江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2018年1月28日)

2018-01-28 15:11:24 | Weblog

救いへの道 ヨハネ3:1~15、7:50~51、19:39~40 128日 岩淵兄

1、今日は、ニコデモを通じて“救いとは何なのか”ということを考えてみたい。ニコデモの記事は、ヨハネにのみある。彼が、どのように救いに至ったか順に記されている。

ニコデモは、年配のパリサイ人で、まじめで、律法をまもる、敬虔なひと。しかも最高

法院(サンヘドリン)の役人、著名な教師の一人であり、当時のユダヤ社会の典型的な有力者、有名人。(新約外典、ニコデモ福音書)

 

2、救いへの第1歩は、まずイエスとの出会いです。

当時の、ユダヤ社会では、イエスの教え、奇跡のわざが、民衆の間に広がり、このイ

エスは、本当に神から遣わされた救い主ではないかという、漠然とした不安が最高法院の議員や律法学者、祭司、パリサイ人たちの間に広がっていたのではないかと思う。

ニコデモは、夜に人目を避けるようにイエスのところにきたのであります。社会的な地位があったばかりでなく、民衆に対しても大きな影響力を持つ人物であったから、自分の行動が直ちに大きな波紋を起こすことをはばかり、夜訪ねてきたものと思われます。

同時に彼は、自分の人生に何か足りないもの、律法を守ることだけでは、充足できない、何かがあると思っていたのではないかと思います。だから、かれは「ラビ、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」とイエスにいいます。いいかえると、「どうしたら救われて神の国に入ることができるのか知りたい」のですと問うているのであります。救いの第1歩は、イエス様との出会いです。求道の強さもあって、わざわざ夜に訪ねてきたのだと思います。

私たちも、イエス様に初めて出会ったのは、どんな時、場だったでしょうか。人それぞれの出会いがあったと思います。ルカの福音書に、シメオンという人のイエス様との不思議な出会いが記されています。シメオンは、正しい人で信仰が厚い高齢の人だと記されており、パリサイ派の一人だったと思われます。聖霊から主が遣わすメシアに会うまで決して死なないと言われていた。何百年前からの預言の実現を信じて長い間待ち望んでいた。ヨセフとマリヤがイエスを連れて、神殿に献げるためきたときに出会ったのです。シメオンは、イエスを腕に抱き神をたたえて、主よ、いまこそ、私はこの目で救い主を見た。この僕を安らかにさらせてくださいと言ったという話があります。神のみ言葉を信じ、希望をもって待つという信仰の在り方を示しています。1回の出会いの中に救いの確信と信仰者の在り方が示されております。(ルカ2:22~35)

救いは、イエス様との出会いがあって始まると言ってもいいでしょう。教会に来られということも、第1歩を踏み出し、イエスに出会っているということです。

 

3、救いへの第2歩は、救いとは、何かを知ることです。

ニコデモは、彼の信仰告白ともいうべき、しるしを見たから信じると発言をしています。

これに対し、イエスは、しるしを見たから信じたのではだめだ、あなた自身が新しく生まれなければ、神の国を見ることはできないと言います。

ニコデモは、意味が理解できず、出産をどうして2度繰り返すことができるのですかと反論します。ニコデモは、赤ちゃんとして生まれる肉体の誕生しか頭になく、霊的誕生のことについては理解できなかったのです。肉体の誕生と、霊の生まれ変わりとの区別ができなかったのです。

イエスは、さらに水と霊とによって生まれなければ神の国に入ることはできないと言います。肉の誕生しかしてない人は、生まれながらの人にすぎません。み霊による霊の生まれ変わりを経験した人だけが生まれ変わったのです。

ウイリアム・ジェームズという心理学者が、「1度しか生まれたことのない人は2度死ぬ。しかし、2度生まれた人は1度しか死なない」と言っています。普通の誕生と霊の誕生、新生。肉体の死と永遠の命の死。

さらに、イエスは肉から生まれたものは肉である。肉とは生まれながらの人間の姿です。霊から産まれたものは霊であると言います。ニコデモはますます混乱。イエスは、ニコデモに、人間として律法の研鑽、宗教的修練を積むという人間的まじめさによっては、救いにも神の国にも入ることはできないと言っているのであります。彼は、人間の理性と経験を頼りとし、自分の理性で理解できることと、体験したことという目に見えるものだけしか受け入れることはできませんでした。(鈴木秀子シスターの話はいる。)

さらに、イエスは、積極的に彼を教え導こうとしています。風と霊について話をしています。ギリシャ語ではどちらもプニュウマといい、同じ言葉です。風は人の目にはみえない、しかしその存在を全身で感じることができる。霊も同じで、存在は目で見ることはできないが、その力強い働きは、全身をもって実感できる。その霊の働きは自由自在で人間の意のままに動かされることはない。

パウロは、「肉に従う者は、肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思う。肉の思いは死であるが、霊の思いは生命と平安である」(ローマ8:5~6)と言っている。

我々自身も、また自分の力の限界を知り、救いはただ神からくるという厳粛なことを認識すべきです。

円熟した年であり、神からの啓示である旧約聖書に精通していたニコデモでも、イエスの話は理解できなかった。自然の人は、神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり理解できないのです。霊によってはじめて判断できるからです。知識や経験などの人間的能力の積み重ねによっては決してわかることができない。正しい信仰に導かれるためには、その奇跡を見てそこに神の力を認めただけでは不十分で、霊的に新しく生まれなければ、本当の信仰ではない。

 

4、最後が、救いに導かれるニコデモです

パウロは、聖霊の神が働き、私たちを清め、全く新しく生まれ変わらせ、こうして救ってくださった(テトス3:5)といっています。

ニコデモは、民数記21章にある、荒れ野で棒の先につけられた青銅の蛇を見た人は救われたという話はよく知っていたとおもいます。しかし自分の救いと、どう関係しているのかについては、理解できなかったようです。

ニコデモは、7:50~51で、議員や律法学者がイエスをとらえようとしているときに、彼らの前で、「我々の律法では、まず本人から事情を聴き、何をしたかを確かめたうえでなければ判決を下してはならない」ことになっているではないかといい、イエスが無罪であることを公に表明している。人目を気にしながら、夜そっとイエスを訪ねてきたときの姿から神の導きにより一歩踏み出していることがわかります。

19:39~40で、イエスを十字架上から取り下ろし墓に葬りたいと、隠れた弟子でパリサイ人の有力者、アリマタヤのヨセフが公然とピラトに申し出たとき、ニコデモも

公然と葬りのため、没薬、沈香をもってきて、2人で墓に収めた。十字架上のイエスを見てニコデモは、3年前にイエスが言った、青銅の蛇の意味がわかったのであります。

罪のないイエスが、自分も含めた、われわれ人間の罪の贖罪のために十字架にかかって我々を救ったのだということ。それを見上げ、信じれば救われるということが分かったのです。

ニコデモは、十字架上のイエスを見上げ、悔い改め、信仰をみなのまえで告白したのであります。この世のことから離れ、イエスと共に生きていくことを。イエスとの出会いから3年たった。救いに入るにはこれでいいのだとイエスはいっているのです。

「キリストを心から喜び迎え、受け入れた人は、みなこの方から神の子となる特権をいただきました。それには、ただ、この方が救ってくださると信じればよかったのです。信じる人はだれでも新しく生まれ変わります。それは人間の熱意や計画によるものではありません。神がそう望まれたからです。」(ヨハネ1:12~13、リビングバイブル)

「あなた方は、主イエスキリストを受け入れたのですからキリストに結ばれて歩みなさい」(コロサイⅡ、2:6)

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日曜礼拝(2018年1月21日)

2018-01-21 12:21:57 | Weblog

日曜礼拝(公現後第三)

2018.1.21

なぜ怖がるのか  マルコ4:3541  (塚本良樹主事)

 

導入部

 みなさん、おはようございます。先ほどご紹介に預かりました、塚本良樹と申します。再来月から、この教会でユースパスターとして、またキリスト者学生会(KGK)の主事として、奉仕させていただく前に、このように一足先に、皆様とともに礼拝を捧げ、また交わりを持てますことを心から感謝します。

 本日は、私自身のことも分かち合いつつ、御言葉に聞き、神様を礼拝していきたいと思います。それでは、祈りをもって、この説教を始めて参りたいと思います。

 

祈り

 愛する天のお父様。あなたの尊い御名をあがめ、心より賛美いたします。

 本日、このように、この場所で、ここにいらっしゃるお一人ひとりとともに、礼拝を捧げられることを、本当に感謝します。

 私たちはあなたが必要です。あなたの助けなしで、一分一秒たりとも生きていけません。だからこそ、礼拝を捧げられることを、あなたと深い交わりをもつことができることを、感謝します。目には見えませんが、あなたがここにおられることを信じ、あなたに期待します。

 ただいま、聖書が開かれました。あなたが、聖霊さまにあって導いて書かせてくださった、このいのちのことば、神のことばを、あなたの思いを、私たちが本当に悟ることができますように。どうか、私たちの心を照らしてください。

 弱い者が、取るに足らない者が、あなたに立てられたゆえに語ります。どうか助けてください。憐れんでください。あなたの心を語ることができますように。

 あなたに、ただあなたに期待し、また感謝して、私たちの主イエス・キリストのお名前を通してこの祈りをお捧げいたします。アーメン。

 

本論部

一.嵐が吹く

 本日の箇所は、イエスさまが弟子たちに「向こう岸に渡ろう」とおっしゃったことから始まります。舞台はガリラヤ湖です。大きな大きな湖の向こう岸を目指して、舟を漕ぎ出す弟子たちの姿。これを、ぜひイメージして欲しいと思うんですね。

 

 37節をご覧ください。「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。」湖に漕ぎ出した舟は、突然、嵐に襲われる。舟は波をかぶり、水はすでに舟の中にあふれている。

 絶対絶命です。「どうしよう!?」そう思った弟子たちは、イエスさまの方を見ます。すると、なんと、イエスさまは寝ておられる。38節をご覧ください。「しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた」。弟子たちは怒って言います。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。

 

 ここで疑問が湧いてこないでしょうか?イエスさまの弟子たちの中には、ここガリラヤ湖が地元である元漁師が四人もいました。その彼らであっても、どうにもならないレベルの嵐だったとしても、なぜイエスさまに聞いたのでしょうか?

 イエスさまは、本職は大工です。まあ、本職は、救い主と言った方がいいのかもしれませんが、なぜ、舟に関しては素人であるはずのイエスさまに聞いたのでしょうか?

 

 それは、彼らがイエスさまを、ただの人間ではない、「神的な存在」と見ていたからでしょう。その教えや、また奇跡を通して、この方は只者ではない。ひょっとしたら、旧約聖書で約束された救い主なのではないか。そのように思っていた。だから、このように言ったのではないかと想像できるんですね。

 

 そして、さらに、こう思っていたと思われます。この方が、救い主が、舟にいるのに、イエスさまが一緒にいるのに、どうして嵐など吹くんだ?イエスさまが乗っておられる舟が、どうして嵐などに遭うんだ?この方が一緒にいれば、なんでもうまくはずではないか。危険な目に合うこともなく、普通に向こう岸にたどり着けるのではないか。イエスさまが一緒にいるのに、どうしてこんなことが起こるんだ?

 しかも、イエスさまは寝ておられる。こう思ったと思うんですね。イエスさま、どうしてこんな状況で寝れるんですか?ここは、新改訳聖書ですと「私たちがおぼれて死にそうでも何とも思われないのですか」となっています。ここでは、ギリシア語ですと、「滅びる」とか、「殺す」という意味もあることばが使われています。

 イエスさま、私たちが傷ついても、死んでも、なんとも思わないのですか?どうしてこの状況で何にもしてくれないんですか?そもそもあなたがやれって言ったんでしょう?

 

二.私たちが叫ぶとき

 私たちも、この弟子たちと同じように思うことがあると思うのです。どうしてこんなことが起こるんですか?そのように叫ばざるを得ないときがある。そして、イエスさまは寝ておられて、何もしてくれないように見えるときがあると思うのです。

 

 私は、兵庫県神戸市の出身です。関西人ですが、大学から10年間東京に住んでいたので、標準語も完璧にしゃべれます。バイリンガルです。

 神戸と聞いて、思いつかれるかたもおられるかもしれませんがが、先週の水曜日は、阪神淡路大震災から23年目の日でした。私は、当時、今もそうなんですが、神戸の北の方に住んでいましたので、もちろんかなり揺れましたが、そこまでの被害はありませんでした。でも、私が愛する神戸の町が傷つき、たくさんの方々が亡くなり、愛する人を失いました。そしてこれは私の祖父母もそうだったのですが、家を、財産を失いました。

 もちろん、もうすぐ7年を迎える東日本大震災のときもそうでしたが、先週、阪神淡路大震災から23年目を迎えて、改めてこのように問わざるを得なかった。どうしてこんなことが起こるんですか?イエスさま、どうして何もしてくれなかったんですか?そのように叫ばざるを得なかったのです。

 

 もちろん、私たちそれぞれの人生においても、そのようなときはあると思います。私は、どう見えるか分かりませんか、現在31歳です。私はこの夏まで、アメリカの神学校に留学していたのですが、あるとき、同級生のアフリカン・アメリカンの女性に「19歳かと思った」と言われたことがあり、それが最高記録です。日本では、最近学生に遠慮気味に「35歳ですか?」と言われたことがありますが、31歳になります。まだまだ人生経験は少ないですが、それでも人生のなかでいろんなことを経験しました。

 この箇所の弟子たちのように、突然嵐に襲われるような経験もしました。本当に苦しくて、なんでこんなことが起こるんですかと、問わざるを得ないような経験もありました。そして、本当に苦しいなかで、まるでイエスさまが寝ておられるように、何もしてくれていない、答えてくれていないように思える経験が、何度もありました。

 「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。この叫びは、私たちの叫びでもあると思うのです。

 

三.共に叫ぶ交わり

 私の人生のなかで、突然嵐が吹いた。そのような経験をしたときに、私が本当に幸いだったのは、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と叫ぶときに、共に叫んでくれる「仲間」がいたことです。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と共に叫んでくれる、祈ってくれる「交わり」があったということです。

 

 私は、クリスチャンの両親のもとに生まれました。両親はイエスさまのことを教えてくれ、また私を愛することを通して、神の愛とはこういう感じかということを教えてくれました。そして、私のために、祈ってくれた。今も、祈ってくれています。

 教会の兄弟姉妹が、私を愛し、祈ってくれました。今ですね、私は、聖書の話をさせていただいていますが、実は、中高生の頃は、聖書の話を真面目に聞かないことがかっこいいと思っていました。なので、教会学校の先生のお話の内容は全然覚えていないのです。そういう男の子たちが何人かいたのですが、そういう不真面目な私たちに、それでも誠実に、本当によく準備して、愛をもって語ってくれた教会のおじさんの姿というか、姿勢は、本当に印象に残っていて、彼を通して、本当に、これは本物なんだ。これほどまでの価値があることなんだということを教えられたんですね。今も、彼を始めとして、神戸の教会は、私を愛し、また祈ってくれています。

 私は、神戸で生まれ育ったと言いましたが、大学に入ったときに東京に引っ越しました。そして、大学入学当初は、他に楽しいこともあって、見事に教会を離れました。しかし、東京でちょっとだけ行った教会のご婦人が、何度もキャンプに誘ってくれました。後で聞いたことですが、本当に祈ってくれたそうです。実は、そのキャンプで、私は自分の罪と、イエスさまの愛を本当に教えられ、変えられ、それから教会にも毎週行くようになりました。今も、その方は、そしてその教会は、私のことを覚えて祈ってくれています。

 大学時代はKGKの仲間たちが、アメリカ留学中は、神学校や日本語教会の仲間たちが、私が本当に辛い思いをしているとき、一緒に祈ってくれました。一緒に叫んでくれた。

 「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。そのように叫んだのは、「弟子たち」でした。「弟子たち」という交わり、共同体が、一緒に叫んだ。嵐が吹くとき、共に叫ぶために、イエスさまは「弟子たち」という共同体を作られたのではないかと思うのです。

 

 嵐が吹くとき、私たちは一人ではないのです。共に叫ぶために、共に祈るために、主はこの交わりを、教会を建ててくださったのです。

 私は、本当に三月から、この教会で、みなさんとご一緒に、歩むことができることを、本当に期待しています。嵐が吹くこともあるでしょう。でも、その時に、共に叫び、共に祈る交わりが、この地でも与えられることを本当に感謝し、また期待しています。

 

四.なぜ怖がるのか

 この物語はハッピーエンドで幕を閉じます。「弟子たち」という共同体の叫びに応え、イエスさまは嵐を静められました。「弟子たち」の叫びをイエスさまは聞いてくださった。嵐を静められたイエスさまは、このように言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。

 

 私は、このイエスさまの言葉は怒っている言葉ではないと思うのです。むしろ、優しく、どうしてそんなに怖がっているんだ?怖がる必要なんてないんだ。わたしが一緒にいるではないか。わたしを信じなさいと言われていると思うのです。

 私は、イエスさまがともにおられるということほど、基本的かつ忘れやすいことはないと思うのです。教会学校でも、子どもたちが最初にならうことです。子供賛美歌でもありますよね。「主がついてれば、こわくはないと聖書のなかに書いてあります」。

 嵐は吹くかもしれない。あるときは雨が、あるときは風が行く手をさえぎるように見えるかもしれない。でも、イエスさまはともにおられて、私たちの手を取り、導いてくださる。でも私たちは、その事実をすぐに忘れてしまう。もう次の瞬間忘れてしまって、恐れ惑ってしまう。

 

 そのような私たちにイエスさまは今日も語ってくださる。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」どうしてそんなにこわがっているんだ。なぜ、そんなにこわがるのか。わたしが一番良いタイミングで、嵐を静める。あなたを守る。永遠に、死を越えてもなお、あなたを守る。だから、怖がる必要はないのだと語ってくださっているのです。

 

五.いったいこの方は

 この物語は、弟子たちの言葉で幕を閉じます。41節をお読みします。「弟子たちは非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言った。

 弟子たちは、非常に恐れたと言います。ここで興味深いのは、このときまで、弟子たちが、恐れていたのは、嵐でした。しかし、ここで、真に恐るべき方、イエス・キリストを恐れる方向に変えられるのです。

 

 「いったい、この方はどなたなのだろう」という問いは、やがてマルコ8章で答えられます。ペテロが、「あなたは、メシア(キリスト)です」と告白する。そしてそれに続いて、イエスさまは、ご自身が多くの苦しみを受け、殺され、復活するのだいうことを語られます。この方が、十字架で私たちの罪を背負い、よみがえられ、今も生きておられ、今もこの交わりの真ん中にいてくださる。終わりまで、嵐が完全に止むその日まで、私たちを導いてくださる。

 

 その日に至るまで、主はあなたに語ってくださる。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。

 あなたは何を恐れているか。嵐でしょうか。それとも、王なる主イエス・キリストでしょうか。

 お祈りしましょう。

 

祈り

 「イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。』

 愛する天のお父様。あなたの尊い御名をあがめ、心より賛美いたします。

 本日このように、この場所で、みなさんとともに礼拝を捧げることができる恵みを、心より感謝いたします。

 語られたみことばが、ここに集われたお一人おひとりのうちに、とどまり、成長し、豊かに実を結びますように。

 あなたに期待し、感謝をして、私たちの主イエス・キリストのお名前を通してお祈りいたします。

 アーメン。

 

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日曜礼拝(2018年1月21日)

2018-01-14 17:09:04 | Weblog

日曜礼拝(公現後第二)       2018.1.14

     「ハプニングがハッピーになる」 ヨハネ2:1~11

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。1月の第二日曜日を迎えました。2018年も2週間目を迎えます。2018年のスタートはどのような始まりだったでしょうか。ハプニングが起こった始まりでしょうか。それとも、ハッピィーな始まりだったでしょうか。

 今日は、ヨハネによる福音書2章1節から11節を通して、「ハプニングがハッピィーになる」という題でお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、喜びが失われる時がある

 今日の箇所は、ガリラヤのカナの結婚式のお話しです。イエス様が育ったナザレから近い場所です。日本でも結婚式は盛大です。結婚式、披露宴にかける金額は大きいのだと思います。最近披露宴では、お酒が飲み放題というのが普通なのでしょうか。お酒もあり、ワインもあり、サワーもあり、ビールもあり、ソフトドリンクありと給仕する人々は大変です。日本では1日で終わりですが、ユダヤの地方では、長いと1週間も続くのだそうです。飲み物は、ワイン、ぶどう酒のみでしょう。ですから、集まった人々は、ここぞとばかりに、飲めや歌えやでガブガブのんだのでしょう。十分に用意したつもりが、ぶどう酒がなくなってしまった、というのが今日のお話しです。

 酒とは、喜びの象徴でしょう。ですから、酒がなくなると喜びもうせてしまうのです。ラビの言葉に、「ぶどう酒のない所には喜びはない」とあり、ぶどう酒と喜びが比例しているということです。ぶどう酒は、お金や健康や成績、趣味等、置き換えることができるのかも知れません。お金のなくなる所に、健康がなくなる所に、喜びがうせるのです。

 イエス様のお母さんのマリアさんは、この結婚式の世話人の一人であったようです。親戚の誰かの結婚式だったのでしょう。ぶどう酒がなくなったということをいち早く知り、この事態をイエス様の所に持っていきました。「ぶどう酒がなくなりました」とイエス様に伝えたのです。マリアの夫ヨセフは早く亡くなったと言われているので、母マリアは長男のイエス様に頼ってきたのでしょう。また、受胎告知からイエス様の誕生、イエス様の幼少の出来事を通して、イエス様がただの人ではない。神様の働きをする人物だとも感じていたでしょう。問題が起これば、イエス様の所に持っていくというのが、、マリアの行動パターンだったのではないでしょうか。

 マリアさんは、そのようにイエス様の所に問題を持って行き、現状を知らせましたが、イエス様の方はちょっと感じが違いました。

 「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」(4節)と言われたのでした。 リビングバイブルには、「今はだめですよ、お母さん。まだ、奇蹟を行う時じゃありませんからね。」とあります。他の訳もそうですが、イエス様は、マリアさんの願いを否定したように思える言葉です。詳訳聖書には、「(敬愛する)女の方よ、あなたと私はそれになんの関係があるのですか(いっしょにする事があるのですか、私に任せなさい)。私の時(行動すべき時)はまだ来ていません。」とあります。ここには、人間の側の思惑とイエス様とのお考えには違いがあるということがわかります。

 

 二、わからなくてもいいイエス様を信頼しよう

 「ぶどう酒がなくなりました」とイエス様に現状を伝えた母マリアさんでしたが、この言葉の背景には、母としての権威、母の頼みだからとか、親子の関係なのだからとか、親しい間柄なのだから、このハプニングを解決してほしいというような思いがあったのではないでしょうか。しかし、イエス様は、12節に、「その栄光を現された」とあるように、いつも神様の栄光を現すことを目的とされたのでした。勿論、お母さんの願いに答えてあげたい。この問題を解決してあげたいと思っておられたでしょうが、イエス様は単にぶどう酒がなくなったから、それを補えばよい。代わりのぶどう酒が準備できれば良いということではなくて、神様の栄光を現すことを目的とされるのです。

 「わたしの時はまだ来ていません。」という私の時とは、イエス様の十字架と復活を意味しているのでしょう。まだ、イエス様が救い主であるということを示す時ではないのかも知れない。しかし、神様の栄光を現すのです。

 マリアさんは、イエス様の語った内容が理解できなかったのかも知れません。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。」と言われてカチンときて、腹を立てるというような状況かも知れません。けれども、マリアさんは、カチンとこなかった。結婚式でぶどう酒がなくなるということは大変な事です。だから、窮状を伝えている。しかし、イエス様の言葉には、何をしようとしているのか、しないのか、理解できない。マリアさんは、理解できなかったし、イエス様のお考えがわからなかったけれども、わからないままに、イエス様にお任せしたのです。必ず、一番よいようにしてくれると信頼したのです。

 ですから、5節にあるように、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」と召し使いたちに伝えたのです。

 私たちは、神様に、イエス様に自分の窮状を訴え、祈ることがしばしばあります。けれども、何の答えもないと、現状が変わらないとカチンときて、イエス様に信頼できないで終わってしまうことはないでしょうか。2017年の歩みはそうではなかったでしょうか。

 理解できないから祈らない。従わないというのではなく、マリアさんのように、神様のなそうとしていることが理解できなくても、イエス様のお考えがわからなくても、理解できないままにイエス様を信頼したいと思うのです。なぜなら、イエス様は必ず最善にして下さるからです。ローマの信徒への手紙8章28節には、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」とあります。神様は、万事、良い事も悪い事も益として下さるように共に働いて下さることを私たちは知っている、と言うのです。マリアさんは、この起こったハプニング、問題、窮状に対してイエス様は益となるように共に働いて下さることを知っていたので、召し使いたちにイエス様に言いつけには従うようにと語りました。

 私たちも、イエス様が最善に導いて下さることを知っているので、イエス様に全てを委ねて、2018年も歩みたいと思うのです。

 

 三、最高のものが取り分けてある

 イエス様は、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われました。すると、「召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。」と聖書は語ります。

 コップ一杯の水ではありませんでした。洗面器にいっぱいでもありません。80ℓから120ℓ入る6つの水がめに入れたのです。簡単な事ではありませんでした。ぶどう酒が無くなっ時に、水をかめにいっぱい入れる必要があるのかと考えてしまう行動です。召し使いたちも、イエス様の言われた言葉が理解できませんでした。けれども、世話人のマリアさん、言い換えれば、結婚式の主人の言った言葉、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」という命令に忠実に従ったのです。

 私たちは、神様を信じて従って行く時に、神様のなさることが理解できないで、何やってるんだろうと考えてしまうことがあるのかも知れません。必要なものはぶどう酒なにの、関係のない水をくむようなこと、試験があるのに礼拝に出席するとか、聖書を読むとか祈るとか、試験に合格するための勉強ではなく、神様を信じる者としての信仰者としての行動、礼拝や祈り、聖書を読むというような事をしていて、大丈夫なんだろうかと、こんなことしていていいのかと考えてしまうことがあるかも知れません。「水がめに水をいっぱい入れなさい」とはそうゆうことです。私たちの思いや理解を超えたことだと思うのです。

 召し使いたちが、一生懸命に6つの水かめに入れた水を宴会の世話役の所に持って行くようにとイエス様が言われたので、召し使いたちは、イエス様の言葉に従って、自分たちの汲んだ水を世話役の所に持っていったのです。この行動も召し使いたちは理解できなかったのだろうと思います。けれども、とにかく、イエス様の言葉に従いました。

 どこで水がぶどう酒になったのかはわかりませんが、9節には、「世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。」とあります。素晴らしい極上のぶどう酒でした。このような極上のぶどう酒がどこから来たのかは、世話役は知りませんでした。けれども、水をくんだ召し使いたちは知っていたのです。自分たちが汲んだ水が最高のぶどう酒になったのですから。10節を共に読みましょう。「言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」」 披露宴が長い時は、1週間も続くわけですから、普通は酔いが回るとぶどう酒2、水が3の割合のものを出したようです。おそらく、今回の結婚式の披露宴でも、ぶどう酒2、水3の割合で出したのでしょうけれども、それでも不足したわけです。初めに良いものを出すのが常識だったので、最高のぶどう酒の味見をした世話役は、「あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」と、花婿をほめたわけです。リビングバイブルには、「これは極上のぶどう酒じゃないですか。あなたは並みの方じゃありませんね。たいていどこの家でも、初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわって味がわからなくなると安物でごまかすものですよ。ところがあなたは、一番上等なものを、最後まで取っておかれたんですからね。」極上の、最高のぶどう酒をふるまわれることになったのです。

 11節の最後には、「弟子たちはイエスを信じた。」とあります。結婚式に参列した人々がイエス様を信じたとは書いてありません。この奇跡、水がぶどう酒になるという神様の栄光を現わされたのに、信じたのは弟子たちだけだったのです。何か驚くような出来事を通して、多くの人がイエス様を信じたというのとは違うのです。このガリラヤのカナでの奇跡の業は弟子たちのためであったと言えるのです。

 イエス様は、あなたのために、あなたの身代わりに十字架にかかって死んで下さいました。あなたの罪を赦し、魂を救い、永遠の命を与えるために、十字架にかかり、命を与え

よみがえり栄光を現されたのです。それは、あなたがイエス様を信じるためなのです。

 

 Ⅲ結論部

 イエス様は、6つの水かめの縁まで水を入れるように言われました。6とは、不完全数、未終了、未完成をあらわす数字です。7は完全数です。6つの水かめとは、ユダヤ教の律法では、水で手を洗いきよめるのですが、律法では、水では人間を清くすることはできないのです。イエス様は律法の水をぶどう酒に変えて下さった。つまり、ぶどう酒に象徴されているイエス様の血が十字架で流されることにより、私たちの罪が赦され、清められることを示しているのです。

 人生には、ハプニングが起こります。思いがけない出来事があります。突発的な事が起こります。幸せの絶頂、結婚式の時にハプニングが起こりました。なくてはならない喜びの象徴、ぶどう酒がなくなってしまったのです。しかし、そこにイエス様がおられたということです。人生には、ハプニングがつきものです。しかし、ハプニングが起ころうとも、そこに、その問題の只中にイエス様がおられるならば、そのハプニングさえも、ハッピィーにして下さるのです。神様を信じていても、信じていないのと同じような試練や困難を経験します。そのような状況で、ちっとも、よくならない。解決しない中で、神様のみ心がわからない。神様のしようとする意図がわからないことがあります。けれども、わからないならわからないままで、理解できないままでもイエス様を人生の中心に来ていただき、聖書を通して示されるお言葉に従って行動する時に、水が極上のワインに変えられたように、私たちの信仰生活、人生の中で栄光を現して下さるのです。水を汲んだ者だけが知っているとあるように、イエス様のお言葉に従った者だけが、その出所を知ることができるのです。私たちは、2018年の、この1年、わからないままにも、イエス様が必ず最善にして下さると信じて、確信してイエ様に信頼してまいりましょう。

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日曜礼拝(2018年1月7日)

2018-01-07 13:17:45 | Weblog

日曜礼拝(降誕後第二)       2018.1.7

     「あなたはあなたらしく」 ヨハネ21:18~23

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。新年あけましておめでとうございます。昨年は、本当にお世話になりました。今年もお世話になりますので、よろしくお願いいたします。

 2018年が始まりました。新しい年を迎えて1週間目となります。良きお正月をお迎えになられたことでしょう。2018年の元旦礼拝では、ペトロを通して、とにかく神様の言葉を実践してみようとお話ししました。

 2018年の最初からいい事があったかも知れません。逆に、新年早々良くない事や嫌な事があったかも知れません。2日、3日は、箱根駅伝がありました。ご覧になられたでしょうか。やはり青山学院大学は強かったですね。往路は東洋大学が優勝しました。今年は東洋大学かなとも思いましたが、復路の6区で青山学院が追い抜き、そのまま1位でゴールしました。往路で順位を上げた大学も、復路では順位を下げた大学もあり、往路では下位の順位であっても、復路では上位に上がった大学もありました。我が日本体育大学は4位でした。往路では十何位で大丈夫かなあと思っていましたが、復路の後半で10区で4位となりました。来年は2位か3位で、2020年の記念すべき年は優勝をねらってほしいと思います。

 最初良くても、後半悪くなることもあり、最初悪くても、後半よくなることがあります。新年の出だしがいかようでも、私たちには、いつもイエス様が共におられ、私たちの重荷を負って下さりマイナスさえもプラスにして下さるのです。困難を通しても必要なことを教えて下さり、いつも最善に導いて下さるので、この1年もイエス様を信頼して、イエス様に全てを委ねて歩んでいきたいと思うのです。

 2018年の最初の礼拝では、ヨハネによる福音書21章18節から23節を通して、

あなたはあなたらしく」という題でお話しいたします。

 

 Ⅱ本論部

 一、覚悟を持った従い方

 イエス様は、弟子のペトロに個人的に話をされ、ご自分を愛するか、と問われ、ペトロは、愛していることはあなたがご存知であると答えました。イエス様は3度問われ、ペトロは3度答えました。イエス様を3度知らないと否定したペトロに、イエス様は回復を与えて下さり、新しい使命を与えられたのでした。

 イエス様が、ペトロに新しい使命を与え、その使命に生きるために要求されたことは、信仰でもなく、力でもありませんでした。イエス様に仕え、人々を世話するために、信仰が必要だ、力が必要だとは言われないで、イエス様を愛する愛が必要でありました。そして、ペトロは愛の回復をいただいたのです。「あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」(21:17)という愛の告白は、一つの決断を要求します。それは、ペトロがイエス様に従うことでした。

 18節を共に読みましょう。「「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」」 「両手を伸ばして」というのは、手を伸ばして十字架にはりつけになることを意味しているようです。ペトロは、逆さ十字架について殉教したと言われています。 19節には、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」とあります。

 「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」という内容は、「ペトロが十字架につけられて死ぬことによって栄光をあらわす」ということを示しているのです。18節、19節のイエス様の言葉は、ペトロが本当に、イエス様に従って仕えて生きようとするならば、それには困難や苦しみが伴うことを知らせようとなされたのです。これは、ペトロだけに言われた言葉ではなく、同じようにイエス様を信じて、イエス様に仕えて生きようとする私たちにも語られたイエス様の言葉なのです。

 イエス様を本当に信じて、この世の考え方や常識、この世の価値観に妥協することなく、生きていこうとするならば、この世においては困難や苦しみを経験するということです。

この世の考え方や常識、この世の価値観に従って生きていくならば、困難や苦しみはそんなにないかも知れません。けれども、この世の考え方や常識、この世の価値観に妥協しないで生きる者には困難や苦しみはつきものなのです。イエス様は、イエス様を本当に信じて従う者に次のように語られました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33) イエス様はすでに世に勝っている、勝利者なのです。ヨハネ第一の手紙5章4節~5節には、「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」とあります。世に打ち勝つ者は、「イエスが神の子であると信じる者」なのだと聖書は語ります。

 イエス様は、私たちに勝利者である私が、いつも共にいることを常に覚えて勇気を出しなさい、と私たちに語られるのです。この1年、あるいは、私たちの将来には、何が起こるのか、何が待っているのか、わかりません。しかし、この世に打ち勝ち、勝利されたお方が、いつもあなたとともにおられることを覚え確信し、勝利者なるイエス様に信頼してまいりましょう。

 

 二、わたしはイエス様に従えばいい

 20節には、ペトロが振り向くと、ヨハネがついて来るのが見えたとあります。イエス様の愛しておられた弟子とは、ヨハネのことです。最後の晩餐の時、イエス様のそばにいて、ペトロの指図で、「主よ、裏切るのはだれですか。」と尋ねた人物でした。

 ペトロは自分に言われたイエス様の言葉、「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」という言葉が不安でした。

しかも、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして」とイエス様がさらに不安になるようなことを言われて、かなり落ち込んだのではないでしょうか。ですから、21節のように問うのです。21節を共に読みましょう。「ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。」

自分だけに不安な将来を示されたので、ヨハネの将来についても知りたくなったのではないでしょうか。私たち人間という生き物は、いつもいつも、どこかで、他の人と自分を比べて生きる者ではないでしょうか。ペトロは自分の将来だけが何か不吉な内容であることに、不公平を感じて、年の若いヨハネの将来にも、試練や苦しみなどが伴うのかどうか、を知りたかった。知ってみたかったのでしょう。ペトロは、自分の人生とヨハネの人生を、自分の将来とヨハネの将来を比べようとしたのではないでしょうか。

 イエス様の答えは22節です。「イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」」 「主よ、この人はどうなるのでしょうか」ということは、ペトロには関係のない事であって、ペトロには、イエス様に従うということを示されました。

 けれども、人間は、関係がないと言われることを余計に関係あることと考えてしまうものです。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても」とヨハネについて言われたイエス様の言葉は、ペトロには本来関係ないのですが、このことがペトロには重要となったのです。そして、23節にあるように、「この弟子は死なない」といううわさ、つまり、ヨハネは死なないのだといううわさが広まってしまったのです。

 やっぱり「この弟子は死なない」という内容の方が、重要視されていまうのです。本来は、この内容は、ペトロやほかの人には関係のない事なのです。

 神様は、私たち一人ひとりを神様の形に似せて、一人ひとりをユニークな存在として創造されました。私たちは、自分自身の人間としての価値、私たちの働きや使命、私たちに与えられている神様の祝福というものは、他の人と比べることによって決定するものではありません。けれども、現実に、自分よりも別の人の方が、この世的に見るならば、自分よりもすぐれているように見えたり感じたりします。また、自分よりも恵まれていたり、祝福されているように見えたり感じたるすることがあるのです。しかし、あなたの人間としての価値や働きや使命は、他の人と比べて見て優劣をつけても、何の意味もありません。

ただ比べることによる、優劣をつけることにより、落ち込んだり、傲慢になったりとプラスの面は何一つないのです。比べることではないのです。しかし、私たちは、なんと他人との比較で生きているのではないでしょうか。信仰の世界、教会生活、神様から与えられた賜物においても、他人との比較で生きているということはないでしょうか。

イエス様は言われました。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」と。関係ない事に一生懸命なるのではなく、あなたは、わたしに従いなさい。大切なことは、私が、あなたがイエス様に従うということなのです。

 

 三、わたしはわたしらしくイエス様に従う

 ペトロが気にすべきことは、ヨハネが死なないというようなうわさではなく、「あなたは、わたしに従いなさい。」という、ペトロに語り掛けられたイエス様のお言葉でした。ですから、ヨハネが死なないといううわさは、ペトロに関係のない事だったのです。

 元旦礼拝のメッセージは、ルカのよる福音書5章1節から11節の箇所でした。ペトロは、何十年というプロの漁師としての経験や魚の捕れる時間や場所の常識をはるかに超えた大漁に恐れおののき、イエス様の前にひれ伏した、ぶっ倒れたのでした。ペトロは、「わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と言った時、イエス様は、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と言われました。それは、大丈夫、あなたは神様の働きに加わるのだ、とペトロを召されたのでした。聖書には、「彼らは、舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」とあります。イエス様のお言葉にペトロは応答した。従ったのです。

 ペトロは、イエス様の召しに、全てを捨てて従ったのですが、今回、イエス様は、ペトロに、「わたしに従いなさい。あなたは、わたしに従いなさい。」と言われました。今回の、「従いなさい」は、ペトロがイエス様を三度知らないと言った後の事です。そのイエス様を否定したペトロに、「わたしを愛しているか」と三度問われ、ペトロは三度、「主よ、わたしがあなたを愛していることを、あなたがご存じです。」と応答した後の事ですから、

イエス様が「わたしに従いなさい。あなたは、わたしに従いなさい。」とペトロに言われたことの重みは、全てを捨ててイエス様に従った時とは違うのです。

 今回のペトロに対するイエス様の「わたしに従いなさい。あなたは、わたしに従いなさい。」というのは、「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」つまり、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして」というペトロの十字架、死をもって神の栄光をあらわすという従い方なのです。重みが随分違うのです。

 イエス様に従うということは、みな同じことだと思います。けれども、それぞれに従い方は違うのです。ですから、ペトロがイエス様に対して、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と気にすることはないのです。ペトロはペトロでいいのです。ペトロは自分の従い方でイエス様に従っていったらいいのです。私たちも、人の事は気にしないで、あなたはあなたらしく、イエス様に従って行けばいいのです。「人は人、あなたはあなた、人の事は気にしなくてよい」とイエス様は、私たち一人ひとりに語られるのです。

 

 Ⅲ結論部

 19節の「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるか」ということを、榎本保郎先生は、新約聖書一日一章で、「死ぬという一番不幸なことにおいても神の栄光をあらわすことができるように、神が備えていて下さる。イエスは、私たちに栄光をあらわすような死に方も備えていて下さるのだと感謝して、平安が与えられていきたいものだと思う」と言っておられます。私たちの死に方が、たといそれが、悲惨に見えても、かわいそうに見えても、困難な死であったとしても、その死に方は神様の栄光をあらわすものにして下さるのです。

 今日は、この後、成人祝福式があり、4名の方々の祝福をお祈りします。正装しておられる方々です。今、死に方の話しをしましたが、まだ死に方を考えるのには早い人々ですが、必ずしも年を重ねた者が先に死ぬとは限らないのです。ですから、大切なことは、長生きすることでななくて、勿論、長生きすること、できることは素晴らしい事ですが、いつ召される時が来ても、イエス様の十字架と復活を通して、魂の救いと罪の赦し、永遠の命を信仰によっていただくということが何よりも大切な事です。

 聖書は、私たちが自分の人生から魂の親である神様を除外し、無視して生きることを罪と言っています。この罪を持つ限り、罪の赦しと魂の救い、永遠の命は与えられません。しかし、神様は私たちを愛して、私たちの罪を赦すために、神であるお方イエス様を人としてこの世に送り、私たちの罪の身代わりにイエス様が十字架にかかり、父なる神様から裁かれ、尊い血を流し、命をささげて下さいました。身代わりに死んで下さったのです。

私たちは、自分勝手に生きていたことを素直に認め、自分の心にも罪があることを認め、その罪の為にイエス様が十字架にかかり死んで下さったこと、そして、死んでよみがえられたことを信じることによって、罪の赦しと魂の救い、永遠の命をいただきたいと思うのです。

 特に若い方々は、他の人といろいろな事を比べて、喜んだり落ち込んだりしているかも知れません。他人の将来の事やいろいろな事が気になるかも知れません。イエス様は、他人の将来の事、ここではヨハネの将来については、ペトロの関心ごとではなく、イエス様の関心ごとであると言われます。ペトロの将来もヨハネの関心ごとではなくイエス様の関心事なのです。私たちは、人の関心ごとではなく、イエス様が私に関心を持っていて下さることを信じたいのです。イエス様は、あなたが人真似をすることでもなく、他人を気にすることでもなく、あなたはあたならしく生きることを望んでおられるのです。

 2018年がどのような年になるのか誰にもわかりません。しかし、全てを知っておられるお方、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と言って下さるお方、イエ様に全てをお任せして、この年も歩んでまいりましょう。

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元旦礼拝(2018年1月1日)

2018-01-02 07:31:21 | Weblog

元旦初詣礼拝        2018.1.1

天下分け目の戦い」 ルカ5:1~11

 

 Ⅰ導入部

 新年あけましておめでとうございます。昨年は皆様には本当にお世話になりました。お祈りを心から感謝致します。2018年もお祈りでお支えいただきたいと思います。

 2018年が始まりました。この年の最初の日を礼拝をもって始めることができますことを感謝致します。今日は、大人も子どもたちも一緒に礼拝をささげています。

 1600年に関ヶ原での戦いがありました。徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍との関ヶ原での戦いです。全国のほとんどの大名が巻き込まれた合戦で勝利した徳川家康は、事実上の全国の支配者になり、三年後には征夷大将軍となったので、この戦いを天下分け目の戦いと言われます。「天下分け目」とは、勝負の決まる大事な時期や場面の事を言いますが、私たちのこの一年の歩みにも、天下分け目、勝負の決まる大事な時期や場面に遭遇することがあるのだと思うのです。そのような時、私たちは何を大切にしたらいいのでしょうか。2018年の最初の日、ルカによる福音書5章1節から11節を通して、「天下分け目の戦い」という題でお話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、やる気がなくてもやってみるのです

 5章1節には、群衆が神の言葉を聞こうとして押し寄せたと聖書は記しています。神の言葉の言葉は、ロゴスという言葉、まさに神様の言葉を聞くために群衆は、信仰をもって集まりました。イエス様は、ペトロの舟を借り、舟の上から群衆に話しかけられ、話が済むとペトロに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」と語られました。2節には、「漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。」というのですから、仕事を終えて片付けをしていたのです。そして、帰って、食事をして休むつもりだったでしょう。しかし、イエス様は、ペトロの船に強引に乗り、少し漕ぎ出すように頼んだのです。ですから、イエス様の話が終われば、当然帰れると思っていたら、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」と言われてカチンときたのかも知れません。

 5節を共に読みましょう。「シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。」

 夜通し働いて苦労したけれども、なにもとれなかった。だから、網を洗って片づけをしていたわけです。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」とペトロは語りました。私は今まで、この「お言葉ですから」という言葉の意味は、信仰的に、イエス様、あなたが語るのですから、やりましょうと肯定的な意味にとらえていました。しかし、この「お言葉ですから」の「言葉」は、言語では「レーマ」という言葉を使っています。この「レーマ」の意味は、口から発せられた音声としての言葉という意味です。別の言葉で言うと、「口先の言葉」で、神の言葉という深い意味はないようです。ですから、ペトロが言った、「しかし、お言葉ですから」というのは、おべんちゃら、つまり、相手を喜ばせるための口先ばかりのお世辞なのです。だから、この時のペトロは、夜の明ける時から漁をしてクタクタで、しかも何も獲物がなかった。ましてや、昼の時間に、この時間には魚は取れないという常識がありました。しかも、沖へ漕ぎ出し、と言われましたが、魚は浅瀬でよくとれるので、沖に行くということは、わざわざ魚のいない場所に行くということで、漁のプロとしてはあり得ないことなのです。

 ですから、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」というペトロの心のうちは、「やっても無駄でしょうけれども、先生が言うことですから、まあ、一様はやってみますがね。」というやる気のない、本気ではない態度なのです。ですから、網を投げるにしても適当、やる気のかけらのない態度でした。

 お母さんたちが、子どもたちに勉強しなさい、と怒って「やるから」と子どもたちは言いながらも、なかなか机に向かない、動作の遅いこと、やる気のない様子に、雷が落ちるということがあるのだと思います。ペトロはやる気のない漁師そのものでした。とにかく、形は網を投げて、漁をするというものでした。そのことをイエス様はご存知でしたが、責めることも、怒ることもありませんでした。神のみ業が起こることを知っていたからです。

 

 二、イエス様の前にぶっ倒れる経験

 やる気のないペトロは、網を投げて漁をしてみました。どうせ捕れるはずがないと思いながら。しかし、聖書には、「そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。」とあります。 結果は、驚くような大漁だったのです。イエス様がおっしゃるから、必ず取れると信じて網を投げたわけではない。べんちゃらで、リップサービスのつもりだったかもしれない。やる気のない漁であったのにもかかわらず、その結果は、今までに経験をしたことがないような大漁だったのです。

 「そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。」という状況だったのです。この現実の前にペトロは恐れを感じたのです。震え上がったのです。漁に関してはプロのペトロ、何十年も漁をしてきたペトロであるからこそ、この現実、目の前の事実に恐れをなしました。

 皆さんと共に8節を共に読みましょう。「これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。」

「ひれ伏して」というのは、「ぶっ倒れる」と訳せる言葉のようです。イエス様のお言葉どおりにしたら、とんでもない結果に、ぶっ倒れたのです。吉本新喜劇の芝居みたいです。

ペトロは、この現実の大漁をなさったイエス様の前に、自分が罪深い者であることを自覚したのです。「罪深い者」というのは、「絶対者なる神様に向き合って初めて自分が見える自分の姿」なのです。ペトロは「主よ、わたしをお許しください。わたしは罪深い者なのです。」と言いませんでした。「わたしから離れてください。」と言ったのです。人間の限界を超え、常識を超え、経験や計算を度外視される神様のみ業の前に、「わたしから離れてください。」というのが精一杯だったのです。

 イエス様と共に十字架につけられた強盗の一人は、最初はもう一人と同じように、イエス様に、「自分を救い、我々を救え」と言っていましたが、イエス様のご自分に対する人々の言葉や態度に対して、とりなしされる姿を見て、考えを変え、彼は、「私を思い出して下さい」と懇願しました。自分の今までの生き方を考えると「救ってください」とは言えなかったのです。しかし、イエス様は、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と救いを宣告されたのでした。

 私たちは、神様の前に罪深い者です。神様を必要のないお方として歩んできた。私たちの救い主であるイエス様を自分の人生から追い出し、自己中心の生き方をしてきた。聖書はそれを罪と言っているのです。神様の前に、「救ってください」と言えるほどの正しさもない。そのような私たちですが、イエス様は、強盗に語ったように、救いの宣言をして下さるのです。

 ペトロにイエス様は語られたのです。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と。私の働きに加わりなさい、ということです。今でいえば、献身です。神様のための働き人になることです。ペトロの信仰はと言うと、口先だけでした。イエス様の言葉に対しても、やる気のない姿勢でした。しかし、このペトロにイエス様は、+

恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と言われたのです。

口語訳聖書には、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」と断定的です。 詩篇の51篇19節には、「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」とあります。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と絶対者なるイエス様の前に悔い改めるペトロの心をイエス様は受け入れて下さったのです。

 

 三、信仰がなくてもやってみる

 ペトロは舟の上でイエス様の話しを聞いていました。きっと、イエス様は素晴らしいお話しをされていたことでしょう。群衆に語りかけられたイエス様のお言葉を聞いていても、何も問題はありませんでした。良い教えとして群衆の一人としては聞けるのです。喜んで聞けるのです。しかし、自分への語り掛けになった時、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」とペトロ一人に向けて語られた言葉には、そこには戦いが生じるのです。葛藤が起こるのです。ですから、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」という自分の経験、現実を語りました。ここでは、イエス様の言葉、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」という言葉に、信じて従うのか、従わないのかが問われるのです。ペトロの心の中には、従いたくないという思いで一杯だったでしょう。ですから、マイナスの現実を語りました。漁のプロとして、考えつくし、計算つくし、統計的に考えて、ありとあらゆる角度から考えて、魚を捕るための最大の準備、最大の努力を払いながらも、何も取れなかったという現実を語りました。この上、さらに、この時間帯で、しかも沖へ漕ぎ出して、どうせ魚が取れないとわかっていてさらに苦労することはいやだ。目に見える結果、魚が必ず捕れるということが明らかならば、そのための苦労は引き受けましょう。でも、どう考えて見ても、結果が出ない、魚が捕れるはずがないとわかっているのに、無意味に見える苦労は耐えられない。まっぴらごめんだったのです。

 しかし、ペトロはここで終わらなかったのです。私たちは、ここで終わってしまうことが多いのではないでしょう。無理だ。だめだ。可能性がない。結果がでない、見えない。状況は何も変わらない。ここで終わってしまう。ペトロは、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言ってしまったのです。言っちゃったんです。先ほどお話ししたように、「やっても無駄でしょうけれども、先生が言うことですから、まあ、一様はやってみますがね。」というやる気のない、本気ではない態度でした。けれども、沖へ漕ぎ出して網を投げて漁をしたのです。イエス様の言葉の通りに従って行動したのです。天下分け目の戦いはここです。信じようが信じまいが、理解しようが理解しまいが、イエス様の言葉の通りに実行するかどうかなのです。ここが、ポイントなのです。

 私たちは、聖書を通して神様の言葉に出会います。接します。そして、その言葉を理解したら、納得したら従おうとしますが、なかなか理解できないし、納得できないので従わないことが多くあるのではないでしょうか。大事なことは、聖書の言葉の通りに実行する。やってみることなのです。結果を考えてから従うののではありません。従ったら結果が出るのです。

 私は牧師になって、魂を救いに導けない牧師でした。ですから、ある伝道セミナーで聖書とはという冊子を通しての救いの導き方を学びました。「これをやったら必ず救われる」という講師の話を信じられませんでした。しかし、冊子に内容を書いて、それを読めば救われる、と聞いたので、半信半疑で、教会に戻り、冊子に内容を書きました。そして、それが終わった時、ある青年が教会に訪ねてきたのです。これはいい機会だと、その冊子を読んで福音を提示しました。すると、その青年は救われてしまったのです。彼が救われるように、祈って、祈って真剣にやったわけではありません。ただ、冊子に書いた内容を読んだだけでした。すると、神様が彼を救われたのです。今まで自分の力で、技量で、言葉で救おうとしていたのですが、救いは神様がされることだと知らされたのです。とにかくやってみることです。ヨルダン川に一歩足を進めると川がせき止められたと聖書は記しています。神様を信じて、神様の言葉を信じて、いや、信じなくても、適当でも、やる気がなくてもやってみることです。そこに神の業が起こるのです。

 Ⅲ結論部

 私たちは、今日から2018年という新しい年を始めます。とにかく、やってみようではありませんか。実行して見ましょう。

 ある母親の手記があります。可愛い娘さんが生まれました。でもその女の子は生まれた時から、顔の額からほほにかけて大きなあざがあったのです。お母さんは不憫に思って、病院の先生に言います。「先生、なんとかなりませんか。女の子です。」すると病院の先生は、「これはなんともなりませんね。いいじゃないですか。最近はアイシャドーをするぐらいなんだから。」お母さんは何ともやりきれない気持ちになって自らの顔にべったりと青黒いシャドーを塗り、町を歩いてみました。すると人々の冷たい視線が身にしみたそうです。この母親は、このときの気持ちをこのように書いています。「さあ見るなら見たいだけ見るがいい。娘はこれから先こういう視線を浴びながら、どんなふうに心の葛藤を重ねて生きるのだろう。辛いに違いない。私が代わってあげることができれば、どんなに救われるか。嫌なことがあったときは、私にあたってほしい、辛いときは、一緒に苦しもう。悲しいときは、私も一緒に泣こう。」

私たちのために十字架にかかり復活して今も生きているイエス・キリスト様は、地上の歩みで苦しんでいる私たちを、ほうってはおかれません。一緒に苦しみ、泣き、寄り添ってくださるのです。この1年、何があるかるかわからない。でもイエス様は、聖書、神様の言葉を通して慰めと励ましを与え、今を生きる力を与えてくださるのです。このお方に信頼して、この1年を歩みましょう。そして、神様の言葉を実践しましょう。

私たちには、イエス・キリスト様の十字架と復活を通して、魂の救いと罪の赦し、永遠の命が与えられています。ですから、この1年何があっても大丈夫です。イエス様は、「恐れることはない。」と言われました。ペトロは、「そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」とあるように、イエス様の言葉に従ったのです。それは、今までは、自分の経験、常識、計算、統計などに、自分が頼っていた全てを捨てて、イエス様に従った、イエス様のお言葉に従ったのです。

 私たちは「一年の計は元旦にあり」にと言われるように、今日私たちは、自分にやる気があってもなくても、信仰があってもなくても、理解しようがしまいが、聖書の言葉に触れて、神様の言葉を実行する1年でありたいと思うのです。

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