3月大阪場所・内館牧子「私の中で引退した人」朝青龍が目出度くも優勝(2)

2008-03-25 10:28:45 | Weblog

 関係するキーワードを『日本史広辞典代』(山川出版)から拾ってみた。

【相撲】「日本の国技と称される格闘競技。争う・あらがう意味の動詞「すまふ」の連用形「すまひ」が名詞化したもので、本来は格闘・力くらべを意味したが、のちに特定の様式の格闘競技をさして用いた。古来各地で行われていたさまざまな格闘が、平安時代に全国各地から相撲人(すまいびと)を徴発して行われた相撲節(すまいのせち)を通じ、同一性を持つ格闘競技として形成され、相撲節に付随した儀式的な要素とともに地方に普及したと考えられる。相撲節の廃絶後も、各地の寺社を中心に祭礼時の奉納や勧進などの目的で、相撲が芸能の一種として行われ、遅くとも中世後期には各地に職業的な相撲人集団も発生した。これらの相撲興行は江戸中期頃までに、江戸・大阪・京都を中心に組織化されて幕府の公認を得、各地の相撲組織を傘下に収める。また吉田司家(つかさけ)を頂点とした故実体系に組み入れられて、確固たる地位を築いた。現代の大相撲組織はその系譜に連なる。」

 「相撲節の廃絶後」、各地の寺社を中心に祭礼時の奉納や勧進などの目的で、相撲が芸能の一種として行われ」た。ここには「当事者はその核を連綿と守り抜き、結束してきたのである」とする姿は見えない。

【相撲節】(すまいのせち)「平安朝廷の年中行事として催された相撲会(すまいえ)。各地から召集した相撲人(すまいびと)を左右近衛府に分属させ、対抗戦の形で行われた。式日は、初めは7月7日、のちに7月下旬となった。年の後半の開始にあたり、豊凶を占い豊穣を祈る年占(としうら)神事と、地方から強者を集めて天皇に奉仕させる服属儀礼との両面を持ったが、のちには娯楽の意味合いが強くなる。『日本書紀』は、野見宿禰(のみすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)の力くらべを相撲節の起源説話として載せる。」

【吉田司家】「相撲の家元を称する家。当主は代々「追風(おいかぜ)」を号す。家伝に寄れば、聖武天皇の頃の志賀清林を祖とし、のち京都五条の目代を勤めたといい、近世には熊本藩細川家の家臣となった。各地の行事の組織化に務め、18世紀頃から江戸相撲会所との結びつきを強めた。力士・年寄・行司らを故実門人とし、横綱免許を発給するなど故実を媒介とする相撲組織の統合を進め、近代に至るまで相撲の家元として重んじられた。」

 要するに「吉田司家」は茶道で言えば裏千家とか表千家、華道で言うなら、池坊とか小原流に当たるのだろう。組織化し、団体とすることで格式化し、由緒を持たせた。権威主義社会日本である。格式化することで価値を大いに高めたことであろう。

【故実】「古いしきたりを先例にそって学ぶこと。儀式において、先例の中でも環境に応じた特定の日時の行動作法が故実となって定着する。故実は年来の例と相違しても、行事の進展に相応する場合もあり、前例がなくても後代の先例となることがある。近世に入ると、前例遵守の慣行を故実と称するようになる。

 この「故実は年来の例と相違しても、行事の進展に相応する場合もあり、前例がなくても後代の先例となることがある。近世に入ると、前例遵守の慣行を故実と称するようになる。」としている経緯は受け継がれていく「伝統」と言うものの姿・性質を如実に示している。「行事の進展に相応」して手を加える変化が行われたり、ある時期「伝統」の中にないものが新たに付け加えられ、それが先例となって時代が下ると伝統の一部分と化す。そういった柔軟性が近世に入って失われ、杓子定規の格式優先・形式遵守の「伝統の受け継ぎ」が主流を成すようになった。いわば「前例遵守の慣行を故実と称するようにな」ったと言うことなのだろう。

【勧進相撲】勧進を名目に掲げた相撲興行。寺社や道橋などの造営・修復の費用を調達するために喜捨(金銭・物品の寄付)を募ることを勧進という。鎌倉末期以降は、能・猿楽などの芸能興行による収益をあてる勧進興行が広く行われた。相撲も芸能の一つとして、15世紀初めから勧進興行が行われ、職業的な相撲人集団の活躍の場となった。近世には、江戸・京・大阪の三都を中心に盛んとなり、営利目的の興行も行われるようになった。幕府は当初は、風紀統制の意図もあり、そうした興行には抑制的で、しばしば勧進相撲禁令を発したが、18世紀半ばには三都で四季一度ずつの営利興行が公認され定着した。現代の相撲はこの系譜につながる」

 ここで相撲がどう変遷したか見ることができる。平安時代に全国各地から相撲人(すまいびと)が徴発され、「豊凶を占い豊穣を祈る年占(としうら)神事と、地方から強者を集めて天皇に奉仕させる服属儀礼との両面を持った」相撲が春分や秋分といった季節の変わり目の祝い日に相撲節(すまいのせち)として行われ、その廃絶後、各地の寺社を中心に祭礼時の奉納や勧進などの目的に行われた。次第に勧進の姿が消え、純然たる営利目的の興行へと姿を変えていった。

 「勧進」にしても、現在の政治家が政治パーティを開いて、その会費から政治資金を捻出するのと同じ構造の、相撲入場料を取って、そこから相撲取りの人件費等諸々の経費を除いた剰余金を寺の造営・修復に当てた(「収益をあてた」)のだろう。相撲を見る愉しみがなかったなら、勧進に応じる人間がいたかどうかである。富くじにしても、当選金を当て込む射幸心を満たせたから寺の救済や神社仏閣の造営・修復に協力できたのであろう。何しろ寄付文化後進国日本である。

【日本相撲協会】「唯一の職業相撲団体。近代になると東京と大阪の職業相撲の興行組織として東京相撲協会・大阪相撲協会があり、合併が懸案となっていた。1925年(大正14)摂政杯(のちの天皇賜杯)の制定を契機に、両協会が合併して財団法人大日本相撲協会が設立され、58年(昭和33)日本相撲協会に改称された。協会の運営の中心となる評議員は定数105人(他に一大年寄り2人)の年寄りに、行事代表2人、力士代表4人を加えて構成される。協会の主な事業は年6回の本場所の開催である。」

 日本相撲協会が設立したのは1925年(大正14)。たかだか80年そこそこの歴史である。前身があったと言え、合併によって運営方法に影響を受けたはずで、同じ姿を取った運営とは考えにくい。伝統も運営方法によって、少なからず姿を変える。当事者が東京相撲協会と大阪相撲協会が二つあったのだから、それぞれに利害の対立・相違もあったろうから、「当事者だから変革は許された」と簡単には片付けるわけにはいくまい。

【国技館】日本相撲協会が維持・管理する常設相撲場。日露戦争後、梅ケ谷・常陸山両横綱の対戦が人気を呼び、ナショナリズムの高揚の気運にものって相撲興行は好況を呈した。その機に合わせて大日本相撲協会は、天候に左右されていた興行を安定させるため、東京回向院境内に常設館を建設。1909年(明治42)6月に開館し、国技館と命名した。以後、相撲は広く国技と称されるようになった。失火や関東大震災による消失・再建を経て、第2次大戦後占領軍に接収された。1950~84年(昭和25~59)には浅草の蔵前国技館が使用され、85年1月、新たに両国国技館が開館した。」

 国技館を東京回向院境内に建設したのは勧進相撲の名残なのだろうか。例えそうであっても、入場者から見たら、当初の勧進相撲の内容をすべて失った寄進意識のない、営利に協力するだけの相撲となっているのである。寄進という意味では、伝統は隔絶していると言える。

 また日露戦争(1904~1905/明治37~38)後のナショナリズム高揚を受けた「国技」呼称ということなら、国技意識の伝統も僅か100年程度で、「大相撲は1200年の歴史に裏打ちされ」ていると大上段に振りかぶることができる程の格式・由緒を備えているとは到底思えない。

 多分、ロシアに戦争して勝ったという大国意識を日本古来の競技であることと相撲取りの身体の大きさ、その力の強さに仮託して日本人自身の力の表現とすることでナショナリズムを充足させた、その結果の相撲人気だったのではないのか。

 ナショナリズム高揚の時代背景を持った「国技」呼称だからこそ、それが通用したが、その背景を失った今の時代、相撲取り一人ひとりの姿が見えて、「国技」呼称にふさわしい内容を備えているとは見えない現在の大相撲といったところだろう。

 他のスポーツと同様に勝ち負けの面白さ、個人の技の優劣で持っているに過ぎない。「大相撲は1200年の歴史」
だとか「伝統」だとか、大上段に構える程のことはないスポーツと言うことである。

 最後に「土俵女人禁制」がいつ頃から始まったのか、「1200年」前の相撲発祥時期からなのか、【女相撲】なるキーワードを紐解いてみた。

【女相撲】「女の力士が取る相撲のこと。近世には、女が座頭などを相手に取る興行もあり、競技というよりも見世物的な色彩が濃かった。1872年(明治5)男女の取組は禁止されたが、女同士の相撲は、その後も各地の社寺の縁日の催しとして巡業が行われた。女相撲が興行すると雨が降るという俗信もある」。

 女相撲が「各地の社寺の縁日の催しとして巡業が行われた」ということなら、勧進の役目も担った時期もあったはずである。普通の男と対戦すると力劣りがするから、目の見えない「座頭」を相手にさせて、そこそこの勝負としたのだろう。しかし、女でありながら、「1872年(明治5)男女の取組は禁止され」るまで寺社の土俵に上っていた。そして現在も女だけの対戦に限られている女相撲は続いている。

 男相撲と同列には扱うことができないとしても、「大相撲は1200年の歴史」自体が怪しいのである。所詮利害損得の生きものたる人間が主催する勝ち負けの競技に過ぎないのだが、中身を形成するそのような人間の現実を無視して外側に纏っているに過ぎない伝統や歴史を振りかざし格式や由緒を示そうとする。

 野球やサッカーはそうしなくても、大勢の人間が惹きつけられる。大相撲は伝統や歴史を振りかざして格式・由緒を前面に押し出さなければ、大相撲としての、あるいは「国技」としての体裁を保つことができないのだろう。伝統や歴史を勿体振ることで今ある実態を価値づけようとすることにどれ程の意味があるのだろうか。

 現在の停滞した日本の政治を日本は2600年の歴史がある、日本は素晴らしい歴史と文化と伝統に満ちた美しい国だ、万世一系の天皇を国民統合の象徴としていると、そういったことで価値づけようとすることと同じ意味のない試みではないか。

 「土俵の女人禁制」もそうすることで大相撲の格式・由緒をもっともらしく見せようとする同じ類の勿体振りなのだろう。「女人禁制」が「大相撲の核を成す部分の一つ」などとはどこから出た発想なのだろうか。

 国技館の土俵を借りてストリップショーでも開催されたなら、大相撲は伝統だ、歴史だといった勿体振りを借りずに、相撲の興行そのもので勝負する姿を取り戻すのではないだろうか。


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