救いへの道 ヨハネ3:1~15、7:50~51、19:39~40 1月28日 岩淵兄
1、今日は、ニコデモを通じて“救いとは何なのか”ということを考えてみたい。ニコデモの記事は、ヨハネにのみある。彼が、どのように救いに至ったか順に記されている。
ニコデモは、年配のパリサイ人で、まじめで、律法をまもる、敬虔なひと。しかも最高
法院(サンヘドリン)の役人、著名な教師の一人であり、当時のユダヤ社会の典型的な有力者、有名人。(新約外典、ニコデモ福音書)
2、救いへの第1歩は、まずイエスとの出会いです。
当時の、ユダヤ社会では、イエスの教え、奇跡のわざが、民衆の間に広がり、このイ
エスは、本当に神から遣わされた救い主ではないかという、漠然とした不安が最高法院の議員や律法学者、祭司、パリサイ人たちの間に広がっていたのではないかと思う。
ニコデモは、夜に人目を避けるようにイエスのところにきたのであります。社会的な地位があったばかりでなく、民衆に対しても大きな影響力を持つ人物であったから、自分の行動が直ちに大きな波紋を起こすことをはばかり、夜訪ねてきたものと思われます。
同時に彼は、自分の人生に何か足りないもの、律法を守ることだけでは、充足できない、何かがあると思っていたのではないかと思います。だから、かれは「ラビ、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」とイエスにいいます。いいかえると、「どうしたら救われて神の国に入ることができるのか知りたい」のですと問うているのであります。救いの第1歩は、イエス様との出会いです。求道の強さもあって、わざわざ夜に訪ねてきたのだと思います。
私たちも、イエス様に初めて出会ったのは、どんな時、場だったでしょうか。人それぞれの出会いがあったと思います。ルカの福音書に、シメオンという人のイエス様との不思議な出会いが記されています。シメオンは、正しい人で信仰が厚い高齢の人だと記されており、パリサイ派の一人だったと思われます。聖霊から主が遣わすメシアに会うまで決して死なないと言われていた。何百年前からの預言の実現を信じて長い間待ち望んでいた。ヨセフとマリヤがイエスを連れて、神殿に献げるためきたときに出会ったのです。シメオンは、イエスを腕に抱き神をたたえて、主よ、いまこそ、私はこの目で救い主を見た。この僕を安らかにさらせてくださいと言ったという話があります。神のみ言葉を信じ、希望をもって待つという信仰の在り方を示しています。1回の出会いの中に救いの確信と信仰者の在り方が示されております。(ルカ2:22~35)
救いは、イエス様との出会いがあって始まると言ってもいいでしょう。教会に来られということも、第1歩を踏み出し、イエスに出会っているということです。
3、救いへの第2歩は、救いとは、何かを知ることです。
ニコデモは、彼の信仰告白ともいうべき、しるしを見たから信じると発言をしています。
これに対し、イエスは、しるしを見たから信じたのではだめだ、あなた自身が新しく生まれなければ、神の国を見ることはできないと言います。
ニコデモは、意味が理解できず、出産をどうして2度繰り返すことができるのですかと反論します。ニコデモは、赤ちゃんとして生まれる肉体の誕生しか頭になく、霊的誕生のことについては理解できなかったのです。肉体の誕生と、霊の生まれ変わりとの区別ができなかったのです。
イエスは、さらに水と霊とによって生まれなければ神の国に入ることはできないと言います。肉の誕生しかしてない人は、生まれながらの人にすぎません。み霊による霊の生まれ変わりを経験した人だけが生まれ変わったのです。
ウイリアム・ジェームズという心理学者が、「1度しか生まれたことのない人は2度死ぬ。しかし、2度生まれた人は1度しか死なない」と言っています。普通の誕生と霊の誕生、新生。肉体の死と永遠の命の死。
さらに、イエスは肉から生まれたものは肉である。肉とは生まれながらの人間の姿です。霊から産まれたものは霊であると言います。ニコデモはますます混乱。イエスは、ニコデモに、人間として律法の研鑽、宗教的修練を積むという人間的まじめさによっては、救いにも神の国にも入ることはできないと言っているのであります。彼は、人間の理性と経験を頼りとし、自分の理性で理解できることと、体験したことという目に見えるものだけしか受け入れることはできませんでした。(鈴木秀子シスターの話はいる。)
さらに、イエスは、積極的に彼を教え導こうとしています。風と霊について話をしています。ギリシャ語ではどちらもプニュウマといい、同じ言葉です。風は人の目にはみえない、しかしその存在を全身で感じることができる。霊も同じで、存在は目で見ることはできないが、その力強い働きは、全身をもって実感できる。その霊の働きは自由自在で人間の意のままに動かされることはない。
パウロは、「肉に従う者は、肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思う。肉の思いは死であるが、霊の思いは生命と平安である」(ローマ8:5~6)と言っている。
我々自身も、また自分の力の限界を知り、救いはただ神からくるという厳粛なことを認識すべきです。
円熟した年であり、神からの啓示である旧約聖書に精通していたニコデモでも、イエスの話は理解できなかった。自然の人は、神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり理解できないのです。霊によってはじめて判断できるからです。知識や経験などの人間的能力の積み重ねによっては決してわかることができない。正しい信仰に導かれるためには、その奇跡を見てそこに神の力を認めただけでは不十分で、霊的に新しく生まれなければ、本当の信仰ではない。
4、最後が、救いに導かれるニコデモです
パウロは、聖霊の神が働き、私たちを清め、全く新しく生まれ変わらせ、こうして救ってくださった(テトス3:5)といっています。
ニコデモは、民数記21章にある、荒れ野で棒の先につけられた青銅の蛇を見た人は救われたという話はよく知っていたとおもいます。しかし自分の救いと、どう関係しているのかについては、理解できなかったようです。
ニコデモは、7:50~51で、議員や律法学者がイエスをとらえようとしているときに、彼らの前で、「我々の律法では、まず本人から事情を聴き、何をしたかを確かめたうえでなければ判決を下してはならない」ことになっているではないかといい、イエスが無罪であることを公に表明している。人目を気にしながら、夜そっとイエスを訪ねてきたときの姿から神の導きにより一歩踏み出していることがわかります。
19:39~40で、イエスを十字架上から取り下ろし墓に葬りたいと、隠れた弟子でパリサイ人の有力者、アリマタヤのヨセフが公然とピラトに申し出たとき、ニコデモも
公然と葬りのため、没薬、沈香をもってきて、2人で墓に収めた。十字架上のイエスを見てニコデモは、3年前にイエスが言った、青銅の蛇の意味がわかったのであります。
罪のないイエスが、自分も含めた、われわれ人間の罪の贖罪のために十字架にかかって我々を救ったのだということ。それを見上げ、信じれば救われるということが分かったのです。
ニコデモは、十字架上のイエスを見上げ、悔い改め、信仰をみなのまえで告白したのであります。この世のことから離れ、イエスと共に生きていくことを。イエスとの出会いから3年たった。救いに入るにはこれでいいのだとイエスはいっているのです。
「キリストを心から喜び迎え、受け入れた人は、みなこの方から神の子となる特権をいただきました。それには、ただ、この方が救ってくださると信じればよかったのです。信じる人はだれでも新しく生まれ変わります。それは人間の熱意や計画によるものではありません。神がそう望まれたからです。」(ヨハネ1:12~13、リビングバイブル)
「あなた方は、主イエスキリストを受け入れたのですからキリストに結ばれて歩みなさい」(コロサイⅡ、2:6)