建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える                下山眞司        

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復刻・「筑波通信」 −4 : 「間」抜けの話・・・・・「間」が《抜かされる》ということ

2016-05-28 09:58:42 | 復刻・筑波通信

けやきの若葉

筑波通信 −4 : 「間」抜けの話・・・・・「間」が《抜かされる》ということ     1981年7月1日 刊 の復刻

五月の末から六月の初めにかけ、季節外れの夕立が続いた。それも雷雨である。
   註 1981年のことである。
そんなある夜、研究室に、学生の某君が、本を抱えて興奮した面持ちで飛び込んできた。どうしてもこの本を見てもらいたい、というのである。
その本とは、帝国書院から出されている「世界の地理教科書」シリーズのスイスの地理教科書であった(中学生対象ではないかと思う)。もちろん日本語訳である。不勉強で、こういう本があるなどというこよを、ついぞ知らなかった(このシリーズに続いて、世界各国の「歴史教科書シリーズ」も刊行されつつあるとのこと)。
その本にざっと目を通してみて、何故彼が話をしたくなったか、合点がいった。私たちが学んだ(学ばされた)地理の教科書とは全く異なているからである。私が常日ごろ望んでいたことが、この中学生用の教科書に、大げさに言えばものの見事に書かれていたのである(今、同じようなことを、大学生に話さなければならない、というのがあほらしく思えたのである)。
一言で言ってしまえば、この教科書は、「国土」について、諸「知識」を単に並べたものではなく、「国土」を、「そこで、人びとが生活してゆく」という視点で、どのように「把握すればよいか」という見かたで貫かれている、ということに尽きるだろう。
詳しく示せば、スイスという国土を、子どもたちがどのように捉えるか、その捉えかたを述べるのである。たとえば、〇〇山脈が何処にどのように走っていて、高さがどうで、地質やそのできかたがどうであるかというようないわば「物知りおじさん」的「知識」ではなく、もちろん、それも書いてあるが、それだけで終るのではなく、(したがってそれを覚えればよいというのではなく)、そのような山脈のあるところでは、どのような「自然」が展開し、そのような「環境」にあって、人びとはどのようにして暮さなければならなかったか、暮してきたか、暮しているか・・・、つまり、人びとの生活がどのように変ってきたか、人びとはその「自然」にどのように対処してきたか・・、といった現在の学問分野でいうところの「歴史地理学」「人文地理学」「あるいは「集落地理学」に係わる話が、実に分りやすく淡々と述べられている。これが、それぞれの固有の特性をもった地域ごとに語られ、その結果、スイスという「国」と、そこでの人びとの生活が、実にはっきりと浮びあがってくるのだ。
   そのような「特性」が存在するからこそ、「地方」「地域」という「概念」が生まれた、在ったのではなかったか。
   いま日本で「地方」「地域」と言うとき、そういう「特性」の存在を認めた上で語られているだろうか
そこには、ある地域が何故そういう地域になったのか、それを観る見かた・捉えかたが懇切丁寧に書かれており、その一環としてたとえば、ある地域に暮す人びとの一日の、そして一年の生活が、その「地理」との関係で、あたかも日程表のごとくに語られ、そのような生活との関連で、その人びとの家づくりの在りかたについても触れられている。だから、読んでいると、行ったこともなく見たこともないスイスのある地域のありさまが、目の前にありありと浮かんでくる。
そしてこれが大事なことなのだが、それは決して単にその地域について知ったということで終らないということだ。そう見てゆくなかで、たとえば、わが国のあの地方のありさまは、いったいどうなのだろうか・・・、といった具合に、それとの対比でものを観る私の「視野」が自ずと拡がってくるのである。つまり、一つのことを観ることが、十のことを観る観かたをも示唆してくれるのである。
すなわち、このスイスの地理教科書は、現象あるいは事象の「結果」だけではなく、そのような「結果」に至った「過程」を語っているのである。
訪ねてきた学生は、日ごろ、世の中一般に「結果」だけ注目され「結果」だけつなげてものごとが語られ学問・研究がされ、つまるところ、そこに至る「過程」が無視されていることに、言いようのない怒りを抱いていて、たまたま私が、およそ人のやることは「結果」も大事ではあるがそこへ到達するまでの「過程」:「人間の営み:営為」について考えてみることこそ大事である、と日ごろ言い続けていたものだから、私なら怒りを聞いてくれるだろう、と思い訪ねてきたのである。
そのとき、「人はどうしたか」、「どうするか」こそ大事なのではないだろうか。
人の為した「結果」について、あれこれ言うことぐらい易しいことはない。しかしそこからは、決して「人がどうしたか」は見えてこない。
逆に、「人がどうしたか」「どうしてきたか」が見えたとき、私たちは、ある一つの地域、あるいはある一つの現象を見ることを通して、「やがて目にするべき一切の風景を理解すること」ができるようになるはずなのだ。
   註 この文言は、当時読んでいた、サン・テグジュペリの著作の一節からの引用です。
     そのあたりをサン・テグジュペリ「城砦」(山崎庸一郎 訳 みすず書房)より以下に抜粋転載させていただきます。

     ・・・・・・
     かつて、存在するもろもろのものがあり、忠実さがあった。
     私の言う忠実さとは、製粉所とか、帝国とか、寺院とか、庭園とかのごとき、存在するものとの結びつきのことである。
     その男は偉大である。彼は、庭園に忠実であるから。
     しかるに、このただひとつの重要なることがらについて、なにも理解しない人間が現れる。
     認識するためには分解すればこと足りるとする誤まった学問の与える幻想にたぶらかされるからである
     (なるほど認識することはできよう。だが、統一したものとして把握することはできない。
     けだし、書物の文字をかき混ぜた場合と同じく、本質、すなわち、おまえへの現存が欠けることになるからだ。
     事物をかき混ぜるなら、おまえは詩人を抹殺することになる。
     また、庭園が単なる総和でしかなくなるなら、おまえは庭師を抹殺することになるのだ。
     ・・・・・・
     それゆえに私は、諸学舎の教師たちを呼び集め、つぎのように語ったのだ。
     思いちがいをしてはならぬ。おまえたちに民の子供たちを委ねたのは、あとで、彼らの知識の総量を量り知るためではない。
     彼らの登山の質を楽しむためである。
     舁床に運ばれて無数の山頂を知り、かくして無数の風景を観察した生徒など、私にはなんの興味もないのだ。
     なぜなら、第一に、彼は、ただひとつの風景も真に知ってはおらず、
     また無数の風景といっても、世界の広大無辺のうちにあっては、ごみ粒にすぎないからである。
     たとえひとつの山にすぎなくても、そのひとつの山に登りおのれの筋骨を鍛え、
     やがて眼にするべきいっさいの風景を理解する力を備えた生徒、
     まちがった教えられかたをしたあの無数の風景を、あの別の生徒より、おまえたちのでっちあげたえせ物識りより、
     よりよく理解する力を備えた生徒、そういう生徒だけが、私には興味があるのだ。
     ・・・・・・
     私が山と言うとき、私の言葉は、茨で身を切り裂き、断崖を転落し、岩にとりついて汗にぬれ、その花を摘み、
     そしてついに、絶頂の吹きさらしで息をついたおまえに対してのみ、山を言葉で示し得るのだ。
     言葉で示すことは把握することではない。
     ・・・・・・
     言葉で指し示すことを教えるよりも、把握することを教える方が、はるかに重要なのだ。
     ものをつかみとらえる操作のしかたを教える方が重要なのだ。
     おまえが私に示す人間が、なにを知っていようが、それが私にとってなんの意味があろう?それなら辞書と同様である。


では、この教科書が、どういう形でその叙述を締め括っているかというと、地域ごとにその地域の特性:人びとの生活を通観したあと、素直に、その国土の将来の(あるべき)姿を、将来の「(国土の)景観」というかたちで示して、我われ(スイス人)は、将来へ向けていま何を為すべきかを述べて終っている。

一通り目を通して、学生に劣らず、私も少なからず興奮し、何故スイスではこうで、日本ではこうでないのか、大げさに言えば夜の白むまで話が弾んだのである。
話をしてゆくなかで、彼が頭にきたのには、もう一つ別の理由があったことも分ってきた。
実は、この学生は、この本を地理の先生にその講義で紹介されたのだという。そこで彼が、例の「過程」重視論を述べたところ、その先生曰く、では書き方の順序を逆にすればよいのですかね、と言われたのだそうである。かれはそこで先ず頭に来た。そんな書き方の形式を言っているのではない、もっと本質的なことなのに・・・、というわけだ。
そして更に、この先生はこうも言われたのだという。近ごろ、建築を学ぶあるいは研究をする人たちをはじめとして、地理学以外の人たちがどんどん地理学の分野に入り込んでくるものだから、地理学の独自性を保つために地理学はいったい何をしたらよいのか、いろいろと論議がある、と(実際にこういう表現で言われたのではなく、私がいわば「意訳」した文言である)。なるほど、これは私も頭にくる。この学生が頭にきて当然である。「ね、そうでしょう」と言って彼はほっとした面持ちになった。それが印象的であった。もちろん、この「先生」は、「大学の」先生である。

私は、何故日本にはこのような教科書が存在しないのか、考えた。そして、今からでもこんな具合の教科書をつくることができるだろうか、としばらく考えた。子どもの教科書もながめてみた。そして、悲しいかな、書けないだろうという結論に達したのである。何故か、何故在り得ないか。
一つは、日本の現状が、このような書きかたを受け容れないものとなっているからである。
たしかに、ある時代までは、スイス同様、国土と人びとの生活について、つまり、「地理」と「人間の営為」とについて雄弁に語ることができる。
しかし、ある時以降、〈突然〉のように(本当は〈突然〉ではなく、〈下準備〉は着々と為されていたのだが、時間を圧縮して見ると唐突、突然に見えるのである)、地域の特性と人びとの生活とは無関係となり、国土はそれぞれの特性をもった「土地」ではなく、単なる「地面」として扱われるようになり、特性などはかえりみもされず、何処でも全く軌を一にした生活を行い得るのだ、それがよいことなのだ、それでよいのだ、という世の中になってしまっていたのである。
ゆえに、今、現代に生活する上では、「地理(の諸知識など)は不要である、つまり「地理を学ぶこと」と「生活」とは直接的な関係はないように見える。そうなってしまっている。だから、スイスの教科書のようには、素直に淡々と書くことはできないのだ。
書こうとすればするほど、歴史的な意味での「断絶」と、「地理を学ぶこと」と「現実に行われている生活」との間に存在する「断絶」が、より一層、目に見えて明らかになってくるだけなのである。
従って、できることと言えば、これまで慣習的・因習的に行われてきたように、それまでの《蓄積》の上に《最新の》事項を盛り込むことだけで、地理学の《最新諸知識》を〈系統的にきれいに整理して記述する〉ことしかないのである。
ゆえに子どもたちは、それらの《諸知識》が、自分たちの「生活」と如何なる関係があつか分らずじまいのまま、つまり何故に「地理」を学ぶのか、学ばされるのか分らないままに、徒に《暗記を強いられる》こととなる。
それはすなわち、前々号で書いた言いかたで言えば、子どもたちに、「それはそれ、昔は昔、今は今・・・」という「ものの見かたを教え込んでいることに他ならない。
「地理」は、すなわち「地理学」「地理教科書」は、この「現実との不整合」に目をつぶってはいけないのだ。そこから逃げてはいけないのだ。「地理学は今何をしたらよいか、などといういうような「愚痴」をかこっていてはならないのだ。
むしろ、この不整合な事態の不条理についてこそが、「地理学」の言及しなければならないことではなかろうか。それこそが「地理学」の本務だったのではないか。「地理学とは、そもそも何であったのか」ということだ。それを忘れて、自ら進んで自分の「縄張り」を狭めてゆく。その先は見えている。「学際的」研究・・を唱えるだけだ。しかし、そうしたところで、不整合な事態の不条理については言及できないだろう。各分野の「言及できない」ものがいくつ集まったところで言及できるようになるわけがないではないか。地理学以外の(人びとの生活に係わる)学問・研究分野でも同様な不整合が存在している、と私には思えるからである。まさmにこの点こそが、何故スイスのような書きかたの教科書が日本で在り得ない、と私が思う、もう一つの理由である。このような書きかたのできる人が、「地理学」界に、はたして居るのか?ということである。もし居るならば、そういう教科書が一つや二つあってもよいではないか。しかし、在りそうにない(全部を調べたわけではないから、断言はできないが・・・。文部省の規制があるからか?そうだとしても、必ずしも、そういう「外圧」だけとは思えない)。もともと、長年にわたり、「地理を学ぶというこ」=「我が国土について知ること」=「我が国土についての地理学的諸知識を《習得》すること」=「諸知識を辞書的に収集すること」で何ら疑いもせず済ませてきてしまい、「地理を学ぶこと」の「意味」について、何ら考えられてこなかったのだ。それはすなわち、書く側に、何の「反省」もなかったということになる。教えられる側は、つまり子どもたちは、意味も分からないまま(現実と不整合のまま)やみくもに、字面のとおりに《勉強》させられてきたのである。そこには本来の「学習」は存在しない。
   「勉強」の元来の意味は、商人が「勉強しておきましょう」と言うようなときの「勉強」の意であるという。
   その語が、「自らへ問題を課す」というような自制的な意を込めた「学ぶということの在りかた」の意に転じたものと思われる。
   そしてそれは、いつの間にか、多動的にして受動的なすがたになってしまった。つまり「学習」ではなくなった。


ウツギの花

おそらく、このように書くと、何も全てが現実の生活との係わりをもって語られる必要はないではないか、学問の成果は成果として、教えてよいではないか、何故ならそれこそが今人間の到達している最先端なのであって、教育の目的の一つは、その先端を将来更に先に延ばすことにあるのだから、と。そして、(自然)科学・技術(に係わる分野の教育)は、まさにこういう局面で実践されており、人文科学の分野もこれに追随しようとしているように、私には思えてならない。
しかし敢えて私は、これは誤っていると言おうと思う。
何故なら、今の最先端とは、いかにどれだけ「人間としての」立場から遠く離れるか、と言う意味での先端でしかない、ように見えるからである。学問というものが、進めば進むほど鋭角化し、知識自体もより細部にわたるようになることはそれはそれで当然である。
しかし、そうなるまでの過程が忘れ去られ、ただ目前の状況から前へのみ、そうすることの意味さえ忘れてただ突き進むということ、そしてそれを最先端と思い込み平気でいられるということ、に対して私は疑義・異議を申し立てたい。過程を忘れるということは、人間としての立場から、どんどん遠くなってゆくことに他ならないからである。
そしてまた、このような人間としての立場からほど遠くなった、あるいは人間としての立場を欠いた見かたが平然と教えられる一方で、必ず、他人へのいたわりの心、だとか、自然を愛する心、だとか、はたまた「道徳」だとかが、これまた平然と教えられるのが常だからである。考えてみるまでもなく、こんな論理的に矛盾するはなしはない。いったいどうやったら人間としての失ったものの見かたに、人間的なるものを継ぎ足すことができるのだろうか?
私たちは、まずもって人間なのだ。これは疑いようのない事実である。事実以前のはなしである。だから、「人間的な」とか「人間として」とかいうことを、形容詞のごとくに、後から追加しあるいは付加すればこと足りるとするような論法は、私には我慢がならないのである。それは「誤魔化し」であり、確実に誤っている。
言いかたを変えて言えば、いかなる最先端であろうとも、それは人間の為してきた営為の一環として在るのだ、との認識をもつ必要があるということだ。私たちは、常に、それを問う必要がある。私が、現実との、あるいは、今との係わりを問うのもその故だ。そしてそれは、私が現実との係わりを持たざるを得ない建築という職分に係わっているからではない。それが、本質的なことだからである。

「地理」の教育において、かなり昔から、指折り数えて知識を詰め込むのではなく、「『地理』を捉える」教育が行われていたならば、現在のわが国のような状況、すなわち「地理」が「生活:暮し」と無縁な状態、あるいは「それはそれ、昔は昔、今は今」というがごとき事象への対し方にはなっていなかったのではないか、そう思うのはいささか短絡的だろうか。
なぜなら、単に学校の成績のためとしてではなく、「生活してゆく:暮してゆく」上での「常識」となっていたならば、つまり、ごく自然にその「捉えかた」でものが捉えられるようになっていたならば、現在のような状況になる以前に、誰もが当然のように正当にして正常な批判力を行使したと思うからである。
然るに、バラバラの知識を教えることによって、「ものごとをバラバラにして捉える方法」を教えてしまったのである。この修復は大変である。
このような傾向は、今、全ての学問領域で見られる。ものごとを数え上げられるようなかたちに分解し、そうして得られる《知識》を数え上げることで、ものごとが分った気になってしまう。そこでは人間が喪失する。数え上げることができるような事項をいくつか取り出すという操作を施すとき、実は、その取り出し残されたところにこそ、人間の真実があるからだ。事項と事項の「間」にこそ、人間の本当の姿があるのではないか。
なるほど、一歩譲って、ものごとについて語るときには、いくつかの事項を軸に語るしかないのは認めるとしよう。
しかしそれは、あくまでも、「何かを語るために」見出した事項に過ぎないのであって、決して、ものごとがそれらの事項によって成り立っているということを意味しているのではない。それを多くの場合、取り違えるのだ。肝心なのは、「何を語ろうとしたか」「何を見たか」なのである
全く同様に、何故にそれらの事項(だけ)で見るような「癖」になったのかを省みずに、それらの事項がはじめから当然のように在るのだと思い込み、平気で居るのも誤りである。それはいわば、天空の星を見るに、星を見ずに星座を見る見かたに他ならない
こうしてみてくると、今の世のなか、ものの見かた、捉えかたが基幹である、という当たり前なことが、いかに忘れられているかが、空恐ろしいほど浮き上がってくる。言うなれば、「間」の抜けた、あるいは「間」の《抜かれた》、デジタル思考が横行しているのである。事項を指折り数え(digital の原義)、その総量でものごとが分る、というのならば、サン・テグジュペりではないが、辞書でたくさんである。
それ以上に、教育(小学校から大学まで)の現状の空恐ろしさもまた、目に見えるかたちで見えてくる。今、教区は、そのどのステージにおいても、その場限りでは「知識豊富な」、あるいは、ある限られた範囲についてのみ「知識豊富な」、そうであるがゆえに「『間』抜けな」見かたしかできない人間をせっせと養成していると言ってよいのではなかろうか。だから、「教科書」においても、そこに盛られる「知識」の質・量だけが論じられ、それが「間抜け人間」育成書になってしまっていることは全く省みられない。あるいは、論点にされることをきらい、意図的にそのように仕向けられ、仕掛けられているのかもしれない。

先日、某国立大学付属高校の先生たちと話す機会があった。いわゆる有名大学合格率の高さで有名な高校である。かねてから疑問であったことを訊ねてみた。彼らは、その有名大学で何を学ぼうとしているのか、何をしようと選ぶのか?ところが、彼らはほとんど、特に何かをしてみたい、というような「関心のあること」を特に持っていないのが特徴なのだ、という答えが返ってきた。彼らの「選択」は、全く、単に自分の(成績の)「点」に拠るのだという。これには、ある程度は予想はしていたが、驚くというよりあきれて返す言葉もなかった。このデジタル思考に秀でた「間」抜け人間たちは、いずれの日にか、その多くが「役人」として要職にゆき、絶大な権力をもつべく予定されているのである。とんでもない悪循環・再生産が行われている、ということだ。
そして私たちは、その「抜かされた『間』」やむを得ず放り出され、不特定多数として十把一絡げに《まとめて》数え上げる対象にされてしまうのである。というのも、私たちがあまりにも多種多様、十人十色であるため、かれらのデジタル能力の外にはみ出してしまい、そのままでは数え上げることができないからである。もちろん、彼らにとってそれはムダなことだから、数え上げようとする「努力」もしない。
今私は、私たちはやむを得ず放り出され、と書いた。しかしそれは、彼らの視点から見てのはなしであって、私たちにとっては、それはあたりまえだ。やむを得ずどころか、十把一絡げにされることの方こそが、私たちの「望まざる」すがたなのだ。
私たちは、やむを得ず、そうされて黙ってきた。なぜなら、指折り数えることのできない世界に居る私たちにとって、指折り数える、指折り数えられることのみを良しとするやりかたに対し、さしあたって、打つ手が見つからないからである。
指折り数えられるものしか分らない、分ろうとしない、そういう人たちに、指折り数えることのできないものごとを、ものごとが厳然として在ることを、どうしたら、分らせたらよいのだろうか。「『間』の存在」を分らせたらよいのだろうか。はたして、「『間』抜け」の人に「間」を分らせることができるのだろうか。
しかし、私たちは、ついうっかりと、彼らに抵抗しようとして、数え上げることのできないものを、数え上げてみようなどという気を起こして、彼らの土俵に引き込まれて失敗を繰り返す。
私たちのどこかに、未だに「数」に対しての「絶大なる信仰」が巣食っている
からではなかろうか。
そして、よく考えてみると、そのような「信仰」は、はじめから私たちの中に在ったのではなく、後から私たちの中に植え付けられたものであることに気が付くはずだ。
何が、誰が植え付けたのか。その一つが、そしてその最たるものが「教育」、特に「初等教育」であることは、紛れもない事実である。
余談だが、このごろの小学生は、高学年になると大概腕時計を持っている。その大半以上がデジタル表示である。小学生だけではなく、<大人でもそうらしい。心配性の私は、また心配したくなる。「時」に対する見かたが変ってしまうのではないか、と。
永遠に続く「時の流れ」:「時間」という捉えかたがなくなって、「時間とは時刻の集積であるという捉えかた」が先に来るようになるのではないか(既にそのような気配が感じられる)。
そもそも、私たちには、「時の流れ」という感覚があったはずだ。「今」と「一瞬前」と、「一瞬後」と、そして「その前」、「その後」へと、延々と、決して絶えることなく連続的に続く「流れの感覚」があった。それをなぞらえるものとして、針の回転運動による時計が考案された。砂や水の流れにそれをなぞらえた。
それは、私たちの感じている「時の流れ」そのものではないが、それをなぞらえたものであった。
そういう意味で、このような表示のしかたをデジタルに対してアナログ:なぞらえる表示と言うのである。なぞらえる表示のとき、「時刻」というのは、あくまでも「便宜的」なものなのである。「時刻」が先に存在するのではない。「時の流れ」が先ず存在する。「時刻」は、あくまでも「便宜」のために設定されたのである。
このことが忘れられ、私たちの時間が、この便宜的な「時刻」によって左右されてしまうような、いわば「逆転現象」が当たり前になってしまうのではないか、というのが、私の「心配」なのだ。なぜなら、そうなると、それはますます「それはそれ、今は今、昔は昔」的な思考の隆盛に拍車をかけることになる、と思うからである。ますます「『間』抜け」になってしまうと思うからである。


ジャガイモの花

私が今回「地理」の教科書の話から始めたのは、もちろん、別段「地理」「地理学」に他意があったからではない。建築:人が建物をつくる、という営みにあたって、人は、その生きる:暮す「地」の「理」を弁えることが必須と思うがゆえに、話が進めやすかったからに過ぎない。
私が言いたかったのは、私たちの「ものの見かた」が、私たちを「取り囲むものごと:surroundings 」が、あるいは「そのつくられかた」「語られかた」が・・・その全てが「『間』抜け」な状況になっていること、それに気付いていないこと、気が付かなくて当たり前と思われていること、更にそれを推し進めようとしていること、「この空恐ろしさ」について言いたかったのである。
ものごとを指折り数えるその指の隙間から、誰かがつくった枠組でものごとを見るその枠組から、私たちの本当の姿がこぼれ落ち、捨てられる。この「空恐ろしさ」を言いたかったのである。
では、どうしたらよいのだ。いったいどうしたら「『間』抜け」を「『間』抜け」でなくすることができるのだろうか。

それとも、こんなことを思うのは「馬鹿げている」のであって、《現実》に逆らわずに《素直に》世の大勢に従うのが《利口》というものなのかもしれない。
しかし、たとえ《現実》に逆らうことになったとしても、「私自身」には逆らいたくない。《現実》に心を逆なでしてほしくない、ということに、結局は行き着いてしまう。

どうしたら、私たちは「『間』抜け」でなく在り得るのか。『間』を抜かされて扱われることに抵抗できるのか。


あとがき
原文の饒舌な個所を直しましたが、それでも長くなりました。
最後までお読みいただき有難うございます。

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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介−32

2016-05-13 09:56:37 | 「学」「科学」「研究」のありかた


先回から大分時間が経ちました、「続き」を載せます。      *************************************************************************************************************************

Structural details of Wealdens  

Wealden 形式を特徴づける二階部分の前面への跳ね出し一体屋根は、当初から存在するが、初期の事例のいくつかには、細部の架構法や、木材の継手・仕口の点で、Wealden 形式と見なすことに躊躇う例がある。Wealden の中央部の小屋組には、通常とは逆に、wall plate :桁が、の間ではなくの上に置かれる事例が普通に見られる。
   註 wall plate を桁と訳しています。下掲の fig83 を参照ください。
     梁の上に桁を置くというのは日本の折置組、つまり、先ずで承け、その上にを架ける方式、
     wall plate :桁の間に置くとは、京呂組:先ずに架け、その上にを架ける工法を指している、と解しました。
そこでは、hall の表側の壁を越えて伸び、はそこに載せ掛けられるので、hall の前面を横切る形となっている。
   註 この部分の文意は、日本の「出桁(だしげた、でがた)づくり」に相当する技法のことと推察します。fig80bfig81 参照。
当然、この技法は背面でも使われる。そして、このいわば初期の技法は、Wealden 形式の架構で使われ続けている。しかし、14世紀後期から15世紀ごく初期の Wealden では、この技法が建物の他の部分でも、適宜に用いられている。fig79CHART HALL FARMHOUSESANDWICH 近郊の ASH にある UPHOUSDEN FARM では、柱が横向きに据えられている。これは、桁と梁の享け台になる部分を広くするためと考えられる。
   註 これは、fig79 桁行断面図の左から2本目の柱のような例を指しているものと解します。
しかし、この2例に見られる方法は、一般的ではなく、後期の Wealden 形式の建物で、架構上の問題を解決するために採られたいろいろな方策の一つに過ぎない。この方策は、通常は hall 中央部の軸組・小屋組に用いられるが、 fig80b の1399年建設の WEST COURT(在 COLDREDSHEPHERDSWELL )では hall 端部の仕切壁部分の軸組・小屋組でも使われている。 これらは架構上では些細な部分に過ぎないが、世紀の変わり目の頃になっても、Wealden形式の工法は、まだ形成期にあったことを示している。この工法が未完成であったことは、1400年近辺建設のWealden 工法の事例に、片側に aisle:側廊=下屋 のある建物が見つかっていることでも明らかである。
Wealden形式の後期の事例には、更にいろいろな技法が見られる。しかし、fig81 に見られるような一つの「典型」で建てられることは決してなかった。fig81 は、Wealden 形式の中でも最も洗練されている二つの遺構の中央部の軸組・小屋組の断面図である。fig81aTHE MANOR HOUSE は、前面と背面に(屋根:小屋が)跳ね出していて、必然的に、は延ばされたの上に設けられ出桁になっている。fig81bTHE OLD PALACE では、高く反り返った brace :方杖が使われている。これは、最も後期の open hall によくある架構を強調するための colonettes と同趣旨の装飾の一と考えられる。  
   註 colonettes :A small, relatively thin column, often used for decoration or to support an arcade.
この例では、の下に設けられた腕木上に置かれ、屋根勾配は前後で異なっている。これは、小屋の眞束が、小屋組:屋根の中央ではなく、hall の中央にくるように設置されているからである。
   註 腕木で承ける方策が、なぜ片側だけ採られているのか、分りません。
hall と二階建部分との接続法には、各種の方策が採られている。hall二階建て部分とを、一つ屋根の下で前面に跳ね出すWealden 形式のつくりは、建屋をすべて二階建で造るようになるまで続いている。Wealden 形式のつくりで総二階建の一つの事例が、STAPLEHURSTLITTLE HARTS HEATH の調査で確認された1507年の建設の建物である。これは、総二階建建物の最も初期の事例の一つで、おそらく総二階建住居の「効能」がまだ十分に理解されていなかった頃の建設と考えられる。







                                                この節 了      ************************************************************************************************************************* 

 
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九州の地震に思う−3・・・・・被災建物の様態

2016-05-01 11:11:21 | 近時雑感

桐の花が咲いています。

新聞やTVの写真・映像を見て感じたことを記してみようと思います。
現場の実際を見ていませんので、誤解があると思います。その点ご了承ください。

私の印象に残ったことを順不同に書きます。[文言補訂 15.25]

1.古いと思われる建物で、を使い、木舞土塗壁で仕上げた建物、が意外と少ない。
      差物・差鴨居も見かけなかったように思います。
  縦胴縁を設け、筋交い貫板:厚12伉度か)を張り、木摺・メタルラス張り・塗り壁仕上げが多いように見受けられた。
  おそらく、1950年代以降:戦後に改築あるいは新築された家屋が多いのではないだろうか。
  旧いと思われる瓦葺き建物に、いぶし瓦が少なく陶器瓦が多いように見受けられた。これも、戦後の改造・新造が多いことを示唆している。
  つまり、建築基準法制定後の建築が大部分である、ということになる。
      かつて(20年ほど前)、熊本大津町の辺りを訪ねたとき、旧いな、訪れてみたいな、と思う集落や建物が少ない印象を受けたことを覚えている。
      これは、瓦屋根の普及が著しいことから見ても、一帯が、「先進地」であるからなのだろうか?

2.新しい建物には、建築面積が小さい総二階建の家屋が多く(ゆえに縦長の立体が多い)、形体を維持したまま転倒している例が多いように見受けられた。
  それらは、基礎ごと転倒している場合、基礎から外れ、土台から上が転倒している場合、の二様があるようである。
  いずれも、一見、架構自体:柱・梁に損傷が生じたようには見えない。
  こういう転倒は、縦長立体ゆえの挙動 の影響が大きいと思われる。
  この挙動を誘発したのは、基礎に建物が緊結されていたからではなかろうか。緊結されていなければ、建物は基礎上を滑ったと思われる。
  かつて、阪神・淡路地震で、淡路島で実際に見た記憶がある布石の上を滑っていた)。
  基礎に緊結されていると、土台より上の立体が、緊結されている土台を基軸にして転倒するのである。どの位置の土台が基軸になるかは、地震次第。
  そのとき、おそらく多くの場合、アンカーボルト部で土台が割裂しているのではなかろうか。
  そして、地盤が軟弱のところでは、基礎ごと転倒に至ることになる。

  なぜ、建屋が形状を維持したまま転倒するのか。
  多くの転倒事例は外壁面に開口部が少なく、多分、一階、二階が同一面で立ち上がり、各面の壁部分が多いからではなかろうか。

3.古い建築面積が大きい二階建の場合(ゆえに、横長の立体になる)、一階部分が破砕し、二階部分がその上に落下している例が多いようである。
  同じく古い平屋建ての場合では、軸組部が破砕し、小屋組が瓦屋根ごとその上に落下している例が多いように見える。
  これは、破砕部分:下部に比べ、その上部の重さが大きく、上部に生じた挙動・変動下部に生じた挙動・変動の差が大きかったことに拠ると思われる。
  しかも、二階部分はおそらく多数の部屋が設けられているだろうから(つまり間仕切り壁が多い)、一階に比べ、立体としての固まり具合が強いはずで、
  ゆえに一階よりも変形しにくい。同じく小屋組は、切妻も寄棟も、下部の軸組部よりも立体としての固まり具合が大きい。 
  その結果、大きな揺れが生じると、変形しにくい上部変形しやすい下部を押し潰す格好になるのだと思われる。
  RCの建物で、いわゆるピロティ形式の一階が潰れている例が多々見られたが、それも同じだろう。
  これらの事例は、端的に言えば、上下が一体になっておらず、いわば積木を積んだような形になっていた、と言えるだろう。

4.建物の耐震とは、地震にともなう挙動を止める:抵抗することではなく、挙動に耐える:持ち堪えることである、とあらためて思った次第です。
  そして、そのための策としては、建物全体を一つの立体架構として考えることが必須ではなかろうか。
  それはすなわち、いわゆる「伝統工法の考えかた」に他ならない。

5.今回の報道でも、地震後も健在の事例の写真、映像が少なかったように思います。
  被災事例、健在事例を同等に(客観的に)扱う報道がほしい、といつも思う。そこから分ることは測り知れないからです。
    人が犬を噛んだならニュースになるが、イヌが人を噛んだのではニュースにならない、という例え話を聞いたことがあります

以上、きわめて大雑把な感想を書かせていただきました。

現地に実際に行かれた方がたの詳しいお話をうかがいたいと思います。

   追記 [5月3日 9.35追記] 
   以前の記事「とり急ぎ・・・『耐震』の実際」もご覧ください。    
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九州の地震に思う−2・・・・前震・本震?

2016-04-26 13:39:08 | 近時雑感

柿の若葉が鮮やかです。例年より早いような気がします。

今回の九州の地震では、今までにない頻度で地震が起きているようです(先ほどのニュースでは、今日午前の段階で900回を超えたそうです。
つまり、平均して一日当たり約100回近いということ)。
そのうち、震度7は二回あったとのこと。一回目が、今回の最初の地震。その後は、それ以下の震度がいわゆる「余震」として続き終息に向うのがこれまでの大地震の形。ところが、今回はその数日後、震度7が発生した(最初の震度7の地震よりも大きかったようです)。
その際、私が「?」と思う「解説」が発表されたのです。すなわち、
「最初の震度7の地震は『前震』であり、今回の震度7の地震が(今回の地震:「平成28年熊本地震」)の『本震』である。・・・」
この発表にと思ったのは、私だけでしょうか。

」と「」とに分けるのに、何の意味があるのか?そう私は訝ったのです。
多分、専門家のなかに、大きな地震では、その予兆として小さな地震があり、大きな地震の後には、いわば揺れ残しのような地震:「震」が続くものだ、という「定説」が在るのだと思われます。ほぼ同じ強さの地震が、続けざまに起きる、などというのは、「定説」の「想定外」ということ。
最近になり公表された、同規模の大きな地震が数日の間に発生する、というのは、かつてないこと、稀有なことである、との「説明」が、そのことを証明しています。

私はそのとき、こういう「定説」は、実際に起きている「事象・現象の観察」の妨げになるかもしれない、と思いました。つまり、先入観・予断が、事態を見誤る・・・

もしかすると、私たちの日ごろの行動のなかにも、こういう「思い込み」による判断が多々あるかもしれません。気をつけよう、とあらためて思った次第です。

  
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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介−31

2016-04-25 09:48:06 | 「学」「科学」「研究」のありかた


      *************************************************************************************************************************

Wealden construction
Development of the Wealden
   註 Wealdenweald 地方 :ケントの南部域:の意と解します。森林地帯のようです。本シリーズ−3を参照ください。

14世紀には、後の Wealden 形式の発明を導くことになる数多くの技法的進展が見られる。
その第一は、それまでの aisled construction の束縛から逃れ、(を承けるの載る)hall の壁を高くする試みが始まった。この実例は、hall 部分だけが遺っている14世紀後期の事例に多く見ることができる。
たとえば、1401年建設の EAST SUTTONWALNUT TREE COTTAGE や、SITTINGBOURNE 近くの NEWINGTONCHURCH FARMHOUSE などでは、quasi-aisled construction がまだ用いられているが( fig72 下に再掲参照)、他の事例では、1364年建設の SUTTON VALENCEHENIKERS (下図 fig80a )や、ALDIGTONPARSONAGE FARMHOUSE のように、aisle :側廊・下屋が全く存在しない。


第二の進展は、二階建ての居室部の必要性が増えたことである。hall の低い端部や天井の低い倉庫上の居室に代って、hall端部は特別の役割を担うようになり、それは、その部分を総二階建に変える契機となるのである。
この願望を実現する一つの方策が、主屋に直交する棟:cross wing を建てることであり、その一例の1380年建設の TEYNHAMLOWER NEWLANDS (下図 fig52 )に、その様態を正確に見ることができる。

このような進展は、ケント地域だけでなく全地域に影響を与えている。ただ、これには第三の、ケント的な方策を考える必要がある。このケント的な方策の存在こそ、The Wealden 形式の進化にとって決定的であった。
それは、建物を寄棟の一つ屋根の下に納めるケント地方特有の技法である。しかしこれは決して新しい発明ではない。最古の事例は1300年頃から見られ、最も有名なのが1309年建設のNURSTEAD COURT である。
   註 NURSTEAD COURTについては、はこの紹介シリーズの第14回に説明があります。また、図、写真を下に縮小して再掲します。

     
        
     

これらの事例は、13世紀後期〜14世紀初頭にかけて、COPTON MANORMERSHAM MANOR のように石造家屋に多く在り、おそらく木造家屋でも至る所で見られた思われる。
またこれらは、AYLESHAMRATLING COURTSITTINGBOURNECHILTON MANOR のような大家屋の端部の階上のない部分に多く見られるが、おそらく、PETHAMDORMER COTTAGE のような小さな家屋でも在ったのだろうが、遺っている事例は少ない。寄棟屋根hipped roof を用いたいという人びとの希望は、ケント地域西端部以外では極めて強く、建物・棟が交叉するような場合( cross wing )にも使われている。その事例が TEYNHAMLOWER NEWLANDS や の PETHAMOLD HALLfig51 下に再掲)である。ただ、それらを THAMES (テームズ川)北部域に見られる cross wing :切妻屋根が多い:と同一と見なしてはならない。

先の2事例では、hall の壁が低いゆえに、直ぐに分る。しかし aisle をなくし、hall の壁が高くなると、hall の明り取りの窓も高くすることができ、また、寄棟の屋根の下に一体になった hall wing :付属棟は、見分けがつかなくなる。
これらの事例を見れば、建屋全体を一つ屋根の下にまとめる策が何故生まれた理由がはっきりと見えてくる。
すなわち、それぞれの建屋に寄棟の屋根を架けるよりも、全体を一つ屋根の下に収める方が、工事が容易で工費も低廉だからなのである。る。
これらの事例の示すところが正しいとするならば、Wealden 形式のつくりは独自に発展した、と考えてもよさそうである。この仮説は、fig65 (下に再掲)の示すように、14世紀後期において、ケント地域では Wealden 形式のつくりが、群を抜いて多いことで分る。また、木造家屋では以前から一つ屋根に収めるという傾向が在ったことは、初期の事例に見られる断片的な痕跡の示すところでもある。

実際、hall から wing :付属棟への接続部や、hall から Wealden への接続部の架構、あるいは階上の jetty :跳ね出し部の架構には、ほとんど同じ技法が用いられている。更に、次章(第8章)で触れるが、Wealden形式のつくりの階上の居室の間取りは、ほとんど(主屋+付属棟形式の) wing :付属棟の間取りと同様がである。このような、ある形式から別の形式への変遷は左程驚くべきことではない。この変遷は、基本的に、架構上の問題を解決することに発しているのであり、その第一の課題は、を、独立の柱だけで(下屋:側廊の柱なしで) 如何にして承けるか、という点にあった。
   註 下屋:側廊があれば、梁を承ける上屋:身廊柱は、下屋:側廊の柱で支えられている。
Wealden 形式のつくりが、何時、何処で始まったのかについては、議論の余地がある。Wealden 形式のつくりは、ほぼ完成した形で現れたが、ただ、1370年頃より前には存在しないようだ。
最古の遺構は、1379〜80年建設の のCHART SUTTONCHART HALL FARMHOUSE である。下の fig66fig79 が、その全景と断面図。


この建物は、fig 68a(下に再掲) および fig 80a(前掲) の SUTTON VALENCEHENIKERSfig68c(下に再掲) 、fig72b(前掲) の EAST SUTTONWALNUT TREE COTTAGE から僅か数マイルのところにあり、そこでは、同じ時期にaisle :下屋・側廊 なしで hall の梁間を拡げる異なる方策が採られている。

おそらく、 Wealden 形式 は、ケント地域のこの辺りで創案されたものと思われる。しかし、14世紀後期から15世紀初めの10年頃の建設と見なされる事例は、この地域全体から東部 SUSSEX まで、広く分布していることにも留意しなければならない。

                                                      この節 了
     *************************************************************************************************************************

筆者の読後の感想   14.50追記
   ずっと気になっているのが、屋根。「軒の出」がない、あっても短いこと。
   気候が関係しているのはもちろんですが、
   軒を出す習慣がない、少ない、ということが、「跳ね出し(持ち出し)の技法」にも影響しているのではなかろうか、と思うのです。
   jetty と呼ばれる部分、ほとんど「 brace :方杖」が設けられています。
   それは、材料の故なのでしょうか? それとも石造がモデルだからなのでしょうか? 
 
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九州の地震に思う−1・・・・「科学的根拠」?

2016-04-21 15:39:18 | 近時雑感

ブルーベリーの花が咲いてます。例年より少し早い。

相変らず一時間に数回、かなりの揺れが続いているようです。気が休まらないと思います。
TVで報じられる様子を見ていて、いろいろ思うことがあります。そのいくつかを書いてみようと思います。

いろいろな専門家が、いろいろと話されています。その中には、私には「?」と思わざるを得ない話が多々ありました。
その一つは「科学的根拠が、あるかないか」というある「専門家」の「発言」です。
それは、今回の地震の震源に近い「川内(せんだい)原発」の稼働を停止を求める各界からの「見解」に対し、「『科学的根拠のない』稼働停止の要請」には、全く応じられない」という原子力規制委員会、委員長の発言です。
この「発言」に違和感を抱いたのは、私だけでしょうか。
新聞等の解説によると、今回「川内原発」が受けた地震の揺れは、「川内原発」の「設計基準」としている地震の揺れの大きさの数分の一に過ぎないから問題はない、ということのようです。つまり、「想定内であったから、支障は生じていないはずだ」ということなのでしょう。
そこに、「稼働停止を求める見解」との決定的な相違点があるのです。

稼働停止を求める見解は、「想定外の事態」が起きることを危惧しているのに対し、
委員長は、現在の「科学・技術」に想定外はない、現在の「科学・技術」においては、森羅万象全て想定範囲内である、と言っているに等しいからです。
言わば、現代の科学・技術に不可能はないということに等しい。
ゆえに、彼らは、「絶対に安全」を「技術」が保証できる」という、とんでもない《信念》を持ってしまっているのです。
いったい、そのような《信念》を抱ける、森羅万象全てが想定内であると言い切れる、その「科学的根拠」は何なのでしょうか
私には、これは、近・現代の「理工系」の「専門家」にありがちな奢りにしか見えません。

先に紹介した「復刻・筑波通信−3」の中で、私は、「絶対的安全を技術は保証できない」と書いています。おそらく、その当時の(理工系の)「風潮」を危ぶんでいたからなのでしょう。
あれから40年近く過ぎます。「理工系」の方がたの「発想」は、今も変らないのです。むしろ更に凝固し、硬化著しい、そのように私には思えます。
私は、この世は、人智の及ばない事象に満ち溢れている、今でもそう思っています。それが「森羅万象」の実相ではないでしょうか。
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被災お見舞い申し上げます

2016-04-16 09:48:59 | 近時雑感
熊本をはじめ、今回の地震被災地の皆様へお見舞い申し上げます。

まだ余震が続いているようです。

震源が、熊本から阿蘇を越えて大分へと移っているとのこと。
日本地図を開いてみたところ、その延長線上には、四国の構造線があることに気付きました。まさか・・・。

かつて設計に係った大津町の「護川(もりかわ)小学校」の様子が気になっています。震度6だったようです。
おそらく現地は慌ただしい事でしょう、問合せするのを躊躇っています。
被害のない(少ない)ことを祈るのみです。

今しがたも、依然として強い地震が頻発していることをTVが伝えていました。心配は尽きません。


   註 護川小学校については、2006年11月15日の「RCの意味を考える−1」以下のシリーズで触れています。
     続きはバックナンバーで検索願います。
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復刻・「筑波通信」 −3 : 『逃・避』考・・・・・《絶対に安全》を、「技術」は保証できるのか?

2016-04-13 10:00:00 | 復刻・筑波通信


筑波通信−3  「逃・避」考・・・・《絶対に安全》を、「技術」は保証できるのか?    1981年6月1日 刊 の復刻

昨年(1980年)、折あって、中国の河西回廊いわゆるシルクロードを訪れることができた。それは非常に貴重な体験であった。これには二つの意味がある。
その一つは、そこで、「人びとの住む(暮す)すがた」を見ることができたこと。
もう一つは、たまたま同行の方がたが建築関係の方ではなくその「関心」が私とは違うところにある研究者であったため、学問とは何か、今学問や研究というものが、一般に、どうなってしまっているのか、それがものの見事に見えてきたからだ。
彼らは、研究者として、「人びとからの金」で暮しているのにも係わらず、「人間として」の視点を欠いて、ものを見ている、それでは、その学問は「人間の(ための)学問」でなく、「学問・研究のための学問」になってしまうではないか、そう思えたのである。

さて、シャンハイからセイアン(古の長安)を経てトンコウまで、およそ3000km)、これほど目に見えて姿が変ってゆく「大地」、あるいは「自然」「風土」は、日本のそれに慣れた目には、まったく想像を絶するものであった。 
そして、その大地の変容にともなって、その「大地」への人の対処のしかたも、ものの見事に変ってゆく。
   註 ここで書いている「変容」は、鉄道、バスでの移動中、車窓から見た「景色」に拠っている。

一般に、中国の建物というと、大概、瓦屋根のそっくり返った《いわゆる中国風》の建物を思い浮かべるだろう。
しかし、あの姿は中国の建物のなかの全く極く一部のものに過ぎず、中國だからといって直ぐその姿を思い浮かべるのは、西欧の建物を全て石造りだと思い込んでしまうのと同様に誤りである。単なる「事実の見誤り」ならともかく、そういう《事実》を基に、西欧の思想は《石の思想》で、日本は《木の思想》などと言われてしまうと、全く困ってしまう。

今回は、この屋根の話から始めようと思う。
列車が、シルクロードを東から西へと進むにつれ、初めかなりの勾配(6寸勾配以上はある)の瓦屋根が、だんだんと緩くなり、次いで、瓦がなくなって土泥だけの勾配屋根になり、遂にはほとんど水平に近い土泥だけの屋根になってくる。いずれの場合も、屋根の骨組みは木造の梁・垂木の上に葦の類を敷き並べ、その上に土をこねた泥を塗り付けるのが基本となる。土は、建物を建てる屋敷まわりを掘ったもの。瓦は、塗り付けた土泥の上に敷き並べることになる(日本のいわゆる土居葺きである)。
当り前と言ってしまえばそれまでだが、この屋根形状の変容のしかたは、実に見事にその地の雨の降り方次第のようだ。
日本でも、地域・地方によってそれぞれ独特な形の屋根が見られるが、ただ見た限りでは、これほど単純に「雨次第」などと言い切れるようには見えてこない。
中國の車窓の風景の中に、日本ではそれこそ絶対にお目にかかれない瓦屋根に出会った。
日本では、現在は、いわゆる引掛け桟瓦葺きが普通だが、かつては平瓦を敷き並べその継ぎ目に丸瓦を被せる本瓦葺きが普通であった。現在でも寺院の屋根が大方本瓦葺きである。
中國で見たのは、本瓦葺きの丸瓦を取り去った葺き方。つまり、平瓦が並んでいて、継ぎ目に被せる丸瓦がない、つまり、隙間が空いている。雨が降れば、そこから確実に水が入ること請け合い。多分、そのやりかたを採る地域では、隙間からの水漏れは問題にならない程度の雨しか降らない、ということなのだろう。葺いている現場を間近で見ると、接触面を砥石で研いで摺り合わせてはいたが・・・、絶対に日本ではあり得まい。
しかし、日本の場合、丸瓦を被せることで、完全に雨は侵入を防げているのだろうか。そうではあるまい。そんな他愛ない降り方ではない。中国の乾燥地帯に比べると、その百倍以上の雨が降るのが日本である。いかに雨が少ないからと言って、中國でも、雨は隙間から入っているはずである。いずれにしろ、雨は瓦の下まで入り込んでいるはずなのだ。瓦だけで、雨は防げていないはずだ。
それでいて、なぜ、「問題ない」としているのだろうか。
雨は確かに瓦の下へ侵入している。ただ、濡れては困るところに顔を出さずに、その前にどこかに消えてしまっているのだ。雨水は、なくなったのではなく、室内と関係のないところで処理されている、ということ。だから「問題ない」と思うのである。

昔から日本の建物は、四周に軒の出をもつ勾配屋根であった。私が建築を学びだした当時、一般に、何となくそういう見慣れた屋根の形が古くさく感じられたものだった。平らな屋根の方が、新鮮で《現代的な》形であるように思えてしまい、平らでないとすれば、せいぜい片流れの屋根が《好まれた》のである。おまけに、軒の出も(特に片流れでは)嫌われた。ところが今は、卒業生に聞いた話では、逆に平らな屋根に見飽きてしまい、勾配屋根の方が好まれるのだという・・・。
その当時のことを振り返ってみると、屋根の形が、単に「建物の形」としてしか見えず、「屋根の形」としては見えて(捉えて)いなかったのではないか、と思う
これは、妙な言いかたに聞こえるかもしれないが、要は、「建物という『立体』の形」が、それだけが考えられていた、ということである。屋根は、ただその「立体」の一部としてのみ考えられ、立体の形に対する《美的感覚》だけが、その形状の決定権を持っていたのだと思う。《美的感覚》をくすぐるには目新しいものの方が手っ取り早く、それゆえ、見慣れた形が見捨てられ、ただやみくもに《新しい》形が追い求められた、ということだ。おそらく「新しい」ということの(本当の)意味さえ分らなかったのだ
そして、このような風潮をたしなめるでもなく、むしろすすんで保証していたのが、当時の(そして今も変りはないが)一般的な建築に対する考えかたであり、その最も大きい影響源であると言ってよい大学をはじめとする「専門教育」であった、と私は思う。屋根で言えば、屋根は雨水を防ぐもの⇒その要件を充たせばいかなる形状でもいい、極端に言えば、そのように「教えられた」のである。

しかし、建物に降る雨は、どこでも同じわけではない。此処と彼処では、同じ雨でも違うのだ、と先ず初めに思わなければならない。
場所・場所なりの雨が降る。雨に限らず、場所・場所なりに、その場所特有の「自然」「環境」がある。そういう「場所」で「どのように生きるか(暮すか)」:どのように対処すれば生きてゆけるか、それこそがその「場所」に「住んだ人たち」が考えたことなのだ。机上でこねくり回したようなそれではない。そうであるからこそ、それぞれの地方に、その地方独特の「同じようなつくりの建物」ができあがったのだ、と考えなければならない。その地で「どう生きるか、暮すか」人びとが考えた結果が、そういう「形」に結実したのである。そうでなくて、どうして、ああも同じようにならなければならない理由があろう。
ただしそれは、あくまでも「同じような」建物なのであって、どれ一つとして「同じ」建物のないことに留意する必要がある。

この点こそ、現代の建売住宅や「公共住宅」の「同じ」形とは、「同じ」の意味の違う点なのだ
端的に言えば、往古の住居の群れは、その「『考えかた』が同じ」なのであり、現代のそれは「『形』が同じ」なのである。
言いかたを変えれば、往古のそれは、「その場所での生活・暮し」が根にあるのに対し、現代は、その場所とは関係なく机上でひねり出された抽象的・観念的「生活像?」がその根にある、と言えばよいだろう。

そしてこの「現代的思考法」は、先に触れた「雨水が防げればどんな形の屋根でもいい、つくれる」という考えかたに連なっている。
私は、前回、「現代的思考法:ものごとへの対し方」は、「それはそれ、昔は昔、今は今」と考えるやりかたなのだ、と書いた。そして、そういうやりかたをとる「最も現代的・先進的な人たち」は、「現実」すなわち「本当のこと」に根ざさずに、すなわち「現実」・「本当のこと」が「見えていない」「見ない」「見ようとしない」のであって、まさに「観念的に」それを是としているに過ぎない。仮に見えていたとしても、そんなことに係わるのは面倒くさいから、そういう局面に直面することを逃げて済ますのである。それがつまるところ、「それはそれ、昔は昔、今は今」という形に、現象として、結果する。そうなると、ますます見えなくなり見ようともしなくなるのである。

ところで、今私たちが、極く当たり前に目にしている「平らな屋根」が、日本で流行りだしたのは極く極く近々の話である。もちろん、それは元をただせば「洋風」に行き着くかもしれないが、「洋風」自体が元から平らな屋根であったわけではなく、そこでも同様に極く近々、「近代」以降に起きた話なのだ。西欧でも、藁葺き、茅葺きはあり、木造も珍しくはない。屋根の形も全く「雨次第」だったのである。
「近代」が「平らな屋根」を「望み」、「それを是とした」ということは、まことによく「近代」を象徴している、と私には思えてならない。
では、この平らな屋根では、雨はどうなるのか。簡単に言えば、平らな屋根というのは、建物の上に「盆」が載っているのだ、と思えばよいだろう。
その「盆」に溜まった水を、「所定の場所」から排水する。これが平らな屋根の「原理」である。
万一「所定の場所」以外から水が流れ出すようなことがあれば、水は当然想定外のところ:濡れては困るところへも顔を出す、つまり「雨漏り」と言われることになる。しかし、「所定の場所」を所定たらしめることはなかなか難しく、万一どころか、もっと頻繁に、設計者は、所定以外からの雨漏りに悩まされているはずだ。
このような雨水処理のことを一般に「防水」の語で括っているが、平らな屋根の場合、コンクリートなどで形づくられた「盆」の上に設けられるアスファルトや合成樹脂の「層」や「膜」:「防水層」・「防水膜」:がその役を担う。
これらは、それが水を通さないということが前提だから、もしもそれが水を通したら、雨水は必ず屋内へ顔を出す。それゆえ、平らな屋根の多用・増加とともに、「防水層」・「防水膜」の技術は、それなりに格段の進歩があったのは確かである。
しかし、言うのは簡単だが、ことはそんなに簡単ではない。「絶対に」水を通さない、ということは至難の業なのである。
私自身の経験から言うのだが、水が漏るのは、必ずこの「絶対に」水が通ってはならないとして処理した箇所からなのだ。つまり、「絶対に」水が入らないはずのところ(正確に言えば、そのように「思い込んでいたところ」)が、雨漏り事故の最たる発生個所になっている、というのは疑いない事実なのだ。

ならば、平らな屋根を成り立たせる前提の、「絶対に水を通さぬ技術」の「絶対に」とは、いったいどういうことなのか。
実は、この、「絶対」をどう考えるか、という点こそが、平らな屋根に象徴的に示される「現代的考えかた」と、瓦屋根に表れる「古来の(伝統的な)考えかた」の、絶対的・本質的相違点に他ならない。すなわち、一般に「伝統(的)技術」と称せられる、長い年月にわたる人びとの体験を踏まえて培われてきた技術と、最新科学に拠って裏付けられたとする「現代(的)技術」との、根本的にして本質的な違いが、まさに象徴的に表れている、と考えることができる。



「伝統(的)技術」も「現代(的)技術」も、いずれも、屋内に雨水が漏れないこと、を考えている。しかし、それを実現するにあたり、この二つの技術は、全く異なる方策・考えかたを採っているのである。
「伝統(的)技術」においては、雨を防ぐために、雨水を拒否する、といういわば短絡的な手段は採られていない。むしろその技術を考え出した人びとは、雨水を「絶対に」拒否する・止めるということは、それこそ絶対にあり得ない、不可能である、ということを知っていたのではないかと思う。
それは、単に、彼らの技術のレベルにおいてあり得なかったという意味ではなく、雨水を絶対に拒否する・止めるということは存在し得ない、という意味においてである。しかし、雨が漏ってはならないということは、彼らにとって重要な課題である。
彼らは、彼らが雨漏りを防ぎたいと思うのは、屋内で雨に濡れるのが困るからだ、と認識していた。それゆえ、彼らは、彼らにとって濡れては困るところに雨水が「絶対に」顔を出さなければよい、としたのである。どのような対策を講じたか。
雨水が屋根材・防水材を通して入ってきても止むを得ない。ただし、それをそのまま屋内に落下させずに、無難な所へ「逃がして」しまえばよい、としたのである。これなら、「絶対に」可能である。方策が存在し得る
なぜなら、「水は高きから低きへ流れる」「土に浸み込んだ水はいずれは蒸発してなくなる」という「原理・真理」をわきまえてさえいればよいからだ。
このことに気付いたのは、だいぶ前の話である。
書名は忘れたが、旧い茶室の檜皮葺(ひわだぶき)の屋根に開けられた天窓の断面詳細図が載っていた。
具体的には覚えていないが、とにかくその見事な雨水の「逃げっぷり」「逃がしっぷり」に感嘆したことを覚えている。
確か、三段か四段構えで、内側に入り込んでくる雨水を、最終的には、外へ「逃がして(流して)」しまう工夫が施されていたと思う。そこには、雨水を「止める」という発想が微塵もない。あるのは、ただ、「流れよう」とする水を(自由に)「流す」(流し去らせる)ことだけであり、もちろん、「溜める」などということは全く視野にない。そこにあるのは、言ってみれば、「水の本性に対するゆるぎない『信頼』」とでも言い得ようか。
今私は日本を例にして見てきたのであるが、乏しい資料ではあるが、それで見る限り、西欧にあっても、「伝統(的)技術」において為されてきたことは、原理的には何らの差も見出せない。つまり、変らない。そう思えた。

一方、「現代(的)技術」の雨を防ぐ考えかた・やりかたは、既に触れたように、雨水を「絶対に」拒否する、あるいは断つ、止める、という発想が先に来る。元で止めれば、屋内に入ってくるわけがない、という点では何ら意義を差し挟めないくらい「合理的」な考えだ。そして、その「合理的」指向で(いわばドンキホーテ的に)突っ走ったのである。そのこと自体は論理的には全くその通りだから、文句は極めてつけにくい。しかし、論理的な整合性と、それが可能であるか、存在し得るか、ということは全然別である。防水の例で言えば、確かに「元で止めれば、屋内には入らない。しかし、これが成り立ち得るためには、「『絶対に』元で止めることができた」場合に限られる。一滴でも水が入ったならば、この論理は合理的に消滅する
直ちに分ることだが、このような「絶対に」は、それこそ絶対にあり得ない。努力目標としての「絶対指向」はあり得ても「絶対」はあり得ないのである。だから、通常言われる「絶対に」は、「確率的に絶対に近い」ということに過ぎないのだ。
つまり、「現代(的)技術」の追っている「絶対に」と、「伝統(的)技術」の追ってきたそれとは、全く(根本的に)意味が異なるのだ。
「伝統(的)技術」においては、目指すものが何であるか十分に知った上で、それが絶対的に可能な局面において、それを解決しようとする。雨水の侵入を「絶対に止める」ことは絶対にできないという「事実」を見ぬき、その局面に立ち入ることを避けている。言いかたをかえれば、その局面から「逃げている」。
これに対し、「現代(的)技術」は、聞こえよく言えば、この「不可能な局面」に《果敢にも》挑戦する。しかしそれは、つまるところは、「《絶対的絶対》指向」「《確率的に近絶対》指向」でしかあり得ない
この「伝統(的)技術」の、不可能な局面にに立ち入らず、そういう局面から逃げる・逃避する、そして可能な局面で勝負するやりかたは、その一見消極的なイメージとは逆に、極めて思慮深く、かつ積極的なやりかた・考えかたなのではないか、と私は思う。
しかし今、現代的科学技術への無節操・無思慮な信奉は、この不可能な局面での《挑戦》:「現代的技術」のやりかた・考えかた:を正当な方策、正攻法と考えてしまう。それはまさにドン・キホーテ的行動以外の何ものでもない。私にはそう見える。
しかし、私は現代の「雨を絶対に拒否する」ことを目指す技術開発を全面的に否定しているのではない。また、単なる懐古趣味、文化財保護論で言っているのでもない。
そうではなく、そういう技術開発が存在してもよいが、如何にしようが、その目標の「絶対に」は、あくまでも「努力目標」に過ぎないのであり、そこで生まれる技術が、そういう「性格」であることを忘れ、その技術に拠っていれば、《絶対に雨は漏らない》と思い込みがちになるのは危ないことだ、と言いたいのだ。
第一、雨を防ごうという同一の目標に対して、「雨を止めればよい」と考えるのと、「(生活・暮しが)雨に濡れなければよい」と考えるのでは、どちらが当初の目的の理解として妥当と言えるだろうか。
暫し考えてみるならば、軍配は明らかに「(生活・暮しが)雨に濡れなければよい」と考える側に挙げざるを得ない、と私は思う。
なぜなら、そもそも「雨を防ごう」と人びとが考えたのは、人びとが、雨の日にも雨に濡れないで生活を営める場所を確保したいがためであったはずだからである。「技術」の根に、先ず第一に「生活」があった、ということである。これ以上の「正攻法」が何処にあろうか。



現代的技術の方法の「絶対指向」も、それが雨水に対する方策ならば、まだ救いがある。「絶対」が絶対でなく雨漏りがあったところで、それは確かに困ったことではあるが、漏れたのはあくまでも「ただの水」に過ぎない。しかしそれが、原子炉の放射能漏れ、放射性物質のそれであったらどうか。
残念ながら、この場合の漏れに対しては「伝統的」方策は通用しない。放射能の特性に従いそれを「逃がしてしまう」というわけにはゆかないからである。水に濡れるのは嫌なことではあるが、ただそれだけでは無害である。しかし放射能はそうはゆかない。あるのは唯一「止める」「拒否する」ことだけである。ただその方策は、先に水を例にして書いたように、「絶対指向」はあり得ても、「絶対」はあり得ない。「ある確率で《絶対に近く》防ぐこと」はできても、「絶対に防ぐこと」はできないということだ。
これは、技術がそこまで到達していないからできない、ということではない。「絶対」ということ自体が、それこそ絶対に存在し得ないという意味だ。漏れることは必ずある、生じる。

そこで登場するのが「許容量」という《概念》である。漏れは〇〇程度までなら問題ない、という《考えかた》である。
これは一見正当・妥当なことのように見えはするが、「絶対に近い《絶対》」を、「絶対」であるかのように装うために、いわば「巧妙に仕掛けられた」《概念》なのである。絶対を標榜しながら、早々にその局面から「逃げ出している」「逃げようとしている」に等しい。
第一、「許容量」そのものさえ、一たびそれを決めてしまってから後は、あたかもそれが「絶対」であるかのように扱い、その数値を「目指す絶対」と思い込んで追及するわけだが、その許容数値自体、相対的にして任意の数値ではなかったか。
つまり、「許容量」概念を持ち出すということは、「放射能の漏れは、絶対に防ぐことはできない」と言う事実・真実を示す証左以外の何ものでもないのである。然るに、「原子力発電所は絶対に安全だ」と説かれるのは、いったいどういうことだ。
最近(1980年ごろを指している)「原発を東京に!」という本のあることを知って、私は非常に《嬉しかった》。「絶対に安全」なのだから、需要の最も多い東京に原発を置くことぐらい合理的な話はない!
どうしても原発が必要である、というならば、「原発は、決して、絶対に安全、ではない」という当たり前の認識から出発すべきなのだ。それを、論理操作を巧みに行うことであたかも絶対に安全である、と「思わせる」のが「現代の科学」であり「技術」であるというのであるならば、それはそれこそ「絶対に」「伝統的技術」に比べ、あるいは比べるに値しないほど、質が悪いと言わざるを得まい
「伝統的技術」を培った人びとは、雨に濡れないことを欲しはしたが、それが、「雨を止める」ことで求められる、などという短絡的発想はしなかった。
彼らは「雨に濡れない」とはどういうことか、彼らの生活にとってどういうことか、「知っていた」「分っていた」のである。彼らは、自らの生活に、真っ向から立ち向い、「逃げなかった」。

                                                                了


  あとがき
  原文の標題の副題は「原子力発電所は『絶対に』安全なのか?」でしたが、このように改めました。
  また、原文の冗長な部分も改めています。ただし、論旨は全く不変です。
  


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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介−30

2016-04-07 10:57:21 | 「学」「科学」「研究」のありかた


      *************************************************************************************************************************

   Jettied construction
   Jettied construction とは、下図(fig49 再掲)の a b c d e のように、上階を突き出す迫り出す)つくりで、次項の Wealden construction もその一つと言えるようです。
   註 jetty は突き出す、という意味の語のようです。日本語の「迫り出す」「跳ね出す」という意と解しました。
   

14世紀後期に進化を見せた新しい家屋形式は、ほとんどが jetty:突き出し:形式を採る。二階建ての建屋の階上部分を一〜三方向を、宙に飛び出させる方法である。その理由について、 jetty:突き出し:形式の歴史とケントで用いられるようになった契機と時期について調べる必要があろう。
最近までは、英国の jetty:突き出し:工法が14世紀以前に発生したとの確証は得られていなかった。しかし、文献記録や遺構から明らかになった最新の諸証拠は、 jetty:突き出し:工法が既に13世紀に知られていたことを示している。
この技法が大陸から伝わったことも確かなようであるが、その時期については、地域によって異なり確かなことは分らない。ただ、この技法は、農村部に伝わる以前に、先ず町場で用いられたようである。ロンドンでは、1244年頃には既に見られ、その頃は、(突き出しが)通行人に目障りだ、と言われていたようだ。13世紀の遺構の中の jetty:突き出し:形式の実例が SUFFOLKBURY ST EDMUNDS で発見された。農村部の建物では、OXFORDSHIRETHE VALE OF WHITE HOUSE , WEST HAGBOURNEYORK FARM jetty:突き出し:形式が年輪時代測定で1285年建設と判定された。その他の OXFORDSHIRE の事例も14世紀前期の建設と見なされている。ESSEX では、WIMBISHTIPTOFTSと、MAGDALENWYNTER'S ARMOURIEcross wing :主屋に直交する増補棟:が13世紀後期〜14世紀前期の間の建設と比定されている。

ケントでは、このような早い時期の事例は今のところ明らかではない。先に第4章(“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介−12参照)で触れたように、13世紀後期〜14世紀前期の木造家屋で、居室部分が当初のままの形状を遺す事例は少ししかない。当時の家屋が、端部に居室のための部分を用意していたのか、それともcross wing :主屋に直交する増補棟を有していたのかも詳らかでないし、また、それらが二階建であったのかどうか、 jetty:突き出し:形式を採っていたのかさえも詳しく知り得ない場合が多い。
明らかに jetty:突き出し:形式の痕跡を遺している最古の事例は、IGHTHAM MOTE の東〜西の棟で、1330年建設の石造・木造併用の建物だろう(下図 fig22参照:左端部が jetty になっている)。

jetty形式は、1322年建設の EAST FARLEIGHGALLANTS MANOR の石造・木造併用の建屋、14世紀中ごろの建設のSMARDEN HAMDEN の木造建屋でも用いられていた可能性が高い。しかし、ケント農村部で、かなりのjetty形式の事例が、14世紀の後期:1375〜1400年頃に見られ、その頃までには、この形式のつくりは、完成の域に達していた、と考えてよいだろう。
最も早い事例は、cross wing :主屋に直交する増補棟Wealden constructionの双方にほとんど同時に出現している。 CHART SUTTONOLD MOAT FARMHOUSE の1377年建設と記録されている cross wing と1379〜80年建築の Wealden constructionCHART HALL FARMHOUSE などがそれである。また、STAPLEHURSTCOPPWILLIAM も、1370〜71年頃の建築とみなして間違いないだろう。実際、 unjetty:突き出しなしの建物が現れるのは時期がやや遅くなってからであるから、ケント地域では、この時期、木造総二階の建物は、すべてが jetty:突き出し:形式であったと考えられる。
つまり、この地域で、 jetty:突き出し:形式の工法は、長い歴史がある、ということに他ならない。しかしながら、現在のところ、その起源や発展について、理の通った分析に堪える事例は、少ししか見付かっていない。
                                                                               この節 了 
     
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  先回予告のWealden construction の項は、複数節に分かれていますので、次回以降にまとめることにいたしました。

      ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
筆者の読後の感想

   西欧の街並みで、両側の建物の上層階が道路上に突き出し迫り出し)、あたかも道路がトンネルのようになっているのを見かけます。
   地上階を所有地の境界いっぱいに建て、上階を境界の外に突き出して迫り出して)いるのでしょうか?

   そのあたりの実際について、ご存知の方が居られましたら、ぜひご教示ください。

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復刻・「筑波通信」 −2 : 『道』楽考・・・・・「それはそれ、昔は昔、今は今」で済ませるか?  

2016-03-31 17:17:44 | 復刻・筑波通信

ヂンチョウゲ:沈丁花

   今回は、いつもの数回分にあたる長い文章になっています。ご容赦ください。
   数回に分けようか、とも考えましたが、かえって分りにくくなると思い、一回にしました。ゆっくり読んでいただければ幸いです。
   また、前半は、地図帳で関東平野の辺りの頁を繰りながらお読みください。探したのですが、適当な地図がありませんでした・・。



『道』楽考・・・・「それはそれ、昔は昔、今は今」で済ませるか?    (「筑波通信」1981年5月1日 刊 の 復刻)

ここしばらく、筑波には新鮮な季節が居すわっている。色とりどりの花と若緑色の葉は地にあふれ、天にはひばりのさえずり、風は穏やかに、そして、夜にはその風にのり、かえるの声が潮騒のようにきこえてくる。素直な自然がうらやましい。
   註 これは、当地域の、例年四月末ごろの変らぬ情景。

私が筑波に移り住んで今年で(1981年)で五年目になる。長年東京に住んで、都会でない風景に慣れていない私にとって(と言うより、都会でない風景の中で長く暮したことのない私にとって――ほんとに戦時中の疎開のとき以来である)、そこで暮すことは、まことに新鮮な体験の連続であった。
   註 1943〜45年(昭和19〜20年)山梨県甲府市の西隣、竜王町に疎開していた。
このごろ私は、年に数えるほどしか東京に行かなくなった(刺激がないと退化する大勢に乗り遅れる、置いてきぼりをくらうぞ、と《忠告》してくれる人もいる・・・。)。
その代わりというか、この広大な関東平野を歩きまわる(正確には車で乗りまわる)ことが増えた。そして、そのたびに、東京で考えられていることは、大部分誤りに近いのではないか、私が机上で考えていたことも未だ生ぬるい、と何度思ったか分らない。

たとえば、風土、風土とよく言うけれど、栃木の方から茨城へ向けて南下して来ると(矢板(やいた)⇒真岡(もおか)⇒下館(しもだて)⇒下妻(しもつま)⇒土浦という道筋を例に挙げると)進むにつれ、この僅か数十劼隆屬如土の色が変ってしまう。そしてそれとともに家々も街々の明るさも微妙に変ってくる。これは、全く目の覚めるほどの驚きであった。同じ白壁も、栃木では輝くように土地に映え、南に下るほど沈んでしまう、第一白壁が少なくなる。土の色が黒くなるのだ。そして、その目立った変り目が真岡下館の間、つまり昔からの栃木茨城の県境であるというのも非常に興味深いことだ。
因みに、近くを流れる鬼怒川も、その辺りを境にして上流には砂利の川原も見られるが、それから下流は常に泥土の中をその色を帯びながら流れてゆく。

土地、土地に、こんな微妙な違いのあることを、東京に居て分るだろうか、分る気が:分ろうとする気が起きるだろうか。
分るまい。分ろうともしないだろう。「地面」として(土地としてではなく)均質に見るだけに違いない。いったい、そんな違いに何の意味があるか、と思うだけだろう
そして、この土地土地に暮す人たちは、明らかに、この微妙な違いに微妙に対してきたのに(対してきたはずなのに)、その土地土地にまで「東京」的考えが猛威をふるいだしている、というのは、いったいどうしたことか。(不勉強ながら、私の知る限り、この違いについて触れていたのは、地理学の書物であったと思う。しかしそれは、あくまでも「地質」について、ただそれだけについてのみ書かれていたはずだ。)
このように思うのは、私の、「地方」に移り住んだ私の《ひいき目》のせいか。それとも、地元の人にとっては空気のような存在が、私にとって初めての味わいに感じられたからだろうか。
あるいは、こんな風に思うなどということは全く「異常」であって、いかなる違いがあろうとも、我われの最新「技術」をもってすれば、いかなるところにも同じものがつくれるではないか、そんなちっぽけな違いなど気にしていたら日が暮れる・・・、と思う方が現代的な生き方なのだろうか。
もしもそれが「大勢」ならば、私はあえてそのような「現代」には、たとえ「異常」であろうとも同調したくない。私は「異常(なこと)」を言い続けるだろう。なぜなら私は私の日常を《逆なで》されたくはないからだ。
第一、かの東京にだって土地土地の微妙な違いがあることは、その上に密集している家々などを一皮剥いでみれば直ちに分ることだし、その違いに応じて生成してきたということも見えてくる。
私が「大勢」に逆らおうと思うのは、「地方」にいれ込んだり懐古趣味に耽っているからではない。
「それはそれ、昔は昔、今は今」、で済ましてしまうこと、済ましていられること自体が、愚かだと思うからなのだ。

このごろ(1080年前後)、ある仕事がらみで、頻繁に関東平野を横断して歩いている。
私の暮す筑波は、関東平野の東端に位置している。東に10劼盥圓と筑波山から連なる丘陵台地にぶつかり、様相も変ってくる。
   註 ここでの筑波は、現在のつくば市のあたりのこと。そして、現住地かすみがうら市は、この丘陵台地のはずれにあたる。
そして西はと言えば、これは広大にして壮大、はるか彼方までかすかな起伏を繰り返しながら平原が拡がっている(だから、その夕日はまさに一見の価値があり、誰でも、四季それぞれのその表情に思わず歩をとめ、物思いたくなるに違いない)。
そして、よく晴れ空気が透明な冬の一日、少し小高いところからは、稀なことではあるが、遥か彼方に富士山を望むことができる。
同じような日、これは冬に限らず、ずっと近くに関東平野北辺の那須・日光・赤城へと連なる山々が眺められる。この山並みが一つの谷間(上越線が通っている)を挟み榛名へと続き、そこから山並みはほぼ直角に南へ折れ、関東平野西辺の山々:秩父へと連なってゆくのだが、ちょうどその折れ曲がる辺り、碓氷峠信越線国道18号:中山道が超える)の麓へ、頻繁に出かけているのである。つまり、関東平野を、東の端から西の端へと、まさに横断するわけである。

この横断ルートはいろいろあるが、一つは水戸から前橋をつなぐ国道50号に乗る手。筑波から北上し、下館・結城(ゆうき)の辺りで乗り、その後小山(おやま:東北線、国道4号=奥州街道との交叉点)、佐野足利(あしかが)、桐生(きりゅう)、前橋へと先ほど記した関東平野北辺の日光連山の前山や赤城山麓伝いに走ることになる。言うなれば、下毛野国(しもつけのくに)から上毛野国(かみつけのくに:こうづけのくに)そして信濃国へ、という道筋だ。
この道筋の一部は、完全に古代の東山道(とうさんどう:とうせんどう)に他ならない。従って、周辺には古代遺跡が集中している。
このルートは、山々の際を走っているから、先に記した山々もほとんど全容は見えず、見えるのは、それより手前にある山々である。赤城山さえ小さく見える。しかし、道は常にその片側に山並みをかかえ、同じような小山の連続とはいえ、それなりに場所ごとの特徴があるから、だいたいどの辺りを走っているか、夜中でも標識を見ずしても見当がつく。
   註 下毛野国:現在の栃木県に相当
      上毛野国:現在の群馬県に相当
      一帯は、古代、毛野国で、その都に近い側に、遠い方にが付けられた。
最近使っているルートはこれとは違う。それは、先のルートより南へ寄った平野の真っただ中を走る道である。先ず、筑波から下妻を通り、古河へ出る。古河東北線国道4号:奥州街道と交叉し南へ東京寄りに数匚圓と利根川を渡る。
この辺りで、関東平野を流れる大河川が、それまではどちらかと言えば南東へ流れていたのだが、台地にぶつかって向きを大きく南に変える。だから、同じように平原状ではあるが、筑波から古河まではだいたい台地の上だったのである(したがって、畑作地帯であり、水田はその台地を刻む襞のような小河川、あるいは沼地の干拓地だけに見られる)。
それから先、館林太田新田(にった)、伊勢崎前橋あるいは高崎へと、利根川と平野北辺の山々との間の河川の氾濫原を走るのだ。当然水田が圧倒的に多い(書き忘れたが、先に書いた国道50号ルート沿いは畑地が多い)。
ただし、ここで「当然水田が多い」と書いたが、この利根川南側に拡がる広大な水田地帯が、今見るような「当然の形」を成したのは、そんなに昔のことではなく、江戸時代前期以降であり、館林伊勢崎などの町場も、この辺りが穀倉地帯へと成長するとともに発展したはずである。新田(にった)も館林などよりも古いけれども、国道50号沿いに比べれば、字のごとく「新しい」が、街としては大きくはない。
もっとも、50号沿いの足利などの街も新しく、ここで言っているのは、国道50号沿いは古代から開けていた、それゆえ、古代の官道:東山道もそこを通っている、それに対し、平野部が開けてくるのは、それよりも大分遅れる、という意味である。

四月のはじめ、冬型気圧配置に一時戻ってきた極めてよく晴れ上がったある日、このルートを走ってみた。渡良瀬川を渡り、道はほぼ西北西に館林へと向う。ちょうど赤城山をめざす格好になる。そのことは初めのうちそれほど気にしていなかったのだが、その後の体験は、それを気にしないわけにはゆかない、という気にさせたのである。
館林市内に入った道は一旦北へ向う。それは、東京から北上して日光へ向う奥州街道の一筋西側の道に他ならない。そのとき私の目に飛び込んできたのは、雪をかぶった実に見事な山容の山塊である。一瞬後それが日光・男体山であることに気がづき、それと同時に、それこそわが身を疑った。いったいどこへ向っているのか、と訝ったのである。

先ほどから、私は北だとか西北西だとか書いてきているが、それは、いまこの文章を書きながら、地図を見てもらう方への説明のために、地図を拡げて確認しながら言っているのであって、その時の私には、そのような「絶対方位」の感覚など全くなかった。
そのとき私は、極めて大雑把に、館林伊勢崎と大体その順に西へ向えばよいと思っていたのであり、そのときも単純に伊勢崎方面を指し示す道路標識に従って右折したに過ぎなかったのである。そして、真正面に見事な山塊だったのである。しかも、道の両側の家並みの間にくっきりと浮びあがっている。これは偶然ではない。明らかに「意識的」である。これは「当て(あて)山」なのだ。日光へ向う道は、まさにこの男体山を目当てに、平野部の湿地の中の微高地(周辺より僅かに標高が高く比較的水の心配がない:人びとはそこに住み、まわりの低地で水田を営む)伝いに走ってきたのだ。館林の街は、遠くからは平野の中の島のように見えるが、実際それは、湿地の中に浮いている他に比べ相対的に大きな島なのだ。その大きさと、平野の中での位置に恵まれていたこと(江戸時代の主要通商路である河川に近い)が、その発展を保証したに違いない。これに対し、新田(にった)の辺りは古代の新田開発には適地ではあったが、近世の発展のためには不向きな地であったのだ。
古代以来、人びとの定住地:集落、村や町には、栄枯盛衰があったのであり、今のはその延長上に在る。これは、近世以降に大きく発展した他の平野の中のについて共通に言えることだろう。そして、館林は、男体山を真正面に据えることで成り立ったのだ。おそらくこれは間違いない。

こう分ってくると、館林までの道で見えていた赤城山も、あれも当て山であったことに気づく。それからあとの道のりが俄然楽しくなってくる。それから先、多分、赤城山は、より重要な意味をもってくるに違いない。そして予想どおり、ときには真正面に、ときには右真横に見ながら進むのだ。実際、標識は不要である、というより、山そのものが「当て」すなわち標識そのものだ。しかし、夜は全く当てにならない。当てが見えないから、どこを走っているか、まるっきり見当がつかない。これは、国道50号筋との絶対的な違いである。古代の道が山際を通るのは、湿地帯が物理的に通りにくいということと同等に、あるいはそれ以上に、たとえ夜は歩かなかったにしても、遠くに見えるものよりも、近くのものの方を「当て」にしたかったからに違いない。
この辺りから見る赤城山は、これも素晴らしい。50号筋で見るそれとは比較にならない。そして、その左に見える榛名(はるな)も同様に大きいし、その両山の間の一段奥に壁をなして輝く雪の山脈:上越国境の山々だろう:もまた見事である。
こういった景色を眺めていると、なるほど直ぐの周りは平野だけれど、ここ、つまりこれらの集落:村々が成り立ち得たのは、これらの山々:当てにできる山々があるからなのだ、そんな気が実感として湧いてくる。具体的な証拠はないが、実際そうだったに違いない。
現代人にとっては最早観光の対象:眺めるだけの対象でしかないこういう山々は、ここに住み着く決意をした人びとにとっては、そんなものではない、「頼りになる」「頼りにしなければいられない」ものとして映ったに違いない。
東京に居て、最も近代的・現代的な東京に居て、このことの意味が分るだろうか、実感として持てるだろうか。分りはしまい。持てもしまい。単に「一景観」としてしか見ないだろう。にも拘らず、こういう人たちが「地方」の地域計画や建物を平然としてつくってしまう
私は「景観」という言葉が大嫌いです、と言った「地方」出身の卒業生を思い出す。

さて、館林太田を過ぎて伊勢崎へ向う。右手には、相変らず赤城榛名の雄大な姿が見え続ける。そして、正面に、また見事に雪をかぶった山が・・。どう見たってそれは浅間山だ。あまりのことに驚くほかない。しかしそれは、私の知っている浅間山でなかった。全く初めて見る、こんなに見事だったか、と思わずにいられないほど他を圧して輝いている。
私の知っていた浅間山は、信越線あるいは国道18号:中山道から見た「景色」としての浅間山と、八ヶ岳の東側を小海(こうみ)から小諸(こもろ)に向う道筋で見た、もう少し小ぶりのそれだ(そう言えば、その道も正面にこの山を据えていた)。
これはもう全く偶然ではない。完全に「意識的・意図的」だ。「当て山」という言葉は以前から知ってはいた。「当て山」としての筑波山の存在については、日ごろの実感として分っていた。
遠出をして筑波に帰るとき、筑波山が見えてくると、ああ帰り着いたな、間違いなく帰ってきたな、とほっとするのである。
だから、おそらく関東平野に於いては、他の山々もそういう意味・役割を担っているだろうとは、ある程度予測していたのではある。しかし、これほどまでとは、ついぞ思ってもみなかったのだ。
高崎を過ぎ、安中(あんなか)、松井田(まついだ)・・といよいよ碓氷峠へと昇り始めると、当然ながら、浅間山は手前の山々に埋もれて、あの丸みを帯びた山頂がちらっと見えるだけになる。しかし道は、川に沿い上り、山々のくびれ:峠を目指せばよく、両側には登るにつれ山肌が迫ってくるから、もう先ほどのような「当て(山)」は要らなくて済む。
以上ながながと、筑波から西への、関東平野横断で感じ味わう情景を書いてきた。そしてこれは、なにも関東平野だけでの話ではなく、何処でも、少なくと、旧道沿いでは、同じはずだ。

一度は、道路標識だけに従うしかたではなく、周りに拡がる景色を単なる「景観」として眺めるしかたではなく、歩いてみてはどうだろうか。
そして、もしも何の「情報・知識」もないままに平野の真っ只中に放り出されたとしたら、我われはいったい何を探し求めるか、想像してみるのも一興である。
そう試みてみることで、初めてそのような場所に移り住む気になった人びとや、そういう所を通過しようとした人びとの「心境・情況」に、ある程度は迫り得るのではないか、と思うからだ。
また、そうしないと、村や町も、「できあがってしまったもの」としてしか見えず、「どうしてそうなったか」に対しては、全くと言ってよいほど無関心になってしまうからだ。


先に、「少なくとも旧道沿いはそうだ」と書いた。実際、このルートに於いても、至る所に新道、バイパスが造られている。
そこではすでに先のような「情景」は全く生まれない。もはや目当ては道路標識以外なく、ベルトコンベアに乗っているかの如く走るしかなく、目的に近づいているかどうかは、極端に言えば距離計の目盛だけが頼りになる。
だから、標識と標識との間を走っているときは、まさに「無用な途中」に過ぎず、外に見える風景も白々しく思えてくる。まして標識に、初めて知る、あるいは予想外の地名でも出てくると、これはもう、どうしようもなく不安で苛立ってくる。
その点、「当て山」を正面に据えた旧道では、絶対にそういうことはなく、標識を見ても、もうここまで来たか、あそこに行くにはここで分れるのか、などと悠然と構えていられるのだ。つまり標識自体を、それほど重視しないで済ましている。安心して走っているわけで、無用な途中とは、少しも思わない。

しかし、その旧道沿いでも、その特性を失ってしまうような建て方の建物が増えてきている。そこに暮す人びともまた、その特性が分らなくなってきているのに違いない。
けれども、この人たちの「分らないと、東京の人たちの「分らない」とは、その「意味」が違うだろう。
東京の人たちには、このようなことがあることが分らないのであり、そこに暮す人びとは、そうあることは分っている、しかしそれが空気のような存在であるため気が付かない、そういう意味での「分らない」であると思われる。
そのようなとき、何でも東京風にするのが「近代的・現代的」で、「最新」と思い、思い込まされると、その「分らない」もまた、ますます東京流の「分らない」に近づいてゆき、この「特性」も、どんどん風化してゆくことになる。

これも時代の趨勢、栄枯盛衰の一形態として、黙って見過ごしていればよいのだろうか?
私はそうは思わない。思いたくない。
そもそも「地方の時代」などと語られるが、そのとき、何をもって「地方」と言っているのだろうか?

おそらく、ここまで読むと、何か私が、失われてゆくものへの愛惜の念にかられて、つまり、ある種の懐古趣味で言っているように見えるかもしれない。そうではない
何故「そうではない」のか、について私見を書いてみる、これが今回の本題である。


シデコブシ:紙垂辛夷

先に、村や町を「できあがったもの」としてのみ見て、「どうしてそうなったか」に関心がなくなる・・・と書いた。
しかし、「どうしてそうなったか」について全く関心が示されていないわけではない。
各地域・地方の郷土史研究者、愛好者を含めた歴史研究者、考古学研究者、地理学研究者、あるいは建築史学研究者などにより、各地域・地方の成り立ちについて、立派な「郷土史」が編まれている。それこそ各地競って編纂が行われている、と言って過言でない。そしてまた、各地の新しい開発にともない(皮肉にも)、これまで知られていなかった古代〜中世遺跡・遺構が続々と発見され、資料として加わってゆく。そしてまたそういった史・資料をもとに、横断的に(古代の)集落の成り立ち・構成やその変遷等について、あるいは(古代の)道の造られかたについて(「当て山」の存在の考証なども含め)など、それぞれの時代の状況がいろいろと論考されている。
私もまた、私なりの視点でこれらに対し関心がある。しかし、その関心の内容は、いささか違うようだ。

私が「どうしてそうなったか」と問うとき、なるほどこの問の形式は一見「客観的な」装いであるが、私の真意は、むしろ、そこに係わりをもった人たちが「なぜ、どうしてそうしたか」を問うている。
一方、これらの論考のほとんどは、先ず「事実の編年」に終始し、その「事実の流れ」の「変遷」に対して「客観的分析」を加えるという方法(たとえば、ときの政治、経済、社会、技術・・・状況によるいわゆる「要因分析」を行う)が採られ、そういう意味での「どうしてそうなったか」の考察だ、と言ってよいだろう。
しかし、ここでの「事実」は、いわゆる自然現象としての自然界に見られるそれとは明らかに違う。人びととの関係なく存在し得る類のものではない。人びとが何かをした、「その結果としての事実」以外の何ものでもない。「どうしてそういう事実として結果するようになったか」、つまり、「人びとは、なぜ、どうして、そのようにうしたか」は、「目に見える事象」としては、それこそ「絶対に」遺っていないから、論考に際し触れられないし、触れようともしないのが実際ではなかろうか。それが「学的態度」というもので、それに触れるのは「歴史小説」の世界であるかのようだ。

「常陸風土記」をはじめとする往古の「風土記」には、「どうしてそうなったか」に対して、「どうしてそうしたか」という語り口で書かれている。その内容の「現代的意味での事実としての当否」は別として、彼らは極めて「健全であった」と思わざるを得ないのだが、これも私の視点が「異常」だからであろうか。

いわゆる「文化財」という概念は、先に降れた「学的態度」の延長上にあるのではないだろうか。
ある時代の遺物、遺跡、遺構を、「その時代」を代表する「文化」財として扱う。そのこと自体には、私も別段異論はない。
しかし、何のために扱うのか。「学術的価値」の高い資料だからか、その昔こういう時代があった、ということを示すものとして遺しておきたいからか、あるいは「美的価値」の高いいわゆる「芸術品」だからか、あるいはまた単に「古い」からなのか。
もしそうであるならば、敢えて言わせてもらうが、それは、「趣味」「趣向」以外の何ものでもない。学問自体も、それでは一趣味だ。
そうだとすると、風土記の著者たちに比べ、「健全ではない」のではなかろうか。
風土記の作者たちには「今」がある。「今」のために「過去」を見ている。
しかし、「文化財」という概念には「今」が見られない、多分ないはずだ。人類の「文化遺産」として、「えらいこと」をことをやったもんだ・・、と感嘆しているだけだ。

しかし、私たちが「私たちの歴史」を知ろうとするのは、いったい何のためなのだろう?
単に「それぞれの時代の『事実』を知る」ためなのか。「それはそれ、昔は昔、今は今」という事実を知るためか。
そもそも、私たちが「私たちの歴史を知ろうとする」のは、「それはそれ、昔は昔、今は今」として「扱わない」、と言うより「扱えない」からこそではなかったか。
すなわち、「それはそれ」として独立の事象としてはどうしても扱いかねる、個々の事象相互に連関があるようだ、それはいったいどういう連関なのか、それを知りたく思ったからではなかったのか。

けれども今や、世の中の現実は、全てにわたり、「それはそれ、昔は昔、今は今」になってきている。

この「それはそれ、昔は昔、今は今」という文言が頭に浮んだのは、都市計画や建築設計に係わっている人たちとのある会合の席上である。
この方がたは、先ほどの表現で言えば、「できあがってしまった町」、そしてそれよりも「これから先つくりあげること」に関心がある人びとと言ってよいだろう。
その席で、私が「近ごろ、学生のなかに、畳の敷きかた:並べかたや、障子や襖など引き違い戸で、向って左側が奥に納まるということを知らない人が増えた」という話を持ち出したところ、即座に「そんなこと、どうだっていいんじゃないか、目的がはたせればいいんだ」という反応が返ってきたのである。私にはすぐさま返すうまい言葉が見付からなかった。そして、口には出さず、「それはそれ、昔は昔、今は今、か」と思ったのである。
この「単純機能主義者」:残念ながらこれも大学教師で、都市デザインの権威者で通っている:は、明らかに間違っている。しかしその「誤り」を指摘しようとしたら、それは「ものみかた」の根本にまで遡らざるを得ないから一昼夜をかけても済まないだろう。
私は、その場での反論はやめにした。そして、これは大変だ、思っていた以上に大変なことになっている、とあらためて感じ、どうしようもない白けた気分になったのを記憶している。
彼は、学生たちが何故そういうことを知らなくなったのかについて、少しも分っていないし、分ろうともしていない。知らないからといおって、大したことではない、知らないなら知らないで、それはそれでいいではないか、というのである。
しかし、そうやって済ます前に、彼らが知らないのは、彼らの体験のなかにそれを知る機会がなかったからだ、そしてそれは彼らの住む家が「公団住宅」に代表されるようなタイプの家だからだ(因みに「地方」出身の学生たちはほとんどが知っている)、そして、彼らが何かをつくりだすときの一つの拠りどころは、彼ら自身の自分の家での体験である、という厳然たる事実に気が付かなければなるまい


第一、「目的さえ果たせればよい」ということでさえ、当の本人が常識的な畳の敷きかたや引き違い戸の納めかたを既に知っていて、そこから「目的」なることを「抽象して得た」のだ、ということを忘れている。
それとも、この大学教師は、「目的」も「機能」も、全て、自らの体験とは全く関係なく、自分の頭のなかで「純粋観念」として得たとでも思っているのだろうか。おそらくそうに違いない。と言うより、「忘れている」ことを忘れ、そう思っているのだ。
彼ならびに同類の建築に係わりをもつ人びとにとって、都市の機能も都市の構造も、そして建築の機能も、全て、私たちの体験、彼ら自身の体験とは全然別物として在るに違いない。いや、彼らには、彼ら自身の体験以前に建築や都市の観念が在る、とでも言った方が適切かもしれない。
そう「理解」することによって初めて、彼らの「デザインした」都市や建物が、何ゆえに、私たちの日常を逆なでするものになるのかが、よく分る
(こんなことが分っても何にもならない・・・)。

この人たちは、ある町が「どうして今見る姿になったか」については関心がない。それはそれ、昔は昔だ、と思っているからだ(もちろん家々がどうしてそういう形になっているかについても関心がない、それは建築史学の関心事であって、彼には関係ないことなのだ)。そして、「今は今は」とばかり励む。いったい彼らにとって「今」とは何か。私には、彼らに「今」などない、と思える。何時だっていいのである。時間を超越していると、浅はかにも思い、それが「真理」とさえ勝手に(独りよがりであることに少しも気付かず)思い込んでいるのである。彼らには、「今」は彼ら自身によってできていると思っているのだ。
これは、私には、想像を絶するほど怖ろしいことに思えるのだ。なぜならそれは、人間を、人間の為してきたこと、為していること、すなわち「人間の営為」を、あまりにもばかにしているからだ。

残念ながら今、こういう人たちの考えかた(それはすなわち、ここまで何度も触れてきた現代的、都会風の最新の考えかたに他ならないのだが)が主導的になって、いろいろな町や都市やそして建物の計画が行われているのである。
それがどういうものであるか。要は、「そこ」に居る・在る私たちとは何の関係もないないものが白々しく目の前に立ちはだかるさまになるのである。
おそらく、このような怖ろしいやりかたでものが造られたことは、未だかつてなかったに違いない。いや、なかった、と断言していい

私は、私たちの生活、私たちの日常、そして私たちの率直にして素直なものに対する感じかた、見かたを先ず第一に尊重したい、信じたい、と思う。自信を持ちたいと思う。
いったい、人びとは何時から、私たちの体験、私たち自身に基づくものよりも、「客観的データ」で語られるものの方を信じるようになってしまったのか?
私たちは、「私たちの体験」すなわち「私たちの存在」を忘れ、あるいは見失い、あるいは切り捨て、あるいは知らず、知ろうともせず、ただ徒に「抽象的」に「人間的な」街づくり、「調和ある」開発、「豊かな」農村、「地方の」時代などなどの、おためごかしの言辞をもてあそぶ人たちに、たとえ彼らが「専門家」を称しようが、立ち向わなければならない。
「専門」の何たるかを、問い詰めなければならない。



アブラナ

私たちは、私たちに係わるものごとを「それはそれ、昔は昔、今は今」というかたちで処理することに馴れてしまった、あるいは馴れつつ、または馴らされつつある。馴れてしまうと、人はずっと昔からそうだった、と思っても不思議でなくなるから、ますます「それはそれ、・・・」となってゆく。
しかし、このようになったのは、極く近々のことなのだ。その根は、明治の「近代化=西欧化」まで遡るかもしれないが、ここまで徹底しだしたのは、ここ数十年のことではないだろうか。
敗戦に拠る価値観の転換は、過去の「文化」の単純全否定まで惹き起こした(その同じ論理の上で、真逆なかたちとしての「復古願望」が出現する)。そしてまた、戦後の、信仰に近いほどの「自然科学」あるいはその「方法論」への傾倒は、それに輪を掛けた、と私は思っている。
この辺りのことについては、改めて別に書く。

私たちは、確かにものごと一般を、「それはそれ、昔は昔、今は今」として「処理する」ことができる。そして、その方が容易である
けれども、私たちの日常は、決してそうではない。
私たちは、「それはそれ、昔は昔、今は今」では生きてゆけないし、第一そのようには決して生きていない。前後の連関のない時間など私たちにとっては存在し得ないように、生きている私たちにとって、「それはそれ、昔は昔、今は今」などということは、論理的にあり得ない

もしも、「それはそれ、昔は昔、今は今」として「処理する」ように生きているのだと思っている人がいるとすれば(現実にいるわけだが)、それは彼らが全くの「嘘」をついているか、自分自身を全く「見て(観て)」いないからに違いない。
私たちが、私たちは「それはそれ、昔は昔、今は今」として生きていない」と気が付いたとき、そのとき、あのいわゆる「文化財」も初めて私たちの「今」に関わってきて、本当の意味での「文化財」として捉えられるのだ(もっともそのとき、「文化財」と呼ぶかどうかは分らないが・・)。

最近、地名に関するシンポジウムが開かれたという。地名をもっと大事にし、それを破壊・消滅から守ろうという趣旨であるらしい。その趣旨自体には、私も賛意を表する。
しかし、参加者のなかに幾人かの建築や都市の設計・計画に係わりをもつ人たちの名前を見付けて驚いた。私には、彼らは破壊を率先して進めてきた人たちに見えるからである。
私は彼らに、こう訊ねたい。
「今さら地名が大事だって?地名に関心があることは、ないよりはよい。しかし、あなたがたがやってきたこと、やっていることこそ、地名を大事にしないことそのものではないのか?それに対して何らかの自己批判があったのか?それはそれとして脇に置いといて、地名に口を出すのか?」
しかし、何故自己批判を求められるのか、彼らはそのことさえ分らないだろう。
よくは知らないが、彼らがそこに参画するのは、地名は過去の時代の「文化」を示している、そして「今」、彼らは、彼らこそが「今の文化」に創造に係わっている、だから「文化」に係わる「文化人」としてそれに係わるのだ・・・、多分そんなところだろう。要は、「今」都市や地域の「文化」えお造るのは自分たちだという「驕り」に近い「自負」があるからに違いない。それに、「地方の時代」というのも流行りだし・・・。

今や、「地名」まで「文化財」に成り下がって(それとも「成り上がって」?)しまったのである。そのシンポジウムのテーマ:「文学と地名」「歴史と地名」「地域文化と地名」「都市問題と地名」・・・これらは分科会のテーマである:を見る限り、何が語られたかは具体的には知らないので誤解があるかもしれないが、もしも、ある文学がその土地に根差して生まれた由緒ある地名である、あるいはある時代の「歴史」が地名として遺った歴史的に由緒ある地名である、あるいはまた同様に地域文化に係わる由緒ある地名である、・・・・だからそういう由緒ある地名が消滅しないように護り、大事にしよう、というのであれば、ただそれだけがその根拠・論理であるとしたならば、残念ながら、それでは決して消滅を防ぐ手だてにはなり得ない。
なぜならば、それでは単なる懐古趣味に過ぎず、地名もまたまさに単なる「文化財」に過ぎなくなってしまうからだ。これは、「それはそれ、昔は昔、今は今」として「処理するしかた」の一変形に過ぎないからだ。つまりそれは、地名の破壊・消滅に係わっている側と、全く同じ論理構造なのだ。同じ論理ならば、資本の論理で裏打ちされた側:開発し破壊する側が「勝つ」のは自明ではないか。
だから無意味だなどと言っているのではない。
地名に関心をもつことは、もたないより、そのことに気が付かないよりは、数等よいことだと思う。しかし、単なる愛惜の情や趣味・教養のためならばともかく、真にこのことを考えるならば、考えようとするならば、私たちは、同じ穴の貉(むじな)であってはならないだろう。私たちは、「勝つ」論理をもたなければならないのだ。


カイドウ:海棠

私はここまで、私たちの居住環境:居住空間が、そのつくりかた、つくられかたが、私たちの日常の「感覚」を逆なでするものになってきた、馴染まない、馴染めないものとなってきていることを、半ば嘆きつつ述べてきた。しかし、分った風に嘆いたからといって、どうにもなりはしないのだ。何とかしなければならない。
私たちが、私たち自身に忠実に、「嘘」をつかずに生きてゆけるために、「私たち」が何とかしなければならない。他人に頼んでいたのでは、私たちの「文化」を他人に委ねているのではだめだ。私たちは、「勝つ論理」を私たちで見付け共有する必要がある。

私たちは、「それはそれ、昔は昔、今は今」という処しかたを、この安易なやりかたを、捨てた方がよい。
そして、およそ人が係わった、あるいは係わるものごとに対し、「どうして『そうなった』か」と「客観的」な言いかたで問う前に、「(人びとは)どうして『そうした』か」と問うべきだ。
それはすなわち、「私たちはどうなるか」ではなく「私たち(なら)『どうする』か」という「私たち自身の問題」になってくるはずだからである

そして全く同様に、およそ人間の係わった、あるいは係わるものごとに係わる「学問」そして「学者」に対し、「専門」ならびにその「専門家」に対して、同じ「問いかけ」をしなければなるまい。
この種の学問・専門が、「それはそれ、昔は昔、今は今」的内容である限り、それは、私たちにとっても「それはそれ」でしかなく、そのような「学問」や「専門」が、その「学識経験」の名を借りて私たちの上に覆い被さることを、私たちは自信をもって拒否しよう。
人間の係わった、あるいは係わるものごとに係わる学問や専門が、私たちの「今」と係わらない、ということは、その学問・専門にとって致命的な欠陥なのだ。それでは学問の名に値しない。どうして、私たちは彼らの言いなりになる必要があろう!

                                                                       了


あとがき:最後まで厭きずにお読みいただき、有難うございました。
      随分気張っている、と自分でも思いました。
      ただ、この頃の思いは未だ失せてはいない、と自分では思っています。つまり、相変らず今も同じように思っている。

      皆さまのご意見ご感想をうかがえたら幸いです。
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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介−29

2016-03-20 15:02:15 | 「学」「科学」「研究」のありかた


      *************************************************************************************************************************
空では雲雀が囀り、が庭先まで訪ねてきてくれる季節になりました。春本番です!
しかし、花粉もいっぱい!花粉症で集中力に欠け、先回から大分時間が空いてしまいました。



   Dating of aisled structures

一般に、aisled structures は、全て早い時期の架構法であると見なしてしまいがちだが、遺構を見てみると、(必ずしも全てが旧いわけではなく)これまで観てきた大半の事例は、ほとんどが15世紀になってからの建設であることが分っている。
たとえば、BORDENBANNISTER HALL(下図 fig75b 参照) 類似の ALLENS HILL FARMHOUSE(下図 fig77a 参照) には、Four-centred doorheads があるが、これに似た壁に埋め込まれた束柱を用いていて、同様のFour-centred doorheadsの出入口を有する EASTRYFAIRFIELD HOUSE は建設時期が遅いことが判明している。
   註 Four-centred doorheads :「四つの中心の円弧の集成で描くアーチ型」の頂部を持つ出入口。前回の中ほどに説明があります。


これらの事例は、通常は、crown-post を用いるか、collar-rafter を採るが、WALTHAMANVIL GREENThe COTTAGEfig77b )では、当初の crown-post 形式の屋根(下手側にその痕跡が認められる)が、それに続く部分は、gueen stutswind braces を用いず細身のclasped-purlin 形式の小屋組(煙で黒ずんでいる)に変えられている。この事例の建設年代は確定できないが、16世紀に入る直前又は直後の建設と思われる。
これらの事例のいくつかは、本格的なaisled 形式とは言い難いが、独立の上屋柱がなく、小屋(下屋柱〜側柱間の)大梁の上に組まれている。fig77b、77c は、その例である。
   註 queen struts :桁行方向の補強のために、桁行方向の横材(母屋など)と束柱間に設ける斜材・方杖:筋交。
             参考図として fig61 を下に再掲。から母屋にかけて設けられている斜材queens struts
 
     wind braces : 屋根面で、登り梁・垂木相互を斜材で固める方法のようである。下図参照。
             wind braces は、図のように、queen struts 同様、角材と考えられる。
             日本にも小屋組を固めるくもすじかい雲筋交と呼ぶ方法があるが、それに類似か。
             ただし、くもすじかいは、束〜束又は垂木下面に厚15伉度の薄板を添える簡易な方法で、通常は束柱相互をで固める。和小屋組参照。
             なお、日本では、本建築に斜材:筋交・筋違を使うことは少なく、専ら仮設的使用だった。語彙に見る日本の建物の歴史参照。 
     collar-rafterfig75a のように、rafter:垂木を頂部でA字型 collar :繋梁で結んで固める方法の呼称か。
     clasprd-purlin roof : 前掲のfig75b の頂部のように繋梁上にclasped : 固定した purlin :母屋垂木を留める方法のことか。

aisled structures は、総二階建ての建物にもある。1466年建設の MOLASH にある HARTS FARMHOUSE では、二階建ての cross wing の裏側の aisle :側廊:下屋部分に二階への階段が設けられている。
このようなつくりは、一見、側廊・下屋部分が、主屋の屋根を葺きおろして増築したように見えるが、そうではなく、EASTRYOLD SELTON HOUSE では、single-aisled の軸組(の壁)で暖炉付の二階建ての hallと、通路およびサービス用の部屋とが仕切られている。この形式と細部のつくりは、それが16世紀に入ってからの建物であることを示唆している。
これらが、裏側への増築ではなく、aisled construction であることは、地上階の部屋が前面から背面へ並んでいること、上屋を支える柱が壁に埋め込まれていて二階でしかそれと分らないこと、この二点に示されとぃる。
   註 このあたり、平面図がないので、詳細が分りません。
概して、遅い時期の建物は、規模、形状も小さくなってきて aisled constructionの建物に似てくる。その中で驚くほど規模の大きな上層階級の事例がある。BENENDENCAMPION HOUSE の現在の hall は、改築されてはいるが、fig78(下掲) のように、両側に側廊:下屋があり、2本の身廊:上屋の柱は、下手側の cross wingを兼ねている。

この建物には、前面の crown post で支えられた屋根の下の桁行2間にわたる chamber :居室の下階には、サービス用の部屋が2室ある。その後側に接して、窯場のある厨房がある。その各部のつくりは、1500年代の建設を思わせる。aisled hall そのものは旧いものだが、上屋柱上部の arcade plate:小屋組を承ける桁代りの壁 の位置を示す痕跡などから、現状は、既存の建物に手が加えられたものと考えられる。元の hall の形状を知る手掛かりは何もないが、建物の幅からは、それがかなりの大きさであることが分り、その付属棟の各部のつくりは、建物の用途が多様であったことを示している。ただ、もしもこの類の aisled hall が1500年前後に建てられ続けていたとするならば、他に事例が見付からないのは不可思議ではある。
遅い時期の aisled structure の事例がイングランド南西部の各地で見付かっている。
たとえば、15世紀後期〜16世紀初期の建設と判定される事例が、ESSEXSUFFOLKSUSSEX で見付かった。その多くは single aisles であるが、SUFFOLK DEPDEN で見付かった最も遅い時期の事例には、double aisles とケント地域の事例によく見かけるのと同様の spere truss :間仕切小屋組があった。この種の事例は相対的に規模が小さく、時代の新しい規模の大きな事例に比べると、つくりがよいとは言い難く、おそらくある時期多数を占めた事例がたまたま遺ったものと考えた方がよいだろう。
      *************************************************************************************************************************
次回は Jettied construction および Wealden construction の節を紹介の予定です。
      ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

筆者の読後感
日本では、斜材:brace 筋交・筋違は、いわば脇役ですが(この点については前掲語彙に見る日本の建物の歴史に概要を書いてあります)、彼の地では主役の一部なのです。それが、いわゆる洋小屋:トラス組を生み出す根源だったものと思われます。
彼我の「分かれ道」がいったいどこにあったのか、興味は尽きません。

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続・「五年が過ぎ去る・・・・」

2016-03-14 11:26:59 | 近時雑感
今日の毎日新聞朝刊コラム「風知草」に、先の「大津地裁」の「原発稼働停止」という「判断」についての各新聞の論調の「差異」、その根源についてきわめて明快な分析が書かれていました。
特に、再稼働推進論者の《論理》:「ゼロリスクを求める暴挙である」「最高裁判例を逸脱している」に対する指摘は、納得のゆくものでした。以下に、web 版から転載させていただきます。




各地域の新聞から、信濃毎日新聞の12日付社説も web 版から転載させていただきます。
原発推進論の大手紙との最も大きな違いは、軸足が地についていることだと思います。つまり、上から目線でない。

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五年が過ぎ去る・・・・

2016-03-11 11:37:29 | 近時雑感

福井県・高浜の原発再稼働に対して、隣県の滋賀県の方がたの提起した「稼働を差止めよ」との訴えに対して、大津地方裁判所の下した「稼働停止」の「判断」を知った時、何かしらホッとしたのを覚えています。それは、最近、最高裁が下した認知症の方の保護監督のありようについての「判断」を知った時も同じでした。
いずれも、一般の人びとの感覚に添った(つまり一般の人びとの「常識」に合う)判断であったからです。

五年前、《想定外の》自然災害により起きた《絶対安全な》原発の爆発事故に遭ったときに皆が感じたはずの「思い」「想い」は、歳月とともに忘れ去られようとしている、そんな感じを抱かざるを得ないような近頃の状況です。
たとえば、わが宰相は、原発の稼働について、最近、「資源に乏しいわが国が経済性、気候変動の問題に配慮をしつつ、エネルギー供給の安定性を確保するには、原子力は欠かすことができない」と語ったそうです。福島の過酷な状況・情況が、まったく分ってないとしか思えません。「安全性の確保が最優先で、国民の信頼回復が何よりも重要だ。」とも付言しているようですが、単なる「美辞麗句」に過ぎないことは明らかです。

あるところで、日本国憲法9条は、日本国憲法第13条あってはじめて保証されるのだ、という論があることを知りました。第13条は次の文言になっています。
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする
「経済」の語源、「経世済民」は、つまるところ、この文言の言うところと同じです。つまり、宰相の(頭にあると思われる)「経済(性)」は、本来の「経済」とは別物なのです。

ここしばらくの新聞各紙の社説を読み比べてみました。
大手紙が一紙だけ、宰相と同じ「論」を述べていましたが、多くの社説は、先の「大津地裁判断」を是としていました。
その中で、明解にして明快に論じているのが東京新聞で、同紙は、五年前の社説も再掲していました。論旨は、この間まったくブレていない。以下に web 版から転載させていただきます。


昨日の毎日新聞夕刊に、歌手のクミコさんへのインタビューが載っていました。そこに次のように彼女の言葉が紹介されています。同感です。
・・・それにしても、とクミコさんは思う。私たち日本人の忘れっぽさのことを。
「だるま寺へ向かうため、京都駅に降り立ったとき、暗かったの。もちろん東京駅も薄暗かった。24時間こうこうとしていたコンビニも自動販売機も光を落とした。日本列島が暗かったじゃないですか。あの暗がりの中で、日本人は大きな不安を抱えながらも、これからの社会をどうしていくかについて、皆で真剣に考えたはずなのに。それが5年たって、どうですか。震災前とたいして変わってないですよね」


五年前の記事を読み返してみました。一月後に紹介させていただいたある教師の方からいただいたメールに、原発事故当時の状況が克明に記されていました。

追記 [15.30追加]
今日11日付の毎日新聞「記者の目」もご覧ください。

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復刻・「筑波通信」 −1 : 『落』語考・・・・・「ことば」の重さ  (1981年4月)

2016-03-05 10:36:45 | 復刻・筑波通信


追記を末尾に追加しました[3月6日10.15]
変換ミスのご指摘あり、訂正しました(お終いのあたり、「重い意味」が「思い意味」になっていた!)[24日14.40]

「落」語考   (「筑波通信」1981年4月6日 刊 の 復刻)
                                                                                                  
今年(1984年3月)卒業していった学生の一人から、卒業論文にからんで、よく「自然発生的な集落」などと言うけれども「集落って何ですか」、「自然発生的ってどういうことですか」という半ば挑発的にして容易ならざる質問をもらって狼狽えたのは、あれはまだ寒い二月のころではなかったか。
いまは四月、筑波の野にも陽炎がたち、花のにおいも空気にひそみ、そしてその学生ももういない。
そのときの受け答えの内容はさておき、この「集落」の「」の字が、やたらと気になってきた。

集落、村落、部落、・・・この「」の字はいったい何か。

漢和辞典で調べると、「」の字には、「おちる」「おとす」「おちつく」・・「死ぬ」・・・という「落」の字に対する日常的な感覚からみて普通に分る意味に続いて、「はじめ」「完成」という意味があるのにいささか驚く(とは言え、我われは「落成」「落慶法要」といった言葉を、「落」の字をとりたてて気にもせず、それなりの「成句」として平気で使っている・・・)。
そしてその次に、「むら」「むらざと」の意という説明が出てくる。つまり、「落」の字一つに、既に「集落」の意味が込められていることになる。
これは、日常的感覚での「」の意味、そして我われの日常的な「しゅうらく」「そんらく」ということばに対するイメージからは、ちょっと思い及ばない。

集落」を辞書的に説明すれば、「いくつかの住居が集まって生活が展開している場所をいう。・・・集落は村落と都市に大別される。」(平凡社:大百科事典)
しかし、この説明ではあまりにも static 過ぎる。何か知らないが、人が(住居が)まったく偶然に天から降って湧いたかのおもむきがある。
それでは、この語に対する外国語はどうか。
英語、独語では、それぞれ settlementsiedlung になり、辞書によれば、いずれもその本義は、「ある土地への定住」を意味している。つまり、いわば「漂って」いた人びとが定住すること、定住した所なのであって、そこには「天から降って湧いた」という感じがない。人びとの「意志」が感じられる。
因みに setlement の語幹 settle の項をみていたら、「据える」「移住する」「落ちつかせる」「決定する」「片づける」という意味があり、私のひいたその辞書の末尾に、「日本語の『すむ』(住む、済む、澄む)に同様」という説明があって驚いた。
同様に、siedlung の動詞 siedeln は、sitzen 、setzen と同源であるとされ、(動いているものが)「すわる」あるいは「すわらせる」つまり「おちつかせる」という意味がある。
こうみてくると、先に「集落」の説明を static と感じたのは、その説明文のゆえであって、「集落」という語そのものには、もともとこれらの外国語と同様の意味があることに気づくのである。
つまり、「落」の字のもつ日常的な意味、「おちる」「おとす」「おちつく」といった意味が、きわめて重要な意味を担っているのに違いない。もともと dynamic な意味をもつ事象であるにもかかわらず、説明が static にしてしまっていたのだ。

このように、我われが何気なく使っていることばを次から次へと順に辿ってゆくことは、そういうことばをもった我われ人間の心が見えてきて、ふと我に返る場面が多い、言ってみれば収穫の多い作業なのだが、ここでは、単にことばの持つ隠れた意味に驚く以上に、もっと「まじめに」(単なる「教養」あるいは「物識り」的興味としてではなく)驚き考えねばならないことがあるように思う。
つまり今、我われは「住む」とか「住まう」とか「住まい」「住居」ということの(あるいは、ことばの)本来の重い意味を、あまり重く考えていない、あるいは、考えないで当然のことのように済ましてしまうようになってしまってはいないだろうか。

今我われは、特に都会風に住むのに慣れた我われは、ある場所に住むということを、まことに他愛なく考えてしまう。それどころかそういう都会風な考えかたが、それこそが《中央》文化の模範であるかの如く、《地方》へも流れてゆく。
その他愛なさとは、「人はどこにでも住める」、「《ある広さの地面さえあれば》住める」、と考えてしまう他愛なさである。先に見た集落siedlungsettlement ということばの本来の意味は、明らかにこの他愛なさに抵抗を示すはずである。
 
今我われは、再びこの重い意味を考えなければならない時期に来ているのではないか、と私は思う。
確かに、都会には各地から(中央を目指して)人びとが集まり定住するようになっているという点では、《現象的》には「集落」の字義のとおりに見える。
しかしそのとき、その《「定住」は、そもそも先に見た集落settlementsiedlung という語の意味では既にない。人びとは、「ある場所」に辿り着き、落ち着いたのではなく、いわば「金の生る木にたどり着く」、いや、ことばが悪ければ、「《文化》に辿り着く」のだ、すなわち、「都会の《文化》」「都会の《文化的》生活」に。
だから、《文化》さえあればよし、としてしまう。「住まい」で言えば、「近代的、合理的、機能的」な「住まい」であればよし、としてしまう。
いや、それでよし、と思うように仕向ける人たちと、それに安易に従ってしまう人たちがいるのだ。
「住まいの地面」「職場の地面」「公園の地面」「レジャーの地面」・・・、そういった近代的・合理的・機能的に用意された地面があれば、我われの生活が total に遂行し得ると、あまりにも安易に考えすぎてはいないだろうか
このように考えている限りにおいては、ある「土地」の必要はさらさらなく、「地面」がありさえすれば、それで済んでしまう
しかし、立ち止まって考えてみれば直ぐに分ることだが、この考えかたの根には、明らかに、人間(の生活)を理解するには、それをいくつかの要素に分離・分解すればよい、というとんでもない考えが潜んでいる。我われの生活というのは、そんなに他愛ないものなのだろうか。
今の建築や都市についての考えかたのほとんどは、こういう「都会風な」考えかたが基になっている。もはや、「土地」ではなく、いかにその地面の拡がりを「有効に(そこから上がる収益・利益がいかに高く、有効に)」使えるか、という視点で律しようとする。
よく考えてみると、いわゆる環境破壊というのは、この、ある土地に人が住むということの重い意味を見失ったことに発している、と断言して決して間違いでない。ゆえに、土地を地面としてしか見ない人たちが、その一方で自然保護、環境保全・・・を唱えたりするのは(つまり、視点を変えないのでは)、まったく悲劇的な漫画なのだ。

しかし、たとえはじめは「地面」に住み着いたとしても、あるいは「地面」に住み着いているのだという「慣習」に慣らされてしまっていても、人はふと、人が住むのは、「地面」ではなく「土地」であると気付くことがある。(先に「発行の辞」で触れた)東京・中野の教育委員準公選制実現の原動力となった人たちの運動も、この方がたが、この事実に気付き、そしてつい忘れそうになるのを忘れなかったからなのだ。
このように、「地面志向」が「特色」の都会にも、「土地」(の意味)に気付く人びとがいる一方で、いまや、本来地面ではなく「土地」に向い合わなければならなかったはずの農村にまで「地面志向」の考えかたが浸透しはじめているし、またそれを積極的に推進する人たち:専門家!?がいる。それがまた同時に「地方の時代」や「伝統的環境の保護」を説いたりするから、話がややこしくなるのである。
   この《現象》は、「地方」を「都会」「中央」の対立概念と見なすからである。
   因みに、研究社の英和辞典で local を引くと、そこに・・・首都も「一地方」なので local である。・・との注釈がある。
私はよく学生諸君に、文化財なるものを保存する、保護する(すればいい)というのはおかしい、古来人びとはいさぎよく壊し、建て替え、造り替えてきたではないか、どんどん建て替えよう、造り替えよう!
だいたい、《文化財》などと言い出したのは、それを壊してしまった後、それ以上のものを造れそうにない、と(情けなくも)思うようになってしまったからなんだ、と話すのだが、そうすると学生諸君は、まさか、という顔をして聞いている。
悪い冗談かもしれないが、半分以上本気である。
要は、人びとの為してきたことの重い意味を分る気もないままに(分ろうともせずに)、「伝統的環境の保護」だとか「地方の時代」とか、はたまた「人間的な都市」「豊かな農村」「調和ある開発」等々というその場限りのおためごかしは、お断わりしたいのだ。

ことばというのは、何の気なしに使い慣れてしまうと怖ろしい。使う人の考えかたまで、ことによると左右しかねないからだ。
最近ある方の書かれたエッセイに、台湾では国際「障害者」年のことを、国際「残障者」年と表記していることが紹介されていたが(その他、「」学校と言わず「啓明」学校という、などいくつか紹介されていた)、私はそこに重い意味の差、つまり、我われの「障害者」に対する対し方まで左右しかねない重い意味の差を、どうしても見てしまう。
はたして、私たちが日ごろ使っていることばは、その重い意味を担っているだろうか?
 

追記[3月6日 10.15]
関連記事があったのを思い出しました。「客観的」とは何かについての私見です。  
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続・RE‐CONSTRUCTION か RE‐HABILITATION か・・・・・「復興」って何?

2016-02-28 10:42:53 | 近時雑感


26日〜28日三日間、東京新聞の社説は「フクシマで考える」よいう表題で原発事故被災地福島の「問題」について明解・明快に論じています。
web 版から、全文を転載させていただきます。昨日の毎日新聞特集と併せお読みください。


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