日曜礼拝(三位一体後第五) 2016.6.26
「涙のリクエスト」 使徒言行録16:6~15、25~34
Ⅰ導入部
おはようございます。6月の第四日曜日を迎えました。皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。
九州では、地震の後、大雨のために、また困難な状況にあります。私たちは、困難な中にある方々の上に、神様の速やかなる助けがあるようにお祈りしたいと思います。
先週は、父の日で教会からプレゼントをいただきました。靴とベルトをいただきました。今日、履いているのがその靴で、しめているのがベルトです。新しい靴とベルトで、とてもうれしく過ごしております。皆さんに感謝です。私の誕生日と父の日が近いので、混ざり、二つ合わせてのプレゼントもありますが、子どもたちからたくさんのプレゼントをもらいました。お父さん方も、何かお言葉、プレゼントがあったと思うのです。家族のために、教会のために、神様のために頑張りたいと思います。
今日は、「涙のリクエスト」という題で、使徒言行録からお話ししたいと思います。
Ⅱ本論部
一、成り行きを決めるのは神様
6節には、「彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」とあります。
また、7節には、「ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。」とあります。パウロは伝道旅行の中で、伝道の計画を立てたでしょう。けれども、二度にわたって聖霊が禁じ、イエスのみ霊が許さなかったのです。パウロは自分の計画通りには行かなったということです。聖霊が何を禁じたのか。イエスの霊が何を許さなかったのか。その理由は記されてはいません。しかし、計画通りに、思い通りに事は進まなかったのです。そのことをパウロは受け入れた。つまり、聖霊の導き、イエスの霊に従ったということです。
旧約聖書の箴言19章21節には、「人の心には多くの計(はか)らいがある。主の御旨のみが実現する。」とあります。リビングバイブルには、「人は計画を立てますが、その成り行きを決めるのは神様です。」とあります。
昨日は、役員会の研修会を午前10時から5時まで持ちました。皆さんのお祈りに感謝します。特に二年後の青葉台教会の創立50周年記念に関して、いろいろと話し合いました。いろいろな計画のための備えをしました。これから、私たちは、50周年に向かっていろいろな計画を立てます。計画通りに行くこともあれば、計画通りに行かないこともあるでしょう。その成り行きを決めるのは神様なのです。
私たちは、人生設計をするでしょう。将来の事を考えて備えます。お金や必要なものを蓄えます。けれども、ある計画のために、備えていたものが失われることがあります。無くしてしまうことがあります。全然計画通りに行かないことがあります。そこには、私たちの思いや願いを超えた、神様のみ心や思いがあるのです。そして、私たちの思い通りに行かないことの中に、聖霊の豊かな導きがあるのです。私たちには、わからない神様のご計画が、否定的な事柄の中に、私たちの思い通りにいかないことの中に、あるのだと思うのです。パウロは、自分の計画を優先することなく、神様の導きに、神様の禁止を受け入れたのです。私たちも、自分の思い通り、願い通りに行かなくても、そこに神様の導きがあると信じて、そのマイナスと思えること、否定的だと思えることを前向きに受け入れていきたいと思うのです。
二、あなたの涙を見逃さない神様
パウロは自分の計画が2度とも禁じられました。その内容は、パウロの病気、健康がすぐれなかったので、旅行ができなかったとある注解書は説明しています。肉体のとげのゆえに、その計画を断念したのだというのです。
コリントの信徒への手紙第二の12章には、パウロに肉体の弱さ、肉体のとげについて記しています。パウロは、病気について、「一つのとげ」「思い上らないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使い」と表現しています。
パウロは、自分の肉体的な弱さのために、伝道旅行中に苦労したことでしょう。ですから、主の癒しを祈り願ったのです。けれども、神様の答えはこうでした。
「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリント12:9)と言いました。リビングバイブルには、「そのつど返ってくる答えは、こうでした。「いや、治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。わたしの力は弱い人にこそ、最もよく現れるのだから。」今では、私は、自分の弱さを誇ります。力や才能を見せびらかすのではなく、喜んでキリスト様の力の生きた証人になりたいのです。」
パウロの肉体的な弱さが、パウロの計画を実行させなかったという考えがあるようです。その一つの理由として、10節を見ると「わたしたち」という言葉があり、わたしたちの中に医者のルカがいるのではないか、と考えられ、医者のルカが同行していたということは、パウロの体に問題があった、病気であったということが考えられるからだそうです。
そのような理由で、2度の計画が閉ざされたパウロは、トロアスに行きました。そして、そこで幻を見るのです。皆さんと共に16章9節を共に読みましょう。
「その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。」
マケドニア人、ギリシャ人でしょう。「私たちを助けてください」と懇願したのです。
このマケドニア人の願いは、切実だったでしょう。ニコニコした顔で言ってはいないでしょう。悲しい顔で、あるいは涙を流しながら、「私たちを助けてください」と願ったのです。
今日の説教題は、ここから取りました。リクエストとは、要求する、依頼する、要望する、懇願するという意味があるようです。マケドニア人の切なる願い、涙のリクエストなのです。神様は、私たちの流す涙、そのリクエストに答えて下さるのです。パウロは、この幻を見た時、ここの神様のみ心を見たのです。
10節を共に読みましょう。「パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神が私たちを召されているのだと、確信するに至ったからである。」
三、悲しみの中に神様のみ業が起こる
先週、インマヌエル中目黒教会で、福音連盟の東京大会がありました。二日目の夜は、小平牧夫先生がメッセージして下さいました。小平詩織さんのお父さんです。先生は、「主よ、それはできません」という題で使徒言行録10章からお話しして下さいました。ペトロは幻を見ます。大きな布の中に汚れた動物が入っており、それを屠って食べなさい、と神様に言われて、そんなことはできないと言います。しかし、神様は、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と言われました。それが三度あって、異邦人がペトロを訪ねてきたのでした。神様は、ユダヤ人の絶対に異邦人とは交わらないという、その考えを改めるために、そのことを幻を通して示され、ペトロもその幻を通して、神が人をわけ隔てなさらないということが理解できたのです。
神様は、パウロの二度の計画をとどめ、マケドニア人を救うために、幻を示しました。涙のリクエストを示されたのです。そして、パウロは、マケドニア人に福音を伝えることが神様のみ心だと知ったのです。
そして、パウロはフィリピに行き、福音を語り、そこでリディアという人とその家族が救われます。フィリピでの宣教の初穂が与えられました。けれども、霊につかれた女奴隷の霊を追い出したことにより、パウロとシラスは恨まれて、投獄されることになるのです。あのマケドニア人の叫び、涙のリクエストは、本当ではなかったのではないか、と思われるような苦しみと屈辱、困難を経験するのです。
しかし、自分の宣教の計画を2度否定されたパウロは、聖霊に禁じられ、イエスのみ霊が許されなかった、という否定的な事柄、マイナスに見えることを受け入れたパウロは、この度の自分の思いや願いに反する出来事、鞭打ち、拷問と牢獄を経験しましたが、パウロはそのことも受け入れるのです。そこに神様のみ心があることを信じるのです。
「人は計画を立てますが、その成り行きを決めるのは神様です。」と神様を信頼して、痛みと苦しみ、悲しみの中にありましたが、神様に顔と心を向けて、賛美をしたのでした。そこに、主のみ業が起こり、福音を語って、看守と看守の家族が救われるという驚くべき神様のみ業が起きたのでした。
私たちの信仰生活の中で、苦しいことや悲しいことが起こります。自分の願った通りに、思った通りに行かないことが多くあります。その思いや願いとは正反対の出来事、それ以上のいやなことや悪いこと悲劇が起こります。けれども、イエス様は、その苦しいこと悲しいこと、辛いことを通して、神様の驚くべきみ業をなさるのです。
イエス様は、私たちの罪を赦し、魂を救うために、罪人である私たちが受けなければならない罰を身代わりに受けて下さったのです。罪ある私たちが裁かれないで、罪のない清いお方イエス様が十字架で裁かれたのです。十字架の上で流された血潮のゆえに、裂かれた体、ささげられたその命の代償を通して、私たちの犯した全ての罪、現在犯し続けている罪、将来犯すであろう罪を完全に赦して下さったのです。そして、イエス様は死んでよみがえられて、私たちに永遠の命、天国の望みを与えて下さったのです。私たちは、そのことを信じて感謝したいと思うのです。
Ⅲ結論部
私たちの人生には悲しみがあります。涙があります。昨日、関口姉のお父様が亡くなられました。ご家族にとりまして、大きな悲しみと痛みです。けれども、お父様の魂は神様のみもとにあることを信じます。関口姉は、お父様の所に行かれて、愛を持って仕えられました。そして、祈りをささげ最後にアーメンと言うとお父様もアーメンと言われたそうです。その通り、信じますということです。自分の娘の信じる神様、その神学的な内容はわからなくても、イエス様を信じる娘が自分を愛していること、愛を持って仕えていることそして祈りの中で語る神様、イエス様の事をアーメン、その通りですと受け入れておられたのです。神様はアーメンととなえるお父様の心を魂を受け入れて下さっていることを信じるのです。
困難や悲しみの中に、イエス様を信じる、愛する者を通して神様はみ業を起こされるのです。私たちは、今週も、「涙のリクエスト」をするかも知れません。神様、助けて下さい。憐れんで下さい。神様はそう祈る、そう叫ぶ者と共におられるのです。そして語られるのです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」
「わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。わたしの力は弱い人にこそ、最もよく現れるのだから。」 こう言って下さるイエス様が、この週もあなたと共におられます。大丈夫、あなたは守られます。支えられます。このイエス様を見つめ、イエス様と共にこの週も歩んでまいりましょう。