江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2016年6月26日)

2016-06-26 12:24:11 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第五)      2016.6.26

涙のリクエスト」 使徒言行録16:6~15、25~34

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。6月の第四日曜日を迎えました。皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。

 九州では、地震の後、大雨のために、また困難な状況にあります。私たちは、困難な中にある方々の上に、神様の速やかなる助けがあるようにお祈りしたいと思います。

 先週は、父の日で教会からプレゼントをいただきました。靴とベルトをいただきました。今日、履いているのがその靴で、しめているのがベルトです。新しい靴とベルトで、とてもうれしく過ごしております。皆さんに感謝です。私の誕生日と父の日が近いので、混ざり、二つ合わせてのプレゼントもありますが、子どもたちからたくさんのプレゼントをもらいました。お父さん方も、何かお言葉、プレゼントがあったと思うのです。家族のために、教会のために、神様のために頑張りたいと思います。

 今日は、「涙のリクエスト」という題で、使徒言行録からお話ししたいと思います。

 

 Ⅱ本論部

 一、成り行きを決めるのは神様

 6節には、「彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」とあります。

また、7節には、「ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。」とあります。パウロは伝道旅行の中で、伝道の計画を立てたでしょう。けれども、二度にわたって聖霊が禁じ、イエスのみ霊が許さなかったのです。パウロは自分の計画通りには行かなったということです。聖霊が何を禁じたのか。イエスの霊が何を許さなかったのか。その理由は記されてはいません。しかし、計画通りに、思い通りに事は進まなかったのです。そのことをパウロは受け入れた。つまり、聖霊の導き、イエスの霊に従ったということです。

 旧約聖書の箴言19章21節には、「人の心には多くの計(はか)らいがある。主の御旨のみが実現する。」とあります。リビングバイブルには、「人は計画を立てますが、その成り行きを決めるのは神様です。」とあります。

 昨日は、役員会の研修会を午前10時から5時まで持ちました。皆さんのお祈りに感謝します。特に二年後の青葉台教会の創立50周年記念に関して、いろいろと話し合いました。いろいろな計画のための備えをしました。これから、私たちは、50周年に向かっていろいろな計画を立てます。計画通りに行くこともあれば、計画通りに行かないこともあるでしょう。その成り行きを決めるのは神様なのです。

 私たちは、人生設計をするでしょう。将来の事を考えて備えます。お金や必要なものを蓄えます。けれども、ある計画のために、備えていたものが失われることがあります。無くしてしまうことがあります。全然計画通りに行かないことがあります。そこには、私たちの思いや願いを超えた、神様のみ心や思いがあるのです。そして、私たちの思い通りに行かないことの中に、聖霊の豊かな導きがあるのです。私たちには、わからない神様のご計画が、否定的な事柄の中に、私たちの思い通りにいかないことの中に、あるのだと思うのです。パウロは、自分の計画を優先することなく、神様の導きに、神様の禁止を受け入れたのです。私たちも、自分の思い通り、願い通りに行かなくても、そこに神様の導きがあると信じて、そのマイナスと思えること、否定的だと思えることを前向きに受け入れていきたいと思うのです。

 

 二、あなたの涙を見逃さない神様

 パウロは自分の計画が2度とも禁じられました。その内容は、パウロの病気、健康がすぐれなかったので、旅行ができなかったとある注解書は説明しています。肉体のとげのゆえに、その計画を断念したのだというのです。

 コリントの信徒への手紙第二の12章には、パウロに肉体の弱さ、肉体のとげについて記しています。パウロは、病気について、「一つのとげ」「思い上らないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使い」と表現しています。

 パウロは、自分の肉体的な弱さのために、伝道旅行中に苦労したことでしょう。ですから、主の癒しを祈り願ったのです。けれども、神様の答えはこうでした。

 「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリント12:9)と言いました。リビングバイブルには、「そのつど返ってくる答えは、こうでした。「いや、治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。わたしの力は弱い人にこそ、最もよく現れるのだから。」今では、私は、自分の弱さを誇ります。力や才能を見せびらかすのではなく、喜んでキリスト様の力の生きた証人になりたいのです。」

 パウロの肉体的な弱さが、パウロの計画を実行させなかったという考えがあるようです。その一つの理由として、10節を見ると「わたしたち」という言葉があり、わたしたちの中に医者のルカがいるのではないか、と考えられ、医者のルカが同行していたということは、パウロの体に問題があった、病気であったということが考えられるからだそうです。

 そのような理由で、2度の計画が閉ざされたパウロは、トロアスに行きました。そして、そこで幻を見るのです。皆さんと共に16章9節を共に読みましょう。

 「その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。」

 マケドニア人、ギリシャ人でしょう。「私たちを助けてください」と懇願したのです。

このマケドニア人の願いは、切実だったでしょう。ニコニコした顔で言ってはいないでしょう。悲しい顔で、あるいは涙を流しながら、「私たちを助けてください」と願ったのです。

今日の説教題は、ここから取りました。リクエストとは、要求する、依頼する、要望する、懇願するという意味があるようです。マケドニア人の切なる願い、涙のリクエストなのです。神様は、私たちの流す涙、そのリクエストに答えて下さるのです。パウロは、この幻を見た時、ここの神様のみ心を見たのです。

 10節を共に読みましょう。「パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神が私たちを召されているのだと、確信するに至ったからである。」

 

 三、悲しみの中に神様のみ業が起こる

 先週、インマヌエル中目黒教会で、福音連盟の東京大会がありました。二日目の夜は、小平牧夫先生がメッセージして下さいました。小平詩織さんのお父さんです。先生は、「主よ、それはできません」という題で使徒言行録10章からお話しして下さいました。ペトロは幻を見ます。大きな布の中に汚れた動物が入っており、それを屠って食べなさい、と神様に言われて、そんなことはできないと言います。しかし、神様は、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と言われました。それが三度あって、異邦人がペトロを訪ねてきたのでした。神様は、ユダヤ人の絶対に異邦人とは交わらないという、その考えを改めるために、そのことを幻を通して示され、ペトロもその幻を通して、神が人をわけ隔てなさらないということが理解できたのです。

 神様は、パウロの二度の計画をとどめ、マケドニア人を救うために、幻を示しました。涙のリクエストを示されたのです。そして、パウロは、マケドニア人に福音を伝えることが神様のみ心だと知ったのです。

 そして、パウロはフィリピに行き、福音を語り、そこでリディアという人とその家族が救われます。フィリピでの宣教の初穂が与えられました。けれども、霊につかれた女奴隷の霊を追い出したことにより、パウロとシラスは恨まれて、投獄されることになるのです。あのマケドニア人の叫び、涙のリクエストは、本当ではなかったのではないか、と思われるような苦しみと屈辱、困難を経験するのです。

しかし、自分の宣教の計画を2度否定されたパウロは、聖霊に禁じられ、イエスのみ霊が許されなかった、という否定的な事柄、マイナスに見えることを受け入れたパウロは、この度の自分の思いや願いに反する出来事、鞭打ち、拷問と牢獄を経験しましたが、パウロはそのことも受け入れるのです。そこに神様のみ心があることを信じるのです。

「人は計画を立てますが、その成り行きを決めるのは神様です。」と神様を信頼して、痛みと苦しみ、悲しみの中にありましたが、神様に顔と心を向けて、賛美をしたのでした。そこに、主のみ業が起こり、福音を語って、看守と看守の家族が救われるという驚くべき神様のみ業が起きたのでした。

 私たちの信仰生活の中で、苦しいことや悲しいことが起こります。自分の願った通りに、思った通りに行かないことが多くあります。その思いや願いとは正反対の出来事、それ以上のいやなことや悪いこと悲劇が起こります。けれども、イエス様は、その苦しいこと悲しいこと、辛いことを通して、神様の驚くべきみ業をなさるのです。

 イエス様は、私たちの罪を赦し、魂を救うために、罪人である私たちが受けなければならない罰を身代わりに受けて下さったのです。罪ある私たちが裁かれないで、罪のない清いお方イエス様が十字架で裁かれたのです。十字架の上で流された血潮のゆえに、裂かれた体、ささげられたその命の代償を通して、私たちの犯した全ての罪、現在犯し続けている罪、将来犯すであろう罪を完全に赦して下さったのです。そして、イエス様は死んでよみがえられて、私たちに永遠の命、天国の望みを与えて下さったのです。私たちは、そのことを信じて感謝したいと思うのです。

 

 Ⅲ結論部

 私たちの人生には悲しみがあります。涙があります。昨日、関口姉のお父様が亡くなられました。ご家族にとりまして、大きな悲しみと痛みです。けれども、お父様の魂は神様のみもとにあることを信じます。関口姉は、お父様の所に行かれて、愛を持って仕えられました。そして、祈りをささげ最後にアーメンと言うとお父様もアーメンと言われたそうです。その通り、信じますということです。自分の娘の信じる神様、その神学的な内容はわからなくても、イエス様を信じる娘が自分を愛していること、愛を持って仕えていることそして祈りの中で語る神様、イエス様の事をアーメン、その通りですと受け入れておられたのです。神様はアーメンととなえるお父様の心を魂を受け入れて下さっていることを信じるのです。

 困難や悲しみの中に、イエス様を信じる、愛する者を通して神様はみ業を起こされるのです。私たちは、今週も、「涙のリクエスト」をするかも知れません。神様、助けて下さい。憐れんで下さい。神様はそう祈る、そう叫ぶ者と共におられるのです。そして語られるのです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。

わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。わたしの力は弱い人にこそ、最もよく現れるのだから。」 こう言って下さるイエス様が、この週もあなたと共におられます。大丈夫、あなたは守られます。支えられます。このイエス様を見つめ、イエス様と共にこの週も歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(2016年6月19日)

2016-06-19 13:44:34 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第四)      2016.6.19

お父さん大好き」 ルカ15:11~24

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。6月の第三日曜日を迎えました。今日は父の日です。教会学校の子どもたちのお父さんも出席されているのだと思います。「父の日」の由来は、「父の日」も、母の日と同じく、やはりアメリカで生まれました。「1909年、ワシントン州のソナラ・ドッド(ジョン・ブルース・ドッド夫人)という女性は、「母の日」の説教を聞いていて、「父の日」もあるべきだと考えました。母親の亡き後、ソナラと5人の兄を男手一つで育ててくれた父親を敬愛していたからです。父親が6月生まれだったため、ソナラは自分が通う教会の牧師に頼み、6月に「父の日」を祝う礼拝をしてもらいました。それは、1909年6月19日で、第3日曜日でした。最初の父の日の祝典は、その翌年の19106月19日にスポケーンで行われた。当時すでに母の日が始まっていたため、彼女は父の日もあるべきだと考え、「母の日のように父に感謝する日を」と牧師協会へ嘆願して始まった。1966、アメリカ合衆国第36代大統領リンドン・ジョンソンは、父の日を称賛する大統領告示を発し、6月の第3日曜日を父の日に定めた。1972になり、アメリカでは正式に国の記念日に制定された。台湾の父の日(父親節)は8月8である。これは、「パパ」(表記は爸爸)と「八八」の中国語の発音が同じであることに由来している。」(ウィキペディアより)

 父の日は、母の日ほど盛大ではありませんが、商売する人たちは、何とか父の日も母の日に負けないようにといろいろと考えているようです。

お父さんと言えば、やはりサラリーマン川柳ですね。

 湧きました 妻よりやさしい 風呂の声   気を遣い 妻を目で追う オレとイヌ    ジム通い 結果が出ずに 腹が出る 同い年 キムタHIRO オレ疲労       男より トイレを磨けと 妻が言う   定年後 帰りは何時 聞く側に       ごを打つと 自動変換 ごめんなさい

 壁ドンを 妻にやったら 平手打ち     ひどい妻 寝ている俺に ファブリーズ

 妖怪か ヨー出るヨー出る 妻の愚痴

 お父さんたち、お互いにめげずにがんばりましょう。

今日は、ルカによる福音書15章11節から24節の放蕩息子のお話しから、「お父さん大好き」と題題しお話ししたいと思います。

 

 Ⅱ本論部

 一、父親はやさしいのです

 今日の聖書箇所の見出しには、「放蕩息子のたとえ」とあります。しかし、この箇所は、お父さんの愛について記しているとも言える箇所でもあります。11節には、「ある人に息子が二人いた。」とあるように、このお話しの主役は父親なのです。弟息子が、「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください。」と言いました。生前贈与(分与)ですね。財産の要求をお父さんにつきつけました。すると、お父さんは、兄と弟の二人に財産を分けてやったのです。そして、弟は財産、土地や家畜などをお金に換えて遠い国に旅立ち、放蕩の限りを尽くし、財産を無駄使いしてしまった、と聖書は記しています。

 このお父さんは、何も言わずに、男は黙って、財産を分けたのです。こんな若造に、莫大な財産を分けたら、金に換えて出て行ってしまうこと、そして、自堕落な生活をして、お金を無くしてしまうことぐらい分かっていたのです。人生経験豊富で、弟息子の事が手に取るようにわかるお父さんは、彼を諭すことも、叱ることも、説教することもなく、彼の言いうとおりにしたのです。父親の権威はありません。お母さんから見たら、「ちょっと、もっとバシッと言って聞かせてよ!」というような感じでしょうか。しかしそこには、お父さんの愛、やさしさ、慈しみがあるのです。

 「地震・雷・火事・親父(おやじ)」という題で、今日と同じ聖書の箇所からお話しをしたことがあります。この世で恐ろしいものを4つ順に並べて調子よく言った言葉とされていますが、親父はお父さんのことではなく、大嵐(おおやじ)、台風の事のようです。この大嵐(おおやじ)が親父(おやじ)に変化して、お父さんも地震や雷・火事のように怖い存在として言われるようになったようです。それはともかく、お父さんは、怖い存在、厳格な存在、それがお父さんの姿を現しているように思うのです。ですから、日本は、神様に対しても怖いお方、たたりがある。懲らしめがある。そのように感じている方が多くいます。このお父さんは、聖書の神様、父なる神様を現していると言われますから、この放蕩息子のお父さんは、何と弱い、子どもの言いなりで、子どもに説教もできない臆病者というイメージがないでしょうか。

 子どもにとって、お父さんの存在は、強くあってほしい。大きくあってほしい。強く叱ってほしい。たくましくあってほしいのであって、やさしい存在、無口な存在、愛情たっぷりの存在ではいけないかのように見られているのではないでしょうか。そこには、聖書に記された神様、愛の神様、どこまでも赦し、受け入れ、愛していく神様をなかなか受け入れることができないのではないでしょうか。

 

 二、あなたのお父さんのことを考えてみよう

 私の父は、厳しい人でした。戦争にも行き、苦労した人です。船員でしたので、家にはほとんどおりませんでした。帰ってくると、普段はいないのが当たり前ですから、お父さんの存在が、そこにいることが窮屈で、5人兄妹の中で、3人の男たちは、家に寄り付かないというか、なかなか帰らないという感じでした。6月の第三日曜日、父の日に父が家にいるということが何回かありました。その時、母が父の日のプレゼントを買って、私がプレゼントするということがよくありました。父は、私が買っていないということはわかっていたでしょうが、喜んでくれました。優しい父でもありましたが、私には怖い存在でした。耳が遠かったので、声が大きいし、頑固ですぐ怒る。まさに、地震・雷・火事・親父の怖い存在でした。

 そんな父親ですが、私が大きくなると当然。年を取り小さくなっていきます。私が大学に合格した時は、兄弟の中で誰も大学に行っていなかったので、涙を流して喜んでくれました。そして、将来を楽しみにしていたでしょう。そんな私が牧師になるために神学校へ行くことになった時、どんな思いだったでしょうか。母は、「食っていけるのか?」と心配しましたが、父親としては、大学までやらせて、期待していた息子が、わけのわからない外国の宗教、キリスト教の牧師になると母親から聞いた時はショックだっただろうと思います。それでも、何も言わずに応援していてくれたと思います。

 牧師になって、結婚して、孫たちができて、とても喜んでかわいがってくれました。その父親は癌になり、苦しい闘病生活を送りました。先が短いと聞いて、私は神戸の病院にお見舞いに行きました。そこには、本当に弱くなった父の姿がありました。病室に行くと、私のために、サンドイッチと飲み物を用いしていてくれました。「タマちゃん、おなかすいたやろう。食べ!」そう言ってくれた瞬間、子どもを思う父親の姿に感動しました。50代の私でしたが、父にとってはいつまでも一番下のタマちゃんでした。サンドイッチを食べながら、泣きそうでしたがこらえました。そして、父にイエス様の事を伝えました。汗をかきかき何とか伝えることができました。

 私にとって、怖い存在の父親でしたが、癌を患い死を目前にした父が、私のために用意してくれたサンドイッチとジュースのは本当にうれしかった。父の大きな愛を感じました。その父親は、私の誕生日の日に天に召されて行きました。ですから、私の誕生日は、父の命日です。「忘れるなよ」と父が私に残した事だと思うのです。

 お父さんの姿は、厳しい、怖いというイメージがあるかも知れませんが、本当は外側には現しませんが本当は、その内側、心はやさしい、愛のある存在なのだと思うのです。

 

 三、愛に満ち溢れるお父さんの姿

 この弟息子も、お父さんの存在をよく思っていなかったでしょう。だから、財産をもらって遠い国、異邦人の国へ行ったのです。しかし、全ての金を使い果たし、その上に、飢饉のためにユダヤ人は死んでもしないというブタを飼う仕事につき、食べることもできずに、人生の終わり、死を感じた時、彼はお父さんの事を思い出したのです。

 皆さんと共に、17節から19節まで読みましょう。「そこで、彼は我に返って言った。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」と。」

 辛い経験をして、やっと自分のいるべきところはお父さんのところだと気付いたのです。何もなくて幸せに暮らしていた時は、お父さんのそばにいることは窮屈で、自由がなくて、自分の思い通りに生きることが幸せだと思っていたけれども、お父さんを離れて自分の幸せはなかったことを思い知らされたのでした。そして、彼は決心して父のもとに帰って行くのでした。

 一方、お父さんは家を出て行った弟息子の事を片時も忘れなかったでしょう。

20節を共に読みましょう。「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」

 「まだ遠くは離れていたのに」という言葉は、お父さんの愛が込められた言葉だと思います。普段ならば、そう簡単に行動しないお父さん、弟息子の帰りを待ち詫びて、弟息子の姿が見えた瞬間、息子を思う心、「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」のです。ここには、子どもを思う、愛する父親の姿があるように思うのです。

 弟息子は、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」そこまで言うと、父は息子の言葉をさえぎりました。本当ならばもう一言、一番大事な言葉が残っていました。「雇い人の一人にしてください。」と。しかし父はその言葉を言わせなかったのです。

 皆さんと共に、22節から24節まで読みましょう。「しかし、父親は僕たちに言った。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」そして祝宴を始めた。」 全てを失い、親の顔に泥を塗り、どうしようもなくなって帰って来た弟息子をそのままの姿で受け入れ、最高のものをもって歓迎したのです。これが、神様のあなたに対する姿です。あなたが今どのような姿であってもいいのです。罪を犯したままであったらそのままで、失敗をしたのなら失敗のままで、やけっぱちになっているならばやけっぱちのままで、そのままのあなたをそのままの姿で神様は歓迎されるのです。神様はそのままのあなたを待っておられるのです。

 なぜそこまで愛されるのか。それは、イエス・キリスト様、神であるお方、罪のないお方が、私たちの罪の身代わりに十字架にかかり、尊い血を流し、その命をもって身代わりに死んで下さった。私たちの罪を赦し、魂を救うために、命をささげて下さったからなのです。イエス様は死んで葬られましたが三日目に復活され、私たちにも復活の命、永遠の命、天国の望みを与えて下さったのです。そのような愛で私たちを愛しておられるのが、聖書の神様なのです。私たちは、この愛をしっかりと受け止めたいと思うのです。

 

 Ⅲ結論部

 弟息子は、このお父さんの愛を感じました。落ちるところまで落ちた自分を以前と変わらず受け入れ愛してくれる父親、何か一緒にいると窮屈に感じて、避けていたお父さんが大好きになったのだと思うのです。お父さんの愛を知ってから、お父さんと共にいることがうれしくなった。お父さんと共にいたいと思うようになった。それは、自分がどのような状態になっても、お父さんの愛は変わらないことを知ったからです。ですから、お父さんが自分のためにする注意や叱責の言葉も、聞けるようになった。それは、自分を愛して言ってくれるということを知ったからです。

 同じように、私たちは天のお父様が大好きです。私たちも、放蕩息子と同じように、神様が私たちを愛していて下さることを知ったからです。私たちが、どこまで落ちぶれても、クリスチャンとして恥ずかしい経験をしようとも、人に言えないことをしていたとしても、神様はイエス様の十字架と復活のゆえに、私たちをそのままで愛していて下さるのです。

 今日は父の日です。子どもたちはお父さんが大好きです。嫌いだという人がいたら、それはお父さんの反面しかみていないのです。お父さんの良い所を探して下さい。あなたのために、心を注いで頑張っているお父さんに、今日は感謝を現わそうではありませんか。

この週も、愛なる神様があなたと共におられることを意識して歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(2016年6月12日)

2016-06-12 12:31:14 | Weblog

2016612日 青葉台教会 主日礼拝              

ヨハネ62240節 「ここに命のパンがあります」

 

序論

おはようございます。612日三位一体後第3主日礼拝をみなさんとご一緒に持てることを感謝します。はじめにお祈りを致します。

 

導入 アンパンマン 

小さいお子さんがおられる多くの家庭では、アンパンマンが愛されていますね。オモチャや絵本やお絵かきなど、どこかで登場しています。アンパンマンを知らない人はいないと言っても言い過ぎではないくらい、アンパンマンは有名です。ギネスブックにも掲載されるぐらいです。アンパンマンの生みの親である柳瀬タカシさんという方は、聖公会のクリスチャンの方で、201310月、94歳で召天されました。彼は、戦争中に真の正義を伝えるにはどうしたらよいかを考えました。そしてあらゆるアニメを生み出し、その中で 「アンパンマン」は小さなお子さんにとても人気です。私の姪もアンパンマンが好きです。

2回のジョイジョイ親子の会で、佐々木兄が子どもたち大好きなアンパンマンの紙芝居の読み聞かせをして下さいました。全部通して読んだのは初めてですが、本当にいい話です。主人公のアンパンマンは正義の味方で自分の顔を犠牲にしてまで、空腹の人を助けます。アンパンマンのモデルとなっているのはイエス・キリストで、アンパンマンを作ったジャムおじさんは父なる神を指しているそうです。アンパンマンは困っている人を発見したら、自分の顔の一部を取り、助けてあげるのです。空腹で必要としている人たちはアンパンマンが自分の顔を与えて、くれるので、元気になることができるのです。ジャムおじさんはアンパンマンを遣わして、町の人を助けるのです。アンパンマンのパンはどんな味をしているのでしょうか。わたし達にもイエス様からパンが与えられております。今日は、ヨハネによる福音書622節ー40節『ここに命のパンがあります』と題しまして、メッセージを語らせていただきます。

 

本論

 本当に必要なもの 命のパン

イエス様はベトサダの池で病人を癒され、御子の権威、ご自分についての証言をされました。話し終えたのち、ティベリアス湖の向こう岸に渡られ、ついてきた5千人以上の群衆に対して2匹の魚と5つのパンで彼らの空腹を満たされました。夕方になり、弟子たちは舟で向こう岸のカファルナウムに行き、イエスはまた父なる神に祈るため一人で山へ入っていかれたのです。その後、弟子たちはカファルナウムへ向けて舟を漕ぎ出しましたが、強風によって湖が嵐で悩まされていた。イエス様がいない舟。ますます荒れ狂う湖上をイエス様は歩いて弟子たちの元へ行かれたのです。波に飲み込まれそうになりながらイエス様が湖上を歩いておられるのを見て、弟子たちは幽霊だと言って怯え、恐怖のあまり叫び声をあげていました。でもイエス様は「わたしだ。恐れることはない。」と言われると、イエスは舟に乗り込み、嵐は治まったのです。マタイによる福音書によると、弟子の数人は「本当にあなたは神の子です」と拝んだと書いてあります。イエス様は、嵐をも治められる、大自然をご支配される全能の権威を持っておられ方なのです。翌日、イエス様と弟子たちは、無事カファルナウムへ行きました。

一方、5千人以上の満腹した人々は、帰る人もいれば、翌日になっても岸辺にいてまだ帰らない群衆も大勢いたわけです。夜が明けて、群衆たちが目をさますと、イエス様も弟子たちもいないことに気がつき、彼らをあちこち探してカファルナウムまでやってきたのです。そしてイエス様と弟子たちを見つけたのです。弟子たちと一緒に舟で行かれていないので、舟は1そうしかなかったのに、どうやってこられたのか不思議で「ラビ、いつおいでになったのですか」と群衆は不思議に思い尋ねたのです。

 

大勢の群衆がイエス様の所へ押し寄せてきたのは、イエス様のしるしを見てではなく、当時、とっても貧しかったので、パンで満腹にしてもらった。だから、満たされたいからまたついてきたそうです。

あちこち探し求めてカファルナウムまで来た群衆たち。イエス様の教え、しるしが目的なのでなく、またイエス様がパンをくださるのではないかと期待してきた者も中にはいるでしょう。イエス様の答えは、少し冷たく聞こえたかもしれません。彼らの心の思いをご存知だったからです。人々は肉体を養っている間は、イエス様を偉大な方だと考え、王にしようとさえしたのです。当時、貧しくて日々の糧を求めていた人々は、イエス様がなさった奇跡を見て、集まりました。しかし、イエス様が与えようとしておられたのは、食べるパンではなく、永遠の命に至る食べ物だったのです。食い違いがあったようです。

イエス様は「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。27節」とおっしゃいました。「朽ちる食べ物でなく、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」リビングバイブルには「いいですか。あなたがたがわたしのそばにいたがるのは、わたしを信じているからではありません。パンを食べさせてあげたからですね。えっ、そうでしょう。食べ物みたいになくなってしまうものに、心を奪われてはいけません。それよりも、永遠の命を手に入れる努力をしなさい。メシヤのわたしは、それをあげるのです。そのためにこそ父なる神は、わたしをお遣わしになったのです。」

食べ物みたいにすぐ失ってしまうものに、心を奪われていけないのです。それらは、すぐ過ぎ去ってしまい、永遠に残りません。ここの箇所を口語訳聖書には「委ねられた」と記されています。イエス様は、永遠の命を得るために努力しなさい。わたしがあなたがたに与えられる食べ物なんです。わたしが委ねられてきたのですよ。とおっしゃいました。ユダヤ人は律法を守ってきましたから、永遠の命を得るためには律法を守ることが常識だった群衆は、「どうしたらいいのか」と聞きました。イエス様は「それは神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と答えられました。キリストを信じることです。ユダヤ人はイエス・キリストを信じてはいません。群衆は、「31. 私たちの先祖は荒ら野でマンナを食べました。あなたはどんなしるしを起こしてくださいますか」と質問しています。

旧約聖書の出エジプト16章においてはマナについて書き記されています。神がイスラエルの民を導かれ、エジプトの地から脱出するのを助けて下さいました。モーセとイスラエルの民は大変喜んだのです。ところが、荒野を3日間旅しただけで、水がない!!やっと見つけた水ですら苦くて飲めなかったから、モーセに不平を言いました。また、シンの荒野に入った時も空腹で、「エジプトで死んだ方がましだった!!あの時は肉の入った鍋の前に座り、パンを腹一杯食べれたのに。」とモーセとアロンに不平を言ったのです。主は絶望な民の叫びを聞かれ、40年間毎朝マンナというパンを与え、夕方にはうずらを飛ばせ養われたのです。これは神様の一方的に与えて下さった恵みであり、荒野において飢餓状態で希望もないところに、生きる命=希望を与えて下さいました。

 

群衆はその時のことを想起し、自分たちの先祖はマンナやうずらの奇跡によって信じたから、イエス様にも同じことを要求してきたのです。モーセの時みたいに私たちが信じることができる様にしるしを見せて下さいと頼みました!!食べ物を求めていた彼らは、物質的な飢えと、物では満たせきれない霊的な飢えがあったと思います。お腹を満たすという肉体的な養いを受けても、霊的な面で神様から与えられる日ごとのパンに飢えている状態だったと思うのです。霊的な命に対する飢え状態の群衆に対し、イエス様は肉体を養うことも大事ですが、決して朽ちない命のパンも必要ですよ。「わたしは天から遣わされた命のパンですよ」とおっしゃっているのです。彼らには霊的な飢えがありました。イエス様には飢えを養う力を持っておられます。霊的に生命を与えることができるお方です。他の何かでなく、復活されたイエス様だけが人間の心と魂の飢え渇きを満たしてくださるのです。

「イエスは言われた。私が命のパンである。わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者は、決して乾くことがない。」

 

 命のパン

食べるパンは肉体に力を与えます。しかし、命のパンは霊的に私たちを養い、慰め、新しく生かすものなのです。キリスト教会では聖餐式を行います。聖餐式というのは、パン(体)と葡萄ジュース(血)を用いて、イエス様の犠牲を表しています。クリスチャンはイエス様が流された血と体を記念し覚えて、聖餐式に与かるのです。サマリヤの女性も「乾くことがないようにその水を下さい。」と求めました。

また、復活なさったイエス様はティベリアス湖畔で弟子たちに現れ、その時も岸辺で焼いた魚とパンを与え、ペテロたちに深い慰めを与えられました。「モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降ってきて、世に命を与えるものです。」そう語られたイエス様は、世に与えられたパンとは、わたしが命のパンなのです。ここに命のパンがありますよ。わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者は、決して乾くことがありませんよ」とおっしゃるのです。

 

では、命のパンを与えられるとどうなるのでしょうか。

命のパンを受け取りいただく、自分の一部とするとは、命のパンで生かされる、ということです。命のパンによって神との関係ができるのです。

イエス様を知り、信じ、迎える時、今まで全ての満たされなかった渇望。心や魂の渇きは、潤うのです。私たちは神を知らない人生が長いほど、霊的な空腹や渇きは増します。しかし、イエス様を信じて命のパンを頂く時、飢えることも渇くこともないのです。命のパンは、神の力が働かれているからです。

「テモテへの手紙  246節 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとしてご自身を捧げられました。」

 

36節で「あなたはわたしを見ているが、信じない」と言われました。群衆はイエス様を見ているのに、奇跡も見ているのに信じなかったのです。しかし、その中には信じる人もいました。状況が何であろうと神の招きは、いつもすべての人に対して招かれているのです。私たちは命のパンを受けることもできますし、拒否することもできます。もし、命のパンをいただくなら、私たちの人生に新しくされるのです。ヨハネによる福音書を見ますと、イエス様の最初の弟子となったペテロ、アンデレ、フィピポ、ナタナエルもイエスさまを見て、出会って弟子となりました。ファリサイ派の議員ニコデモ、サマリヤの女性、王の役人もベトサダの病人もイエス様と出会い、いのちのパンを受け取ったのです。新しく人生のページを始めたのです。それからは、命のパンであるキリストがいつも共におられて、飢えることが無く、支えてくだるのです。

 

Ⅲ復活の希望

イエス様は信じる者に対して希望の約束をお与えになられました。38−40節 わたしが天から降って来たのは、自分の意思を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じるものが皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

人には生があれば、「死」というものがあります。死なない人は誰一人としていません。イエス様を信じる者には永遠の命が与えられておりますから、信じる者は死んでしまったら終わりではないのです。イエス様が十字架にかかり死なれ復活されたように、私たちも終わりの日に復活させてくださるのです。神様の御心は、人を裁くのではなく、「子を見て信じるものが皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させること」なのです。

2千年以上の時が経った今、イエス様はおられませんが、聖霊を送られ、信じる者をやしなってくださっているのです。これは、信じる者に対する大きな恵みです。

 

結論

「わたしが命のパンです」命のパンを受け取った方は、新しい人生の章を記し始めているのです。そのページを書き記すのはあなたでも、記すものは命のパンで養われ生かさているということを知ってください。

今日の説教題は「ここに命のパンがあります」です。教会にこそ、命のパンがたくさんあるのです。毎週日曜日、祈りと賛美とみ言葉で霊的に養われることはとっても素晴らしいことなのです。霊的に空腹時、日々のデーボーションや交わりを通して命のパンをいただき、肉体的にも霊的にも力を得て下さい。忙しくて全然いただく時間がなかった、食欲がなかった、命のみことばを頂くのを忘れていた!という方は是非、日曜日は教会に来てください。共に集う兄弟姉妹が必ずいます。聖書には「人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである。マタイ4:4」という御言葉があるように少しでも神の御言葉を通して、神の御心がなんであるかを知ることが大切だと思うのです。美味しいものを一人で食べるより、みんなで食べる方が美味しい、いいなと思いますね。同じように、教会に来れば、与えられた信仰共同体と一緒に命のパンをみんなで頂く時、神様が働かれ、慰め、支えられるのです。イエス様も常に祈ることで、父なる神の御心を行いました。

私たちも、差し出されている命のパンをいただきながら、神が先頭を歩かれますので今日からの歩みを歩んでいきたいと思います。

 

お祈りいたしましょう。

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日曜礼拝(2016年6月5日)

2016-06-05 17:11:58 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第二)      2016.6.5

食い物の恨みは恐ろしい」 使徒言行録6:1~7

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。6月の第一日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることのできる恵みを感謝致します。

 先週の礼拝において、祈祷会を大切にしましょうとお話をしました。祈祷会に加藤静恵姉がおいでになり、とてもうれしく思いました。メッセージを聞いて、「祈り会に来い」ということかと、仕事が終わり疲れておられたそうですが、祈り会に参加して良き出会いが与えられ、祈祷会に参加して祈ることを具体的に出席された姉妹は、神様からの声を聞いてそれに従って行動したのだと思います。

 私たちは、毎週のメッセージが自分に語られたこととして聞いて、そのみ言葉にどのように応答していけるか、応答して行くのか、牧師が語るからではなく、牧師を通して語られる神様の声に従って行動する時、神様からの大いなる祝福が与えられるのだと思うのです。

 私たちは、今日も神様の声に聞き従いたいと思います。今日の説教題は、「食い物の恨みは恐ろしい」です。自分の大好物が出て、それを最後の楽しみにと置いておいたものを誰かに食べられてしまったという経験のある人は、その食べた相手をなかなか許せないということがあるのではないでしょうか。今日は、使徒言行録6章1節から7節を通して、初代教会においても、食べ物のことで問題が起こりました。そのような問題が起こった時、どのように解決したのかを見てみたいと思います。

 

 Ⅱ本論部

 一、苦しみにあったことは私に良いこと

 使徒言行録5章はイエス様の弟子たちのめざましい働き、奇跡の働きのゆえに、多くの人々がイエス様を信じ、その数も増えて行きました。ペンテコステの日、聖霊を受けた弟子たちは、イエス様の語られたように、イエス様の証人としての働きを十分していました。けれども、イエス様の働きをよく思わなかった人々は、当然弟子たちの働きに対してもよく思いませんでした。弟子たちは、捕らえられ牢に入れられたりしました。しかし、弟子たちは、5章41節にあるように、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」と、イエス様の名のために自分たちが苦しみを経験することを喜んだのです。

 私たちは、この日本という国でイエス・キリスト様を信じていくということは、いろいろな苦労があるかも知れません。クリスチャンであるという理由だけで、毛嫌いされることもあるでしょう。バカにされることもあるかも知れません。信仰を持つことを親に反対されたり、友達に反対されることもあるかも知れません。そんな時、私たちは落ち込みます。クリスチャンであることを、クリスチャンになったことを後悔するかも知れません。そのような苦しみを経験するということは、サタンが恐れているということかも知れません。苦しみを経験するということは、それだけ成長しているということでしょう。ですから、私たちも弟子たちのように、イエス様の名のために辱められること、辛い経験をすることを喜べたらいいですね。イエス様は、私たちの経験する辱めや苦しいこといやなこと、全てを知っておられます。そして、イエス様は私たちを慰めて下さるのです。落ち込んだ時、辛い経験をした時、礼拝や祈祷会を休むのではなく、礼拝や祈祷会に来て、イエス様に訴えましょう。イエス様は、あなたに慰めと癒しを必ず与えて下さるのです。

 使徒言行録5章は大祭司たちからの迫害、外からの問題でした。けれども、6章は教会の内側の問題が起こったのです。

 6章1節を共に読みましょう。「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシャ語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。」

 初代の教会には、ギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人、二種類の人々がいたのです。この両者の間で問題がありました。現代のキリスト教会は、外側の問題迫害を受けるということは少なく、どちらかというと、教会の内部の問題が多くあるように思うのです。牧師と信徒、経験ある信徒と経験のない信徒、古い信徒と新しい信徒、年を重ねた信徒と若い信徒、いろいろな課題が多くあるのだと思うのです。問題や課題はつきものです。問題や課題があることが問題ではありません。その問題や課題をどのように解決するのか。人間的に解決するのか、神様に介入していただくかによって、結果は大きく違って来るのだと思うのです。

 

 二、問題は問題で終わらない

 ギリシャ語を話すユダヤ人は、ヘレニストと呼ばれていた人々でした。彼らは単にギリシャ語を話すというだけではなく、パレスチナから世界各地に離散していたユダヤ人で、様々な異国の文化と接触しながら生きて来た人々でしたから、ヘブライの文化にだけ親しんだ人々とはかなり異なった気質や物の味方、考え方を身に着けていたので、様々な場面で違いが生まれていたのだと思うのです。

 日本でも、関東と関西、東京と大阪では気質や考え方には違いがあります。県民ショウという番組がありますが、同じ日本でも随分習慣の違いがあるものですから、ギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人の間には受け入れがたい様々な問題があったのだと思うのです。

 特に日々の分配のこと、毎日の食料の配給の問題は死活問題だったのです。熊本の地震から1か月半過ぎましたが、被災された方々は困難の中にあります。私も、皆さんの献金を持って、全て食料に変えて熊本教会に行き、近隣の方々に本当に喜んでいただきました。全ての人々に平等にお分けできました。もし、教会関係だけの人たちには多くの食料をお配りし、それ以外の人々には1つだけというようなことになれば、不平不満がでるでしょう。ましてや、同じ教会の中で、同じ信仰を持つ人々の間で、世界各地に離散していたユダヤ人の特にやもめたち、ご主人を失い、一番困難の中にある人々の日々の配給で差別待遇されているとなれば、当然苦情が出たのです。「どうせ、俺たちはよそ者だから、こんな目に遭うんだ。ユダヤに住むヘブライ人語を話すユダヤ人にはやさしくて、ギリシャ語を話すユダヤ人、俺たちには厳しいんだ!」 ヘブライ語を話すユダヤ人はユダヤ人で

「そんなことはない、平等に配っているはずだ!」ということで、両者の間に争いが起こったのでした。

 お互いに相手の悪いところ、問題を言いますし、自分のことは良いことしか言わない。ケンカは一人ではできませんし、どちらにも問題があるのだと思うのです。あっちが悪い、こっちは悪くない。あっちが良くてこちらが悪い、というのではなくて、どこに問題があるのか、何を大切にしなければならないのかを初代の教会は、弟子たちは考えたのでした。 教会にも問題はあります。課題はあります。けれども、問題と思われる事柄を通して、神様は、神様を信頼する者に、その問題を恵みに変えて下さるのです。

 

 三、神様の解決法

 12弟子は、全ての人々を呼び集めて、「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。」と言いました。12弟子たちは、食料の配給の仕事もしていたようです。神の言葉も語っていたが、食事の配給にも首を突っ込んでいたのです。しなければならないことは多くありますが、しなくてもよいことをしている場合も多くあります。多くの牧師先生は、説教の準備に時間をかけ、命を懸けます。しかし、それだけではなく、多くの雑用やすべきことがあまりにも多くあります。そのことによって、み言葉への備え、メッセージの準備に影響を及ぼしていることが多くあるように思います。

 青葉台教会は、牧師がみ言葉に専念できるように、信徒の皆さんが多くの場面でカバーし、奉仕していて下さいます。本当に感謝なことです。青葉台教会の祝福は、そこにあるといえるでしょう。本来すべきことを牧師がすることが祝福なのだと思うのです。

 弟子たちは、そのことに気付きました。本来自分たちがすべきことは、自分たちがみ言葉で養われ、その恵みを語る。み言葉を語ることに専念すること。そのために、自分たちがしていた配給の奉仕を委ねるということでした。そして、そのために、7人を選ぶということでした。その7人を選ぶ基準は、霊と知恵に満ちた評判の良い人ということでした。

 聖霊に満たされた人、肉ではなくて、自分の考えや思いでだけで生きるのではなく、聖霊に聞く人、聖書のみ言葉を聖霊に聞いて受け取る人、いつも神様の臨在を覚える人、どんなに問題が起こり、困難な状況にあっても聖霊の導きに敏感な人、知恵に満ちた人は、知識において優れているだけではなくて、神の知識、神様を知る知識、自らの立場をわきまえ、相手の立場に立って物事を考えることのできる人、だからこそ誰にでも評判の良い人であると思うのです。そして、そのような基準で選ばれた人は、ステファノ、フィリポ、プロコロ、ニカルノ、ティモン、パルメラ、ニコラオの7名でした。

 この7名というのは、ギリシャ語を話すユダヤ人、ヘレニストの人々でした。自分たちのやもめたちが日々の配給で差別されていると苦情を申し立てた側の人々だったのです。普通ならば、聖霊に満たされ、知恵に満ち、評判の良いヘブライ語を話すユダヤ人4人、聖霊に満たされ、知恵に満ち、評判の良いギリシャ語を話すユダヤ人3人というのが妥当でしょう。しかし、そのような人間的な判断ではなくて、選ばれた人々は、ギリシャ語を話すユダヤ人、ヘレニストの人々だったのです。

 私たちは、教会の中での問題をやはり人間的な経験や努力で解決しようとするものです。しかし、それがたとえ良いと思ってしたとしても、やはり人間的なものなのです。12弟子たちが、今回の配給の問題も、その問題だけを解決しようとして、自分たちの経験や努力に頼っていたら、問題は大きくなっていたのかも知れません。神様に信頼して、神様に聞いて実行したら、結果的には選ばれた7人がギリシャ語を話すユダヤ人だったのです。人間的な何かで答えを出したら、この7名は絶対に選ばれなかったのだろうと思います。

 私たちの教会にも問題や課題はたくさんあるでしょう。それを、今までの経験や習慣で解決することがないように。自分たちの努力やがんばりで解決するようなことがないように、神様に介入していただいて、神様の声を聞いていきたいと思うのです。

 イエス様が教会の頭であり中心です。教会が病む時、イエス様も痛まれるのです。ご自分の尊い血を流し、命をささげて下さったことにより、私たちの全ての罪が赦されました。イエス様は私たちの全ての罪を赦すために、ご自分が犠牲となられたのです。教会は、イエス様の血と命が捧げられたほどに、イエス様に愛された教会であることを覚えたいと思うのです。

 

 Ⅲ結論部

 食べるということは、生きていくために大切な事です。生きて行くためには食べなければなりません。北海道で行方不明になった大和君は何も食べないで、水だけで6日間を生き延びました。助かったことは本当によかったことです。けれども、やはり食べないと生きていけないのです。食べるということは生きるということです。そこに、配給の問題が起こりました。

 私たちは、個人的にも問題があることでしょう。夫婦の間にも、親子の間にも問題があるでしょう。教会にもあるでしょう。人が集まればそれだけ問題や課題はつきものです。私たちは、人間的な思いで人を見たり、教会を見るのではなくて、常に聖書の言葉に触れて、聖書を通して、あるいはメッセージを通して語られるイエス様の言葉をしっかりと受け止めて、イエス様の十字架の愛と、復活の命に預かりたいと思うのです。

 人間関係の中でうまくいかないと相手を恨んだりするものです。その恨みの心をそのまま放置するのではなくて、イエス様に委ねて、イエス様に触れていただいて、イエス様に赦された者として、相手を受け入れて行く、赦していくという意志と実行を神様の前に決断したいと思うのです。問題を通して、執事、役員という組織が与えられました。

 昨日のバザーは多くの方々が来られたと聞きました。バザーという行事のゆえに、教会に足を運んで下さる方がいます。そのためにバザーのために時間をささげ、奉仕して下さった方々に感謝します。また、礼拝のために背後で奉仕して下さった方々に感謝します。教会には多くの働きがあります。そして、各自が与えられた賜物を用いて、喜んで仕えたいと思うのです。そして、全ての奉仕に優先して、神様の言葉に触れて、神様の声を聞いて従うこと、祈りを通して神様と深く交わることを大切にしたいと思うのです。多くの働きがあればあるほど、多くの奉仕をする人こそ、聖霊に満たされ、神の深く知り、評判の良い者となりたいと思うのです。

 この週も、各自が牧師は牧師として、信徒は信徒そして、なすべきことを大切にして、イエス様と共に歩んでまいりましょう。

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