江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

新年主日礼拝(2010年1月3日)

2010-01-03 12:51:29 | Weblog
            新年主日礼拝(降誕後第二主日)     2010.1.3

             「笑う門には祝福が来る」 創世記21:1-8

 Ⅰ導入部
 新年あけましておめでとうございます。昨年は本当に愛する兄弟姉妹に祈っていただき、共に宣教の業に携わらせていただき感謝致します。どうぞ本年もよろしくお願いいたします。2010年がいよいよ始まりました。昨年の歩み以上に、今年の歩みが神様によって豊かに祝福されますようにとお祈り致します。新しい年も、聖書の言葉に日々触れ、み言葉に従い、み言葉を実践する歩み、祈りを通して神様のみ業を共に拝見させていただきたいと思います。
 聖書の中には、「笑い、笑う」という言葉はあまり出てこないようです。「喜び」という言葉は、「喜び歌い、喜び叫び、喜び踊る、喜び祝い」というようによく出てきます。クリスチャンの喜びとはよく言いますが、クリスチャンの笑いとはあまり表現しません。「笑い、笑う」と聞くと何かレベルが低いような、低俗なイメージがあるように思います。
 新年を迎えてテレビ番組もお笑いが多くあります。普段も吉本のタレントを中心に、お笑いの番組が多くあるように思います。また、笑うと言うことはリハビリや健康回復にもいいというような事が言われることもあります。ユーモアというのがありますが、笑いに似ていると思います。ユーモアを通して人々に笑いを与えているように思います。
 笑いと言っても、「高笑い、愛想笑い、苦笑い、作り笑い」と表現があります。私たちも日常生活の中で、この何種類かの笑いを使い分けているようにも思います。俳句の季語にも「山笑う」という表現があるようです。春になって芽吹き、景色が明るくなるもののたとえのようです。日本の言葉の中には、「笑う門には福来る」という言葉があります。「明るくニコニコしている人には、自然と幸福が訪れる。」というような意味でしょうか。門というのは、一族、一家をあらわしていて、家族に、一族に幸福が訪れることを願う言葉でしょう。また、笑うことでガンの発症率が低くなるというような研究発表もあるようです。笑いには、とてつもないパワーがあるように思います。
 人間とはという定義のひとつに、「人間とは笑う動物である」というのがあるそうです。確かに犬や猫が笑っている所はあまり見たことがありません。最近のテレビのコマーシャルではあるようですが。
笑いは人間にだけ与えられている特権と言えるかも知れません。
 赤ちゃんは生まれてしばらくすると、誰に教えられたわけではないはずなのに、実にあどけない微笑みを浮かべます。エンジェルスマイルというそうです。「アホは神の望み」という本があるようですが、その本の中には著者の村上和雄さんが、「人生で最初の笑みは遺伝子の働きと関係があると私は思っており、赤ちゃんが言葉を覚える前にまず笑う。初めに笑いありきなのです。」と書かれているようです。いかにも遺伝学の第一人者らしい言い方です。私たちは、毎日の生活の中で、この人間だけに、私たちだけに与えられている笑いという特権をどれだけ生かしているのでしょうか。
 医学の世界では、笑う時には顔の筋肉を13本使い、怒ったり、顔をしかめたりすると、顔の筋肉を60本も使うことになるので、シワになりやすく、老(ふ)けこみが早まる原因になると言います。
美容にも笑いが1番のようですね。さんざん笑った後の血糖値を測ると、その数値がグンと下がったと言う実験結果もあるようです。笑いは薬であり、しかも副作用のない薬であることが分かり始めているようです。昨年皆さんはは笑いはどうでしたか。今年は笑いの1年を目指したいと思うのです。
2010年の最初の礼拝に与えられました、創世記21章1節から8節を通して、「笑う門には祝福が来る」と言う題でお話ししたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈笑いと喜び
 聖書の中には、「笑い、笑う」という言葉があまりないと言いましたが、少し紹介してみたいと思います。「なお、あなたの口に笑いを満たし、あなたの唇に歓びの叫びを与えてくださる。」(ヨブ記8:21)「あんたにも、いつか必ず笑顔を取り戻し、喜びの叫びをあげる日がくるさ。」(リビングバイブル)
「そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう/「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。」(詩編126:2)「笑いが込み上げ、ひとりでに歌っていました。外国人の驚きようと言ったらありませんでした。「神様って、すごいことをなさるもんだな」と騒いでいたではありませんか。」(リビングバイブル) 「都の広場はわらべとおとめに溢れ、彼らは広場で笑いさざめく。」(ゼカリヤ8:5) 「 笑っていても心の痛むことがあり、喜びが悲しみに終ることもある。」(箴言14:13)「笑っても苦しみは隠せません。笑い終わると悲しみが残ります。」(リビングバイブル) 「泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時」(コヘレト3:4) 「今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。」(ルカ6:21) 
 クリスチャンである私たちは、喜びに満たされているとは表現しても、クリスチャンの私たちは笑いに満たされているとは言いません。喜びと笑いの違いはどこにあるのでしょうか。広辞苑では、喜ぶとは「うれしく感じる。楽しく思う。うれしく思い感謝する。快く受け入れる。」とあります。笑いとは、「わらうこと。笑み。」とあります。基本的には、喜びも笑いも、私たちの心の中にうれしい、楽しい、というような思いが与えられて外に現れる表現だと思います。違いをと言うと、喜びは体や笑顔に現れ、笑いは声に現れるとでも言えるでしょうか。でも、喜びも大きくなると声に出ることもあるでしょう。笑いも、笑顔という表現にもなります。スマイルですね。小学生、中高生は「スマイル」という讃美が大好きです。私たちは写真を撮る時、喜んでとは言いません。スマイルと言うでしょう。「笑って」と私たちは、写真の前でポーズをとるのです。
 先ほど紹介しました聖書の個所の一つ、詩編126編ですが1節から見ると、「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて、わたしたちは夢を見ている人のようになった。そのときには、私たちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう。「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。」とあります。この笑いというのは、束縛からの解放の喜びを表しています。自由とされた喜びの表現でしょう。私たちは、いろいろなものに束縛されていると言えるかも知れません。それらから解放される時、笑いと喜びが与えられるのです。
 けれども、私たちは喜びと言う言葉を好み、笑いと言う言葉は避けます。「笑い」というと、何か馬鹿にしているような、ふざけているようなイメージがあるからです。私たちは、「笑い」と言えば「イサク」、「イサク」と言えば「笑い」と言う創世記21章を共に見たいと思います。

 ⒉み業を経験し主に従う
 創世記21章1節、2節を共に読みましょう。「主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、 彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。」 創世記18章においては、3人の主の使いがアブラハムに男の子が与えられるという神様の約束を伝えます。それを聞いていたサラは笑うのです。18章12節には、「サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。」とあります。この後、御使いとサラとの間で、笑った、笑っていないと問答します。この時のサラの笑いは、サラが男の子を産むという言葉に信じられないのでバカにした笑い、「そんなバカな!うっそ!」という感じでしょう。リビングバイブルには、「あまりばかばかしくて、サラは笑いをかみ殺すのがやっとでした。「私みたいなおばあさんが、赤ん坊を産むだなんて」と、彼女は自分をあざけるようにつぶやきました。」とあります。このバカなという「笑い」がイサクの名前の由来ではないのです。それを覚えていてほしいと思います。
 アブラハムも同じように笑ったことがありました。17章17節で、「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」」とあります。アブラハムもサラも男の子が与えられる、という神様の約束を信じられなかったので、サラは自分の女奴隷を側女として与えたのでイシュマエルが生まれました。けれども、神様の約束は成就されたのです。アブラハムもサラも笑ったことが現実となったのです。サラはアブラハムとの間に、男の子を産んだのです。神様の約束は確実です。私たちがバカなと信じなくても、信じられなくても成就するのです。神が人となり、人間の身代わりに十字架にかかるなんて信じられないことかも知れません。けれども、その信じられないような出来事が起こりました。私たちは、神様の約束を疑うことがあります。バカにし、セセラ笑い、信じようともしない。現実離れした内容だと感じることもあるでしょう。しかし、神様は真実なお方です。約束したことは必ず実行されるのです。私たちは聖書の言葉、神様の約束を信じて歩みたいと思うのです。
 3節から5節を共に読みましょう。「アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け、神が命じられたとおり、八日目に、息子イサクに割礼を施した。息子イサクが生まれたとき、アブラハムは百歳であった。」 神様はアブラハムに約束されたことを実行されました。アブラハムは神様の命令通りに、その子にイサク(笑い)という名前をつけました。アブラハムは神様の偉大さ、忠実さを知ったでしょう。そして、何と愛なるお方であることを感じたはずです。ですから、アブラハムは神様に忠実に従うようになります。22章では、息子イサクをささげよ、つまり殺せという命令にもたんたんと従うのでした。私たちは神様のみ業を拝する時、経験する時、忠実に神様に従うことができるのです。私たちは、この年神様の偉大な業を経験し、忠実に神様に従う者になりたいと思います。

 ⒊笑わせて下さる神
 6節を共に読みましょう。「サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を/共にしてくれるでしょう。」」リビングバイブルには、「サラは大喜びです。「神様のおかげで、私もようやく笑えるようになったわ。私に赤ちゃんができたと知ったら、皆さんがいっしょに喜んでくれるでしょうよ。」」とあります。
 サラは、男の子が与えられると聞いて、「クスッ」と笑いました。バカにしました。そんなこと現実にあるはずがないと思いました。けれども、神様は男の子をサラに与えて下さいました。驚きです。アメージンググレイスです。サラは「神はわたしに笑いをお与えになった。」と言いました。これは、バカなッ!というようなバカにした、セセラ笑いではなくて、本当に神様は私のような不信仰な者に対しても約束を果たして下さり感謝致します。ありがとうございます、という心からの喜び、感謝の表現だと思うのです。サラの笑いは、神様の素晴らしいみ業のゆえに感謝の表れでした。ですから、リビングバイブルは、「サラは大喜びです。」と表現しています。サラが男の子を産んだことを聞いた者は、サラが神様のみ名をあがめて笑ったように、共に笑ってくれる、喜んでくれる、と感謝を現わしているのです。イサクの名前、「笑い」という名前は、前にも言いましたように、サラに男の子が与えられる、と聞いて「バカな!」とクスッとバカ笑いをしたという笑いからのイサク(笑い)ではなくて、神様は私を笑わせて下さった。神様のみ業は本当に素晴らしい。神様ありがとうございますという感謝の思い、それが笑い、イサクという名前の由来なのです。
 7節を共に読みましょう。「サラはまた言った。「誰がアブラハムに言いえたでしょう/サラは子に乳を含ませるだろうと。しかしわたしは子を産みました/年老いた夫のために。」」 もう一度、神様が子どもを与えて下さったことを確信しています。生まれた子にお乳を飲ませるというのは、母親として最高の喜びではないでしょうか。子どもを胸に抱き、お乳を与える。そのお乳を一生懸命に飲む子どもの姿を見て母親は幸せを感じます。父親もその光景に笑顔になるのです。また、その光景を見る誰もが、ほのぼのとした思い、自然とスマイルが笑顔が出るのではないでしょうか。リビングバイブルでは次のように訳しています。「まるで夢のようだわ。年老いた主人のために、赤ちゃんを産んだのですもの。」 神様の約束の成就に、心からの感謝と喜び、笑いを現わしているのです。
 神様は私たち一人ひとりにみ子イエス様を下さいました。私たちの心の中にある罪を赦すために、罪から解放するために、人間の子として生まれ、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さいました。尊い命を与えて下さいました。その事により私たちの罪を赦し、イエス様と共に歩み新しい人生を歩むことができるようにして下さったのです。笑いの人生へと導いて下さるのです。
 今日、洗礼を受ける加藤静恵さんは、高校2年生です。随分も前からイエス様を救い主と信じて洗礼を受けたいと願っておられましたが、いろいろな事情で受けることができませんでした。でもそれは、神様が与えられた導きであり、本人も自分の信仰を見つめると言う良き機会となったことを感じておられます。クリスマス礼拝の時、7人の方々と共に洗礼を受ける予定でしたが、静恵ちゃんのお父さんとの連絡の関係、お父さんはクリスマス礼拝の日に受けると聞いていなかったとうことでした。
 お父さんは、洗礼は人生が全く変わると言う大切な式、入学式のようなものだから、親が出席しなくてどうなる、という本当にごもっともなご意見でした。ですから、先週山田天地君と一緒にとも思いましたが、お父さんの出席できる日ということで、今日新年主日礼拝の日となりました。全て神様の導きです。静恵ちゃんの経験した苦しい思いや悲しい思いを神様は笑いに変えて下さいました。大笑いです。静恵ちゃんの信仰生活、人生は神様によって大笑いの人生を歩むことができると信じます。

 Ⅲ結論部
 私たちは、2010年のこの年、笑いの年としたいと思います。神様がサラをアブラハムを笑いに導いたように、私たちにも感謝と喜びのあふれた笑いを与えて下さるのです。笑う門、神様に対する笑いが私たち青葉台教会に関する神の家族の一人ひとりに、笑いが与えられるのです。アラフォーのお父さんたちは、楽しい歌で笑いを与えて下さいました。主なる家族として大笑いしました。笑いは健康の元です。笑いは幸せの源です。笑いは人生の副作用のない薬です。この薬を使わない手はありません。そして、この笑いは神様から来るのです。クリスチャンは、笑いを大切にします。笑いを見下しません。笑いこそ、スマイルこそ、クリスチャンの生き方です。イエス・キリスト様の十字架を通して罪赦され、天国の命を与えられて、喜びと感謝の思いでいっぱいです。神様は笑わせて下さるお方なのです。この1年も皆さんと一緒に大笑いしたいと思うのです。み言葉に信頼し、神様に信頼する者は、現実がどうあろうとも、マイナスに見えても、神様の真実なみ業は必ずなされるのです。だから、心配しないで、笑顔で不信仰を腹から笑い飛ばして行こうではありませんか。
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