第」などと言い切れるようには見えてこない。
中國の車窓の風景の中に、日本ではそれこそ絶対にお目にかかれない瓦屋根に出会った。
日本では、現在は、いわゆる引掛け桟瓦葺きが普通だが、かつては平瓦を敷き並べその継ぎ目に丸瓦を被せる本瓦葺きが普通であった。現在でも寺院の屋根が大方本瓦葺きである。
中國で見たのは、本瓦葺きの丸瓦を取り去った葺き方。つまり、平瓦が並んでいて、継ぎ目に被せる丸瓦がない、つまり、隙間が空いている。雨が降れば、そこから確実に水が入ること請け合い。多分、そのやりかたを採る地域では、隙間からの水漏れは問題にならない程度の雨しか降らない、ということなのだろう。葺いている現場を間近で見ると、接触面を砥石で研いで摺り合わせてはいたが・・・、絶対に日本ではあり得まい。
しかし、日本の場合、丸瓦を被せることで、完全に雨は侵入を防げているのだろうか。そうではあるまい。そんな他愛ない降り方ではない。中国の乾燥地帯に比べると、その百倍以上の雨が降るのが日本である。いかに雨が少ないからと言って、中國でも、雨は隙間から入っているはずである。いずれにしろ、雨は瓦の下まで入り込んでいるはずなのだ。瓦だけで、雨は防げていないはずだ。
それでいて、なぜ、「問題ない」としているのだろうか。
雨は確かに瓦の下へ侵入している。ただ、濡れては困るところに顔を出さずに、その前にどこかに消えてしまっているのだ。雨水は、なくなったのではなく、室内と関係のないところで処理されている、ということ。だから「問題ない」と思うのである。

昔から日本の建物は、四周に軒の出をもつ勾配屋根であった。私が建築を学びだした当時、一般に、何となくそういう見慣れた屋根の形が古くさく感じられたものだった。平らな屋根の方が、新鮮で《現代的な》形であるように思えてしまい、平らでないとすれば、せいぜい片流れの屋根が《好まれた》のである。おまけに、軒の出も(特に片流れでは)嫌われた。ところが今は、卒業生に聞いた話では、逆に平らな屋根に見飽きてしまい、勾配屋根の方が好まれるのだという・・・。
その当時のことを振り返ってみると、屋根の形が、単に「建物の形」としてしか見えず、「屋根の形」としては見えて(捉えて)いなかったのではないか、と思う
これは、妙な言いかたに聞こえるかもしれないが、要は、「建物という『立体』の形」が、それだけが考えられていた、ということである。屋根は、ただその「立体」の一部としてのみ考えられ、立体の形に対する《美的感覚》だけが、その形状の決定権を持っていたのだと思う。《美的感覚》をくすぐるには目新しいものの方が手っ取り早く、それゆえ、見慣れた形が見捨てられ、ただやみくもに《新しい》形が追い求められた、ということだ。おそらく「新しい」ということの(本当の)意味さえ分らなかったのだ
そして、このような風潮をたしなめるでもなく、むしろすすんで保証していたのが、当時の(そして今も変りはないが)一般的な建築に対する考えかたであり、その最も大きい影響源であると言ってよい大学をはじめとする「専門教育」であった、と私は思う。屋根で言えば、屋根は雨水を防ぐもの⇒その要件を充たせばいかなる形状でもいい、極端に言えば、そのように「教えられた」のである。

しかし、建物に降る雨は、どこでも同じわけではない。此処と彼処では、同じ雨でも違うのだ、と先ず初めに思わなければならない。
場所・場所なりの雨が降る。雨に限らず、場所・場所なりに、その場所特有の「自然」「環境」がある。そういう「場所」で「どのように生きるか(暮すか)」:どのように対処すれば生きてゆけるか、それこそがその「場所」に「住んだ人たち」が考えたことなのだ。机上でこねくり回したようなそれではない。そうであるからこそ、それぞれの地方に、その地方独特の「同じようなつくりの建物」ができあがったのだ、と考えなければならない。その地で「どう生きるか、暮すか」人びとが考えた結果が、そういう「形」に結実したのである。そうでなくて、どうして、ああも同じようにならなければならない理由があろう。
ただしそれは、あくまでも「同じような」建物なのであって、どれ一つとして「同じ」建物のないことに留意する必要がある。

この点こそ、現代の建売住宅や「公共住宅」の「同じ」形とは、「同じ」の意味の違う点なのだ
端的に言えば、往古の住居の群れは、その「『考えかた』が同じ」なのであり、現代のそれは「『形』が同じ」なのである。
言いかたを変えれば、往古のそれは、「その場所での生活・暮し」が根にあるのに対し、現代は、その場所とは関係なく机上でひねり出された抽象的・観念的「生活像?」がその根にある、と言えばよいだろう。

そしてこの「現代的思考法」は、先に触れた「雨水が防げればどんな形の屋根でもいい、つくれる」という考えかたに連なっている。
私は、前回、「現代的思考法:ものごとへの対し方」は、「それはそれ、昔は昔、今は今」と考えるやりかたなのだ、と書いた。そして、そういうやりかたをとる「最も現代的・先進的な人たち」は、「現実」すなわち「本当のこと」に根ざさずに、すなわち「現実」・「本当のこと」が「見えていない」「見ない」「見ようとしない」のであって、まさに「観念的に」それを是としているに過ぎない。仮に見えていたとしても、そんなことに係わるのは面倒くさいから、そういう局面に直面することを逃げて済ますのである。それがつまるところ、「それはそれ、昔は昔、今は今」という形に、現象として、結果する。そうなると、ますます見えなくなり見ようともしなくなるのである。

ところで、今私たちが、極く当たり前に目にしている「平らな屋根」が、日本で流行りだしたのは極く極く近々の話である。もちろん、それは元をただせば「洋風」に行き着くかもしれないが、「洋風」自体が元から平らな屋根であったわけではなく、そこでも同様に極く近々、「近代」以降に起きた話なのだ。西欧でも、藁葺き、茅葺きはあり、木造も珍しくはない。屋根の形も全く「雨次第」だったのである。
「近代」が「平らな屋根」を「望み」、「それを是とした」ということは、まことによく「近代」を象徴している、と私には思えてならない。
では、この平らな屋根では、雨はどうなるのか。簡単に言えば、平らな屋根というのは、建物の上に「盆」が載っているのだ、と思えばよいだろう。
その「盆」に溜まった水を、「所定の場所」から排水する。これが平らな屋根の「原理」である。
万一「所定の場所」以外から水が流れ出すようなことがあれば、水は当然想定外のところ:濡れては困るところへも顔を出す、つまり「雨漏り」と言われることになる。しかし、「所定の場所」を所定たらしめることはなかなか難しく、万一どころか、もっと頻繁に、設計者は、所定以外からの雨漏りに悩まされているはずだ。
このような雨水処理のことを一般に「防水」の語で括っているが、平らな屋根の場合、コンクリートなどで形づくられた「盆」の上に設けられるアスファルトや合成樹脂の「層」や「膜」:「防水層」・「防水膜」:がその役を担う。
これらは、それが水を通さないということが前提だから、もしもそれが水を通したら、雨水は必ず屋内へ顔を出す。それゆえ、平らな屋根の多用・増加とともに、「防水層」・「防水膜」の技術は、それなりに格段の進歩があったのは確かである。
しかし、言うのは簡単だが、ことはそんなに簡単ではない。「絶対に」水を通さない、ということは至難の業なのである。
私自身の経験から言うのだが、水が漏るのは、必ずこの「絶対に」水が通ってはならないとして処理した箇所からなのだ。つまり、「絶対に」水が入らないはずのところ(正確に言えば、そのように「思い込んでいたところ」)が、雨漏り事故の最たる発生個所になっている、というのは疑いない事実なのだ。

ならば、平らな屋根を成り立たせる前提の、「絶対に水を通さぬ技術」の「絶対に」とは、いったいどういうことなのか。
実は、この、「絶対」をどう考えるか、という点こそが、平らな屋根に象徴的に示される「現代的考えかた」と、瓦屋根に表れる「古来の(伝統的な)考えかた」の、絶対的・本質的相違点に他ならない。すなわち、一般に「伝統(的)技術」と称せられる、長い年月にわたる人びとの体験を踏まえて培われてきた技術と、最新科学に拠って裏付けられたとする「現代(的)技術」との、根本的にして本質的な違いが、まさに象徴的に表れている、と考えることができる。



「伝統(的)技術」も「現代(的)技術」も、いずれも、屋内に雨水が漏れないこと、を考えている。しかし、それを実現するにあたり、この二つの技術は、全く異なる方策・考えかたを採っているのである。
「伝統(的)技術」においては、雨を防ぐために、雨水を拒否する、といういわば短絡的な手段は採られていない。むしろその技術を考え出した人びとは、雨水を「絶対に」拒否する・止めるということは、それこそ絶対にあり得ない、不可能である、ということを知っていたのではないかと思う。
それは、単に、彼らの技術のレベルにおいてあり得なかったという意味ではなく、雨水を絶対に拒否する・止めるということは存在し得ない、という意味においてである。しかし、雨が漏ってはならないということは、彼らにとって重要な課題である。
彼らは、彼らが雨漏りを防ぎたいと思うのは、屋内で雨に濡れるのが困るからだ、と認識していた。それゆえ、彼らは、彼らにとって濡れては困るところに雨水が「絶対に」顔を出さなければよい、としたのである。どのような対策を講じたか。
雨水が屋根材・防水材を通して入ってきても止むを得ない。ただし、それをそのまま屋内に落下させずに、無難な所へ「逃がして」しまえばよい、としたのである。これなら、「絶対に」可能である。方策が存在し得る
なぜなら、「水は高きから低きへ流れる」「土に浸み込んだ水はいずれは蒸発してなくなる」という「原理・真理」をわきまえてさえいればよいからだ。
このことに気付いたのは、だいぶ前の話である。
書名は忘れたが、旧い茶室の檜皮葺(ひわだぶき)の屋根に開けられた天窓の断面詳細図が載っていた。
具体的には覚えていないが、とにかくその見事な雨水の「逃げっぷり」「逃がしっぷり」に感嘆したことを覚えている。
確か、三段か四段構えで、内側に入り込んでくる雨水を、最終的には、外へ「逃がして(流して)」しまう工夫が施されていたと思う。そこには、雨水を「止める」という発想が微塵もない。あるのは、ただ、「流れよう」とする水を(自由に)「流す」(流し去らせる)ことだけであり、もちろん、「溜める」などということは全く視野にない。そこにあるのは、言ってみれば、「水の本性に対するゆるぎない『信頼』」とでも言い得ようか。
今私は日本を例にして見てきたのであるが、乏しい資料ではあるが、それで見る限り、西欧にあっても、「伝統(的)技術」において為されてきたことは、原理的には何らの差も見出せない。つまり、変らない。そう思えた。

一方、「現代(的)技術」の雨を防ぐ考えかた・やりかたは、既に触れたように、雨水を「絶対に」拒否する、あるいは断つ、止める、という発想が先に来る。元で止めれば、屋内に入ってくるわけがない、という点では何ら意義を差し挟めないくらい「合理的」な考えだ。そして、その「合理的」指向で(いわばドンキホーテ的に)突っ走ったのである。そのこと自体は論理的には全くその通りだから、文句は極めてつけにくい。しかし、論理的な整合性と、それが可能であるか、存在し得るか、ということは全然別である。防水の例で言えば、確かに「元で止めれば、屋内には入らない。しかし、これが成り立ち得るためには、「『絶対に』元で止めることができた」場合に限られる。一滴でも水が入ったならば、この論理は合理的に消滅する
直ちに分ることだが、このような「絶対に」は、それこそ絶対にあり得ない。努力目標としての「絶対指向」はあり得ても「絶対」はあり得ないのである。だから、通常言われる「絶対に」は、「確率的に絶対に近い」ということに過ぎないのだ。
つまり、「現代(的)技術」の追っている「絶対に」と、「伝統(的)技術」の追ってきたそれとは、全く(根本的に)意味が異なるのだ。
「伝統(的)技術」においては、目指すものが何であるか十分に知った上で、それが絶対的に可能な局面において、それを解決しようとする。雨水の侵入を「絶対に止める」ことは絶対にできないという「事実」を見ぬき、その局面に立ち入ることを避けている。言いかたをかえれば、その局面から「逃げている」。
これに対し、「現代(的)技術」は、聞こえよく言えば、この「不可能な局面」に《果敢にも》挑戦する。しかしそれは、つまるところは、「《絶対的絶対》指向」「《確率的に近絶対》指向」でしかあり得ない
この「伝統(的)技術」の、不可能な局面にに立ち入らず、そういう局面から逃げる・逃避する、そして可能な局面で勝負するやりかたは、その一見消極的なイメージとは逆に、極めて思慮深く、かつ積極的なやりかた・考えかたなのではないか、と私は思う。
しかし今、現代的科学技術への無節操・無思慮な信奉は、この不可能な局面での《挑戦》:「現代的技術」のやりかた・考えかた:を正当な方策、正攻法と考えてしまう。それはまさにドン・キホーテ的行動以外の何ものでもない。私にはそう見える。
しかし、私は現代の「雨を絶対に拒否する」ことを目指す技術開発を全面的に否定しているのではない。また、単なる懐古趣味、文化財保護論で言っているのでもない。
そうではなく、そういう技術開発が存在してもよいが、如何にしようが、その目標の「絶対に」は、あくまでも「努力目標」に過ぎないのであり、そこで生まれる技術が、そういう「性格」であることを忘れ、その技術に拠っていれば、《絶対に雨は漏らない》と思い込みがちになるのは危ないことだ、と言いたいのだ。
第一、雨を防ごうという同一の目標に対して、「雨を止めればよい」と考えるのと、「(生活・暮しが)雨に濡れなければよい」と考えるのでは、どちらが当初の目的の理解として妥当と言えるだろうか。
暫し考えてみるならば、軍配は明らかに「(生活・暮しが)雨に濡れなければよい」と考える側に挙げざるを得ない、と私は思う。
なぜなら、そもそも「雨を防ごう」と人びとが考えたのは、人びとが、雨の日にも雨に濡れないで生活を営める場所を確保したいがためであったはずだからである。「技術」の根に、先ず第一に「生活」があった、ということである。これ以上の「正攻法」が何処にあろうか。



現代的技術の方法の「絶対指向」も、それが雨水に対する方策ならば、まだ救いがある。「絶対」が絶対でなく雨漏りがあったところで、それは確かに困ったことではあるが、漏れたのはあくまでも「ただの水」に過ぎない。しかしそれが、原子炉の放射能漏れ、放射性物質のそれであったらどうか。
残念ながら、この場合の漏れに対しては「伝統的」方策は通用しない。放射能の特性に従いそれを「逃がしてしまう」というわけにはゆかないからである。水に濡れるのは嫌なことではあるが、ただそれだけでは無害である。しかし放射能はそうはゆかない。あるのは唯一「止める」「拒否する」ことだけである。ただその方策は、先に水を例にして書いたように、「絶対指向」はあり得ても、「絶対」はあり得ない。「ある確率で《絶対に近く》防ぐこと」はできても、「絶対に防ぐこと」はできないということだ。
これは、技術がそこまで到達していないからできない、ということではない。「絶対」ということ自体が、それこそ絶対に存在し得ないという意味だ。漏れることは必ずある、生じる。

そこで登場するのが「許容量」という《概念》である。漏れは〇〇程度までなら問題ない、という《考えかた》である。
これは一見正当・妥当なことのように見えはするが、「絶対に近い《絶対》」を、「絶対」であるかのように装うために、いわば「巧妙に仕掛けられた」《概念》なのである。絶対を標榜しながら、早々にその局面から「逃げ出している」「逃げようとしている」に等しい。
第一、「許容量」そのものさえ、一たびそれを決めてしまってから後は、あたかもそれが「絶対」であるかのように扱い、その数値を「目指す絶対」と思い込んで追及するわけだが、その許容数値自体、相対的にして任意の数値ではなかったか。
つまり、「許容量」概念を持ち出すということは、「放射能の漏れは、絶対に防ぐことはできない」と言う事実・真実を示す証左以外の何ものでもないのである。然るに、「原子力発電所は絶対に安全だ」と説かれるのは、いったいどういうことだ。
最近(1980年ごろを指している)「原発を東京に!」という本のあることを知って、私は非常に《嬉しかった》。「絶対に安全」なのだから、需要の最も多い東京に原発を置くことぐらい合理的な話はない!
どうしても原発が必要である、というならば、「原発は、決して、絶対に安全、ではない」という当たり前の認識から出発すべきなのだ。それを、論理操作を巧みに行うことであたかも絶対に安全である、と「思わせる」のが「現代の科学」であり「技術」であるというのであるならば、それはそれこそ「絶対に」「伝統的技術」に比べ、あるいは比べるに値しないほど、質が悪いと言わざるを得まい
「伝統的技術」を培った人びとは、雨に濡れないことを欲しはしたが、それが、「雨を止める」ことで求められる、などという短絡的発想はしなかった。
彼らは「雨に濡れない」とはどういうことか、彼らの生活にとってどういうことか、「知っていた」「分っていた」のである。彼らは、自らの生活に、真っ向から立ち向い、「逃げなかった」。

                                                                了


  あとがき
  原文の標題の副題は「原子力発電所は『絶対に』安全なのか?」でしたが、このように改めました。
  また、原文の冗長な部分も改めています。ただし、論旨は全く不変です。
  


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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-30

2016-04-07 10:57:21 | 「学」「科学」「研究」のありかた


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   Jettied construction
   Jettied construction とは、下図(fig49 再掲)の a b c d e のように、上階を突き出す迫り出す)つくりで、次項の Wealden construction もその一つと言えるようです。
   註 jetty は突き出す、という意味の語のようです。日本語の「迫り出す」「跳ね出す」という意と解しました。
   

14世紀後期に進化を見せた新しい家屋形式は、ほとんどが jetty:突き出し:形式を採る。二階建ての建屋の階上部分を一~三方向を、宙に飛び出させる方法である。その理由について、 jetty:突き出し:形式の歴史とケントで用いられるようになった契機と時期について調べる必要があろう。
最近までは、英国の jetty:突き出し:工法が14世紀以前に発生したとの確証は得られていなかった。しかし、文献記録や遺構から明らかになった最新の諸証拠は、 jetty:突き出し:工法が既に13世紀に知られていたことを示している。
この技法が大陸から伝わったことも確かなようであるが、その時期については、地域によって異なり確かなことは分らない。ただ、この技法は、農村部に伝わる以前に、先ず町場で用いられたようである。ロンドンでは、1244年頃には既に見られ、その頃は、(突き出しが)通行人に目障りだ、と言われていたようだ。13世紀の遺構の中の jetty:突き出し:形式の実例が SUFFOLKBURY ST EDMUNDS で発見された。農村部の建物では、OXFORDSHIRETHE VALE OF WHITE HOUSE , WEST HAGBOURNEYORK FARM jetty:突き出し:形式が年輪時代測定で1285年建設と判定された。その他の OXFORDSHIRE の事例も14世紀前期の建設と見なされている。ESSEX では、WIMBISHTIPTOFTSと、MAGDALENWYNTER'S ARMOURIEcross wing :主屋に直交する増補棟:が13世紀後期~14世紀前期の間の建設と比定されている。

ケントでは、このような早い時期の事例は今のところ明らかではない。先に第4章(“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-12参照)で触れたように、13世紀後期~14世紀前期の木造家屋で、居室部分が当初のままの形状を遺す事例は少ししかない。当時の家屋が、端部に居室のための部分を用意していたのか、それともcross wing :主屋に直交する増補棟を有していたのかも詳らかでないし、また、それらが二階建であったのかどうか、 jetty:突き出し:形式を採っていたのかさえも詳しく知り得ない場合が多い。
明らかに jetty:突き出し:形式の痕跡を遺している最古の事例は、IGHTHAM MOTE の東~西の棟で、1330年建設の石造・木造併用の建物だろう(下図 fig22参照:左端部が jetty になっている)。

jetty形式は、1322年建設の EAST FARLEIGHGALLANTS MANOR の石造・木造併用の建屋、14世紀中ごろの建設のSMARDEN HAMDEN の木造建屋でも用いられていた可能性が高い。しかし、ケント農村部で、かなりのjetty形式の事例が、14世紀の後期:1375~1400年頃に見られ、その頃までには、この形式のつくりは、完成の域に達していた、と考えてよいだろう。
最も早い事例は、cross wing :主屋に直交する増補棟Wealden constructionの双方にほとんど同時に出現している。 CHART SUTTONOLD MOAT FARMHOUSE の1377年建設と記録されている cross wing と1379~80年建築の Wealden constructionCHART HALL FARMHOUSE などがそれである。また、STAPLEHURSTCOPPWILLIAM も、1370~71年頃の建築とみなして間違いないだろう。実際、 unjetty:突き出しなしの建物が現れるのは時期がやや遅くなってからであるから、ケント地域では、この時期、木造総二階の建物は、すべてが jetty:突き出し:形式であったと考えられる。
つまり、この地域で、 jetty:突き出し:形式の工法は、長い歴史がある、ということに他ならない。しかしながら、現在のところ、その起源や発展について、理の通った分析に堪える事例は、少ししか見付かっていない。
                                                                               この節 了 
     
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  先回予告のWealden construction の項は、複数節に分かれていますので、次回以降にまとめることにいたしました。

      ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
筆者の読後の感想

   西欧の街並みで、両側の建物の上層階が道路上に突き出し迫り出し)、あたかも道路がトンネルのようになっているのを見かけます。
   地上階を所有地の境界いっぱいに建て、上階を境界の外に突き出して迫り出して)いるのでしょうか?

   そのあたりの実際について、ご存知の方が居られましたら、ぜひご教示ください。

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