岩手県矢巾町教育長の教育関係者らしからぬイジメに関わる愚かな認識とイジメアンケートの形骸化の防止方法

2015-07-12 10:46:20 | 教育



      「生活の党と山本太郎となかまた ち」

      《7月15日(水)小沢一郎代表のテレビ出演ご案内》    
  
     こんにちは、生活の党と山本太郎となかまたちです。
     小沢一郎代表がBSフジ『ブラマヨ談話室~ニッポン、どうかしてるぜ!』に出演します。
     是非ご覧ください!

     ◆番組名:BSフジ『ブラマヨ談話室~ニッポン、どうかしてるぜ!』
     ◆日 時:平成27年7月15日(水)午後11:00~11:55
     ◆内 容:「夏だ!小沢一郎登場1時間SP」衆議院議員・生活の党代表の小沢一郎に日本の「景気動
      向」、「選挙システム」を問う。

     番組の詳細 

      《7月7日 小沢一郎代表記者会見要旨・党HP掲載ご案内》    
 
     【質疑要旨】
     ○安保法案の強行採決について
     ○安保法案審議について
     ○自民党の安保政策の変質について
     ○川内原発の核燃料搬入について
     ○保守本流政治について
     ○自民党の変節について
     ○リニア鉄道、新国立競技場の財源問題について
     ○橋下大阪市長の「関西維新の会」設立発言について
     ○小林節慶応大名誉教授との合同街頭演説企画について

     《YMF全国研修会「森ゆうこと語る会」を開催お知らせ》    

     参加フリー・会費:2千円・申し込み《森ゆうこ公式サイト》 

     日時:8月8日(土) 13:30開場 開会14:00~16:30
     場所: 丸の内トラストタワーN館11階 会議室
     定員:150名(定員に達し次第〆切とさせて頂きます。)

     14:00開会宣言 森ゆうこ挨拶
     14:15小林 節慶應義塾大学名誉教授講演
     15:15森・小林トーク対談(質疑応答あり)
     16:30閉会

 岩手県矢巾町の中学2年男子生徒のイジメを受けた電車飛び込み自殺でマスコミが次々と新しい事実を炙り出している。自殺した生徒に対するイジメの兆候が1年生のときから明らかになっていながら、学校が解決につながる対策を打ってこなかった事実である。

 生徒は2年生になってから生徒が担任に相談し、担任が相談に乗る交換日記形式の「生活記録ノート」にイジメの事実と自殺を匂わせる記述を残していたが、一度は生徒と生徒をイジメている生徒との三者面談を持ちながら、結局のところ根本的な解決につながる努力を怠った。

 この「生活記録ノート」は1年生のときもそのときの担任と遣り取りしていて、そこに昨年春からイジメを窺わせる記述があったと、7月11日付け「YOMIURI ONLINE」記事が伝えている。

 「(別の生徒から)何回も『死ね』って言われる」

 「まるでいじめられるような気分でいやです」(2014年5月1日)

 「先生にはいじめの多い人の名前をおしえましょう。もうげんかいです」(2014年7月15日)

 生徒は昨年秋、「(別の生徒から)わざと体をぶつけられたりして困っている」と家族に打ち明け、父親が学校に相談、関係する生徒を交えて当時の担任らで話し合いの場を設けた。

 だが、「生活記録ノート」に「先生どうか助けてください」などの記述が続いた。

 1年生の時からイジメを受け、それが2年生になっても継続していた。

 ここから浮かんでくるのは孤立した状況に立たされている生徒の姿であり、生徒を孤立した状況に立たせたまま、解決に向けて何ら奔走しない教師たちの姿である。

 いわば1年2年と「生活記録ノート」にイジメの存在を記し、特に2年の「生活記録ノート」には自殺を窺わせる記述がありながら、教師の誰もが生徒の命に対する危機感を持たなかった。

 ブログに何度か書いていることだが、生命(いのち)とは心臓を動かし、血液が流れて、歩いたり、食べたり、眠ったり等々の物理的な身体動作のみの状態を言うのではなく、精神的に健全に生きて在る状態――健全な精神的存在性までを含めて生命(いのち)と言う。

 イジメは身体的と精神的と両面の生命(いのち)に同時に作用し、損ない、歪め、非人間的状態に貶めていく。

 いわばイジメは身体的にも精神的にも健全であるべき存在性、健全であるべき人間性を奪う。当たり前の人間であることを許さない。当たり前の喜怒哀楽の感情の発露を歪め、抑圧する。

 こういった生徒の諸々の生命(いのち)に対して何ら危機感を募らせることはなかった。

 記事は、〈学校から町教委に対してイジメの有無を伝える報告が昨年度から今年6月末現在までゼロだった〉いう事実まで伝えているが、これを偽装と受け取るか、少なくとも自殺した生徒に関して1年生のときも2年生のときもそれぞれの担任とイジメに関わった生徒とが面談しているものの、事実ゼロと思ってしたことと受け取るかである。

 偽装と受け取ると、町教委が7月10日の記者会見で「いじめの認知がゼロであることが、(いじめ防止の)成果という意識が教委や学校にあった」と発言したそうだが、成果を偽装するために認知ゼロの偽装を対応させたことになって、生徒それぞれの日々の在り様=それぞれの生命(いのち)の在り様を考慮の外に置いた偽装ということになる。

 考慮の外に置くことができるのは生徒それぞれの日々の在り様=それぞれの生命(いのち)の在り様に何ら危機感を持っていなからできる考慮外の措置であろう。

 事実ゼロと思ってした報告だとすると、やはり敏感に対応すべき生徒それぞれの日々の在り様=それぞれの生命(いのち)の在り様に敏感に対応できない危機感のなさだけが浮かび上がってくることになる。

 前者・後者いずれであっても、教育者の態度とは倒錯したそれぞれの対応であることは間違いない。

 矢巾町教育委員会の教育長が7月10日記者会見している。

 越秀敏教育長「(因果関係について)最終的には第三者委員会が結論を出すと考えている。(自殺した生徒に)手を差し伸べられなかった。ただただお詫びするほかない。

 (2年担任が自身を混じえて一度はイジメられていた生徒とイジメ側の生徒と面談したことについて)(イジメは)一旦収まったが、その後も続いていたと推測される」(時事ドットコム

 「ただただお詫びするほかない」の自殺生徒に対する深い謝罪は学校側や町教委側の責任を深く認識していて初めて心からの謝罪となり得る。

 責任を感じない者の謝罪が心からのもの足り得るはずはない。

 「一旦収まったが、その後も続いていた」と言っていることはイジメ側の生徒とイジメられる側の生徒の問題としている一方、他方に於いて1年生のときも2年生のときも面談していることから、それぞれの担任のみならず学校自体が経過観察を怠っていたということを意味していて、生徒一人の命を失わせた学校全体のその怠慢の責任は償いきれない程に大きいはずである。

 だが、教育長の発言は学校側の経過観察の怠慢を認識していない、単に生徒たちの問題とする認識に立った表面的な事実経過を述べるのみで、それでおしまいにしている。

 教育長も教育関係者である以上、「一旦収まったが、その後も続いていた」と言っている自身の言葉が何を意味することになるのか的確に認識しなければならないはずで、生徒たちの問題とするのみならず、学校側の経過観察の怠慢とその責任への言及と、学校側から町教委にいくら報告がなかったとはいえ、監督責任はあるのだから、町教委の責任にまで言及があって初めて「一旦収まったが、その後も続いていた」という言葉を口に出す資格が出てくることになるが、その言及がない以上、自殺した生徒に対する「ただただお詫びするほかない」の深い謝罪は形式的であることから免れることはできない。

 教育長の発言に現れたこのような認識不足も生徒それぞれの日々の在り様=それぞれの生命(いのち)の在り様に日々さしたる危機感を持っていないことが原因となっているはずである。

 もしそのような危機感を持っていたらと逆のことを考えると、十分に理解できる。

 また、そのような危機感の不在・欠如がまた、「生活記録ノート」やアンケートの形骸化・儀式化を招いている原因であろう。イジメを訴える言葉やイジメを目撃した言葉が記述されていても、愚痴や不満程度に受け止めて、言葉だけの対応を見せたからこその深刻さの見落としであろう。

 あるいはいじめ防止の成果とするために、例えイジメの兆候があったとしても、どうにかなるだろうと高を括って、イジメ認知をゼロと偽装した報告をする。 
 
 特にアンケートが文科省通知「いじめ防止基本方針」に基づいて毎年度5、11、2月の計3回実施するイジメ問題に特定した調査である以上、生徒一人ひとりの生きて在る存在性に関係していながら、形骸化・儀式化するというのは教育という使命に真っ向から反する許されないことでありながら、使命を忘れて形骸化・儀式化させている。

 単にイジメを見たことがあるか見なかったかを書かせるのではなく、イジメとはどういう行為なのか、担任とクラスの生徒が議論し合って、生徒それぞれにイジメに関わる自身の認識を持たせた上でアンケートに取り掛かるべきだろう。

 そのためには大河内清輝くんいじめ自殺事件や類似のその他の事件を教材としてイジメから自殺に至る経緯を学び合うことも必要になり、そこからイジメという行為の何たるかを生徒なりの判断で認識化、もしくは概念化していき、自分なりに獲得した認識、あるいは概念に基づいてアンケートに向き合えば、イジメを見た・見ないの単なる事実の伝達を超えて、イジメというものが如何なる行為であるかを考えながらの記述となり、それだけ学びの部分が加わって、生徒にしても形骸化・儀式化のキッカケとなる機械的記述を避けることができるようになる。

 学びの場に居合わせた教師にしても、生徒の記述をテストの答案に対するように疎かにはできなくなり、そのような対応が形骸化・儀式化を防ぐ手立てとなるはずである。

 生徒がそれぞれに得意な勉強や運動を自己の活躍行為とするのと同じくイジメはそのことを自己の活躍行為とする。イジメと勉強や運動との違う点はイジメの対象とする生徒に対して自己を精神的にも身体的にも優越的な上の位置に導き(一人で無理なら、多数を組むことによってそのように謀る)、その上下の力関係を利用して下の位置に置いた者を様々な手を使ってイジメる、いわば自分の思い通りに相手の行為や感情・人格を支配する権力行為を行う。

 イジメにしても学校という生活の場で自己を活躍させる自己活躍行為としているる以上、一般的な生徒が学校社会で好きな勉強や好きなスポーツ、あるいは好きな趣味を武器に自己活躍を通して自己実現を確立しようとしているのと同じくイジメる生徒はイジメによって自己実現を確立しようとしていることになる。

 そして自己実現を果たし得たとき、それは自己という人間の存在証明となる。

 学校社会でイジメで自己実現を図り、その自己実現を自己存在証明にするという存在性の構造は表面的なそれ自体は他の構造と同じであっても、イジメられる生徒の健全であるべき身体的・精神的存在性を否定して損ない、歪め、ときには抹殺してしまう点で他の構造とは大きく違って、決して許されない。

 「生活記録ノート」やアンケートの形骸化・儀式化を防ぐためにはこういったことを学んでから取り掛かるべきだろう。 
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