日本の建物づくりを支えてきた技術-41の付録・・・・復元「箱木家」の空間と架構

2009-06-14 22:46:20 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[文言改訂:6月16日9.45][註記追加:同9.57]。[文言改訂:6月16日 12.50]

「箱木家」の居所は、現在は神戸市北区山田町衝原(つくはら)、中世の「摂津山田荘」、近世の「山田荘・衝原村」にあたり、近世には、一帯には「阪田家」「向井家」「栗花落(つゆ)家」など、数戸の「千年家」と呼ばれる家々があったそうです(余談ですが、「栗花落」と書いて「つゆ」と読むのには参りました!今、栗の花が盛りです。これから丁度「栗花落」の時期に入ります。「梅雨」よりも風雅です!)。
ということは、この一帯の人びとは、「代が変っても、そして暮しの様態が変っても住み続けることのできる本格的なつくりの家屋」を「建てる資力」に恵まれていた、ということにほかなりません。

なぜ一帯は「資力」に恵まれていたか、その理由は諸説あるようですが、一帯が「京」と「西国」を結ぶ陸上交通の要所であったから、というのが有力のようです。
同じように、先に紹介した「古井家」のある兵庫県宍粟(しそう)郡安富(やすとみ)町:現在の宍粟市安富:も、姫路から25kmほど車で走らなければならない山あいの地ですが、近世までは、瀬戸内の姫路と日本海側の鳥取を結ぶ重要な街道筋だったのです(かつては訪れるには1日がかりでしたが、今では「中国自動車道」に近く、訪れるのが楽になりました)。

「箱木家」などのいわゆる「千年家」に建築史の世界で光が当てられるようになるのは、第二次大戦後の昭和23年(1948年)ごろからだそうです。
明治以降生まれた「建築学」では、半世紀以上も、社寺建築ばかりに目を注いできた、ということです。
その間、多くの歴史ある住居が消えていったと思われますから、「建築学」が当初から一般の住居にも光を当てていたならば、「住居の史学」も充実し、そして当然、現在のような「木造理論」も生まれなかったのではないかと思います。
江戸時代の学者なら、そんなバカなことはしなかったはずです。まさに「近代」の残した犯罪的行為であったと言ってもよいでしょう。

   註 昭和4年(1929年)「古社寺保存法」が「国宝保存法」に変り、
      昭和25年(1950年)の「文化財保護法」制定までの約20年間、
      270件余の建物が指定を受けていますが、
      そのうち住居の指定は、僅か2件だそうです。

さて、本題です。

「古井家」は元の敷地で復元されていますが、「箱木家」は、元の敷地がダム工事にかかるため、敷地を変えて解体・移築(復元)されています。
そのため、「箱木家」の修理工事にあたっての調査では、元の敷地の地下発掘調査も行なわれています。

上掲の図版は、モノクロ写真と図面は「箱木家住宅修理工事報告書」から、カラー写真は「日本の民家3 農家Ⅲ」から転載し、編集したものです。
大変恐縮ですが、図版の部分をプリントアウトしたいただき(できれば拡大)、それを片手に読んでいただければ、と思います。

修理時点(昭和52年:1977年)の「箱木家」の「平面図」は上掲の通りで、この図からは「復元建物」の形は想像もできません。
「復元建物」にある外周の「大壁」も、修理時点には、その面影はまったくないのです(修理時点の写真は、図版が増えてしまうため省略しました)。

「報告書」によると、「建物の古式部分は、礎石から小屋組架構に至るまで、当初材と見られる材がよく残されていた」とあります。
具体的には、「柱」が6本、「梁・桁」類は8本、「貫:足固貫、飛貫」は、「おもて」まわりはほぼすべて残っていました。
諸種の調査の結果、まとまったのが、上掲の「復元(想定)平面図」。

建物の解体調査、地面の発掘調査の結果、修理時点の平面図のうちの西側四室(北側の「くちなんど」「おくなんど」、南側の「なかのま」「おくざしき」)は増築されたことが分りました。
さらに、西端の二室は、元来別棟としてあった「離れ座敷」を利用したもので(「離れ」の建設時期は、主屋よりも遅い)、中間の二室が純粋に増築した場所ということになります。
改造は江戸中期と考えられ、改造の過程はいろいろあったようですが、ここでは省略します。

「復元断面図」は2断面ありますが、それぞれに、「貫」に色を付けてあります。
「飛貫」の寸法は、「古井家」では約11×5.5cm程度でしたが、「箱木家」では約11×7.5cmあります。「足固貫」は約12×8cm内外です。これらは各材同一ではなく皆異なりますが、それを上掲図面の最下段「おもて」の「展開図」に記してあります。
「貫」の寸面が「古井家」より太めになっているのは、「柱」の使用材種によるようです。
「柱」の材寸は、展開図の平面詳細には、柱150角になっていますが、実際はそういうラウンドナンバーではなく、たとえば16×14.2cm(5.3寸×4.7寸)であったりしています。しかも、上から下まで同じ寸法でもありません。「ちょうな」仕上げだからです。
使用材種は、「柱」「横材」ともほとんどがマツ(「古井家」は「柱」がクリ、横材は主にスギ)で、「貫」が太めになっているのはそのためかもしれません。[文言改訂:6月16日 12.50]


   註 「報告書」には、調査段階では「飛貫」を「内法貫」と呼び、
      後に「飛貫」に改めた旨の記述がある。
      調査者は「貫」というと直ちに「内法貫」を想起してしまい、
      「飛貫」というのは思い浮かばなかったらしい。
                     [文言改訂:6月16日9.45]

なお、「おもて」には、展開図、写真のように、「長押」が使われています。
これは、「書院造」などで多用される「格式」の象徴としての「長押」が、すでにこの時代に、農家住宅にも使われるようになっていたことの証と言えると思います。
大分前に見た室町時代中期建設の「大仙院・方丈」や書院造の原型と言われる「慈照寺・東求堂」などには(下註参照)、後の「書院造」で大々的に使われる「格式」の象徴としての「長押」が用いられています。
その場合、「長押」の裏側に「(内法)貫」が入っています。「大仙院」よりも前の「竜吟庵・方丈」も同じです。
しかし「箱木家」の例では、そういう「内法貫」はありません。「古井家」と同じように、現在一般に考えられる「貫」とは異なる「貫」が使われているのです。

そしてまた興味深いのは、展開図で分るように、開口部の「鴨居」と「長押」がまったく無関係なことです(「鴨居」は明らかに架構組立て後の後仕事です)。
「大仙院」や「書院造」では、「鴨居」にかぶさる形で「長押」が付くのが常道です。「箱木家」の「長押」は、まことに「取って付けた」という感じがします。

   註 「日本の建物づくりを支えてきた技術-29」 
      「建物づくりと寸法-2・・・・内法寸法の意味」
                        [註記追加:6月16日9.57]

「下屋」まわりには、当初材はありません。すべて消失していました。
では、なぜ復元できたか?
「壁」の痕跡が発掘調査で見付かったのです。
すなわち、部分的に「下屋」まわりの「礎石」と「土壁」の基底部が残存していたのです。ただ、「柱」などはありませんでした。
当時の壁の工法は、地面に直接「縦小舞」を刺し込み、それに「横小舞」を絡めて土を塗り上げる方法で、「小舞」は竹ではなく、「古井家」と同じく「粗朶(そだ)」(径2.5cm内外の雑木の小枝)が使われていました(地面に残されていた「縦小舞」の形状からの判断)。

「おもて」の図や写真で分るように、「割竹」が壁に張られていますから、「小舞」にも竹が使えたはずで、なぜ「小舞」に「粗朶」を使ったのか、その理由が分りません(「浄土寺・浄土堂」で、「竹小舞」でなく「木小舞」を使った理由も分りません)。

   註 西欧の木造軸組工法の建物でも、壁を柱間につくるために
      煉瓦や石を積む方法のほかに、
      粗朶小舞+土塗り壁を使う例が見られます。
      竹がない地域だから、当然と言えば当然です。
      竹が豊富な日本で、木小舞、粗朶小舞にしたのには、
      何かわけがありそうです。
      ご存知の方がおられましたら、ご教示ください。

この下屋まわりの「大壁」部分を復元するにも、土壁の仕様以外不明です。
そのためか、復元では、近世の「大壁」のような(「高木家」のような)つくり方が採られています。
すなわち、「柱」相互を「貫」で縫った後、「粗朶小舞」を掻き、壁を塗っています。近世とちがうのは「小舞」だけです。
復元建物の土間部分(「にわ」)の写真をじっと見ていると、この部分に、何となく違和感が感じられてきます。
上屋部分の架構の「大らかな」つくりに対して、何か合わない感じがするのは私だけでしょうか。
むしろ、復元「古井家」の大壁部分のつくりかたの方が正解なのではないか、と私には思えます。こういう判断が、「復元」の難しいところなのでしょう。
    

さて、「予告編」で、この下屋まわりの「大壁」は、構造的には役割がない(建物全体の架構の自立維持には働いていない)、と書きました。
それは「(梁行)断面図」と「縁」の写真で分ります。
「箱木家」では、「古井家」とはちがい、「上屋」:本体の「柱」(合掌を受ける「陸梁」を支える「柱」)と「下屋」の「柱」とを繋ぐ部材がないのです。当初の「柱」に痕跡もありません。
下屋の「柱」の頭部には、当然横材:「桁」が載っていますが、それに「垂木」の竹が差し掛けられているだけなのです。
言ってみれば、「土塀」の上に屋根が差し掛けられている、という状態なのです。

先に「大壁」の仕様のところでも触れましたが、下屋まわりの軸組については、何の資料も残されていなかったため、復元担当者の「創造」でつくられています。展開図で、その部分の部材寸法に括弧を付したのはそのためです。


以上のように、「箱木家」の架構は、「柱」と「梁・桁」(「梁・桁」は、これも「古井家」と同じく、「柱」に「折置」です)、「貫(飛、足固)」、「小屋組」を立体に組立てることで成り立ち、それだけで架構が自立しているのです。
「壁」の仕様を見れば、そして、架構本体を残して改修・改造が行われていることを見れば、この事実、つまり「耐力壁依存ではないこと」は、自ずと分ります。
今の考え方によれば、「違反建築」にほかならない建物が、室町時代から現在まで、立ってこられたのです。

「箱木家」は、度重なる姑息な補修のために、修理時点にはかなり傷みが激しい状態でした。
一方、焼失してしまった「阪田家」は、伊藤ていじ氏の写真を見ると、健全な姿で住まわれていたように見えます。その焼失は大変残念な「事件」です。
「古井家」「箱木家」が重文の指定を受け、調査・修理が行われたのも、健在であった「阪田家」の焼失が一つの契機だったようです。


できれば、もう一度、「浄土寺・浄土堂」「古井家」そして今回の「箱木家」の架構、その考え方を見ていただけたら、と思います。
前にも書きましたが、そこに、近世に完成する「日本の建物づくりの技術体系の根源的な形、典型」を見ることができると私には思えるのです。

それはすなわち、わが国特有の環境に見合う建物づくりのための「架構の立体構造化」への試みが、いわば完成の域に達した当初の姿と言ってよいでしょう。
工人たちは、幾多の経験を通じて、木造の軸組と小屋組を、一体の立体に組み上げることが、地震や台風で簡単に壊れず、多雨・多湿の環境の中で健やかに暮せる建物をつくるには最適の方法であると考えたのだ、と思います。

「報告書」のなかに面白い記述があります。
「これは後日の印象であるが、建物解体調査後のこの当初部分の構造体を露にして、軸部や屋根小屋組の素朴な工法が明らかになると、よくもこれで今日まで持ち耐えてきたものだと思われ、今日ではこの新座敷(註 西側の四室部分)の増改築が、千年家保持の大きな支えになったことが理解できた」というのです。

私はこれを読んで、いかにも当代の人の考え方だなあ、と思いました。増改築部分が建物を支持してきた、と考えているからです。

この増改築部分は、江戸時代中期、1700年代後半の工事と「報告書」では見ています。
一方、当初部分は室町時代末の建設、16世紀を降らないだろうと「報告書」は記しています。
したがって、当初建設時期を16世紀の末、1500年代後半と仮定しても、増改築が行なわれるまでには、ざっと200年ほどあることになります。
いったい、その間、当初建物は、何によって、どうやって支持されていたのでしょうか?

こう考えると、この建物は、調査者が言う「軸部や屋根小屋組の素朴な工法」の架構だけで、自立を保ってきた、と考える方が筋が通る、と私は思うのです。

構造の専門家は、どうお考えなのか、訊いてみたい、と思っています。

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