初心者から成熟者へ
へブル5:11~6:2 2018,4、29
1、 へブル書は、1世紀、ローマの迫害下にあったユダヤ人キリスト者に向けて書かれた。過酷な弾圧に試練と艱難、絶望で信仰が弱まったりユダヤ教に戻ったりするものがいた。その人々に牧会的配慮をこめて激励,勧告したもの。著者は、パウロだ、ルカだ、アポロだと、いろいろ言われてはいるが不明である。
2、 本日の聖書箇所では、信仰的に弱って成長していないキリスト者に向かって、いつまでも初歩の教えにとどまっていないで成熟を目指していきましょうと激励している。この激励は、こんにちのわれわれ対してもあてはまるかもしれません。受洗後、日曜日の礼拝だけが聖書にふれる機会としている状況だと同じかもしれません。よくSunday Christianと言われます
当時は、ローマの迫害(70年、エルサレム陥落)それに抵抗した衝突等(マサダ砦での抵抗)という不安な状況のなかで信仰が揺れ動いていたのでしょう。今日も、過剰な競争、効率性、金銭欲、物欲、忙しさ等のもとで信仰が揺れて、弱まっているのと同じかもしれません。
3、 5:11以下では、何年たっても成長しないで、初歩の段階にとどまっている。もう教師になってもいい年数がたっているのに神の言葉の初歩を教えてもらわなければいけないような状態。だから神の御心についての素晴らしい教えを味わえないのだと言っています。わたしたちも、受洗して霊的に生まれ変わったときは霊的赤ん坊です。救われたことと、永遠の命を頂いたということで安心してしまい、信仰的に成長していないということはないでしょうか。いつまでも赤ん坊のように乳を飲んでいる状態で大人のような固い食事を食べることができない。それは耳が鈍くなっていて心がふさがっているから、善悪を見分ける感覚が訓練されていないのだと言っています。
マタイ19:16~24にでてくる、お金と神を天秤にかけた“金持ちの青年”の話
を思い浮かべます。自分の生活中心から抜けられず、信仰が現実の生活の付属物になっているのです。パウロは、お互いの間にねたみや、争い、思い煩い、人を傷つけることを言ったり、したり、人を裁いたり、陰口を言ったり愛のない行動
が絶えないなら霊的赤ん坊だと言っています(1コリ3:3)。
4、 初歩的な教えとは、6章1,2節で、悔い改め、洗礼、祝福、復活、最後の審判の基本的教えにとどまっていることだと言っています。この教えだけにとどまっていてはだめで、これから成長して成熟した信仰者になろうと激励しています。パウロも、「あなた方が成熟したクリスチャンとなり神の御心を全うすることができるようになろう」と言っています(コロ4:12)。私たちは、神に似たものとしてつくられており、霊的に成長すれば神の御心を行うことができる。神に似た性質を持つものとしてあらゆる点で成長していけばキリストのようにされていくのです。成熟度の基準は、どれだけキリストに似たものとされているかです。
5、 霊的成長の段階をよく新生、聖化、栄化といいます。そこに達するためには何をしたらいいのでしょうか?ペテロは、“私たちの救い主イエスキリストの恵みと知識において成長し続けなさい(Ⅱペテロ3:18)。パウロも、自分自身を霊的に整えるために鍛錬しなさい。”(1テモ4:7)。成長には時間と労力をかけて鍛錬することが必要だと言っているのです。
6、 先日、米国に長く住んでいた友人が、米国の親の子供に対する肯定感はまねできないと話していました。自分の子供がミスしたり、試験で悪かったりしても決して怒らず、攻めもせず、次はもっと良くなるからと励まし、肯定的に接していると。3月に、教会で高橋圭子さんという方の講演会がありました。「思春期の子を持つお母さんのため」という話でした。その話のなかで、思春期までは、子供に自己肯定感を養うよう育てることが大事。そのためには、子供を生かし、前向きになれるよう励まし、良いところ見つけて声に出して言い続けることだと言っていました。さらに、親の心構えとして話を聞いてあげることが大事、人は正しいことをたくさん聞くと安心するのでなく、たくさん聞いてもらうことで安心すると言っていました。臨床心理学者として人の心の問題を扱ってきた河合隼雄先生は、問題のある人と応対するとき、「何もしないことに全力をそそぐ」と言っています。ああしたらいい、こうしたらいいという話はせず、全力で、命がけで人の話をきくということ。語り手の命の呼吸を一心にうけとめること、これが人に寄り添うことでもあると。イエス様が、いつも、ともにいることと同じですね。いま、教会ではスモール・グループ活動をしようとしています。それを進める中で、大事なことは、声の大きい人がリードし、ほとんど一人の人が話している、あるいは、人の話にいちいち意見をいうことです。これをしないことです。お互いのことをよく聞きあい、祈り合うことが鍵です。聖書にも、「聞くに早く、話すのに遅く、又怒るのに遅くなるようにしなさい」(ヤコブ1:19)とあります。
7、 何を目指すのかそれは、キリストに似たものになることを目指すのだと。「だれでも私について来たいと思うなら自分を捨て、日々自分の十字架を負いそして私について来なさい」(ルカ9;23)。どんな鍛錬が必要なのでしょうか?そのためにまずすべきことは、日々、み言葉に触れることです。“私の言葉にとどまるならば、あなたたちは本当の私の弟子である”(ヨハネ8:31)“主の教えを愛し、その教えを口ずさむ人、その人は流れのほとりに植えられた木。時が来れば実を結び葉もしおれることがない。その人のすることはすべて繁栄をもたらす”(詩1:2~3)。み言葉にしっかり根差して生きれば人格的にも成熟すると言っているのです。
8、 有名な「種を蒔く人」のたとえがあります。(マルコ4:1~9、マタイ13:1~9、ルカ8:4~8)わたしたちは、み言葉を聞いても、読んでもなかなか心の中に入ってこないことがあります。私たちの心がふさがっていて、道端であったり、石だらけの土の少ないところであったり、茨の中であったりします。そして、心が開いているときにはみ言葉がすっとはいってくる良い土地であったりします。日々この繰り返しをしているのではないでしょうか。愛の人である神様は、人は、いつも良い土地のようではないことは知っておられます。だから、“私はブドウの木、あなたはその枝である。人が私につながっており、わたしもその人につながっておれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れてはなにもできないからである。”とつながってさえいれば実を結ぶと約束しています。
9、 み言葉にとどまり続けるためには、日々、み言葉にふれること(聞くこと、読むこと、学ぶこと、覚えること、黙想すること)、日々、神に祈り、神と交わること、兄姉と交わり、励まし・祈り合うことが大事になります。いま、教会では水曜日の朝の学びでこのことを学んでいます。成長しなければ神の御心についての教えを体験することができません。聖書を読んでいると日々新たに気づかされることが多いです。こんなことが書いてあったのか、こんな意味だったのかとはっとさせられることがあります。年を重ねて初めて分かることもあります。み言葉の前に謙遜になり教えを受ける姿勢で学び続ければ必ず成長していきます。霊的成長には近道はありません。日々、み言葉に触れていけばかならず成熟した信仰者となります。全き信仰を持って真心から神に近づこうではありませんか。
10、 今週も信仰の創始者であり完成者である、イエスから、目を離さないで、主のみ言葉に導かれつつ歩みましょう。