橋下徹大阪市長の入れ墨で人間を判断・評価することの正当性を再度問う

2012-05-17 09:00:59 | Weblog

 橋下徹大阪市長独裁的命令の大阪市役所全職員対象入れ墨調査は110人判明の大成果を挙げた。意外とたくさんいるものだなあという印象を受けたが、入れ墨で人間を判断するつもりはない。

 逆に評価するつもりもない。入れ墨の種類、大きさ、人に与える印象等に関係なしに一人ひとりがどういう人間か知らないから、その人間性を判断もできないし、評価もできないからだ。

 橋下市長は入れ墨職員を市民と接触がない部署に配置転換する意向だという。いわば市役所内での市民との接触を禁じ、隔離するということである。独裁国家が人権活動家を隔離し、市民との接触を禁じるようにである。

 110人の大成果を受けた橋下市長の発言を、《大阪市職員110人が「入れ墨」 橋下市長「組織として異常」》から見てみる。

 橋下徹大阪市長「やっぱり、組織として、僕は異常だと思っています。何から何までが異常。

  入れ墨をやったからといって、人間的に全てだめだとか言うつもりもないんですけど。何をやったってクビにならない、何をやったって降格にならないというね、そういう甘えというものが全部出ていると思いますよ

 入れ墨をしていることが「何をやったってクビにならない、何をやったって降格にならないというね、そういう甘え」にどうつながるのか理解できない。飛躍があり過ぎないだろうか。

 「何をやったってクビにならない、何をやったって降格にならないというね、そういう甘え」は深く個々の公務員としての倫理意識・責任意識にかかっているはずだ。

 倫理意識・責任意識は公務員としての職務上の行動として現れる。その行動は職場から離れた一般社会に於いても社会人としての行動としても現れるだろう。

 いわば公務員としての倫理意識・責任意識は社会人としての倫理意識・責任意識と相互対応しているはずだし、相互対応させなければならないはずだ。

 それが公務員としての、当然、相互対応の関係性からして社会人としてのということにもなるが、倫理意識・責任意識に反する行動を取る人間であるなら、入れ墨を彫った精神性と深く関係し、そのような精神性が倫理意識・責任意識に反する行動を取らせていると見ることはできる。

 だが、入れ墨を彫った全ての人間が公務員としての、さらに社会人としての倫理意識・責任意識に反する行動を取るとは断言できないはずだ。

 だからこそ、橋下市長は「入れ墨をやったからといって、人間的に全てだめだとか言うつもりもないんですけど」の発言となったはずだ。

 以上見てきたことと橋本市長のこの発言から見ても、入れ墨を基準にその人間の倫理意識・責任意識を判断・評価するのではなく、あくまでも入れ墨に関係なく、個々の行動からその人間の倫理意識・責任意識を判断・評価しなければならないことになる。

 このことは前科者を例に取るとよく理解できる。何か重大な犯罪を犯して逮捕、裁判、有罪判決、刑務所入所・出所と経て、前科者として社会復帰を果たした人間はその前科で判断される偏見に往々にして曝されるはするが、実際は前科で判断・評価されるべきではなく、あくまでも偏見を排して刑期を終えた以降の社会人としての責任意識・倫理意識に則って行動しているかどうかの素行(=行動)で判断されるべきであろう。

 だが、橋下市長は「入れ墨をやったからといって、人間的に全てだめだとか言うつもりもないんですけど」と入れ墨を基準としてその人間を評価・判断するつもりはないと言いながら、あるいは入れ墨を基準にその人間の倫理意識・責任意識を評価・判断するつもりはないと言いながら、その発言と矛盾させて、「何をやったってクビにならない、何をやったって降格にならないというね、そういう甘えというものが全部出ていると思いますよ」と、入れ墨と人間性を否定的評価・判断で結びつけ、そのような否定的要素が否定的行動となって現れるだろうと看做す断定を行なっている。

 いわば入れ墨で人間を評価・判断している。

 この人間価値判断は前科者に対して前科で人間を評価・判断するのと同じ構造を取っていると言える。

 その行動が公務員としての倫理意識・責任意識に則っているかどうかはあくまでも個々の行動から見るべきであって、このことに反して入れ墨で人間を判断・評価し、公務員としての倫理意識・責任意識までも否定するのは、5月7日(2012年)当ブログ記事――《橋下徹大阪市長入れ墨調査はプライバシー&思想・信条・表現の自由の明らかな侵害 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》にも書いたように、やはりプライバシーや思想・信条・表現の自由の明らかな侵害に当たるはずだ。

 上記「FNN」記事は、市の児童福祉施設の職員が児童に入れ墨を見せて脅したことをキッカケとして今回の調査が始まったと書いているが、大の大人が入れ墨を見せて年端もいかない児童を脅すこと自体が、それが底なしの愚かさから出た行為であっても、大人げなさを大きく通り越した狂気とも言うべき異常な個別性であって、そのことを以って入れ墨をしている全ての人間を判断・評価するのは人権侵害というだけではなく、そのように判断・評価する橋本市長自身の個別性自体も狂気を持った異常性さえ感じざるを得ない。

 橋本市長がなすべきことは入れ墨をしている職員全てが児童福祉施設の職員のような人間ばかりではない、真面目に職務に励んでいる職員もいると、入れ墨で人間を判断・評価する社会的な偏見を取り去ることであったはずだが、逆に入れ墨で人間を判断・評価する社会的偏見を犯している。

 現在ある社会的偏見から考えると、入れ墨が理由で配置転換を受けた職員は、配置転換の理由を知り得た人間から、それが同じ市役所内の人間であっても、一般市民であっても、その職員の職務上の行動・私生活上の行動を直接的にも間接的にも知り得る機会を持たなかった場合、以後、入れ墨で人間を評価・判断される危険性に曝され続ける確率が高いことになる。

 もしそうなったなら、橋本市長自身も大きく担った確率とも言える。

 その職員の職務上の行動・私生活上の行動を直接的にか間接的にか知り得る機会を持った場合、入れ墨で人間を判断・評価することから行動で判断する、いわば見方を変える可能性は捨て切れない。社会的偏見からの踏み出しである。


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