江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

主日礼拝(2010年9月26日)

2010-09-26 22:02:59 | Weblog
              主日礼拝(三位一体後第十八主日)     2010.9.26
          
                  「愛が溢れるほどに」 マタイ5:43~48

 Ⅰ導入部
 おはようございます。9月の第四主日を迎えました。金曜日から急に涼しくというか、肌寒くなってまいりましたが、皆さんお元気でお過ごしでしょうか。先週は、日月と関東地区の聖会があり北市川バプテスト教会の藤原導夫師が2回のメッセージをして下さいました。静かな中にユニークさもあり、タンタンと神の言葉を語り、神の言葉を宣言して下さいました。火曜日は、韓国ナザレン大学の総長ご夫妻が日本に来られ、私は運転手と接待をさせていただきました。桜美林大学の学長、チャプレンとの会食とこれからの友好関係についての話し合いと構内見学、青葉台教会を訪問して下さり、これから韓国ナザレン大学の学生達が青葉台教会の宣教にどのように協力できるか問について話し合いました。良き関係が築かれ、宣教のために協力できますようにお祈りください。
 また、山陰聖会の奉仕のためにお祈り感謝致します。皆様のお祈りに支えられ、神様の導きによりまして、2回のメッセージを無事終えることができました。第一回目のメッセージでは、山陰の方々はどのような方々だろうかと人を見た為に、原稿をただ語っているというエンジンがかからないまま終わったような感じでした。2回目は、原稿にあまり囚われないで自由に語れたかなあと思いますが、自分は聖会講師の器でないなあ、とつくづく思わされた次第でした。
 私は、米子空港に降りたのですが、米子きたろう空港というアナウンスに驚きました。いつから米子空港から米子きたろう空港になったのか?やはり「ゲゲゲの女房」の影響でしょうか。お土産も鬼太郎のマンガの関係が多くありました。帰りは、ワンマンの鉄道で空港まで行きましたが、電車は表も中も鬼太郎やその仲間の妖怪、駅に着く度に、いろいろな妖怪の紹介がしてありました。今山陰は、鬼太郎一色でした。
 昨日は、玉川聖学院の創立60周年の記念礼拝、記念会、コンサートが持たれました。玉川聖学院を創立された谷口先生の信仰の姿勢が今もバトンタッチされて、神様には信仰、人には愛、物事には希望という、信仰、希望、愛のみ言葉への聴従がなされ、大きな神様への証となっていることを思わされ、60周年を迎える時にPTA会長としての働きに立たされていることの大切さも思わされました。本当に忙しい1週間でした。疲れた1週間でしたが多くの恵みをいただいた週でもありました。
 さて、今日はマタイによる福音書5章43節から48節を通して、「愛が溢れるほどに」という題でお話ししたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈敵を愛する
 43節を共に読みましょう。「「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。」 38節には、「「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。」とありますが、このことです。出エジプト記21章23節から25節には、「もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。」とあります。紀元前18世紀に書かれたハムラビ法典にも、これに似たことが書いてあると瀬尾先生は語っておられます。制限が加えられ自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。ことです。制限がないと、人間はなかなか片目には両目さらに・・・。歯一本には歯全部なんてことになりかねないので、このような律法を神様は与えられたのです。正義の律法と言っていいのではないでしょうか。
 レビ記19章17節、18節には、「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」とあります。聖書は、神様は、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」と語られているのです。しかし、旧約の律法の外に、ユダヤの律法学者たちは、細かい律法を自分たちの思いで作り、「隣人を愛し、敵を憎め」というような間違った掟を教えていたのです。
 良きサマリア人の話にあるように、「わたしの隣人とは誰のことですか」と律法の専門家はイエス様に質問したので、良きサマリア人の話をされたわけです。彼らにとっては、隣人とはユダヤ人だけにとどめていました。ですから、サマリア人を初め、外国人は隣人としては扱わなかったのです。
 ですから、「「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。」とイエス様は、言われたのです。律法の専門家たちがそのように教えていたことだからです。
 44節を共に読みましょう。「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」 律法の専門家たちは、律法を越えて、神様の言葉を超えて、「隣人を愛し、つまりユダヤ人だけを愛し、敵、つまり外国人を憎め」と教えていましたが、イエス様は、敵を憎めではなくて、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と神様の言葉、神様のおこころを語りました。愛する夫さえ、妻でさえ、親でさえ、子どもでさえ愛せないのに、敵を愛する。そんなことできるのですか?と疑問に思われる、疑いの目で見られる方々も多くおられることだと思います。でも、イエス様は、勿論、家族や友人を愛することを望んでおられますが、ここでは敵を愛することを示すのです。
 箴言25章21節、22節には、「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。」とあります。リビングバイブルには、「敵がお腹(なか)をすかせていたら食べさせ、のどが渇いていたら飲ませなさい。そうすれば、相手は恥ずかしい思いをし、あなたは神様からほうびをいただけます。」とあります。敵や嫌いな人が困ったら、傷つくと、「ざまあ見ろ」と心の中で思ってしまうような私たちではないでしょうか。しかし憎む者、いやな人がお腹をすかせたら食べさせる。困っていたら助けるというのが神様のお心だということがわかります。これが、神様の言葉なのです。そうすれば、主の祝福があるというのも神様の言葉なのです。これらの言葉が宣言されているということを忘れてはならないのです。

 ⒉全ての者を愛する神
 45節を共に読みましょう。「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」 天の父の子となるためには、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」というみ言葉の実践なのである。当時のユダヤ人は、自分たちは神に愛され、特別に選ばれた民であり、自分たちこそ神の子どもであると自認していた。しかし、イエス様は敵を愛する者、自分を迫害する者のために祈る者こそ、神の子であると示された。なぜならば、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」から。神様は、人間を敵とか味方とかの区別なく、神様が創造された全ての人に対して恵みを施されるお方なのです。神様から愛されている私たちも、敵や味方を超えて全ての人を愛するということが、父なる神様にふさわしい者、天の父の子となるためなのです。
 イスラエルの人々がエジプトにいた時、モーセがパロにイスラエルの人々を去らせて欲しいと願い出た時、パロはそれを許さなかったのですが、疫病の災いの時、エジプト人の家畜は全て死にましたが、イスラエルの家畜は一頭も死ななかったとあります。また、神は雹(ひょう)を降らせ、エジプト全土の野にいる全ての人や家畜を打ち砕かれたが、イスラエルの人々の住むゴシェンの地域には雹は降らなかったとも記しています。また、三日間エジプトは暗闇で何も見ることはできなかったが、イスラエルの人々の住む所にはどこにも光があった。このように、神の選ばれたイスラエルの人々とイスラエルを苦しめるエジプト人には、差があったが、イエス様はここで、神様は悪人にも、善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さるという神様であることを示しています。
 私たちは、悪い人々には罰を、良い人には祝福をと願います。しかし、この世を見ると聖書にもあるように、悪い者が栄え、良き者が苦しむ、祝福されないという矛盾を見ます。そこで、神様は本当におられるのだろうかと考えてしまうのです。神様には、悪い者を罰し、良い者を祝福するということはできます。しかし、聖書は全ての人々が罪人であると言います。全ての人々は神の前に罪ある者とされ、全ての人が滅ぼされるべき存在だと聖書は語ります。しかし、神様は私たちを愛し、私たちを救う為に、罪なきイエス様を人間の世界に送り、私たちの身代わりに十字架にかかって私たちに代わり罰を受け、死んで下さいました。そのことにより、私たちの全ての罪が赦されたのです。何の例外もなく、自分にも罪があることを認め、その罪のためにイエス様が身代わりに十字架にかかって死んで下さったことを信じる者は、罪が赦され救われるのです。皆平等に救われるのです。たとえ多くの人々を殺した殺人犯であろうと、殺人の罪は償わなければなりませんが、その魂は救われるのです。
どんなに悪に染まろうとも、その罪をイエス様の十字架の死は赦しを与えることができるのです。

 ⒊感情ではなく愛で生きる
 46節、47節を共に読みましょう。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。」
 自分を愛してくれる人を愛すること、自分によくしてくれる人によくすることは誰もがすることです。別に神様を信じない人でも、そのことはするでしょう。 リビングバイブルには、「自分を愛してくれる人だけを愛したからといって、取り立てて自慢できるでしょうか。ならず者でも、そのくらいのことはしています。気の合う友達とだけ親しくしたところで、ほかの人とどこが違うと言えるのでしょう。神様を信じない人でも、そのくらいのことはします。」とあります。
 神様を信じる人と神様を信じない人が、同じ歩みならばどうでしょう。神様を信じている人も自分を愛してくれる人しか愛さないし、神様を信じていない人も自分を愛してくれる人しか愛さないとなるならば、神様を信じるということ神様を知るということは一体どうゆうことなのでしょうか。イエス様の十字架の苦しみ、痛み、流された血潮は一体なんだったのでしょうか。イエス様が十字架にかかって死んだ甲斐(かい)がないということになるのでしょうか。勿論、私たちの罪がイエス様の十字架で赦されたというのは間違いのない真理です。それはとても大切なことです。魂が救われているか救われていないかは天と地の差があります。神様の大きな、大きな愛を知り、その愛をいただきながら、その愛で愛されている経験を持ちながらも、何も今までとは変わらない。イエス様を信じる前と信じた後でも、その行動は何も変化がないとしたら、それはイエス様の、神様の大きな痛みではないのでしょうか。
 私たちクリスチャンは、神様とつながっているのです。神様の大きな、大きな愛を体験しました。今もこの愛に包まれているのです。もう大丈夫なのです。まだ、神様を信じてない。神様のことをあまり知らないという方がおられても、安心して下さい。大丈夫です。神様はあなたを愛してられるのです。そして、あなたのために、あなたを救う為に十字架にかかって下さったのです。その事実を知って下さい。2000年前に、イエス様はあなたのために、確かに十字架で死んで下さったのです。
 このイエス様を信じてイエス様とつながった人々には、聖霊が与えられ、聖霊様がみ言葉を行うことができるように導かれるのです。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」というみ言葉を知っているでしょう。何度も読んできたでしょう。その都度、そんなことはできるはずがないと感じてきたのかも知れません。でも、もう大丈夫です。イエス様が、そのように「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と宣言して下さったのですから、私たちは、このみ言葉を実践できるのです。神様を知らない人が、信じない人ができないこと、不可能なことも、私たちには可能となるのです。「光あれ」と言われて光が現れ、ご自分の言葉で天地を創造された神様、その神様が私たちに、神の言葉を語っておられるのです。
 愛するとは意志が伴います。好きという感情は変化します。自己中心です。しかし、愛は意志を持って行動することが求められます。憎たらしいという思いは自分の正直な思いです。感情です。自分の感情に従って生き続けるならば、その人をいつまでも憎んでしまします。けれども、イエス様は、その憎しみさえも、十字架で処理して下さいました。好き嫌いの感情で生きる限り、私たちの状態は変わりません。しかし、愛で生きるならば、意志を持って、愛するという意志で、神様の愛を思い、神様の願いは何なのかを思い、その人を神様の目で見る時に、その人は憎しみの対象ではなく、愛の対象と変えられるのではないでしょうか。もうここで、自分の感情に振り回される生き方に終止符を打って、神様の愛に生きる者になりませんか。神の言葉があなたを通して実現する人生へと変えられたいと願わないでしょうか。

 Ⅲ結論部
 48節を共に読みましょう。「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」 神様は完全です。しかし、私たちは完全ではありません。けれども、イエス様は、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」と言われるのです。 テモテ第二の手紙3章16節、17節には、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。」
17節には、「完全にととのえられた者になるのである。」とあります。新共同訳聖書は、17節は「こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」とあり、「完全にととのえられた者になるのである。」を「十分に整えられるのです。」と訳しています。新改訳聖書は、「それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」とあり、「ふさわしい十分に整えられた者となるためです。」と訳しています。
 私たちは、聖書の言葉により、神様に近づく、目標をイエス様においてイエス様に近づくのです。神様は完全です。イエス様も完全です。イエス様の語られる言葉も完全です。そして、神様が建てられた教会も完全です。そして、神様が支配する礼拝も完全なのです。そう信じていく時に、み言葉が成就するのだと思うのです。私たちのうちにはみ言葉が流れています。私たちは、神様の言葉を聞く為に生まれてきたのです。そして、私たちの内には、イエス様を通して語られたみ言葉、聖霊様によって書かれたみ言葉が満ちています。つまり神様に愛で満ちているのです。私たちの内からは愛が溢れているのです。そう信じる者には、そのことが実現となるのです。この週も聖書に触れ、神の言葉が私を通して流れていく、そのみ業を体験させていただきたいと思います。
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主日礼拝(2010年9月19日)

2010-09-19 12:49:33 | Weblog
               主日礼拝(三位一体後第十七主日)     2010.9.19
          
                 「堪忍袋の緒を切るな」 民数記20:1~13

 Ⅰ導入部
 おはようございます。9月の第三主日を迎えました。朝夕はめっきりと涼しくなりましたが、やはり日中は30度前後で暑い日が続いております。朝夕と昼の温度差があり、体調を崩しておられる方々もおられると思います。昨年同様、またインフルエンザが少しずつ猛威をふるい、東京の学校では学級閉鎖が始まっていると聞いております。
 今日は、第三の主日ですから中高生の皆さんは第一礼拝に合流しております。先週の木曜日に、玉川聖学院でワトトのコンサートがありました。ワトトとは、アフリカのウガンダでエイズ孤児達を救済する団体の名前です。小学生から中高生までの数人の踊りと賛美、本当に素晴らしいものでした。イエス様の愛に溢れ、恵みで満たされました。彼らは心の底からイエス様を賛美し、イエス様の素晴らしさを証ししていました。その輝いている瞳には、魅力がありました。けれども、かつての彼らは、両親を失い、家族を失い、人生のどん底を経験した子どもたちでした。
 ワトトを通して、イエス様に出会い、彼らの人生は変わりました。本当に、闇から光への変化でした。彼らは、やがて自分たちが、ウガンダのアフリカのリーダーになるのだと自信を持って語っていました。イエス様は、どんな状況にある人々にも、救いの手を伸ばし、救い、建て直し、証し人として用いて下さるのです。悲しい経験、辛い経験、大変なところを通った彼らであるからこそ、神様を信頼し、ゆだね、賛美するその姿に、拍手はやみませんでした。イエス様は本当に素晴らしいお方だと感じたコンサートでした。
 さて今日は、民数記20章1節から13節を通して、「堪忍袋の緒を切るな」という題でお話ししたいと思います。「堪忍袋の緒が切れる」ということわざがあります。「腹の立つことがたくさんあって、長いことそれを我慢していたが、ついにその怒りをこらえきれずに、爆発させてしまうたとえ」という意味だそうです。 
 この解説には、「人から何かを言われたり、されたりして、そのことに腹が立ち、怒りますが、その怒りを入れておく袋として「堪忍袋」という袋があるらしいです。その袋の中には、どのくらいの怒りが入るのか分かりませんが、我慢をする為に、その袋の口をひもでしばって、こらえることをたとえたようです(こらえることの大切さ)。そして、いよいよ、あることがきっかけとなり、その袋の口をしばったひもが切れて、怒りが爆発することを言ったもののようです。堪忍袋の中に怒りが収まっている間は、相手を許すことができますが、それができなくなり、爆発することのようです。」とありました。
 今日は、モーセという人物に焦点をあてて、堪忍袋を見てみたいと思うのです。

 Ⅱ本論部
 ⒈謙遜は栄誉に先立つ
 モーセは、40年間イスラエルの民を導きました。環境が変わるということは大変なことです。奴隷状態から開放されたイスラエルの人々は、喜んだかと言うと、奴隷からの開放は喜びましたが、荒野の途中では、水がない、肉がない、野菜がないと、散々モーセに文句を言い続けました。本当に、モーセは寛容な人物でした。聖書は、一言でモーセその人を表現しています。
 民数記12章3節には、「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。」とあります。リビングバイブルには、「モーセはだれよりも謙遜な人でした。」とあります。聖書は、モーセがだれよりも謙遜だと宣言しているのです。
 民数記12章には、モーセの兄アロンと姉のミリアムが、モーセがクシュの女性を妻にしていることで、モーセを非難したことが記されています。そして、「主はモーセを通してのみ語られるというのか。我々を通しても語られるのではないか。」(12:2)と言いました。そして、この言葉を主は聞かれ、モーセとアロン、ミリアムの三人に臨在の幕屋の前に出るようにと言われ、三人はそこに出ました。そして、アロンとミリアムに言われました。「聞け、わたしの言葉を。あなたたちの間に預言者がいれば/主なるわたしは幻によって自らを示し/夢によって彼に語る。わたしの僕モーセはそうではない。彼はわたしの家の者すべてに信頼されている。口から口へ、わたしは彼と語り合う/あらわに、謎によらずに。主の姿を彼は仰ぎ見る。あなたたちは何故、畏れもせず/わたしの僕モーセを非難するのか。」(民数記12:6-8) そして、ミリアムは重い皮膚病になったのです。そして、アロンとミリアムは主の前に悔い改めて癒(いや)され、赦(すく)われたのです。
 モーセとアロンは、二人三脚で主のご奉仕をしてきました。モーセが主の召命を受けたとき、エジプトへ行けと言われ、「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」(出エジプト4:10)。とモーセが語ると、あなたにはアロンという兄がいて、彼は雄弁であることを知っていると神が言われ、モーセは神と直接語り神の言葉を受け、モーセがその言葉をアロンに語り、アロンがイスラエルの人々にモーセから聞いた神の言葉を語るという二人の共同の働きでした。そして、姉のミリアムも加え、兄弟三人で主のために働いていたのです。しかし、アロンとミリアムは、モーセを非難しました。弟ばかりが神様に用いられることをねたんだのでしょうか。3人は共に神様に用いられていたのですが、直接語るモーセが一番偉くて、自分たちは下役、援助者、ヘルパーというように感じていたのでしょうか。
 ミリアムは、モーセがパピルスで作られたかごに入れられた時、そのあとをつけて、ミリアムの機転のきく言葉、導きでパロの王女の子として育つことができたのです。自分の働きがなければ、モーセはとっくに死んでいたはずだ。それなのに、神様はモーセばかり・・・ということでしょうか。
 アロンはアロンで、いくらモーセが神の言葉を聞いても、それを上手にイスラエルの人々に語る自分がいなければ、イスラエルの人々を荒野で導くことはできない。自分の方が上だ、というような思いがあったのでしょうか。アロンとミリアムは、モーセを非難しましたが、神様は、「あなたたちは何故、畏れもせず/わたしの僕モーセを非難するのか。」とモーセを弁護して下さいました。モーセは、このように共に手を携え、心を合わせて働いていたアロンとミリアムから非難された時、何も言わず、寛容な心で、全てのことを知っておられる、主に全てをゆだねたのです。自分で何とかするのではなくて、主にお任せしたのです。モーセは本当に謙遜な人だったのです。

 ⒉モーセでも怒る
 それなのに、今日の記事では、モーセはイスラエルの人々に対してどうして、「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか。」と怒ったのでしょうか。 岩に命じて水を出すようにと言われたのに、岩を打って水を出したのでしょうか。
 かつて同じようなことがありました。40年前エジプトを脱出して、紅海を渡りパロ王の追っ手から守られたイスラエルの人々は、シンの荒野でマナを与えられました。そして、シンの荒野からレフィディムに宿営した時、飲む水がありませんでした。ですから、イスラエルの人々は、「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」(出エジプト17:3)とつぶやいた時、神様に祈ったモーセに、「あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」と言われました。そして、モーセは岩を打って水を出し、イスラエルの人々ののどを潤したのでした。モーセは、40年前のその出来事を思い出して、かつて岩を打って水を出した経験から今回も岩を打ったのかも知れません。
 私たちは、過去の経験からやはり同じような困難を経験すると、そこから脱出できた方法や導きを同じようなことをするのだと思うのです。それが当然なことかも知れません。
しかし、神様は今回、モーセのした事に対して、「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。」と言われたのです。リビングバイブルには、「おまえたちはわたしを信じなかった。岩に命じろと言ったのに、杖でたたくとは何事だ。わたしに恥をかかせたのだから、二人とも約束の国には入れないと思え。」とあります。
 神様は、岩に命じれば水を出すと言われたのに、モーセは岩を打ちました。ですから、神様の言葉に、神様の示されたことに、指示に従わないという不忠実なモーセの姿がここにあります。モーセは、この荒野の40年間、忠実に神様の言葉に従ってきたでしょう。イスラエルの民が、モーセとアロンに逆らい、彼らを批判し、水だ。パンだ。肉だ。野菜だ。果物だと言われるたびに、神様に聞いて、その言葉に従ってイスラエルの人々を導いてきたのでした。乳と蜜の流れるカナンの地は目の前にあるというこの時に、たった一度、岩を打つことにより、モーセとアロンはその約束に地には入れないというのです。
 これまでの、長い間忠実に歩んできたその歩みに免じて見逃して下さい。このたった一度の失敗だけで約束の地に入れないというのはあまりにもかわいそうです。どうか主のために、苦労して働いてきたのですから、今までの信仰姿勢や今までの忠実な歩みに対してお許し下さいとモーセとアロンに代わってお願いしたいような気がします。
けれども、モーセとアロンは約束の地には入れなかったのです。それは、本当に厳しいものがあります。聖なる神様、義なる神様が現されています。でもよく考えると、ただ神様の言うとおりに岩に命じていたらいいだけでした。なぜ、モーセは岩に命じなかったのでしょうか。イスラエルの人々の度重なる批判、つぶやき、高慢の態度にがまんならなかったのでしょう。堪忍袋の緒が切れたのです。

 ⒊み言葉が常に最優先
 聖書が語るように、モーセは「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。」という寛容な人でありました。しかし、神様のご命令に忠実に従うことができずに、イスラエルの人々の言葉と態度に腹を立て、怒りのあまりに岩を二度も打ちました。腹いせに物に当たるということがあるように思いますが、あのモーセがそうであったのだと思うのです。
 20章の2節の後半にあるように、「さて、そこには共同体に飲ませる水がなかったので、彼らは徒党を組んで、モーセとアロンに逆らった。」とまります。イスラエルの人々は徒党を組んでモーセに逆らったのです。一人や二人ではない。多くの人がモーセに敵対したと言っていいのではないでしょうか。リビングバイブルでは、2節後半から3節前半で、「モーセとアロンをつるし上げようと、人々がぞくぞく詰めかけ、抗議の集会を開きました。」とあります。彼らは言います。「同胞が主の御前で死んだとき、我々も一緒に死に絶えていたらよかったのだ。なぜ、こんな荒れ野に主の会衆を引き入れたのです。我々と家畜をここで死なせるためですか。なぜ、我々をエジプトから導き上らせて、こんなひどい所に引き入れたのです。ここには種を蒔く土地も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも、飲み水さえもないではありませんか。」 この内容の言葉は、イスラエルの人々が何度も何度も語った言葉だと思います。モーセやアロンにとったら、耳にたこができるほど聞いた内容だったでしょう。またかということです。何度も何度もつぶやくイスラエルの人々に、神様は彼らの望みどおりに答えて下さり、守り導いて下さったのに、イスラエルの人々は神様の愛と恵みがわからないのです。
 モーセはだれよりも謙遜でありましたが、何度も何度も同じように、つぶやき、自分たちを責め続けるイスラエルの人々に対する裁きの心、いやな思い、もう会いたくない。もう聞きたくないというように、イスラエルの人々をよく思えない心が少しずつ彼のうちに積み重なっていったのではないでしょうか。そして、今回のことが堪忍袋の緒を切るきっかけになったのだと思うのです。解決されないで、このような思いが少しずつモーセの心の中に入り、彼を怒りに満ちた者に変えてしまったのです。
 このような思いが解決されないで残っていると神様の言葉よりも自分の思い、感情に支配されて、自分の思いで行動してしまうのではないでしょうか。
 このような考え方もあるでしょう。結果オーライ。とにかく、イスラエルの人々が水がないと徒党を組んで逆らったけれども、モーセは神様の言葉に忠実に従って、岩に命じて水を出したわけではないけれども、腹を立てて、イスラエルの人々に「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか。」と怒りをあらわにし、岩を二度打ったけれども、結果的には水が出て、共同体も家畜も飲んだのだから、いいんじゃないのという考え方です。結果が良かったのだからいいんじゃない、ということです。果たして、結果がよければいいんでしょうか。神様は結果よりも、その行程を大切にされるお方なのです。神様の言葉に忠実に従ったのかどうかなのです。
 イエス様の生涯は、父なる神様に忠実に従われた生涯でした。イエス様は、ヨハネによる福音書6章38節で、「わたしが天から降ってきたのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。」と言われました。そして、十字架の死に至るまで忠実に歩まれたのです。私たちの罪を赦す為に、私たちに代わって罪のないお方イエス様が十字架で神様にさばかれ死んで下さいました。その結果、私たちの罪が赦されたのです。モーセのたった一度の不忠実が、約束の地に入れなかったように、たった一度の罪、小さな罪、だれもが行っているといわれる罪であっても、それは神様の前では罪であり、その罪がイエス様を十字架につけたのです。そのことを忘れることなく、感謝してイエス様を通して与えられる救いを受け入れようではありませんか。

 Ⅲ結論部
 私たちの人生に経験は大切です。その経験を通して神様の恵みをいただくことができます。しかし、あまり経験にばかり頼ると、あのモーセのように以前がそうであったのでと神様の言葉より経験や体験を優先してしまい、神様のみ言葉に従うことを妨げることがあることを示しているように思うのです。私たちは、たとえ信仰に基づいた経験であっても、その経験に立つのではなく、やはり神様の語りかけに、聖書の言葉に聞くことがとても大切なことであることがわかるのです。
 また、あの謙遜の人モーセであっても、心の中にちょっとの怒り、ちょっといやなことがあると、そのままにしておくのではなく、早いうちに、軽いうちに、聖書の言葉を通して神様に心を探っていただき、その問題の火種を、怒りの火種を解決していただくことが大切なのだと思うのです。
 「堪忍袋の中に怒りが収まっている間は、相手を許すことができますが、それができなくなり、爆発することのようです。」と「堪忍袋の緒が切れる」の解説にあるように、怒りがたまって爆発するのを待つのではなく、一回一回その怒りを神様のよって解決していくように、私たちの犯す罪も、犯す度に、失敗する度に、イエス様のところに持っていくのです。エフェソの信徒への手紙4章26節には、「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」という言葉があります。このみ言葉に従うことが、堪忍袋の緒を切らない秘訣だと思うのです。この週も、聖書の言葉に触れて、その言葉に注意深く耳を傾けたいと思うのです。
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主日礼拝(2010年9月12日)

2010-09-12 18:39:13 | Weblog
               主日礼拝(三位一体後第十六主日)     2010.9.12
          
                「こわれやすい器」 コリント第二4:7~18

 Ⅰ導入部
 おはようございます。9月の第二主日を迎えました。台風の通過のより涼しさが与えられましたが、また暑い気温に戻りました。けれども、朝夕は随分と涼しくなり秋の気配を感じるようになったと思います。
 先週の礼拝は下桑谷先生がブラジルでの伝道の働きについてお話し下さいました。続けて先生のブラジルでのお働きのためにお祈りをお願いいたします。
 今日は、午後から高齢者祝会があります。75歳以上の方々のお祝いの時を持ちます。年を重ねるということが、何かマイナスのイメージがあるように思いますが、聖書の考えは違います。モーセは、80歳からイスラエルを出エジプトさせ、荒野で彼らを導きました。カレブは80歳になっても取るべき地は尚多いと言いました。箴言の16章31節には、「白髪は輝く冠、神に従う道に見出される。」とあります。20章29節には、「力は若者の栄光。白髪は老人の尊厳。」とあります。レビ記 19章:32節には、「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。」とあります。このように聖書は、年を重ねた人々を高く評価していると思います。
 今日は、高齢者、年を重ねるということを覚えながら、コリント信徒への手紙第二4章1節から12節を通して、「こわれやすい器」と題してお話ししたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈中身が大切
 江戸時代の禅僧である仙崖(せんがい)和尚は、年を重ねた人々の特徴を語っています。「しわがよる、ほくろができる。腰が曲がる。頭がはげる。手は白くなる。手はふるえる。足はよろつく。歯は抜ける。耳は聞こえず。眼はうとくなる。身に合うは、頭巾(ずきん)、襟巻(えりまき)、杖、めがね、湯たんぽ、温石(おんじゃく)、しびん、孫の手。 聞きかがる。死にともながる。さびしがる。心はまがる。欲ふかくなる。くどくなる。気短になる。愚痴になる。出しゃばりたがる。世話やきたがる。またしても、同じ話しに孫ほめる。達者自慢に、人をあなどる。」 仙崖和尚の言葉を見ると、年をとるということが何かいやになるように思います。
 しかし、次の言葉を聞くと年を取ることの意味を知り、感謝できるのではないでしょうか。日本の教育と宣教のために自分の一生を捧げて87歳で天に召されたヘルマン・ホイベェルス神父は、「最上のわざ」という詩を書いています。ご存知の方々も多いと思います。
「この世で最上のわざは何? 楽しい心で年をとり、 働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。 若者が元気一杯で神の道を歩むのを見ても、ねたまず、人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で柔和であること。
老いの重荷は神の賜物、古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために。おのれをこの世につなぐ鎖を少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。神は最後に一番よい仕事を残してくださる。それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌(がっしょう)できる。愛する全ての人のうえに、神の恵みを求めるために。 全てをなし終えたら、臨終の床に神の声を聞くだろう。「来(こ)よ。わが友よ、我汝を見捨てじ。」
 仙崖和尚は、年を重ねる人の肉体的な現象、性格等を示しましたが、ホイブェルス神父は、老いることの素晴らしさや恵みを語っているように思うのです。神様はそのように見てくださるのではないでしょうか。
 この世のあらゆる物事に目を留め、心を留めてきたのかも知れません。だからこそ、年を重ねて、以前のようには働けない。何も出来ないという状況の中で、この世のものから目を神様に移して、神様に向け、イエス様を十字架につけるほどに私たちを愛してくださる神様との交わりを大切にしたいと思うのです。現世的、この世的な価値よりも、永遠につながる価値を大切にしていきたいと思うのです。
 7節を共に読みましょう。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」リビングバイブルには、「しかし、このすばらしい宝(いま私たちのうちに輝いている光と力)は、こわれやすい器(私たちの弱い肉体)の中に入っています。うちにある、その栄光に満ちた力が、確かに神様から与えられたものであって、私たち自身から出たものでないことは、だれの目にも明らかです。」とあります。リビングバイブルでは、土の器をこわれやすい器と訳しています。こわれやすい、疲れやすい、弱い私たちの内には、素晴らしい器、宝があるというのです。器は問題ではないのです。高価でなくても、有名でなくても、器はこわれやすいものでも、内におられるイエス様が本当に素晴らしいのです。私たちは、そのことを確認したいと思うのです。

 ⒉大丈夫です
 8節、9節を共に読みましょう。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」このことは、パウロ自身の経験から来ているのだと思います。コリントの信徒への手紙第二の11章23節から28節で、パウロは自分の経験したことを語っています。「キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。 しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。」 
 パウロは、イエス様を伝えるために多くの苦しみを経験しました。何度も死を覚悟しました。もうだめだ、ということが何度もあったでしょう。しかし、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」とパウロは力強く、また自分の経験の中から神様の導きと助けを知っているので、そう語ることができたのです。
 コリントの信徒への手紙第一の10章13節には、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」とあります。試練と共にとありますから、試練があれば逃れる道もすでに用意されているという神様の約束があるのです。
 私たちの人生には、痛みや戦いがあります。イエス様の十字架を信じて救いをいただいても、困難や闘いがなくなってしまうことを約束するものではありません。クリスチャンにも多くの試練や戦いがありますが、神様は耐える力、逃れる道を用意していて下さるのです。パウロは多くの試練を経験して、耐えられる力が与えられていること、逃れる道が備えられていることを経験したのでしょう。
 「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」と信仰告白しているのです。
私たちも、長く人生を送ればそれだけ試練や戦いの回数も多いことでしょう。高齢者祝会でお祝いを受ける方々も、その人生の中で戦争の痛みや苦しみを経験され、食糧難や考えられないような苦しみ、または、家族の問題やご自身の生き方においても痛みを経験されてきたのだろうと思います。そのような中で、どこかでイエス様に出会い、イエス様の十字架の死が自分の罪のためであることを認めて、イエス様を信じて救いを経験されたのです。そして、神様を知らなかったその人生の中にも、神様のイエス様の導きや守りがあったことを感じられたのではないでしょうか。
 また、大きな苦しみや痛みとは言わないまでも、生活上のいろいろな問題や課題があるのだと思います。小さな問題でも事柄でも、心の中で小さな問題や試練、苦しみが大きくもなるのです。しかし、神様の約束は確かな事なのです。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」のです。

 ⒊老いは恵みです
 10節から15節には、イエス様の復活の命、復活の力が私たちのうちにあることを約束しています。どんな困難や苦しみを経験しようとも、人間の最大の苦しみである死を前にしても、イエス様の復活の命が私たちのうちにはあるのです。死んでも生きると言われたよみがえりの命が信じる者のうちに約束されているのです。
 16節を共に読みましょう。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」リビングバイブルには、「ですから、私たちは決して落胆しません。肉体はしだいに衰えますが、うちにある力は日ごとに強くなっていきます。」とあります。仙崖和尚が言っているように、年を重ねれば、「しわがよる、ほくろができる。腰が曲がる。頭がはげる。手は白くなる。手はふるえる。足はよろつく。歯は抜ける。耳は聞こえず。眼はうとくなる。」のです。外なる人、つまり肉体は衰えるのです。しかし、うちにあるイエス・キリスト様の力は日ごとに強くなるのです。それが聖書の約束なのです。
 私たちの住む人間の世界には落胆があります。失敗したり、思うようにならないことを経験したり、何かを失うことで落胆することがあります。もしかしたら、年を重ねることで落胆することもあるかしれません。パウロも私たちと同じ落胆を経験する世界に住んでいましたが、また同時に落胆を経験しない世界も知っていたのです。
 私たちは、外なる人、肉体を持つ限りいろいろな限界を感じます。体力の限界、能力の限界、愛の限界、いろいろとあるでしょう。年を重ね、責任がなくなり、できることもできなくなるとさらに限界を感じるかも知れません。けれども、「わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」と聖書は語るのです。肉体が衰えるからこそ、肉体に自信がなくなるからこそと言っていいのでしょう。反対に、内なる人は日々新たにされるのです。それが、肉体を持つ私たちに対する神様の約束なのです。外なる人、つまり見えるものは、遅かれ早かれ過ぎ去っていくものです。見えるもの、それは苦しみや困難とも言えるでしょう。死も見えるものと言えます。それらのものは、一時的なものなのです。しかし、内なる人、復活の命、内におられる聖霊なるお方は、見えないものですが永遠に続くものなのです。
 17節、18節を共に読みましょう、「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」 リビングバイブルには、「今の私たちの苦しみや悩みは、結局のところ、取るに足りないものであり、それほど長続きもしません。しかも、このつかの間の苦しみは、永遠に尽きない、あふれるばかりの、神様の祝福をもたらすのです。ですから私たちは、いま見えるもの、すなわち、身の回りの苦しみには目をとめません。むしろ、今は見えない天にある喜びを望み見ているのです。苦しみは、やがて消え去ります。しかし、その喜びは、永遠に続くのです。」とあります。
 私たちは、見えるものに捕らわれすぎて、本当に大切な見えないもの、信仰、永遠の命、イエス・キリスト様に目を注いで、イエス様から来る平安、イエス様の身代わりの十字架を通しての救いと永遠の命の恵みをいただいた者として、内なる人が日々新たにされるとの約束を信じて歩ませていただきたいと思うのです。

 Ⅲ結論部
 年を重ねると、老い先が短いと悲観することがあるかも知れません。しかし、老い先が短いということは、今日という日を、一日を大切にすることができるということだと思います。明日は当然来るというのが当たり前という若い時代よりも、年を重ねて、老い先が短くなって、一日一日をていねいに、大切に生きるようになるとすれば、老いということも、年を重ねるということも、恵みの一つだと思うのです。
 渡辺和子さんは、次のように語ります。「私自身、老いるということ、また、その自覚を持つことは、自分に磨きをかけるラストチャンスだと思う。持ち時間も、体力も、気力さえも確実に減ってゆくのだとすれば、若い時のように、多くのことに興味を示したり、行動したりする余裕はなくなり、本当に大切なこと、必要なことを選んでするようになる。かくて、老いるということは、個性的になるチャンスなのだ。人間関係においても、老いるに従って、量から質へと徐々に変わっていく。」
 渡辺和子さんは、「冬がきたら」という詩を紹介しています。「冬がきたら 冬のことだけ思おう。冬を遠ざけようとしたりしないで むしろすすんで 冬の魂に触れ 冬の命にふれよう 冬がきたら 冬だけが持つ 深さときびしさと 静けさを知ろう 冬はわたしの壺(つぼ)である 孤独なわたしに与えられた 魂の壺である」 冬を人生の冬、高齢期に置き換えてみると深い味わいがあると言っておられます。 「老いがきたら 老いのことだけ思おう。 老いを遠ざけようとしたりしないで むしろすすんで 老いの魂に触れ 老いの命にふれよう 老いがきたら 老いだけが持つ 深さときびしさと 静けさを知ろう 老いはわたしの壺(つぼ)である 孤独なわたしに与えられた 魂の壺である」 年を重ねた人だけが味わえるものを味わせてくれるというのです。老いは、それまでに、その人が味わった全ての経験を融和し、意味づける魂の壺となるのです。
 人間は、その青年時代は肉体で世界を捉え、壮年の時は心と知で世界を捉えるが、老年になると、魂で世界をつかまえようとする、と言った人がおられるようです。老いるということは、「老いの重荷は神の賜物、古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために。おのれをこの世につなぐ鎖を少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。」とホイベェルス神父が「まことのふるさとへ行くために」と人間には必要なことなのです。また、「神は最後に一番よい仕事を残してくださる。それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌(がっしょう)できる。愛する全ての人のうえに、神の恵みを求めるために。 全てをなし終えたら、臨終の床に神の声を聞くだろう。「来(こ)よ。わが友よ、我汝を見捨てじ。」とあるように、最後まで手放してはいけないもの、それは祈りなのです。祈りこそ、年を重ねた者、老い先が短いと感じる人々が、最上のわざとして、自分のためにも、人のためにも、祈ると言うことが、老いたればこそできることなのです。ですから、老いこそ、年を重ねると言うことこそが、恵みの時となるのです。
 私たちは、土の器です。こわれやすい器です。弱い者、疲れやすい者です。しかし、その土の器の中に、こわれやすい器の中に、素晴らしいお方、最高のお方イエス・キリスト様がおられ、私たちを導き、祝福してくださることを忘れてはならないのです。このイエス様こそ、並外れた偉大な力なるお方なのです。弱い、こわれやすい自分に目を向けるのではなく、内におられるイエス様に目を留めてこの週も歩んでまいりましょう。
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主日礼拝(2010年9月5日) 下桑谷師のためありません

2010-09-06 19:40:54 | Weblog
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