ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

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まず校長を評価せよ

2006年03月14日 | カ行
 教育改革国民会議の最終報告が昨年(2000年)の末に出たようです。そこには、教員としての適格性に問題のある教員を別の仕事に配転したり、場合によっては免職にしたり、あるいは本人から配転を選べるようにする、という提言が含まれているそうです。

 新聞によると、既にこういう方向に動きだしてもいるそうです。不適格教員の数を発表した教育委員会もあれば、教員評価の基準を作ったり実際に評価したりするための第三者機関の設立を考えている教育委員会もあるそうです。

 確かに教員を評価して、それに基づいて待遇を決めていくことは必要な事だと思います。それは前号で述べました。しかし、そのためには前提もあると思います。私の考えでは、そのための第1の前提は「校長を評価すること」だと思います。

 なぜかと言いますと、学校教育というものは個々の教員が行うものではなくして、「校長を中心とする教師集団」が行うものだからです。

 何年か前に「校長が変われば学校が変わる」という題名の本が出ました。これは東京の或る荒れた高校に赴任してきた校長が学校を変えた実践を報告したものです。これに基づいたテレビドラマも放映されました。一般的に言っても「組織はトップで8割決まる」のです。学校も校長で8割決まるのです。

 東北地方のT市の或る荒れた中学を建て直した話をラジオで聞きました。この時は、校長が教員を4つくらいのグループに分けて、それぞれのグループで川喜多二郎氏のKJ法を使って話し合うように指導したそうです。もちろんその前には、KJ法による話し合いの方法を習うために2人くらいの教員を某大学に派遣したそうです。そうして学校の現状と生徒の様子を話し合い、どうしたらいいかを話し合っていくようになったら、生徒よりも先にまず教師たちがまとまり始めたのです。それに比例して生徒の荒れも収まっていったということです。

 逆の例を出しましょう。愛知県のN中学でO君のいじめ自殺事件が起きたのはもう大分前のことになります。世の中に大ショックを与えた事件ですので、記憶している方も多いでしょう。あの時、担任の女の先生はそのいじめを以前から知っていたのです。そして、どうしようもなくて職員室で泣いていたといいます。それなのに他の教師も校長も手を差し伸べなかったのです。だからその担任の先生は大学時代の恩師に相談の手紙を出していたのです。私はあの事件では校長が一番悪かったと思います。

 生徒というのは先生の姿を映す鏡なのです。しかし、その先生とは個々の先生のことである前に、「校長を中心とする教師集団」のことなのです。

 最近、事件を起こした教師のことがよく報道されます。そのたびに思うことは、その学校の雰囲気のことです。学校に、あるいは教師集団に、「一緒に話し合い勉強し合って学校を良くしていこう」とか「お互いに向上しよう」という雰囲気があり、実際にそういう場の設けられている学校だったら、個々の教師が堕落することは少ないと思います。個々の教師がバラバラで、真面目に楽しく話し合う雰囲気のない学校では、文字通り息が詰まって、精神に悪い影響を与えるのです。

 そして、その「学校の雰囲気」を作る最大の要素が校長なのです。つまり、個々の教師は校長の姿を映す鏡なのです。ですから、個々の教師を評価する時には、同時に、あるいはその前に校長を評価しなければならないと思います。

 教育改革国民会議の報告にはこの「校長を評価する」という根本が欠けていると思います。これを忘れて個々の教員の評価だけを取り上げている点で、この報告は根本的に間違っていると思います。

(2001年01月10日発行)