江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

11月30日 礼拝メッセージ

2008-11-30 12:58:12 | Weblog
         主日礼拝(アドベント第1主日)     2008.11.30
          「神から恵みをいただいた」 ルカ1:26-38

 Ⅰ導入部
 おはようございます。今日も愛する兄弟姉妹と共に、私たちの救い主イエス・キリスト様を礼拝できますことを感謝致します。11月の第五主日の礼拝、アドベント第一主日の礼拝です。私たちの救い主であるイエス・キリスト様の誕生を記念するクリスマスが近づいてまいりました。教会以外では、随分前からクリスマスの飾り付けが始まっていたように思います。アドベント第一主日を迎えた多くの教会では、ようやく質素な飾りつけがなされているように思います。
 アドベントクランツのロウソクに一つ灯りがともりました。これから一つひとつローソクに火がともるのを見ながら、イエス様のご降誕を覚えて心からの喜びを表していきたいと思います。
 今日はルカによる福音書1章26節から38節を通して、「神から恵みをいただいた」という題でお話ししたいと思います。この同じ題で、2005年のアドベント第二主日でメッセージをしておりました。昨年のクリスマスシーズンには、「マリア」という映画があり、教会学校の子どもたちはこの映画を見に行きました。私は一足先に見ましたので、一緒には見なかったのですが、クリスマスにふさわしい映画だったと思います。レンタルで借りられると思いますので、まだ見ていない方は一度御覧になるといいです。今日は、マリアについて見させていただきたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈選ばれたマリア
 マリアという名前は、メアリー、マリー、ミリアムというようにいろいろな形で呼ばれている世界中で最も一般的な名前のようです。このマリアの家族については、聖書の中ではしるされてはいません。マリアについてわかっていることは、ナザレ出身のヨセフの妻になったということだけです。ヨセフとマリアは、ユダ部族の出身でダビデの子孫でありました。
 神様が御子イエス様の生みの親としてマリアをお選びになりました。マリアという人は、私たちと同じように、通常と同じように母親から生まれました。罪の本質を持って生まれました。マリアには罪がないので、救い主イエス様の母親になったのではありません。マリアにも人間としての限界と欠点がありました。マリアもまた、全ての人間と同じように罪を持つ人間として救い主を必要とする女性の一人であったのです。肉体的には私たちと何も変わりはありません。特別な何かがあったわけではありません。しかし、マリアはイエス様を産む器として、救い主の母親として神様に選ばれたのです。どうしてマリアが救い主に選らばれたのか、本当の理由は神様にしかわからないでしょう。その権限は神様にあります。神様がその権威を持ってマリアを選ばれたのです。
 31節にありますが、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」と言われます。男の人を知らない女性が子どもを産むということは常識的には考えられないことです。ですから、神様の選びの先には不安と心配がありました。神様に選ばれた、というのは名誉なことかも知れませんが、前途多難が予想されるものであったのです。マリア自身が、救い主のお母さんになると立候補したわけではありません。彼女の意思とは関係なく、神様に選ばれたのです。
 このようなお話を本で読みました。「アメリカのロサンゼルスにある日系人の夫婦がおられて、子どもがほしいと願いながらもなかなか赤ちゃんが与えられなかったようです。結婚して、3年が経ち、5年が経ち、7年が経ち、10年経っても赤ちゃんは生まれませんでした。ところが、13年目にしてやっと待望の赤ちゃんが生まれました。ご主人は喜んで赤ちゃんを抱き上げました。奥さんはベッドから身を乗り出して言いました。「ねえ、あなた早く、早く赤ちゃんを見せて」。でも、ご主人は赤ちゃんを見て動けなくなりました。なぜかと言うと、見るもかわいそうな先天的に異常に生まれてきた赤ちゃんだったからです。ご主人は、言葉を捜すことができないで、そのまま奥さんのところへ行くと赤ちゃんを見せました。奥さんは、一瞬顔が曇ったと思ったら、すぐ微笑を取り戻してこう言いました。「ねえ、あなた。神様がこの赤ちゃんを、どの家庭に預けようか、どの家庭に預けようかと、何年も何年も世界中をお巡りになったので、こんなに年月を要されたんですね。そして、この夫婦なら大丈夫と、そう思われて私たちに託されたんですもの。ねえ、あなた、しっかり育てましょう。」」
 神様は、マリアを救い主のお母さんとして選ばれました。それは、彼女を信頼して救い主を預けられたのです。彼女なら、救い主をしっかりと育ててくれると委ねて下さったのです。私たちは、「何でこんな夫なの。何であんな妻なの。何でこんな子どもなの。何でこんな親なの。何であんなお姑さんなの。」と思ってしまうことはないでしょうか。それは、神様があなたに任せても大丈夫とあなたを信頼して、その人を委ねておられるのです。その人たちに愛をもって仕えようではありませんか。

 ⒉恵みということは
 神様は、マリアをご自身の御子イエス様の母親として選ぶことによって、歴史上どの女性よりも高い栄誉をお与えになりました。けれども、もし救い主イエス様と同等のあるいはそれ以上の栄誉をマリアに与えるとしたら、それは問題だと思います。救い主のお母さんという栄誉は栄誉ですが、救い主のお母さんだから、イエス様と同じような権威を持っていたかというとそうではないのです。私たちと何も変わらないのです。マリアを偶像化してはならないのです。マリアは、彼女を通して神様の完全なみこころが実現するために、その管として選ばれ、用いられた女性なのです。彼女は、自分のための神様の御計画に対して、純粋を、謙遜を、信仰を、服従を示しました。
 28節、29節を共に読みましょう。「天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」 神様が共におられるということは大きな恵みです。私たちも神様が共にいて下さると信じます。共にいて下さると苦しいことや悲しいことがないかというとあるのです。では、苦しいことや悲しいことがあるということは神様が共におられないということでしょうか。マリアは、神様が共におられる、と聞いて、戸惑いました。胸騒ぎがしたのです。神様が共におられると信じる私たちも、戸惑います。胸騒ぎがあります。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」という天使の言葉、神様の言葉は、「これから良いことばかりですよ。何の問題もないですよ。」という意味ではないでしょう。その言葉が神様の言葉であっても、その内容が素晴らしいものであっても、私たちは恐れるのです。戸惑ったり、胸騒ぎがして心配することは不信仰ではないのです。
 30節を共に読みましょう。「すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」」 さらに輪をかけた神様の祝福の言葉が語られました。 戸惑い、不安に思っているマリアに、「マリア、恐れることはない。」と告げられました。そう言われたので、恐れが吹き飛んだという人もおられるでしょうが、「恐れるな」と言われても恐れてしまう私たちではないでしょうか。「やめろと言われてもゴーゴー」という歌がありましたが、そう言われてもやめられないのです。先ほどは、「恵まれた方」と言われ、「あなたは神から恵みをいただいた。」と重ねて恵みを強調されたのです。 私たちが、「恵みをいただいた」という言葉から想像する内容は、良いことがあったとか、成功した。うれしいことがあった。夢がかなった。と自分にとっての得と言われるものでしょう。
けれども、恵みが二重に語られた次の言葉は、「あなたは身ごもって男の子を産む」という、驚くような内容だったのです。今のマリアには喜べない内容、喜びどころか罪になってしまうような内容だったのです。私たちも神様の恵みがある、と言われながらも、恵みとは正反対の出来事を経験します。苦しいことや悲しいことがあります。そこにはどのような意味があるのでしょうか。

 ⒊聖霊の導き
 天使は、ただ男の子を産む、という事実だけを伝えたのではありませんでした。 32節、33節を読みましょう。「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」 ただの男の子を産むと言う話ではない。 マリアはユダヤ人が長い間待ち望んでいた救い主を産むというのです。そのような驚くべき内容に、男の人を知らないのにそんなことがあり得るのか、と彼女は問いました。
 35節を共に読みましょう。「天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」」 救い主の誕生は、人間一般の関係で生まれるようなものではない。男の人を知らない女性が聖霊によって子を産む。まさに、神様がマリアの体を通して、救い主を誕生させて下さるという神様のみ業なのです。聖霊なる神様がマリアに臨み、救い主を産ませて下さるのです。マリアは聖霊の導きの中で、神様の権威のもとで救い主を産むのです。
 同じように、聖霊なる神様は私たちの内に住んで下さり、私たち一人ひとりを神様のみ業のために用いて下さるのです。私たちはマリアと同じような形では用いられないかも知れません。けれども、神様はマリアを用いて救い主を誕生させられたように、私たち一人ひとりに神様の完璧な計画を持っておられるのです。神様は、現代の罪にまみれた世界の中で、ご自身の栄光のために私たち一人ひとりを用いたいと願っておられるのです。聖書は語ります。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」 (Ⅰコリント6:19-20)。
 神様はマリアをご自身の栄光のために用いました。また、私たちにもご自身の栄光のために、あなたを用いたいと願っておられるのです。何ができるかどうかが問題なのではありません。マリア自身もびっくりするような内容を聞いて、恐れたでしょう。胸騒ぎがしたでしょう。自分とは全く関係のない世界の話のような気がしたでしょう。今の自分に子どもができたら周りの人々にどのように見られるのか、思われるのか、と考えたのかも知れません。けれども、周りがどうかではなく、神様が自分に対して語られた言葉に素直に従ったのです。38節を共に読みましょう。「マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。」 
 神様の恵みとは、自分が考えて良いことがある。うまく行きそうなというようなことではなくて、神様が語られる約束の言葉を信じて受け取ることではないでしょうか。神様の言葉であっても、不安もある。心配もある。自分にできるとは思わない。けれども、その恵みの約束が、祝福があなたの言われた通りに、私の身に成りますように、起こりますようにと信じていくことだと思うのです。
 私たちの体は聖霊が宿る神殿だと言うのです。罪のないお方、聖いお方イエス様の血が十字架で最後の一滴まで流されるという代価がすでに払われているのです。イエス様の血、命と言う代価が払われたのです。そして、あなたは神様のものだから自分の体で神様の栄光を現してほしいと神様はあなたに願っておられるのです。

 Ⅲ結論部
 マリアの親戚であったエリサベトは、マリアのことを「あなたは女の中で祝福されたお方です。」と言いました。マリアはたたえられましたが、それでもただの女性です。私たちと何ら変わらない存在です。マリアは神様のような礼拝の対象ではありませんし、対象にしてはならないのです。けれども、マリアの神様の言葉に対する姿勢、神様に従った彼女の姿は、私たちの従うべき良き模範だと思います。ヨセフとマリアは貧しい生活だったので、イエス様に贅沢(ぜいたく)をさせることはできませんでした。イエス様の下に弟4人、妹2人がいましたからなおさらでした。イエス様に高い教育を受けさせることも、高価な服を着せることもできませんでした。イエス様は7人兄弟の長男として、他の家庭と変わらない生活をし、成長し、両親に従われたのです。マリアは母親として特別に何もしてあげることはできなかったのです。何も与えることはできなかったでしょう。けれども、マリアはイエス様の母親として、神様に対して敬虔な母親だったでしょう。マリアは現代の母親がしている同じことをしただけかも知れません。イエス様は両親の愛と兄弟たちの交わりの中で育ったのです。マリアはイエス様を産んだことに間違いありません。そのことにおいて、母親として大きな意味があるのだと思います。私たちは子どもたちのために何をしているのでしょうか。何を求めているのでしょうか。物質的に、教育的に満足させようとするあまりに、もっと大切なものをおろそかにしているのではないでしょうか。
 マリアは、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」という天使の言葉に、恐れながらも、心配しながらも、その恵みのみ業が自分になるようにと応答したのです。その神様に対する姿勢をイエス様も学んだのかも知れません。
 私たちも神様から恵みをいただいているのです。目に見える形はそうは見えないかも知れません。けれども、今朝神様は私たちに約束しておられるのです。マリアのように、自信はなくても、心配があっても、「お言葉どおり、この身に成りますように。」と神様に応答していこうではありませんか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11月23日 礼拝メッセージ

2008-11-23 13:02:07 | Weblog
     収穫感謝主日礼拝(三位一体後第28主日)     2008.11.23
          「百倍の実を結ぶ」 マルコ4:1-9、13-20

 Ⅰ導入部
 おはようございます。今日も愛する兄弟姉妹と共に、私たちの救い主イエス・キリスト様を礼拝できますことを感謝致します。11月の第四主日を迎えました。先週は、青葉台教会の創立40周年記念礼拝でした。教団の松田基子理事長の2回のメッセージは創立記念にふさわしいメッセージであり、私たち一人ひとりに大きな励ましのメッセージでした。午後からは感謝の愛餐の時を持ち、共にお祝いの時を持つことができましたことを感謝致します。また、創立40周年記念誌が出来上がりました。皆さんのご協力によりまして内容が充実し、特に編集委員の方々のご奉仕によりまして、素晴らしい記念誌ができました。ぜひ、お読みくださり感謝すると共に、これからの歩みを主が豊かに祝福して下さると信じて、共に主のみ業に励んでまいりましょう。「創立50周年には、私はいないかも知れない。」というような声を聞きますが、40周年を迎えた方々は、全員50周年の時を迎えることができると期待しております。創立40周年のために、多くの方々のご協力とご奉仕に感謝致します。
 40周年行事として、来週と年度最後3月の最終日曜日に持たれる教会セミナー、3月の聖地旅行が残されています。現在聖地旅行希望者は6名です。ぜひ、この機会にイエス様の歩まれたイスラエルの地に足を伸ばしてみませんか。祈って示されましたらご参加下さい。
 昨日の11月22日は何の日かご存知ですか。「いい夫婦の日」だそうです。インターネットを見ると、三浦友和・百恵夫妻が、いい夫婦のアンケートで3年連続一位だそうです。山梨歯科大学の渋谷昌三教授は、「心理実験で人の心を科学する」という本で、25組の夫婦を面接した結果、うまくいっているカップルは、「支配的な夫と服従的な妻」あるいはその逆、「援助好きな夫と援助を求めたがる妻」あるいはその逆という関係にある場合が多くあるということを書いておられます。よく似た性格の持ち主同士はあまりうまくいかず、互いに補い合う組み合わせほどうまくいくのです。性格の不一致という理由で離婚するケースが多いですが、現実は案外その反対で、性格の一致しすぎのゆえにうまくいかなかったのではないでしょうか。聖書には理想の夫婦像は、支配と服従の関係ではなく、愛と服従の関係だと言っています。「夫は妻を愛し、妻は夫に仕える」関係です。いい夫婦の日が取り出される今日、もう一度聖書の言葉に目を留めて、夫婦の関係を見直す時となればいいと思います。
 さて、今日は第二礼拝においては、教会学校の子どもたちと合同礼拝です。いつも多くのものを与えて祝福して下さる神様に心からの感謝をささげたいと思うのです。
 今日はマルコによる福音書4章1節から9節と13節から20節を通して「百倍の実を結ぶ」と題してお話ししたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈聞きなさい
 私たち人間には言葉が与えられています。言葉を通して意思疎通をします。聖書にはその言葉の大切さが記されています。その言葉で人を慰めることもできるし、同じその言葉で、人を悲しませることもあるのです。会話というものが人間関係を壊すならばと、人と話したくないという人々もいるのです。現代は人との関わりが薄れてきた時代であると思います。コンピューターや携帯電話の普及により、インターネットやメールに時間を費やすために、対人との関わりの時間が削られるというのも現実だと思います。話すのが嫌ならば、人の話を聞くかと言うと、人の話しを聞くということもしなくなった時代なのかも知れません。親が子どもに説教する時に、「あなたわたしの話をよく聞きなさい!」と子どもたちと怒鳴りつける親は多くいます。私もその一人だと思いますが、では親として子どもの話を聞いているか、と問われれば親もそれなりに忙しく、子どもたちの話し、その気持ちを聞いていない、聞けないというのが現実だと思います。夫婦の間で、親子の間で、友人や同僚、上司や部下との間で、お互いに相手の話をよく聞き、話すということが少なくなってきた時代に、聖書は語るのです。
 マルコによる福音書の4章3節の最初には、「よく聞きなさい。」とあり、9節には、「聞く耳のある者は聞きなさい。」とイエス様の言葉が記されています。耳は人の話しを聞くためにありますが、イエス様は、「聞く耳のある者は聞きなさい。」と言われたというのは、耳があっても聞かない人がいる。律法学者はファリサイ派の人々でしょうか。耳があっても聞くという意思を持って、集中して聞きなさい、ということだと思うのです。イエス様はここで御自分が大切な話をされるので、「よく聞きなさい。」、「聞く耳のある者は聞きなさい。」と言われたのだと思うのです。
 申命記6章4節、5節には、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という言葉があります。この言葉はイスラエルの人々が、シェマの祈りとして毎日唱えられた祈りです。イスラエルの人々が、「聞け、イスラエルよ。」と毎日接している言葉のように、イエス様は、「聞きなさい。」と語られたのです。
イエス様の言葉は、心を開いて聞こうとする者にとっては、まことの神の言葉であることを示しているのだと思うのです。
 日本では、種をまく前に畑を耕して、そして、きれいに揃えて種を蒔くのだと思います。しかしイスラエルの地方では、畑を耕す前に種を蒔いて、その後で畑を耕すという習慣があったようです。ですから、種はいろいろな場所に落ちるわけです。イエス様は、ここで種がいろいろな場所、4つの場所に落ちたとお話されました。道ばた、石だらけの土の少ない所、茨の中、良い土地に落ちたのです。
 種は同じなのですが、落ちた場所が異なることにより、種の成長がどのようなものであるかをイエス様は話されました。私たちの心の畑にみ言葉の種が蒔かれているのですが、その種はどのように成長してきたのでしょうか。これからどのように成長していくのでしょうか。

 ⒉蒔かれた御言葉の種
 4節を共に読みましょう。「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。」その意味は、15節です。「道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。」 14節にあるように、種を蒔く人は、神の言葉を蒔くと言うのです。道端とは、かたくなな心を意味しているとも言われます。たとえ種が蒔かれても、芽を出す前に鳥に見つけられて食べられる、つまりサタンによって御言葉が奪われてしまうのです。出エジプト記に出てくるパロ王は、モーセを通して示された奇跡を何度も見ながらも、あるいは、悔い改めながらも、心をかたくなにして、モーセを通して語られる神の言葉を受け入れませんでした。神の言葉を聞きませんでした。聞く耳を持ちませんでした。彼には、悔い改める機会がなかったのではなく、悔い改めの機会が多く与えられたにもかかわらず、苦しみが去ると心をかたくなにしてしまいました。まさに、パロ王は、道端の状態だったのです。
 5節、6節を共に読みましょう。「ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐに芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。」その意味は16節、17節です。「石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難(かんなん)や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。」 神の言葉を喜んで聞くのですが、十分に根が張っていないので、強風が吹くと倒れたり、日照りが続くと枯れてしまう人。調子のいい時は喜んで聖書の言葉を聞いていこうとするけれども、何か問題が起こったり、苦しいことが起こるとすぐに神様に背を向けてしまうことです。あるいは、信仰が成長する前、根が張る前に、いろいろな奉仕をしたり、行動を優先するために、自分の信仰が揺らぎ、人につまずいてしまうような状態だと思います。ですから、み言葉に触れ、信仰の根を伸ばすことが最優先だと思います。
 7節を共に読みましょう。「ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。」 その意味は、18節、19節です。「また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。」 いろいろな事を考えすぎてしまうことがあります。マルタとマリヤの話しでは、マリヤはイエス様のそばでお話しに聞き入っていましたが、マルタはイエス様と弟子たちをもてなすのに忙しくして、イエス様の話を聞いているマリヤと自分ひとりだけに食事の準備をさせるマリヤに何も言わないイエス様をさえ非難してしまいました。いろいろな事で、この世のいろいろな事で心乱されているということはないでしょうか。
 8節を共に読みましょう。「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」その意味は、20節です。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」 み言葉の種が、何の邪魔もなく成長して実がなるのです。
                                      ⒊み言葉の種は生きて成長する
 洗礼の準備の時、この聖書の箇所を開く時があります。この4つのうちどこに当てはまりますか?という質問に、3番目の茨の中に落ちた状態ですという方々がほとんどです。おそらく、クリスチャンの方々に同じ質問をすると、やはり茨の中に落ちた種の状態が今の自分の状態に似ていると答えられるでしょう。御言葉を聞かないわけではない。聞いている。しかし、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込んで、御言葉をふさいで豊かに実らない状態なのです。成長したい、実を実らせたいと願うのだけれども、多くの事柄にとらわれて、あのマルタのようになってしまうのです。
 もし、今自分が成長していない。実がみのっていないと思われるならば、一体何が問題なのでしょうか。茨がふさいだとありますが、あなたの茨とは何なのでしょうか。18節、19節をリビングバイブルは次のように訳しています。「いばらの地とは、神のすばらしい知らせに耳を傾け、それを受け入れる人の心を表しています。けれども、すぐにこの世の魅力、金もうけの楽しさ、成功欲、物欲のとりこになり、神のことばなどは心からはじき出されて、実を結ぶまでには至らないのです。」
 私たちは、お互いに日曜日には礼拝で、教会で顔を合わせます。声を掛け合い、交わります。けれども、日曜日以外の日は、お互いの仕事場や家庭にいて、何かの集会や交わりがない限り、お会いすることはありません。どこで何をしているのかはわかりません。お互いに、どのようなことで苦労しているのか、辛い思いをしているのか、わかりません。また、どのような問題を持っているのか知りません。けれども、いつの間にか、教会に顔が見えなくなり、お交わりができなくなった方々もおられます。
 この世の大きな魅力の方が神様よりも、教会よりも、クリスチャンの交わりよりも大きくなってしまったのでしょうか。金儲けの楽しさで、日曜日どころではない。信仰どころではないということでしょうか。この世で、成功するために、良い学校や良い就職、良き結婚をするために、信仰や教会が、クリスチャンの交わりが価値のないもののように見えてしまったのでしょうか。物欲のとりこになり、神様の言葉が、信仰が弾(はじ)き飛ばされてしまったのでしょうか。その理由はいろいろでしょう。神様のお心は、やはり神様を知った者が、神様を信じた人々が、30倍、60倍、100倍の実を結ぶことだと思うのです。イエス様は、そのために私たちのところに来て下さったのです。ヨハネによる福音書12章24節には、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」という言葉があります。イエス様は、私たちのために死んで下さり、私たちが多くの実を結ぶようにして下さったのです。
 また、種は命があれば必ず成長するのです。この4つの種が落ちた土地は、4種類の人間の心の状態を指していると言えますが、この4つの状態は、ひとりの人間の状態を指しているようにも思えるのです。神の言葉、種が蒔かれても、受け付けない状態があった。あるいは、喜んで聞いても、ちょっとしたことでつまずいたり、投げ出したりした時もあった。み言葉によってある程度成長したけれども、この世のいろいろな事で成長が止まってしまうこともあった。しかし、み言葉を聞いて受け入れ、実践して100倍の実を結ぶというのが神様のストーリーなのです。たとえ、今がどのような状態でも神様は必ず100倍の実を結ばせて下さるのです。それが約束なのです。 

 Ⅲ結論部
 聖書はみ言葉を聞くだけでは、砂の上に家建てた愚かな人のように、洪水が起こると倒れると言います。だから、み言葉を聞いて行うことが、岩の上に家を建てた賢い人のようで、洪水が起こっても倒れないと言うのです。榎本先生は、「御言を聞く」ことと「御言を聞いて受け入れる」ことの説明を次のようにしています。「御言を聞くというのは、自分をしっかり持っていて、そのうえで御言葉を聞き、取捨(しゅしゃ)選択することである。御言を聞いて受け入れるということは、自分があって御言葉を聞くのではなく、むしろ御言葉に聞く。御言葉に自分が導かれることである。自分がなく御言葉が主人である。たとえば、前者は、買い物に行き、自分の気に入ったものがあれば買うということであり、後者は、マタイ13章にあったように、りっぱな真珠を見つけると物を売り払ってでも手に入れようとすることである。そのように、御言葉によって支配されていくのを、私は御言葉を聞くというふうに考える。そこに、「御言を聞く」と「御言に聞く」との違いがあると思う。」 
 また、この聖書の箇所から次のようにも言っておられます。「道端とか、石じとか、茨の中というのは、人間がみな持っているものである。良い土地とは、草なく、石なく、やわらかい土地であるとは書いてない。御言葉を受け入れると良い地になる。ここでは御言葉に対する態度が問題である。たちえば、私は忙しいからあの人のような信仰はできないとか、あの人は恵まれた人だからそういう状態になったとか、あの人は苦しい経験をしたからあんな信仰を持つが、私にはそんな経験がないから、というように、私たちは畑の状態によって種の生長が左右されるように思いやすいが、そうではない。御言葉を聞いて受け入れる態度によって、そこに良い地ができていくのである。人が、御言葉に対してどのような態度を取るかによって、御言葉が実を結ぶか、結ばないかが決まるのである。」
 み言葉を受け入れると良い土地になるのです。み言葉を聞いて受け入れる態度によって、そこに良い地ができていくのです。だからこそ、私たちは、日々、神様の言葉に触れて、み言葉を受け入れて、実践していきたいのです。神の言葉による実りは、この世のどんなものよりも価値があり、すばらしいものなのです。私たちは、み言葉を受け入れると同時に、時が良くても悪くても、宣べ伝えていきたいと思うのです。
 ジョン・ハーバードは、1640年にイギリスからアメリカに渡りました。彼は輝かしい将来のある信仰の学者でした。困難の中にも彼は信仰によって、学問の種を蒔きました。そして、1年後には彼は死にました。彼の蒔いた学問の種は無駄になったでしょうか。そうではなく、建てられたばかりのその新しい大学には、彼の700ポンドあまりの金銭と200冊の本とが残され、今ではアメリカで有名なハーバード大学となったのです。信仰によって彼の蒔いた種は、何百倍ともなって豊かな実りをもたらしました。神の言葉は生きています。だからこそ、蒔き続けましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11月16日 創立記念礼拝(外部講師のためにありません)

2008-11-19 09:57:49 | Weblog
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11月9日 礼拝メッセージ

2008-11-19 09:55:43 | Weblog
        主日礼拝(三位一体後第26主日)     2008.11.9
          「この岩の上に」 マタイ16:13-24

 Ⅰ導入部
 おはようございます。今日も愛する兄弟姉妹と共に、私たちの救い主イエス・キリスト様を礼拝できますことを感謝致します。11月の第二主日を迎えました。
 先週、3日は教会学校の遠足でつくし野のフィールドアスレチックに行ってまいりました。 総勢55名でお父さん方が多く参加して下さいました。この日は曇りの日で肌寒い日でしたが、丘を登ったり、下りたりするだけでも少し汗ばむほどで、子どもたちはアスレチックで楽しんでいました。ケガもなく、楽しい時を過ごすことができました。皆さんのお祈りに感謝致します。
 今日の朝は、また寒さが増して冬が近づいていることを感じます。これから寒い季節を迎えますが、イエス様を信仰する熱き心で燃えさせていただきたいと思います。本来は、11月の第二主日が創立記念礼拝ですが、今年は創立四十周年ということで、日本ナザレン教団理事長の松田基子先生をお迎えしての記念礼拝を予定しておりましたが、今日が韓国の60周年の記念の礼拝と重なり理事長として出席しなければならないということで来週となりました。全ては神様の導きのもとにありますので、来週、神様に期待して記念礼拝のために備えていきたいと思うのです。
 今日は、マタイによる福音書16章13節から24節を通して、「この岩の上に」という題で、創立四十周年を覚えながら、お話させていただきたいと思うのです。

 Ⅱ本論部
 ⒈イエス様のうわさ
 今日の箇所は、フィリポ・カイサリア地方での出来事です。こ地方はギリシャ文化の影響が強く、ギリシャの牧童神パンを祭った祭壇がありました。ギリシャの神々は、このフィリポ・カイサリアの付近に集中していたようです。また、この地方には、古代シリアのバアル礼拝の寺院が散在していました。ヘロデ大王は、ローマ皇帝のアウグストからこの町を与えられ、大理石の神殿を建て、皇帝の像を置きました。ヘロデ大王の死後、この町は国主フィリポの領地となり、フィリポはこの町を拡張し、ローマ皇帝に敬意を表して、町の名をカイサリアと改め、地中海に面した港町カイサリアと区別して、自分の名を加えて、フィリポ・カイサリアと呼んだようです。
また、この町の山中には非常に美しい洞窟があり、この洞窟の下から泉が湧き出ており、ヨルダン川となって流れていたのです。この場所は、ヨルダン川が発しているということから、ユダヤ人はここを、特別に美しい所と考えていたようで、イエス様はユダヤ人から避けて弟子たちとともに、ここフィリポ・カイサリアの町にやってきたのです。
 ここで、弟子たちに質問するのです。皆さんで13節を共に読みましょう。「イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。」 「人の子」とはイエス様ご自身のことですが、イエス様は自分のことが人々からどのように見られているのか、どのように思われているのか、と気になって弟子たちにそのように尋ねたのでしょうか。イエス様は、権威ある言葉を語り、あるいは、わかりやすい例話を話して多くの人々に神様のことや救いや信仰の話をされました。また、いろいろな病気の人々をその人に合わせて癒して下さいました。イエス様の人気はすごいものがあったでしょう。イエス様はその人気を気にしたのでしょうか。 
 先日、アメリカ大統領選挙があり、世界中に注目されていました。選挙の結果、バラク・オバマ氏が黒人としては初めて大統領に選ばれました。選挙運動もマケイン氏よりも効果的で、メディアではオバマ氏の方が多く出ていたように思います。オバマ氏もマケイン氏も、自分はどのように見られているのか、評価されているのかを気にしていたでしょう。人間は、人の評価が気になるものです。イエス様もそうだったのでしょうか。イエス様が弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と尋ねられた理由は、御自分のことがどうだこうだ、ということではなく、弟子たちに、御自分のことをはっきりと示したいと思ったからだと思うのです。もう十字架が近づいていたからです。
 弟子たちは答えました。14節を共に読みましょう。「弟子たちは言った。「洗礼者ヨハネだ」という人も、「エリヤだ」と言う人もいます。ほかに、「エレミヤ」とか、「預言者の一人だ」と言う人もいます。」 バプテスマのヨハネは死にましたが、イエス様のことをバプテスマのヨハネがよみがえったと考える人々がいたのです。 また、マラキ書3章23節には、「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」という言葉があり、ユダヤ人はメシアが来る前にエリヤが戻ってくることを期待して、過越しの祭りを祝う時にはエリヤのための席を用意しているそうです。人々は、イエス様をメシア到来を告げる者と考えていたようです。また、ユダヤ人はエレミヤに対して特殊な期待をかけていたようです。エレミヤは、神殿から契約の箱と香をたく祭壇を取り出して、ネボ山に隠しました。メシアが来る前には、エレミヤが戻って来て、それを取り出し、神の栄光がイスラエルの上に輝くと信じていたのです。エレミヤもまた、来るべきメシアの先駆者と考えられていたようです。あるいは、その他の預言者の一人として民衆はイエス様のことを考えていたのです。多くの人々は、イエス様を偉大な預言者として考えてはいても、イエス様を救い主、メシアとしては考えていなかったのです。もしかしたら、弟子たちさえもイエス様を預言者の一人ぐらいにしか考えていなかったのかも知れません。あなたは、イエス様をどのように考えておられるでしょうか。

 ⒉ペトロの本来おるべきところ
 15節を共に読みましょう。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 人それぞれにイエス様に対する見方や考え方がありました。バプテスマのヨハネ、エリヤ、エレミヤといろいろな偉大な預言者の名前があがりました。イエス様は、3年と少しの間、イエス様と寝食を共にし、イエス様のそばで、権威ある言葉を聞き、奇蹟の業をみてきた弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問われたのです。
 16節を共に読みましょう。「シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。」リビングバイブルには、「あなた様こそ、キリストです。生ける神の子です。」とあります。 ペトロは、イエス様のことをメシア、キリスト、神の子と答えました。メシアもキリストも、「油注がれた者」を指しています。特別に神に召し出され、神からの使命につく人の就任式の時に油がそそがれたようです。ユダヤでは、特に3つの大事な務めにつくことを意味していたのです。王と祭司、預言者の就任式に油が注がれたのでした。王のように神の支配を実現し、祭司のように神と人間との間をとりもち、預言者のように神の言葉を大胆に、しかも正しく語る。このように3つの職務を担うメシアが現れると期待されていたのです。ペトロは、イエス様をメシア、キリストとして告白したのです。イエス様をメシア、キリストと告白するのは、人間の歴史においては最初でした。イエス様は、このペトロの告白を喜ばれました。その告白を喜ばれるのと同時に、自分の救いはどのようにして、どのような形で実現するのかということを話されたのです。
 21節を共に読みましょう。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」 ペトロは、イエス様に「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と尋ねられて、「あなた様こそ、キリストです。生ける神の子です。」と答えて信仰を言い表すことができたのですが、苦しみを受ける、死ぬと聞いてびっくりしてしまいました。十字架について死んでしまうようなメシアなんて考えられないとペトロは強く感じたのでしょう。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言ったのです。リビングバイブルには、「先生、とんでもございません。あなたのようなお方に、そんなことが起こってたまるもんですか。」とあります。
イエス様の言葉を見てみましょう。
 23節を共に読みましょう。「イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」」 素晴らしい信仰告白をしたペトロでしたが、イエス様に叱られてしまいました。サタンとまでも言われたのです。
 マタイによる福音書4章を見ると、イエス様が神様のために働く前に40日間断食された記事があります。その時、サタンが来て、権力の道を選ぶようにそそのかしました。奇蹟を行えば、みんな着いて来る。十字架の道ではなく、奇蹟を行い人々に賞賛される道を選ぶようにとサタンはイエス様を誘惑しました。十字架が近づいている時に、サタンはもう一度、十字架の苦しい道ではなくて、他の道がある。弟子たちさえも、政治的に成功する道を望んでいるというような誘惑をペトロの口を通してイエス様は聞かれたのです。「先生、とんでもございません。あなたのようなお方に、そんなことが起こってたまるもんですか。」十字架の道なんてとんでもないことですと。イエス様が警戒しておられたことを、十字架を避けるようにと一番弟子のペトロが語ったのです。 イエス様は、そのペトロ、つまり神のことではなく、人間のことを思っているとペトロを叱るというよりも、彼が歩むべき道に戻そうとされたのです。イエス様は、「あなたはわたしの邪魔をする者」と言われました。ギリシャ語の原文では、「私の後ろに引き下がれ」という意味があるようです。オリゲネスという人は、「ペトロ、あなたは私の前を歩くのではなく、わたしの後に従いなさい。」と語りました。ペトロの本来の歩みは、イエス様を指図するのではなく、イエス様の後を歩く立場にあることを示されたのだと思うのです。サタンは私たちの信仰を邪魔します。困難や苦しみを与えて神様から見放されているように感じさせたり、神様の力を疑わせようとするのです。
 先ほどの、是角姉の証にあったように、苦しみを通して見えてくるものがある。神様の恵みに気づくことがあるのです。私たちも神様の邪魔をしたり、兄弟姉妹のつまずきにならないようにイエス様の言葉を素直に受ける者でありたいと思うのです。

 ⒊わたしの教会を建てる
 18節を共に読みましょう。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。」 イエス様は、素晴らしい信仰告白をしたペトロに言われたのです。ペトロとは岩という意味で、この岩の上に教会を建てると言われました。
 この箇所で、ローマカトリック教会とプリテスタント教会では解釈が違うのです。ローマカトリック教会は、ペトロの上に教会を建てるとイエス様が言われたのだから教会の権威をぺトロに与えられたと解釈します。プロテスタント教会は、ペトロが告白した「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白こそが、教会を支える岩のように動かない基礎でると解釈します。
 19節を共に読みましょう。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 このみ言葉の解釈でもカトリックとプロテスタントでは違います。ローマカトリック教会では、人が天国に入るのを許可したり、罪を許すことも、許さないことも全てペトロの権限内に置かれ、ペトロはこの最高の権限のゆえにローマ教皇となり、この権限は、以来ローマの教皇によって継承されていると考えます。プロテスタント教会では、ペトロに特別な権限を与えられたというよりも、ペトロが福音を語ることにより、信じる者が神の国に入る門が開かれ、信じない者にはその門が閉ざされることを意味し、これはペトロだけではなく、他の使徒たちや福音を語る者に同じように与えられていることだと考えます。ただ、ペトロがイエス様をメシア、キリストと最初に告白した者として、福音を語るというその権限が与えられたのだと思うのです。ペトロはペンテコステの日、大胆に福音を語り3千人を救いに導いたのでした。天国の門を開いたのです。また、異邦人の百卒長コルネリオや家族や部下に福音を語り、異邦人世界にも天国の門を開いたのです。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」とイエス様が語られたのはこのことではないでしょうか。
 イエス様は、素晴らしい信仰告白をしたペトロ、けれども、イエス様の十字架を否定し、人間的な成功の道を歩こうとしたペトロに福音を委ねられました。やがて、イエス様を3度も知らないと言う失敗を犯すペトロでしたが、「わたしの羊を養うように」と語られたのです。失敗もある。罪も犯す。人間的にもなる。サタン呼ばわりもされるような事も言う。そんなペトロに、神様が導かれたその信仰告白の上に、わたしの教会、イエス様の教会を建てるとイエス様が約束されたのです。
 青葉台教会は、創立40周年を迎えました。この地にイエス様が、「わたしの教会を建てる」といわれたように、教会が形成されてきました。教会とは、教会堂のことではなく、本来は集会と言う意味があり、神の民の集まり、イエス様を信じる者の群れを指します。イエス様は教会堂を建てると言われたのではなくて、目に見えない、霊的な意味でのイエス様の十字架と復活を信じる者の交わりとしての教会を指して言われました。神様は青葉台の地に、イエス様を信じる者たちを起こされ、40年という間、守り導いて下さいました。福音が語られ、多くの方々が救われました。天国の門が開かれてきたのです。これからも、青葉台教会という群れを通してイエス様の十字架と復活が語られることによって、魂を救って下さるのです。私たちもペトロと同じように、イエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白する群れであり、イエス様が「わたしの教会を建てる」と言われた教会として、福音を語り続ける群れ、イエス様の愛によって結び合わされる群れ、愛し合い、赦し合い、受け入れ合う群れとして歩んでいきたいと思うのです。

 Ⅲ結論部
 教会をギリシャ語では、「エクレーシア」と言います。エクレーシアとは、「世から呼び出された者の集まり」を意味します。教会とは、世から呼び出された者たちの集まりなのです。私たちは集まってきた者ではなく、呼び出された者の群れなのです。この40年間で多くの方々が呼び出されたのです。そのことを覚えて感謝したいと思うのです。
 ペトロはイエス様の十字架を避けさせようとしました。私たちも苦しいこと、つらいこと、いやなことを避けようとします。いろいろな問題をとんでもない不幸でもあるかのように受け取ることがあります。苦しみイコール不幸ではないのです。「十字架なくば、冠なし」と言った人がいます。「No cross ,no Crown」。ポールトルニエというスイスの精神科医は、「人間は苦しむことなしには、残念なことに、ある世界は開かれない。開眼しない。苦しむことが嫌でも、苦しんでいる人と苦しみを分かち合うことなしには、ある世界は開かれない。苦しんで十字架にかかって死んで下さった苦難の人、イエス・キリストに触れることなしには、永遠の世界は開かれない。」と言いました。 苦しみのない人生は憐れなことなのです。なぜなら、大切なことを発見できないからです。特別な喜びも体験できないのです。
 ペトロはその苦しみを避けさせようとして失敗したのです。けれども、失敗も必要でした。失敗をしない人は信頼できません。ペトロは多くの失敗がありましたが、失敗を通して見るべきものを見ることができたのです。イエス様はこの弱いペトロ、失敗の多いペトロに素晴らしい信仰告白をさせて下さり、福音を委ね、この岩の上にわたしの教会を建てると約束されたのです。私たちが、イエス様を主と告白する信仰の上に、イエス様はイエス様ご自身の教会を建てて下さるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11月2日 礼拝メッセージ

2008-11-02 12:30:18 | Weblog
      主日礼拝(三位一体後第25主日)     2008.11.2
          「もし信じるなら」 ヨハネ11:25-44

 Ⅰ導入部
 おはようございます。今日も愛する兄弟姉妹と共に、私たちの救い主イエス・キリスト様を礼拝できますことを感謝致します。11月の第一主日を迎えました。今日は、召天者記念礼拝であり、先に召されました兄弟姉妹を偲びつつ、先に天に召された方々が持たれていたその信仰について共に考えたいと思うのです。今日は先に召されました、愛する兄弟姉妹のご家族やご親戚、お友だちの方々がこの礼拝に集っておられます。愛する者を先に天に送り、悲しみと痛みの中にある方々の上に、神様の豊かな慰めと励ましがありますようにと心からお祈り致します。
 今日は、告別式の時にもよく開かれる聖書の箇所、ヨハネによる福音書11章25節から44節を通して、「もし信じるなら」という題でお話ししたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈涙の訴え
 25節を皆さんで御一緒に読みましょう。「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」」 「わたしは復活であり、命である。」という言葉は、教会の墓碑に刻まれている聖書の言葉の中で一番多い言葉のように思われます。教会の墓地は、墓碑に聖書の言葉が刻まれています。死んだ者たちの体を葬った場所、死んだら終わりだとよく言われるように、冷厳(れいげん)な人間の死の事実に対して、どんなに立派なお墓を作っても、それは慰めにもなりません。けれども、人間の悲しい死ではりますが、墓石にこの聖書の言葉、「わたしは復活であり、命である。」という言葉が記されてあると深い慰めと励ましを覚えます。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。」とイエス様は言われました。私たち人間を支配するのは、死ではなく命であるとイエス様は宣言されたのです。この復活の命、よみがえりの命を信じて、愛する兄弟姉妹は天に召されていかれたのです。
 今日のこの箇所には、二人の姉妹が登場します。イエス様は愛する兄弟ラザロを亡くして悲しみの中にあるこのマルタとマリアとの会話を通して、復活の命を告げられ、ラザロをよみがえらされたのです。マルタとマリアは、ラザロが死んでしまう前に、イエス様の所に使いを出しました。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。」と。リビングバイブルという聖書には、「先生、あなた様が目をかけてくださったラザロが重い病気にかかり、明日をも知れない状態です。」(11:3)とあります。愛する者が病気をして、明日をも知れない状態だと聞くと、私たちは何を差し置いても、その人のもとにかけつけるでしょう。けれども、イエス様は、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって、栄光を受けるのである。」(11:4)と言われて、愛するラザロが病気であると聞かれても、ラザロのいるベタニア村には行かれなかったのです。ラザロの病気が急変して、もうだめかなと思われた時に、マルタとマリアはどんなにかイエス様の到着を待ったことでしょうか。死を前にして何にも望みを持てないその時こそ、イエス様がそばにいて下さったらと二人はそう思ったに違いないのです。
 イエス様は、ラザロが死んで4日もたった時に、ラザロの死を待つかのようにしてベタニア村へやってこられたのです。マルタはイエス様がようやく来られたという知らせを聞いて、迎えに行ってイエス様の顔を見るやいなや、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と訴えたのです。また、マリアは、姉のマルタから「先生がいらして、あなたをお呼びです」と告げられて、イエス様に会いに行きました。マリアもマルタと同じように、イエス様の顔を見ると「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と訴えたのです。 マルタとマリアは、二人とも、「あの時、ラザロが死ぬ前にここにイエス様がおられたら」と何度心の中で繰り返し、繰り返し思ったことでしょう。
 私たちも愛する者の死に直面した経験を持つ者として、マルタやマリアの気持ちがよくわかるのではないでしょうか。「神様助けて下さい。ここにいて助けて下さい。」そのように何度も何度も祈られたことでしょう。マルタとマリアにとって、ラザロの死はとても辛いことです。しかし、その時にイエス様が共におられなかったということが耐えることのできない絶望であったに違いないのです。
ラザロが死んだ4日目に来られたイエス様に、その苦しみを二人共に訴えたのです。これもひとつの祈りの形だと思うのです。そのように訴える者に対して、イエス様は、その嘆きや悲しみを理解して下さるお方なのです。だからこそ、私たちはイエス様に訴えたい、祈りたいと思うのです。

 ⒉涙を流すイエス様
 11章の35節を皆さんで御一緒に読みましょう。「イエスは涙を流された。」イエス様が泣かれたのです。聖書の中でイエス様が泣かれたとあるのはこの箇所以外にはありません。イエス様は、「「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」」と言われたお方です。イエス様がご自身もよみがえられるお方であり、このあと、イエス様は死んだラザロをもよみがえらせられるお方なのに、イエス様はどうして泣かれたのでしょうか。復活の主であるイエス様が、なぜ死をいたむのでしょうか。死人をよみがえらせることがおできになるイエス様が来られたのに、目の前にいるのに、マリアは泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、よみがえりを信じることのできない人々に対して憤りを覚えて涙を流されたのではないかと言われます。
 イエス様の涙は、人間の不信仰に対する憤りの涙と同時に、イエス様は、人が悲しんでいる時に、自分だけは違う。神の子として高い所から見下ろして、人々の不信仰と愚かな嘆きを冷静に眺めている、覚(さ)めた目で見ているお方ではないと思うのです。マルタの悲しみ、マリアの痛みをよく理解しておられたのだと思うのです。人間は必ず死を経験しなければなりません。それは全ての人間にとって平等なことです。その死ななければならない人間に、たとい肉体において死んでもなおい生きることができる命の道を開くために、示すために、神であるイエス様が私たちと同じ肉体を持ってこの地に来られ、私たちの身代わりに十字架で死んで下さるようなことまでもして下さったのだと思うのです。このイエス様の涙は偽りではありません。このイエス様の流された涙こそ、愛のしるしだと思うのです。
 イエス様は、愛する者を失い悲しみの中にある私たちのためにも涙を流してくださるお方です。私たちが愛する者の死を前に悲しみの涙を流します。しかし、いくら涙を流したとしても、涙そのものは無力であるということを私たちはつくずく思わされます。所詮、人間は死んだら終わりだ、と多くの人は考えます。確かにその通りでしょう。肉体を持つ私たちはそのような存在なのです。けれども、愛する者の死を嘆いている時に、イエス様は共にいて下さるのです。共に涙を流して下さるのです。
 この後、イエス様は死んだラザロをよみがえらせてマルタとマリアに喜びを与えられました。けれども、ラザロはもう一度死ぬのです。マルタもマリアもこの地上の生涯を終えます。私たちも皆同じです。けれども、「わたしは復活であり、命である。」と宣言されたイエス様の復活の命の中で生きて、そして死ぬことができたのです。イエス様は、ラザロの死、愛する者の死、人間の死を通して、イエス様は復活の命を示すために、ラザロの死ぬのを待って、ラザロが死んだ後においでになったのではないかと思うのです。
 イエス様は、姉のマルタと妹マリアに対する態度は対照的だと思います。マルタもマリアも、同じように、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と訴えました。そのように訴えたマルタには、「あなたにお兄弟は復活する。わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と言われました。冷静な神の子、神様としての姿がここにあるように思います。そのイエス様は、マリアに対しては、マリアや人々の泣いているのを見て、感動し、心を騒がせ、そして、涙を流された。イエス様は私たちと同じように、ありのままの人間の姿がここにあるように思うのです。イエス様は神であり、人であったということが理解できるように思うのです。
 このイエス様は、愛する者を失った私たちの悲しみや痛みに同情して下さるお方です。イエス様は私たちの悲しむ姿を遠くで冷静に眺めているお方ではなく、そばに来て共に涙を流して下さるのです。と同時に、神様の権威を持ち、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と私たち一人ひとりにと問われているのです。

 ⒊信じましょう
 涙を流されたイエス様は、ラザロが葬られている墓にやって来られました。イエス様は、洞穴でふさがれている石を取りのけるようにと言われました。マルタは「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます。」と言いました。マルタは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と問われて、「信じます」と告白しながらも、再び人間の思いが忍び込んでしまいました。ラザロを納めている墓の前で、死という厳しい現実の前では、どうすることもできなかったのです。
 また、イエス様の流された涙を見ながら、人々が「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言って、不信と絶望感がそこにはあったのです。人間の死を前にして、人間である私たちは無力です。けれども、イエス様は言われるのです。40節を御一緒に読みましょう。「イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。」
 私たちは、今日召天者記念礼拝を守るためにここに集っています。愛する者の死、愛する夫、妻、愛する親、子ども、親友、教会の兄弟姉妹の写真が今皆さんの前にあります。今生けていればどのような大人になっていたのだろうかと思われるような若い方々もおられます。突然の事故、不慮の出来事、重い病気、長寿を全うしてと、その死にはいろいろあると思います。長寿を全うしたからいいだろうと言うのではなく、やはりその別れは悲しいものです。辛いものがあります。「何故、あの時神様は助けて下さらなかったのだろうか。」と今も自問し、神様に祈り続けておられる方々もおられることだと思います。「イエス様を信じているのに、どうして助けて下さらなかったのだろうか。」と問い続けておられることでしょう。マルタもマリアも同じでした。イエス様に力がなくて助けて下さらなかったというのではなく、イエス様はラザロの危篤を聞いた時、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって、栄光を受けるのである。」と言われました。「死で終わらないと言われたのに、死んだではないか。」と言う人もいるでしょう。死が終りではない。人間は死んだら終りだと思っている。けれども、死では終わらない世界がある。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」という世界。神様は人間の罪のゆえに死を定められました。全ての人は死を経験しなければなりません。けれども、神様はイエス様をこの地上に送り、私たちの罪の代わりに、罪のない、罪を知らないお方、イエス様を十字架につけてさばくことによって、私たちの犯す過去、現在、未来の全ての罪を赦した、と宣言して下さいました。私たちの罪はイエス・キリスト様の十字架にゆえに、神様の前に罪は一切赦されているのです。そして、イエス様は死んで復活することを通して、イエス様を救い主と信じる者には、同じように復活の恵みを与えて下さるのです。この復活の信仰、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。」という神様の約束を信じて、召されていかれたのが、写真のある方々なのです。
 その死に方は様々ですその死に方がいいとか悪いとかはいっさいありません。死は神様の領域なのです。愛する者の死を通して、愛する者の死を経験して、私たち人間はいつか死ぬのだということを心に覚え、やがて私も死んでいく存在であることを認めるのです。そして、死んで終りではなく、死んでも生きる世界、復活の望みを私たちは与えられるのです。皆さんの愛する者、家族、友人は、信仰を持って、復活の望みを持って天に召されて行かれました。あなたはどうですか。復活の望みがありますか。もしないとしたら、それは大変なことです。先に召された、愛する皆さんの家族や友人は、天国でまた会えるという信仰を持って召されていったのです。もし、あなたが信仰を持たずして、天国に行かれなかったとするならば、ここにいる方々はどんなに悲しまれることでしょうか。先に召された方々は、イエス様の十字架が自分の罪の身代わりであることを信じて罪赦され、イエス様の復活に自分もあずかれると信じて召され、その信仰どおりに復活の恵みに預かることができるのです。どうか同じ信仰をもっていただきたいと思うのです。それが、ここにいる方々、先に召された方々の心からの願いに違いないのです。もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われるキリストの言葉を信じようではありませんか。

 Ⅲ結論部
 イエス様は、「ラザロ、出て来なさい。」と言われて、死んだラザロをよみがえらされました。しかし、これはラザロだけの話しではないのです。ラザロは私たちの代表です。イエス様は、マルタに対して「わたしは復活であり、命である。」と言われた時、御自分が必ずよみがえる、復活するということを明らかに示しておられるのだと思います。十字架について殺され、墓に葬られるけれども三日目にはよみがえられるのです。それだけではなく、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。」のです。
 私たちがイエス様に出会うということは、イエス様の命の手の中でとらえられ、死を越えてしまうということなのです。このよみがえりのイエス様に出会った人間は、たとい死んでも生きるのです。マルタとマリアは、ラザロの重い病気なら治せると信じていました。けれども、死んでしまったらどうしようもない。いくらイエス様でもどうにもならない。だから、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と訴えたのでした。けれども、イエス様はそのどうにもならない、愛するラザロの死で悲しんでいるマルタに向かって、「死という高い壁は私によって、破られる。わたしの復活で死に勝利する」とでも言うように、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と語られたのです。マルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」とお答えしたのです。
 私たちには、イエス様を通して希望があるのです。死は終りではありません。イエス様が十字架で死んで、よみがえられたことを通して、私たちは罪が赦され、永遠の命の望み、天国の望みが与えられているのです。ここに写真が立てられている方々、先に天に召された方々、あなたの愛する方の写真を見て下さい。これらの方々は、あなたに何を望んでおられるのでしょうか。また、あなたの望みは何ですか。これらの方々とまた会いたいということではないでしょうか。それならば、あなたはどうしたらいいかおわかりでしょう。これらの方々がイエス様を信じていかれたように、あなたも自分の心に罪があることを認めて、イエス様の十字架のゆえに、その罪が赦されていることを信じ、イエス様の復活を信じるならば、愛する者ともう一度天の御国で会うことができるのです。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と問われるイエス様に、「信じます」と応答しようではありませんか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする