耳納の神々

この山から見る平野も川も壮大です。やっぱりこの山には神々がいらっしゃいます。
山の神にご挨拶するために今年も登るぞ~

石垣神社

2007年05月06日 | 耳納の神社
709年の創立。久留米藩主有馬公の祈願所でもあった。旧竹野郡七ヶ町村の宗廊。
鳥居は高良大社(筑後一宮)と同じ明暦元年(1655)築、楼門が安永九年(1780)築とわかった。
鳥居は彫られていた文字から、楼門は見つかった棟板からわかったという。

この神社は石垣観音寺と仏法を守るために観音寺の東側に建てられた。生葉郡(浮羽町と吉井町)、竹野郡(田主丸町)、山本郡の総本社として氏神信仰の中心となった。


また久留米藩領の宝暦一揆の集結地でもあった。
宝暦一揆は、宝暦4年(1754年)に起きたが、総参加者は10万人以上とみられている。一揆参加者のうち37人が死刑となった。庄屋も7人がふくまれている。弾圧した藩主は日本数学中興の祖といわれる関孝和の高弟7人の筆頭格という数学の大家であったそう。


宝暦一揆とは、
ちょうど250年前の3月、久留米藩が極度の財政難の中、領民に過酷な人頭税(八歳以上全員への人別銀)を課したことに反発し、日本史上有数の全藩的大一揆が発生した。藩の農民人口約14万人中、4万8000人という説も10万人以上という説もある農民が参加した大規模なものである。その勢いの前に藩士達は総崩れし、3月末に人頭税の全面撤回が約束された。
 ところが農閑期が終わり一揆がおさまると、藩は約束を反故にして炎天の旧暦6月から各地の一揆リーダー層の検挙に乗り出し、7月には300人が牢中に満ちた。そして8月27日、第一次の処刑が行われる。死罪18名を含む149名にのぼる大弾圧であった。首謀者は見せしめとしてさらし首にされた。
 第二次処刑は、10月27日、19名が死刑になった。その年、久留米藩は一揆への報復として過去最高の年貢を取り立てた。

私の子ども達が小学校のころ、この一揆について勉強していた。その処刑地にも行った。碑にも行った。我が工房の隣が集結地であった事を先生に言うと、総合学習のルートに入れたいと言われた事もある。そう言えば子ども達はやけに この一揆について詳しいかった。

又楼門は今補強工事が行われている。

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