主日礼拝(アドベント第1主日) 2008.11.30
「神から恵みをいただいた」 ルカ1:26-38
Ⅰ導入部
おはようございます。今日も愛する兄弟姉妹と共に、私たちの救い主イエス・キリスト様を礼拝できますことを感謝致します。11月の第五主日の礼拝、アドベント第一主日の礼拝です。私たちの救い主であるイエス・キリスト様の誕生を記念するクリスマスが近づいてまいりました。教会以外では、随分前からクリスマスの飾り付けが始まっていたように思います。アドベント第一主日を迎えた多くの教会では、ようやく質素な飾りつけがなされているように思います。
アドベントクランツのロウソクに一つ灯りがともりました。これから一つひとつローソクに火がともるのを見ながら、イエス様のご降誕を覚えて心からの喜びを表していきたいと思います。
今日はルカによる福音書1章26節から38節を通して、「神から恵みをいただいた」という題でお話ししたいと思います。この同じ題で、2005年のアドベント第二主日でメッセージをしておりました。昨年のクリスマスシーズンには、「マリア」という映画があり、教会学校の子どもたちはこの映画を見に行きました。私は一足先に見ましたので、一緒には見なかったのですが、クリスマスにふさわしい映画だったと思います。レンタルで借りられると思いますので、まだ見ていない方は一度御覧になるといいです。今日は、マリアについて見させていただきたいと思います。
Ⅱ本論部
⒈選ばれたマリア
マリアという名前は、メアリー、マリー、ミリアムというようにいろいろな形で呼ばれている世界中で最も一般的な名前のようです。このマリアの家族については、聖書の中ではしるされてはいません。マリアについてわかっていることは、ナザレ出身のヨセフの妻になったということだけです。ヨセフとマリアは、ユダ部族の出身でダビデの子孫でありました。
神様が御子イエス様の生みの親としてマリアをお選びになりました。マリアという人は、私たちと同じように、通常と同じように母親から生まれました。罪の本質を持って生まれました。マリアには罪がないので、救い主イエス様の母親になったのではありません。マリアにも人間としての限界と欠点がありました。マリアもまた、全ての人間と同じように罪を持つ人間として救い主を必要とする女性の一人であったのです。肉体的には私たちと何も変わりはありません。特別な何かがあったわけではありません。しかし、マリアはイエス様を産む器として、救い主の母親として神様に選ばれたのです。どうしてマリアが救い主に選らばれたのか、本当の理由は神様にしかわからないでしょう。その権限は神様にあります。神様がその権威を持ってマリアを選ばれたのです。
31節にありますが、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」と言われます。男の人を知らない女性が子どもを産むということは常識的には考えられないことです。ですから、神様の選びの先には不安と心配がありました。神様に選ばれた、というのは名誉なことかも知れませんが、前途多難が予想されるものであったのです。マリア自身が、救い主のお母さんになると立候補したわけではありません。彼女の意思とは関係なく、神様に選ばれたのです。
このようなお話を本で読みました。「アメリカのロサンゼルスにある日系人の夫婦がおられて、子どもがほしいと願いながらもなかなか赤ちゃんが与えられなかったようです。結婚して、3年が経ち、5年が経ち、7年が経ち、10年経っても赤ちゃんは生まれませんでした。ところが、13年目にしてやっと待望の赤ちゃんが生まれました。ご主人は喜んで赤ちゃんを抱き上げました。奥さんはベッドから身を乗り出して言いました。「ねえ、あなた早く、早く赤ちゃんを見せて」。でも、ご主人は赤ちゃんを見て動けなくなりました。なぜかと言うと、見るもかわいそうな先天的に異常に生まれてきた赤ちゃんだったからです。ご主人は、言葉を捜すことができないで、そのまま奥さんのところへ行くと赤ちゃんを見せました。奥さんは、一瞬顔が曇ったと思ったら、すぐ微笑を取り戻してこう言いました。「ねえ、あなた。神様がこの赤ちゃんを、どの家庭に預けようか、どの家庭に預けようかと、何年も何年も世界中をお巡りになったので、こんなに年月を要されたんですね。そして、この夫婦なら大丈夫と、そう思われて私たちに託されたんですもの。ねえ、あなた、しっかり育てましょう。」」
神様は、マリアを救い主のお母さんとして選ばれました。それは、彼女を信頼して救い主を預けられたのです。彼女なら、救い主をしっかりと育ててくれると委ねて下さったのです。私たちは、「何でこんな夫なの。何であんな妻なの。何でこんな子どもなの。何でこんな親なの。何であんなお姑さんなの。」と思ってしまうことはないでしょうか。それは、神様があなたに任せても大丈夫とあなたを信頼して、その人を委ねておられるのです。その人たちに愛をもって仕えようではありませんか。
⒉恵みということは
神様は、マリアをご自身の御子イエス様の母親として選ぶことによって、歴史上どの女性よりも高い栄誉をお与えになりました。けれども、もし救い主イエス様と同等のあるいはそれ以上の栄誉をマリアに与えるとしたら、それは問題だと思います。救い主のお母さんという栄誉は栄誉ですが、救い主のお母さんだから、イエス様と同じような権威を持っていたかというとそうではないのです。私たちと何も変わらないのです。マリアを偶像化してはならないのです。マリアは、彼女を通して神様の完全なみこころが実現するために、その管として選ばれ、用いられた女性なのです。彼女は、自分のための神様の御計画に対して、純粋を、謙遜を、信仰を、服従を示しました。
28節、29節を共に読みましょう。「天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」 神様が共におられるということは大きな恵みです。私たちも神様が共にいて下さると信じます。共にいて下さると苦しいことや悲しいことがないかというとあるのです。では、苦しいことや悲しいことがあるということは神様が共におられないということでしょうか。マリアは、神様が共におられる、と聞いて、戸惑いました。胸騒ぎがしたのです。神様が共におられると信じる私たちも、戸惑います。胸騒ぎがあります。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」という天使の言葉、神様の言葉は、「これから良いことばかりですよ。何の問題もないですよ。」という意味ではないでしょう。その言葉が神様の言葉であっても、その内容が素晴らしいものであっても、私たちは恐れるのです。戸惑ったり、胸騒ぎがして心配することは不信仰ではないのです。
30節を共に読みましょう。「すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」」 さらに輪をかけた神様の祝福の言葉が語られました。 戸惑い、不安に思っているマリアに、「マリア、恐れることはない。」と告げられました。そう言われたので、恐れが吹き飛んだという人もおられるでしょうが、「恐れるな」と言われても恐れてしまう私たちではないでしょうか。「やめろと言われてもゴーゴー」という歌がありましたが、そう言われてもやめられないのです。先ほどは、「恵まれた方」と言われ、「あなたは神から恵みをいただいた。」と重ねて恵みを強調されたのです。 私たちが、「恵みをいただいた」という言葉から想像する内容は、良いことがあったとか、成功した。うれしいことがあった。夢がかなった。と自分にとっての得と言われるものでしょう。
けれども、恵みが二重に語られた次の言葉は、「あなたは身ごもって男の子を産む」という、驚くような内容だったのです。今のマリアには喜べない内容、喜びどころか罪になってしまうような内容だったのです。私たちも神様の恵みがある、と言われながらも、恵みとは正反対の出来事を経験します。苦しいことや悲しいことがあります。そこにはどのような意味があるのでしょうか。
⒊聖霊の導き
天使は、ただ男の子を産む、という事実だけを伝えたのではありませんでした。 32節、33節を読みましょう。「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」 ただの男の子を産むと言う話ではない。 マリアはユダヤ人が長い間待ち望んでいた救い主を産むというのです。そのような驚くべき内容に、男の人を知らないのにそんなことがあり得るのか、と彼女は問いました。
35節を共に読みましょう。「天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」」 救い主の誕生は、人間一般の関係で生まれるようなものではない。男の人を知らない女性が聖霊によって子を産む。まさに、神様がマリアの体を通して、救い主を誕生させて下さるという神様のみ業なのです。聖霊なる神様がマリアに臨み、救い主を産ませて下さるのです。マリアは聖霊の導きの中で、神様の権威のもとで救い主を産むのです。
同じように、聖霊なる神様は私たちの内に住んで下さり、私たち一人ひとりを神様のみ業のために用いて下さるのです。私たちはマリアと同じような形では用いられないかも知れません。けれども、神様はマリアを用いて救い主を誕生させられたように、私たち一人ひとりに神様の完璧な計画を持っておられるのです。神様は、現代の罪にまみれた世界の中で、ご自身の栄光のために私たち一人ひとりを用いたいと願っておられるのです。聖書は語ります。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」 (Ⅰコリント6:19-20)。
神様はマリアをご自身の栄光のために用いました。また、私たちにもご自身の栄光のために、あなたを用いたいと願っておられるのです。何ができるかどうかが問題なのではありません。マリア自身もびっくりするような内容を聞いて、恐れたでしょう。胸騒ぎがしたでしょう。自分とは全く関係のない世界の話のような気がしたでしょう。今の自分に子どもができたら周りの人々にどのように見られるのか、思われるのか、と考えたのかも知れません。けれども、周りがどうかではなく、神様が自分に対して語られた言葉に素直に従ったのです。38節を共に読みましょう。「マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。」
神様の恵みとは、自分が考えて良いことがある。うまく行きそうなというようなことではなくて、神様が語られる約束の言葉を信じて受け取ることではないでしょうか。神様の言葉であっても、不安もある。心配もある。自分にできるとは思わない。けれども、その恵みの約束が、祝福があなたの言われた通りに、私の身に成りますように、起こりますようにと信じていくことだと思うのです。
私たちの体は聖霊が宿る神殿だと言うのです。罪のないお方、聖いお方イエス様の血が十字架で最後の一滴まで流されるという代価がすでに払われているのです。イエス様の血、命と言う代価が払われたのです。そして、あなたは神様のものだから自分の体で神様の栄光を現してほしいと神様はあなたに願っておられるのです。
Ⅲ結論部
マリアの親戚であったエリサベトは、マリアのことを「あなたは女の中で祝福されたお方です。」と言いました。マリアはたたえられましたが、それでもただの女性です。私たちと何ら変わらない存在です。マリアは神様のような礼拝の対象ではありませんし、対象にしてはならないのです。けれども、マリアの神様の言葉に対する姿勢、神様に従った彼女の姿は、私たちの従うべき良き模範だと思います。ヨセフとマリアは貧しい生活だったので、イエス様に贅沢(ぜいたく)をさせることはできませんでした。イエス様の下に弟4人、妹2人がいましたからなおさらでした。イエス様に高い教育を受けさせることも、高価な服を着せることもできませんでした。イエス様は7人兄弟の長男として、他の家庭と変わらない生活をし、成長し、両親に従われたのです。マリアは母親として特別に何もしてあげることはできなかったのです。何も与えることはできなかったでしょう。けれども、マリアはイエス様の母親として、神様に対して敬虔な母親だったでしょう。マリアは現代の母親がしている同じことをしただけかも知れません。イエス様は両親の愛と兄弟たちの交わりの中で育ったのです。マリアはイエス様を産んだことに間違いありません。そのことにおいて、母親として大きな意味があるのだと思います。私たちは子どもたちのために何をしているのでしょうか。何を求めているのでしょうか。物質的に、教育的に満足させようとするあまりに、もっと大切なものをおろそかにしているのではないでしょうか。
マリアは、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」という天使の言葉に、恐れながらも、心配しながらも、その恵みのみ業が自分になるようにと応答したのです。その神様に対する姿勢をイエス様も学んだのかも知れません。
私たちも神様から恵みをいただいているのです。目に見える形はそうは見えないかも知れません。けれども、今朝神様は私たちに約束しておられるのです。マリアのように、自信はなくても、心配があっても、「お言葉どおり、この身に成りますように。」と神様に応答していこうではありませんか。
「神から恵みをいただいた」 ルカ1:26-38
Ⅰ導入部
おはようございます。今日も愛する兄弟姉妹と共に、私たちの救い主イエス・キリスト様を礼拝できますことを感謝致します。11月の第五主日の礼拝、アドベント第一主日の礼拝です。私たちの救い主であるイエス・キリスト様の誕生を記念するクリスマスが近づいてまいりました。教会以外では、随分前からクリスマスの飾り付けが始まっていたように思います。アドベント第一主日を迎えた多くの教会では、ようやく質素な飾りつけがなされているように思います。
アドベントクランツのロウソクに一つ灯りがともりました。これから一つひとつローソクに火がともるのを見ながら、イエス様のご降誕を覚えて心からの喜びを表していきたいと思います。
今日はルカによる福音書1章26節から38節を通して、「神から恵みをいただいた」という題でお話ししたいと思います。この同じ題で、2005年のアドベント第二主日でメッセージをしておりました。昨年のクリスマスシーズンには、「マリア」という映画があり、教会学校の子どもたちはこの映画を見に行きました。私は一足先に見ましたので、一緒には見なかったのですが、クリスマスにふさわしい映画だったと思います。レンタルで借りられると思いますので、まだ見ていない方は一度御覧になるといいです。今日は、マリアについて見させていただきたいと思います。
Ⅱ本論部
⒈選ばれたマリア
マリアという名前は、メアリー、マリー、ミリアムというようにいろいろな形で呼ばれている世界中で最も一般的な名前のようです。このマリアの家族については、聖書の中ではしるされてはいません。マリアについてわかっていることは、ナザレ出身のヨセフの妻になったということだけです。ヨセフとマリアは、ユダ部族の出身でダビデの子孫でありました。
神様が御子イエス様の生みの親としてマリアをお選びになりました。マリアという人は、私たちと同じように、通常と同じように母親から生まれました。罪の本質を持って生まれました。マリアには罪がないので、救い主イエス様の母親になったのではありません。マリアにも人間としての限界と欠点がありました。マリアもまた、全ての人間と同じように罪を持つ人間として救い主を必要とする女性の一人であったのです。肉体的には私たちと何も変わりはありません。特別な何かがあったわけではありません。しかし、マリアはイエス様を産む器として、救い主の母親として神様に選ばれたのです。どうしてマリアが救い主に選らばれたのか、本当の理由は神様にしかわからないでしょう。その権限は神様にあります。神様がその権威を持ってマリアを選ばれたのです。
31節にありますが、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」と言われます。男の人を知らない女性が子どもを産むということは常識的には考えられないことです。ですから、神様の選びの先には不安と心配がありました。神様に選ばれた、というのは名誉なことかも知れませんが、前途多難が予想されるものであったのです。マリア自身が、救い主のお母さんになると立候補したわけではありません。彼女の意思とは関係なく、神様に選ばれたのです。
このようなお話を本で読みました。「アメリカのロサンゼルスにある日系人の夫婦がおられて、子どもがほしいと願いながらもなかなか赤ちゃんが与えられなかったようです。結婚して、3年が経ち、5年が経ち、7年が経ち、10年経っても赤ちゃんは生まれませんでした。ところが、13年目にしてやっと待望の赤ちゃんが生まれました。ご主人は喜んで赤ちゃんを抱き上げました。奥さんはベッドから身を乗り出して言いました。「ねえ、あなた早く、早く赤ちゃんを見せて」。でも、ご主人は赤ちゃんを見て動けなくなりました。なぜかと言うと、見るもかわいそうな先天的に異常に生まれてきた赤ちゃんだったからです。ご主人は、言葉を捜すことができないで、そのまま奥さんのところへ行くと赤ちゃんを見せました。奥さんは、一瞬顔が曇ったと思ったら、すぐ微笑を取り戻してこう言いました。「ねえ、あなた。神様がこの赤ちゃんを、どの家庭に預けようか、どの家庭に預けようかと、何年も何年も世界中をお巡りになったので、こんなに年月を要されたんですね。そして、この夫婦なら大丈夫と、そう思われて私たちに託されたんですもの。ねえ、あなた、しっかり育てましょう。」」
神様は、マリアを救い主のお母さんとして選ばれました。それは、彼女を信頼して救い主を預けられたのです。彼女なら、救い主をしっかりと育ててくれると委ねて下さったのです。私たちは、「何でこんな夫なの。何であんな妻なの。何でこんな子どもなの。何でこんな親なの。何であんなお姑さんなの。」と思ってしまうことはないでしょうか。それは、神様があなたに任せても大丈夫とあなたを信頼して、その人を委ねておられるのです。その人たちに愛をもって仕えようではありませんか。
⒉恵みということは
神様は、マリアをご自身の御子イエス様の母親として選ぶことによって、歴史上どの女性よりも高い栄誉をお与えになりました。けれども、もし救い主イエス様と同等のあるいはそれ以上の栄誉をマリアに与えるとしたら、それは問題だと思います。救い主のお母さんという栄誉は栄誉ですが、救い主のお母さんだから、イエス様と同じような権威を持っていたかというとそうではないのです。私たちと何も変わらないのです。マリアを偶像化してはならないのです。マリアは、彼女を通して神様の完全なみこころが実現するために、その管として選ばれ、用いられた女性なのです。彼女は、自分のための神様の御計画に対して、純粋を、謙遜を、信仰を、服従を示しました。
28節、29節を共に読みましょう。「天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」 神様が共におられるということは大きな恵みです。私たちも神様が共にいて下さると信じます。共にいて下さると苦しいことや悲しいことがないかというとあるのです。では、苦しいことや悲しいことがあるということは神様が共におられないということでしょうか。マリアは、神様が共におられる、と聞いて、戸惑いました。胸騒ぎがしたのです。神様が共におられると信じる私たちも、戸惑います。胸騒ぎがあります。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」という天使の言葉、神様の言葉は、「これから良いことばかりですよ。何の問題もないですよ。」という意味ではないでしょう。その言葉が神様の言葉であっても、その内容が素晴らしいものであっても、私たちは恐れるのです。戸惑ったり、胸騒ぎがして心配することは不信仰ではないのです。
30節を共に読みましょう。「すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」」 さらに輪をかけた神様の祝福の言葉が語られました。 戸惑い、不安に思っているマリアに、「マリア、恐れることはない。」と告げられました。そう言われたので、恐れが吹き飛んだという人もおられるでしょうが、「恐れるな」と言われても恐れてしまう私たちではないでしょうか。「やめろと言われてもゴーゴー」という歌がありましたが、そう言われてもやめられないのです。先ほどは、「恵まれた方」と言われ、「あなたは神から恵みをいただいた。」と重ねて恵みを強調されたのです。 私たちが、「恵みをいただいた」という言葉から想像する内容は、良いことがあったとか、成功した。うれしいことがあった。夢がかなった。と自分にとっての得と言われるものでしょう。
けれども、恵みが二重に語られた次の言葉は、「あなたは身ごもって男の子を産む」という、驚くような内容だったのです。今のマリアには喜べない内容、喜びどころか罪になってしまうような内容だったのです。私たちも神様の恵みがある、と言われながらも、恵みとは正反対の出来事を経験します。苦しいことや悲しいことがあります。そこにはどのような意味があるのでしょうか。
⒊聖霊の導き
天使は、ただ男の子を産む、という事実だけを伝えたのではありませんでした。 32節、33節を読みましょう。「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」 ただの男の子を産むと言う話ではない。 マリアはユダヤ人が長い間待ち望んでいた救い主を産むというのです。そのような驚くべき内容に、男の人を知らないのにそんなことがあり得るのか、と彼女は問いました。
35節を共に読みましょう。「天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」」 救い主の誕生は、人間一般の関係で生まれるようなものではない。男の人を知らない女性が聖霊によって子を産む。まさに、神様がマリアの体を通して、救い主を誕生させて下さるという神様のみ業なのです。聖霊なる神様がマリアに臨み、救い主を産ませて下さるのです。マリアは聖霊の導きの中で、神様の権威のもとで救い主を産むのです。
同じように、聖霊なる神様は私たちの内に住んで下さり、私たち一人ひとりを神様のみ業のために用いて下さるのです。私たちはマリアと同じような形では用いられないかも知れません。けれども、神様はマリアを用いて救い主を誕生させられたように、私たち一人ひとりに神様の完璧な計画を持っておられるのです。神様は、現代の罪にまみれた世界の中で、ご自身の栄光のために私たち一人ひとりを用いたいと願っておられるのです。聖書は語ります。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」 (Ⅰコリント6:19-20)。
神様はマリアをご自身の栄光のために用いました。また、私たちにもご自身の栄光のために、あなたを用いたいと願っておられるのです。何ができるかどうかが問題なのではありません。マリア自身もびっくりするような内容を聞いて、恐れたでしょう。胸騒ぎがしたでしょう。自分とは全く関係のない世界の話のような気がしたでしょう。今の自分に子どもができたら周りの人々にどのように見られるのか、思われるのか、と考えたのかも知れません。けれども、周りがどうかではなく、神様が自分に対して語られた言葉に素直に従ったのです。38節を共に読みましょう。「マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。」
神様の恵みとは、自分が考えて良いことがある。うまく行きそうなというようなことではなくて、神様が語られる約束の言葉を信じて受け取ることではないでしょうか。神様の言葉であっても、不安もある。心配もある。自分にできるとは思わない。けれども、その恵みの約束が、祝福があなたの言われた通りに、私の身に成りますように、起こりますようにと信じていくことだと思うのです。
私たちの体は聖霊が宿る神殿だと言うのです。罪のないお方、聖いお方イエス様の血が十字架で最後の一滴まで流されるという代価がすでに払われているのです。イエス様の血、命と言う代価が払われたのです。そして、あなたは神様のものだから自分の体で神様の栄光を現してほしいと神様はあなたに願っておられるのです。
Ⅲ結論部
マリアの親戚であったエリサベトは、マリアのことを「あなたは女の中で祝福されたお方です。」と言いました。マリアはたたえられましたが、それでもただの女性です。私たちと何ら変わらない存在です。マリアは神様のような礼拝の対象ではありませんし、対象にしてはならないのです。けれども、マリアの神様の言葉に対する姿勢、神様に従った彼女の姿は、私たちの従うべき良き模範だと思います。ヨセフとマリアは貧しい生活だったので、イエス様に贅沢(ぜいたく)をさせることはできませんでした。イエス様の下に弟4人、妹2人がいましたからなおさらでした。イエス様に高い教育を受けさせることも、高価な服を着せることもできませんでした。イエス様は7人兄弟の長男として、他の家庭と変わらない生活をし、成長し、両親に従われたのです。マリアは母親として特別に何もしてあげることはできなかったのです。何も与えることはできなかったでしょう。けれども、マリアはイエス様の母親として、神様に対して敬虔な母親だったでしょう。マリアは現代の母親がしている同じことをしただけかも知れません。イエス様は両親の愛と兄弟たちの交わりの中で育ったのです。マリアはイエス様を産んだことに間違いありません。そのことにおいて、母親として大きな意味があるのだと思います。私たちは子どもたちのために何をしているのでしょうか。何を求めているのでしょうか。物質的に、教育的に満足させようとするあまりに、もっと大切なものをおろそかにしているのではないでしょうか。
マリアは、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」という天使の言葉に、恐れながらも、心配しながらも、その恵みのみ業が自分になるようにと応答したのです。その神様に対する姿勢をイエス様も学んだのかも知れません。
私たちも神様から恵みをいただいているのです。目に見える形はそうは見えないかも知れません。けれども、今朝神様は私たちに約束しておられるのです。マリアのように、自信はなくても、心配があっても、「お言葉どおり、この身に成りますように。」と神様に応答していこうではありませんか。