江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2017年6月25日)

2017-06-29 11:42:58 | Weblog

杉田政志師のため原稿はありません。

青葉台教会のホームページから説教の録画をご覧いただくくか、音声でお聞きください。

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日曜「礼拝(2017年6月18日)

2017-06-18 12:34:33 | Weblog

合同礼拝(三位一体第一主日)    2017.6.18

こんなうまいもん食べたことがない」 ルカ15:11~24

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。6月第三日曜日を迎えました。今日は、第一礼拝は、中高科の皆さんと合同礼拝、第二礼拝は幼小科のお友だちとの合同の礼拝です。今日は父の日です。世のお父さんたちは、日頃から家族のために、一生懸命に働いています。家族のために、どんな苦しみも辱めを真っ向から受け止めて頑張っているのです。どうか、今日だけは、今日こそは、いたわりの言葉、慰めと励ましの言葉と目に見えるプレゼントをよろしくお願いいたします。勿論、言葉だけでも元気になりますが、目に見えるものがあると百倍の元気がでるように思うのです。

6月14日で、私は60歳になりました。還暦というやつです。赤いちゃんちゃんこなど着ませんが、人生の後半に突入しました。多くの方々からお祝いの言葉をいただき、また、見えるものもいただき、幸せ者であることを強く感じております。まだ、間に合いますので、まだの方はどうぞ!

 さて、今日は6月の第三日曜日、今日はルカによる福音書15章11節から24節を通して、「こんなうまいもん食べたことがない」という題でお話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、幸せの場所は案外近くにある

 今日の箇所には、父と子との関係が出ています。お父さんと息子の関係です。この父には、二人の息子がいました。そして、兄よりも弟は、ちょっとワルという感じだったでしょうか。後から出てくる兄は、父の言いつけをちゃんと守るマジメな人間として描かれていますが、父に対しては遠慮があり、父の傍にいながらも、心は遠くにいたというように思います。弟は、真面目に働くのが苦手な人間、楽をして暮らしたいという遊び人的な人間だったのでしょう。楽してお金を自分のものにすることを考えた挙句の果てに、父に財産の分け前をもらうことが、お金を手にする方法であることを思い着き、実行したのです。だめもとで父に頼んでみたら、何と父は財産を分けてくれたのです。兄にも財産を分けたのでした。無茶な子どもの要求に答えるダメ親父なのでしょうか。

 子どもに対して、厳しく育てる親とそうでない親がいるのかも知れません。それは、自分が育った環境に対して、そのことが影響していることでしょう。

私の父は、ほとんど家にはおりませんでした。海外航路の船員でしたから、ほとんどいない。母が一人で育ててくれたようなものです。母はやさしく、私は5人兄妹の末っ子でしたから、ヤコブがヨセフを愛したように、母は末っ子の私に対してとてもやさしい人間でした。私は末っ子ですから、兄や姉の行動パターン見ていたので、母に叱られるということはほとんどありませんでした。母親には手のかからない子どもだったと思います。どちらかと言うと真面目で、悪いことはしない子どもでした。この物語に出てくるお兄ちゃんタイプだったのかも知れません。

財産を兄と弟に分けてあげた父は、弟がどうするのかは予想できたのではないでしょうか。弟息子の性格をよく知っていた父は、弟が出て行ったことを知ります。弟息子は、父の元から離れていったのです。父の元にいることが息苦しくて、できるだけ父のいる所から遠い所に行ったのです。よく言えば、親からの自立、悪く言えば、家出であったのです。この父親は、弟息子のそのままを受け入れ、そのままの姿を愛していたのです。このような愛に満ちた父のもとにいることがどんなに幸せな事かを彼は知らずにいたのです。

 二、本当の幸せはどこにあるのか

 家を出て行った息子は、多くのお金を持ち、父の元にいた時にはできない自由と自分の思いのままに何でも買い、何でも自分の思い通りにしたのです。それは、楽しい時間でした。そして、多くのお金を持つ弟息子の周りには、お金を求めて、お金でしかつながらないような人間関係がありました。そして、そのような人間は、弟息子の機嫌を取り、彼をヨイショし、彼の言うことは何でも言うことを聞くのです。こんな楽しい経験は、父の元では一生無理だと感じていたでしょう。

 けれども、毎日のように贅沢に、湯水のようにお金を使っているとあっという間に底をついてしまうのです。いったい自分がいくら持っているのかさえ、わからずにいたのでしょう。計画性もなく、ただ楽しく、おかしく、贅沢に、美人と一緒においしいもの食べ、休みたい時に休み、自由奔放な生活、それは本当に幸せな人生なのでしょうか。彼の人生はお金が亡くなったとたんに変わりました。人々が彼の元から去り、誰も残らない。悪いことに、飢饉があり、食べる物さえない。異邦人の土地で、ユダヤ人には汚れたとされる豚の世話をしなければならないほどに、彼は落ちる所まで落ちたのです。楽をしてお金を持ち、楽しくおかしく生きるというのが、夢物語であることを実感したでしょう。自分の死を直感した時、自分の人生を振り返り、父との関係、父との暮らし、父の愛とやさしさを思い出すのです。そんな優しい父でも、こんなに落ちぶれた自分を息子としては認めてくれないだろう。息子ではなく、生きていくためには恥ずかしい事ではあるけれども雇人として、働いて、賃金をもらって生きていこうと彼は決心したのです。

 聖書には、「彼は我に返って言った。」とあります。何日も食べていなかったのでしょう。豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思ったぐらいで、食べる物はなかったのです。くれる人もいなかったのです。栄養失調でふらふらの状態、彼は我に返りお父さんのことを思い出したのです。自分のいるべき場所は、お父さんの所だと分かったのです。そして、息子の資格はもうないので、雇人として、雇ってもらうために、父の元に帰ることを決心したのです。

 彼は、家を出る時には、いろいろな期待を持って、大金を持って自信にあふれて出て行ったでしょう。けれども、今は、全ての物を失いました。お金も、健康も、息子としての資格も、すべて失い、不安と絶望と恐れに満たされて父の家に向かったのです。しかしそれは、歩くにしても、フラフラで数メートル、数十メートル歩くのにも時間がかかり、体力もないのですから、休み休みの、気が遠くなるような旅だったのです。ただ、心の中では、18節の言葉を繰り返し、繰り返し言っていたのではないでしょうか。

 三、遠回りして見つけた幸せの場所

 何日も何日もかけて、彼は父の元に帰って来たのでしょう。父は怒っているだろう。会ってもくれないかも知れない。無視されるかもしれない。叩かれて追い出されるかもしれない。いろいろな思いが考察したでしょう。けれども、帰ってみると意外な結末があったのです。テレビドラマの最終回の宣伝の言葉のように、劇的な結末、予想もしなかった結末、父の愛があふれる出来事が待っていたのです。

20節の後半には、「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」とあります。弟息子にしては、想定外の父親の行動でした。けれども、練習してきた言葉を彼は言います。21節を共に読みましょう。「息子は言った。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」」本当なら続いて、「雇人の一人にしてください。」という言葉があったのです。結論は、「雇人の一人にしてください。」という言葉なのです。しかし、父はその言葉を言わせなかったのです。その言葉を言おうとした息子の言葉をさえぎったのです。息子が自分に向かって、「もう息子と呼ばれる資格はありません。」と言い切ったのですが、父は息子に言ったのです。22節と23節を共に読みましょう。「しかし、父親は僕たちに言った。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。」 

裸同然の息子の姿に心痛めた父でした。一番良い服や靴を用意し、父と子との関係回復のために、指輪をはめさせたのです。そして、宴会を開くのです。牛ステーキ、霜降りのすき焼き、しゃぶしゃぶ、ローストビーフなど、おいしいものが出てきたでしょう。何日も食べ物を食べていない息子は、久しぶりのご馳走に、「こんなうまいもん食べたことがない」と叫んだのではないでしょうか。叫んだはずです。6月14日は、わたしの60回目の誕生日でしたが、牛ステーキを食べました。次の日は、霜降りの最高級の牛すき焼きを食べました。まさに、「こんなうまいもん食べたことがない」というような経験をしたばかりです。空腹であることが、ご馳走だということが言われることがあります。どのような食べ物も、空腹であるなら、おいしいご馳走になるからです。弟息子は、空腹であった上に、最高の霜降り牛を食べたのですから、それは、それはご、馳走であり、人生今までの最高の食事であったでしょう。「こんなうまいもん食べたことがない」という思いでいっぱいだったのではないでしょうか。

 Ⅲ結論部

 鹿児島ナザレン教会の久保木聡先生のお父さんの口癖は、「こんなうまいも食べたことがない」という言葉だそうです。何を食べても、「こんなうまいも食べたことがない」と言われたそうです。そのような話しを聞いていたので、ちょっと関西風にして、「こんなうまいもん食べたことがない」という説教題にしました。この弟息子が、宴会のご馳走を食べたら、「こんなうまいもん食べたことがない」と言っただろうと感じたのです。

 私たちは、聖書に記された神、私たちの罪のために身代わりに十字架にかかり、血を流し、命をささげるほどに私たちを愛されたイエス様の愛に触れました。この愛に触れた時、私たちは、今まで食べたことのないようなご馳走を味わった以上の喜び、「こんなうまいもん食べたことがない」と感じる以上に、あの放蕩息子は、父の元から離れて、自分の好きなように生きて、ズタズタになった者をそのまままで、そのままの姿で受け入れ、愛し、包んで下さる父の愛に触れて、父の元にいることが自分の本当に幸せであることを知った。同じように、私たちの帰るべき所は、神様の元なのです。尊い血を流し、命まで与えて、私たちの罪を赦し、魂を救い、死んでよみがえることによって、私たちに永遠の命を与えて下さった神様、イエス様の所が、私たちが本当に安心し、平安で、おるべき場所なのです。イエス様は、私たちの帰りを手を広げて待っておられるのです。いや、待っておられるのではなくて、天の位を捨て、神の姿を捨てて、人間の姿でおいでになり、私たちを救うために、私たちの持つ罪の身代わりに十字架にかかって命をささげて下さったのです。そのような愛で今も愛し続けていて下さるのです。

 私たちが今、どのような罪を犯し、罪の只中にあろうとも、神様に背を向け、自分勝手な生き方をしていても、あなたの帰りを待っておられるのです。そして、今までに経験したことのない素晴らしい体験を、恵みを、祝福を用意しておられるのです。息子の資格のない者を息子として愛し受け入れた父親のように、神様は、クリスチャンとして足を踏み外して、クリスチャンとして資格がないと思っている者に、回復を与えて下さるのです。そのまままのあなたがそのままでクリスチャンとして、神の子として、生きることができるのです。そのような愛で愛されていることを感謝して、信じてこの週も歩みましょう。

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日曜礼拝(2017年6月11日)

2017-06-12 20:16:21 | Weblog

後藤従明牧師(旭川ナザレン教会)のため原稿はありません。

青葉台教会のホームページをご覧になり、音声または映像でメッセージを御覧ください。

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日曜礼拝(2017年6月4日)

2017-06-04 12:48:20 | Weblog

ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝    2017.6.4

夢であいましょう」 使徒言行録2:1~17

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。今日は聖霊降臨日、ペンテコステ礼拝です。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができましたことを感謝致します。先週一週間、いかがでしたか。暑い日が続いておりましたが、お体はいかがでしたか。心は、信仰はいかがだったでしょうか。聖書のみ言葉に触れ、支えられ、神様との祈りを通して、支えられた1週間を過ごされたことだと思います。青葉台教会では、先週は岩淵兄がみ言葉を語って下さいました。落ち着いた語り口で、み言葉で慰められ、励まされたメッセージでした。

 私は、4月に突然に天に召さました山路牧師が牧会しておられた浦和教会でメッセージさせていただきました。浦和教会の皆さんを励ましに行ったのですが、反対に大きな慰めと励ましをいただきました。礼拝前の祈祷会でした。7名から8名、真剣に礼拝のために祈りました。私のメッセージのためにも祈って下さり、最後に立ち上がり、手をつないで、主の祈りをささげました。牧師のいない教会の皆さんが真剣に祈る姿に、励まされ、これで帰ってもいいぐらいに思えました。礼拝において、真剣にメッセージを聞いておられた皆さんの顔の表情が印象的でした。新しい方々もおいでになり、アメリカやイタリアから来ておられる方々もおられて、祈られ、準備されている礼拝だと感じました。いつもは14、5名のようですが、19名来られたと喜んでおられました。礼拝前の祈り会が終わり、あれ、なんか見覚えのある顔だなあと思ったら、谷戸澄江姉でした。朝、岩井姉から、「今日は浦和教会に江上先生が来られるから」と電話があり、急だったのですが、来ました、と言っておられました。浦和教会の何名かの方々と谷戸姉は知り合いのようでした。

 牧師のいない教会を支えるのは、信徒の方々は大変だと思います。どうか、浦和教会のために、信徒の方々のために、礼拝のためにお祈り下さい。

 さて、今日は全世界の全ての教会で、ペンテコステ礼拝、聖霊降臨日です。教会の三大祝祭は、クリスマス、イースター、ペンテコステです。クリスマスとイースターは有名です。ディズニーランドでもクリスマスやイースターの名で人を集めます。けれども、ペンテコステ。パレードなるものはありません。聖霊降臨日は、その性格上、なかなか世に知れるには難があります。けれども、ペンテコステ、聖霊降臨日は、とても大切な日です。

 私たちは、イエス様が弟子たちに約束された聖霊のそそぎ、聖霊によって力ずけられ、救われる人が起こされ、教会が誕生した記念すべき日です。今日は、使徒言行録2章1節から17節を通して、「夢であいましょう」という題でお話いたします。

 ペンテコステとは、50番目のいう意味があり、イエス様が復活して40日目に昇天され、召天から10日目、つまり復活されてから50日目に聖霊が与えられました。

 

 Ⅱ本論部

 一、イエス様の約束を信じて待つ

 イエス様は、全世界の人の罪の身代わりに十字架にかかり死んで下さいました。けれども、死んで葬られて三日目によみがえられたのです。イエス様の死は、イエス様の弟子たちにとっては、自分の人生をかけてイエス様に従ってきた3年が無駄に思われ、自分のこれかあらの人生に絶望しかないように思われたのです。けれども、イエス様が死を打ち破り、よみがえられたことにより、弟子たちの未来に大きな希望が与えられました。そして、よみがえられたイエス様は、40日間ご自分がよみがえられたことを多くの人々に証明されたのです。ですから、弟子たちは、イエス様に向かって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(使徒言行録1:6)と尋ねたのでした。ローマに支配されたイスラエルを建て直すのは、今が絶好のチャンスだと思ったのです。

 けれども、イエス様は、弟子たちに「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」(使徒言行録1:7)と言われました。イスラエルのために国を建て直すとか、その時期というものを考えなくてよい、知らなくてよいと言われたのです。イエス様は、そんな事よりも、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。・・・あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒言行録1:4~5)と言われたのです。ヨハネによる福音書を見ると、イエス様は、十字架につく前に、何度か、聖霊について、助け主について語っておられます。そして、イエス様は、弟子たちの見ている前で、天に上げられたのでした。

 弟子たちは、イエス様が十字架について死なれた時、彼らは悲しみに満たされ、絶望を経験しました。今回、イエス様のよみがえりが明らかにされて、イスラエルの復興をイエス様の権威と力でお願いしたいと思ったのですが、その肝心のイエス様は、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」と言われて天に上げられてしまったので、また、弟子たちはがっかりしたでしょう。自分たちの未来を見失うかのように思われたのです。

 けれども、イエス様は天に上げられる前に、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1:8)と励ましの言葉をかけられたのでした。

 弟子たちは、イエス様を天に送り、淋しさとどうしてよいかわからない状態の中にも、ただイエス様の約束の言葉を信じて、祈り待ち望むことしかできなかったのです。そして、120名の者たちが、イエス様の言葉をただ信じて、握りしめて祈り待ち望んだのです。

イエス様が天に上げられてから10日後、イエス様が復活されてから50日目に、イエス様の約束された通りに聖霊が与えられたのです。そして、力を受けたのです。その次第は、使徒言行録2章の前半に記されています。私たちも、イエス様を信じて、クリスチャンとして歩む中にも、弟子たちのようにイエス様を見失ってさまようことがあるかも知れません。けれども、すでに与えられているイエス様の約束の言葉を信じて、約束の言葉をただ握りしめて、祈り待ち望む者でありたいと思うのです。

 

 二、全ての人に与えられる聖霊

 イエス様の約束の言葉を信じて祈ると共に、イエス様の12弟子の中で死んだユダに代わる弟子を選び出しました。マティアという人が選ばれ、12弟子の一人とされたのです。

そして、聖霊が与えられました。120名ほどの人が集まっていましたが、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまったのです。一人一人は、聖霊に満たされ、ほかの国々の言葉を話しだしました。聖霊に満たされた最初の現象は、他の国の言葉で話しだしたのです。旧約聖書の創世記の11章には、バベルの塔の話しがあります。この時はひとつの原語しかなく、人々は全地に散らされないように、天まで届く塔を建てようと、神様に挑戦しましたが、神様は人々の言葉を混乱させて、お互いの言葉が聞き分けられないようにされたのです。そして、言葉の分かる者同士が、全地に散らされて行ったのです。

 現在、東京美術館でブリューゲルの「バベルの塔展」が行われております。7月2日までですので、興味にある方はご来場ください。ご家族やお友達の方々と行かれて、バベルの塔は聖書のお話しですよ、と証ができるのではないでしょうか。

 このバベルの塔での言葉の混乱が、聖霊に満たされた時、回復が与えられたのです。祭のために集まっているディアスポラと言われるヘブライ語以外の言葉を話す人々に、自分たちの理解できる言葉で語られたのです。

 ですから、その人々は、自分たちの話す言葉でユダヤ人の彼らが話すのを聞いて、あっけにとられ、驚き怪しんだのでした。彼らは神様の偉大な業、イエス様の十字架と復活、福音の言葉を聞いたのです。

 私たちの誰もが海外旅行に行きますと言語の壁があります。世界中の言葉がひとつだったら、どんなに楽かと感じたことはないでしょうか。今に、相手の話した英語やフランス語が日本語になって聞こえるという機械が出てくるのではないでしょうか。天国へ行けば、天国語で、何語を話そうと誰の言葉であろうと理解できるのではないでしょうか。私がアメリカ人に、日本語で話すと、相手には英語で聞こえると言うように、天国ではいろいろな人と苦労することなく話せるようですよ。天国では、外人の人を見て目をそらしたり、避けたり、逃げたりする必要はないのです。

 聖霊が降った時、言語の回復、つまり、自分の分かる言葉で福音の言葉が語られ、神の偉大な業、イエス様の十字架と復活のことが語られ、理解されたのです。

 人々は、自分の国の言葉で福音を聞いたので、驚き怪しみ、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける者がいたのです。そのように考えないと理解できない状況だったのでしょう。不思議なことが起こったのです。

 聖霊は、私たちに福音を理解させます。日本語でイエス様の十字架と復活が自分の罪のためだ、と言われても理解できない内容でしょう。ですから、イエスの十字架と復活が私の罪のためであったということを受け入れるのは、知識や説明ではないのです。聖霊が注がれる時、聖霊が働かれる時、そこには、信じる、受け入れるというみ業が起こるのです。

ここにいる全ての人に聖霊は注がれています。そのことを信じましょう。

 三、厳しい現実の中に共におられるイエス様

 聖霊が降り、聖霊に満たされた人々が他国の言葉で福音を語ることに対して、新しいぶどう酒によっているとあざける人々に対して、ペトロは立ち上がり語るのです。

朝の9時なので、朝から酒に酔っているにではない、ときっぱり、この現象が酒の力ではないと言います。朝の9時は、ユダヤ人にとっては祈りの時です。この朝の祈りの時までは食事をとらなかったようですから、酒を飲むということはないのです。だから、今目の前で現実に起こっているのは、酒に酔っているではなくて、預言者ヨエルの預言であることを語るのです。皆さんと共に使徒言行録の2章17節を読みましょう。

 「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。

 ヨエル書3章1節の言葉は、「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。」となっています。ヨエルは、メシヤ(救い主)来臨とイスラエルの信仰復興について預言しています。イスラエルの信仰の復興は聖霊降臨によって実現するというのです。終わりの時と使徒言行録は語りますが、ヨエルの時代、旧約時代の特定の人、神の人にだけが聖霊に満たされたというのと違って、新約の時代は、老若男女の区別なく、大人も子供も全ての人に聖霊が与えられるのです。

 聖霊に満たされた人々の言葉を聞いた人々は、酒に酔っていると勘違いしましたが、ペトロは酔っているのではないとそれを否定し、かえって聖霊に満たされて、目覚めているのだと預言の言葉の成就として語るのです。

 この預言の言葉には、聖霊が注がれると、「若者は幻を見る。」とあります。ここでの幻とは、将来に対する希望や未来、ビジョンです。将来がどのように不安であっても、若者たちが、イエス様と同じ人格を持つ聖霊の力を信じていくことで、神の業を体験できるということです。また、「老人は夢を見る」とは、年を重ねて、体も弱くなり、自分のしたいと願うことすらできない状況の中で、聖霊に満たされて、力を受けて、イエス様が共にいて支え、励まして下さる。何ができなくても、手を合わせて、心からの祈りを捧げ、祈りを通して神様のみ業を体験できるという夢を持つことができるのです。

 夢を見るというと、何か、悪い人に追いかけられるとか、高い所から落ちるというようなことではなく、今の現実がどのように辛くても、悲しくても、痛くても、イエス様が私たちのために、私たちを救うために十字架にかかり、尊い血を流し、命をささげて下さった。命と引き換えに、私たちの罪を赦し、魂を救い、イエス様が復活することによって、死んでしまう滅びるべき肉体ではなく、死んでも生きる永遠の命が与えられて、私たちはイエス様と共に天のみ国で過ごすことが許されたのです。

 もう自分の人生は、あと少しだとマイナス気分ではなくて、イエス様のみもとに行くという望み、夢が私たちにはあるのです。天国に行かなくても、今、イエス様は私たちと共におられるのです。聖霊というお方を通して、共におられるのです。どのような悲しい現実があろうとも、辛い現実の中にあろうとも、痛みと闘っていようとも、イエス様はあなたのそば近くにおられるのです。それが、イエス様の約束なのですから。

 

 Ⅲ結論部

 私たちの青葉台教会に、そして、一人ひとりに聖霊が与えられています。そして、聖霊は、私たちを神の言葉、聖書を通して教え、守り、導いて下さるのです。聖霊なる神様は、私たちが落ち込んでしまう時、慰めて下さるのです。私たちが道に迷った時、導いて下さるのです。私たちが病んでしまう時、癒して下さるのです。私たちが、不当に扱われ、訴えられる時、弁護して下さるのです。本当に、困ってしまった時、助けて下さるのです。

 私たちは、苦しい時、辛い時、悲しい時、せめて夢だけはいい夢を見よう、と思います。私たちは、夢でイエス様に会うというのではなく、イエス様は、あなたの厳しい現実の只中に、共におられるのです。あなたを支え、守っておられるのです。

 イエス様は、天に帰られましたが、聖霊なる神様は、イエス様と同じ人格、深い愛と恵みと赦し、励ましを日々、私たちに与えて下さるのです。この週も、いつも聖霊様が、イエス様が共におられることを意識しながら、聖霊様の導きに従って、信頼して歩んでまいりましょう。

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