江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

元旦礼拝(2010年1月1日)

2010-01-02 10:48:02 | Weblog
              元旦礼拝              2010.1.1

        「私たちが見る教会」 マタイ16:13-20

 Ⅰ導入部
 新年あけましておめでとうございます。新しい年2010年が始まりました。この新しい年の1年が、お一人おひとりの歩みが、私たちを創造され、私たちの人生を豊かにしようと計画しておられる神様によって、豊かに祝福されることを心から願いお祈り致します。皆さんには、昨年は大変お世話になりました。どうぞ今年もよろしくお願いいたします。
 昨年の世相を表す漢字一時は、「新」という字でした。新政権が起こり、新たな政治の歩みがなされておりますが、かなり高かった新政権の支持率も、いろいろな問題や課題が山済みされて随分と下がってまいりました。50年間変わらなかったことを何とかしようというのですから、そんなに簡単にはいかないでしょう。けれども、いろいろと考え、努力はされているとは感じますが、やはり国民は結果を求めますから、結果が出ないと支持率も上がらないのだと思います。今年も国を治める人々は大変な苦労があるでしょう。私たちは、聖書の教えに従って上に立つ人々のために祈り続けたいと思います。リビングバイブルですが、テモテへの第一の手紙2章2節には、「王のため、また権威と重い責任を負っているすべての人々のために祈りなさい。」とあります。
 私たちは、この新しい年2010年の第一歩を歩み始めました。「一年の計は元旦にあり」と言われますから、今日元旦に与えられる聖書のみ言葉は大切なみ言葉です。2010年の元旦礼拝に与えられましたみ言葉は、マタイによる福音書16章13節から20節です。「私たちが見る教会」と題してお話ししたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈教会とは
 青葉台教会は今年の11月に創立42周年を迎えます。新会堂を立ててから10年が経ち、会堂が拡張され、ステンドグラスが造られ、教会堂としてはますます素晴らしいものができております。私たちが教会という時、それは教会堂を指すことが多いように思います。あのレンガの教会というように、会堂、外側をイメージします。聖書で教会は、ギリシャ語では「エクレーシア」と表現しますが、「世から呼び出された、召し出された者たちの集まり」を指しています。会堂がないと教会ではなくなるというのではありません。
 現在、学園教会は会堂建築中で会堂がありません。四街道駅のそばの集会所を借りて礼拝を守っておられます。そこには、イエス・キリスト様により、召し集められた人々の集まりがあるのです。青葉台教会も会堂建築中には江田のハーモスで礼拝を守られていたと聞いております。会堂はありませんでしたが、世から呼び出され、召し集められた群れがありました。その時には、礼拝を休む方がほとんどおられなかったと聞きました。すごいですね。会堂が立派だから、綺麗だから、すごいから礼拝を休まないのではなく、礼拝堂として建てられたわけではない集会所での礼拝で、多くの不自由な事があったことでしょうが、みんなが会堂建築というひとつの目標を持って、心と思いをひとつにされたので、礼拝を休まれる方々がなかったのでしょう。
 現在、先ほど申しましたように、青葉台教会は会堂も広く、りっぱになりました。席もゆったりとして窮屈を感じません。ステンドグラスが造られ、牧師を見ているようで、ステンドグラスを眺めてあっという間に1時間が過ぎます。教会堂としては整えられました。しかし、礼拝の出席の姿勢はどうでしょうか。私たちは、この1年、礼拝に対する態度をしっかりと持ちたいと思います。礼拝を簡単に休むと言うことに慣れるのではなく、休むのがいけないというのではなく、休むということがいったいどういうことのかを考えないで休むことがないようにしたいと思います。日曜日が、礼拝を通して、本当の意味で心も体も魂も休める日となることを心から願います。
 私たちは、この世から呼び出された者、召し集められた者の集まりです。けれども、やはり教会堂も大切だと思います。初めて教会堂に訪れた方々が、聖い、崇高な思いを感じられるように、ここにこの世と何か違うものがあることを感じることができるように、見える形も大事にしたいと思います。いや、中に入る人々はほんのわずかでしょう。教会を横目に見ながら歩いている人が多いわけですから、教会の外側しか見ない人々は、見える教会堂でしか判断しないのですから、見える教会堂をよくしたいと思います。青葉台教会の会堂は、会堂が伝道するようにという思いで建てられているとお聞きしました。素晴らしいことです。けれども、この青葉台の地に30年いても気付かない人々が多くいます。ですから、私たちは教会の存在をもっと多くの機会を通して、証していきたいと思います。
 
 ⒉健康な教会であればこそ
 教会やクリスチャンのこの世のイメージは、「暗い、堅い、つまらない。」と言われます。とても残念です。ですから、クリスチャンらしいクリスチャンとは、「暗い、堅い、つまらない。」クリスチャンなのです。であるならば、私たちはこの世が言うクリスチャンらしくないクリスチャン、明るくて、柔軟で、楽しいクリスチャンとして生きたいと思います。3日の新年礼拝の題は、「笑う門には福音が来る」という題です。笑いに満たされた1年、笑いがあふれる教会を目指したいと思います。世間が思っている教会像、クリスチャン像を変えたいと思います。いや、本来聖書が示すクリスチャン像を目指したいと思うのです。健康な体であれば、人間は肉体的に成長するように、教会も健康ならば成長していくのです。だから、健康な教会を築くことが大切な事だと思います。
 日本においてもリバイバルがありました。多くの人々が教会に導かれ、救われていきました。21世紀に入り、教会が成長できない状況が多々あります。ですから、多くの牧師、信徒の方々もリバイバルが来ることを願い祈り続けています。 リバイバルとは、突然教会が成長し突然消え去るようなものではありません。ある人々は、リバイバルと神様の訪れが教会を一瞬のうちに造り変える魔法の鍵のようなものだと思っている。今の教会の現状などは、どうでもよく、神様が力と栄光をもって訪れるなら、その時に教会の全てが造り変えられると思い込んでいる。その時が来ると、不健全な教会が、またたく間に健全な教会になり、世的でなまぬるい教会が、あっと言う間に霊的で情熱的な教会に生まれ変わると言うとヘルシーチャーチという本に記されていました。
 リバイバルは、今の教会が惨たんたる状態でも主の力が働かれる時、リバイバルは起こる。勿論そうですが、今の教会の現状はどうでもいい、仕方がないという状況で果たしてリバイバルが来るのでしょうか。キリストの教会は、健全に建て上げられるということが最も大切なことだと思います。ヨハネの第三の手紙の2節には、「愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたが全ての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。」という言葉があります。
 私たちは、自分の体が健康であるように、食べ物に気を使い、運動をし、サプリメントを飲み、体調を整えます。やはり健康が一番ということをよく聞きます。やはり教会も健康が一番なのです。健康と似ていますが健全という言葉があります。健全は健康の生みの親ともいえるものです。物事が健全である時に、その結果として健康な状態となるのです。健全、健康であることをヘルシーチャーチという本では、偏りがなくバランンスが取れていることと常に基本に忠実であることと記していました。健康な体が、偏りがなくバランスが取れていて、常に基本に忠実であるように、教会も同じなのです。
 私たちの教会がバランスを良く保つためには、聖書のみ言葉にしっかりと立つ事、聖書が大切にしている事を大切にし、そんなに大切にしていないことは大切にしない事だと思います。また、基本に忠実であると言うことは、基本と言うものが意味あるもの、魅力なものにすることだと思います。スポーツでも音楽でも基本は単純なものであり、見方によればつまらないものに見えます。しかし、その基本を大事に、忠実に行い続けることが、健康な教会を建て上げることになるのだと思います。大リーグで成功した、イチロー選手はやはり基本に忠実で、基本に魅力を感じ、何年も続けることにより、素晴らしい成績を残しているのだと思います。私たちは、クリスチャンとして、基本に忠実でありたいと思います。日々のディボーション(聖書の言葉と祈りの生活)の実践と継続、礼拝と祈り会への出席を大切にしていきたいと思います。

 ⒊わたし(キリスト)の教会を建てる
 マタイ16章13節からのところでは、イエス様は弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と質問されました。それはイエス様が、やはり私たちと同じ人間として、人目を気にしたということでしょうか。イエス様は、人目を気にする人ではありませんから、違うお考えがあったのでしょう。もうしばらくすれば、イエス様は十字架にかかって死なれるわけです。3年と少しの間、12弟子と共に過ごし訓練してきました。ですから、イエス様は弟子たち自身がイエス様をどのように見ているのかを問うために、まず一般の人々、世間の人々がイエス様をどのように見ているのかを問うたのです。弟子たちは、世間の評判どおりに、洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者だと言う人がいると答えます。 
 15節~16節を共に読みましょう。「イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。」 洗礼者ヨハネは偉大な人物でした。ヘロデはイエス様の力を聞いて、バプテスマのヨハネが生き返ったとまで言いました。エリヤ、エレミヤはユダヤ人によっては大預言者でした。イエス様をそのように見ると言うことはイエス様を大きく評価したということです。しかし、預言者は預言者でしかあり得ないのです。ペトロが弟子を代表して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。
 17節を共に読みましょう。「すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」」 リビングバイブルには、「「ヨナの息子シモンよ。神様があなたを祝福してくださったのだ。それがわかったのは、天におられるわたしの父が、あなたに個人的に教えてくださったからだよ。人間の力じゃない。」」 イエス様は、ペトロよとは言いませんでした。彼の本名で呼ばれました。イエス様は三度イエス様を知らないと言ったペトロに復活された後、ペトロに出会って愛するかと三度問われた時も、ペトロではなく、シモンと呼ばれました。いつもとは違うと言う感じがします。 イエス様をどんな偉大な預言者、人物と言ってもそれはやはり人間です。けれども、ペトロは、メシア、救い主、生ける神の子と告白したのです。他の弟子たちも同じ思いだったでしょう。父なる神様がペトロを通して導かれた答えでした。この信仰の告白をしたペトロにイエス様は大切な事を語られました。
 18節、19節を共に読みましょう。「「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」」 イエス様は、イエス様について、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を告白した、ペトロの信仰の上に、わたしの教会を建てると言われました。青葉台教会もペトロと同じように、イエス様を救い主、神の子と告白する信仰の上にキリストの教会が建てられています。教会の頭はイエス・キリスト様です。教会はイエス様と切っても切れない関係です。ですから、教会を批判するということはイエス様を批判することであり、イエス様を批判することは教会を批判することになります。イエス様を軽んじることは教会を軽んじることであり、教会を軽んじることはイエス様を軽んじることなのです。
 また、18節ではイエス様は、教会の大切な働きについて語られました。「陰府の力もこれに対抗できない。」 リビングバイブルには、「地獄のどんな恐ろしい力も、わたしの教会に打ち勝つことはできない。」とあります。現実に、悪の力、サタンの力が私たちの周りを囲み、私たちの心の中に、思いの中に、肉体の中に悪の力、悲しみや苦しみを与えています。毎日のように、至る場所で、恐ろしい出来事があります。クリスチャンである私たちも、例外なく攻撃の目標となっています。その力には圧倒され、教会も、クリスチャンもこの力の前に、どうすることのできないという現実があります。
 しかし、イエス様は「陰府の力もこれに対抗できない。」とはっきりと宣言されました。教会を通してあらわされるイエス様の力は、悪の力を止め破壊することができるのです。教会にこそ、サタンの圧倒的な力に立ち向かい勝利することができるのです。イエス様が頭である教会は、イエス様が十字架で成し遂げられた多くのみ業により、武装され、あらゆるサタンの力を破壊する力が十分に与えられているということを私たちは覚えておきたいと思うのです。
 また、イエス様はペトロに、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」と言われました。神様はイエス様の身代わりの十字架により救いを完成させ、復活の力により、人間が堕落により失った全てのものを回復して下さいました。ですから、サタンの力に勝利するだけではなく、イエス様を救い主、神の子と告白する信仰を持つ教会を通して、あらゆる場所で、困難や苦しみ、痛みの場所を天国へと、神様の愛と恵みのある場所、癒しの赦しの場所として下さるのです。その鍵を信仰告白する者に与えると約束しておられるのです。私たちは、イエス様を私の救い主、神の子と信じ告白する者です。ですから、その告白をする群れ、召し集められた群れ、教会に天国の鍵を与えて下さるのです。私たちの信仰の歩み、生き方こそが鍵を握るのです。

 Ⅲ結論部
 私たちクリスチャンの現実、教会の歩みは、弱くて小さなものです。私たちの日本ナザレン教団の歩みは、右肩下がり、右肩下がりといろいろな場所で、あるいは紙面で言われ続けています。いつの間にか、しょぼんとして、現実の前に倒れそうです。けれども、私たちはイエス様の言葉に目を向け、心を注ぎ、そこを拠り所としたいと思います。私たちクリスチャンの歩みも、この世の中に埋没しそうです。 クリスチャンらしい生き方、それは暗く、堅く、つまらないという魅力のない生き方です。けれども、イエス様は21世紀を生きる私たちクリスチャンに、教会に語られるのです。「「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」」と。この約束の言葉を握りしめ、この1年をイエス様のお言葉、聖書のお言葉に導かれて歩ませていただきたいと思います。私たちの教会はイエス様が頭であり、イエス様が中心です。イエス様の十字架こそが救いの源なのです。2010年もイエス様を見上げて、このお方を通して主のみ業を体験させていただきましょう。
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