ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

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教育の広場、第16号、学校の訓育力

2006年03月17日 | カ行
教育の広場、第16号、学校の訓育力

 私は「学校は勉強を教える所」だと主張し、犯罪を犯した生徒は警察に引き渡すしかないし、成績不良生徒は留年とか退学とかさせるしかないと考えています。それを第4号では「学校教師の仕事は、家庭教育によって学ぶ姿勢の出来ている生徒に勉強を教えることだけである」と定式化しました。

 しかし、このように言うとなかなか賛成されなくて、学校では集団生活のルールを身につけることも大切だとか、学校でも社会性を教える必要があるといった議論も根強いものがあります。今回はこれを考えてみたいと思います。

 結論を言いますと、私ももちろん学校が生活指導的要素を全然持たなくて好いとは思っていません。訓育という単語を辞書で引きますと「児童や生徒に、社会人として必要な心掛けや習慣が身につくように教育すること」とありますので、そういう力を「訓育力」と呼ぶことにしますと、それでは学校の訓育力はどこにあるのでしょうか。

 私はそれを授業の中に求めるべきだと言いたいのです。服装や頭髪などについて校則で縛るとか、まして「部活でクタクタにして非行に走る余裕がないようにする」などといった凡そ教育とは言えない発想は間違いだと思うのです。

 そうではなくて、本当の授業、内容が豊かで生徒参加型で多様な授業形態から成る面白い授業はそれ自体の中に生徒を訓育する力を持っており、そういう授業に参加することで生徒の社会性は増進すると言いたいのです。

 人間は楽しく意義のある生活を求めているのです。非行に走る最大の理由は生活に意義を感じず、自分を確かめることが出来ず、つまらないからです。ですから、今の多くの学校の多くの授業はそのお粗末な内容によって、残念ながら、実際には非行を助長しているのです。

 逆に、先生が熱心で授業に工夫があり、生徒参加型で面白い授業はその授業そのものが生徒に充実した生活を体験させることによって、生徒の姿勢を前向きにし、高めているのです。そして、学校と教師の目指すべきものはこのような生活指導だけだと思うのです。

 こういう学校にするためには個々の教師の努力だけでは限界があり、本当は校長のリーダーシップから考えてみなければならないのですが、それは回を改めて論じたいと思います。私の生徒がこのテーマで考えて書いたレポートを引用して今回は終わります。

──私の通っていた中学では1年に1回、研究発表があって、先生たちはそれぞれ授業について研究をしていた。そして、3年に1回くらい本を出し、全国から見学者が来た。

 授業では先生から課題が与えられ、「追究用紙」という紙に1人ずつ自分の意見を書いた後、4人のグループに分かれてホワイトボードを使って話し合い、お互いの考えを深めてから、クラスで発表をした。これが授業の基本だった。

 私たちの考えた意見はすべて認めてくれたので、意見の言いやすい雰囲気があった。初めて授業参観に来た母は「自分も授業を受けてみたい」と言った。

 先生たちは教科別に部屋を持っていて、そこで授業について研究していた。その部屋へ行くと資料が山積みになっていた。授業は1回1回、先生の思いのあふれるもので、生徒もそれに応えようと努力していた。

 他校と比べると部活には力を入れてなくて、生徒が楽しむ程度であったが、授業の内容の濃さではどこにも負けなかった。学校生活がとても充実していた。

 先輩たちも後輩の面倒をよく見てくれて、とても仲が良く、学校内にトラブルはなかった。(略)先生と共に良い授業をして、研究発表を成功させたいという思いが生徒の中にあった。先生と生徒の上下関係を強調するのではなくて、一緒に夢中になれるものが学校には必要だと思う。(引用終わり)

(2000年12月20日発行)