主日礼拝(三位一体後第十八主日) 2010.9.26
「愛が溢れるほどに」 マタイ5:43~48
Ⅰ導入部
おはようございます。9月の第四主日を迎えました。金曜日から急に涼しくというか、肌寒くなってまいりましたが、皆さんお元気でお過ごしでしょうか。先週は、日月と関東地区の聖会があり北市川バプテスト教会の藤原導夫師が2回のメッセージをして下さいました。静かな中にユニークさもあり、タンタンと神の言葉を語り、神の言葉を宣言して下さいました。火曜日は、韓国ナザレン大学の総長ご夫妻が日本に来られ、私は運転手と接待をさせていただきました。桜美林大学の学長、チャプレンとの会食とこれからの友好関係についての話し合いと構内見学、青葉台教会を訪問して下さり、これから韓国ナザレン大学の学生達が青葉台教会の宣教にどのように協力できるか問について話し合いました。良き関係が築かれ、宣教のために協力できますようにお祈りください。
また、山陰聖会の奉仕のためにお祈り感謝致します。皆様のお祈りに支えられ、神様の導きによりまして、2回のメッセージを無事終えることができました。第一回目のメッセージでは、山陰の方々はどのような方々だろうかと人を見た為に、原稿をただ語っているというエンジンがかからないまま終わったような感じでした。2回目は、原稿にあまり囚われないで自由に語れたかなあと思いますが、自分は聖会講師の器でないなあ、とつくづく思わされた次第でした。
私は、米子空港に降りたのですが、米子きたろう空港というアナウンスに驚きました。いつから米子空港から米子きたろう空港になったのか?やはり「ゲゲゲの女房」の影響でしょうか。お土産も鬼太郎のマンガの関係が多くありました。帰りは、ワンマンの鉄道で空港まで行きましたが、電車は表も中も鬼太郎やその仲間の妖怪、駅に着く度に、いろいろな妖怪の紹介がしてありました。今山陰は、鬼太郎一色でした。
昨日は、玉川聖学院の創立60周年の記念礼拝、記念会、コンサートが持たれました。玉川聖学院を創立された谷口先生の信仰の姿勢が今もバトンタッチされて、神様には信仰、人には愛、物事には希望という、信仰、希望、愛のみ言葉への聴従がなされ、大きな神様への証となっていることを思わされ、60周年を迎える時にPTA会長としての働きに立たされていることの大切さも思わされました。本当に忙しい1週間でした。疲れた1週間でしたが多くの恵みをいただいた週でもありました。
さて、今日はマタイによる福音書5章43節から48節を通して、「愛が溢れるほどに」という題でお話ししたいと思います。
Ⅱ本論部
⒈敵を愛する
43節を共に読みましょう。「「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。」 38節には、「「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。」とありますが、このことです。出エジプト記21章23節から25節には、「もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。」とあります。紀元前18世紀に書かれたハムラビ法典にも、これに似たことが書いてあると瀬尾先生は語っておられます。制限が加えられ自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。ことです。制限がないと、人間はなかなか片目には両目さらに・・・。歯一本には歯全部なんてことになりかねないので、このような律法を神様は与えられたのです。正義の律法と言っていいのではないでしょうか。
レビ記19章17節、18節には、「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」とあります。聖書は、神様は、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」と語られているのです。しかし、旧約の律法の外に、ユダヤの律法学者たちは、細かい律法を自分たちの思いで作り、「隣人を愛し、敵を憎め」というような間違った掟を教えていたのです。
良きサマリア人の話にあるように、「わたしの隣人とは誰のことですか」と律法の専門家はイエス様に質問したので、良きサマリア人の話をされたわけです。彼らにとっては、隣人とはユダヤ人だけにとどめていました。ですから、サマリア人を初め、外国人は隣人としては扱わなかったのです。
ですから、「「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。」とイエス様は、言われたのです。律法の専門家たちがそのように教えていたことだからです。
44節を共に読みましょう。「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」 律法の専門家たちは、律法を越えて、神様の言葉を超えて、「隣人を愛し、つまりユダヤ人だけを愛し、敵、つまり外国人を憎め」と教えていましたが、イエス様は、敵を憎めではなくて、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と神様の言葉、神様のおこころを語りました。愛する夫さえ、妻でさえ、親でさえ、子どもでさえ愛せないのに、敵を愛する。そんなことできるのですか?と疑問に思われる、疑いの目で見られる方々も多くおられることだと思います。でも、イエス様は、勿論、家族や友人を愛することを望んでおられますが、ここでは敵を愛することを示すのです。
箴言25章21節、22節には、「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。」とあります。リビングバイブルには、「敵がお腹(なか)をすかせていたら食べさせ、のどが渇いていたら飲ませなさい。そうすれば、相手は恥ずかしい思いをし、あなたは神様からほうびをいただけます。」とあります。敵や嫌いな人が困ったら、傷つくと、「ざまあ見ろ」と心の中で思ってしまうような私たちではないでしょうか。しかし憎む者、いやな人がお腹をすかせたら食べさせる。困っていたら助けるというのが神様のお心だということがわかります。これが、神様の言葉なのです。そうすれば、主の祝福があるというのも神様の言葉なのです。これらの言葉が宣言されているということを忘れてはならないのです。
⒉全ての者を愛する神
45節を共に読みましょう。「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」 天の父の子となるためには、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」というみ言葉の実践なのである。当時のユダヤ人は、自分たちは神に愛され、特別に選ばれた民であり、自分たちこそ神の子どもであると自認していた。しかし、イエス様は敵を愛する者、自分を迫害する者のために祈る者こそ、神の子であると示された。なぜならば、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」から。神様は、人間を敵とか味方とかの区別なく、神様が創造された全ての人に対して恵みを施されるお方なのです。神様から愛されている私たちも、敵や味方を超えて全ての人を愛するということが、父なる神様にふさわしい者、天の父の子となるためなのです。
イスラエルの人々がエジプトにいた時、モーセがパロにイスラエルの人々を去らせて欲しいと願い出た時、パロはそれを許さなかったのですが、疫病の災いの時、エジプト人の家畜は全て死にましたが、イスラエルの家畜は一頭も死ななかったとあります。また、神は雹(ひょう)を降らせ、エジプト全土の野にいる全ての人や家畜を打ち砕かれたが、イスラエルの人々の住むゴシェンの地域には雹は降らなかったとも記しています。また、三日間エジプトは暗闇で何も見ることはできなかったが、イスラエルの人々の住む所にはどこにも光があった。このように、神の選ばれたイスラエルの人々とイスラエルを苦しめるエジプト人には、差があったが、イエス様はここで、神様は悪人にも、善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さるという神様であることを示しています。
私たちは、悪い人々には罰を、良い人には祝福をと願います。しかし、この世を見ると聖書にもあるように、悪い者が栄え、良き者が苦しむ、祝福されないという矛盾を見ます。そこで、神様は本当におられるのだろうかと考えてしまうのです。神様には、悪い者を罰し、良い者を祝福するということはできます。しかし、聖書は全ての人々が罪人であると言います。全ての人々は神の前に罪ある者とされ、全ての人が滅ぼされるべき存在だと聖書は語ります。しかし、神様は私たちを愛し、私たちを救う為に、罪なきイエス様を人間の世界に送り、私たちの身代わりに十字架にかかって私たちに代わり罰を受け、死んで下さいました。そのことにより、私たちの全ての罪が赦されたのです。何の例外もなく、自分にも罪があることを認め、その罪のためにイエス様が身代わりに十字架にかかって死んで下さったことを信じる者は、罪が赦され救われるのです。皆平等に救われるのです。たとえ多くの人々を殺した殺人犯であろうと、殺人の罪は償わなければなりませんが、その魂は救われるのです。
どんなに悪に染まろうとも、その罪をイエス様の十字架の死は赦しを与えることができるのです。
⒊感情ではなく愛で生きる
46節、47節を共に読みましょう。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。」
自分を愛してくれる人を愛すること、自分によくしてくれる人によくすることは誰もがすることです。別に神様を信じない人でも、そのことはするでしょう。 リビングバイブルには、「自分を愛してくれる人だけを愛したからといって、取り立てて自慢できるでしょうか。ならず者でも、そのくらいのことはしています。気の合う友達とだけ親しくしたところで、ほかの人とどこが違うと言えるのでしょう。神様を信じない人でも、そのくらいのことはします。」とあります。
神様を信じる人と神様を信じない人が、同じ歩みならばどうでしょう。神様を信じている人も自分を愛してくれる人しか愛さないし、神様を信じていない人も自分を愛してくれる人しか愛さないとなるならば、神様を信じるということ神様を知るということは一体どうゆうことなのでしょうか。イエス様の十字架の苦しみ、痛み、流された血潮は一体なんだったのでしょうか。イエス様が十字架にかかって死んだ甲斐(かい)がないということになるのでしょうか。勿論、私たちの罪がイエス様の十字架で赦されたというのは間違いのない真理です。それはとても大切なことです。魂が救われているか救われていないかは天と地の差があります。神様の大きな、大きな愛を知り、その愛をいただきながら、その愛で愛されている経験を持ちながらも、何も今までとは変わらない。イエス様を信じる前と信じた後でも、その行動は何も変化がないとしたら、それはイエス様の、神様の大きな痛みではないのでしょうか。
私たちクリスチャンは、神様とつながっているのです。神様の大きな、大きな愛を体験しました。今もこの愛に包まれているのです。もう大丈夫なのです。まだ、神様を信じてない。神様のことをあまり知らないという方がおられても、安心して下さい。大丈夫です。神様はあなたを愛してられるのです。そして、あなたのために、あなたを救う為に十字架にかかって下さったのです。その事実を知って下さい。2000年前に、イエス様はあなたのために、確かに十字架で死んで下さったのです。
このイエス様を信じてイエス様とつながった人々には、聖霊が与えられ、聖霊様がみ言葉を行うことができるように導かれるのです。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」というみ言葉を知っているでしょう。何度も読んできたでしょう。その都度、そんなことはできるはずがないと感じてきたのかも知れません。でも、もう大丈夫です。イエス様が、そのように「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と宣言して下さったのですから、私たちは、このみ言葉を実践できるのです。神様を知らない人が、信じない人ができないこと、不可能なことも、私たちには可能となるのです。「光あれ」と言われて光が現れ、ご自分の言葉で天地を創造された神様、その神様が私たちに、神の言葉を語っておられるのです。
愛するとは意志が伴います。好きという感情は変化します。自己中心です。しかし、愛は意志を持って行動することが求められます。憎たらしいという思いは自分の正直な思いです。感情です。自分の感情に従って生き続けるならば、その人をいつまでも憎んでしまします。けれども、イエス様は、その憎しみさえも、十字架で処理して下さいました。好き嫌いの感情で生きる限り、私たちの状態は変わりません。しかし、愛で生きるならば、意志を持って、愛するという意志で、神様の愛を思い、神様の願いは何なのかを思い、その人を神様の目で見る時に、その人は憎しみの対象ではなく、愛の対象と変えられるのではないでしょうか。もうここで、自分の感情に振り回される生き方に終止符を打って、神様の愛に生きる者になりませんか。神の言葉があなたを通して実現する人生へと変えられたいと願わないでしょうか。
Ⅲ結論部
48節を共に読みましょう。「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」 神様は完全です。しかし、私たちは完全ではありません。けれども、イエス様は、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」と言われるのです。 テモテ第二の手紙3章16節、17節には、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。」
17節には、「完全にととのえられた者になるのである。」とあります。新共同訳聖書は、17節は「こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」とあり、「完全にととのえられた者になるのである。」を「十分に整えられるのです。」と訳しています。新改訳聖書は、「それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」とあり、「ふさわしい十分に整えられた者となるためです。」と訳しています。
私たちは、聖書の言葉により、神様に近づく、目標をイエス様においてイエス様に近づくのです。神様は完全です。イエス様も完全です。イエス様の語られる言葉も完全です。そして、神様が建てられた教会も完全です。そして、神様が支配する礼拝も完全なのです。そう信じていく時に、み言葉が成就するのだと思うのです。私たちのうちにはみ言葉が流れています。私たちは、神様の言葉を聞く為に生まれてきたのです。そして、私たちの内には、イエス様を通して語られたみ言葉、聖霊様によって書かれたみ言葉が満ちています。つまり神様に愛で満ちているのです。私たちの内からは愛が溢れているのです。そう信じる者には、そのことが実現となるのです。この週も聖書に触れ、神の言葉が私を通して流れていく、そのみ業を体験させていただきたいと思います。
「愛が溢れるほどに」 マタイ5:43~48
Ⅰ導入部
おはようございます。9月の第四主日を迎えました。金曜日から急に涼しくというか、肌寒くなってまいりましたが、皆さんお元気でお過ごしでしょうか。先週は、日月と関東地区の聖会があり北市川バプテスト教会の藤原導夫師が2回のメッセージをして下さいました。静かな中にユニークさもあり、タンタンと神の言葉を語り、神の言葉を宣言して下さいました。火曜日は、韓国ナザレン大学の総長ご夫妻が日本に来られ、私は運転手と接待をさせていただきました。桜美林大学の学長、チャプレンとの会食とこれからの友好関係についての話し合いと構内見学、青葉台教会を訪問して下さり、これから韓国ナザレン大学の学生達が青葉台教会の宣教にどのように協力できるか問について話し合いました。良き関係が築かれ、宣教のために協力できますようにお祈りください。
また、山陰聖会の奉仕のためにお祈り感謝致します。皆様のお祈りに支えられ、神様の導きによりまして、2回のメッセージを無事終えることができました。第一回目のメッセージでは、山陰の方々はどのような方々だろうかと人を見た為に、原稿をただ語っているというエンジンがかからないまま終わったような感じでした。2回目は、原稿にあまり囚われないで自由に語れたかなあと思いますが、自分は聖会講師の器でないなあ、とつくづく思わされた次第でした。
私は、米子空港に降りたのですが、米子きたろう空港というアナウンスに驚きました。いつから米子空港から米子きたろう空港になったのか?やはり「ゲゲゲの女房」の影響でしょうか。お土産も鬼太郎のマンガの関係が多くありました。帰りは、ワンマンの鉄道で空港まで行きましたが、電車は表も中も鬼太郎やその仲間の妖怪、駅に着く度に、いろいろな妖怪の紹介がしてありました。今山陰は、鬼太郎一色でした。
昨日は、玉川聖学院の創立60周年の記念礼拝、記念会、コンサートが持たれました。玉川聖学院を創立された谷口先生の信仰の姿勢が今もバトンタッチされて、神様には信仰、人には愛、物事には希望という、信仰、希望、愛のみ言葉への聴従がなされ、大きな神様への証となっていることを思わされ、60周年を迎える時にPTA会長としての働きに立たされていることの大切さも思わされました。本当に忙しい1週間でした。疲れた1週間でしたが多くの恵みをいただいた週でもありました。
さて、今日はマタイによる福音書5章43節から48節を通して、「愛が溢れるほどに」という題でお話ししたいと思います。
Ⅱ本論部
⒈敵を愛する
43節を共に読みましょう。「「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。」 38節には、「「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。」とありますが、このことです。出エジプト記21章23節から25節には、「もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。」とあります。紀元前18世紀に書かれたハムラビ法典にも、これに似たことが書いてあると瀬尾先生は語っておられます。制限が加えられ自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。ことです。制限がないと、人間はなかなか片目には両目さらに・・・。歯一本には歯全部なんてことになりかねないので、このような律法を神様は与えられたのです。正義の律法と言っていいのではないでしょうか。
レビ記19章17節、18節には、「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」とあります。聖書は、神様は、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」と語られているのです。しかし、旧約の律法の外に、ユダヤの律法学者たちは、細かい律法を自分たちの思いで作り、「隣人を愛し、敵を憎め」というような間違った掟を教えていたのです。
良きサマリア人の話にあるように、「わたしの隣人とは誰のことですか」と律法の専門家はイエス様に質問したので、良きサマリア人の話をされたわけです。彼らにとっては、隣人とはユダヤ人だけにとどめていました。ですから、サマリア人を初め、外国人は隣人としては扱わなかったのです。
ですから、「「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。」とイエス様は、言われたのです。律法の専門家たちがそのように教えていたことだからです。
44節を共に読みましょう。「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」 律法の専門家たちは、律法を越えて、神様の言葉を超えて、「隣人を愛し、つまりユダヤ人だけを愛し、敵、つまり外国人を憎め」と教えていましたが、イエス様は、敵を憎めではなくて、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と神様の言葉、神様のおこころを語りました。愛する夫さえ、妻でさえ、親でさえ、子どもでさえ愛せないのに、敵を愛する。そんなことできるのですか?と疑問に思われる、疑いの目で見られる方々も多くおられることだと思います。でも、イエス様は、勿論、家族や友人を愛することを望んでおられますが、ここでは敵を愛することを示すのです。
箴言25章21節、22節には、「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。」とあります。リビングバイブルには、「敵がお腹(なか)をすかせていたら食べさせ、のどが渇いていたら飲ませなさい。そうすれば、相手は恥ずかしい思いをし、あなたは神様からほうびをいただけます。」とあります。敵や嫌いな人が困ったら、傷つくと、「ざまあ見ろ」と心の中で思ってしまうような私たちではないでしょうか。しかし憎む者、いやな人がお腹をすかせたら食べさせる。困っていたら助けるというのが神様のお心だということがわかります。これが、神様の言葉なのです。そうすれば、主の祝福があるというのも神様の言葉なのです。これらの言葉が宣言されているということを忘れてはならないのです。
⒉全ての者を愛する神
45節を共に読みましょう。「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」 天の父の子となるためには、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」というみ言葉の実践なのである。当時のユダヤ人は、自分たちは神に愛され、特別に選ばれた民であり、自分たちこそ神の子どもであると自認していた。しかし、イエス様は敵を愛する者、自分を迫害する者のために祈る者こそ、神の子であると示された。なぜならば、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」から。神様は、人間を敵とか味方とかの区別なく、神様が創造された全ての人に対して恵みを施されるお方なのです。神様から愛されている私たちも、敵や味方を超えて全ての人を愛するということが、父なる神様にふさわしい者、天の父の子となるためなのです。
イスラエルの人々がエジプトにいた時、モーセがパロにイスラエルの人々を去らせて欲しいと願い出た時、パロはそれを許さなかったのですが、疫病の災いの時、エジプト人の家畜は全て死にましたが、イスラエルの家畜は一頭も死ななかったとあります。また、神は雹(ひょう)を降らせ、エジプト全土の野にいる全ての人や家畜を打ち砕かれたが、イスラエルの人々の住むゴシェンの地域には雹は降らなかったとも記しています。また、三日間エジプトは暗闇で何も見ることはできなかったが、イスラエルの人々の住む所にはどこにも光があった。このように、神の選ばれたイスラエルの人々とイスラエルを苦しめるエジプト人には、差があったが、イエス様はここで、神様は悪人にも、善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さるという神様であることを示しています。
私たちは、悪い人々には罰を、良い人には祝福をと願います。しかし、この世を見ると聖書にもあるように、悪い者が栄え、良き者が苦しむ、祝福されないという矛盾を見ます。そこで、神様は本当におられるのだろうかと考えてしまうのです。神様には、悪い者を罰し、良い者を祝福するということはできます。しかし、聖書は全ての人々が罪人であると言います。全ての人々は神の前に罪ある者とされ、全ての人が滅ぼされるべき存在だと聖書は語ります。しかし、神様は私たちを愛し、私たちを救う為に、罪なきイエス様を人間の世界に送り、私たちの身代わりに十字架にかかって私たちに代わり罰を受け、死んで下さいました。そのことにより、私たちの全ての罪が赦されたのです。何の例外もなく、自分にも罪があることを認め、その罪のためにイエス様が身代わりに十字架にかかって死んで下さったことを信じる者は、罪が赦され救われるのです。皆平等に救われるのです。たとえ多くの人々を殺した殺人犯であろうと、殺人の罪は償わなければなりませんが、その魂は救われるのです。
どんなに悪に染まろうとも、その罪をイエス様の十字架の死は赦しを与えることができるのです。
⒊感情ではなく愛で生きる
46節、47節を共に読みましょう。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。」
自分を愛してくれる人を愛すること、自分によくしてくれる人によくすることは誰もがすることです。別に神様を信じない人でも、そのことはするでしょう。 リビングバイブルには、「自分を愛してくれる人だけを愛したからといって、取り立てて自慢できるでしょうか。ならず者でも、そのくらいのことはしています。気の合う友達とだけ親しくしたところで、ほかの人とどこが違うと言えるのでしょう。神様を信じない人でも、そのくらいのことはします。」とあります。
神様を信じる人と神様を信じない人が、同じ歩みならばどうでしょう。神様を信じている人も自分を愛してくれる人しか愛さないし、神様を信じていない人も自分を愛してくれる人しか愛さないとなるならば、神様を信じるということ神様を知るということは一体どうゆうことなのでしょうか。イエス様の十字架の苦しみ、痛み、流された血潮は一体なんだったのでしょうか。イエス様が十字架にかかって死んだ甲斐(かい)がないということになるのでしょうか。勿論、私たちの罪がイエス様の十字架で赦されたというのは間違いのない真理です。それはとても大切なことです。魂が救われているか救われていないかは天と地の差があります。神様の大きな、大きな愛を知り、その愛をいただきながら、その愛で愛されている経験を持ちながらも、何も今までとは変わらない。イエス様を信じる前と信じた後でも、その行動は何も変化がないとしたら、それはイエス様の、神様の大きな痛みではないのでしょうか。
私たちクリスチャンは、神様とつながっているのです。神様の大きな、大きな愛を体験しました。今もこの愛に包まれているのです。もう大丈夫なのです。まだ、神様を信じてない。神様のことをあまり知らないという方がおられても、安心して下さい。大丈夫です。神様はあなたを愛してられるのです。そして、あなたのために、あなたを救う為に十字架にかかって下さったのです。その事実を知って下さい。2000年前に、イエス様はあなたのために、確かに十字架で死んで下さったのです。
このイエス様を信じてイエス様とつながった人々には、聖霊が与えられ、聖霊様がみ言葉を行うことができるように導かれるのです。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」というみ言葉を知っているでしょう。何度も読んできたでしょう。その都度、そんなことはできるはずがないと感じてきたのかも知れません。でも、もう大丈夫です。イエス様が、そのように「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と宣言して下さったのですから、私たちは、このみ言葉を実践できるのです。神様を知らない人が、信じない人ができないこと、不可能なことも、私たちには可能となるのです。「光あれ」と言われて光が現れ、ご自分の言葉で天地を創造された神様、その神様が私たちに、神の言葉を語っておられるのです。
愛するとは意志が伴います。好きという感情は変化します。自己中心です。しかし、愛は意志を持って行動することが求められます。憎たらしいという思いは自分の正直な思いです。感情です。自分の感情に従って生き続けるならば、その人をいつまでも憎んでしまします。けれども、イエス様は、その憎しみさえも、十字架で処理して下さいました。好き嫌いの感情で生きる限り、私たちの状態は変わりません。しかし、愛で生きるならば、意志を持って、愛するという意志で、神様の愛を思い、神様の願いは何なのかを思い、その人を神様の目で見る時に、その人は憎しみの対象ではなく、愛の対象と変えられるのではないでしょうか。もうここで、自分の感情に振り回される生き方に終止符を打って、神様の愛に生きる者になりませんか。神の言葉があなたを通して実現する人生へと変えられたいと願わないでしょうか。
Ⅲ結論部
48節を共に読みましょう。「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」 神様は完全です。しかし、私たちは完全ではありません。けれども、イエス様は、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」と言われるのです。 テモテ第二の手紙3章16節、17節には、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。」
17節には、「完全にととのえられた者になるのである。」とあります。新共同訳聖書は、17節は「こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」とあり、「完全にととのえられた者になるのである。」を「十分に整えられるのです。」と訳しています。新改訳聖書は、「それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」とあり、「ふさわしい十分に整えられた者となるためです。」と訳しています。
私たちは、聖書の言葉により、神様に近づく、目標をイエス様においてイエス様に近づくのです。神様は完全です。イエス様も完全です。イエス様の語られる言葉も完全です。そして、神様が建てられた教会も完全です。そして、神様が支配する礼拝も完全なのです。そう信じていく時に、み言葉が成就するのだと思うのです。私たちのうちにはみ言葉が流れています。私たちは、神様の言葉を聞く為に生まれてきたのです。そして、私たちの内には、イエス様を通して語られたみ言葉、聖霊様によって書かれたみ言葉が満ちています。つまり神様に愛で満ちているのです。私たちの内からは愛が溢れているのです。そう信じる者には、そのことが実現となるのです。この週も聖書に触れ、神の言葉が私を通して流れていく、そのみ業を体験させていただきたいと思います。